夫婦ごっこ3・5 ~秘すれば花とはならず~




 深夜の刻、信勝はすっと布団から立ち上がった。

(また……眠れない)

 最近は睡眠が思うようにとれず、亀も夢に現れない。サーヴァントでなかったら倒れていたかもしれない。

「ん……」

 姉の声がして背筋がびくと固まる。ただの寝言のようだ。信長のベッドの横に信勝の布団が敷かれていた。姉は寝相が悪く、足がベッドから一本はみ出ている。


……自分の死が姉を悲しませた? ……


「……そんなはずない」

 ありえない。なのにその考えはいつまでも信勝の中に残った。人魚姫の絵本を買ってから二週間、その時間は信勝の考えを小さくするのではなく膨れ上がらせた。

 二度も謀反を起こした。自分はいつでも足手まといの弟だった。姉は強いからそんなつまらない想いに囚われたりしない。……それから……で、それに……。

 探そうと思えば悲しむはずがない理由はいくつでも見つけられた。しかし決定打も見つからない。

(姉上に……確かめないと、僕のせいで悲しんだか)

 寝室に戻るとベッドの上の信長は規則正しく呼吸をしている。目が覚めたら、いや起こそうか。

 姉に本当の気持ちを訊かなければ。勇気を出せ……全てが明らかになった時、彼女はどんな顔をするのだろう。

(いやだ、こわい、知りたくない!)

 また駄目だった。これで何度目だろう。
 無能な自分にできる、万能の彼女のためのたった一つのこと。
 それさえ彼女には苦痛だったと知るのが怖い。

(きっと違う! 僕の勘違いだ! そんなこと訊かれたら姉上だってイヤがるに決まっている!)

 不安はやらない理由をいくらでも探してくる。
 どんなに自分を臆病者と責めても勇気は出なかった。
 こうして時間だけが過ぎていった。








 その日、弟はこう考えた。
 全部気のせいに決まっている。
 絶対絶対くだらない妄想なんて彼女を耳に入れちゃだめだ。

「そうだ、全部忘れてただ姉上の傍で笑っていよう」





【家庭菜園をする】




「信勝、今日から家庭菜園をするぞ」
「……かていさいえん?」

 朝食の席で突然宣言された家庭行事に信勝は目を丸くした。ブラックコーヒーを飲み干す信長を前に信勝はカフェオレのマグカップを握ったままだった。

「しらんのか、自宅で野菜を育てるんじゃ。二十一世紀の日の本の娯楽よ」
「農民の仕事がこの時代では娯楽なんですか?」
「土に触れ、気ぜわしい日常から離れ、自分の食事にするのが流行っとるのじゃ。まずトマトを育てたい、あれは赤いからわし好みで……なんじゃやりたくないのか?」
「いえ、もちろんやりたいです! 姉上と一緒に作物を育てられるなんて……た、楽しみだなあ」
「……」

 弟の顔の陰を姉は見逃さなかった。けれどそれ以上追求しなかった。

 自分はこう願っていた。信勝が「自分は信長に不要な存在だ」と二度と言ってほしくない。そして弟が本気でそう思っているなら考えを変えたい。

(わしは急ぎすぎたかもしれん)


 弟が自分を異性として慕うならそれを利用すればいい。一足飛びに結婚してしまえばその心を都合よく変えられる。

 信長の夫婦ごっこはそうして始まった。しかし生前と同じく性急なやり方はどうもうまくいかない。一緒の部屋を用意して、何度も好きとも言った(棒読みだったことは否定しない)。肌を合わせることだって求められれば応じるつもりだった。

 ほしいものを与えれば言うことをきくと思ったのだ。
 しかしそれでは信勝の心を変えることはできなかった。
 そして信長は根本的なことを思い出した。

(最近カルデアにおって忘れておった。わしは元々心のことは苦手なのだ。特に他人の心を変えるなどうまくいった試しがない)

 最近は参考になりそうな記憶から片っ端から掘り出した。しかし基本的に人の話をきかないタイプなのであまり参考になる記憶がない。

 唯一思い出せたのがこれだった。

……「お館さま、なんでも急げばいいというものではないのです。イロコイというやつはこう……土にあれこれやらねば育たぬのです。間に色々挟んだ方が帰ってうまくいくし、長期戦が基本、大根と一緒ですぞ」……

「……」

 参考になりそうなアイデアはあった。
 しかし、夫婦生活のアドバイスがあの浮気好きの家臣からしか思い出せなかったのは釈然としなかった。



 トマトはすぐ見つかった。
 最近リニューアルした購買にはガーデニング用の苗のコーナーがあった。トマトもいくつか種類がある。いくつか苗を見比べる姉の横で弟は首を傾げていた。苗を植えるというのがピンとこないらしい。

「種を播くのではないのですか?」
「そういうのは専門業者がやる時代なんじゃ、カルデアにおるかはしらんが」

 ほれほれと命を出すと弟はてきぱきとこなしていく。どうもこの辺は幼少期に戻ってしまい顎で使ってしまう。最近は命じて後悔することが多い。信長のやることがなくなって暇になってしまう。

「よし、これだ。買ってこい」
「かしこましました。よし、ものどもどんどん運べ!」
「のっぶ~!」
「ちょ、待て、育てるのは二本だけじゃ! ちっさいのまで呼ぶな! うちに入らん!」

 こうして信長は家庭菜園を始めた。といっても野菜を育てられる庭などない。縁側から見える四季の風景はシュミレーターだ。

「よいしょ、現代とは土ではなくこういうもので農民の真似事をするのですね」

 家に戻り信勝は紺色のプランターを一つ縁側に並べた。他の部屋より広いとはいえカルデアの仮住まいに土などない。

 だからプランターを使うことにした。トマトの根は意外と長く、底が深くて大きめのものを選んだ。

「ほれ、これに土を詰めろ。いや最初はなんとか石だったか?」
「姉上、鉢底石ですよ」

 土仕事などしたことない大名家育ちの姉弟。なにもかもが想定通りにいかない。
 大雑把な姉より、メモ魔の弟の方が手順は飲み込みが良かった。現代は便利な時代で土は野菜用に調合された土が最初から売っている……二十一世紀って変だと信勝は思った。

 トマトの苗を二本植え、支柱を立てる。麻紐で苗をくくりつける作業は意外と楽しかった。そして最後に多めに水をやることで根を土に定着させる。

「水はこれだけでいいのか。もっとバケツ一杯がばっといかんのか、がばっと」
「姉上が仰るならバケツにくんできます! ……あれ?」
「えっ、なんかそれヤバくない?」

 バケツの水で苗は根ごと流された。野菜を育てる際は水は雨のように染み込むように与えるのが常道と姉弟は知らなかった。

 ジョウロという文明の利器を二人が知るのは少し先である。

「しらんかったのだ……すまん」
「姉上に間違いなどありません! 悪いのはこの程度で折れる苗です!」
「そういう話じゃないから黙ってろ」

 最初に植えた苗は濁流でへし折れてしまった。植物に詳しいサーヴァントに尋ねたがこのまま捨てるしかないらしい。信長は苗を手の平にのせ、ゴミ箱に入れる前に謝罪した。

「すみません……僕が最初に気づいていれば」
「まあお互い馬鹿じゃったってことじゃ」
「姉上は馬鹿じゃないです!」
「お前、この苗を捨てながら同じ事言えるか?」
「う……でも馬鹿なのは僕だけです……ごめんな」

 誰が悪いわけでもないが被害者には謝罪しておく必要がある。二人はそうしてこれから生活を共にするはずだった苗をビニール袋に詰めて捨てた。




 二度目の植え付けは反省した姉弟により、静かに成功した。

 終わればあっという間だった。部屋の面積からプランターは一つにしたがもう一つくらいは置けるかもしれない。

「あー、疲れた」
「姉上、お茶です。それともコーラの方がいいですか?」
「んー、別にどっちでも……」

 麦茶を運ぶ弟の顔は少しだけ明るくなっていた。無心で何かをすることで忘れることができたのだろうか。

(でもなにを忘れたんじゃ?)

