夫婦ごっこ9〜知ったら戻れない〜


目次


信勝が自分自身が好きだった頃
童話作家の悪態的助言
信勝、手術する(問い・なぜ信勝は否定されなければならないのか)
心の船出
第一の心の壁(万能の姉、何もできない弟)
姉の笑顔を思い出す
第二の心の壁(父の言葉、母の愛、答え・家臣たちはたくさん信勝を褒め、姉をひどく罵倒した)
弟が姉にやった最低最悪の罪






【信勝が自分自身を好きだった頃】


 ぴちゃん、ぴちゃんと水音を立てながら歩く。いつの間に水がある場所に来たのだろうと信勝は足元を見下ろした。周囲は相変わらず闇に包まれ、自分の靴を見下ろしても何も見えなかった。

……こっちこっち、はやくはやく……

「ま、待ってくれ!」

 青い鳥とやらになった子供の自分はスケートをするようにすいすいと闇の中を進んでいく。信勝は一応早足のつもりだったのだが足元を見た僅かな時間で青い鳥を見失いそうになる。

 子供の自分は本当に宝具の力を得たらしく全身を青い光が包んでいる。そばにいるだけで濁った暗闇を寄せ付けない。信勝の全身に絡みつく聖杯の鎖も消えはしないがわずかに緩み、重かった身体も軽くなる。

……スピード遅いよ、やる気ある? 聖杯のやつ、相変わらず君を探してるから急ぎたいんだけど……

「あ、あるに決まってるだろ! 姉上を幸せにする方法が見つかるなら!」

……なら自分の子供時代にそっくりな僕の正体が気になる? さっき説明したでしょ。僕は君の心の切れ端。聖杯にバラバラにされた君の心の中で童話作家の宝具の力で一時的に肉体を得た仮初の存在。
 そうだね、カルデア風にいうなら僕は君の「もう忘れてしまった子供時代のアルターエゴ」のようなものだよ。もっとも宝具の力がなければ吹けば飛ぶようなカゲロウ程度の存在でしかないけどね……

 カゲロウ。消えてしまった沖田のシャドウのことを思い出す。本来は彼女のようにすぐ消える存在だったのだろう。

(そういえば姉上に聞けなかった。僕がそばにいていいですかって……でもあんな悲しい顔をさせたんだから答えなんて聞くまでもないんじゃないか?)

 疑いの心が足を止める。信勝は立ち止まってしまった。青い鳥の子供は立ち止まり、嵐の後のような静かな目でもう一人の自分を振り返った。

「……ただ、まだ信じらない。僕が姉上を幸せにする方法が存在するなんて」

……ここまでしたんだから少しは信じてよ……と言いたいけど、そうだろうね。君がそんなことを信じられるなら最初からこんなことにはなっていない。一体いつから歯車が狂っていったんだろうね。カルデアで? 稲生の戦いの時? 父上が死んだ時? 元服して大人になった時? 姉上とどうしようもない才能の差を感じた時? もっと前? いったいつなんだろうね……

「信じられないんだ。だって僕は生きていた頃、姉上にたくさん話をしたけど笑わせることもできなかった。今だって姉上は英霊で僕はそうじゃなくて……生前も死後も僕はずっと探していた。僕が少しでも姉上を幸せにする方法がないか。でも見つからなかったんだ!」

……あるよ。僕が見せてあげる……

「でも、どこにも見つからなくて……ううっ」

 そこで信勝は膝をついてしまった。聖杯の鎖が喉を締め付けて苦しい。「自分のせいで苦しんだ姉を助けるには聖杯に縋るしかない」という未練の鎖はまだ全身に絡みついている。

 首の鎖に両手をかけて引っ張ると少し呼吸ができる。信勝が立ち上がる前に青い鳥の子供は手を差し伸べてくれた。困ったような笑みを浮かべている。

……ごめん。やっぱりスピードが早すぎたかな。まだ聖杯を諦められないんだね。大丈夫、聖杯がなくても最初から自分の中に欲しいものがあることを思い出させてみせるから……

 青い鳥の子供が首の鎖に触れると大きく緩んで信勝はやっと全身の力を緩めることができた。他にも腕や腰の数本の鎖が消える。

「あ、ありがとう。僕もあの聖杯を……諦められないけど、頼りたくはない。悪いものだって分かってるんだ。ただ、きっと他に方法はないって思う。やっぱり僕は姉上を不幸にすることしかできない、生まれてこなかった方がいい邪魔者なんだって」

 子供はぷくっと頬を膨らませると何かを信勝に放り投げた。硬いものがこつんと頭頂部に当たる。

「あいたっ、なんだよ」

……姉上の涙を見たのに、その理由が分からないの? ×されてるって分かったんじゃないの? どうでもいい人のためにあんな悲しい顔をしない……

 青い鳥は怒っていたがすぐに悲しい目をした。

……いや、それが君と僕の矛盾。強くなるために作り上げてしまった強固な信念。でも今はその信念のせいで一番したくないことを無意識にすることになってしまった。
 君の気持ちは分からなくもない。僕だってこうして役割を与えられなければ他者の視点で自分を見ることなんてできなった。僕自身、死ぬのが一番いいと信じてた。でも今は他者視点で見えるからなかなか辛いものがあるよ……

「なんだよ、言ってる意味が分からない。もっと分かりやすく言ってくれ。そもそもなに投げたんだよ、痛いだろ……これは?」

……君の周りに残っていた。もう力はほとんど残ってないけど君が心配なんでしょ。そういう色をしてた……

 信勝の頭にひっかかったものを手に取るとそれは安っぽいキーホルダーだった。先端にプラスチックの亀がついている。信勝がじっと見つめるとかすかに動いた気がした。

「……亀くん?」

 呼びかけても返事はない。それでも少し温かい気がした。信勝はキーホルダーをじっと見つめると小さく囁いた。

「あんな酷いことを言ったのに……ごめん」

 ポケットに入れるか迷ったが細い方のベルトにキーホルダーをつけた。すると少し背筋が伸びる。

……自分で言うのもなんだけど、君は自分が愛されるなんて信じないから君は好きになる人はみんな大変そうだね……

 青い鳥が宙に浮いてじっとこちらを見ていることに気づいた。いつの間にか背中に青い翼が生えている。背中の青い翼がパタパタと揺れている。

「と、飛べるのか?」

……なにせ鳥だからね。ねえ、その子と仲良いの? 友達?……

「どうかな……愛想尽かされても仕方ないと思うけど僕には大切な人だよ」

……ふーん。それじゃ、姉上のこと好き?……

「当たり前のこと聞くなよ。お前は僕なんだろ。姉上が世界一好きに決まってるじゃないか」

……じゃあ、自分自身の事は好き?……

「は? そりゃ……僕のことは好きじゃないよ、どっちかっていうと嫌いだ。最近は大事な人を傷つけてばかりいるから大嫌いかもな。自分のことなんだから分かるだろ?」

 子供は少し目を伏せて、しばし思考した。

……言われなきゃ分かんないよ。同じとはいえ君と僕は別の存在なんだから。僕、基本的に死ぬまでの記憶しかないし、それも子供の頃の記憶がメインで、大人になるほど曖昧だ。青い鳥になったから知識としてカルデアやサーヴァントのことが分かるけど君みたいに直接知って実感があるわけじゃない。
 それにね、自分のことなんて知っているようで知らないよ……

「そんなはずないだろ、自分のことは自分が一番知ってるはずだ」

 なぜか子供は拳でポカと信勝の頭を軽く殴った。思ったより痛かったので涙目になる。

「お前な、僕が自分だからって少しは遠慮しろ」

……あのね、僕は僕が好き……

「え?」

……僕は君だから、つまり君には自分自身が好きな時代があったんだよ。忘れちゃったみたいだけど……まあ、僕もずっと記憶の奥にしまい込んで、青い鳥の力を得るまでほとんど忘れてたんだけど……

 子供は思い出す。きっかけは信長がかわいいと言ってくれたことだった。そこで記憶に引っかかりを覚えて、一緒にいるうちに鮮明になり、力を得て確信した。

 かつて信勝は自分自身が大好きだったのだ。そして今は完全に忘れている。

「そ、そんなわけない。僕は昔から思ってた。こんな無能な僕が偉大な姉上の弟だなんて僕自身が認められないってずっと自分を呪ってた。それなのに僕が僕を好きだったことがあるわけないじゃないか」

 そこで信勝は黙る。なぜなら子供は青い翼で宙を飛んで信勝の首にギュッと抱きついたから口が塞がってしまった。

……最初からこうすればよかったのかな。僕は僕に冷たかった。姉上は僕を愛してくれたのに、僕は自分を愛せなくなったから愛が分からなくなった……

「姉上が、僕を愛してる?」

……よかった、聞こえてるんだ。そうだよ、だから僕は僕自身が大好きだった。姉上が好きでいてくれたんだ、好きになって当然だろ?……

「僕が、僕を好き……姉上が好きでいてくれたから?」

 頭痛がする。せっかく考えていたのに信勝は思考が止まってしまった。

(姉上が僕を好きなわけない。だって僕は馬鹿で無能だから。……あれ? でもならどうして姉上は悲しんだんだっけ? 分からない。分からない。……いいんだ、どうせ僕は馬鹿で、考えても無駄なんだから……ナニモカンガエラレナイ。デモイインダ。ダッテボクハバカダカラ)

……やっぱり自分をこうして違う角度から見るとなかなか辛いね。君を放っておけない人たちの気持ち、少し分かったよ……

 子供は何もない宙から帽子を取り出した。色鮮やかな青い帽子で大きなダイヤモンドがついている。それを信勝の頭に被せるとそのダイヤモンドをカチカチと回した。

……青い鳥の魔女の帽子。これで青い鳥を探しにいこう。最初から自分の手の中にあるものに気づくために探しにいこう……

 すると青い光の粒子が現れて、信勝の頭痛が消えた。まだ少し痛いが考えられないほどではない。真っ白になった心の中に幼い自分が微笑む。

……行こう、青い鳥は最初から自分のそばにいたんだよ……

 そうして二人は青い光に包まれて、光の粒になって消えた。








【童話作家の悪態的助言】


……「まったく姉弟そろって難儀な奴らだな」……

「……誰?」

 信勝は海の中を漂っていた。見回すがさっきの青い鳥の子供は見当たらない。信勝自身、夢を見ているようでまぶたを半分開けるだけで精一杯だった。

 その滲んだ視界で青い髪の子供が信勝を見下ろしていた。確かアンデルセンというサーヴァントだと思い出す。話したことはないがカルデアの廊下で何度も見かけた。

……「ここは夢だ。深く考えるな。俺の宝具に触れたから夢のチャンネルが繋がっただけだ。すぐ消えるし、すぐ忘れる……中継役とは思ったより疲れる。ああ、俺の願いならある。お前はさっさと助かれ、それが俺を一番楽にする」……

 静かな表情で傍にモニターのようなものを浮かべて、時々文字を打っている。その足元に見覚えのある人魚姫がいて、時々アンデルセンの足をぐいぐいと引っ張っていた。

「そうだ、カルデアが僕を助けてくれたんだ。確かお前は僕に青い鳥の宝具を……えっと、お前はマスターに頼まれたのか?」

……「無理に喋るな。ここは夢でしかない。ここで何をしてもお前は帰れない。お前が帰れないということは姉も帰れない。全ては無駄ときたものだ。青い鳥をやったんだからさっさと向こうへ帰れ」……

 しっしとアンデルセンは面倒そうに手を振って、モニターに視線を戻す。信勝はごぼごぼと泡を吐いて必死に言葉を探した。ここは海の中なのにどうしてアンデルセンは普通に話せるのだろう。

「待って。教えてくれ、どうしてあんな絵本を僕によこしたんだ? 宝具を使って助けてくれるのは助かる。でも、どうしてあんな話なんだ? 僕と何も関係なさそうだった。話の意味も分からない、だって幸せは目の前にあったらすぐ気付くに決まってるじゃないか」

……「馬鹿め。それは人間への過大評価というものだ。今のお前の言葉が青い鳥を渡した理由そのものだな。英霊だろうが元は人間だ。幸福なんて目の前にあっても気付かんものだ」……
 
 ダン! とアンデルセンは強くキーボードを打つ。その拍子に足元の人魚姫が童話作家のズボンをぐいぐいと二回引っ張った。

 アンデルセンが右手を振ると宙に青いキューブが現れた。

……「これはカルデアが記録したお前の個人情報だ。緊急事態なので送ってもらった。俺はお前とはろくに話したこともないし、過去など知るわけもないからな。感想としては、そうだな、マッチ売りの貧困も大変だがリア王のセレブ人生もそれはそれで面倒といったところか。このデータと現状を加味してお前には青い鳥を送るのが最適と判断しただけだ。
 いいか、お前は望んだものが目の前にあっても見えていない。いいから帰って青い鳥に見え方を教えてもらえ」……

 信勝は納得できなかった。けれどこれ以上、文句を言っても仕方ないので別の話をした。

「姉上だけでも帰せないのか? 僕のことはいい、姉上は巻き込まれただけなんだ。マスターの命で仕方なく……姉上だけでも、帰してほしい」

 アンデルセンはキーボードを打つ手を止めてため息をついた。

……「気軽に無茶を言ってくれる。そんなことは不可能だ」……

「どうして?」

……「本人が望んでそこにいる。令呪でも切らない限りいうことなどきくものか」……

「そんな、姉上はマスターの命令で仕方なくここに来たんだろう?」

……「本人がそう言ったのか?」……

「それは……違うけど、でもそうなんだろう?」

……「言ってもいない事を捏造するな。まあ、人間はそういう馬鹿さ加減から逃れられんのだがな。ああ、疲れた。眼精疲労だ、これは」……

 アンデルセンが目薬をさすと信勝の胸に罪悪感が浮かんだ。

「僕のせいでごめん。マスターは優しいから、今からでも僕のことは見捨てていいって伝えてくれ」

 アンデルセンはコツコツコツと同じキーボードを三回叩いた。

……「それがお前の歪みなんだろうな。いや、人格というべきか、人生というべきか。他人に申し訳なさを感じてよかれと思って気持ちを踏みにじる。だからズレている。だがそこを聖杯は気に入り、手放さないでいる」……

