夫婦ごっこ7〜まだ愛を知らない〜



【小さな弟と】




「なんじゃと? アンデルセンどういう意味じゃ?」

 信長は眉根を寄せた。右手に五本結ばれたカルデアのリボンには通信機能があった。一本は子供の信勝に渡したので残りは四本となる。それでアンデルセンに連絡を取ったのだが妙なこと言われた。

「わしは信勝を見つけ、リボンを結んだ。それでもダメとはどう言うことだ?」
……「言ったろう、織田信勝の心の核を見つけなければだめだ。リボンの繋がりからカルデアが解析したがお前が見つけたのは彼の心の【切れ端】だ。それも本人の心には違いないが核ではない」……

 切れ端と信長は複雑な顔をした。やはりあの大人の方が核だったのだろうか。それともどちらも核ではなく、もっと奥深くに進まねば心の核とやらは見つからないのか。

「……それは少し予測しておった。しかしな、なんとかお前の場所まで運べぬものか? 年がちょうどお前の外見くらいでな。あぶなかっしくて安全な場所で待機させたいんじゃが」
……「その場から離せばそいつは消滅するぞ」……
「消滅?」
……「解析の結果だがそいつはその【バラバラになった織田信勝の心の中】だから存在できる。一つの生き物ではなく想念の一形態なんだ。子供の姿をしているのは子供の時代に根ざした心の切れ端だからだ」……

 心の切れ端。信長は弟を見た。相変わらず真っ二つで、立ち上がれるもののふらふらしている。……六歳ぐらいだろうか。

「是非もないか、わかった。こいつはわしがこのまま連れて行く」
……「危険かもしれんぞ。本人には悪意はないかもしれんが想念というのは妄執と紙一重だ」……

 一理ある。それでもこの信勝は好意を感じ取ることのできる唯一の信勝だ。頼りない風貌も相まって置いて行くことなどできない。

「危険は元々だ。ここは聖杯の泥の中、その危険の中から小さな信勝の心の核とやらを見つけるのじゃ。それにこやつがいれば心の核を見つける手がかりになるやもしれん」

 通信先のアンデルセンはため息をついた。

……「分かった。それも含めてカルデア側に一度相談しよう、少し待っていろ」……








 カルデアからの連絡を待っていると信長は目を丸くした。

「こ、これは一体……?」
「なんとまあ、元気そうになったではないか」

 六歳ほどに見えた信勝は三歳ほどの姿になっていた。それに真っ二つの姿ではなく、ちゃんと両方の体がある。うっすら透明になっていたがそれでもさっきより目に光が戻って元気そうだ。服も着物のままでサイズだけちょうど良くなっている。

『マスターに話したら、流石にその姿は可哀想だけということでリボンの繋がりからダ・ヴィンチが何やらやったらしい。連れ歩くならその方がいいだろう……まあ、元々雲をつかむような話だ。せいぜい切れ端を頼りに核を見つけるんだな』

 そこでアンデルセンの通信は切れた。

 信勝は両手両足を何度も見比べて自分の体に何度も驚いた。信長もさっきまでの姿は流石に見ていて辛い部分があったのでしゃがんでじっと信勝を見る。とても懐かしいし……かわいい。

「さっきの年頃のちょうど半分ほどか、体を倍にした分年齢が下がったのかの。おい、記憶はあるか?」
「はい、さっきまでお話ししていたこともしっかり覚えています」
「というか、お前は一体どれくらい信勝の記憶があるんじゃ?」
「えっと……死ぬまでの記憶があります。カルデアって場所のことはぼんやりとそこにいたらしいとしか」

 信勝は少し落ち着いたのか信長を振り返った。小さいのでしゃがんだ体勢でちょうど目が合う。信勝ははにかむように笑った。

「記憶にはないんですけど、僕ってカルデアって場所で結構役に立っていたんでしょうか? こんなによくしていただけるなんて」
「んー、まあマスターはお人好しじゃからな。役に立つ云々は関係なかろう」
「そ、そうなんですか……僕なんかでも役に立っていたら嬉しかったんですが」
「……」

 信勝は落胆した表情を浮かべた。信長はすっと立ち上がると信勝を両手で胸に抱き上げた。三歳ともなるとかなり小さく腕にすっぽりと収まる。あたたかい、やわらかい、心地よい。

「お前はそういうことを気にしすぎる」
「あ、姉上!? 大丈夫です、僕、ちゃんと自分で歩きますから」
「今のお前は小さすぎる。抱えて歩いた方が早い」
「下ろしてください〜」

 信勝はしばらくじたばたと手足を動かして抵抗したが、スタスタと信長が歩き始めるので諦めて身を任せた。

「疲れたら仰ってくださいね」
「……ああ」

 幼い弟はまるで紙のように軽かった。心の切れ端。弟はどんな心の一部を姉のためにならないと捨てたのだろう。

「……何しとるんじゃ?」
「えっ、い、いえ……」

 抱きかかえて洞窟を進む中、弟はにまにまして両手で頬を揉みはじめた。

「そ、その、僕ってかわいいんですよね?」
「ん、まあ、そうだ」

 改めて言われると少し照れる。

「ならこの顔を大事にしないと……確かに生きている間は気づきませんでした。僕の顔ってかわいいんですね。せっかく姉上が好いてくれた部分だから傷がつかないように気をつけないと」