 なにを悩んでいるのだろう。かつては考えなかったことを最近はよく考えるようになった。

 弟のことは知っていると思ったから知ろうとしなかった。けれど今は知らないということを知っている。

 もっと弟の心を知りたい。大したことでなくていい。むしろ些細なことを知りたい。

 この生活で一つ分かったのは弟の過去を全て知っているのではないこと。初対面と思って訊けばいい(お竜の言うとおりだ)。

「あ、姉上、水やりは僕がやりますから」
「うつけもの、こういうのは交代制じゃ。夫婦じゃろ」
「めお、と……ぐはっ」
「まあ朝は眠いからお前がやれ。わしは昼にやる」

 まだ弟は夫婦に慣れないらしい。生前は血縁ゆえに初恋を抹殺したと言っていたから拒絶反応も致し方ないのだろうか。

「……お前な、これくらい慣れろ」
「ぴえ……な、慣れましたよ」

 肩に頭を乗せたくらいでぴいぴい言う。最近ぴいぴいうるさいのが心地よくなってきた。左腕を両腕で抱き寄せ軽く胸を押しつけると「ぴぎっ!?」と鳴いた。やることで音が違う。もしかすると楽器になるかもしれないと意地悪く考えた。

「そうじゃ、せっかくだからトマトには名前を付けてやろう」
「あ、ああああああああああ、姉上、ち、ちちち、乳が、あた、当たって……」
「なんじゃ、揉みたいなら許可を取れ」
「揉みしだきたいなんて言ってませんよ!」
「決めた。左のトマトは一号、左は二号じゃ」
「違います! 右も左も揉みたいなんて思ってません! って、ああああああああ僕のバカあああああ!」
「おい、一号、二号。お前ちゃんとよく実るんじゃぞ、わし自ら植えたことを重々承知しているのであろうな?」

 弟をからかうのに飽きた信長はプランターに近寄った。トマトの苗たちは何もいわずただ葉の上で水滴をきらめかせていた。……じっと見ると一号の方が少し大きいかもしれない。

「姉上、聞いてますか!? 僕以外にあんなことしたら誤解されます! 男は肉欲しか頭にないケダモノなんですから!」

 ようやく復活した信勝はまだ乳のことが頭から離れていない。もう少し当事者意識を持ってトマトのことを考えてほしい。

「ケダモノのう。誤解も何も一緒に暮らして夫婦になると宣言した時点でお前の肉欲は受け入れるつもりなんじゃが」
「にくよ、うけい……ぴぎ、ぴぷぺぽぎぐげご、ぽぺぎっ!!?」
「わしだって冗談で夫婦になろうとか乳を揉んでもいいとか言わんからな。痴女じゃないんじゃぞ?」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
「こら、煩悩を払って誤魔化そうとするな」

 どこからか数珠を取り出して宙に念仏する信勝に軽くチョップをあてる。……まあ信長にも軽く負い目がある。

(まあ一生童貞じゃったんじゃ。こいつが色事にビクビクするもの仕方ないのかもしれん)

 死ぬ子を作りたくないと妻すら遠ざけた弟だ。女の味を知ることなく死んだのだろう。自分のせいとは思わないが原因だという気持ちはある。

 だから信長本人より戸棚のドクロの杯に執着があるような言動をとっているに違いない。なるほど、性癖が歪んだのは歪んだ十代を過ごしたから……筋が通る。

「ああああ、姉上えええええ? あ、頭に……なにか!? やっぱりこれは乳がぎぐぷぺ!?」
「まあ若干納得いかん気もするがな」

 正座している弟の後頭部を膝立ちで抱きながら信長はトマトの夢想をした。いつ採れるだろう、信勝にはどう食べさせようか……採れる頃には悩み事がなくなっているといいのだけれど。

 そんな風に家庭菜園を始めた日は過ぎていった。




「ほら、姉上は元気そうだ。きっと全部僕の勘違い。このまま忘れよう」

 けれど信勝はその後も何度もその事を思い出し、眠れぬ夜を過ごした。
 ただ一つ慰めだったのは育てているトマトが隣にいてくれることだった。
 その日から信勝はトマトの隣で泣くようになった。








 その日弟はこう思った。

「僕の気持ちなんて関係ない……明日こそ聞かなきゃ」

 けれど怖くて、今が壊れる気がして、知らない場所で泣いていた。こんなに自分が臆病だなんて知らなかった。

「信勝殿、どうなされましたか?」
「……え?」

 闇の中から現れたのは亀だった。体育座りで膝を抱いて信勝の顔をじっと見ている。どうやら信勝はいつの間にか夢の中にいたらしい。

「まさか泣いていらっしゃるとは……信勝殿の姉上と何かありましたか?」
「僕はいま……いや、その」

 あんなに会いたかったのに顔を見ると余計に涙が出た。

「胸の内を話してください。なに、私はあなたの夢から出られません。誰に漏れることも気にする必要はありません」
「お前でも……言えないんだ」

 あんなに会いたかったのに亀にも言えない。長く自分を責め続ける日々は優しい友人に打ち明けることも怖いと感じさせた。流石に呆れるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。今まで優しい言葉をくれたのにそう疑う自分が醜くて嫌いだ。

「言えないとは?」
「あ……姉上にいわなきゃならないことがあるのに、い、言えないんだ」

 亀は少し無理をして前足を信勝の腕あたりまでのばす。肘のあたりを軽くなでると穏やかな声で話を続けた。

「信勝殿が姉上に伝えなければならないこととはなんですか?」
「それは……言えないんだ、お前にも。お前のせいじゃない、僕に勇気がないから……口ばっかりでしなきゃならないことを一つできない」
「勇気? なにやら大変のようですなあ」
「僕は……臆病者だ」

 亀はわざと気楽に笑った。その優しさはわざとらしかったけど信勝の涙を止めた。信勝が袖で残りの涙を拭うと亀は一つ思いついた。

「そういう時は酒の力を借りてみるのはどうですかな?」
「……酒?」
「ええ、軽く酒でも飲んで気持ちが緩めば言えるかもしれません。弥生の時代より変わらないことですよ」
「……酒を飲めば」

 その瞬間夢は終わった。突然信勝が消えたので亀は慌てた。

「大丈夫でしょうか……」

 ただし飲み過ぎないようにと釘を差す前に消えてしまった。



【晩酌をして寝る】



「……よ、よし!」

 信勝はキッチン横の倉庫に重い荷物を運び入れた。全て酒だ。ガラス瓶入りの日本酒、ブランデーとかいう西洋の酒、一番安かった焼酎とかいう酒の二リットルボトル。

 生前は付き合い以外の席ではほぼ飲酒をしなかった。酒には詳しくないので種類は分からない。これだけあれば勇気が出る酒もあるはずだと希望を胸に燃やす。

(亀くん、ありがとう)

