夫婦ごっこ6 ~大切なものは失わないと分からない~




※ fate/Extra CCCの一部ネタバレがあります。




【汚れた聖杯】



 この特異点の聖杯はすでに使われてしまった。それも最悪の形で。

 ここはおそらく戦国時代の日本。それ以上の時代と位置は分からない。

 解析によると聖杯は小さな領主が収める国の跡継ぎの少年のもとに現れた。その少年は気弱で優しい性格で戦乱の世に心を痛めいてた。だから現れた聖杯に「全ての人の願いが叶う優しい世界にしてほしい」と願った。

 そして破滅は起きた。

 確かに全ての人々の願いは叶った。力が欲しい、金が欲しい、女が欲し
い。あいつが憎い、いなくなればいいのに、殺してやりたい。あの土地を自分のものにしたい、いや私のものだ、お前のものになるくらいならいっそ壊れてしまえ。ヒトが憎い、世界が憎い、お前が憎い。自分のものにならないなら壊れてしまえ。

 善悪に関係なく、全ての願いは叶えられた。

 戦乱の日々で生きる人々の願いは荒みきっていた。

 わずかにただ平和を願う人々もいたものの、憎悪と際限ない欲望を叶えた聖杯は徐々に汚れていった。なにしろ「誰もの願いを叶える」という願いを叶えたのだ。どんどん叶えなければ、それがどんな結果になっても。

 無限に等しい魔力が叶えた願いで人々は殺し合い、大地の形さえ歪んでいった。挙げ句いくらかの人間は人の姿さえなくし、死んだ後さえ殺し合う。

 まさしく地獄の有様となった。

 願いを叶えた少年は絶望した。そして最後に「この世界を終わらせてくれ」と歪んだ聖杯の中に身を投げた。それを最後のトリガーにしたように聖杯は闇を煮詰めたような泥を吐き続ける存在になり果てた。





 藤丸立香は重いため息をついた。それを見て信長と沖田は顔を見合わせた。

「マスター、気にするな。わしも知っとるがそういう時代だった。まあ、それにしても哀れな話よな」
「救われない話ですねえ」
「うん……悲しいね。だから、一刻も早くあの聖杯を止めないと」

 藤丸は悲しそうに聖杯のある方向を見つめた。特異点を調査して、ダ・ヴィンチちゃんと計画を立てた。この特異点は一刻も早く終わらせねばならない。聖杯は人の願いによって汚れ、暴走を続けている。

 リソースとしての聖杯は諦めてこの聖杯は破壊する方向で進めよう。それが結論だった。

 だから信長と沖田という攻撃力に優れたサーヴァントを集めて相談していた。二人だけではなくサポートだけではなく攻撃にも優れた卑弥呼、凄まじい力を持つゴルゴーン、攻守に優れた龍馬とお竜ともさっきまで相談していた。これにマシュを加え、他にサポート向けのサーヴァントは二人だけいる。

 立香は何度も信長を心配そうにちらちらと見ていた。優しいマスターはずっと姉弟を心配していた。信勝はどこにいるのだろう……?

「……あ」

 信長の視界の端を信勝がよぎった。なにやら雑用を引き受けているらしい。今回の戦いで信勝は信長の攻撃力を引き上げる役目があるのだからじっとしていればいいのに……。

「おい、のぶか……」

 その背に手を伸ばした腕が途中で止まる。信勝の能力は信長の生贄のようなものだ。そうでないスキルもあるが、信勝の犠牲を前提にしたスキルと宝具がメインだ。

 今まではそれが弟の選んだ道だと今までそれを見て浮かぶ心を抑えてきた。

(いかん……今は見たくない)

 例えサーヴァントとして無事戻ってくるとしても、弟の身が砕ける姿を今は見たくなかった。今回のメンバーには他にも強化ができるサーヴァントはいる。マスターから指示がくれば仕方ないが、雑用で終わればそっちがいい。

 一度手を伸ばした信長は弟にくるりと背を向けた。そしてポケットの中のポイントカードをそっと握った。今は弟を砕け散る生贄にする話ではなくもう一度一緒にソフトクリームを食べる約束をしたい。

 そうだ。それにここはかなり危険な特異点だ。話しかけるのは解決してから、せめて汚れた聖杯を破壊してからにしよう……。

「の、ノッブ~」

 離れていく信長に立香はがくりと肩を落とす。理由はまだ聞けていないがが姉弟は最近離れている。今はせっかく弟に近づこうとしたのに。

「……姉上?」

 マスターの声に信勝は雑用から顔を上げる。姉の後ろ姿が視界の端を去っていく。ポケットの中のポイントカードのことを思い出す。

「あねう……」

 信勝の手が信長の背に伸びる。ソフトクリームのことを覚えていてくれているだろうか?

(……でも、僕は姉上を悲しませた。僕の顔なんてみたらイヤな思いをするんじゃないか?)

 今までは自分なんかが偉大な姉に影響を与えているなんて考えてもいなかった。けれど先日、違うと言われた。

(姉上にとって僕自身が無価値でも、血の繋がった家族だから……でいいんだよな?)

 影響を与えると知った今、無知で無神経な自分がなにをしでかすか怖い。自分の死は姉にとってもどうでもいいと思っていたからそのように接してきたのだ。

 それに自分の能力のこともある。もしかすると自分の宝具は姉に不快ではないだろうか? 家族の死を再現するような光景はいやではないだろうか? でも戦闘になったら……。

 信勝は姉に背を向けて距離を取った。今は雑用に専念しよう。今回はできれば一緒に戦闘にならないように雑務に集中する。そうだ、ソフトクリームの話は戦いが終わってからにしよう。きっとそれくらいなら彼女の不快にはならないはず。

「の、信勝くん~」

 一度近づいては離れてを交互に繰り返す姉弟に立香は頭を抱えた。

「……やっぱり放っておけない。沖田さん、ちょっと私、ノッブと話してくる!」
「でもマスター、もうすぐ作戦……おやまあ」

 もうすぐ作戦の時間だというのに。信長に駆け寄るマスターを見送る沖田。彼女はお人好しのマスターに苦笑すると信勝の方を振り返った。




 仕方がないのだ。ノッブの調子が狂うと沖田も狂う。腐れ縁も縁の内というやつだ。

「何の用だよ?」
「えーと……」

 姉弟喧嘩は犬も喰わない。
 時間もないし沖田は短い会話だけするつもりだった。

 とりあえず確認から。

「ええと、信勝さん、ノッブと喧嘩したんですよね?」
「は? なんでお前がそんなこと……別に喧嘩したわけじゃない。関係ないだろう」
「いや、絶対したでしょう。いつもノッブのところに飛んでくるのが信勝さんなのに距離あるじゃないですか。それに関係あります。信勝さんはノッブがいないとほとんど能力発揮できないじゃないですか、一緒に行動してくださいよ」
「それは……そうだけど」
「姉弟喧嘩はレイシフト前に仲直りをすませてくださいよ。ノッブ、あれで気にしてますよ。弱みを見せるくらいなら死んだ方がマシな性格だから顔に出さないだけで」
「……」

 自分のせいで姉が気に病んでいることは知っている。
 相手が沖田でなかったらもう少し耳を貸したかもしれない。
 だから気を張っていつもの自分らしい言葉を探した。

「僕のことなんかで凄い姉上が気に病むもんか」

 沖田はむっとした。この腐れ縁の弟は姉をとても慕っているのに時々酷く間違っている。

「なんですかそれ、ノッブだって落ち込むことの一つもありますよ」
「なんだと、お前、姉上を軽んじているのか?」
「あのですねえ、ノッブだって怒ったり悲しんだり……心があるんですよ。信勝さんてノッブが好きなくせに時々まるで心がないみたいにいいますよね」
「僕なんかに姉上のお考えがわからないのは当然だろ」
「私にも姉がいるから分かりますが、少し年が上だからなんでもできるように昔は錯覚していました。でももう子供じゃないんですから分かってください。あんな偉そうにしてますが、ノッブだって傷つかないわけじゃないんですよ」
「お前になにが……っ」

……「なにが理解者だ! お前はわしのこと何も分かっていない!」……

 少し前の信勝なら沖田の言葉をただ姉を軽んじるものだと切って捨てたかもしれない。
 けれど姉のことを理解していないと知ってしまった信勝は何も言えなかった。
 そしてそんな風に信長の視界を理解できる沖田が眩しかった。

「姉上は……」

 信勝が口を開いた、その時だった。


……「大きな魔力を感知! みんな気をつけて!」……


 ダ・ヴィンチちゃんの切迫の通信が終わるより前にそれは現れた。

 現れたのは例の聖杯だった。テレポートのように空間を跳躍して、突然立香の目の前に出現した。

 これでは対応が間に合わない。しかも大半のサーヴァントがマスターと距離がある。

「みんな、逃げて!」
「先輩、私の後ろに!」

 叫ぶ立香の元へマシュが走る。聖杯と立香の距離が一番近かった。

 聖杯は魔力の力か宙に浮かんでいた。黒い影をまとい、紫の光をちらつかせた黒い泥を吐き出す。それは既に聖杯とは言えない汚れた聖杯だった。


……「消サレテタマルカ、オ前タチガ消エロ」……


 ノイズが走っているが子供のような声だった。そういって聖杯は立香へと向かう。狙いはマスターか。

「させるか! 願望器風情が!」

 立香の一番傍にいたのは信勝のことで声をかけられていた信長だった。立香をマシュの方に押しやると信長は火縄銃を顕現させ、刀を抜いた。マシュが向かっているが聖杯とマスターの間にいるサーヴァントは信長一人だ。

 火縄銃に魔力をこめる。信長の頬を聖杯の黒い魔力が撫で、背中を一筋の冷たい汗が伝った。当初の計画ではもっと大人数のサーヴァントで破壊する予定だったが時間がない。

「ノッブ、一人じゃ無理だよ!」
「心配など十年早いわ!」

 立香の声と同時に火縄銃が火を噴く。魔力をこめた弾が当たると聖杯はわずかに怯んだ。効くならもっと……火縄銃と刀に魔力をこめて少し迷う。宝具を使うか? しかし不意打ちで時間が足りない。