 信長の肩がコケた。この弟は言葉は通じていたが意味がズレている。

「かわいいのは顔じゃなくてお前だ」
「???」
「まあ顔に怪我をしていたら心配はするがな」
「やっぱり!!」

 聞こえていても弟とはズレるらしい。別に顔じゃなくても怪我は心配する。その辺を説明するか少し思案すると足を止めた。百メートルほど先の洞窟の岩から小さな光が数筋漏れていた。

「出口か……?」

 海の次は洞窟。その先には一体何があるのか。






 洞窟の先はまた海だった。洞窟の出口は積んだ石の上にあり、わずかに海面の上だった。だから濡れずに済んだ。

「……アンデルセン?」

 周囲を見回すが誰もいない。元の場所に戻ってきたのかと見回すがアンデルセンはいなかった。この海はあくまで別の場所の海なのだろうか。

 ブーツを脱いで歩くかしばし迷うがサーヴァントだ。そのままガボンと海にブーツを突っ込む。海面は膝より少し下になる程度の浅さだ。これはさっきアンデルセンと話した場所より少し浅い。

(やはり違う場所なのか?)

 子供の信勝は胴体まで浸かってしまうのでそのまま信長が抱えていた。

「あ、姉上、僕は大丈夫ですからおろして下さい」
「いいから、じっとしておれ」

 風船のような軽さと手応えのなさには少し驚いた。本当にここでだけ存在できる切れ端なのだろう。

(だがこやつは幻ではない)

 存在としては夢のようにあやふやだが確かに信勝の一部だ。それは分かる。あれほど苦しんで信勝が自分の心から切り離したものが偽物であるはずがない。

「……これも言い忘れておった、幼い頃のお前をこうして抱き上げるのが好きだった」
「な、なんですか、急に」

 伝えなければ弟はそれを知らないまま終わる。
 姉の心の中にだけ温もりが快いという気持ちが残る。

「別に、このぬくさが好きだと思っていたのに言ってなかったから言っただけじゃ……のんきに見えてもカルデアは戦いの場所、お前とは明日別れてもおかしくない。ぬくさが心良かったと伝えておいてもよかろう」

 自分の気持ちは自分さえ知っていればいい。それでいいと思っていた。

「僕ってあったかいんですか?」
「ああ、あたたかい。ずっとこうしていたい」

 けれど今は信勝にそんなことちっとも知らなかったと思って欲しくない。
 汚れた聖杯が信勝をつれていったように、戦いの中でいつ失ってもおかしくないのだ。

(もう、後悔はしたくない)

 あの日墓前に彼岸花を添えたように。
 もう少し早く気づいていればと思いたくはない。

「あ! 姉上、あそこに陸があります。あっちへ行きましょう、身体が冷えちゃいます」
「陸?」

 半透明の小さな弟の指差した先には小さな島があった。





 小さな島は砂浜があり、あっさりと上陸することができた。

「ふむ、人の気配はないか……」
「姉上、僕、ここなら歩けますって」

 子供の信勝があまりにそう言うので砂浜ならいいかと下ろした。砂浜の向こうにはこんもりとした森が広がっていた。なんとなくこんな島には不釣り合いな植生に思える。丸い樹冠の木がいくつも生え、下草も深い。

 二人で砂浜から森へ移動すると子供の信勝が転んだ。

「おい信勝、やっぱりこっちへこい。抱いて歩いた方が早い」
「だ、大丈夫です、次はちゃんと足元を見ます」
「ええい、本人に変わらず妙なとこばかり頑固じゃな……アンデルセン、聞こえるか?」
……「聞こえているぞ、どうした?」……

 腕のリボンからアンデルセンへ思念を飛ばす。子供の信勝を見失わないように歩きながら話す。

「こちらの位置はわかるか? 一度洞窟に潜ったがまた海に出た。そこで島を見つけたから入ってみた。そちらからはどう見える?」
……「そんな鮮明にはこちらからは分からん。俺には広い画面上の点にしか見えんぞ。お前はどんどん深い方へ潜っている。どんどん下へ向かっている。それは織田信勝の心の核の方角と一致している」……

 つまり闇雲に進んでいるが目的地には確実に近づいている。魔に囚われたものを見つけ助け出すというアンデルセンの宝具のアレンジ「雪の女王」の力は確かなようだ。

「ふむ、そちらからはそのように見えるのか……まあ、心の核の方向に合っているならいい」
……「リボンには注意しろよ。それが解けてなくなるとお前の位置も分からんくなるし、何より帰り道が保証できん。弟の心の核を見つけても連れて帰ることができなくなるぞ」……
「ふむ、リボンには注意しておく。また連絡する……ああ、もう信勝、だから言ったであろう!」