 友人に感謝する。これだけ飲めば勇気のない自分にもなんとかなりそうだ。それにしても酒がこんなに高いとは知らなかった。

「冷蔵庫に全部は入らないな……とりあえす一つ……」
「おーい、信勝! 手伝え!」

 信勝がブランデーの封を開けそのまま瓶の口から口へ流し込む直前、姉の声がした。焼酎にふたをして酒を倉庫に押し込むと玄関に向かう。

「聞け、信勝! わしはそむりえとかいうやつになるぞ!」

 信長が買い物をした。どうやら家電らしい。筋力Bを活かして肩に大きな金属の箱を担いでいる。

「はよせんか。ドアがうまく開かんくてはいらんのじゃ」
「は、はい! ただいま!」

 信勝が慌ててドアを全開にすると濃いグレーの金属の箱を姉が抱えていた。外には段ボールが二つ積んであり、持ち上げようとするとがちゃがちゃとガラスの音がした。

 家電はワインセラーというらしい。リビングの空きスペースに置くと信勝の胸より低い高さのその箱に姉に言われるまま濃い色のガラス瓶が金属の箱に入っていく。少し入りきらなかった分を台所の倉庫に入れると信勝は少し疲れた。

「信勝、見よ、この南蛮の酒を」
「これってお酒なんですか?」

 信勝の知る酒ものと随分違う。瓶の雰囲気がさっき買ったブランデーに少し似ている。

 得意げに笑う信長は濃い緑のボトルからコルクを抜くとテーブルの上の不思議な形の杯に注いだ。座の知識からワイングラスという食器である事を知る。信勝は床に膝を突いて目線をテーブルの位置まで下げた。

「す、すごい! なんですこの酒!?」
「よしよし、驚いたか。西洋の赤ワインという飲み物じゃ……この色、実にわし好みでな」

 こぽこぽっと注がれた酒は濃い赤だった。紅色と言ってもいい。赤ワインがグラスの中で揺らめく様を見とれる弟に姉は満足した。

「お前も飲め。味はみたがなかなかよかったぞ」

「あ、おいしい……です」

 そうかそうかと背中をバンバンたたかれてむせる信勝であった。

「今日は宴じゃ……あー、お前はキャベツだけ刻んで皿を洗うだけにしろ」

 信長はホットプレートをダイニングテーブルに置く。先日、食堂の定食に期間限定で現れた「お好み焼き」という食べ物を信長はいたく気に入った。さっそく作り方を聞き出し、今夜作ろうと材料は一式冷蔵庫に入っていた。

 信勝はひたすらスライサーでキャベツを切ることだけするよう姉に厳しく命じられた。弟はもっとできますよと口をとがらせていたが「姉上はよく焼く方がお好みなので!」とサラダ油でコンロを炎上させて以来信用されていない。

「ほれ、焼けた。食え食え」
「姉上に手ずから食事を賜れるなんて信勝は幸せ者です~! あ、あちっ!?」
「いきなり全部飲み込むな、うつけもの。ん? わしの料理食うの初めてじゃったか?」

 姉は首をひねったが当然だ。信長も信勝も大名家の生まれで料理どころか着替えも自分でろくにしなかった。戦場では別だが、地位が上がるほど自分でやることは許されなくなる。

「いただきます」

 そのまま夕食は進み、結構盛り上がった。信長の指示通りに信勝はお好み焼きのタネをお玉一杯ずつホットプレートに落とす。次々焼いて、食べては赤ワインを飲んだ。

 信長はなんでも入れるのが好きで豚肉もイカもチーズもお好み焼きの中で熱されていく。ひっくり返すことも得意で信長は難しい姿勢からでも綺麗にひっくり返すことができた。

 もう一つ主役の赤い酒・ワインはとてもおいしかった。

(そうだ、この酒なら姉上に打ち明けられるのでは?)

 飲んでいくごとに臆病心が消えていく気がした。既に少し酩酊した頭で信勝はワイングラスに五杯目の酒を注いだ。がぶがぶ飲み始める弟に信長は気をよくした。

「おお、お前結構いい飲みっぷりではないか! 実はいける口だな?」
「姉上、お待ちください。こうすればきっと臆病者の僕だって……!」
「なんかしらんが、かまわんかまわん、もっと飲め!」

 弟がラッパ飲みを始めても酩酊した姉は特に止めなかった。




「お、お前、結構飲めるのな……」
「姉上~、この酒おかしいです。開けたばっかりなのにワインがでてきません」

 さっき自分で飲み尽くした瓶を逆さにしてそんなことをいっている。信勝は既にワインを三本空にしている。ここまで酔わせる気のなかった信長はまだ一本しか飲んでいない。

「お前、着替えろ。そのままの勢いで飲むと寝間着に着替えられんぞ」
「だーいじょうぶですよ! いざとなれば霊体化しましゅからあ!」
「ええから!」

 そういってクローゼットのある縁側の部屋に連れ込む。この前買った色違いの甚平を取り出して紺色の分を信勝に持たせる。信長は赤い甚平を取り出して着替えようとする。と、

「すみません……僕、水飲んできます」

 急に冷静になって部屋を出る。どうやら姉と同じ部屋で着替えるわけにはいかないと逃げたらしい。思春期か。いや、外見的には思春期なのだが。

 赤い甚平に着替えた信長がリビングに戻ると信勝はちゃんと紺色の甚平を着ていた。さっきより酔いが醒めた風に見えるのは水を飲んだだけでなく顔を洗ったのだろう。そしてリビングのソファで四本目のワインをグラスに注いでいた。

「まだ飲むんかーい」

 と信長がソファの横に座ると「ぴぎ!?」といつもの鳴き声をあげた。

「す、すみません、姉上。姉上の酒なのにおいしくて、つい……も、もう自分で買った方を」
「わしもまだ飲み足らん! かまわんから飲め、同じ酒を飲んだ方がわしも楽しい」

 それでは……と信勝は飲み干したグラスにワインを注ぐ。その横顔をじっと信長は見ていた。

(臆病者とかいっておったが、やはりわしに何か言いたいことがあるのか?)

 もしかして、愛の告白とか?
 少々アレな発想だがそういえばされたことはない。
 好きだとかお慕いしておりますとか言われたのは弟が十歳くらいまでだ。

(言われたらどんな気分になるもんじゃろ)

 ワインを飲み干しながら姉は考える。何人にもその言葉は言われてきた。嫌いな相手でない限りいやな気はしなかった。じゃあ、信勝に言われても大丈夫だろう。

 まあ信勝曰く「全ては過去」なので違うのかもしれない。しかし口を付けた茶碗に執着されるより健全だ。

(多少言いやすくしてやるか)

 毎度おなじみになってきた「肩に頭を乗せる」をする度信勝は奇妙な声を出す。

「ぴぎぐがっ!?」
「……ここまで慣れぬと逆に興味深いのう」

 赤い酒の影響か魔王は大胆な気分だ。今度は正面から抱きついて首筋を軽く噛むと信勝が妙な声を上げる。こういう声の鳥、そういえば昔いたような。

「ぱぴぷぺっ!? ……あ、あの姉上、も、もしかしてですが、ゆ、誘惑とかしてませんよね?」
「は? それ以外のなんじゃと思ってたんじゃ」

 酒を飲んでソファの上でべたべたしていることが誘惑以外のなんなのだ。冗談で首筋噛むほど噛み癖はない。

「だから夫婦になるというたじゃろ。何度言わせる。そういうプレイか?」
「ぷれい?」
「とにかく茶碗に口付けたのバレてるくせに純情ぶるのもいい加減にせんか。その件がある限り性癖が歪んでいると認定するからな」
「ああ~! それをいわれると何もかも……過去の僕の馬鹿~!」

 信長的には個人的にはその方がセックスより恥ずかしいと思うのだが。
 ふと思いつき、軽く身を離すとワイングラスに手を伸ばす。一口分飲んでグラスを置くと信勝に口移しをした。舌で歯列を舐めて、赤い液体で咥内で味わう。