「……聖杯が?」

……「案外、今回お前は十分に役に立ったと言える。なにしろ聖杯はお前だけを狙い、他に被害がでなかった。お前が願いを言わないで抵抗している間に外では解析が終わり、外部でなら聖杯からまた攻撃を仕掛けられたても即座に破壊できる。中にお前たちがいるからやらんがな。
 カルデアの被害を最小限に抑えた。どうだ、それでは不満か?」……

「僕がみんなの役に立った……?」

 慰めかもしれないが嬉しかった。だから信勝はアンデルセンに思い切って尋ねてみた。

「なあ、信じられないことを聞くかもしれないけど……姉上が僕を必要としているなんてあり得る話だと思うか? ま、ましてや好いてくれてるなんて……」

……「そんなこと知るか」……

「……」

……「と、言いたいとこだが、まあ俺の視点の情報くらいはくれてやる。お前とは直接話したことはないがカルデアの廊下や食堂で見かけた。姉と一緒にいつもやかましかった。そう、一般的に考えるならお前たちは仲のいい姉弟にしか見えんだろう」……

「仲がいい……分からない。みんな言う、姉上だって言う。姉上は僕を必要としてるって……それなのに僕はそれを信じられない。うまく感じ取ることができない。まるで紙に書いた文字みたいで現実感がなくて……僕が一番望んでいたことなのにどうしてなんだろう?」

……「だが、俺の目にはそうは見えなかった。お前たちはただの賑やかな姉弟に見えて歪んでいた。壊れそうなものを壊れないように扱っているように見えた」……

「……それは僕がおかしいってことだろう?」

……「さあな。詳細なんぞ俺が知るものか。だがな……人間はそんなものだ。主観なんぞ多かれ少なかれ歪んでいる。そばにいる人間のことさえ誤解するばかりで理解できないのが人間の限界だ。特にお前たちはダイミョウとかいう貴族だったんだろう。そういう家は人間関係に権力が絡むから余計に歪みやすい」……

「お前、難しいことを知っているんだな。童話作家ってやつだっけ……僕はあんまり読んだことないけど僕と違ってやっぱり凄いやつなんだ」

……「煽ててても何も出んぞ。ああもう、これは夢だと言ってるだろう。さっさと青い鳥のもとへ戻れ」……

「教えて欲しいんだ。僕はどこが壊れているんだ? どうしたら僕は治るんだ? もし、もし……万一、姉上が僕を愛して下さったなら、どうして僕はそれが分からないんだ? 僕は一番それを望んでいるのにそれが分からないのはなぜなんだ?
 やっぱりあの青い鳥って絵本だって分からない、最初から望んだものが自分の部屋にあったら気づかないはずないのに」

……「お前が×××××××××××××××」……

「え?」

……「ほら、駄目だ。所詮夢だ。何も聞こえない。自分で決着をつけるしかないんだ……さっきの質問だが、俺から言わせれば人間の人生なんてやつはそんなものだぞ。お前は人間を過大評価しすぎている。自己卑下の反作用だぞ、それは」……

「そんな、もの? 過大評価?」

……「欲しいものが目の前にあるのに気付かない。愛しているのにかえって傷つける。望みを叶えてかえって不幸になる。
 なるほど、当人には悲劇だろう。だがな俺から言わせれば人生はそんなものだ。愛情の空回り、他者への勘違い、肝心なとこですれ違い。そんなことを繰り返してしか人間は生きられないのさ。
 お前は勘違いしている。大切なものが目の前にあっても人間は滅多に気付かない。人間の人生はその程度だ」……

「そんな……そんな酷いものが人間の人生なのか?」

……「元々酷いものさ、人間の人生は。そこからは逃れられない。だから、少しだけマシにするのがせいぜいだ」……

「マシに……できるのか?」

……「いいか、人間は分かり合えない。どんなにそばにいても本当に理解はできない。その前提を忘れるな。それを踏まえた上でマシにするには言葉を使うしかない。言葉を選んで気持ちを伝える。地道なコミュニケーションというやつだ。当たり前すぎてすぐに青い鳥のように忘れられるがな」……

「そんな、姉上と話なんて、今までいくらでもしてきたのに」

……「……」……

 アンデルセンは不意に黙り、静かにキーボードから手を離した。

……「それなりに考えたがこれ以上いい方法が見つからなかった。それはダ・ヴィンチたちとも話して決めた。だが俺はお前に酷な決断を迫ったのかもしれん」……

「決断?」

……「確かにこの宝具でお前は一番欲しかったものを手に入れる。
 だが……一番知りたくない現実を知る。お前がそれに耐えられるか俺にも分からん。見立てでは五分五分よりやや不利か。この俺がこのバッドエンドは少しやり過ぎかと思う程度には残酷だ。
 お前がずっと見たくなかったものが見えてしまう」……

「僕が、見たくないもの?」

 信勝は考えた。思い出したのは邪馬台国の記憶。世界一大切な姉が生贄に捧げられた。今でも思い出したくもない光景だ。あれ以上の何かが自分の中にはある?

……「欲しいものを手に入れる代わりに自分のやったことを突きつけられる。自分の酷い部分を自覚してしまう。お前の姉を含め、周囲の人間はお前を責めないだろう。
 だがお前自身はおそらく自分を許せない。その上で帰ってくるか……賭けだな。だから俺に言えるのは俺がここまで疲れたんだからちゃんとハッピーエンドを目指してくれということくらいか」……

 胸の内の恐れがやってくる。何も分からないのに見たくないという気持ちが湧いてくる。

「僕は……僕は、姉上のためにいる。姉上のためなら何も怖くない。だからきっと大丈夫だ。ちゃんと帰る」

……「そうか、ならばもう夢は終わりだ。さっさと自分の舞台で戦ってこい。
 ああ最後に、これはただの俺の感想だがお前はかなり思い込みが激しいぞ、織田信勝。しかも卑屈ときたものだ。そういうやつは相手が言ってもいないことを捏造して事実だと思っているものだ。
 たまには決めつける前に自分の思考を空にして、ただ姉の言葉を聞いてみろ」……

 その言葉を最後に、今度こそ童話作家は海の泡の中に消えていった。









【信勝、手術をする(問い・なぜ信勝は否定されなければならないのか)】




 なんだか夢の中で長い話をしていた気がする。なんだっけ、ほとんど覚えてない。まだ半分寝ている。

(ああ、そうだ……僕は思い込みが激しいだっけ? あと言ってもいないことを捏造している? あと……青い鳥の絵本は僕に必要だって)

 ほとんど忘れてしまったがそれだけはなんとか覚えていた。信勝が絵本の内容をもう一度思い出していると声をかけられた。

……目が覚めた?……

 青い鳥の子供が信勝を見下ろしていた。いつの間にか倒れている。起きあがろうとするが指一本動かない。

 どこかでさざなみの音が聞こえた。ここはまた海なのだろうか。なんとか目だけを動かすと小舟の底で寝ていた。立ちあがろうとするが指先一つ動かない。

 青い鳥は右手に注射器を構え、そのままの信勝の首に刺した。不思議と痛くなかった。

……動かなくていいよ。これから君の主観をいじるために麻酔をかける……

 主観? 麻酔? 信勝はまだ喋れない。青い鳥は信勝の胸から腹までを軽く撫でる。くすぐったくて温かい。

……麻酔をかけるとはいえ結構痛いよ。頑張れそう?……

 ようやく信勝の口が開いた。なんとか声を出す。

「うん、僕がおかしいなら……姉上のためなら、頑張る」

……ありがとう……

 そう言って青い鳥は大振りのナイフを信勝の腹に深く突き立てた。痛みに悲鳴をあげる前に麻酔が効いたのか信勝の意識は消えていった。









 信勝が意識をとり戻すと見覚えのある景色が広がっていた。懐かしい夕暮れの川縁。ここは故郷の尾張だ。

 そして目の前にはよく知る二人がいた。五歳の信勝と八歳の信長だ。姉弟は河原で並んで立っていた。信勝はどうやら二人には見えていないらしい。触れようといて手がすり抜けてしまい幽霊みたいだと思う。

(この光景……どこかで)

 その信勝は泣いていた。信長はほとんど無表情、つまりかつての姉のいつもの顔だったが信勝を置いていこうとは考えていないようだ。

「あねうえぇ、ごめんなさい、ごめんなさい」
「全くどうしたら泣き止むんじゃ」
「だってせっかく、あねうえがくれたのに、ぼくとれなくて……ううっ、うえーん!」
「なんで余計に泣く」

 ふっと信勝は思い出した。

(そうだ、こんなことがあった。確かこれは姉上が柿をくれた時だ。姉上は木の上から柿を投げてくれたけど、僕はどんくさくて取れなかった。必死で探したけど河原に落ちた柿は見つからなかった。悲しくて悲しくてずっと泣いてたっけ)

 どうして忘れていたのだろう。弟は泣きながら姉の袖を引っ張っていた。

「あねうえ、ごめんなさい、せっかく柿をくれたのに。ぼくがバカで、足だって遅くて」
「だからもういい」
「おねがいです。嫌いにならないで、どんくさいぼくとは遊ばないなんて言わないでください。ぼく、あねうえがだいすきなんです。ずっとおそばにいたいんです」

 弟の懇願に信長は目を丸くした。完全に意表をつかれたという顔だ。

「ばぁーか」
「あ、あねうえ!」

 当時から姉はずっと無表情だった。笑うこともなく怒ることもなくいつも凪のように静かな顔をしていた。幼いながらに姉の心がヒトのものとは違うことは感じていた。

 けれどその時、信長は確かに笑っていた。うっすらとだが確かに笑っていた。夕焼けの光で少し見えづらかったけど、信勝の記憶には確かにその笑顔が刻まれていた。

「明日も気が向いたら呼んでやる」
「は、はい! ありがとうございます! あねうえ、だいすきです!」
「ひっつくな」
「えへへ……」

 その時、信勝は姉は自分が好きなんだと疑っていなかった。柿のことは本当に残念だったけれど姉は笑ってくれたのだ。明日の約束をしてくれた姉は弟と一緒で楽しかったのだと信じていた。

(そうだ、この頃の僕は自分を信じていた)

 姉は弟が一緒で楽しいと信じていた。だって滅多に笑わない姉が笑ってくれたから、自分が幸せなように自分がいることで姉も幸せなのだと疑わなかった。

(そうだ、あの時姉上は確かに笑ってくれたじゃないか。ほんの小さなことかもしれないけど、どうして忘れていたんだ?)

 信勝はまた懐かしさでその風景に手を伸ばした。しかし幼い自分達にも、草木にも触れられない。ただの思い出の景色なのだろう。

(それでも覚えてる。これは僕の大切な記憶……なぜ今まで忘れていたんだ?)

 どこかから暗い声が聞こえる。


……「姉上が僕に笑いかけたなんて嘘だ」……


 声と共に景色はひび割れ、色が消えてモノクロになって、チリとなって消えていく。まるで青い鳥の絵本の中で、青い鳥を捕まえると黒く変色して死んでしまうみたいに。

 すると信勝はその時の姉の笑顔が思い出せなくなった。

(そんな)

 信勝は必死に思い出すが叶わない。さっきの声の続きが聞こえた。


……「姉上は偉大な人。凡人、いや馬鹿で無能な僕と一緒にいてもつまらなそうだった。僕なんかついてきてうっとしいと思っていたはずだ」……
……「だから姉上が楽しかったはずがない。楽しかったのは僕だけ。笑ってくれたのは錯覚、いや僕の願望の見せた幻にすぎない。そうに決まってる」……









 信勝はその声の方に振り向いた。すると世界はひび割れて、尾張の夕暮れは跡形もなく消えてしまう。全て溶けて闇だけの世界になる。

 その暗闇の中に自分が立っていた。青い鳥になった子供の自分ではない。今の信勝の背丈と同じ、赤い軍服と黒いマントを見につけた死後の自分だった。

「お前は……ぐっ!?」

 信勝が一歩近寄るともう一人の自分は問答無用で信勝の腹を拳銃で撃った。咄嗟に傷を押えるともう一度腹を撃たれた。

……「自分を否定しろ。馬鹿で無能で姉上の足手まといでしかない。生まれてきてごめんなさいって言え」……

「な、なんで……?」

 そのもう一人の自分は楽しそうに笑っていた。自分を否定することが世界一楽しいと笑っていた。けれど信勝にはその笑顔が前に映像で見たピエロの仮面のように見えた。

 「それ」は信勝が腹の傷を抑えて膝をついていると突き飛ばし、地面に這いつくばらせると三度脇腹を蹴った。痛みに身をよじると頭を踏みつけられた。

……「ほら、早く言え。生まれてきてごめんなさいって。能無しの自分を責めろ。馬鹿で無能で申し訳ないって。自分を否定しろ。否定しろ。否定しろ。否定しろ否定しろ否定しろ否定しろ。そしてさっさと死ね。何度でも姉上のために死ね。死ねることを喜べ」……

「あ……う」

 信勝は姉のために死ぬこと以外なにもできない。その通りだと違和感なく信じた。理屈に関係なくしっくりとその言葉は身体に染み込んだ。

……「首を切って死ね」……

 抜き身の小刀が信勝の前に放り投げられた。

「……うん、僕なんか生まれてこなきゃよかったんだ」

 小刀を拾って喉に向ける。しかし、何かがうるさい。下へ視線を向けると腰につけた亀のキーホルダーが激しく揺れていた。

(姉弟は助け合うものです。死んではいけません、生きて助けるのです)

 はっと我に帰り、小刀を捨てた。激しい動悸がする。なぜこんな命令を聞いてしまったのだ。

「お、お前は一体……?」

……「なぜ死なない? 姉上のために死ねるんだぞ? こんな僕の人生に意味が生まれるチャンスなのに?」……

 また思考が奪われる。けれどベルトのキーホルダーに触れると疑問が戻ってくる。

「ど……どうして、僕が僕を否定しなきゃならないんだ?」

……「だって僕を否定することは姉上を褒めることじゃないか。当たり前だろう?」……

「え?」

 その言葉は信勝にとても馴染むものだった。そうだ、当然だ。でもなにかおかしくないか?