……「邪魔スルナ!!」……

「姉上!」

 どこかで信勝の声がする。その声を守りたいと思うと自然に魔力が沸いた。

 信長は決断して、刀を持った右腕を防御のために前に構えた。聖杯は黒い魔力で切りつけるように攻撃してくる。しかし信長は防御を捨て、魔力を溜め続ける。火縄銃、刀、そして右腕がずたずたにされ、切り落とされる。

 時間が稼げた。これでいい。

「波旬変生! 三千大千天魔王!」

 聖杯ににやと笑って見せる。

 そして信長の宝具が発動した。周囲が焼き尽くされ、信長自身も燃え、なにより近距離の聖杯に直撃した。白くも黒くも見える地獄の炎に聖杯にはヒビが入った。同時に信長の切断された右腕が地面に落ちた。

「……やった?」

 呆然とこぼれたのは立香の声。宝具との距離を心配していた信長はほっとした。マシュがうまくやってくれたのだろう。

「いや、まだだ。気を抜くなよ、マスター」

 確かに攻撃は成功した。しかし、まだ宙に浮いたままだ。壊れていない。

 けれどダメージはある。聖杯はその中心から真っ二つに割れていた。その割れ目から聖杯の魔力と黒い泥が血のように溢れ出る。ノーダメージではないが致命傷ではないらしい。

……「オノレ……オノレ!」……

 さらに黒い泥を吐きだした聖杯の憤怒の声が響く。

 信長は一歩後ろに退いた。魔力も右腕ももうない。あとは他のサーヴァントに……。

「くっ!」

 聖杯は黒い魔力を吐き出し近くにいた信長が吹き飛んだ。半分に割れた聖杯が空をジグザグに飛んだ。二つに割れてそれぞれバラバラに周囲を旋回している。

「みんな、ノッブを援護して!」
「馬鹿者、マスターを守れ!」

 我に返った立香の声。サーヴァントたちが集まってくる。けれど聖杯は痛みでやみくもに飛んでいるのではなかった。信長は叫んだ……立香のその背に二つに割れた聖杯の片方が飛びかかる。

「先輩!」

 マシュはその盾で聖杯を防ぎ、反動ではね飛ばした。鈍い悲鳴のような金属が砕ける音が鳴り響く。元々ダメージを受けていた半分の聖杯はそれで粉々になった。

 もう聖杯の片方はーー。

「信勝! 避けよ!」
「……あ」

 割れた聖杯は信勝の目の前に現れた。近い、動けない、避けきれない。それに後ろには……。

 聖杯は信勝の胸に直撃した。そして黒い光を発すると溢れんばかりの黒い泥を吐きだした。泥はあっという間に信勝を飲み込んだ。どろりとした闇が溢れ信勝の身体は泥に覆われた。

 数秒も持たず、信勝は形を保てず溶けて泥の中に消えていった。
 信長の目の前が真っ暗になった。

「ノッブ、待って!」

 立香の制止も聞かず。
 信長は聖杯の泥の中に飛び込んだ。









【囚われた信勝】



 暗闇の中、信勝は一人立っていた。

「……?」

 ここはどこだろう? 何をしてたのだっけ? ……そもそも自分は誰?

(ぼくはダレ? ……そうだ、僕のことより姉上を……姉上ってダレ? ダメだ、頭が動かない……姉上はどこ?)

 姉上。それが一番大事だったはずだ。そう思い出した信勝の肩をべとりとしたものが掴んだ。

……『願いを言え』……

 それは人の形をした闇だった。黒い体はコールタールのようにべったりしている。淡い光を放つ濁った目がじっと下から覗き込んでいる。

 酷く恐ろしい風景なのに信勝は動けなかった。指先一つ動かせない。せめて悲鳴を上げようにも舌すら動かない。

……『お前の願いが一番いい。特別に叶えてやろう。なんでも叶えてやる、代償はない、いい話じゃないか』……

 これはきっと大切な人の敵だ。そう思うと体が動いた。

「近寄るな! 何が願いだ! どうせお前は姉上の敵のくせに!」

 肩にベトベトまとわりつく闇に噛み付いた。最後の力で突き飛ばすと信勝は後ろに倒れ込んだ。するとそれは激怒した。

……「なぜ願わない!? なぜ拒否する!? そんな強い願いを持つくせに……お前さえ願えばすむ話なのに!」……

 全身に激しい痛みが走る。信勝の全身を闇が締め上げる。薄れていく意識の中で信勝は全身がバラバラになっていく気がした。






 ぼんやりと頭にもやがかかる。信勝が目を開けようとするが目蓋が酷く重くてぼやけた風景しか見えない。

(……ここは……?)

 甘い匂いが鼻をくすぐる。花ではない、蜜のようなはっきりした香り。かすかに身じろぎすると背もたれのあるイスに座っているのだと分かった。

「まだ眠っているのか?」
「……?」

 聞き覚えのある声。誰のものだっけ。必死に目蓋をあけるが半分すら開かない。

「いい加減起きろよ!」

 なにかの熱い液体をかけられる。痛い。なんとか目を開くとそこには自分がいた。

「……僕?」
「やっと起きたか、【僕】はつくづく間抜けだな」

 目の前にはもう一人の「織田信勝」が立っていた。

「さあ、願いを言え。僕はお前の願いを知っているんだ。逃げられないぞ」





 もう一人の自分は言った。願いを言え、叶えてやる、と。

 信勝は自分を馬鹿だと思っていた。けれど流石にこれが罠と分からないほど馬鹿ではないと思った。

(これは聖杯だ。しかも汚れたやつ。絶対に願いなんて口にしちゃいけない)

 言葉巧みに誘惑し、そのくせ歪んだ結末しかもたらさない。明治維新の特異点の時は初めて超常の力を目にして心から「永遠の子供時代」を信じた。けれど今はあの時とは違う。信勝だって幻霊としてでも顕界を続け、聖杯は願いをろくに叶えないものだと何度も経験している。

 ここは動かず助けを待つべきだ。助けはないかもしれないがこんなものに願うよりはこのまま消滅した方がマシだ。まあマスターのお人好しさ加減なら何もしないという事はないだろうが。

 しかし自分をもう一つ作り出すなんて聖杯は何を考えているんだろう。願いを言わせるための策略か? そこまでしてどうして信勝の願いを叶えようとする。

(とにかく黙ってじっとしていよう、精神や身体は操作まではされてないみたいだし)

 信勝は周囲を見回した。そこは西洋風のティーパーティの会場だった。穏やかな日差しの降り注ぐ森の中に白いテーブルクロスがかけられたテーブルが三つ並んでいた。テーブルにはイスが四つずつ配置されている。

 そして信勝は一番大きなテーブルのイスに座り、金色の鎖で全身をぐるぐる巻きにされていた。鎖はしっかりとイスの背もたれや足に固定され、ちっとも身動きがとれない。

「おい、お前」

 変な場所だ。聖杯が召喚された場所と時代も場所も違う。テーブルには出来立ての湯気が浮かぶ西洋菓子が沢山並んでいる。魔力不足なのか少し空腹を感じてしまう。

「なんだ、返事くらいしろよ!」
「……っ!」

 べしゃりと生クリームたっぷりのケーキが顔面に投げつけられる。咄嗟に目を閉じてなんとかダメージを最小限にする。

 投げつけた相手は「信勝」だった。自分より少し年上の、ちょうど死んだ頃の青年の自分だ。奇妙なことにおかしな形の帽子をかぶって、黒と赤の派手なストライプの燕尾服を着ている。

 目の前で「それ」はいやなことばかり言った。

「だから僕が消えるべきなんだよ、姉上のためにはそれが一番だって自分で分かっているだろう?」
「……」
「聖杯に願おう、姉上の記憶から僕を消して下さいって」
「……」

 もう一人の自分がいるのは聖杯の仕業だろう。
 曖昧な記憶だが闇の中でバラバラにされた。
 だから自分の心を直接のぞいてこんな奇妙な誘いをかけている。

 姉が自分のことで傷ついたならその記憶ごと自分を無くしてしまいたい。この一ヶ月何度も願った。
 けれど汚れた聖杯になど願えない。姉にだってどんな危害を加えるか分かったものではない。

 そして。
 もう一人の自分は一人ではなかった。

「ねえねえ、ぼく。どうしてそんなことを言うの? ずっと昔からもっと叶えたいことがあったじゃない」
「……」

 もう一人の「大人の自分」のちょうど反対側に「子供の自分」がいた。

「そう! 姉上と■■に■■■■■ことを君は願ったじゃない! 姉上に■■■欲しい! だから聖杯に願って!」

 テーブルの斜め向かいで子供用の椅子の上で足をジタバタとさせている。本当に子供のようだ。

(こいつは、何を言っているのか聞こえない。どうせ願いを聞く気はないからいいけど)

 しかし、聞こえないとはどういうことだろう。

 細かいことに子供の信勝はちゃんと子供用のイスに座ってイチゴたっぷりのパンケーキを食べている。こちらも濃い緑と黄色のドットの燕尾服を着ている。しかしその頭には変なものがついている。茶色のウサギの耳だった。

 子供の信勝はぴょこぴょこと耳を動かすとパンケーキの刺さったフォークを信勝へと向けた。

「まったく、どうして君は願いを拒否するのかな? こんなチャンス滅多にないのに。【ぼく自身】がこんなに願っているのに」
「……汚れた聖杯になんか願えるもんか」

 咄嗟に返事をしてしまい後悔する。返事に調子に乗った子供の信勝はニコニコと無邪気に笑った。

「変なの! ぼくはずっと姉上に■■になって欲しかったのに。だって姉上が大好きだから」
「姉上が大切だからこそ願えるもんか」

 それからも子供は何度も話しかけてきたが信勝は無視を続けた。それにしてもどうして子供の自分の声はこんなに聞こえない部分が多いのだろう。大人の自分の声はちゃんと聞こえたのに。

 子供の信勝はぷうと頬を膨らませて子供用のイスの上に立ち上がってビシッと信勝を指差した。

「もうっ、強情だなぁ! 姉上の■■■■になることの何がいけないって……うわっ!?」
「……黙れ」

 それは信勝の声ではなかった。大人の信勝がいつの間にか子供の信勝のすぐそばに立っていた。そしてその襟首を乱暴に掴んで宙吊りする。

「さっきから耳障りだ。誰の許可を得てここにいる? ここは【僕】の場所だ」
「やめてよ! 【ぼく】はぼくだからいていいに決まってるでしょ!」

 そして二人の罵り合いが始まった。大人は口汚く、子供は子供っぽい言葉で相手を責める。信勝はポカンと口を開けた。

(なんだ? 仲間割れ?)