 アンデルセンとの回線を切り、信長は駆け出した。案の定子供の信勝は下草に足を取られてまた転んでいた。今度は派手に転んで頭から木の根に突っ込んでいる。

「姉上、すみません〜。僕、いつも足手まといで……姉上、よけて!」
「っ!?」

 銃声が響いた。信長が咄嗟に刀を抜き、魔力を込めて弾を弾く。今の銃撃は子供の信勝を狙ったものだ。

「……姉上、どうしてここに?」
「お前も、信勝か」

 樹木の間から現れたのは拳銃を構えた大人の信勝だった。






 大人の信勝は妙な格好をしていた。派手な色の燕尾服と帽子。さっき見た着物に袴姿とは違ってそれはちぐはぐな印象を受けた。

 信長には預かりしれぬことではあるが、それは先ほど洞窟で出会った大人の信勝ではなく、沖田が助けた信勝を拷問していた大人の信勝だった。歪んだ聖杯が強制的に願いを言わせるために記憶のカケラから作られた存在。歪な存在なので姿が妙なものになっていた。

「信勝、なんじゃその変な格好は?」
「質問に答えてください。どうしてあなたがここにいるのです? ここがどんなに危険な場所か分かっているでしょう?」

 大人の信勝は質問に答えず、銃口を子供の信勝に向けたままだった。その態度に腹を立てた信長は両手を広げ、子供の信勝を庇った。

 弟は姉を大切に想っている。どうせ撃てまい。が、大人の信勝は躊躇なく撃った。

「って撃つんかい!? そういえば前にもあったなこんなこと! 本物信長とかの時に!」
「待てっ! このっ!」

 いつの間にか子供の信勝は逃げている。なので大人の信勝は信長から思い切り照準を変えて子供の自分を撃った。

「姉上、逃げてください! こいつの狙いは僕です!」
「ええい! お前たちはどっちも少しもわしのいうこと聞かんの!」

 信長は刀を構えて再び大人の信勝の銃弾を弾く。

「うちの弟に何する、貴様……まあお前もわしの弟のようじゃが」

 また姉が出て来て大人の信勝は混乱した。

「なんで邪魔をするんですか! そいつは死ななきゃいけないのに!」
「なぜ?」

 信長はこの信勝にもリボンを結べないか隙を探す。なんとか動揺するような言葉を探した。

「……そりゃ、お前を愛しているからな」
「えー!?」

 突っ込んだのは子供の信勝である。しかし大人の信勝は鼻で笑った。

「愛? なんの冗談ですか。僕なんかをあなたが愛するわけないじゃないですか、あなたに僕ができるのはせいぜい死ぬことだけ。姉上にとって僕なんか生まれなければよかったに決まってる。動揺を誘う嘘にしてももっとリアリティがあることを言ってくださいよ」

 ゴッと重い音がして大人の信勝は衝撃でなにも見えなくなった。信長は助走をつけてその顔を拳で全力で殴り飛ばしていた。

「……姉上?」

 大人の信勝はなぜ殴られたのかさっぱり分からなかった。

「全くお前は卑屈なのか傲慢なのか分からんな。わしの言葉を待たずに勝手に決めつけおって……このっ!」

 信長は大人の信勝に掴みかかった。完全に予想外だったらしく大人の信勝は抵抗できずに地面に転がる。姉を殴ることなどできない弟は防戦一方になった。

 結果、二人は揉み合ったままごろごろと森を転がった。

「姉上、は、離して……! ダメです、こっちは……!」
「うっさいわ! いいか、一言だってわしはそんなこと……あれ?」
「姉上! 危ない!」

 子供の声が危険を教える。
 ーー気がつくと信長と大人の信勝は茂みに隠れた崖に身を投げ出していた。

「姉上! 姉上ー!」

 子供の信勝の悲鳴を上方に感じながら、信長は崖から落ちていった。









 幸い崖は小さいものでサーヴァントの身であれば足の骨折ですんだ。お陰で立つことができない。

「それでもいったいのう……」
「姉上、どうしてこんな無茶を!」

 なぜか信長は大人の信勝に怒られていた。特殊な空間のせいか無傷に近いが額を切ったらしく生々しく血が流れている。

「どうして僕を庇ったりしたのですか!? 僕はいらないのに、なんの意味もないのに!」
「……」

 まあ無傷なのは信長が下になったせいもある。いちいち腹の立つことを言っているが大人の信勝は自分の服を破き、信長の骨折した足に添え木をして巻いている。サーヴァントはすぐ治ると言っても聞く耳を持たない。

(おい、アンデルセン、聞いているか?)