 もう一人の自分ははにかんで、祈るように両手を胸の前で組んだ。

……「姉上を褒めるには僕を否定すればいいんだ。そして僕は死ぬことで初めてほんのちょっとだけど姉上の役に立てる。
 そ、それにもしかしたら……僕が死んだら生まれて初めて姉上を喜ばせることができるかもしれない。喜ぶって言ってもほんのちょっとだろうけど。ずっと邪魔だったろうから、部屋の中にいた小さな虫が掃除されていなくなるくらいには嬉しいかも。だったらいいな」……

 もう一人の自分が浮かべた表情は、言うなれば健気な微笑みだった。

 信勝は必死にキーホルダーを握った。そうしないと即座に服従してしまう。その言葉はあまりにも信勝に自然で、拒絶するだけで全身全霊の力が必要だった。

 渾身の力で疑問を口にした。

「な……なんで僕を否定することが、姉上を褒めることになるんだ?」

……「だって姉上は××××××××それは僕が××××××××じゃないか」……

 信勝はもう一人の自分の手を伸ばした。それは冷たかった。まるで石のような感触だった。








【心の船出】


 気がつくと波の音が聞こえて、身体が揺れる。ここは海の上なのだとぼんやりと思う。

……大丈夫?……

 青い鳥の自分が見下ろしている。戻ってきたのだ。ギィという音がして小舟の軋む音だと気づく。

「うん、なんとか……なあ、ここはどこなんだ?」

……ここは聖杯に溶かされた君の心の海の上、その一番奥だよ。動ける?……

「だ、大丈夫……立てる」

 信勝はなんとか立ち上がるがすぐに力が抜けて甲板に膝をついてしまう。少し周囲が見えて、青い空と黒い雲、そして灰色の海が広がっている光景が確認できる。信勝は海の上の小舟に乗っているのだ。

……嘘はいいよ。さっきまで君を手術して精神に干渉した。精神崩壊しないように慎重にやったとはいえ、手術したから苦しいはずだよ。水は飲める?……

「干渉? ……僕に何を?」

 青いコップの水を受け取って二口飲む。そして青い鳥をじっと見るとぷいと横を向いてしまった。

……大したことじゃないよ……

 青い鳥は目を逸らしたが信勝はさっきより意識がはっきりしたのでしっかり見えた。
 青い鳥の周りには血の曇りがある大量のメスが落ちていた。見覚えのある大振りのナイフ、二本のノコギリ、針と糸、そしてなぜかスプーンが三本転がっている。全てに血の跡がある。

……やり方は目的とは関係ないし、グロいから聞かないほうがいいよ……

「教えろよ、僕自身のことだろ? 手術ってなんなんだ?」

 青い鳥は小さな身体で無理やり隠そうとしているが後ろに大量の血のついたタオルが山になっている。

……そんなに聞くなら……記憶を遡るためにお腹を切って、ハラワタを取り出して丸洗いしたり、一部切り取って付け替えたりした。心臓と肝臓の位置を変えてみたりもした。主観に干渉するためにスプーンで両目をくり抜いて洗ってから元に戻したよ。左右は間違ってないはず、多分……

 想像以上にスプラッターだった。

「げえっ!? あの絵本はそういう趣旨じゃなかったんじゃないか!? もっとこう魔法の力とかだったろう!?」

 よく見ると青い鳥の頬にはまだ血の跡がある。信勝は思わず自分の身体を撫で回す。とりあえず、問題なく動くようだがさっきまでハラワタを取り出されていたと思うとゾッとしない。

……仕方ないでしょ、君の精神の歪みはお金持ちに憧れたチルチルとミチルの比じゃないんだから。今の君は純粋な精神体だから身体をいじることは心の変化に有効なんだ。細菌感染の危険もない。
 もちろん、僕だってちゃんと魔法も使うよ。本来の僕はファンタジックな存在なんだから。青い鳥は夢のあるファンタジーなんだよ……

 夢のあるファンタジーと言いながら脱脂綿で頬の血を拭う。

 色々ツッコミどころはあるが、信勝は飲み込んだ。元々、聖杯の泥に飲み込まれてから、通常空間ではあり得ないことの連続だった。カルデアで妙な世界にも慣れてしまった。心がおかしくなっているなら外科手術くらいするのだろう、多分。

(姉上のためだ、内臓くらいどうでもいい)

 指に糸で縫った跡を見つけるがそう言い聞かせる。

 だから、目的を優先する。まずは情報共有だ。さっきまで見ていた光景を話す。アンデルセンとの会話は記憶が曖昧だったが、夢で見たと伝える。姉の笑顔とそれが思い出せなくなったこと、その直後自己否定を迫る自分に出会ったこと。

……そうなんだね。ちゃんと「君の心」が別視点で見えたんだ。なら僕の手術も意味があった……

「あれはどういう意味なんだ?」

……最初は自分の心の基本構造を再確認してもらった。さっきの光景はずっと「織田信勝」の中にあったもの。それに疑問を持てるようになったのが僕の力で、君の最初の一歩だ……

 青い鳥は言った。

 まず信勝は姉との優しい思い出も無かったことにしている。
 そして自分を否定することが姉を肯定することだと信じている。
 だからどんなに愛されても分からないし、その声は聞こえなかったことにされている。

……大雑把にまとめるとこんな感じ。これを理解して、超えることで君は今まで無かったことにしてきた姉上の愛を感じることができるようになる。今の自分の疑問を持ったのはその始まりだよ……

「僕を否定することが姉上を肯定することだと信じてる?」

 口に出すと奇妙な言葉だが妙にしっくりと心に馴染んだ。奇妙だとはわかる。だって因果関係が無茶苦茶だ。

 信勝を否定することは信長を肯定すること。
 信勝が不幸になれば信長は幸せになる。
 信勝を悪くいうことは信長の素晴らしさを讃えることなのだ。

 頭に自然に馴染むのに言葉にすると異常性がわかる。理屈はめちゃくちゃなのに自然と「その通りだ」と思う。おかしい。

「変だ。変なのに……確かに僕はずっとそう思っていた。だから、僕は馬鹿で無能じゃなきゃ……いけないって……あれ? いつからそうなったんだっけ?」

 思い出せない。足元がふらついて、青い鳥に支えられる。

……おかしいって分かってよかった。結局、そこを自覚しないと姉上をまた傷つけてしまうから……

「僕が……姉上を傷つける?」

……そうだよ、君を×しているから……ダメか、聞こえてないね。この心の最奥でも聞こえたり聞こえなかったりだ……

 信勝はしばらく言葉がでなかった。姉を傷つけたり、悲しませるなんて誰がやっても一番許せないことだ。

「そんなの、いやだ。そんなことしたくない。僕が一番したくないことじゃないか」

……なら行こう、船出の時間だ……

 青い鳥がそういうと小さな小舟にマストが生まれ、そこに青い帆が張った。










 ここは自分の心の世界だという。しかし当事者の信勝にとっても不思議な光景だった。

(聖杯にバラバラにされたとはいえ、僕の心ってこんななんだ)

 信勝と青い鳥の子供は公園のボートを少し大きくした程度の木製の小舟に乗っていた。青く塗られていて、青い鳥の翼と同じ色だ。それが灰色の海の上を泳いでいる。

 海は果てが見えず、四方は水平線に囲まれており、空は真っ青な空か嵐のような黒い雲だった。

(カルデアの図書館で見たナイアガラの滝ってやつみたいだ)

 海は中央に向かって大きな滝になっている。水平線の果てまで崖になっており、そこから大量の海水が流れて落ちている。青い鳥が遠隔カメラと言って断崖の向こうを見せてくれたがそこが見えないほど深く、真っ黒な深淵があるだけだった。

……ここに落ちたらダメだよ、危険だからね……

 海水は滝の方へ流れるから放っておくと小舟はそっちへ落ちる。だが小舟は帆で風をつかみ、周囲に青い鳥の力をまとっているのでなんとか流されない。それでも流れ自体は早い。

 そしてその滝の上には大きな雲が渦を巻いていた。こういう雲は龍の巣というと何かの本で読んだ気がする。雲の渦では時々雷が走り、時々雷鳴が聞こえる。

「なんかすごい光景だな、いや僕の心なんだけど」

……まあ現実、自分の心を見る機会なんてそうそうないと思うよ……

「そうだな……って、うわっ!? お前、どうしたんだ?」

 子供の自分はいつの間にか本当に青い鳥になっていた。つまり信勝の手の平に乗るサイズの本当の鳥になっていた。ハトより少し小さいサイズで信勝は昔飼っていた百舌鳥を思い出した。

 ちょんと信勝の肩に留まると青い鳥は全く変わらない声で話す。

……いい加減もう一人自分がいるのも疲れるでしょ。この船旅が終わったらどうせ僕は消えるし、用事がない時は鳥の姿でいるよ。心配しなくても君にまた「手術」が必要な時は人型に戻るよ……

 青い鳥はそう言って翼を片方仰ぐ仕草をすると帆に風が送られて船のスピードが速くなる。

「そうなのか……いや、手術はないほうがいいけど」

 ちょっと可愛い。ファンタジーな存在というだけあって非現実的なほど青い羽を持つから尚更だ。「これは自分の姿ではない」と思うと信勝はなんだか優しい気持ちになれた。

「消えるって、お前はもう姉上に会えなくていいのか?」

……言ったでしょ、君は僕。君が姉上に再会すれば僕も会えることになる。その時に君が姉上の愛を受け取れるようになっている、それが僕の望みだ……

「愛を受け取る?」

……そう、今の君はまだその存在自体を信じられないから受け取ることができない。そのままじゃ姉上は心に悲しみを抱えたままだ……

 愛。信勝は定義上その存在を知っていた。だがこの世界に自分に向けた愛はないと思っていた。自分にはそんな価値はないのだ。だが、この思考が全ての元凶なのだろうか。

(やっぱり全部僕が悪いんだろうな。うーん、思い出せ、確かに姉上は僕に笑っていた……でもうまく思い出せない。本当にそんなことがあったのか?)

 どんなに理屈で説明されても、信勝には姉と自分は全く違う世界の存在としか思えなかった。太陽と虫ケラくらいに違う。わずかに自分が不思議になる。この前まで自分と姉は一緒の部屋で暮らして食事や寝所まで共にしていた。それなのにどうしてこんなに遠く感じるのだろう。

(僕自身の心が……遠いのか?)

……僕らが最終的に目指すのはあそこだよ……

 青い鳥が肩から飛んで船縁に留まる。片方の翼で滝の向こうを示す。その上の雲の渦を見た。

……僕たちはいくつかのポイント超えて、あの雲の中に行く。あそこには君が忘れた、僕もやっと思い出せた子供の頃の記憶がある。姉上と自分自身に愛されていた頃の記憶だ。たまたま忘却の底にあったから僕ら自身に破壊されずにすんでいた。それさえ取り戻せれば聖杯を心から拒絶できる。愛が最初から自分の手にあると自覚すればいらないからね……

「愛……」

 正直、現実感がない。だって信勝の中では「自分は誰からも必要とされていない」というのがさっきまで当たり前だった。自分への愛なんてそもそも存在しないものだというのが素直な気持ちだった。

 ふと思い出す。


……「ああもう、分かりましたよ。これほど僕を気にかける人間なんて初めてです。いいですよ、やってやろうじゃないですか。半端な僕にどこまでできるか分かりませんがね! ……ええ、これからよろしくお願いします、マスター」……

 かつてそうマスターに言ったことを思い出す。自分は役立たずなのに妙にかまってくるマスターはそう言った時に苦笑していた。「初めてなんてそんなわけないじゃん」と不思議なことを言っていた。


(まあ、これは関係ないか)

 これは姉のためなのだ。なら信勝にとって細かいところはどうでもいい。

「これは小舟なのに空に行けるのか? あ、お前が大きくなってあそこまで飛んでくれるとか?」

……いいや、この舟でいく。この舟自体も君の心。意思と言ってもいい。いくつかのポイントを超えて、舟を強くしていく。色々途中経過はあるけど、最終的にはあの雲まで飛ぶよ……