「あ、あああ、姉上、あの僕ではホント力足らずというか……姉上が選んだ方々とはとても」

 選んだという言葉で信勝は自分で傷ついた。それは信長にも分かったので不思議だ。今こうして選ばれているのは信勝も同じだというのに。

「まあ相当なド下手くそじゃない限り、捨てたりせんから安心しろ」
「い、いえ、本当にその未熟で……姉上の選ばれるような英雄にはとても……」

 信長はどばどばと三杯目を注ぐ。おや、空になった? ちょっと一杯が多かったかとは思うが四杯程度で軟弱な酒だ。また新たな空瓶がフローリングを転がる。

「別に才覚や床上手を基準に選んでいるのではない……お前は、その……」

 今ちゃんと好きなのだから別にうまくやる必要はな言い掛けて黙る。流石に照れる。恋愛と親愛の真の違いは分からない。しかし分からないと言うことは信長にとっては重要ではないのかもしれない。

(逆にこいつがなぜこうまでイヤがるかわからん)

 生前は分かる。血縁だ。それさえなければ問題はないと思っているのだが信勝は違うらしい。

 自分の好みは流動的だ。これと決まっているわけではない。一つでも興味を持てればそれでいいのだ。酒を飲んで楽しく話ができるから信勝は十分資格がある。

「その……実戦経験がないなら仕方ないではないか」

 初恋が肉親だから歪んだ青春。妻にすら触れなかった。今は昔と何もかもが違うがその時の感情なら今叶えてやれる……少し叶えてやりたいの感情が強くなっていることを信長は意識の奥に押し込んだ。

「嫁のこともああいっとったし一生童貞じゃったんじゃろ。床のことがうまくないのは仕方ないじゃろ?」
「え? 別に僕、童貞のまま死んだ訳じゃないですよ」
「は……?」

 信長のワイングラスが握りつぶされて砕け散った。

「姉上、手が!」
「ガラス程度で怪我などせん。それより今の話を詳しく話せ。拒否権などないぞ」
「え……どうしたんですか?」

 突然姉が仁王像のような顔をして襟首を掴まれたので面食らう。衝撃で何を話していたのか忘れてしまった。

「待ってください、今何の話をしてましたっけ?」
「お前は童貞のまま死んでないという話じゃ、言え」
「な、なんでそんなこと……そ、それはちょっと恥ずかしい……ぴえ!?」

 女の味を知らぬまま死なせた後ろめたさを感じていたのに「童貞じゃないです」と脳天気な顔で返された。たまった罪悪感の分、殺意ギリギリの心境だ。

「なんじゃ、妻には指一本触れなかったくせに女遊びはしとったのか」
「ど、どうしたんですか?」
「ふーん、へー、まあわしにはちっともさっぱりなにがなんでも関係ないが……で、誰じゃ?」

 同郷の顔見知りかは気になる。耳元でかなりドスの利いた低音が響いたので信勝の酔いは完全に醒めた。

「その……恥ずかしながら、商売をされている女人と」
「ふーん、へー、どうでもいいけど、ふーん、ほー」

 生意気にも娼館通いだったらしい。ちっともどうでもよくなさそうな姉の言葉をなぜか信じる信勝だった。

「そうです、どうでもいいことです。姉上、ところでそろそろ遅いので台所を片づけを……」
「わしには一切合切金輪際未来永劫どうでもいい。もちろん塵芥一粒たりとも興味も関心も疑問も関係もないが……おい、逃げるな」

 関係ないと言い張る姉になぜかソファで腕を卍固めにされている弟であった。

「それで何人くらい経験した?」
「それはさすがに言うにはセンシティブな個人情報で……姉上、顔が怖いです!」

 幼い頃に寺で見た阿修羅像に似ている。信勝はここで初めて酒を飲み過ぎたのではと後悔し始めた。

「別に普通じゃ。あとでわしの経験人数も教えるから、言え。夫婦じゃろ」
「夫婦ってそういうものじゃ……天下人となった姉上に話すのは色々恥ずかしい経験しかなく」
「ふん、大体察しはついている。言え、命令だ」
「……数えるのでお待ちください、笑わないでくださいね」

 どうせ片手の指で足りるだろうと横で眺めていると両手の指を越えてもまだ数えてる。二十を越えたあたりで納得できなくなって頭を抱えるとぽんと信勝が手を叩いた。

「そうだ、百人。ちょうど百人でした!!」
「……ひゃく?」
「はい、丁度百人の女性と……姉上?」

 姉はおぞましい悪魔を見る目で弟を見ていた。




 どうしてこんなことになったのだろう。

「頭を冷やしたいから皿洗いでもしておれ」
「は、はい!」
 
 すっかり酔いが醒めた信勝は顔色を青くして一人台所を片づけていた。冷静になるためリビングでは阿修羅のような顔から戻らない信長が無言でパズルゲームをしている。

(百とか百とか……わしより多いじゃん!)

 比べたいわけでない、わけでないが納得いかない。いや、こっちは年単位の付き合いも多く、決まった相手がいる間は基本浮気はしない。多分あっちは大抵一夜の関係だ。もしかしたら馴染みの遊女がいたかもしれないが……。

「あ、姉上……片づけ終わりました」
「よし、百人の話に戻ろう」
「戻らないでください!」

 意地でも戻る。再びソファで卍固めになった信勝は三十分後・沈黙の壁をようやく解除した。

「百っていくらなんでも多すぎんか、馴染みはいなかったのか?」

 馴染みと自分でいって胃をつねられた気分だ。気に入った女を毎夜抱く信勝を想像するとますますさっきまでの自分が馬鹿みたいだ。ほんのりと腹の辺りがいらいらしてるのは罪悪感が見当違いだったせいだろう。

「馴染みなんていませんよ。ほぼ一夜でお別れです……そもそも」
「そもそも?」
「その……後半からはあなたの代わりを探していたのです」
「……ほう?」
「僕が十二の頃あなたは結婚されて、どんどん遠くなるのにいつまでも忘れられなかった。どんなに想っても迷惑なだけなのに……そして思ったのです。少しだけでも姉上と似ていると思える遊女がいたらその人を連れ帰って、一生大事にしようと」
「……へえ」
「結婚して遊女をしている人もいるのに馬鹿ですよね。子供の浅い発想でした。でもどっちにしろ同じだったんです……百人の女人を抱いても姉上に似ていると思える人はいなかったんですから」
「……」
「情けない話でしょう。でも、大丈夫です。だってもう全部過去の話なんですから!」

 考えるより先に声が出ていた。

「百一人目はわしにしろ」

 全て過去の話だとしてもカルデアだって幻みたいなものだ。
 自分の代わりがどこにもいないなら。
 百人分埋め合わせてやりたい。

 それなのに信勝はまだ抵抗した。

「ど、どうしたんですか……僕じゃきっとだめで嫌われるからいやです!」
「へー、そう……」

 路線を変えるかと信長はソファーから立ち上がる。

「わし、ちょっと出る。一人か二人、男ひっかけてくるわ。今夜帰らないから一人で寝ろ」
「!?!?!?!?!?!?!?」

 信勝は慌てて立ち上がって姉の前に立ちふさがった。

「何言ってるんですか!!? そ、そんな簡単に女の人が……突然どうしたんですか!?」
「だからわしに処女崇拝的なものを押しつけるな! ……別に。お前が遊び人だったって聞いたらわしも遊びたくなっただけじゃ」
「僕はその、あ、遊んでいたつもりでは……」
「女に幻想抱くな。むらっときたんじゃ、是非もあるまい。お前は遊びたくないようだし……暇してる英霊の男の一人や二人おるじゃろ」