 チャンスかもしれないと信勝は手首を捻って鎖をかちゃかちゃと揺らした。

「大体君の願いって変! どうして姉上からぼくの記憶を消さなきゃならないの!? そんなこと願ってない! ぼくは姉上と■■に……」
「お、おい!?」

 大人は子供の喉を締め上げた。相手は聖杯だと分かっているが子供が乱暴されている図に思わず信勝は制止の声を上げる。

「僕の全ては姉上のためにある。お前みたいな願いを【織田信勝】は持ってはいけないんだ。それなのに何度もチョロチョロと……ぐっ!」

 けれど子供も黙っていなかった。いつの間にか手に持っていた短剣を大人の胸に突き刺した。傷口から血は流れず、闇色のもやが漏れ出た。

「馬鹿な【僕】。知らないの? 全ての大人は子供から生まれる。ぼくを否定したら君は生まれない。君の願いなんて嘘。ただの大人のみっともない自己弁護。姉上だって望んでない。ぼくの願いがもっとも古く、本物の、姉上だって願ってる……」
「うるさい……うるさい! うるさい!」

 大人は頭を掻きむしり、子供の喉をさらに強く締めた。それでも子供はせせら笑う。大人は胸に刺さった剣を抜くと子供の襟首を深く掴んだ。

「お前なんて消えてしまえ!!」

 そう言って子供を思い切り放り投げる。放物線を描いて子供は森の中へ消えてしまった。あまりの事態に信勝がポカンとしていると大人は信勝へと近づいた。

「あいつが戻ってくる前に願え、僕を姉上の記憶から消してほしいと」
「……っ……あ、がっ!!?」

 今度はケーキをぶつけられるどころではすまないかった。

 喉に焼けるような痛み。大人の信勝は信勝の首を掴み、迷いなくフォークを喉に突き刺した。超常空間のためか血は流れないが喉をえぐられるような痛みが信勝を襲う。

「いや、だ……っ!」

 信勝が耐えていると今度は腕にフォークが突き刺さった。

「なぜ願わない? 【僕自身】がこんなに願っているのに」
「……っ! あ、う……っ!」

 椅子ごと突き飛ばされ、草むらに倒れ込む。その上から陶器のポッドを叩きつけられる。中身の紅茶のせいか火傷の痛みが全身を襲った。

 言うものか、お前が汚れた聖杯であることは知っている。そう言いたいが喉を踏みつけられる。

「なぜだ、お前自身こんなに願っているのに。しかし、変なやつだ。願いが二つあるなんて」
「子供の僕のことか……?」
「あいつは僕じゃない。認めるものか……大体お前が……っ!?」

 もう一人の自分がケーキ用のナイフを振り上げる。
 身をすくめるとしゅっと信勝と聖杯の間に一陣の風が割り込んだ。

「信勝さん!」

 それは沖田だった。沖田は刀で大人の信勝の両腕を切断する。そして信勝を拘束する鎖を瞬時に切って捨てた。

「って、あれ? あっちも信勝さんじゃないですか?」
「げぇ、げほっ、僕が、本物だ……あれは聖杯……ごほっ」
「ええっと、ちょっと自信ないですが逃げますよ!」

 そのまま信勝を抱えて逃げようとする。しかし、行く手に黒い液体が人の形を模して立ちふさがった。気がつけば森は闇ばかり。さっき信勝が座っていたイスも溶けておぞましい光を放つ黒い水へと変化していた。

(様子が違うけど、聖杯の泥だ……!)

「信勝さん、動かないでくださいよ」

 信勝が口を開く時間もなく沖田は立ち塞がる敵を数体斬り伏せた。返す刀で隣のもう一体も斬る。幸い敵はそのまま倒れたのでそのまま走る。元々聖杯が支配する空間で勝つ気はない。

(信勝さんを逃がせれば、それで……!)

 しかしその背を黒い刃が襲った。

「……っ!」
「お、おい……!?」

 沖田の背中に痛みが走った。聖杯の泥が鋭い刃となってナイフのように右わき腹に刺さっていた。

(振り返るな、逃げ切る)

「馬鹿! さっさと手当しないと……!」

 信勝がなにか言っている気がしたが、沖田は振り返らない。森の中を血を流しながら走り続けた。






【信勝と沖田】


 森を抜けるとそこは海だった。青と灰色の空の下に白砂と透明な水が広がっている。周囲を見渡したが船らしきものはない。

 森の次は海なんて馬鹿みたいな地形だが、元よりまともな空間ではない。

「下ろせ! いい加減手当をしろ!」

 ぱしゃぱしゃと膝ほどまである浅瀬を一キロは走ったろうか。敵の気配はない。少し安堵するとぐらりと沖田の身体が傾いた。どぼんと抱えた信勝が水に落ちる。

「げほっ、げほっ……おい、しっかりしろ!!」
「……」

 ずぶ濡れになった信勝はなんとか立ち上がる。しかし沖田は立つこともできず全身が水に沈んだままだ。信勝は慌てて沖田の顔を自ら起こして呼吸を確認した。ここは膝程度の深さだが倒れたら窒息してしまう。なんとか座る姿勢になった沖田は唇を伝う水が塩辛くてぼんやりとここは海なのだと思った。

「おい、手当を……お前、その色はどうした?」

 肩を抱いて起きあがらせた沖田の髪は淡い灰色になっていた。それだけではなく、着ている衣服も淡い灰色と濃い灰色になっていた。

 沖田はふっと笑った。

「ああ、ようやく気付いたんですか……私はシャドウサーヴァントなんですよ」
「お前がシャドウ……サーヴァント?」
「全身取り込まれた信勝さんと違って、ほんの一部分の聖杯に取り込まれたんです。「私」本体は外にそのままいます。まさにシャドウサーヴァントです。ま、劣化コピーも劣化コピー。それにすらなれないカゲボウシに近い」
「でもシャドウサーヴァントこんな風に話すことなんてないだろ?」
「こんな風に意志を持っているのはここが特殊な空間だからですかね? ま、信勝さんを助けられたんですから理由は何でもいいんですけど……げほっ」

 元々色の薄い沖田なので異変に気付かなかった。信勝が必死に状況を理解していると沖田はぽつぽつと話した。モノクロの姿はまるで昔の映画のようだった。

「ここは……本当に聖杯の中なのか?」
「そうですね。逆に信勝さんは分からなかったんですか?」
「僕はずっと拘束されていたんだと思う。ずっと聖杯に願いを言えといわれていた。最初は言われているだけだったけどだんだん攻撃されるようになった」
「なるほど、願いを言わせるために閉じこめられていたからなにもわからないんですね……私は森の中で目が覚めて、あの汚れた聖杯の気配と信勝さんの気配を感じて状況を把握したんです」

 助けられてよかったと。
 そう微笑まれて信勝は罪悪感を覚えた。

「どうして僕を助けたんだ? お前にそんな義理は……」
「外で聖杯の泥が押し寄せた時、私は信勝さんの後ろに立っていたでしょう? あなたがいたから私は直撃しなかった」
「……おい、どうして指がこんな風に……崩れて」

 どうやらさっきの攻撃は致命傷だったらしい。
 元々頑丈さには自信がないが、影のこの身体はさらに脆い。一撃受けただけで壊れてしまったらしい。

「ここにいるのは本体から切り離された劣化コピー。だからこんな風にすぐ消えそうです……消える前になにかできることがないか考えていたんです」

 せめて彼を助けられてよかった。モノクロの自分と違って鮮明な色を持つ信勝はおそらくシャドウでなく本物だ。だからこそ、助けがくるまで無事でなければならない。

「信勝さん……このまま逃げてください。時間を稼げば必ず助けはきますよ。なんたって私たちのマスターはマスターですから、それにノッブだって……信勝さん?」

 沖田の制止も聞かず。
 信勝はもう立つこともできない沖田をおぶった。
 そのまま運ばれる沖田の指先はどんどん砂のように崩れていって、水面に届く前に消えていく。





 背中におぶった沖田は見た目より軽いと感じた。シャドウだからだろうか。

「私は本体じゃないって言ったでしょう。どうして助けるんですか?」
「うるさい、怪我人は黙って運ばれろ」
「ほうっておいてくれてよかったのに、私はシャドウサーヴァントですよ? 時間がくれば自然に消えるんです」
「お前は僕を助けて怪我をしたんだ、放っておけるか……お前こそどうして僕を助けたんだ?」
「だって信勝さん、私のことかばったでしょう?」

 ぴたっと一度信勝の足が止まる。そしてすぐ歩みを再開する……分かりやすい男だ。

「何の話だ?」
「あの時、聖杯の泥が押し寄せたとき……信勝さん、後ろに私がいるから動かなかったんじゃないですか? 逃げられそうだったのに足を止めて、なーんか動きが変だったんですよね」
「それは……その」

 確かにあの時、信勝がぎりぎり泥をかわすことができた。でも後ろに沖田がいると思うと動けなかった。

(だってお前といる姉上は生前のどんな時より楽しそうだった)

 どんなに悔しくても、妬んでも沖田と信長は友人だ。生前人に囲まれてもどこか一人だった信長にはいなかった存在だ。

 無論そんな理由口にできない。しかし今から誤魔化すことも難しい。だから適当な理由を探した。

「お前の方が僕より戦力になるから……少し迷っただけだ。それで間に合わなかった。深い意味はない」
「だから私のことは気にしなくていいんですよ。助けられたから借りを返しただけです。ほら、私の腕、右はもう肘までしかない。本当に影なんですよ、時間がたてば灰になるだけ」
「それならお前が灰になるまでは連れて行くだけだ」