「舟なのに飛ぶのか?」

……ファンタジックでしょ?……

 そのまましばらく信勝と青い鳥は海の上を進んだ。







「よし! 頑張るぞ!」

……何? 突然やる気出して……

 突然甲板の上で仁王立ちを始めた信勝に青い鳥は若干引いた。

「色々分からないけど……これは姉上のためになることなんだろ? 僕はそう判断した。姉上のためになるなら必ず成し遂げてみせる! 頭痛もほとんど消えたし、頑張る!」

……ふーん……

 信勝のピカピカの笑顔に青い鳥は苦い顔をした(鳥の姿なのになぜか表情がわかった)。

「なんで嫌な顔するんだよ、僕がやる気の方がいいだろ?」

……いや、構わないんだけどね。ただ……一歩引いて見た僕ってこうなんだなーって色々考えちゃうだけ……

 文句を言おうと近づくと信勝は全身の聖杯の鎖が消えていることに驚いた。ここは青い鳥の力の中だからだろうか。嬉しくて立ち上がると首が締まる。

……ああ、ここは特殊な空間だから鎖はほとんど消えたけど、本当の意味で解放されてないから全部は消えてないよ……

 信勝の首には太くて丈夫な鎖が一本だけ巻き付いていた。外そうとするとかえって締め上げてくる。聖杯の少年の声が少しだけ聞こえた。


……「馬鹿なやつ、お前は聖杯でしか願いは叶えられないのに」……


 脳裏に浮かんだ呼び声に信勝はぶんぶんと首を横に振った。

……大丈夫? 聖杯から何か囁かれていない?……

「だ、大丈夫だ……それより、なんだ、あれ?」

 信勝は鎖を解こうとするがビクともしないので、やめて立ち上がる。そして奇妙な物体があることに気がついた。

 海の上に謎の石像が浮いている。石でできていてあちこち割れているが、これはバレンタインという祭の時に見たハートという形ではないか。信勝の身長ほどの大きさがある。

 小舟の速度が上がると像に近づいていく。近くで見るとその石像は悲惨だった。あちこちに鉄の杭が打ち込まれて奥深くまで割れて、自分と同じような黒い鎖が巻きついて傾いている。元々はハート型だったのだろうが、かなり欠損していて今ではハートとは言えない形になっている。

 青い鳥の子供が指を差した。

……あれが君の心だよ。青い鳥の力で具現化して、あれを三つ生み出した。君には三つの試練を越えてもらう。三つの心の壁を超えるとも言えるね……

「こ、これが僕の心?」

 こんなにボロボロだとは思わなかった。青い鳥はまだあれこれ説明していたがショックで信勝は聞こえなかった。

……つまり、視覚化といってもこちらからちゃんと干渉できる程度には実体化している。だから今の君自身を変化させるには十分な……ちょっと、聞いてる?……

「ごめん……聞こえなかった。こんなに酷いとは、思わなくて」

 信勝がしゃがみ込んだので子供は少し慌てた。

……そんなに落ち込まないでよ。誰の心だって生まれた時のままではいられない。子供の頃の綺麗なハートのままを保つのはとても難しい。大人になるまでにはある程度壊れちゃうものだって……まあ君ほど拗れて壊れてるのはちょっと珍しいかもしれないけど……

「こんなんじゃ姉上の心が分からないはずだ……これ、治らないのか?」

 しゃがんだまま子供を見上げる信勝に青い鳥はうーんと小首を傾げた。

……治るっていうか自然と時間と共に変わっていく、かな。心ってそういうものでしょ?……

「そんな、それじゃ時間がかかりすぎるじゃないか」

……大丈夫だよ。言ったでしょ、最初から「僕」の中に全てはあるんだ。まあ自分のことっていうのが実は人間にとって一番難しかったりするのは事実だけど。大丈夫だって、僕は青い鳥。ハートがボロボロでも幸せを見つけられないわけじゃない……

「お前……」

 青い鳥はとびきり優しい笑顔を浮かべて信勝を慰めてくれた。あまりに暖かくて信勝もなんだかホッとして笑ってしまう。青い鳥はパタパタと飛んできて肩に留まり、くちばしが可愛らしい。

……今回はあそこへ君に行ってもらう。過去に触れることでどうして姉上の愛を忘れていったのか理解してもらう。そのための魔法のアイテムを生み出すから使って……

「魔法のアイテム……わかった」

 自分の別側面とはいえ童話の存在だ。

 きっと魔法のステッキや空飛ぶ箒を出してくれるに違いない。心の中だから信勝だって魔法が使えるかもしれない。少しワクワクして宙に新たに生まれた青い光の粒子を見た。

……はい、これであれを撃ち落として。高度が下がったらこれを打ち込んで座標を固定してね……

「……」

 青い鳥のキラキラした光から生まれたのはグレネードランチャーと金属でできたアンカーを射出する装置だった。信勝が両方受け取るとずっしり重い。ファンタジーというよりリアリティの塊だ。

「……魔法とファンタジーは?」

……は? 何言ってるの? 宙からものが生み出せるなんてファンタジーでしょ? 魔法って夢があっていいよね……

「……」

 青い鳥は本気らしい。ちょっと夢が壊れた。

 それから信勝はちゃんとやった。
 石像めがけてグレネードランチャーを何発も撃って、高度が下がったところでアンカーを打ち込んでワイヤーの道を作る。これをアスレチックの要領で登っていく。

 青い鳥は後ろで「舟への反動は大丈夫! 魔法で斥力を生み出してるから! あと磁場を使って……聞いてる!?」と夢のないことを言っていた。

 こうして信勝と青い鳥はボロボロになった心の石像へと渡ることに成功した。







【第一の心の壁(万能の姉、何もできない弟)】



 無茶苦茶なやり方だったが信勝が石像に触れるとスウッと中に入ることができた。

 真っ暗な空間に出るとパタパタと青い鳥が飛んできて、信勝の肩に留まった。

……成功したね、ナビゲートするからついてきて……

 青い鳥が翼を仰ぐと青い光の粒子がきらめき、青い扉が生まれた。
 信勝が恐る恐るドアを開けると「過去」が溢れた。

「うわ」

 写真のようなものが風に吹かれて巻き上がる。その一枚一枚の写真の中に自分に過去が写っていた。

 その中を歩いていると過去の切れ端に姉の愛情の証……のようなものが見つかった。

 例えば遠征から帰った姉におかえりなさいを言った時の姉の表情。
 例えば川辺で姉の壮大な話を必死で聞いている時の姉の声。
 例えば初めて戦に出て、家に帰って隠れて泣いていると姉に見つかり、酒を渡されたこと。

 姉の気持ちは確かにとても分かりにくいけれど「信勝のそばにいて楽しい」と伝わってきた。

 その記憶を見て信勝は呆然とした。

(どうして忘れていたんだろう?)

 青い鳥が囁く。

……思い出して、全ては君の中に最初からあるんだ……

「最初から僕の中に……?」

 信勝は納得できなかった。

「そんな馬鹿な。僕はずっとこれを望んでいて……忘れるなんてありえない!」

 するとまたあの声が聞こえた。

……「こんなの僕に都合のいい思い込みだ」……
……「姉上はすごいんだ。だからつまらない弟の僕を愛してくれたなんてありえない。僕の願望の見せた錯覚だ」……
……「笑ってくれたわけがない、いつまで子供でいる気だ」……

 信勝は振り返る。するとまた風景が切り替わった。








 現れたのはまた懐かしい尾張の風景だった。どこかの山道を今の信勝の姿と同じ年頃の信勝が歩いている。着物姿で暗い目をして、早足で歩いている。

(ここは……ああ、そうだ。確か姉上の戦の真似事に僕も混ぜてもらったんだっけ? いつも姉上と一緒に帰ってたのになんで一人で帰ってたんだっけ?)

 景色の変化の連続にくらりとすると頬にぬくもりを感じた。青い鳥が軽く頭を頬に押し付けている。青い翼をパタパタと動かして静かにしろと囁く。

……じっとしてて。これは君の記憶そのままじゃなくて、かつて心の中で起こっていた事を再現してる。どうして君が大切な記憶を失っていったのか理解が進むはず……

(僕の心の中?)

 すると年上の信勝の後ろを誰かが追いかけてくる。一瞬、姉かと思うが違う。それは子供の信勝だった。

『待って、待ってよ』

 子供は大人に追いつくとその袖を引っ張った。

『ねえ、なんで帰るの? 姉上と一緒に帰ろうよ』

『うるさいな。僕は足を引っ張ったんだ。姉上も僕の顔なんて見たくないに決まってるだろ』

 それを見て思い出す。姉は身分を問わず怖いもの知らずの連中を集めて、戦の真似事をよくした。姉が大好きな信勝はそれに何度も混ぜてもらったのだが、いつもうまくいかずこの日は特に酷い失敗をした。

 それを見た姉は「もう帰れ」と言った。とても悲しかった。だから信勝は一人で帰っている。それを子供が止める。……つまり、この時の自分には一人で帰らなければという想いと姉と帰りたい想いがせめぎ合っていたということか。

『いやだよ、姉上と一緒がいいよ。待っていればよかったのに。帰り道も姉上とお話したかったのに』

『いつまでも子供みたいにうるさいな。……分かってるだろ。姉上はあの連中と一緒につるむのが一番楽しいんだ。そばで顔を見ていただろ? いつもつまらなそうな姉上が目を輝かせてた。あんな顔……僕には向けたこともない』

『それはそうかもしれないけど……姉上は僕と一緒にいたって楽しいよ。だって何度も笑ってくれた。色んなお話をしてくれた。僕はずっと覚えてる。姉上の笑顔はとっても素敵で……』

 大人は子供の腹を蹴りつけた。あまりに突然で子供は動けないでいると何度も上から踏みつけた。子供は痛みで泣いた。

『痛いよ、やめて。助けて姉上……姉上!』

『うるさいな! そうやっていつまでも子供だからダメなんた! 姉上が笑ってくれた? そんなはずない、僕の思い込みだ』

『違うよ……姉上はあの時、確かに笑ってくれた。僕といて楽しいと思ってくれた』

『そんなわけない! だって僕はいつも姉上の足手まといだったじゃないか! 僕といたって姉上はつまらないんだ。楽しくないんだ。だから笑ったなんて僕の錯覚だ。そんなこと二度と口にするな!』

 信勝はギョッとした。大人は腰から刀を抜き、子供の胸を刺した。ゴボと血を吐いたが子供は言葉を続けた。

『ほんとだよ……姉上は僕に笑ってくれた。きっと僕のこと好きでいてくれたんだよ』

『嘘だ、そんなことあるはずない。だって僕がどんなに話をしても、姉上は遠くを見ていてつまらなそうにしている』

『お願い、思い出して。思い込みだって消しちゃダメだよ、それは大切な……』

 子供は涙をこぼしていたがまだ何か話そうとしていた。
 しかし大人はそのまま刀を振りかぶり、子供の首に突き立てた。どろりと血が流れて小さな手が動かなくなる。

『お前を殺すことが僕を大人にしてくれるはずなんだ』

 瞬間、信勝の記憶からさっきまであった姉の記憶がひび割れて消えた。さっきまで確かに「姉に愛されていたかもしれない」と感じた実感自体が消滅する。呆然としていると青い鳥の顔の真横で飛んでいる。


……僕は、君は、姉上とあまりに違うことが辛くて、あったことを無かったことにしてしまったんだ……


『姉上のために僕は早く大人にならなきゃいけないんだ。馬鹿で自惚れた子供の僕はいらない。さっさと死ね』

 大人は子供の首から刀を引き抜くと、真横に刃を払って首を刎ねた。

「……やめろ!」

 青い鳥の子供は止めたが、信勝は大人の自分を突き飛ばした。さっきとは違うのだろうか。ちゃんと触れて、転ばせることに成功した。

『なんだ、お前……?』 

「さっきから黙っていれば勝手なことばかり言って! お前のせいでせっかくの記憶が……大体なんだよ! この時、姉上は僕がいなくなれなんて言ったわけじゃない。それこそお前の思い込みだ!」

『何を馬鹿なことを……もう帰れって言われただろう!? 僕が足手まといだったからだ! 本当は帰りたくなかったけど……邪魔なのにそこにいるわけにいくもんか! きっと姉上だってもう来るなって思ってるのに……もう、無理なんだ。昔みたいに一緒に遊ぶことすらできなくなった』

 大人の頬を涙が伝う。

『大人になって分かったんだ。僕が姉上を好きなだけで、姉上はそうじゃない。天才で万能の姉上がこんな馬鹿で無能で……凡人の弟は好きなはずない、ただどうでもいい存在だって……せめて嫌われたくない』

(こんな風に僕は思い出を壊していったのか?)

 そうだ。この時、自分は帰りたくなかった。本当は幼い頃と同じように姉と一緒に帰りたかった。それを「子供のわがままだ」と必死で堪えていたのがさっきの風景のはずだ。

 それでも違うのだ。姉自身の言葉を思い出せ。本当はこう言っていたはずだ……。

『信勝、怪我をしているではないか、もう帰れ』

 そう、あの時に姉はただ自分を心配していただけなのだ。確か手下に頼んで手当てだってしてくれた。心が苦しくて「もう帰れ」という言葉以外を記憶から抹消していただけなのだ。

『違う! 違う、違う! 姉上は僕が邪魔なんだ! 僕は馬鹿で無能で、姉上は凄いから! だから足手まといの僕はいないほうがいいんだ!』

「直接そう言われたわけじゃないだろ?」

『うるさい! うるさい! 僕が能無しなんて十二の頃には分かってた。それでも父上が……』

「父上?」

『それでも血族なら姉上の力になれるって言ってくれたから大丈夫なんだ』

 そこで風景はまた途切れた。

 また暗闇の中に青い鳥と信勝だけが残される。ぼんやりとあの子供は本当に死んでしまったんだろうかと思った。もう思い出は帰ってこないのだろうか。

「そうだ……思い出した。僕は早く大人になりたくて、弱い自分を切り捨てた。子供の頃の僕がいるから、いつまで弱いままなんだって、姉上との思い出ごと壊していったんだ」












【一つ、姉の笑顔を思い出す】



……大丈夫?……

 信勝は気がつくとまた小舟の上で倒れていた。胸の上に青い鳥が止まってこちらを見ている。

「ごめん、なんか僕、気を失ってばかりだな」

……君は血を吐いて倒れた。さっきまで呼吸も時々していなかった……ごめん、君にもダメージ入るんだね。ただ喜ぶだけだって思い込んでて……

 信勝は苦笑した。青い鳥は元から青いのに青い顔をしているように見えた。

「何言ってるんだ、必要なことだった。どうして僕が忘れているのか、いや、本当は姉上に笑ってもらったことがあったことを思い出せた」

 信勝はそう言って思い出そうとするが思い出せないことに愕然とする。確かに「あった」ことは思い出せる。けれど具体的な風景になるとスイッチが切れるように消えてしまう。

 集中するとやっと思い出せた。モノクロの写真が滲んでいる程度の解像度だったが姉は確かに微笑んでいた。すぐ消えてしまうが集中するとまた滲んだモノクロ程度には思い出せた。

 これが心の壁を超えたということなのか?