 本気ではない。ただの当てつけだ。ただ我慢がきかないのは本当だった。

 信勝は日頃のへらへらした顔が別人のように真剣だった。

「絶対だめです! 遊びなんてそんな、あなたはとても大事な……」
「うるさい、お前の幻想に付き合わせるな。わしは遊びたい時に遊ぶ……いいからそこをど」

 どけという前に口を塞がれた。信勝から口付けされている。両方目を開けたままだったのでにらみ合いの接吻だった。ワインのせいかさっきより唇が熱い。

「それなら僕としましょう。……つまらないから斬り捨ては勘弁してくださいね」

 そういって弟は姉の背を両腕で強く抱いた。そこで信長の頭から怒りはきれいに消えてしまった。





 最後にこんなに深く眠ったのはいつだろう。

「……ん?」

 頭と腰が痛い。酒を飲み過ぎたかと目を開けると信勝の顔が目の前にあった。お互いに全裸でベッドの上で抱き合ったまま眠っている。

(そういや、ついにやっちまったんじゃったか)

 思い出すとかなり勢いで一線を越えてしまった。これで危ない姉弟から本物のヤバい姉弟になった。更に母から呪われそうだ。
 まあ夫婦になると宣言して同居していたので是非もない。

(ほかの男のとこいってやるとか、痴話喧嘩みたいな口説き方になってもうた)

 けれど信長の胸は静かだった。信勝の背に回っている両腕を寄せてぎゅうと抱きしめた。……口説き方は最悪だったがいい夜だった。

 信勝はおどおどとだが丁寧に触れてきてそのままゆっくり二度交わった。二度目は理性が程良く消えて一度目より激しくて……。

 そして女を抱くのに慣れていた。服の脱がし方、触れる手順、程良い睦言……百人は事実らしい。

「あいた!? ……姉上?」

 信長が思い切り背中に爪を立てたので信勝はまどろみから覚めた。……とてもいい夜だったがこの身体をあと百人の女が知っていると思うとそれくらいいいだろう。

「……夢じゃ、なかったんですね」
「当然じゃ」
「夢みたいです、こんな風に抱き合って朝を迎えるなんて初めてです」
「夢ではない。わしは遊女ではないから夜明け前に帰る必要もない……ああ、嫌いにはなっていないぞ。下手かと思ったがなかなかだった」

 むしろ結構よかった。多分身体の相性はいい。もっと取り乱すかと思ったが信勝は裸の胸の中にいる信長の髪をなでた。されるがままになって結構その静けさが心地よい。

「で、いくつの頃からじゃ?」
「なにがですか?」
「女を買い始めた年齢じゃ……お前は子供の頃のお前のままではないと身をもってよく知った」

 信長の記憶の十代の信勝はあどけなく結婚したことは知っていたがあまり性的なイメージはなかった。姉馬鹿といってくれ、特に十代前半は清廉なイメージしか弟にはないのだ。無垢な存在だと信じ、いや思いこんでいたのだ。

「お前を知りたい……わしの代わりがいないならわしに教えよ」

 毒を喰わば皿までか。信勝はしぶしぶとだが割とあっさり口を開いた。

「十三、いや十二の終わり頃だった気もします……姉上?」
「い、いや続けよ。しかし少し早すぎではないか?」

 十二歳。砕け散る幻想の破片が心に突き刺さってちょっと痛い。

「その……僕はもうあなたの夢を見たくなかったのです」
「わしの夢?」
「……あなたとこういう事をする夢を十二の頃に見始めたのです。最初は悪夢だと、こんなこと僕がするはずがないって必死で隠していたのですがだんだん夢が過激になって」

 無理矢理犯す夢を見たとまでは言えず、信勝は口をつぐんだ。信長も察した故に追求はしない。

「もう夢を見たくなくて娼館に詳しい家臣に話をつけてもらいました。それで数度通うと夢の頻度が下がったのでそのままずるずると……確か十五の頃までだったと思います。父上が死んだ頃にはもう行ってませんでした」

 やはり自分が原因らしい。十三から十五の間、爛れた生活を送っていた。いや、弟は多分姉を守りたかったのだ。肉欲の見せる妄想の夢から。同母の肉親を抱く夢をみるなんて元々相当の罪悪感が伴うだろう。

「……お前、ずるいな」
「え?」

 責めるに責められない事実ばかり持っている。弟を知ろうとするとこんなことばかりなのだろうか。知っているから知ろうとする必要のない日が遠い。

「いや、大したことではない……そうだ、他の男を引っかける話だが」
「だ、だからそれは……!」
「これからもこうしてお前と交われればもう二度と言わぬ」

 少々意地悪なやり方だったが。
 それから信長と信勝は週に二度ほど肌を合わせるようになった。




 信長は恋は知っている。程良く恋を遊び、付き合う間は相手以外の情人は持たない。けれど人に執着は持たない。無理ならまあいいやと手放してしまう。
 だから弟の本当の気持ちは分からないのだと冷静に分析していた。これからも自分は誰かに執着することはないだろう。

(でもそれはお前が特別なのでないよ、信勝。わしは誰にも執着せぬ。それがどういうものかがわからんのだ)

 このままの自分しか持ち合わせがない。それで満足してもらうしかない。
 けれど。

「……?」

 抱かれた回数が増えると妙な胸の痛みが増していく。病気だろうか。やはりまた医務室へいこう。

「……信勝?」

 行為のあと寝台で迎える朝が好きだと言っていた弟が珍しくいない。水でも飲みに行ったのかとリビングへ向かうとソファの横で倒れていた。その胸に空のワイン瓶を抱いて。

 どれだけ気に入ったのだと呆れて弟の顔をのぞき込むとぽろりと涙をこぼす。

「ごめんなさい、姉上」

 どうしてもまた言えませんでしたとうなされた寝言をこぼし、そのままリビングの床で丸くなった弟。その隣で姉は同じように丸くなって絶対聞き出してやると決意を堅くした。







 その日弟は思った。
 本当は自分は姉のことをなにも分かってないのかもしれない。
 本当は自分だけが可愛い愚か者なのかもしれない。
 どうしてたった一言が言えないのか。

「だって、全部壊れてしまうかもしれないじゃないか」

 いざとなるとこんなに我が身が可愛いなんて。
 彼女を愛する資格などないのかもしれない。

「僕はこんなに臆病だったのか? 大人になって変わったつもりだったのに」

 子供の自分は嫌いだ。弱くてモノを知らず、そのくせ姉の側にいつまでもいられると信じていた。全部自分の妄想なのに未来はその通りになると疑わなかった。

「もしかして」

 カルデアで再会したことがそもそも間違いだったのか?