 沖田は口をとがらせた。せっかく助けたのにこれでは台無しだ。なにを言って諦めさせようか……。

「私のことが嫌いなくせに」
「な、なんだよ、急に」
「私こそなんでだよです。なんで私って信勝さんに嫌われてるんですか? ノッブとなにか関係があるんですか?」
「……姉上とは何の関係もない」

 全部嘘だ。信勝の世界には信長しかいない。

「嘘ですね、信勝さんはノッブのこと以外何一つ関心ないじゃないないですか。なんですか、お姉ちゃんがとられたとか思ってるんですか」
「違う」
「そういえば私にも姉がいまして……」
「違うって言ってるだろ!」
「……本当に?」

 沖田は生まれつき人の枠を越えていて。
 同じく人の枠を超えた信長の隣に自然に立つことができる。
 生前も死後も、信勝が死ぬほど欲しても手に入らなかったものだ。

 しばらく無言で歩くと信勝は小さく口を開いた。

「嫌いなんじゃない、ただ……」
「ただ?」
「正直に言えばお前が羨ましい。妬ましいといってもいい。その……お前は剣の才能があるんだろう? 天才なんだろう? 僕にはそんなものはなかった。その力が僕にあれば姉上の力になれたのに……」
「ふぅん。まあ、確かに沖田さんは天才ですから」

 力になれればなんて。相変わらずなにかズレている。

「……そうだろ、才能は選べない。天才のことは天才にしか分からない」
「確かに信勝さんの剣筋ヘボヘボですもんね」

 やたら深く頷いててムカつく。

「信勝さんの気持ち、分からなくもないですよ」
「は? お前、なにいい加減なこと言って……」
「私も着いていきたかったのに、最後までついていけなかった」
「なんの話だ?」
「信勝さんが最後までノッブについていけなかったみたいに、私も最後まで新撰組についていけなかった……死ぬ後も続いた後悔です」
「後悔? お前が?」
「なんですか、その意外そうな顔は?」

 信勝は自分が欲しいものを持っている沖田は幸せに決まっていると決めつけていた。
 自分は願いを叶えられない不幸な存在で、沖田は願いを叶えられた幸福な存在だと心に線を引いていた。
 だから才能に選ばれた沖田に後悔したことがあるなんて信じられなかった。

「お前に僕なんかの気持ちが分かるもんか」
「そういえば話したことありませんでしたっけ? 私は土方さんに最後までついて行きたかったんですよ。最後まで新撰組と共にありたかった」
「土方って顔の怖いあいつか。ついていけなかったって、どこへ……?」
「最後の戦いへ。その戦いで土方さんは死にました。近藤さんも……斉藤さんは生き延びたんですけどね。でも生前の私は最後の戦いへいけませんでした。その前に肺の病で倒れ、そのまま死にました」
「病……」
「私も最後まで戦いたかった。最後の戦いに無理にでもついて行きたかった。でも、足手まといになると思うと残るしかなかったんです」
「お前が……足手まとい?」

 自分はずっと姉の足手まといだと思っていた。
 だから信勝は沖田からその言葉が出て心底驚いた。

「信勝さんて不思議な人ですよね。馬鹿なような賢いような……うん、でも自分とノッブのことに関しては馬鹿かもしれませんね」

 信勝がおぶった背中の沖田は薄く笑った。
 沖田はどんどん薄い色になっていった。黒い部分がグレーに、グレーが白に。どんどん全身が白くなっていく。

「私は天才剣士でしたけど、もし健康な体で最後まで戦えたなら信勝さんのヘボヘボな剣筋でもよかったんです。まあ流石にあそこまでヘボヘボだと最後までついて行く前に死んじゃいそうですけど」
「ヘボヘボ、ヘボヘボ言うな……おいっ!?」

 沖田の体はもはやおぶることもできないほど崩壊していた。腰が、肘が、膝が壊れいく。
 すでに全身はグレーの部分すらほとんどなく白の中にかすかに輪郭があるだけ。

 信勝が海の中から助けようとしてもその腕自体がボロボロと崩れていく。
 灰になった体はなんとか海に浮いているだけ。
 せめてすくい上げようとするとかえって波に流されていく。

「シャドウにもなれないカゲボウシって言ったでしょう? そんなに悲しい顔をするなんて妙なところで義理堅いですね。そういうとこノッブに似ているんだか、似ていないんだか……」
「僕を助けたりしたから……そんなことしてバカな奴、どうして」

 信勝が涙を滲ませながら憎まれ口を叩くので沖田は苦笑いをした。

「誰のせいかなんてどうでもいいことです……信勝さん、諦めちゃだめですよ」
「……なにをだよ?」
「信勝さん、ノッブに最後までついていきたかったけど無理だったんでしょう? 私もそうだったんです。病で無理になってしまった。
 だからサーヴァントになった時、今度こそマスターと最後まで戦いたいと願いました。だから信勝さんもノッブに最後までついていくの諦めちゃだめですよ」
「……お前、どうして僕は今になって」

 信勝は気付いた。妬みと眩しさで気付かなかった。

(同じ気持ちを持ってるってどうして気付かなかったんだろう)

 いつもマイペースな沖田にも叶わぬ願いで苦しんだことがあるのだ。
 それを英雄だからと苦しみなんてないと決めつけていた。
 自分は無能だとわきまえているフリをして他人の苦悩をちゃんと見ようとしなかった。

「外の私だって土方さんや斉藤さんにまた会えた。これは奇跡です。信勝さんがノッブにまた会えたのも奇跡で、たまたまです。次なんてあるか分かりません。人生と一緒ですね。だから信勝さんは必ずノッブのところに帰らなきゃ」
「どうして笑ってるんだ……僕はお前に苦しいことがあったことすら気付かなかったのに」

 ただのカゲボウシで放っておけば消えると言ってるのに、いちいち、いちいち……優しすぎる。信長が不器用に接している気持ちも分かる気がした。

「いいこと言ってるのにうるさいですねえ……今言ったでしょう。ノッブの傍にいてほしいんです、それだけですよ。この身がシャドウに過ぎないならなおのこと。ほら、信勝さん、もう召還されないかもしれないんじゃないですか。聖杯なんかにせっかくのチャンスを奪われちゃ駄目ですよ」
「お前の方が……僕なんかよりずっと姉上の傍にふさわしいのに。僕のことなんて見捨てていればよかったのに」

 もう消えかけた手で。
 沖田は信勝を平手打ちにした。

「ふさわしいとか関係ありません、ノッブが信勝さんの傍にいたいと願っているじゃないですか。才能なんかよりずっと大切なことですよ」
「姉上が……僕がそばにいることを願ってる?」
「そうですよ、こんな無茶苦茶な世界でまた会えたんです。当たり前じゃないですか」
「……嘘だ、勘違いだ、お前は僕を哀れんで都合のいいことを言っている」

 沖田は崩れた顔でため息をついた。

 自己否定を続けた信勝は。
 現実が優しいとそれを嘘だと決めつけて目を逸らす。
 自分の辛い気持ちの方が世界の真実だとかえって自己否定から出られなくなっている。

「じゃあ、試してみればいいじゃないですか」
「ため、す?」
「助けられた私に恩義を感じているんでしょう? じゃあ、ノッブに聞いてきてください。僕が傍にいてほしいですかって」
「そんなの、聞くまでも……」
「いいから。私が死んじゃいそうなのは信勝さんのせいなんでしょう? なら言うことを聞いてもいいじゃないですか」
「だって……」

 だっての先は見つからなかった。
 理由が自分が怖かっただけだからだ。
 その姿を見て沖田はふっと全身の力がゆるんだ。

「ああもう、こんな情けない姿、ノッブに見つかる前で……よか……た……」

 弟には弟の気持ちがあるように。
 好敵手には好敵手の気持ちがあるのだ。

 そうして沖田は海の泡に消えた。

 信勝はそれを見て泣いた。僕のせいだと泣いた。
 数度それを繰り返して自分のことばかりだと口を押さえた。

(あいつにも叶わない願いがあったなんて考えたこともなかった)

 他人を勝手に決めつけて理解しようとしない。
 これ以上ないほど嫌いだった自分をさらに嫌いになった。
 信勝は涙を止められなかった。

 けれど。
 沖田が最後に「信長に聞け」と言ったから。
 泣いたままでまた歩き始めた。





【姉と弟1】



 信長はこれ夢だと直感的にわかった。

「僕の人生ってなんだったんでしょう?」

 ぼんやりとした空間だった。そこにあるテーブルを挟んで信長と信勝は座っていた。しかし全てはぼやけていて顔の輪郭すら曖昧だ。

 声だけはやけにはっきり聞こえた。

「あんなに苦しかったのに全て無意味だったんでしょうか。ではどうすればよかったんでしょう? 崖から身を投げればよかったんでしょうか?」

 信勝は縮こまってイスに座っていた。ぎゅっと拳を握って膝の上で震わせている。表情は思い詰めていて、視線は定まっていない。

「一度目の謀反の後に出家すればよかったのでしょうか? それで僕を担ぎ上げる連中はいなくなったのでしょうか?」
「……そううまくはいかんかっただろうな」

 なんど考え直しても。
 あの頃の自分たちの状況は最悪だった。

「あなたの役に立ちたかったんです。死ぬことだってちっとも怖くなかった。足手まといの僕でも一度は姉上の役に立てると思った……それがあなたを苦しめたなら僕の人生はなんだったのか」

 信勝は背中を丸めて俯いた。前髪で隠れているが涙が数滴こぼれ落ちる。

「あなたと僕は違いすぎて、遠すぎて、置いて行かれるのが怖かった。だからどこかへいってしまう前にあなたを悪く言うやつらを、あなたを悪く言わせる僕を、消してしまいたかった」
「迷惑だ」