……第一の試練お疲れ。ああして、僕は「姉上に愛された実感」を失っていったんだ……

「実感……?」

 そう、実感がないのだ。今でも「姉は笑ってくれた」という事実は思い出せるが「実際に起きた」という実感がすっぽり抜け落ちている。まるで図鑑を読んだ時のように記憶にあるのに他人事としか感じられない。自分に日記に嘘の記録を書いて、眺めているような気分だ。

「うわ……なんだ、これ?」

 信勝が起き上がると異様な光景が広がっていた。

 周りにたくさんの子供の信勝が死んでいる。甲板に三人、海には無数の子供の遺体が浮かんでいる。どの子供も胸や首を刀で刺されて、悲しそうな顔で事切れている。

 咄嗟に信勝が一番近くの子供の死体に触れると身体が冷たくて硬い。もう少し触れてみるとそれは死体ですらなく石だった。胸に刀を刺されて石像になっていた。

「こんなものさっきまでなかったのに……」

……さっきからあったよ……

「え?」

……最初からこの海には君の幼い頃の死体がたくさん浮かんでいた。今、君の目にも見えるようになっただけだよ。さっき心の壁を超えたからだね……

「な、なんで?」

……ずっと君と僕が望んでいたこと。姉上に相応しい、強くて揺るぎない弟になりたかった。だから弱い部分は殺すしかなかったんだ……

「これが……強さ? 僕の望んだこと?」

 さっきまで姉と一緒にいて笑っていた年頃の自分が海の上で死んでいる。強さを願った。だがこれが本当にしたかったことなのだろうか。

……子供の側である僕自身、殺してくれと願うほどだった。そうしないと姉上のそばにいられないと信じていたから……ただ、それには代償があったんだ。それが愛された実感を失うことだった。優しい過去があるのに強くて冷酷な大人になることが僕にはできなかった……

「実感を失う……? それは……僕がああして自分を殺したから?」

……そうだね。愛って難しくてさ。特に愛されてるってことはそれを信じるってことがなきゃ、どんなに愛されてもなかったことになっちゃう……

 子供はじっと宙を見上げた。

……今の僕は青い鳥だから特殊な目を持っている。だから見える。君の周りに愛が、君がいてくれてよかったって気持ちがあることが見える。でも君には届かない。特にその子は心配してる……

 青い鳥は亀のキーホルダーを翼の先で指差した。信勝は母の幻影のことを思い出した。ただ家で待ってくれていればそれでいいと言っていた姉の言葉を思い出す。

「もし、もし……そう思うのはありえなくて今でも怖いけど、姉上が僕を好きでいてくれたなら、すごく姉上は辛いんじゃないだろうか?」

 試練を越えたからだろうか。そんな思い切ったことを言えた。

……そりゃね。考えてみてよ、もし姉上に好きですって言って、どうせそんなの嘘って言われたらどんな気持ちか……

 想像して暗い気分になる。好きな気持ちを信じてもらえないことは辛いことだ。それは好きな気持ちのことだけではなく「お前なんか信じられるか」と言われることと同じだからだ。

「僕は……どうすればいいんだ。ああして過去に戻って、今度は大人の僕を倒すか、子供の僕を守れば実感は戻るのか?」

……いいや、あれはただの再現。過去は変えられないよ。でも……一つだけ姉上に愛された実感が残ってる記憶があるんだ。記憶の奥底に封じられていた記憶。それがあれば聖杯を拒否できる。僕すら忘れていた遠い子供の頃の記憶……ただ……

「ただ?」

 それさえあれば、聖杯の願いを振り切り、姉をもう苦しめないで済むはずだ。

 だから信勝は食いついたのだが、青い鳥は目を逸らした。相当気まずいのかマストの上まで飛んでいく。信勝は立ち上がってマストに近づいて大きな声で呼びかける。

「なんだ、何か問題があるのか? お前は僕だろう、ちゃんと言えよ」

……いや、なんでもない。ないったらない……

 青い鳥はそれ以上口を割らなかった。








 信勝は小舟を見回した。さっきと様子が違う。

 公園のボート程度の舟だったのに今はもっと大きい。さっきは信勝が横になるといっぱいになる程度の広さだったが、今は歩ける程度になっている。マストもさっきより高く、帆もそれに合わせた大きさになっている。スピードも上がり、海流にもビクともしない。

「なんか、この船変わってないか?」

 信勝はマストの裏をのぞく。これも新しく生まれたエンジンを青い鳥はあれこれいじっていた。

……心の壁を一つ越えたからだよ。この船は君の意思そのもの。君が姉上の記憶を取り戻したいと願ったから大きくなったんだよ。さっきまでは思い出の実在すら信じてなかったからね……

「この船が僕の意思……ああして石像に触れることで大きくなっていくのか?」

……大きくというか強くだね。君の意思が強くなればこの船は最終的にはクルーザーくらいの大きさにはなるはずだよ。作るのは結構大変でさっき君の肋骨を三本……いや、僕の魔法の力だよ……

「肋骨って聞こえたぞ。まあ、いいさ。僕はサーヴァントだし、元々ここは心の中の空間だ。大体姉上のためなら肋骨なんてどうでもいいし……」

 それでも少し心配になり、信勝は自分の肋骨のあたりを触る。大きく欠けた感触はない。やはり心の世界だからだろうか。

……うーん……

「そうだ、僕が手伝えることはないのか? 鳥の姿だとエンジンのスイッチ一つ大変だろう。これも姉上のためになるんだろう?」

……ありがと……君の「姉上のためなら」って言葉、客観的に聞くとこんな感じなんだね……

「なんだよ、僕の口癖だ。お前だって同じだろう?」

……そうなんだよね。僕もそう思ってた。でもこうしてみると……そう言われて姉上はどんな気持ちだったか考えちゃうよ……

 エンジンが動いたので青い鳥はまたマストの上に飛んでいってしまった。

 信勝は追いかけるのは諦めるとまた胸の辺りの肋骨を触った。まだ姉の思い出が自分のものとは実感もなく、集中しても滲んだモノクロ程度にか認識できない。それでも「おそらく事実としてあったのだ」と知識のようには感じていた。

 それは嬉しいことだった。それなのにどこか心が空虚なのはまだ実感を取り戻していないからだろう。

 ふと傍らで倒れている子供の自分の死体に触れる。石になっていて冷たい。悲しそうな顔をしていたのでせめてまぶたを閉じようすると閉じることができた。

(僕は強くなりたかった。早く大人になりたかった。でもそれが……姉上の記憶を失うように自分を変えることだったなんて)

 滲んだモノクロでいい。もう一度笑顔を思い出すために集中していると頭痛がした。ガラスの瓶で殴られたように痛い。

……「ソレヲシルトドウナルカワカッテイルノカ?」……
……「一番知りたくない現実を知る」……

(……なに?)

 何か二つ小さな声が聞こえた。けれど頭痛に紛れて消えてしまった。








 船が進むとまた信勝の心の像が空に浮かんでいた。今度はハートに無数の刀が突き刺さっていて、真ん中に大きな穴が空いている。

……さあ、第二の試練だ。これが次の愛と魔法のアイテムだよ……

「……了解」

 青い鳥が差し出したロケットランチャーで信勝は心の像を撃った。三発撃つと海に沈み始めたので、船体を寄せる。

「お前さ、おとぎ話とか向いてないよ。妙に冷めてるし現実的だし」

……何言ってるの? そんなわけないでしょ……

 青い鳥は実際ファンタジックに大きな青い鷹の姿になり、信勝の肩を両脚で掴んで空を舞い、二人で心の像に突入した。










【第二の心の壁(父の言葉、母の愛、答え・家臣たちはたくさん信勝を褒め、姉をひどく罵倒した)】




 また像の中に入ると階段があった。地面の奥深くへ螺旋階段がある。
 信勝は青い鳥を肩に乗せて白い石でできた螺旋階段を降りていく。周囲は白い石の壁なのに時々青く透けて、信勝は何度かそこに複雑な顔をした人魚姫がいた気がした。

……記憶を掘るね。今回も痛いと思う。耐えられる?……

「うん、実感のある姉上の記憶があるなら僕も取り戻したい……なんかお前は複雑そうだけど」

……だって恥ずかしいし……

「恥ずかしい?」

 信勝が詳しく聞こうとすると青い鳥は飛び上がった。

……ああー! とにかく急ごう!……

 慌てるほど背中の青い翼がばさばさと騒がしい。一体どんな記憶なんだろう。しかも恥ずかしいとは?

……ここからは過去を横切っていくよ、アルバムをめくるみたいなものさ……

 子供に手を引かれて信勝は階段を降りていく。螺旋階段をぐるぐると回り、深い場所へ降りていく。すると途中から周囲の壁に写真が貼り付けられていた。

「……父上?」

 写真の一枚に父と自分が写っていた。そこでは信勝は父に刀を向けられ、首の皮を薄皮一枚切られていた。








 そうだ、こんなこともあった。確かあれは十二歳の頃、自室で泣いていると父に声をかけられた。

……「信勝、何を泣いている? 信長にもらった本がどうかしたのか?」……
……「父上? この本……僕にはさっぱりわからないのです。姉上はすぐに分かったのに。もう分かったからお前にやるって、でも何度読んでもほとんど分からなくて……だんだん分かってきたのです。姉上は天才だけど、僕は凡人だって。きっと僕では姉上の力には……父上?」……
……「信長が妬ましいのか?」……

 音もなく刀を抜き、父は信勝の首に刃を当てた。信勝は怖がるというより呆然とした。父の目には本物の殺意があった。

……「本心では信長を恨んでいるのではないか? 本来お前は織田の嫡男だった。だがわしは才覚を感じたから信長を男として嫡男にした。心の内では自分こそが織田の後継だと思っているのではないか?」……
……「そんな……僕は姉上を誰よりも尊敬してます! 一番姉上が大好きです! 恨むなんて、妬むなんてそんな……考えたこともありません」……
……「本当か? そう言っていても、家臣から「本当は信勝の方が後継に相応しい」と囁かれればどうだか」……
……「父上……僕をお疑いですか?」……

 姉を妬んだことなんてない。ただ力になることも笑わせることもできない自分の無力が辛いだけ。

 信勝は腰につけた護身用の打刀を床に投げ捨てた。刃を恐れず、真っ直ぐに父を見返す。

……「僕をお疑いでしたら、切って捨ててください。それでは世間体が悪いなら両眼か両足を斬ればいい。それならもう何を囁かれても大丈夫でしょう……元々僕なんか何もできないんですけど」……
……「……本気か?」……
……「それで姉上のお役に立てるなら……直接父上に伝えたことはなかったですね。信勝は姉上の才覚を見抜いた父上の目は正しいとずっと思っておりました」……

 そこで信勝は目を閉じた。ひゅっと刀を振るう音がすると思わず身がすくんだが、何も起きない。目を開けると前髪を少し斬られただけだった。

 父は刀を鞘に収めるとため息をついた。

……「本気で逃げないとはな……お前を見誤っていたようだ」……
……「父上?」……
……「信勝、お前の気持ちは分かった。今後はよくよく信長のために尽くすがいい。あれは型破りで、孤立しがちで、身内の味方は少ない。それに女だ。お前が心から役に立ちたいと思うなら味方になれ」……
……「でも……僕は姉上と比べ物にならなくて。そんな僕が力になんてなれるでしょうか?」……
……「確かに信長は常人とは違う天与の才覚があるが、血族として支えればいい。お前は最も近い血族の一人で男だ。お前が織田の家で常に味方になれば信長は存分に力を振るえる」……
……「血族として支えれば、僕でも姉上の役に立てるのですか?」……
……「ああそうだ、お前が弟だからこそ信長の力になれる。これからも武術と勉学に励め」……

 殺される寸前だったのに信勝は父の言葉が嬉しかった。姉は天才で自分は凡人、いや無能だと絶望していた。けれど血族であれば織田の家で姉の役に立てるのだ。

 信勝は生きる道を示してくれた父に感謝していた。





 そういえば父はこんなことも言っていた。

……「お前たちは正反対なのに、不思議と仲がいいな」……

……「え、でも……僕は無能で姉上は天才ですよ?」……

……「そういう意味ではない。万能ゆえに何にも興味が浅いあれが……お前のそばだとまどろむ猫のようだ」……

……「それは退屈しているのでは?」……

……「はて? そうなのか。当のお前がいうのなら、そうなのかもな」……

 父はそれ以上何も言わなかった。








「そうだ、思い出した……だからさっきの「僕」はいってたんだ。父上が血族として支えれば姉上の役に立てるって。自分の才能の無さに絶望し始めていた僕は……それが嬉しくて毎日武術と勉学を必死に頑張ったんだ」

……そうだね、僕は自分が凡人であることに絶望した。けど父上の言葉で血族としての自分には意味を見出せたんだ。……今思うとそれが姉上の心にかなっていたのか分からないけど……

「でも父上は変なことも言ってたな。僕のそばにいると姉上が猫みたいだなんて」

……父上から見ても僕と姉上は仲が良く見えたんだよ。他人というか家族だけど、他者の視点から見て姉上は僕を好いているように見えたんだよ。少しは証明になるんじゃない?……