 信長は内心の思念を右手のリボンに集中させた。アンデルセンの反応はすぐ脳裏に伝わってきた。

……「なんだ、今音声だけ拾っていたが状況がさっぱり分からんぞ」……
(子供のあいつは無事か? あっちにもリボンを結んでいたから分かるじゃろ)
……「無事だ。どうもお前を探しているらしくぐるぐる同じ場所を回っている」……
(そうか、保護していろ。わしは用事ができた。ああ、ちゃんとわしは無事だと伝えろよ)
……「おい!?」……

 そう一方的に通信を切った。そして信長は目の前の大人の信勝の腕をしっかりと掴んだ。

「お前に話がある、逃げられると思うなよ」







【母と姉の風景】


 行けども行けども海だった。最初に見た森も、シャドウの沖田が消えた浅瀬もとっくに見えない。一歩進むたびに水が邪魔をして歩くことが大変なのに何一つ風景は変わらない。

 けれど信勝は立ち止まらなかった。

(約束したんだ、あいつ、沖田って女と……姉上が僕の傍にいることを望んでいるか訊くためにも帰るんだ)

 しかしどこまで進めばいいのか。

 海を見ていると亀のことを思い出した。泳いだ姿は見たことがないが彼のことを思うとますます帰らなければならない。彼は夢の中にしかいないがそれでも彼の霊基を姉の卑弥呼のそばに置いておきたい。

(そういえば卑弥呼のやつ、出撃メンバーにいたな)

 俯いてばかりであまり話さなかったが何度か話しかけられた。

 当て所無く歩き続ける信勝は一本の木を見つけた。海の中に生えている奇妙な樹木でひょろっと細く、幹は真っ白だ。葉がほとんどなく枝先に数枚申し訳程度に揺れている。

 その幹の中ほどに樹木の枝で抱き抱えるように包まれた丸い鏡があった。

「なんだ、これ? 樹と鏡?」

 ようやく見つけた海以外のものに信勝は警戒心を持った。汚れた聖杯の策略ではないだろうか。それでも他にあてもなかったのでおそるおそる鏡を覗き込んだ。

 するとそこには見覚えのある顔が映っていた。

「……卑弥呼?」


……「信勝君! やった繋がった!」……


 鏡の中には意志の強そうな目をした邪馬台国の女王が映っていた。少し涙目になっている。

……「よかったぁ……信勝君、生きてた」……
「これはどういうことなんだ? どうして聖杯の中にいる僕が卑弥呼のことが見えるんだ?」
……「信勝君とあたしだからチャンネルが繋がったみたい。信勝君の霊基はあたしの弟のものだから」……

 卑弥呼は状況を説明した。マスターたちは外からなんとか信勝を助け出せないか試行錯誤していると。

 その試行錯誤の一環が卑弥呼の力による鏡を使った信勝への呼びかけだった。

「すまない、僕のせいで……お前の弟の霊基は必ず無事に帰すから」
……「何言ってるの! 信勝君がちゃんと帰ってこないと意味ないんだからね! それにね……信長ちゃんも信勝くんを追って聖杯の泥の中に行ってしまったの」……
「姉上が……そんな、どうして!?」

 まさか姉がこの異空間に来ているとは夢にも思わなかった。どんなに危険な場所か分からない信長でもあるまいに。

 卑弥呼は少しムッとした顔になって、そしてため息をついた。

……「そりゃ、君がいるからだよ」……
「僕が? ……分からないよ」
……「あー、言うじゃなかったかな。混乱させてごめん。でも安心して。他の仲間が泥の中の信長ちゃんには接触してもう帰る目処はついてるみたい。
 ってこんな話してる時間なかった! あのね、信勝君。なんとかこうして会話できるようなったけどすごく時間が短いの。あたしの力じゃそんなにもたないみたい。だからあたしができることすぐ伝えるね!」……

 姉には帰る目処がついている。間接的だが信勝はその言葉でようやくまともに話を聞けた。

「あ、ありがとう……十分すごいと思うけど、一体何を?」
……「とりあえず占い!」……

 鏡の向こうで卑弥呼はノート程度の紙を掲げた。それから水の入った洗面器をテーブルらしき場所に置く。

……「信勝君がどうしたらそこから出られるか占ってみる! 自分では嫌なこともある力だけど未来予知みたいなもんだからきっと役に立つわ!」……
「確かに、お前の力なら……」
……「とにかく祈って! 帰ってきたいって!」……

 信勝は戸惑ったが両手を合わせて祈りのポーズをとった…姉を思い浮かべ帰りたいと念じる。

 卑弥呼はその姿を確認すると手に持った紙をバシャと洗面器の水につけた。信勝が目を丸くしていると紙にはみるみる字が浮かびあがっていった。信勝の目端に涙が小さく浮かんだ。

 自分はなんて幸運なんだろう、卑弥呼の力は本物だ。これで……きっと帰れる。

……「はい! このアドバイスを元に……がんば……」……

 紙にはこう文字が刻まれていた。


【ほぼ大凶。
 希望は持たない方が無難。
 時には諦めることも必要。
 ラッキーアイテムは絵本】


 卑弥呼は真っ青になった。

「だい……きょう……?」

 信勝の瞳はみるみる絶望へと染まっていった。しかし卑弥呼の動揺はそれ以上だった。

……「ち、違うの! これは何かの間違いよ! ほらあたしの力って時々外れるし!! 絶望しないでー!!」……
「帰れなかったら姉上にいつまでもお元気でいてほしいってことを伝えてほしい……」
……「そんな遺言みたいなのいやー! こ、こんなはずじゃ……!」……
「心配するな……なんとか頑張る……頑張るから」