【買い物、そして友達ができる】



 二人で暮らし初めてもうすぐで三ヶ月だ。

「信勝?」
「……姉上?」
「なにぼーっとしとるんじゃ、溶けとるぞ」

 気が付くとソフトクリーム売場の前にいた。

 一週間に一度の約束。スタンプカードはもう残り二つで景品が貰えるほど埋まっていた。信勝はそれを見る度に喜びと終わってしまう寂しさがこみ上げた。

 信勝は言い出せないまま二ヶ月以上も経っていた。幸い心を切り離して振る舞うのは生前から慣れている。鋭い姉に見抜かれていないといいのだが。

「姉上……あの」
「なんじゃ」

 見抜かなければいい、じゃない。
 早く姉に全部白状してしまわなけば。
 それで姉がどんな感情を抱いても受け入れなければ。

「……いえ」
「最近お前はそればかりじゃの……胸にしまってるものがあるならさっさと言えばよかろうに」

 ぎくりと足がおびえた。

「敵や部下の心を推し量ってきたわしに隠し通せると思ったのか。特に最近のお前ときたらこっそりわしの顔を見ては俯いてばかりで……なにを隠している?」

 言ってしまえ。
 どんな答えでも受け入れろ。
 姉のことなら何でも受け入れるのが自分だろう。

「別になんでもないですよ?」

 言えなかった。
 彼女のためになんでもできると言った自分は嘘だったのか。
 張り付いた笑顔で心にもないことを言う。
 まるで昔のよう。

「うそつきめ」
「……」

 信長だって思い切って口を開いた。けれどそんな辛そうな顔をされては踏み込めない。

 信長はため息をつくと信勝の手を取った。手のひらの上で拳を開くところんと何かが転がった。

「やる、家の鍵にでもつけとけ」

 それはプラスチックでできた柿のついたキーホルダーだった。

「……ありがとうございます、姉上。大切に、大切にしますね」

 信勝はキーホルダをそっと両手で包んだ。やっと休める場所を見つけた冬の鳥の羽をたたむように。
 ポケットから家の鍵を取り出してキーホルダーに取り付ける弟をじっと信長は見ていた。




 ソフトクリームの時間が終わると次は買い物の時間だ。俗に言うスーパーマーケットというものに似ているとマスターが言っていた。カートに買い物かごを二つ乗せて先行する信長に後ろからついて行く。

「姉上、姉上、これは牛の乳とは違うんですか?」
「あぁもんどみるく? おぉつみるく? ……うん、わからんが買ってみるか」

 メモの商品が二人の手によって次々にカゴに吸い込まれていく。買うのは主に飲み物関連でインスタントコーヒー・ティーバックの紅茶・コーヒーシュガーなどだ。先日コーヒーミルを買ったので深煎りのコーヒー豆も少し買う(姉は酸味が少ない方が好きなのだ)。

 食品の類はほとんど買わない。元々サーヴァントなので食事は必要ないし、食堂とテイクアウトでほとんどすむからだ。まあ、飲み物だって本来は必要ないけど気分転換というのは大切だと思う。

「信勝、これもいれとけ~」

 そういって信長は抹茶の粉末の詰まった缶をカートに入れる。姉は今でも時々ダイニングテーブルや縁側で茶を点てる。恐れ多くもなんどか信勝もご相伴に預かっている。

「姉上、オレンジジュースがもうなかったですよ」
「ん~、でも炭酸のオレンジはあるしな……あ、それよりわしカップ焼きそばを……あれ?」

 信長は不思議そうに商品棚を見た。そこには先日まであったはずのカップ焼きそばはなく、インスタントラーメンが並んでいる。

「おかしいのう、この前までここにあったんじゃが」
「姉上、確かそれはセール品になってるはずです。入り口のあたりに積んであったのでとってきますよ。カートは置きますからここで待っててくださいね!」
「あ、おい……五個じゃぞー!」

 そうして信勝はマーケットの入り口に向かった。姉と離れるのは辛いことのはずなのに今は少しほっとした。ずっと勇気が出ないことを少しだけ忘れられる。

「あった、五個だっけ……あれ?」

 ちょうど残り五個だったカップ焼きそばを腕に抱えて、カゴを持ってくるんだったと後悔した。落とさないようにのろのろと歩いていると突然周囲が暗くなった。

「……暗い?」

 信勝が天井を見上げるとさっきまであった照明が闇に包まれた。それどころか周囲で買い物をしていた英霊達も商品達も濃い霧のような闇に包まれ消える。信勝と五個積み上げたカップ焼きそばだけが残った。

 否。なにか大きな生き物がいる。ずるりずるりと重みと滑らかさをもった音を立てて近くを貼っている。

「全く……姉上達はなにを考えているのか」

 巨大な鱗を鈍く光らせ、そこにはゴルゴーンがいた。アヴェンジャーだと信勝は身構えた。彼女の結界に迷い込んでしまったのか?

……「いいか信勝、また人見知りを発揮しておるようじゃがこれは覚えよ。カルデアにいるバーサーカーとアヴェンジャーの顔と名前じゃ。わしが言えた義理もないが、こやつらは破壊衝動に身を任せやすい。お前には危険すぎるから決して近寄るな。はち合わせたらすぐ逃げよ」……

 姉の言葉を思い出し信勝はじりじりと後退した。確か元はギリシャの女神が呪いによって怪物になった存在のはずだ。この闇は彼女の結界だろうか。

(まずいな、こっちに気付く前に逃げないと)

 幸いゴルゴーンはこちらに気付いていない。出口があるのか分からないがまずは離れないと。幸いゴルゴーンは考え事に夢中なようだ。

「分からない。姉上達がなにを考えているのか分からない。どうして私に近づくのか……姉上を死なせてしまったのに……」
「……お前も家族を殺したのか?」

 ころりと飛び出た言葉を元に戻すことはできない。はっと口を塞ぐが遅い。怒気をはらんだ目でゴルゴーンは振り返った。

「貴様……聴いたな?」

 ゴルゴーンの髪の一部である巨大な蛇が牙をむく。一匹が信勝の首に巻き付いた。そのまま宙に持ち上げられて喉を締め上げられる。五個のカップ焼きそばが床に落ちる軽い音がした。

「ぐ……あ……」
「貴様は誰だ? ……そんなひ弱な霊基で我が結界に入ったのか?」
「わざと……入ったんじゃ……な……」

 首が締まって両足をじたばたとさせる信勝にわずかにゴルゴーンは冷静になった。ここはカルデア、殺すことは禁じられている。罰は怖くないが立香が姉たちに何か言うことはありうる。

 しばし迷ったがゴルゴーンは信勝を締め上げた蛇を床近くまで下ろす。そして呼吸はできるが逃げられない程度に締め付けを緩くした。両足がついた信勝はげほげほと酸素を求めて喘いだ。

「入ったのは偶然か、運の悪い……さっきのはどういう意味だ?」
「げほっ……なんのこと?」
「貴様『も』家族を殺したと言っただろう……お前は家族を殺したのか?」
「お、教えない……もし知りたかったら、僕の質問に答えろ……うっ」
「自分の立場が分かってないようだな」

 拘束を一度締め、また緩める。信勝も必死だった。このアヴェンジャーは家族を、姉を殺したらしい。彼女なら姉の本当の気持ちが少しでも分かるのではないだろうか。

……「何を隠しておる?」……

 姉に何度もあんな顔をさせられない。それなのにいつまでも自分の心は臆病で確かめることができない……似た立場の存在なら彼女に確かめるのもいい。

 見た目に似合わず強情な少年にゴルゴーンは溜め息をついた。いくらカルデアでも見上げるほどの蛇などそうはいないというのに。

「いいだろう、質問に答えてやる。不快ならひねり殺せばすむだけだ……ただし質問は私が先だ」
「……嘘じゃないだろうな?」
「ああ、嘘は好かん……それでお前も家族を殺したのか?」
「僕は殺してない。殺させたんだ。姉上にしてあげられることが……それしかなかったから」
「どういう意味だ?」
「姉上は誰より家を継ぐのに相応しかったのに……お、女だからって馬鹿な連中が僕の方が家を継げって……だから」
「……ふん、人間はいつの世も同じようなことを」

 もしかして自分と同じ気持ちの英霊がいるのかと少しだけ期待した。期待はずれだ。

「答えたぞ、僕の番だ……お前は姉たちを殺して悲しかったのか?」
「は? ……殺されたいのか?」
「一方的な殺戮だったのか? 姉たちは自分たちが死ぬことを全く予測していなかったのか?」
「……そういうわけではないが」
「僕は死んでもかまわなかったし、最初からそのつもりだった。それでも家族なら、姉弟なら……悲しむものなのか?」
「当たり前だ!」