「ええ? でも猫って……いや、確かに仲がいいって言ってたような?」

 信勝はそれから「まどろむ猫」という言葉を深く考え込んだ。









 青い鳥は飛ぶ。階段をどんどん降りていく。

……とにかく君はああして、織田の血族として姉上を支えることに執着した。姉上との才能の差に絶望していた僕にはそれだけが希望だった……

「うん……思い出した。どうして忘れていたんだろう?」

……僕が十二の頃、姉上が美濃の濃姫と形ばかりの結婚をして、家が離れたから寂しかった。だからますます僕は血族として支えることに執着した……

「そうだっけ……うん、そうだ。そうだった、織田の家でどんなことがあっても僕だけは姉上の味方をする。それだけが僕の生きる意味だと思って……うーん、なんで忘れてたんだっけ?」

 信勝は首を傾げながら螺旋階段を降りていく。
 壁には写真が貼ってあって様々な記憶が蘇る。

「あ……」

 今度は母の写真を横切った。






 それは十を過ぎた頃。母は故郷から極上の菓子を取り寄せて、信勝にだけ食べさせていた。菓子はとても美味しかったが信勝はそわそわしていた。

……「母上、ありがとうございます。これとっても美味しいです。そうだ、姉上にも食べてもらいましょう! 母上も姉上のところへ行きましょうよ! 姉上のお話はいつも凄くて……」……

……「おお、いやだ。お願いだから、あの子の話はおやめ」……

 信勝にはいつも優しい母の顔が歪む。着物の裾で顔を半分隠してしまう。

……「母上? どうしてなのです、どうして母上は姉上を避けるのですか? 姉上のお話はいつも凄いのに……」……

……「もうおやめ……私はあの子が怖い。どうしてだろう。確かに腹を痛めて産んだ子なのに……同じ生き物と思えない。信秀殿の考えが分からない。どうしてお前がいるのにあの子を……いくら戦がうまいからって」……

……「……こわい?」……

 母の言ってることが理解できなかった。ただ姉の話は政や戦の話が多いので姫君育ちの母には怖かったのかと幼心に想像した。

(母上は普通の女の人だから戦が怖いのかな。でも僕も戦は怖いけど姉上は大好きだし……あんまり姉上の話を伝えないほうがいいのかな)

……「お前だけ、家族で私を理解できるのはお前だけだよ。他はみんな狂ってる。お願いだからもうあの子の元へいくのはやめて」……

……「は……はい、母上」……

 あんまり母が必死に見えて咄嗟に嘘をついた。結局、信勝は菓子を一人で食べ切ったふりをして、懐に入れた菓子をこっそり姉に渡した。姉は複雑な顔をしたがちゃんと三つ全て食べた。

……「姉上、あの、母上、えっと!」……

 信勝はその後も何度か母と姉に仲立ちをしようとしては失敗した。姉はまずます凄くなり、母は姉以外には優しかったのに一度もうまくいかなかった。






 ある時、信勝はついにこう言ってしまった。

……「母上の馬鹿! どうして姉上を悪くいうのですか!? どうしてそんな意地悪ばかり……もう母上なんて知りません! もう母上のお菓子なんていりません!」……

……「の……信勝?」……

……「……あー」……

 信長はなんとも複雑な顔で弟と母を交互に見る。母は確か凍ったような顔をしていた。

 それはいつものように姉を遊びにいくところを母に咎められたところだった。母がいつもより姉に棘のある言葉を投げたのでかっとしてしまった。

……「信勝、どうして……どうしてそんなに信長を慕うのですか!? 信長はいつもお前にあんな危険なことをさせているのに。わ、私の方がどれほどお前を……ううっ、ううっ!」……

 母が人前で泣き出したので信勝は仰天したがそれでも姉の手を取った。

……「し、しらないものはしりません。姉上、行きましょう」……

……「あー……気が変わった。今日は家で遊ぶぞ。将棋、そうじゃ、将棋が打ちたい。信勝、付き合え」……

……「ええっ!? も、もちろん姉上がそうしたいならそうしますが」……

 姉はなんともいえない顔で母を見ていた。

 その後、母に重い目で見つめられながら姉弟で将棋を打った。なぜいるのか信勝が尋ねても母は無言でほとんど睨むに近い目で姉と弟を交互に見ていた。

 姉が「水が飲みたい」と一度離れると母に話しかけられた。

……「結局、あれはお前を気に入っているのです。だから離そうとしない。何か甘い言葉を囁かれても耳に入れてはいけませんよ」……

……「え? い、いえ、まず僕が姉上をお慕いしているんですが……」……

……「……理解できない。お前たちは正反対なのにどうしてそんなにそばにいようとするのか。信長も……ほとんどのものに興味を持たないのに、どうしてよりによって大切なお前を。きっとヒトではないくせに」……

……「またそんなことを……やっぱり母上なんてもう知りません! もう母上のお部屋には行きません! 母上なんか嫌いです!」……

 信勝はそう言って泣くとなぜか母もまた泣いた。ちょうど帰ってきた信長はなんとも苦い顔をして、なぜか弟に頭を下げさせた。










「なんでダメだったんだろう?」

 いまだに何がダメだったのか理解できない。凄い姉、優しい母。仲がいい方が自然なのだが母は姉を疎んじていた。

 青い鳥がくるっと振り返る。苦笑いをしているように見えた。

……間に君がいるから余計にうまくいかないんじゃない?……

「ええっ!? ぼ、僕のせいだったのか!?」

……いや、君のせいっていうか……まあどうしようもなかったんだよ……

「そ、そんな、僕のせいで母上が姉上を疎んじるようになったなんて……ううっ、でもさっきの映画館でもそんな感じだったし」

 思わず足が止まり頭を抱える。なぜ自分にそんな影響力があるのか分からないが知らない間に姉への罪が増えている。

 映画館と口にして、思い出す。信勝はぽつりと口にした。

「なあ……母上は僕を愛していたんだろうか?」

……どうしてそう思うの?……

「その、さっき映像を見せられたんだ。母上が僕が死んだせいで姉上を恨むようになったって。聖杯の罠かと思って全部嘘かと思ったけど……妙にリアリティがあって気になって」

……さあね。母上の気持ちは愛かもしれないけど、捻じれてた。姉上のことは怖いし、そんな姉上を後継にした父上のことも理解できない。僕への執着は現実逃避の面もあったんじゃないかな……

「そ、そうだったのか。お前、僕なのになんでも分かって凄いな」

……今は特別な力と役割が与えられているからね。……これでも僕も恥ずかしいんだよ。自分のことをさも他人事みたいに解説するの。まあだから、僕には今、母上の気持ちが直接「見えて」るよ……

「見える?」

……僕は最後に目には見えない大切なものを見つける「青い鳥」。だから人の愛情という目には見えないものを直接見ることができる。
 母上は君のことまあ愛してるんだけど、自分の気持ちで一杯で君自身のことはあんまり見えてない。なんかこう、君を大切にしてるようで鳥籠に入れてるみたいだ。ちなみ棘のあるいばらが君の両手足に絡みついてるような風に見える……

 思わず両腕を見下ろす。いばら。そう言われるとなんとなくチクチクしている気がする。

……母上も気の毒な人だよね。僕は姉上のことしか考えられないのに、僕にこだわった。僕は別に母上を大事しなかったのに……僕にとってさ、母上って割とどうでもよかった。一番は姉上だし、父上は姉上の才能を見出して、僕に血族って役割をくれた。そういう順位だと母上って僕にとって一番下になっちゃうんだよね……

「うっ……それは……そうかも」

 信勝は母を表面上は大切にしていた。だがそれはどうでもいい存在だったからだ。父と違い、母は一番大切な姉の理解者ではないし、むしろその話は避けることになった。だからそれっぽくあしらうだけで上部だけで接した。ある程度の年になるともう心を開いて話すことはなかった。

……愛って難しいよね。母上は僕を好いてくれたけど、僕はかえってそれがうっとうしかった。そもそも人に愛されるとか信じてなかったからね。……愛されればそれで無条件に嬉しいわけじゃない。望まないものはわずらわしいとさえ思われてしまう……

 不意に信勝は最後の頃はほぼ母を無視していたことを思い出した。稲生の戦いが終わってから、信勝はどうやって姉の手で死ぬかしか考えられなくなり、母の呼び出しの手紙も無視していた。

 なんだか信勝は申し訳なくなってきた。墓参りとかいったほうがいいのだろうか。いや、白紙化した地球にそんなものはないか。

「その……」

……何、急に暗い顔をして……

「お前は愛してくれてたっていうけど、姉上だって僕にはそう思ってるんじゃないか? つまり望んでない相手に愛されてもかえってわずらわしいんだろ。姉上はよく僕をうっとうしそうにしてたし……」

……は?……

 青い鳥が威圧感を持って睨みつけたので信勝は思わず足が固まった。鳥なのに顔が怖い。

……君、さっきの光景で聞いたでしょ? あの姉上を嫌ってる母上さえ、姉上は君を気に入ってるって言ってたでしょ? 第三者による客観的証拠、そのために見せたのに……

「それは……母上の勘違いなんじゃないか? 正直、母上ってズレてるし」

……うーわ……

 うげえみたいな顔をされて信勝はムキになった。

「そんなに言うならお前だって教えろよ! 見えてるんだろ、姉上が僕をどう思っているか……そ、そんなに姉上は僕を愛しているって主張するならどんな形か教えろよ!」

 青い鳥はじっと信勝をみるとそっと目を逸らした。

……ノーコメント……

「なんでだよ? や、やっぱり……本当は姉上は何も僕には思ってないんだろう?」

……違う違う。ちゃんと姉上の気持ちは僕に見えてるよ。正直このサイズは尋常じゃないというか……ただこういうのはなんかズルだと思う。母上はもう死んでるから教えたけど、君は今の姉上と直接話ができるんだから自分で確かめないとだめ……

「ズルって……まあズルといえばズルだけど、緊急事態だからいいじゃないか!」

……ズルはだめー!……

 青い鳥が螺旋階段を下へ向って飛んでいく。信勝は意地になって階段を走り降りる。青い鳥の飛行スピードは想像以上に早く、信勝は階段を一段飛ばして走った。青い鳥を掴もうと必死に前のめりになって重心がずれる。

……馬鹿、危ない!……

 その通りだった。信勝は足を滑らせ、階段に叩きつけられた。そしてその勢いで更に螺旋階段を何段も頭をぶつけながら落ちていく。

 全身が叩きつけられて身体中が痛い。痛みに頭をよじると視界の端に写真がよぎった。

 それは嫌な笑みを浮かべた家臣たちが写った写真だった。どす黒い記憶が全身にあふれた。








 父は姉を後継者に指名して死んだ。
 信勝は数ヶ月前に元服をすませ、十六歳になったばかりだった。

 信勝は父の葬儀の数日後、十人の家臣たちに呼び出された。

……「僕が、本当の織田の後継者……姉上は必要ない?」……

 彼らは自分たちこそ本当の信勝の味方なのだと言った。

……「左様。信勝様こそ本当の織田の後継、信長様などとんでもない。身分を軽んじるし、大体女ではありませんか。信秀様ももういないし、さっさとどこかへ嫁がせてしまえばいい」……
……「信秀様は死ぬまで何を考えていたのか。あんなうつけ女、後継者などとんでもない。下賤のものとばかりとつるんで、これでは尾張は隣国の物笑の種です。いつも礼儀正しく勉学に励むあなたの方が相応しい、葬儀でもそうだったではないですか」……
……「我々はいつでも準備はできています。信勝様さえ首を縦に振れば、あの女の首などいつでも我々が討ち取りましょうぞ!」……

 信勝は激怒して刀を抜いた。

……「何を言っているんだ、お前たち! あねう、兄上は父上が選んだ正式な織田の跡取りだ! 父上だって最後に兄上を跡取りすると言ったじゃないか!」……

 日頃臆病な信勝は一番前にいた家臣に躊躇なく斬りかかった。髪が数本落ちただけだったがその家臣は豹変ぶりに驚いたようだ。

……「僕は父上に兄上を支えるようにずっと言われていた。父上の言葉に反するお前たちこそ逆臣じゃないか……出ていけ、今日は斬らないでいてやる。今すぐ僕の前から消えろ!!」……

……「あなた様は真面目すぎる」「親孝行が過ぎるのも考えものだ」「やはり女より男の方が」……

 そんな言葉を残してその家臣たちはいなくなった。

……「あいつらなんなんだ……僕は姉上に追いつくことすらできないのに」……

 信勝は部屋に一人になるとボロボロと泣いた。

 あんな家臣たちはごく一部だと信じようとした。自分は無能だけど父が言ってくれたように織田の血族として姉を支える役割があるのだ。尾張を治める姉を隣で支える未来を必死に想像した。

 しかしその後も謀反の誘いは続き、誘いを続ける家臣の数は増え、信勝は追い詰められていった。

……「……姉上」……
……「今は忙しい、手短にな」……
……「……いえ、お忙しいなら、大丈夫です」……
……「なんじゃ、おい?」……

 姉には言えなかった。言ったらどうでもいいどころか嫌われるのではと怖かった。それにあんな汚い言葉伝えたいはずもない。信長を血族として支えるという父の言葉だけが支えだった。

……「権六……どうしてお前まで」……

 信勝が内心信用していた柴田勝家までが信長への謀反を促すような言葉を言った。

 そこで心の糸がぷつりと切れた。父は間違っていた。信勝は血族として姉を支えることなんてできないのだ。

 そして浮かんだ連想に自分の愚かさを思い知った。点と点が繋がったという感覚だった。

……「そうだ……そうだったんだ。なんでずっと分からなかったんだ……僕が生まれたせいで姉上はずっと悪く言われていたんじゃないか。あの時もあの時も、僕が生まれたせいで姉上はあんなに酷いことを言われたんだ」……