 目は完全に死んでいたが信勝はなんとかそう取り繕った。卑弥呼の弟のためにも帰らなければならないのだ。沖田との約束もある。

 ただこれならいっそ何も知らない方がよかった。気持ちは嬉しいが占い結果は見たくなった。

 混乱した卑弥呼はジタバタと腕を動かした。

……「ピンチはチャンス! 大丈夫、次の手があるから!」……
「つ、次の手?」

 正直、もう何も見たくない。

……「信勝君を助けるものを君の近くに呼び出す! あたしのなんとかパワーで!」……
「そんなことができるのか?」
……「正直、助けになりそうなものがあったら引き寄せる程度のものでなかったら……いやきっとある!」……

 卑弥呼はやや血走った目で鏡にかなりのアップで近づいた。

……「いいからなんとかなれー! うわーん、なんでもいいから信勝君助かってー!」……

 次の瞬間、鏡から光が溢れた。あまりの眩しさに信勝は目をつぶる。途端に衝撃で海に尻餅をつく。

 次に目を開いた時、鏡は割れていた。信勝が慌てて近づくともう卑弥呼は映ってない。ただの割れた鏡になっている。

「卑弥呼! おい、卑弥呼……もう無理か」

 外と通信できているだけでも奇跡のようなものだった。

 信勝はわずかに心細さを感じる。沖田のシャドウサーヴァント以来、この空間でまともに会話できたのは卑弥呼だけだった。占いの結果は散々だったけど、誰かと話せてホッとしていた面もあった。

 信勝は周囲をキョロキョロと見回した。樹木も消え去り、また海だけの世界に戻っている。卑弥呼が言っていたような助けになりそうなものは見当たらない。

「流石の卑弥呼でも無理か……ん?」

 割れた鏡の破片がチカチカと光っていた。その光が気になって海の中を見下ろすとまた大きく光った。

『……の』

 そして聞き覚えのある声がした。

『信勝殿』

 この声は知っている。一度まばたきすると鏡の破片は姿を変えていた。キラキラした光になり、水の中でじっと光っている。

「……亀くん?」

 その声は間違いなく何度も夢の中で聞いた亀のものだった。信勝は波の下の光に手を伸ばした。これが卑弥呼の力なのだろうか?

「って……うわあああああああああああ!?」

 信勝がその光を掴む直前。
 その足首を誰かが掴み、足がつく程度の深さのはずの海の底へ引き摺り込んで行った。







 信勝は青く深い海を沈んでいた。

 異空間ゆえか浅い海はいきなり深くなった。さっきまで浅い海の砂の上を歩いていたのに、今はかなり沈んだのに海の底も見えない。なんとか上を見上げるが海面がわずかに光っているだけだった。視界の端に赤い珊瑚が生えた岩山が見えた。

「がはっ……!」

 信勝は呼吸ができず泡を吹くことしかできない。沈んだ時にかなり海水を飲んでしまい意識が朦朧としている。そして足首は掴まれたままぐいぐいと海の下へと引っ張られている。

「お前……なんだっ! ごぼっ……聖杯か!?」

 足を掴んでいるのは顔のない人魚だった。顔がないところ除けば絵本で見た人魚姫に似ている。ウェーブのかかった金髪を翻し、美しい女性の胴体の下から桃色の鱗の魚の体を生やしている。

(離せ!)

 信勝なりにジタバタと抵抗した。すると効果があったのか沈むペースが落ちた。すると人魚姫はぴたりと泳ぐのを止めた。

『どうしていやがるの?』

 思念が伝わってきてギョッとするが信勝はさらに抵抗した。こっちの抵抗は無意味ではないらしい、なら海の上に戻らなければ。

『あなたが望んでいるのに』
(なんの話だ!)
『真実を教えてあげる』

 人魚姫は足首を離し、信勝の頬に手を当てた。そして彼女が目を閉じると信勝は意識は眠りに落ちた。信勝はどんどん海の底へと沈んでいった。






 そこは映画館のような場所だった。

「……?」

 大きなスクリーンの周囲に真っ赤な座席がたくさん敷き詰められている。その真ん中に信勝は座っていた。周囲を見回すが他に客は誰もいない。

 観客は一人でも映画は上映されていた。信勝は足が動かず、映像を見ていた。そして愕然とした。

「……姉上?」

 スクリーンに映っているのは間違いなく姉の顔だった。英霊として現界している今より少し年上だろうか。映像はモノクロで姉の赤い瞳だけが色を保っていた。

 尾張の時代のような袴姿。そうだ、この姿はちょうど自分が死んだ頃の年頃だ。姉にしては珍しく苦い顔をしている。

 じっと見入っていると誰かが信長に叫び声を上げた。

……「お前など生まれなければよかったのだ!」……

「……母上?」

 信長に続いて現れたのは母だった。土田御前は憎悪の眼差して娘を睨んでいた。

 そこで一度映画は終わった。






 それからすぐ新しい映画は始まった。さっきと登場人物は同じ。姉と母。二人とも信勝の大切な家族だ。その二人がずっとスクリーンの映されている。

 信勝は何度か席を立って逃げ出そうとした。しかし体が座席に張り付いたように動かない。

 映画の中で土田御前は信長を罵り続けた。

……「近寄るでない、この兄弟殺し」……
……「よく顔が出せたもの、お前の顔など未来永劫見たくない!」……
……「憎いか? いつまでもお前を憎むこの母が憎いか? ならさっさと殺せばいい。今や夫もなく息子もない。従わぬ母が目障りなら殺せ!」……