 ゴルゴーンの気合いに信勝はそれが彼女の真実だと悟る。すると少年はさっきまでの怯えのない顔をくしゃりと歪め、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。

「やっぱり、姉上もそうなのかな……僕は再会して苦しめただけなのかな」
「……」

 どうやらこの少年は自分の死が姉を苦しめなかったかと苦んでいるらしい。
 もしかしてこの少年の言葉を信じるなら姉に殺されたという彼は姉たちの気持ちが分かるのか?
 日々化け物に近づく妹に近い未来殺されると知っていたのに最後まで日常を共にしていた姉たちの気持ちと同じなのか。

「分からないんだ……僕は姉上を殺そうとした。少なくとも周りはそう見たはずだ。姉上だって……そんな相手を殺したからって悲しむんだろうか? 全部僕が悪いのに」
「……」

 カルデアは妙な場所だ。
 この組織に滞在する英霊はまともな死に方をした人物の方が少ない。輝かしい英雄談を持つものこそ末期は悲惨だ。だからこそだろうか……少年が少しだけ姉を、ステンノとエウリュアレを思わせた。

(姉上たちもこんな風に思うことがあるのだろうか……馬鹿馬鹿しい。殺されておいて、死んだことで相手を悲しませる方を悔やむなんて)

 けれど一つの現実としてそういう信勝はゴルゴーンの目の前にいる。

「……」

 ゴルゴーンは信勝が転ばないように少しずつ拘束を緩めていった。

「全て……死後に再会したのが間違いだったのかな。お前『も』殺した家族とは辛いから二度と会いたくなかったんだろう?」
「……私は」

 がぁんっ!

 ゴルゴーンが口を開いた瞬間、その顔すれすれに火花が散る。次々と鉛玉が叩きつけられ、信勝を拘束してた蛇がぐたりと力を失った。解放されると信勝は思わず床に膝をつきそうになるが、その前に強い手に支えられた。

「……姉上?」
「人の弟になにしとるんじゃ、貴様」

 信長がそこに立っていた。魔力を込めた火縄銃を周囲に顕現させ、その手には巨大な連写式の銃を持っていた。

「姉上、どうして」
「どこまで焼きそば探しにいっとるんじゃ、お前は」

 彼女は信勝を庇うようにマントの後ろに隠した。これが少年の言っていた姉か。もう殺意は失せていたのだがどうしたものか。

「戦う気はない……そっちが勝手に私の結界に紛れ込んだのだ。聞き出せば偶然のようだから、もう帰すつもりだった」
「ほう、そうか……それはそれは申し訳ないことをしてしまったの」
「……は?」

 少し意地悪く信長の唇が笑う。

 すると彼女の後ろからステンノとエウリュアレが現れた。

「あ、姉上たち!?」
「この子ったら図体ばかり育って、姉への尊敬がなくなったんじゃないかしら。ねえ私(ステンノ)?」
「きっと姉の尊敬の念を根こそぎ栄養にしてこんなに大きくなったに違いないわ、私(エウリュアレ)。だから私たちが荷物持ちをやれっていったのに逃げたに違いないわ」
「ち、違います! だって姉上たちは……だ、だから逃げるために結界を張ったのに……!」

 姉二人に囲まれたゴルゴーンの叫びと共に結界が解除される。闇の幕は絵の具を水に溶かすようにあっけなく溶け落ちた。





 ゴルゴーンの結界が解けるとマーケットの入り口に五人は立っていた。姉たちにあちこちをいじくり回されているゴルゴーンを信長は首を傾げた。周囲からなんだなんだと視線が集まる。

「ここまで効くとはやりすぎたかの」
「あ、姉上、もしかして僕を心配……」
「うむ、こっちを心配しておった」
「知ってました~、カップ焼きそばの方が僕より大事ですよね!」

 同意したのになぜか頬を引っ張られる信勝であった。

 信長は買い物かごに床から拾ったカップ焼きそばをいれると弟に認識されない程度にゴルゴーンと弟の間に立った。幸いギリシャの反英雄はもう戦う気はないようだ。

 五分後、疲れ果てたゴルゴーンの両サイドにはぴったり姉たちがくっついている。

 もう用はないと信長と信勝から離れようとするが、一言だけ言いたいことがあった。

「おい、小僧」

 信長が鋭い目を向けたが信勝はゴルゴーンへ振り返った。

「一つ、教えてやろう。お前の言うことは正しいのかもしれない……だがな、再会しない方がマシだったと私は思ったことはない」
「……どうして?」
「さあな」

 そういってゴルゴーンはまた姉たちを避けて、逃げていった。もちろんステンノとエウリュアレはその後をからかい混じりに追いかけていった。

「お前、あやつと何か話したのか?」
「い、いいえ、特に何も」

 嘘ばっかり。最近は姉に嘘をよくつく。こんなこともういやだったのに。

 それでも買い物の帰り道、荷物を分け合って帰るとなんだか身体が暖かかった。新しくつけた柿のキーホルダーでドアを開けるとなんだかこの生活が永遠に続く気がした。

「ただいまです、姉上」
「おかえり、信勝」





 数日後、信勝はある場所へと向かった。

「お前、どうして……余程の死にたがりか」

 信勝の前にはゴルゴーンがいた。ノウム・カルデアの外れの空き部屋。大きな柱の影にとけ込んでいてステンノにここだと言われねば見つけられなかっただろう。

「その、前に僕だけ質問に答えたから……お前の質問に答えないと」
「……」

 ゴルゴーンは呆れた。死にかけたのにこっちも忘れかけた約束を覚えているとは律儀なことだ。

「……お前は平気なのか、殺された相手に死後再会して。怖いとかまた殺すんじゃないかと不安や恐怖を感じないのか」

 信勝はまじめに質問を一句漏らさず聴き、そして首を横に振った。

「僕にとって死後の再会はただの幸運で幸福でしかない。でもお前がそんな風なら姉上も僕を見る度ただ辛いだけかも……」
「違う」

 ぽかんと口を開けた信勝にじっと蛇の髪をもつ女怪はらしくなく優しい笑みを浮かべた。

「言っただろう。ああ、確かに私は苦しいさ。姉上達を見る度……全身が剣で刺されたような痛みを感じる。けれどな、痛いのはやはり今が幸福だからだ」
「それはどういう……」

 答えずゴルゴーンは「質問は一つだけだ」と静かに表情を緩めただけだった。

「お前にとって幸福なら……まあ、相手にとってもそうなのではないか?」



 奇妙なことに。
 それから信勝は暇を見てゴルゴーンの元を訪れて「教えろ」「しつこい」と問答を繰り返していた。五回を越えたところで質問のあとは二人でぼうっとして過ごしはじめた。

 うまくはいえないけれどこれってもしかして友達ってものなのだろうかと二人は内心首を傾げた。




[newpage]
むかしのはなし




 その日、信勝は久しぶりに深く眠った。けれどそれはいい意味ではない。長い悪夢を見ていた。

 それは孤独だった過去の夢だった。



 最近僕は毎晩悪夢をみる。内容はいつも同じ。子供の頃が泣いてすがってくる。

……「いやだ、いやだ。姉上に謀反なんて、絶対にいやだ!」……

 泣きわめく子供の横をいつも通り過ぎようとして余りに強い力に立ち止まってしまう。しつこいしうるさい。昔は姉も僕をこんな風に見ていたのだろうか。

……「どうして姉上の敵にならなきゃいけないの!? 僕は姉上が大好きなのに!」……

 子供に何が分かるんだ。好きだって気持ちだけじゃなんにもならない。行動することが必要なんだ。姉上は敵が多くて、僕が本当に味方なら今は敵にならなきゃならない。

……「だってこの計画じゃ僕は死んじゃうんだよ!? 死んだら姉上にもう会えないよ!」……

 死ぬことくらいなんだ。僕なんて死んだっていいだろう。僕だって僕が死ぬ事なんてどうでもいい!