 姉はよく悪口を言われていた。恥知らず、女のくせに、尾張のうつけもの。信勝はその度、信長本人よりムキになって反論した。姉は素晴らしい人なのになぜそんなことをいう人間が後を断たないのかどうしても理解できなかった。

 けれどこう理解した。弟がいたから姉はずっと悪く言われたのだ。信勝が男であるというだけで女である信長を悪くいう格好の材料になっていたのだ。

「なら僕なんか……生まれたことが間違いだったんだ。ただの姉上を否定するための材料だったんだ」

 そう結論づけた。心がすうっと冷えて、世界が色褪せた。一度生まれた直感は誰にも言えないことで確信へ変わっていく。

「僕なんか馬鹿で能無しで……男ってだけじゃないか。他には何にもないのに。それで寄ってくる奴らはなんて馬鹿なんだろう。あんな馬鹿ども生かしておく価値もない。僕も死ななきゃ……」

 そうして自分を餌に姉に敵意を持つ家臣たちを皆殺しにする計画を立てた。菓子を地面にまいて蟻を集めるように連中を集めることは容易かった。
 彼らを集めて酒宴を行うと彼らは安っぽい笑みを浮かべて信勝を褒め、そして必ず信長を罵倒した。

……「信勝様は素晴らしい。それに比べて信長様はうつけそのものですな」……
……「左様左様。信勝様は賢く、信長様は救いようのない愚かものだ。下賤の者たちとつるんでいるのもおつむの程度がその程度だからでしょう」……
……「信勝様は立派な男子、それに比べて信長様は阿呆な女ではないですか。比べるのが失礼だぞ、お前」……

 信勝は血を吐く想いでそれを聞いていた。
 酷い言葉を聞いて笑顔で酒を飲むことも慣れていった。
 そして心の中でずっと反論していた。

(僕が素晴らしい? 僕が賢い? 男ってだけで? なんて馬鹿な奴ら。
 僕なんて馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿で、間抜けで間抜けで間抜けで間抜けで間抜けで間抜けで間抜けで、無能で無能で無能で無能で無能で無能で無能で無能で、なんの価値もないのに。生まれなきゃよかったのに。
 本当に見る目のない馬鹿どもめ)

 反信長派の家臣たちはよく信勝を褒めた。同時に比較対象で信長を貶した。
 だから信勝は自分が褒められた分だけ心の中でその倍自分を罵った。

 元々信勝は自分を否定していた。信長を慕っているのにどうしても追いつけない自分をいつの間にか「凡人」から「特別に無能」だと思うようになった。

 けれど家臣たちに囲まれ、自分が男であることが姉を悪く言わせた元凶だと思ってからは別の意味で自分を否定するようになった。

(僕は馬鹿で無能、だから姉上は素晴らしくて強いんだ)

 家臣たちが自分を褒めるなら、それは姉を否定することなのだ。
 信勝がその分自分を罵倒するなら、それは姉を肯定することなのだ。
 だから信勝は自分を否定することが正しいのだと信じた。

 そんな風に歪んでいった。

……「おい、信勝」……
……「……姉上?」……
……「姉上、ではないわ。なんという顔色じゃ。さっさと休め。全くお前は昔から風邪を拗らせると長いんじゃから……信勝?」……
……「すみません、急いでいるので」……
……「待て、おい? 信勝?」……

 そして大切な姉を避けるようになっていった。












【弟が姉にやった最低最悪の罪】




 気がつくと眠っていた。波の音が聴こえる。

「……ここは?」

……第二の試練、終了したよ。大丈夫?……

 信勝は自分がベッドに寝かされていることに気付いた。ふかふかのベッドに優しい感触の枕。相変わらず鳥の姿の青い鳥が青い掛け布団をかけてくれている。

 起きあがろうとしてまた倒れてしまう。青い鳥は今度は魔法らしい青い光でサイドテーブルに温かい紅茶のポットを召喚した。

……無理しないで、まだ辛いでしょ。最後の記憶は辛かったね。でも思い出せたでしょう? 君が自分を否定する理由の一つは家臣たちにたくさん姉上の罵倒を聞いたからだ。彼らは君を褒める時に必ず姉上を比較に持ち出して悪く言った。こんなことなら生まれたくなかったってずっと死にたい気持ちだった……

 そうだ。自分が生まれてきたから姉は悪く言われるようになったのだ。だから自分の存在を否定した。

……だから君は余計に自分を否定するようになった。彼らが姉上を悪くいうのなら、君は自分を悪く言おう。それがきっと姉上を褒めることなんだって。
 もちろん因果関係は無茶苦茶だけど、環境が君にそうだと思い込ませてしまった。男だ女だどうしようもないことを言われることも余計にその気持ちを加速させた……

 思い込み。そうなのだろうか。自分を否定しないと姉は肯定されないのではないか。

……もちろん、それだけじゃない。家臣たちに絶望する前に君と僕は姉上とのどうしようもない才能の差に打ちのめされていた。だから元々自己否定しがちだったんだけど、家臣たちに謀反の誘いを受けるとそれが加速した。僕なんかダメなんだ、から、僕はダメじゃないといけないんだと思うようになった。
 思い出して欲しいんだ。君はダメな人間じゃない。ダメなところだってあるけどいいところもある。ある種、普通の人間なんだ。もう家臣たちはいないし、姉上は天下人となり誰もが認める存在になった。だからもう君が自分を否定しなくても大丈夫なんだよ……

 信勝は何か言おうとした。けれど舌が喉に張り付いて何も話せない。

……ええと、うまく伝えるって難しいな。つまり、君は生きてていいんだよ。生まれちゃいけないと思い込んだのは家臣たちのせいだった。だから、姉上から愛されてもおかしくないと思わない?……

 信勝は姉の笑顔を思い出した。それはさっきの滲んだモノクロではなく、鮮明なセピア色になっていた。「信勝」と呼ぶ声すら思い出せた。

 そうだ。さっきの記憶の中でも姉は不器用だけど信勝を心配していた。その時の目は幼い頃、転んだ信勝を見る目と変わらなかった。








 眠りたいというと青い鳥は快く一人にしてくれた。

……全ては順調にいってる。君はゆっくり休んで……

 優しい笑顔で温かい紅茶だけを置いていってくれた。別側面と言っていたが自分はあんな優しいだろうかと不思議な気持ちになる。こんなに誰かに優しくしたことはあっただろうか。

 ここはおそらくあの船の船室なのだろう。こんな大きな部屋があるような大きさの船ではなかったが心の壁を越えたということはまた船自体が大きく成長したのだろう。

 信勝は浅い眠りに落ちた。そこで夢を見た。

 それは人生で一番嬉しい時の夢だった。








 それは第二の謀反の時。信勝の計略により、計画は露見して、予定通り清洲城で捕えられた時のことだった。

……「お前の企みは知っている」……

 罠と知って姉の見舞いに訪れた弟は二日ほど地下牢に閉じ込められた。全て計画通りに進んでいて信勝はただ待っているだけでよかった。稲生の戦いから二年以上、死ぬ時だけをずっと待っていた。

 あとちょっとだったのだ。家臣たちはたくさん殺すことができたが、肝心の自分が生きていては意味がない。姉は冷静な人なのに妙なところで母に甘い。

 二日後、信勝は縄にかけられたまま、清洲城の一番大きな部屋に連れて行かれた。そこにはたくさんの信長派の家臣を連れた姉がいた。

……「……信勝」……
……「姉上には参りました。まさか権六が裏切るとは……無念です」……

 信勝は無念の表情を作ると俯いた。正直、演技には自信がない。あまり顔を見せない方がいいだろう。

(だって僕、今とっても嬉しいから、油断すると笑っちゃう)

……「……あ」……
……「……?」……

 姉は珍しく言い淀んだ。気のせいか少し声が震えたような。信勝が待っていると望んだ言葉をくれた。

……「二度目となれば見逃せぬ。……信勝、武士の情けじゃ。お前に切腹を申しつける。自分で腹を切るが……いい」……

 姉には珍しく小声で歯切れの悪い言い方だった。でも信勝は顔を伏せたままにっこりと笑った。

……(やっと死ねるんだ。大好きな姉上に殺してもらえるんだ。生まれたことが間違ってのに僕は幸せだなあ)……

 人生最後のご褒美だ。

……「はい、最後に武士の名誉を守らせていただき感謝します」……

 信勝は満面の笑みを浮かべたまま、それが見えないように深く床に額をつけた。





 その翌日、信勝は腹を切って死んだ。

……「姉上?」……

 不思議なことに、別に見る必要はないのに姉は弟の切腹を見にきた。数人の立ち会いと介錯人一人でいいのに。二度も謀反を起こしたので死ぬとこくらい見ると腹の虫が収まらないのだろうか。

 信長は怒るでもなく、罵倒するでもなく、沈黙していた。ただ死の準備をする信勝をじっと見ていた。信勝は純白の装束を着て、新品の小刀を渡された。

……「……」……

 長い時間、姉は弟をただ見ていた。

 信勝は死の時間ぴったりに片側の着物をはだけ、作法通りに小刀を腹に突き刺して、真横に切り裂いた。

……「あとはお任せします、姉上」……

 最後は正面から姉に微笑んだ。

(痛い、痛い。やっと死ねる。嬉しいな……でも、もう一回くらい姉上と遊びたかったなあ)

 自分が死ぬことで少しでも姉が喜んでくれるといいのだけど。

(姉上、本当にありがとうございます! 僕を、殺してくれ、て……)

 そこで意識は途切れた。
 生まれなかった方がいい弟なのに最愛の姉に殺されて満足のいく人生だった。









 さざなみの音で信勝は目を覚ました。
 随分長く眠っていたらしい。ひどく頭はスッキリしていた。

「ああ……そうか……」

 目を閉じて二つの記憶を比較する。さっきよりはっきり見えるようになったセピア色の姉の笑顔。死ぬ直前に姉が会いにきたこと。

 死ぬ直前の姉の目は静かでなにも感じていないように見えた。退屈なので見にきたのだろうと思っていた。あの紅い瞳の意味など考えてこなかった。いや、考える前に決めつけていた。

……「さっきの光景が答えだろう?」……

 ゴルゴーンの言葉を思い出す。
 自分がもし生きていたという不思議な世界。
 青い鳥のいう通り、信勝は目の前にあるものが見えていなかった。

「……なんて、ことを」

 信勝は這うようにベッドから降りて、身体を引きずって外に出た。











 一体、今まで何をしてきたのだろう。何を見てきた、いや見ていなかったのだろう。

「……だ……じゃないか……姉上」

 突然、信勝が甲板に出てきたので青い鳥はマストからパタパタと降りてきた。

……目が覚めた? 部屋にいればいいのに、なんか雨が降ってきちゃってさ……

 空は黒い雲に覆われ、雨粒が甲板で弾けていた。
 信勝は雨を遮りもせず、ただ雨に打たれていた。

……ちょっと、また考え込んでるの? 自分のことなから君は考えすぎだよ。僕は君なんだから話してごらん……

 全てが順調に進んでいて青い鳥は嬉しかった。船はまた大きくなり、漁船ほどの大きさになっていた。マストの帆も大きくなり、エンジンの馬力も上がり、海の流れにビクともしない。

 船の力強さは信勝の意思の力が強化された証拠だ。心の壁を二つ超えて、あとは残り一つだけ。そうすれば愛を信じていた頃の記憶を渡すことができる。

 最愛の信長の愛を受け取ることができるようになれば信勝だって嬉しいに決まっている。だって青い鳥は信勝自身だ。嬉しいことは同じのはずだ。

 二つの試練を超えて、信勝はまだ実感は湧かないだろうが、姉に愛されていると知識として理解した。知っているだけとはいえ信勝にとってとても嬉しいことに決まってる。

「……何?」

 けれど信勝は肩にとまった青い鳥に酷く冷たい目を向けた。面食らった青い鳥はその冷たさに一歩退いた。

……ど、どうしたの? どこか痛む? あ、手術の跡が今更痛いとか?……

「……」

 信勝は黙ったまま視線を海へ向けた。同一人物のはずなのに心が読めない。青い鳥は一歩近づく。

……何か不満があるなら言ってよ。僕は君なんだよ、遠慮することなんてない。この航海は失敗するわけにはいかないんだ。姉上のためにもちゃんと今の気持ちを教えて……

「……別にお前に問題があるんじゃない」

 信勝は数秒空を見る。それから足元の甲板に視線を移す。紅い瞳はずっと虚ろだった。

「なあ、僕は姉上が好きだ。世界で一番、自分よりも誰よりも大切だ。姉上のためならなんでもできる」

……うん。僕だってそうだよ。今更なに?……

「だから姉上を悪くいう奴は許せない。皆殺しにしてやりたかった、してやった。姉上の敵は僕の敵だ。姉上を害する全てが許せない。傷付けたり、苦しませたり……悲しませたりする存在の全てが許せない。いたらこの手で殺してやりたい」

 雨が強くなる。さっきまで風は凪いでいたのに、強い風が船を大きく傾ける。

……わ、わかってるって。だから?……

 信勝は視線を下にやって、上を見て、最後に青い鳥を虚ろな目で覗き込んだ。

「でもそれって……僕のことなんじゃないか?」

……な、なにそれ? 意味が分からないよ!……

 遠くで雷鳴が響き、大きな波が船を大きく揺らした。

 青い鳥は肩から飛び去り、信勝の頭の周りをくるくると回って飛んだ。さっきまでうまくいっていたのにどうしてしまったんだろう。

 ずっと信勝は姉の愛が欲しかった。だから少しずつでも姉の愛が信じられるようになれば幸せになれるはずなのに、今は氷のような目をしている。

「今まで僕は僕の死に方をなんとも思っていなかった。
 だって僕は男ってだけで姉上の立場を脅かして、生まれただけで姉上を悪くいう原因になっていた。子供の頃から姉上が大好きでいっつも後ろをくっついてるくせに、馬鹿だから姉上の話を心から理解できたことはなかった。なんでもできる姉上に相応しくない無能な弟だった。
 笑わせたことだって一度だって……いや、あったんだろうな。今まで見たものを考えれば……」