 優しかった母は大切な姉に罵声を投げ続けた。時には扇子や盃を投げつけた。

……「返せ、返せ! あの子を返せ! この人殺し! 人殺し!」……
……「……」……

 そう言って母は泣き崩れる。何を言われても姉はただ無言だった。盃や扇子が飛んできても軽く避けるだけだった。


 映画は断片的なシーンを映し、唐突に終わり、また唐突に始まった。
 断片的でも内容はずっと同じ。信勝のよく知った家族の知らない光景を映している。


 生まれなければよかったなんて母に言われるなんて、例え偉大な姉でも傷ついたのではないだろうか?

(……母上、どうして……)

 信勝にとって母は大切にしてくれる存在であった。転ぶと自らの手で手当てしてくれて、信勝の好きな食べ物を何かと取り寄せてくれた。こんな自分にも親切にしてくれる優しい人だった。

 信勝なりに母は賢い人だと感じていた。父と時には難しい話をしていた時も自然に受け答えをしていた。

 だから分からなかった。どうして賢いはずの母は偉大な姉を毛嫌いするようなそぶりを見せるのか。どうして姉への謀反の話を止めるどころかすすめてくるのか。

(そうだ、だから一度母上を殺すか悩んだんだ。でも、いつかきっとわかってくれると思って)

 きっと自分が姉に敗北すれば力の差が分かるだろう。賢い母なら姉につくのが道理だと分かるはず。稲生の戦いが終わって以来そう思っていたのだが……。

 思考はぼやけていたが信勝は目の前の光景をなんとか否定した。

「こんなの……本当のはずない」
『どうして?』

 いつの間にか人魚姫が隣の席に座っている。器用に座席に魚の下半身を納めていた。頭はもやがかかったままだが信勝はなんとか抗弁した。

「だって母上が姉上を悪く言っているから」
『これはかつて本当にあったことよ』
「そんなはずない……僕が死んだ後、姉上がすごいって母上だってわかったはずだ!」
『恐れないで、真実を見て』

 人魚姫はただスクリーンを指差した。



 スクリーンの中の姉は深いため息をついた。

……「母上、最近食事を召し上がっていないとか。体の調子でも悪いのですか?」……
……「どうでもいいでしょう、そんなこと」……

 少しだけ振り返ると実際母はやつれているように見えた。

……「また死のうとしているのですか」……


 信勝の瞬きが止まった。母が死のうとした?


……「また信勝の後を追おうとしてるのでしょう。あれだけ血を失って助かったのはまさに奇跡でしょう。その後も川に飛び込むわ、商人に騙されて買った偽の毒を飲むわ、こちらは生きた心地がしません。今度は食を断つとは母上も懲りませんな」……
……「だったら何だという?」……
……「多少荒っぽい方法で食事をしてもらいます」……
……「余計なことをするな」……
……「母上」……
……「そんなことより、返して、信勝を。二十歳をすぎたばかりでこれからずっと生きるはずだったあの子を」……
……「……死人は生き返りません」……
……「返して」……
……「……」……
……「返して、返して、返して、返して、返して」……


 そしてまた一方的な会話になる。母が喋り続け、姉は黙っている。最後は母が疲れて会話自体がなくなる。

 最後に姉が言う言葉はいつも決まっていた。

……「母上がお元気そうで何よりです。それではこれで」……

 そういっていくつか豪華な荷物を置いて、立ち去っていく。
 そして母の終わりの言葉も同じ。

……「なぜ私を殺さない? 今や何を恐るそなたでもなかろうに」……

 そう言って不気味そうに姉から目を背けるのだ。


 そんなはずはない。立つこともできない信勝は必死で否定した。

「そんな……そんなはずない……!」
『なぜ?』
「だってこれじゃ母上が僕を愛していたみたいじゃないか!!」

 人魚姫が口を開こうとした瞬間。
 映画館は海の泡と消えた。






 懐かしい声がする。

『信勝殿……信勝殿!』

 信勝が目を覚ますと信勝は海の中に戻っていた。なぜか呼吸は苦しくない。映画館は消えていた。人魚姫もいない。

「……亀くん?」
『よかった、目を覚まされたようですな』

 信勝は亀の背中に乗っていた。卑弥呼の弟は今は懐かしい陸亀の姿に戻っていた。亀は陸亀にも関わらずグングンと泳ぎ、海面へと登っていく。

「お前、どうしてここに……卑弥呼の力なのか?」
『はてさて、私にもなぜここにいるのかさっぱり分からなかったのですが、その言葉で分かりました。私がここにいるのは姉上の力なのですね、やはり姉上はとんでもない』

 亀なので分かりにくいが彼が困ったような笑みを浮かべたと信勝にはわかった。

『私は気がつくと海の中におりました。驚いておりますと目の前で信勝殿が海底へ沈んでいく。これはいけないとなんとか引っ張り上げ、背に乗せて上を目指しているわけです』

 信勝は深く呼吸をした。やはりさっきと違い呼吸ができる。亀の背に乗っているから、つまり卑弥呼の助けの力なのだろうか?