 信勝の瞳が凍り付いた。

「そんなことを望んでいるとわしがいつ言った? 一度でも言ったか? 言うものか。死んでも言うものか。全て……何一つ言わなかったお前の思い込みではないか!」

 夢だからだろうか。今までとてもこんなことは言えなかった。
 明治維新でずっと味方だったと言われた時、確かになぜそんなことをしたと思った。けれど自分の無策のせいだと自制して、ただ「すまんな」と謝った。
 あの時隠した心が今更こぼれ出る。

 信長は拳で机を殴った。

「殺すとか、死ぬとか。そんな、そんなことを一人で勝手に決めて……全部お前の一方的な感情の押し付けではないか!」

 その時だって思った。
 置いて行かれる方はどうすればいいのだと。

「教えてください、姉上。僕はどうすればあなたを苦しめなかったのか……僕はどうすればよかったのですか?」

 袖で目元を拭うと信勝はもう一度前を向いた。

「わしが信勝に望んでいることは……」
「……」
「なにもない」
「……え?」

 してほしいことなんてない。いればよかった。







【信長とアンデルセン】



 ばしゃんと水が弾ける音がした。

「……信勝!」
「残念だな、俺だ」

 信長は海の中からがばりと起きあがった。海? 信勝はどこにいったのだ。

 声がしたので振り返ると見覚えのある人物が立っていた。青い瞳と青い髪の子供。それに似つかわしくない皮肉っぽいしゃべり方。

 童話作家のアンデルセンだ。そういえば信勝以外のサポートタイプ・サーヴァントとして唯一あの特異点に参加していた。

「げほっ」

 信長は少し飲み込んだ海水を吐き出す。周囲は視界の果てまで浅瀬の海だった。空は白い霧が立ちこめて見えない。立ち上がると膝下程度の深さの水の下に真っ白な砂が広がっていた。

「いやはや、助かった。海の中で息をしていないからどうしたものかと思っていたが、目が覚めたならなによりだ」
「これはどういう状況じゃ、信勝はどこに……というかなんじゃ、その珍妙な格好は?」

 信長がびしと指差す。童話作家は胴体に淡いピンク色のリボンを何本もぐるぐる巻きにしていた。アンデルセンは少しばつの悪そうな顔をする。

「仕方ないだろう、これは命綱だ。俺もこのデザインはどうかと思うがこの空間にはいるといつのまにかこうなっていたんだ。しかたあるまい。お前風にいうなら是非もないというやつだ」
「命綱?」

 よく見ればアンデルセンのリボンの端はどこまでも長く、空の果てまで続いていた。

「このリボンはカルデアとの繋がりだ。この繋がりがあれば異空間でも外に出ることができる。あと簡単な通信もできる」
「異空間じゃと?」
「ここは聖杯の泥の中だ。俺は直接見てないがマスターから聞いた。お前の弟は聖杯の泥に飲まれて溶けた。そしてお前はそれを追って泥の中に突っ込んだ。そして俺が救援役として選ばれたというわけだ。このリボンはさながら嵐の中に投げ込まれた浮き輪のひものようなものさ」

 こういう話だった。

 信勝と信長を助けるためにマスターは全力を尽くした。信勝が溶けた後、聖杯は攻撃性を失いただ不気味に泥だけが増え続けるようになった。泥の中をスキャンしたが聖杯はない。内部に異空間を作り、そこにこもっているらしい。そしてその中に信勝も信長もいると立香は魔力の繋がりから判断した。

 カルデアからの解析で聖杯は半分は破壊されたが、もう半分は信勝を取り込むことで活動を続けていると判明した。

「聖杯が信勝を取り込んだじゃと?」
「あの聖杯は全ての願いを叶えるように願われた。だから今度はお前の弟の願いを叶えるつもりらしい。そうすることで力を取り戻そうとしている。願いを叶えるための力が願いを叶えることで力を増している。歪みってやつは恐ろしい、目的と手段が反転しているというやつだな」
「どうして……それが信勝なんじゃ?」
「分からん。たまたまかもしれんし、聖杯なりに選んだ理由があるのかもしれん」

 しかし信勝は願いを叶えるのを拒否し続けたらしい。願いを叶え続けることで歪み果てた聖杯は信勝の精神に魔力で干渉し続けた。願いを言え、言え。しかし抵抗を続け、やがて心をバラバラにされた。

「そうしてできたのがこの海だ」
「どういう意味じゃ?」
「これがお前の弟の精神のなれの果てだ。願いを拒否し続け、魔力で干渉され続けてこういう形になったらしい」

 信長は真っ青になって足元の海を見た。

「これじゃ……心を殺されたということではないか?」
「いいや、精神そのものは壊れてない。壊してしまうと願いをいえなくなるからな。
 いやはや、俺も途方に暮れていた。ひもを括り付けられて助けにきたものの相手が海ではひもを結ぶ場所もない。うろうろしていたら見覚えのある女が沈んでいて驚いた……ああ、これを結んでおけ」

 アンデルセンは胴体に結ばれたピンク色のリボンの一つを信長の右手首に結びつけた。きゅっと結び目ができるとかすかに懐かしい魔力が流れ込んでくる。


……「……ッブ……ノッブ! ……」……


「マスター……?」

 リボンの感触と共にかすかに立香の声が鼓膜に響いた。同時に魔力が流れ込んでくる。宝具で魔力を使い切った信長の体に力が宿る。

「これでお前は外と繋がった。聖杯にみつかっても一方的に泥に飲み込まれないですむ。長さは気にするな、いくらでも伸びる」
「この魔力はマスターか……?」
「お前たちのことをそれはもう心配していた。これがあればいつでも戻ることができるし、深い場所まで進むこともできる」
「深い場所?」

 アンデルセンは渋い顔をした。

「どうする? お前だけならこのまま戻ることができるぞ」
「は? 今は冗談を聞く気分ではない」
「このまま弟を助けると俺がお前に恨まれるかもしれんのでな」
「どういう意味だ?」
「カルデアからの織田信勝救出プランがある。しかしそれをやるにはお前の協力が必要だ。そこでお前には気まずい犠牲を払ってもらわねばならない」
「犠牲? 霊核が砕け散ろうがかまわぬ、わし一人の犠牲ですむなら支払ってやる」
「……そういう英雄的なタイプの犠牲ではないんだが」

 アンデルセンは軽くため息をついた。

「ま、ここで帰るなら最初からあんな泥の中に突っ込んだりしないだろうがな」
「信勝が生きているなら連れ戻るまで帰る気はない。カルデアからのサポートがあるなら遠慮なく使わせてもらう。……しかし、どうしてお前なんじゃ?」
「俺だって望んだワケじゃない。だがマスターの頼みだ。俺の宝具が一番救出に向いているとダ・ヴィンチも判断したしな」
「お前の宝具じゃと?」
「お前はまず休め。右腕がないままじゃないか、これでも食って今は回復に専念しろ。こんな形だが魔力回復アイテムだそうだ」

 しばらく休めとアンデルセンはサンドイッチを取り出した。信長はまだ焦りはあったが、戦いはこれからだからと渋々それを食べた。






【雪の女王】


 サンドイッチはすぐになくなった。魔力リソースにすぎないからか味はあまり分からない。けれど食べ終わる頃には信長の右腕は元に戻っていた。

(この海が信勝の精神……さっきの夢はこの海に沈んでいたからか?)

 ただの悪夢にしてリアリティがあった。それにあれは死ぬまで弟には言わないつもりの言葉だった。

「それで信勝の救出とお前の宝具がどう関係するんじゃ、アンデルセン?」

 アンデルセンの宝具。貴方のための物語。それは物語を書くことで対象を強化するものだ。それが聖杯に取り込まれた信勝を助けるためにどう役に立つのかさっぱりわからない。

「いいか、簡単な手順はこうだ。俺がお前に宝具を使う。お前は織田信勝の心に潜り、彼を探し出す。見つけたらこのリボンを彼にも結びつける。以上で連れ戻すことができる」
「そ、そんな簡単なもんか?」

 可能性がある限りマスターは信長も信勝を諦める気はない。例え全身が溶かされ、心をいじられて海になってしまってもだ。

 しかし聖杯の泥の内側で海になってしまった信勝をどうしたら連れ戻せるか、ダ・ヴィンチちゃんも悩んだ。そこで目を付けたのが後を追った信長とアンデルセンだった。

「無論簡単ではない。なにせ弟はこの海だ。雲ならぬ海をつかむような話だ……だからお前を「魔に魅入られた少年を助け出す少女の冒険」という物語で強化する。お前はそれで海になった弟から心の核の部分を探す力を得ることができる」
「少年と……少女ぉ?」
「仕方ないだろう。急拵えだ。外見と精神年齢が一致しないのはお互い様だ。つまりこの状況に物語を付け加えることで助ける道を作るのさ」

 それに幸い彼女は信勝がもっとも心を向けている相手だ。例えバラバラにされても心を自ら近づける可能性は高い。

「バラバラにされた心の核を持ち帰らんと精神崩壊した状態になるだけだぞ。幸い弟はお前のことばかり考えているそうじゃないか。心をバラバラにされてもその破片自体が近づいてくる。砂場に巻いた砂鉄を磁石で集めるようにな。お前は近づいた相手にリボンを結ぶだけでいい」
「色々納得できんが……それでわしの犠牲とは?」

 信長が疑わしげに顔をのぞき込むとアンデルセンは顔を逸らした。

「俺の宝具のアレンジ版で「雪の女王」という強化をかける。生前に俺が書いた物語だ。本来はお前自身の為に物語を書かねばならんがそんな複雑な物語を書く時間が足りないかつ、お前の弟の要素を入れねばならんが本人がここにはいない。だから俺が生前書いた、この状況を打開できそうなシナリオの物語を選んできた。まあそのラストがお前は気に入らないだろうという話だ」
「雪の女王のう……どういう話だ。申してみよ」
「ある日、魔に魅入られた少年が仲良しの少女に冒険の末救出される話さ。この状況に向いているだろう?」

 そしてアンデルセンは雪の女王のあらすじを話し始めた。


雪の女王 あらすじ

 あるところにゲルダという少女とカイという少年がいました。二人は仲良しでいつも一緒でした。

 けれどある日カイは変わってしまいました。心は冷たくなり、いつも世の中を斜に構えてみるようになりました。

 原因は悪魔が魔法の鏡を作ったことでした。鏡が割れたことで世界中に破片が飛び散り、その破片の一つがカイの目に入ってしまったのです。破片はそのまま身体に入り、心臓に突き刺さりカイは冷たい心の持ち主になってしまったのです。