 青い鳥は青い光を生み出し、癒しの魔法を使った。きっと信勝は度重なる試練で心が疲れてしまったのだ。

……ここまでの旅で君は疲れてるんだ。部屋に戻ってゆっくりして。あとでまたお茶を持っていくから……

「違うっ!!」

 癒しの魔法は信勝に届かなかった。声と共に青い光の粒子が弾かれる。信勝はわなわなと震え、表情が歪み、青い鳥には泣いているように見えた。

……え!?……

 船が傾いている。立派な船だったのに船底に穴があき、甲板の板も歪んで割れる。衝撃音が響いたと振り返るとマストが折れていた。

 船は壊れようとしていた。そんな。この船は「信長の元へ帰ろう」とする意思の具現化。青い鳥だって力を貸したが信勝が願わなければ形にならない。

「……帰りたくない。もう、姉上の元へは帰れない」

 信勝はすがるように首の聖杯の鎖を両手でギュッと握った。

……どうして!? 分かってきたんでしょ、君は確かに姉上に愛されてて、家臣たちのことさえなければ二人でずっと仲良く……

「なら、僕のしたことはなんだ? ……僕は姉上に僕を殺させたんだ。そうなるように念入りに計画を練って仕向けた。もしも……本当に、姉上が僕を愛してくれていたなら……僕はあまりに酷いことをしたんじゃないか?」

 ずっと信勝は姉にとって自分は無価値だと信じていた。だから辛く寂しく苦しかった。
 けれどそれが守っていたものがある。

 信勝は自分を姉の手で殺させることで姉の権力を確かなものにしようとした。だから二度目の無謀な謀反の計画を立てた。柴田勝家を仕向け、わざと信長に捕まり、殺される状況を作った。

 信長に切腹しろと言われた時は本当に嬉しかった。せめて姉の手で死にたかったのだ。

 でも信長が信勝を愛していたなら?
 わざわざその手にかけさせるなんてそんなむごい計画を何年も念入りに練って実行したのか。

……待って、待ってよ!……

 青い鳥は叫ぶ。船はもはや半壊していた。船体は傾き、海水が甲板に入ってくる。海自体、急に嵐のような強風が吹き、雨さえ降ってきた。

 バキン! という音に更に青い鳥は慄く。船の竜骨が折れたのだ。

「許せない……姉上を苦しめたなんて僕は僕が許せない。それは僕が一番したくないことのはずだったのに……僕は必死でその計画を立てた! あ、愛されてるなんて夢にも思わず、悲しませるなんてちっとも考えないで姉上に殺されることを喜んだ! さも姉上の味方のような気持ちで!」

 切腹を言い渡した時、姉はどんな気持ちだったのだろう。信勝はちっとも考えず、ただやっと姉の手で殺されることに笑みまで浮かべていた。

……やめて! 君は姉上の元に帰らないといけないよ! 姉上は君を探して聖杯の中にまで来たんだ!……

 信勝は邪馬台国のことを思い出す。信長は信勝の目の前で生贄として死んだ。胸が潰れ、枯れるほど泣き、自分が死んだ方がマシだった。……それと同じことを信勝は一番大切な人にやったのだ。

 しかもやり方はもっと酷い。信勝自ら計画を立ててその手で殺させたのだ。無敵の姉はそんなことで傷つくはずがないと決めつけて。

 姉を殺すことを想像する。想像ですら苦しくて耐えられない。
 そんなことを最愛の人にさせたのだ。しかも今日まで自覚さえなく。

「それなのに僕は今日まで気付かなかった! い、今まで……死ぬまでも、明治維新で再会してからも、苦しめたり悲しませたなんてちっとも……僕のことなんてすぐに忘れたって信じてた」

 それは青い鳥の誤算だった。青い鳥が信勝自身であるからこそ、信長に愛されていることが分かれば信勝はただ幸せになるとどこか無邪気に信じていた。

 だが、何事も副作用がある。信勝は自分が姉にとって無価値だと信じるからこそ、その手で殺させても平気な顔でそばにいることができたのだ。

「僕は姉上の手で殺されることを喜んで笑ってすらいた。姉上がどんな気持ちで腹を切る僕を見ていたか考えず……僕の十分の一でも、百分の一でも、千分の一でも姉上が僕を愛してくれていたなら許されないことだ。
 僕は誰であれ姉上の敵は許せない……でもそれは僕だったんだ! しかも罪を犯したくせに今日までそれを知らなかったんだ!」

……違う! 違う! 違う! ……

 青い鳥の叫びは届かない。

 もう船は船の形をしていなかった。荒れた海の上にバラバラになったパーツが浮かんでいるだけ。信勝の意思が壊れたのだ。

 信勝は海に沈んでいった。抵抗はしなかった。真っ暗な海底へ静かに沈んでいく。

 青い鳥は嵐の中を飛んだ。沈む信勝の襟元をくちばしに咥え、必死に沈没を阻んだ。魔法の力で一枚の板を海に生み出した。伝説のカルネアデスの板のように信勝のそばに浮かぶ。

……それにつかまって! 君の言ってることは……確かに事実かもしれない。でも、結論を急がないで。きっと他に方法がある……

 信勝はカルネアデスの板を突き放した。

……いやだ、待ってよ! こんなの姉上の望んでることじゃない! 勝手なことばかり言わないで!……

「僕は僕が許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。有せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない……ごめんなさい、姉上……」

 自分を呪いながら。
 信勝は深い海の底に沈んでいった。

 青い鳥は子供の姿に戻り、海に潜ろうとする。けれど海面で弾かれてすぐに青い鳥に戻ってしまった。

 青い鳥は泣き叫んだ。

……なにが幸せの青い鳥だ、僕は、僕はなにもできなかった……自分の気持ち一つ分からなかった!……

 信勝の意思なのか、青い鳥は温かい光の膜に包まれて遠い空へ運ばれていった。深い海の向こうで見えなくなる信勝にただ泣いた。





続く











あとがき

 どうも時間がかかりました、七花です。
 あっさり終わると思っていたのですが想像以上に難航しました。
 その最大の理由、それは……信勝の愛情受信機能の回復をどうやるか考えてなかったから!!(爆)

 いや、連載当初から「信勝は愛されも分からないから自分を無価値だと思っている。それは悲しい過去のせいで愛情受信機能が壊れているからだ。その内、愛情受信機能を回復させる話をやって信長の愛を分からせよう」と思ってはいたのです。

 そして「回復方法は書いてるうちのその内思い付くだろう、多分」と思って今日に至ります(結局今まで思いつかなかった)。いやはや、改めて考えるとどうすればいいかさっぱりでした。chatGPTにも聞いた。もうこれやってることカウンセリングだから臨床心理士の本読む! もやった。

 過去の自分は気軽に難題を放置してくれたものです(正直殺したい)。
 最終的に「これは専門家の力を借りるしかない! アンデルセン先生! 先生にどうにかできると思わないけどなんかすごいアイテムとかください!」みたいになりました。なので信勝一人劇場になって、全体として地味になってしまいましたが、ここは一人やってもらわないといけない部分でもあるので青い鳥に頑張ってもらいました。

 そして書いてて、ラストに至るしかないこと気づいて結構絶望しました。バレンタイン、というか信勝のプロフィールから信勝に「信長は君を大切に思ってるよ、君がその気持ちを受け取らないと信長が可哀想だし、君も可哀想だよ」みたいに思って連載開始したんですが、今まで気付かない自分はアホか? と思うほど信勝が自分の罪の絶望することは避けられませんでした。

 いや! お前気づいてなかったんかい! って感じですが、ユーザー目線では「信長にその手で信勝を殺させたことはどんなに残酷か」は明白でも信勝本人はまあ気づいてないでしょう。というか気づいてたらやってないしプロフ6とマテリアル人物像はああなってない(信勝が「姉上の苦しむの愉悦〜」とか思ってない限り)。
 そして気づいたら大切な人を一番残酷に傷つけたのは自分だと知ってしまう。そしたら誰が許しても信勝は自分を許さないでしょう。

 まあでもこの話はハッピーエンドを目指しているので大丈夫? です。

 前回、かなりラストまで書いたつもりだったので二週間後には更新します〜(できなかった)とか気軽に言ってましたが、結局九月末になってしまいました。いや、十万字書いたのであとはすぐできると思っていたけど手直しすると意外と時間が……ちょっとお休みも兼ねて次は年末くらいか、年明けくらいを目指します。

 今回は船旅をかけてよかったです。聖杯編は「なんでも見つかる夜にこころだけが見つからない(東畑開人)」を下地にしているのでそれにならって船旅にしたかったのです。だからずっと海だった。(小説じゃなくて臨床心理士の書いた読むカウンセリングみたいな本です)。

それではまたどこかで。



おまけ


信勝

 信勝の自分への罵倒は基本的に戦闘不能ボイスを全部聞いて書いてる(馬鹿、間抜け、無能の3セット)のですが、先日ボイス一周して能無しが抜けてる!(?)と気づいたのでちょっと能無し足しました。

 元々姉との才能の差に自分を否定していたが、家臣たちに囲まれているうちに余計おかしくなった。自分を褒められることは姉を罵倒することなのだとならば自分は否定されなければならないと歪んだ。過去に腹立たしかった姉への女のくせにという言葉は自分が男で弟だったせいで余計にそう言われたのだと自分が生まれたことを否定した。自分を否定すれば姉は肯定される、そんな壊れた真理を自分の中に作り上げた。

 それでも結局、姉を一番苦しめたのは自分自身だった。誰が許しても自分が許せない。大好きな姉に殺してもらえると無邪気に喜んでいた過去の自分を殺してやりたい。


信長

 基本的に「聞こえない」ので愛情を示す言葉とか言ったりしない(意味がわからない)。時々笑ったりするが無意識がこぼれた程度の稀なもの。弟といるとなんか和んでしまう自分を弟の死まで自覚することはなかった。

 ヒトの心は分からないが弟と母に挟まれると「あれ、なんかこれ三角関係?」みたいな微妙な気持ちになったりしていた。しかも、姉至上主義の弟が反発すると母が負けヒロインみたいに打ちひしがれているので嫌われているのに妙に気を遣ってしまった(しかし母は「勝者の目線で憐れみやがって!」と余計に娘に憎しみを募らせるのであった)。




 私が信秀だったら信勝何度殺すか迷うだろうな〜とああなった。まあ娘を息子にして後継にしたら揉めるのはわかっていたはずなので。そして信勝は揉めそうな存在の筆頭なのです。




 私が書くとどんどんギャグキャラ……じゃなくてダメダメ可哀想キャラになっていく。多分、書くほど信勝の母の扱いが悪くなるせい。信勝になりきるほど優しくする理由がない。
 多分、姉至上主義の信勝は母のことは割とどうでもいいだろうな〜と思ってます。殺されかけても姉を認める父の方が好きだと思ってます。なので母には口先だけ優しいけど、扱いが雑で冷たい息子だと思います。

 今回の話の設定上、父の死後に信勝は「自分が生まれたのは間違いだ。なぜ母は自分を産んだのだ。おろせばよかったのに」みたいに思って余計母親を冷たく扱うようになります。よく無視されます。可哀想。あと土田御前は信長を悪く言いがちなので稲生の戦いの後すっかり荒んだ信勝は(母上、消した方がいいかな……)と何度か抹殺しようとするのですが(いやでも、姉上は母上が結構大切なんじゃないか……一応姉上の母親だしやめておくか)とやめてます。可哀想(お前の考えた設定だろうが!)。


青い鳥

 今回の被害者。次回も頑張ります。
 本人的にはただ「姉に愛がわかれば僕(君)は幸せに決まってる」と思っていたのでまさかこんなことになるとは思わなかった(私も思ってた)。
 中途半端に捻くれる信勝の性格を引き継いでるせいか、夢と希望のファンタジーキャラになりきれない。


アンデルセン

 過去のデータを見てこうなることは分かっていたので気が進まなかった。しかしダヴィンチと相談しても他に聖杯から逃れる手段も見つからなかった。あとは信勝が自力で帰ってくる確率に賭けるしかないのでいつもよりアンニュイである。




参考文献引用

「カウンセリングの仕事をしていると、「過去は変えられないのに、それでも話をする意味はありますか?」としばしば聞かれます。過去に深い傷を負った人からの問いです。確かにそうです。過去の事実自体は変わらない。話をしたからといって、失われたものが戻ってくるわけではない。だけど、これが心のふしぎなところで、過去についてモヤモヤする時間が、その過去の意味合いや質感を変えていくこともある。誰かから受けた手ひどい攻撃や、自分がやらかしてしまった恥ずかしい過去、以前には思い出すだけで怒りに打ち震えていた記憶は、消化されることで少しずつマイルドになっていく。記憶の生々しさは徐々に和らぎ、しばし心に置いておけるようになります。そうこうしているうちに、自分にも悪かった点があったことに思い至ると、あんなにに憎かったあの人のことを許せるかもしれません。当時は精一杯やっていたことを思い出すと、みっともなかった自分を許せることもあります。傷が癒やされるとは、そういうことなのだと思います。」

「なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない(新潮社・東畑開人)」 6章・心の守り方は複数である スッキリとモヤモヤ より