 彼が来てくれたのだと安心した信勝の目には涙がにじんだ。

「お前に会えてよかった。助けてくれてありがとう……人魚が邪魔をしなかったか?」
『人魚? それらしいものは見ませんでしたが』

 さっきのは幻? じゃあ、さっき見た姉と母も幻か? ……それはそうだろう。きっと聖杯の罠だ。だって何もかもがおかしかった。

(だって母上が僕を愛しているはずがない。優しくしてくれているのは母親の義務、そして姉上に比べて僕があまりに馬鹿で哀れんで下さったからだ。母上が僕を好きなんてあり得ない)

 信勝は母親のことをそう思っていた。そう、彼女の優しさはただの親切心だと思っていた。

「いたっ……なんだこれ?」

 信勝は足元を見た。右の足首に銀色の金属の鎖が巻き付いている。それが見えないほど深い海の底へと繋がっている。

『ああ、それですか。私も噛みついたりしてみたのですが一向に外れないのです』

 信勝も鎖を引っ張ったり、軍刀を抜いて斬りつけてみるが一向に外れない。念のため拳銃を取り出して撃ってみたがそれでも鎖は無傷だった。

『信勝殿、これはどういう状況なのですか? 私、無我夢中でよくわかっていないのですが』
「僕も完全には分からないけど……きっとお前がいてくれるのは卑弥呼の力だ」

 信勝は亀の背に乗って海を登りながら説明をした。汚れた聖杯のこと、姉のこと、卑弥呼のこと。気がつくと聖杯に囚われていて必死に逃げていたこと……沖田のことはうまく話せる気がしなくてそこは省略した。

『なるほど、姉上がそのようなことを……それでは私はこのまま信勝殿を助ければいいようですな。それでは引き続き海の上を目指し、カルデアとなんとか連絡しましょう。なに、姉上がコンタクトできたのです。きっと方法はあります』
「うん。本当に、お前には助けてもらってばっかりで申し訳ないよ」
『遠慮しすぎはあなたの悪い癖ですよ。ところで人魚とはなんなのですか?』
「よく分からないけど多分聖杯の手先だと思う。僕を海の底へ引き摺り込んで……うわっ!?」

 二人の行手に複数の何かがよぎった。それは女の人魚だった。鱗が鮮やかなシーグリーンでさっきの人魚姫とは違う。人魚姫と同じく全員顔が見えない。

『信勝殿、しっかりつかまってください!!』

 亀の言う通り信勝は必死に彼の甲羅に捕まった。亀が全速力で海面を目指し泳ぐ。人魚たちは無言で亀に体当たりをしてきた。三度ぶつかると亀が水中でぐらついた。

「亀くん! ……このっ!」

 信勝はせめて援護しようと拳銃を抜き、人魚を撃った。しかしそれで一度右手を亀の甲羅から離してしまった。それを待っていたとばかりに人魚は信勝に群がり、亀の甲羅から引き剥がした。

「近寄るな! 離せ! う、あああああああ……!」

 人魚の一人が右足を鎖を引っ張ると信勝は甲羅から完全に手を離してしまった。

『信勝殿! 信勝殿! 待っていてください、必ずまた助けに……!』

 信勝は再び海の底へと沈んでいった。








 信勝は再びあの映画館にいた。人魚姫はいなかった。

(こんなの嘘だ、聖杯の作った幻に決まっている。もう見たくない)

 映画は同じ。罵倒する母と黙っている姉。
 けれど少しだけ違うシーンがあった。


 モノクロに近い映像の中で母は姉への罵声をやめ、床に崩れ落ちた。そして泣きじゃくった。


……「ああ信勝、信勝。許しておくれ、お前を守れなかった母を。お前を死なせてしまった私を。
 あの時はどうかしていたのです、信長を討てなどと。だからお前は死んでしまった。この化け物に勝てるはずもなかったのに。織田の家などいらなかった、いっそ逃げろといえばよかった。お前が生きてさえいればそれで十分だったのに。
 ああ、信長……お前さえ産まなければ、いっそ生まれた時絞め殺しておけばこんなことには」……
……「……」……


 どんな言葉にも信長は何も言わなかった。ただ静かに座って母を見ている。信勝は二人の間に割って入れるものなら入りたかった。母親から産むんじゃなかったなんて、そんな酷い言葉をどうして言えるのだと言いたかった。

 でもそんなことができない。だって信勝はその頃死んでいたのだから。自分で死を選んだのだから。

(そうか、僕が死んだから)