 変わってしまったカイはゲルダにすら冷たい言葉をかけます。そしてある日雪の女王に連れ去られてしまいました。

 ゲルダはカイを取り戻すために旅に出ます。魔女の花園、お城の王子と王女、山賊のすみかとその娘、トナカイの背中。

 その全てを超えてゲルダは雪の女王の城に辿り着きました。

 城には雪の女王はいませんでした。留守だったのです。

 そしてゲルダはカイを見つけます。少年を見つけた少女は抱きしめ、そして涙をこぼしました。するとカイの心臓から鏡の破片が抜け、心が元に戻りました。

 二人は一緒に帰りました。


                           おしまい



 信長は眉根を寄せた。このあらすじを追うと言うことはつまり。

「おい……わしの犠牲ってまさか」
「ああ、つまりお前は弟を見つける力を得られるが、弟を見つけたら涙を流す。一応本筋では少年を見つけた再会の喜びのあまり涙が溢れるんだ」
「わしがあいつの前で泣く?」
「想いのこもった少女の涙が少年の凍った心を溶かす物語なんだ。その涙に力を与えて織田信勝を聖杯から引き剥がす。ゲルダが雪の女王からカイを取り戻したように……一つ断っておくが俺だって好きでこうしているんじゃないぞ。ストーリー上それは外せないんだ」

 アンデルセンはカルデアの姉弟の姿を思い浮かべた。気の強い姉と気の弱い弟。信長自身のプライドも高い。弟の前で泣けなんて絶対にいやがるだろう。

「いいぞ」
「即答だと!?」
「他に方法がないのだろう? 気は進まんが引っ叩くよりマシだからじゃ……最近引っ叩いて後悔しておったところでな。まあ仕様なんじゃろ、許す」

 信長はプライドは高いがそれ以上に合理主義者だった。アンデルセンは話がスムーズに進みすぎて混乱した。

「ま、まあ、いい、それではかけるぞ。手を出せ」
「うむ」
「……ではお前の人生を書き上げよう……タイトルは雪の女王。それはある少年と少女の物語……悪魔の鏡、雪の女王、魔女の花園、王子と王女、山賊の娘……」

 ぐだぐだな雰囲気だったがアンデルセンは宝具を発動させた。読み上げられる言葉に信長の脳裏に少年と少女が遊ぶ姿が浮かぶ。優しい色合いの光が信長を包み、周囲に光る雪が降る。

(雪の女王か。わしは少女というよりそちらっぽいがな。魔王だし)

 宝具の力だろうか。不意にある風景が脳裏を掠める。幼い頃、雪の日に弟と庭で遊んだ記憶だった。

「一応、終わったぞ」
「なんじゃ、もう終わりか? あんまりパワーアップした気がせんのじゃが?」
「パワーアップはしない。あくまで聖杯に囚われた弟を見つけ出し、引き剥がして連れ帰るための力だ」

 信長はじっと手を見つめる。弟を取り戻す力が宿ったのだろうか。

 アンデルセンはそんな信長をじっと見ると胴体に巻かれたリボンを解いた。そして信長の手首に追加で三本結ぶ。

「持っていけ。これはお前の弟に結ぶ分と後は予備だ。一応、願えば俺の場所までは戻ってこれる」
「そうか、準備がいいことじゃな……ん」

 そうだ。相手がアンデルセンなら訊きたいことがある。

「どうしてあんな話を書いた?」
「なんのことだ?」
「人魚姫とかいう話を書いたんじゃろ」
「……こんなところにも読者がいるとはな。あれはな、悪ノリだ、悪ノリ。リア充爆発しろと思って書いただけだ。やりすぎて若干反省している」
「……はあ?」
「それ以上の意味はない、深読みしてるなら残念だったな」

 アンデルセンはそっけない。
 それでも信長は食い下がった。

「人魚姫の姉はどうなった?」
「姉?」
「そうじゃ、お前は作者じゃろ。人魚姫の姉は願いを叶えられなかったから泡になったのか?」
「これはこれは熱心な読者だな、残念だが姉のその後なんて考えたことはない」
「……は?」
「人魚姫は人魚姫を書くための物語だ。だから最後に姫の決意を示すために姉を登場させたが彼女のその後のことなど知らん。読者はいつも余白のことを考えすぎる」
「ふざけているのか?」

 信長が怒っている。泣く宝具をかけた時も平然としていたのになぜ。しかし作者だって知らないことはあるのだ。

「設定に忠実考えるなら、まあ泡になったんじゃないか? もうその先はお前たち読者の自由だ。好きに決めてくれ」
「……ふん、作家とやらの考えはわからん」
「いいじゃないか。書いていないことは読者の想像の数だけ許される。それが物語の特権だ」

 アンデルセンは宙からペンを生み出してけらけらと笑った。

「好きに……例えばどこかで人魚姫と再会できたとか?」
「お前が思う分にはそれは自由さ」
「自由……」

 カルデアで信勝にまた会えたように。
 人魚姫の姉妹もどこかで再会したと勝手に想うことは自由なのか。

 信長が妙に考え込んでしまったのでアンデルセンはさっさと義務を果たすことにした。

「追加サポートをつけてやる。お前の弟への気持ちを聞かせろ」
「なんじゃそれは」
「コンパスを作る。お前に宿った力に形を与えて使いやすくするのさ。なんでもいい。お前の弟への感情が先を指し示す光になる」

 助かってほしい。そう言おうと思った。けれど信長は遠い昔の感情を口にしていた。

「大したことではない……どこかで静かに暮らしてくれればそれでよかった」
「……ほう」

 幼い頃の笑顔のままでいてくれれば手元になくてもいい。

「小さな願いだ、ただ遠くで幸せでいてくれればよかった」
「……そういう願いは叶わない」

 無意識にアンデルセンは本音を口に出して即座に後悔した。ばつが悪そうに顔を背けると信長は食い下がった。

「叶わぬ? なぜじゃ?」
「そういうのは弱虫の見る夢だからさ」
「弱虫……それはわしにいうておるのか? 貴様、あまり侮るとタダではおかんぞ」
「遠くで幸せになってほしいなんてのは大それた願いだ、それを小さいものと勘違いしているのは好かん」
「大それた……願いじゃと?」

 アンデルセンと信長はそう面識はない。お互いにカルデアの初期からのメンバーだが数回会話した程度だ。

 親しいわけではない。アンデルセンはしばし迷ったが最終的に信長の顔を見上げた。

「昔、ある弱虫の男がいた。男はある少女の幸福を願っていた。男はただ少女の時々会いにくるだけで直接幸せにしようとはしなかった。絶望的な日々の中でも少女は不幸の中にあってもいつかくる幸福を信じていた。そしてある日、男が信頼する富豪の男に愛され、少女は妻となった。弱虫の男は喜んだ。これで彼女は幸せになると。しかし彼女は数日後死体になって見つかった。
 そんなものだ、どこかで幸せになってくれなんて願いは」
「……それはお前の書いた物語か?」
「いや……俺の話だ」

 アンデルセンは信長から視線を外した。

「お前はどうだ? その願いは叶ったのか?」
「……いいや」

 どこかで幸せになって欲しかった信勝は信長の目の前で腹を切って死んだ。

「そんなものさ。どこかで幸せになってほしいなんて願いの末路は」
「……なら、どうすればよかった」
「さあな、俺は弱虫だからわからん。人は愛さないと決めているのさ。ただ夢想した事はある。俺自身の手で幸せにしようとしていればもっと違った結論になったのではないかと」
「自分の手で?」
「俺は自分の手で彼女を幸せにできない現実を見るのが怖かった。ただ自分の手を伸ばせばなにか少し変わったかもしれない。ほんのわずかでも幸せを感じる時間を増やせる可能性はあった……それはどこかで幸せになってほしいなんて願いよりは余程叶うと思う」
「ふん……自分にできないくせに言いたい放題じゃな」
「作家なんてそんなものさ。自分にできないことを登場人物にやらせるものだ……ほら、コンパスができたぞ」

 アンデルセンの手には光る球体が生まれていた。信長が受け取って見つめるとその中には小さな灯りと緑色の矢印が入っている。ほんのりと温かい。

「そら、これが俺の宝具の力だ」
「しかし、このコンパスだけでどうやって? ……!?」

 地響きがした。気がつくと信長の傍らの海に大きな真っ黒な穴が空いていた。そして穴の中から大きな岩が浮かんでくる。

 現れたもの。それは洞窟の入り口だった。

「これが俺の宝具の力。お前の弟の心の中に入り込み、一番核になる心へと導く。今は洞窟の形をとっているがどんなに形を変えてもお前を弟の元へ導く」

 信長はごくと唾を飲み込んだ。宝具の力は本物だ。これなら信勝を取り戻すチャンスがある。

「もう一度だけ警告する。弟の心の中には見たくない本音があるかもしれない。家族なんていうのはそんなものだ。一番近しいから見せたくないものは隠すんだ。家族の隠している秘密を見る覚悟はあるか? 正直、下手に仲がいいほどショックかもしれないぞ」
「何度も言わせるな。他に方法がないなら迷わぬ……それに」
「それに?」

 それにここでなら信勝が「聞こえない」理由が分かるのでは。

「いや、なんでもない。コンパスのことは礼を言う、ではここで待て」
「リボンを解くなよ、それがないと戻って来れないからな」
「分かっておる」
「雪の女王はハッピーエンドなんだ、なぞらえた以上バットエンドだけは避けてくれ」