……「今なら間に合うよ。全部止めて姉上に計画を告白するんだ。それで終わる、あいつらは姉上に懲らしめられてそれで全部元通りになる」……

 駄目だ! あいつらは多いんだ。束になれば姉上だってただじゃすまないかもしれない。信じられないけどまだいるかもしれない。それにあんなやつらが生きてること自体許せない。

 全員殺してやる。惨たらしく死ねばいいんだ。時間をかけて炙り出して後腐れなくみんな殺さないと……あんなやつらを集める僕自身だって殺してしまわないと。姉上の為なら僕は平気だ! 死ぬことだってものの数じゃない!

……「平気なんてうそ」……

 息ができない。気がつくと僕は地面に倒れていた。子供の僕は少し成長した姿になって僕をじっと見ていた。その細い指先が喉に触れただけなのに呼吸が出来なくなっていく。

……「だって「ぼく」泣いてるじゃない」……

 否定しようとしたが頬に温かい水が伝う。子供はさっきまでの幼さはなく、冷たい瞳で僕を見ていた。

……「馬鹿な「ぼく」。お前に耐えられるわけがない。……なにも言わないで敵として死ぬなんて臆病者の僕にできるもんか。毎晩本当は味方ですって言うの堪えてるくせに」……

 うるさい。うるさい。

……「死ぬのは耐えられる。馬鹿な連中に愛想笑いして殺すのを我慢する事だって耐えられる。人も殺すし馬鹿げた戦だってする。
 姉上のためなら大抵のことは僕は耐えられる……でも憎まれることだけは耐られないだろ? もうやめよう、姉上に泣いて謝ろう」……

 僕は「ぼく」を突き飛ばした。いつのまにか短刀を持っていて、子供の自分を刺した。夢の中のことなのに僕は何度も「ぼく」を殺した。

 何度だって自分を殺し続けた。姉のためなら平気だ。平気だ。僕は大丈夫。平気、平気平気、へいきへいきへいきへいきへいき。大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫。ダイジョウブダイジョウブダイジョウブダイジョウブダイジョウブ。

……「たすけてって言いたいくせに、うそつき」……

 だまれ!!!!!




 目が覚めると一人だった。頬に手を当てるとべっとりと涙がついていた。手ぬぐいを探して立つと月光が頬をかすめた。

 深夜だった。昔、夜に悪夢を見て姉の寝所に潜り込んだことを思い出す。姉は情けないと言ったが笑って一緒に寝てくれた。六つの時だっけ、七つの時だっけ……。

「……」

 一人で涙を拭うと僕は机に向かった。どうせ眠れない。眠っても悪夢を見るだけだ。紙を出して、今後の計画を書き出していく。朝には燃やすから真夜中に目が覚めてよかった。

……「もうやめよう、姉上に泣いて謝ろう」……

 悪夢の声を振り払うために筆に集中した。
 今日酒宴にきた連中の名前を書こう。また人が増えた。よく見知った顔をもあったけど、あまり知らない顔も多かったからちゃんと記憶を整理しする必要がある。

 そうだ、この名前は知っている。

 姉への謀反を企む輩は昔からの織田家の家臣が多く昔からの顔見知りが多い。確かこいつはこの前祝言をあげて楽しく暮らしているとか。そしてこいつはこの前子供が産まれたとか。

 一瞬、なんて恐ろしいことをしているんだろうと筆が止まってしまった。

「……くそ」

 涙がこぼれて墨が滲む。どうして僕は弱いんだろう。こんな風だから大人になってから姉上は遠くでもっと気の合う仲間とつるむことが多くなった。父上と僕だけが姉上を理解していた時代はとっくに終わっていた。

(これが一番いいのかもしれない、だって無能な僕が姉上にしてあげられることなんてこれが最後かもしれない)

 袖で涙を拭って机に向き直る。姉を殺そうとしている時点で僕を殺しているも同然だと名前から感情をはぎ取っていく。

(計画は必ず成功させる……僕が姉上の味方だってことは僕だけが知っていればいい。姉上は知らなくていいんだ。恩知らずの弟だって、いやなやつだったって僕のことなんかすぐ忘れればいい)

 無意識に拳を握り込んで紙にしわができる。また涙が出たので何度も目をこすった。指か目か、わずかに血がにじむ。

(僕は姉上に忘れられたっていい。僕だけが自分の気持ちを知っていればいいんだ。見返りなんていらない、愛なんていらない。そんなものを望む弱い僕なんか死ねばいいんだ)

 涙が止まらないので短刀を取り出して手の甲を刺した。一度では止まらなかったので数度刺すとようやく涙が止まったので計画書の続きを書く。

 今度は落ち着いて文字を書けた。咄嗟に刺したのが利き腕でなくてよかった。

(これでいいんだ。あいつらを殺せて、僕は姉上が大好きで子供の頃の思い出がある。それで十分)

……「うそばっかり」……

 遠くで小さな子供が「うそつき」と言った気がした。でももう僕は耳を貸さなかった。そう続けるうちに声自体聞こえなくなっていった。

 明け方、ようやく計画書は完成した。もう左手はろくに動かなくなっていた。殺す人々の名前を三度見直す。

 名前を記憶した時点で庭に出た。人気のないところで紙を燃やすとようやく頬は乾いた。

 計画書が炎の中で燃え尽きると胸の中でも何かが消えていく。なんだろうこれ。でもなくなると代わりに随分身体が軽くなった。

 もう二度と泣かない。僕は弱いけどきっとやり遂げられる。姉上にどう思われても子供の頃の思い出があれば僕は大丈夫。

「……がんばろう」

 最後まで全て胸の内にしまっていけるように。








つづく










あとがき



 いや、がんばらないで……(ラスト書いたときの感想)。

 信勝に「自分の死について」訊くことは相当時間がかかるだろうとその期間を「そして二ヶ月後」みたいにするか少し悩んだのですが帰ってきたい日常を書いておきたいと思い、飛ばしませんでした。
 日常回で3・5話です。3話から4話にとばしても大丈夫な構成を目指したのですが大丈夫かな。
 
 
 ゴルゴーンについて
 
 二人のメドゥーサは姉さまでゴルゴーンは姉上なのでなんどか幕間再生しました。
 ゴルゴーンは姉たちを殺した記憶があるのか? と悩みましたが幕間からおそらくあるだろうという前提で書いてます。

 
2021/10/09
 
 
 今回のノッブ
 
 勢いで一線を越えてしまった。後悔はしていない。
 
 ノッブが探してたカップ焼きそばはペヤング。
 
 
 
今回のカッツ
 
 非童貞が重要情報とは知らなかった。
 
 花街では「支払いよし、礼儀よし、後腐れなし」の客だったので良客扱いだった。12〜15歳くらい通ってた。
 
 ただ後半からは姉に似た人を探すために無茶な注文をして支配人を困らせた。長い黒髪、白い肌、気が強いはわかるけどクルミで素手で割れるとかイノシシと戦えるとかなんやねん、おらんわそんなんみたいな反応された。

 姉に似た人は見つからなかった。ので姉が最近新しい男と付きあってると聞き、その情事の一部を覗き、三日泣いて泣いて泣いてやっと気持ちを捨てられたという裏設定。