 そうして信長は洞窟の奥深くに足を踏み入れていった。







【姉の伝えたかったこと】


 信長はずいぶん長く暗い洞窟を一人歩いていた。

 ぽつりぽつりと水音がして、歩いても歩いても岩ばかり。
 光はなくアンデルセンに渡されたコンパスの光だけが頼りだ。

 ここは聖杯の泥の中。そして信勝の心の中。バラバラにされたという心の核は見つけることができるのか。

 コンパスの矢印は下へ下へと指差し続けている。

「信勝……ここにもおらんのか!?」

 進んでは大きな声で闇の中で呼び続けた。時計はないがおそらく一時間以上こうして洞窟を進んでは止まってを繰り返している。

 ため息をついて足を進めようとした。すると風に乗って小さな声が聞こえた。

 ……あねうえ?……

「信勝、そこにおるのか!?」

 信長は弾かれたように走り、濡れた岩に滑りかける。ぐっと息を吸うと慎重に声の聞こえる方に降りていく。

 すると広場のような場所にでた。

 岩をくり抜いた広場で足場も平らだった。水よりも一段高い場所にあり、濡れてもいない。そして広場の中央には篝火が焚かれている。

 その横に信勝が立っていた。洋装の軍服ではなく、尾張の時代のような着物に袴だった。今の信勝より少し背が高い気がした。

「信勝……!」

 服装に違和感はあるが確かに信勝だ。安堵した信長は駆け寄るが信勝は全く違うものを見ていた。

「僕は姉上が大好き! 姉上のためならなんでもできる! だから姉上にも僕を■■になってほしい!」

 信勝の目の前にいるのはもう一人の子供の信勝だった。にこにこと笑って懐かしい昔のよう。大人と同じように着物に袴を着ている。

 信長が手を伸ばすとその前にもう一人の大人の信勝が動いた。

「黙れ」

 大人の信勝は持っていた日本刀で子供の信勝を斬った。脳天から一閃。信長の目の前で子供の信勝がバターのように左右真っ二つになった。

「貴様……どうして!?」

 切り裂かれた子供の信勝は血一つこぼさず、切り口からは真っ黒な闇がこぼれ落ちた。

 ありえざる空間だからだろう。左右に切り裂かれた子供の信勝はまだ生きてぴくと指先が動いた。切り裂かれた断面は黒い影があるだけだった。

 そして右側の信勝はこう話した。

「僕は姉上が大好き! 姉上のためならなんでもできます」
「そうだ。僕はこっちだけあればいい、もう半分はいらない」

 大人の信勝は「なんでもする」といった右の自分を抱き上げる。そして左の自分に再度刃を振るった。

「やめよ!」

 信長は左の信勝を庇った。ここにいるはずがない姉の姿に弟は動揺した。その隙に左の信勝を胸に抱き上げる。

 左の信勝もまだ生きていた。かすかに息をしていてる。

「……姉上? どうしてここに」
「やめろ。これはお前ではないか、なぜ傷つける?」
「それは姉上には必要ない存在だからです。だから僕もいらない」

 気がつくと信勝が選んだ方の子供は笑っていた。

「姉上、僕はもう弱い弟じゃなくなりました。ダメな【部分】がなくなった。どんな邪魔者も殺してみせます。例えそれが僕自身でも!」

 無邪気な笑顔なのにどこか恐ろしい。その笑顔には心当たりがあった。宝具を使うときの信勝だ。

「僕には半分しかいらないんです、こっちの僕さえいればいい。その【部分】は捨てたんです」

 大人の信勝はもう一度刀を構えた。その刃の先は捨てた自分へと向けられている。

 ぱんと信長は平手打ちをした。大人の信勝は目を丸くした。

「勝手なことを言うな! これはいるだのこっちはいらんだの……わしはお前を必要としておる!」
「それを昔思いましたか?」
「……っ」

 大人の信勝は一瞬悲しい目をしたがすぐに乾いた目に戻った。

「いいんです、僕は自分のことは諦めたから。……人生なんてそんなものでしょう? 願いが叶う人間なんて一握りです。そいつもさっさと諦めればいいのに」
「■■、■■■■■■■■……■■■■■!」

 信長の胸に抱いた信勝が意味不明の言葉を吐いて一筋の涙をこぼした。

「このままならお前は自分を殺し続けるのだろう? なら放っておけるか」
「ああ、どうしてこれはいつまでも死なないのでしょうね……何度も殺しているのに!」

 信長がわざと見せた隙に信勝は刃を振るった。思い切り空を切る信勝を横目に広場を駆け抜けた。

「そんなにいらぬと言うのならわしが貰うぞ!」
「どうしてですか姉上! どうしてそんな邪魔なだけの存在を……!」

 信長は弟の捨てた願いを抱きしめて闇の中を駆け抜けた。





「……撒いたか」

 大分走った。逃げた先に洞窟の横穴をみつけてそこに入る。岩陰から覗き見るが大人の信勝は追ってこないようだった。

 信長は洞窟の岩の一つに半分になった子供の信勝をもたれさせた。手当てをしたいが道具もないし、真っ二つになった状態になにができるわけもない。

(これが信勝の捨てたい自分……?)

 子供は何も言わず虚ろに宙を見ている。

 信長は自分の頬に手をやった。乾いている。

(涙が出ない。これは信勝ではない?)

 信長はアンデルセンに渡されたリボンを一つ解いてその信勝の手首に巻き付けた。しかしうまくいかない。手首は砂のようで、巻き付ける手応えはあるのだがすり抜けてしまう。

(さっきの大人の方が本体か? そもそもなぜ何人も信勝が……これがバラバラにされたということか?)

 しかしそれでも手応えはある。信勝の心の一部には違いないのではないだろうか。

 もう一度信長がリボンを巻こうとすると信勝は手首を引っ込めた。相変わらず半身はなく切り口は闇に包まれていたが、半分になった唇でちゃんと言葉を紡ぐ。

「置いていってください、どうして助けたんですか?」
「なにをいうとる、ちっとも重くなかったぞ? 逆に軽すぎて落とさんのが大変だったがな」

 実際本一冊ぶんあるかないかの重さだった。信勝は幼い顔に似合わない冷めた顔で首を横に振った。

「いいんです、どうせ僕の願いは叶わない。あいつが僕を殺したいのも当然なんです。僕もずっと死にたかった……」
「させぬ」

 信長は欠けた信勝を肩を抱いた。子供なので随分小さい。その上真っ二つのままだから酷く歪つな感触だ。

「僕は死ななきゃいけないんです。もう大人になるから子供の自分は捨てないといけないんです。子供のままじゃ何もできないから」
「あのなあ、信勝」
「姉上、僕を誤解してます。僕は可哀想じゃない。ただ大人になったのです。大人になってやるべきことをやらないと」
「ずっとお前に言い忘れていたことがあった」
「……?」

 信長は柔らかい笑みを口元に浮かべていた。半分になっても信勝は幼い日の面影を十分に残していた。だから信長の心もその頃へ帰っていた。

「子供の頃、お前はとてもかわいい弟だったんじゃ」
「……は?」
「毎日後ろをくっついてきてうざったくて、でも転ぶと気になって振り返った。姉上姉上とうるさくて、でも風邪をひいて静かになると妙に落ち着かない。ついヘラヘラするなと言ってしまったが、笑っている顔は誰よりもかわいいものじゃった」
「う、嘘です……僕はずっと姉上の足手まといで……」
「母上に疎まれて家族とはそんなものかと思っていたがお前が家族にいてわしは随分救われた。ついうざったい態度をとってしまったが信勝と遊んだ日々は楽しかったよ」
「僕は凡人でちっとも姉上の言うことが分からなくて……父上が死んでからは姉上を悪く言う道具にされて……か、かわいいなんて嘘です!」

 よかった。この信勝にはちゃんとこの言葉が届いているようだ。やはり本体ではないからだろうか。それともここが聖杯の異空間だからだろうか。

 それでも言葉が伝わるのは嬉しかった。

「たわけ者。お前はわしの言うことを嘘とばかりいいおって……だがわしも言ってなかったな。信勝はわしの誰よりもかわいい弟じゃった、一番そばに帰りたいと願った家族だった」
「そんな……」
「そんなことを言い損ねたから……こうなったのかのう」

 アンデルセンの言葉を思い出す。

「弱虫の願いか。どうせ分かり合えぬ。ならわしだけが知っていればいい、どこかで幸せにと思っていたのが……間違いじゃったのかのう」

 子供をあやすように信長は信勝をしっかりと抱きしめた。
 何度もその髪を撫でた。

「かわいいよ、お前が、笑った顔が。それはあんまりにも当たり前のことで一度も言ったことがなかった」

 信勝はもう嘘だとは言わなかった。

「信勝、この姉を置いていくでない。かわいい弟がいないと姉はつまらんのじゃ」

 信勝の頬に涙がこぼれ始めた。そしてしゃくり上げ始める。

 その言葉が何かの引き金になったのか。
 砂のようだった信勝の手首にようやくリボンを巻くことができた。

(かわいいなんて昔何度も思ったのにのう)

 不思議な気持ちだ。自分の中にはずっとその気持ちがあったのに弟に伝わったのは今が初めてなのだ。

 これでよかったのか分からない。
 この信勝が探すべき本体ではないかもしれない。あの大人の方から逃げてよかったのだろうか。

 しかし今はただかわいいと伝えられたことが嬉しかった。





【むかしのはなし】



 思えば無償の愛というものを与えてくれた家族は弟だけだった。


 弟が産まれた日の記憶は曖昧だ。信長も三歳になったばかりの頃だった。

 その頃はまだ態度が柔らかかった母が「×××、あなたの弟が産まれましたよ。こちらへいらっしゃい」と呼ばれた時のことは覚えている。その頃呼ばれていた女の幼名は思い出すことができない。数年後に信長は父に才覚を見いだされ、男の幼名となった。

……「ほら、手を握ってやりなさい」……

 信長の目の前には白い産着にくるまれた赤子がいた。生まれて一月も経っていなかったと思う。まだ目も開いておらず、動きもぎこちなく居心地が悪かった。

 触れれば傷つきそうで近寄りたくない。

(……これが弟……?)

 赤子はよく泣くと聴いたが弟はあまり泣かなかった。指を一本差し出すと弱い力で握られ、少し笑った気がした。







「あねうえ?」

 いつの間にか言葉を喋るようになっている。

 数年後、弟はよたよたと歩くようになっていた。正直存在を忘れていた。信長はまだ女として育てられていたが、行動が無茶苦茶ですでに母と溝ができていた。逆に妙に目にかける父を不気味に思っていた。

「あねうえ、あねうえでしょ? ねえ、いかないで。いっしょにいて」
「馬に乗るんじゃ、赤子は連れていけん」

 無論、まだ子供の信長も馬に乗るのは許されていない。こっそり乗るのだ。赤子など連れて行けばすぐ泣いてバレる。

「やだ! いかないで、あねうえ! いかないで! あねうえ……うわああああああん!」
「ば、馬鹿者! 泣くな! バレる!」

 置いていこうと走り出したがますます弟の泣き声は大きくなる。結局その日は全てバレて、馬には乗れなかった。

「あねうえ、あねうえ」

 さんざん二人で叱られたのだが弟は姉が傍にいると分かるとずっと笑っていた。







「姉上、僕も行きます! ……あ、置いていかないでください! 姉上! 姉上!」

 さらに数年後。気がつけば弟は走るようになり、言葉もしっかりしていた。信長はすでに男として育てられ、吉法師という男の幼名をもらっていた。信勝はその頃は勘十郎という幼名で呼ばれていた。

「いかないでください! 姉上! 姉上!」
「……お前はいくつになっても言うことが変わらんな」

 結局連れて行くことになり、途中で転んで泣くので手を引いて帰った。

 弟は足は遅いし、すぐ泣く。十になるまではすぐ病気になり、すぐ母を心配させた。すでに仲が最悪になっていた母は信長に弟を連れ出さないように何度も言っていた。

 余計母と仲がこじれている。多分、一緒にいない方がいいのだ。それなのにどうして弟はいつもいかないでと言うのだろう。

(……それに)

 どうして信長はなんだかんだと弟を一緒に連れて行ってしまうのだろう。







「……姉上」

 寺から自室に帰るとそんな寝言が聞こえた。

 信長が十を少しすぎたことだろうか。帰ると弟が部屋の中で寝ていた。いつものように姉を待っていたのだろう。

「人の部屋でよく寝る奴だな」

 信長は珍しく弟に自分から近づいた。眠っている弟の頭を膝に乗せ、その頭をなでた。顔をじっと見るとそっくりで確かに自分たちは姉弟なのだと思った。

「……姉上?」
「ん、起こしたか?」
「いいえ、今目が覚めました。おかえりなさい、姉上」
「ああ、ただいま」

 にっこりと笑う。その柔らかい笑顔は姉弟でも信長にはないものだ。……どうしてだろう。どうして弟はこんなに自分を慕うのだろう。

 弟は自分とは違う人種だ。もっと同じ種類の人間と話した方が楽しいのではないだろうか。普通とか、人間とか言われるものたちと付き合う方が弟だって楽しいのでは。

「なあ、どうしてお前はわしにそんなに懐くのだ?」

 自分は慕われるような姉ではない。優しくもないし、気質も違う。嫌われる理由もないが慕われる理由も分からなかった。

 弟はびっくりしたように目を丸くする。そしてすぐ微笑んだ。春の花のように温かい笑顔だった。

「そんなの、姉上が大好きだからに決まってます」

 その日から信長は信勝をあまり追い払わなくなった。





 けれどある日。

 信長と信勝は男たちに誘拐された。二人で河原でどこへ遊びに行こうか話していた時、気がつけば囲まれていた。

 人数は十人以上。武器を複数持ち、身なりは悪い。おそらく野盗の類だった。

「おい、ガキどもを逃さないようにしろ。せっかくの金づるだ」

 姉弟はそう言われ、森の奥深くの洞窟に捕らえられた。見張りは二人。両方とも槍と小刀を持っている。

 おそらく金を貰ったら殺す気だろうと信長は推測した。

「あ、姉上……」

 そういって信勝は信長の着物の袖を離そうとしない。弟の目に涙が滲み、ガタガタと震えていた。温室育ちの弟はこんな恐ろしいこととは無縁だった。

 信長とて温室育ちには違いない。男として育てられているとはいえ大名家の子息だ。しかし……。

「……姉上?」
「そう泣くな」

 そう言って姉は弟の頭を撫でた。信長は捕まってから一度も怖いと感じていなかった。涙も震えもなかった。

 そしてじっと見張りの男たちを観察した。

 数刻後、片方の男が軽く欠伸をした。その隙をついて信勝を振り払った信長は男の小刀を奪い、素早く喉を切り裂いた。もう一人の男が声を上げる前に心臓を突き刺した。

 姉弟の前にはあっという間に二つの死体が転がった。

「信勝はここにおれ」

 そこから先は一方的な殺戮だった。信長は死んだ男たちから武器を奪い、残った男たちの背後をつき、一人一人殺した。最初は少しでも集団から外れたものから殺し、減ってきたら正面から心臓や喉を切り裂いた。

 なんの迷いもない。高揚も恐怖もない。信勝に風車を作ってやる時に竹を削るのと同じだ。淡々と全員を殺した。

「ん? 信勝か、終わったぞ」
「……」

 死体に囲まれて信長は血まみれでケロリとしていた。十二になったばかりの少女にふさわしく明るく笑った。そんな信長だったからこそ父は彼女を男として育てたのだ。

 信長が念の為、もう一度男たちの死体の心臓を刺している時に信勝はふらりと現れた。まだ怖いのだろうか。顔が真っ青だ。

「どうした? まだ泣いているのか、全くお前は怖がりだな」
「……あ……あね、うえ……」

 手を伸ばすと弟はビクッと身体を震わせた。……弟は怯えていた。襲ってきた男たちではなく助けてくれた姉に。

 信勝は必死に口元を押さえていた。

「ご……ごめん、なさい……た、たすけてくれたのに……ぼく……うっ、うう!」

 そうして弟は吐いた。たくさんの涙と一緒に黄色い液体をぶち撒けた。座り込み泣き続けた。

「信勝……?」

 血だらけの刃を持った姉は弟がなぜ泣くのか理解できなかった。




 そして無事帰った信勝は数日寝込んだ。

 泣くばかりで食事もせず、三日は眠れなかったらしい。一週間は寝所から出られなかった。眠れるようになっても悪夢ばかり見たらしい。

 どうしてかさっぱり分からなかった。
 信長は帰った日からよく食べたしよく寝た。特に悪夢も見なかった。

 誘拐事件ということで信長も数日屋敷から出してもらえなかった。だから一人の部屋で信勝のことを考えた。

(あいつ、わしが怖かったのか?)

 そして理解した。信長と信勝は決して分かり合えない。全く違う生き物なのだ。例え大好きと言われてもその壁は決して越えられないのだ。

 やはり一緒にいない方がいいのだ。










                         つづく












あとがき


※アンデルセンのアレンジ版宝具は二次創作の中の設定で、特に本編には登場しません。念の為。

春のつもりでしたが夏になってしまいました。
私事で書くのが遅くなってます。
お付き合いいただければ幸いです。

聖杯を書けば書くほど設定が生える生える。

初期のサブタイトルが宝具ハラスメントだった件。


あと2〜3話で終わります。



2022/07/27



信長

 信長が信勝の宝具うつ時どんな気持ちだったか想像してみたのですが、まあ本人の選んだ道だし……と思いつつ複雑な気持ちなんじゃないかなと思いました。

 精神的に落ち着かないときはあまり見たくないかと。全然平気ってことはないんじゃないかな。

 いつも後ろをついてくる弟の笑顔を見ると妙な気持ちになった。それがかわいいという気持ちだと分かったのは死後のこと。



信勝

 信勝は宝具うつ時姉上は気にしてないと信じてるから平気で眼の前うてるんだと思ってるんですが皆様どう思います?(アンケートしてます)

 弱い子供の自分が大嫌いだった。だから弱い自分を捨てれば何かできる大人になれると信じていた。凡庸な自分でも自分を捨てれば好きな人になにかできるはず……。

 少年漫画風には弱さを捨てて大人になった少年はハッピーエンドなったり、問題が解決するのですが信勝のケースはどうでしょうか?

 この前最新話まで開放されてた宝石の国を読んだのですが、フォスの「弱い自分が大嫌いだから、必死に変わり続ける(そしてどんどん原型を失っていく)」という側面に信勝シンパシーを感じてしまいました。その果てにあるものが本人の望んだものだったのか(信勝は主観的には叶えたのかもですが、結局一番大切な信長はそんな信勝を見て苦い気持ちになるわけです)。捨てたものの中に捨てちゃいけないものがあったのでは?



アンデルセン

 弓ノッブとは秩序中庸仲間。

 リア充爆発しろと思って人魚姫を書いたというのはマジです(fateの中では)。アンデルセンが初登場したfate/Extra CCCで言ってました。

 アンデルセンが話したある少女についての後悔の話はCCCのキアラボスルートで見れます。特に史実とは関係ありません。奈須きのこ先生のオリジナルでしょう。

 ノッブに「そういう願いは叶わない」と言ってる時のインドアなアンデルセンは怖くないのかな? とか思ったけどFGOのアンデルセンは一部四章で魔術王の正体に威圧されながらもぶっ殺されるまで喋るのをやめないやつなのでノッブをイラッとさせるくらいはどうもないかなと。

 キアラとアンデルセンのひねくれイチャつき漫才は大好きです。キアラの嫌いなものが男のツンデレなのもポイント高い。


雪の女王

 アンデルセン作品で一番長いのでは?

 タイトルになってる雪の女王の出番はあんまりない。内容は少年カイを取り戻す少女ゲルダの冒険って感じ。

 FGOだとアンデルセンのスキルボイスの「ゲルダの涙よ、心を溶かせ」は雪の女王由来ですね。

 CCCだと「カイの欠片よ、命に刺され」というスキル台詞もある。作品内だと人魚姫やマッチ売りの少女が言及されて雪の女王ほぼ言及されないけど奈須先生、きっと雪の女王好きだよね。

 雪の女王の冒頭読んでると、カイの瞳に鏡の欠片が刺さったとこで「カッツもある日こんな風に急に世界が歪んで見えたのかな……」とちょっと思った。