 姉と母の関係はめちゃくちゃになったのだ。







「……嘘だっ!!」

 信勝がそう叫ぶとそこは海底だった。暗い水底に白い砂が広がり、真っ赤な珊瑚がいくつも生えていた。人魚たちはいなかった。

「嘘だ、嘘だ……あれは聖杯の作った幻だ。現実なわけない……!」


『いいえ、信勝。本当のことです』


 ぬっと海の闇から現れたのは母だった。信勝の母、土田御前だった。映画と同じくモノクロの姿だったが今度は目の前に立っていた。

『ああ、信勝。ずっと会いたかった……死んで会おうとしたのに信長にずっと邪魔をされた、でもやっと会えた』

 土田御前は涙ぐみ、笑顔で信勝へ歩み寄った。

「う、嘘だ……母上のわけない。聖杯の幻のくせに近づくな!」
『私はお前の母です。見ていたでしょう、お前が死んでずっと辛かった』

 信勝は腰の刀を抜き、母へと向けた。拳銃は人魚を撃った時になくしていた。けれど幻とはいえ母を斬る覚悟はなかった。いつも出来の悪い信勝に「親切」だった母を傷つけることはできない。

「僕が死んであなたが辛い訳がないだろう! なぜそんなことを言うんだ!?」
『なぜ?』

 土田御前は息子の言葉に戸惑いの表情を浮かべた。

『そんなの……お前を愛していたから決まっているではありませんか』
「……は?」

 その言葉に信勝は目を見開き、そしてすっと刀を握り直した。






 あれからどれほど時間が経ったろうか。

『信勝殿! ここにいらっしゃいましたか!』

 亀はようやく海底の珊瑚の中に立つ信勝を見つけた。彼とはぐれ、亀は海を泳ぎずっと信勝を探していた。

 ゆらりと振り返った信勝は刀を持っていた。

「……亀くん?」

 亀はギョッとした。信勝は血まみれだった。そしてその周囲には人らしき死体が十以上は転がっていた。

『信勝殿、これは……?』
「ああ、これか……聖杯の下手な幻だよ。本当に嘘をつくならもう少し現実味のある幻を作ればいいのに」

 信勝は血まみれだがケロリとした顔をしていた。やはり彼が手にかけたらしい。しかし幻とはいえ優しい彼にしてた死体を前にして平然としすぎている。

 亀はじっと倒れている死体を観察した。それは全て同じ人物だった。美しい中年の女性で豪華な着物を着て、全員無惨に斬り殺されている。聖杯の幻だからだろうか、姿はモノクロだった。

『幻と言いますと……この方は信勝殿のお知り合いの姿なのですか?』
「僕の母上だよ、でも言ってることがあり得なくてすぐに偽物だって分かった。あはは、聖杯のやつ馬鹿だなあ」

 信勝は妙に饒舌だった。

『あり得ないとは?』
「僕を愛していたって言うんだ。早くに僕が死んで辛かったって。そんなはずないのに」
『……母君とは相当の不仲だったのですか?』
「いいや? 母上は僕にいつも優しかった」

 亀はわけが分からなかった。ただ信勝にはこういうところがあったと思い出す。自分への好意を受け取らないのだ。受け取れないという方が正確か。だから好きという言葉に「そんな嘘つくな」と残酷な反応をする。

……「そんな嘘言って、お前に得なんてないぞ?」……

 信勝の夢の中でそれとなく亀が「友人だと思っている」と伝えた時そう言われた。

『……信勝』
「またか、聖杯もいい加減諦めればいいのに」

 また偽りの母が海底の向こうから歩いてくる。信勝は刀を振って血を払う。亀が目を丸くしている間に信勝は母に斬り掛かった。

『私にはお前が何よりも愛しい、信長より信秀殿より何より』

 それは甘い声だったが信勝の心にかすりもしなかった。

「母上がそんなこと言うもんか!」
『信勝殿っ、待ってください!』

 亀の制止の声は届かない。信勝は刀を母の首に突き刺した。黒い血の花が海中に広がった。

『……信勝』
「いい加減にしろ、母上の姿を借りてそんな嘘ばかり言わせて、母上に対するとんだ侮辱だ」
『お前が死んで……その後の生でずっとそのことを後悔していた』
「そんなこと母上は思ったことがあるわけない、変な幻、僕なんかでも倒せるなんて弱すぎて足止めにもならない」

 土田御前は空虚に宙を見ていた。その左胸に刀が突き刺さる。また墨のような血が広がった。

(彼は……ここで一人ずっとこんなことを?)

 亀はなんだか嫌な予感がした。

『……信勝殿、早くここを離れましょう』
「え?」

 とどめを指すためにもう一度刀を振り上げた信勝が亀を振り返る。

『元々私たちは海上に戻ることを目的としていたはずです。私の背に乗って早く戻りましょう。それに……聖杯の幻とはいえ母君を何度も殺すのはあまり信勝殿の心によろしくないかと』
「確かに……元々上に戻るのが目的だったもんな。こいつら弱いし、意味不明なことばかり言ってる、無駄な時間だった」

 そう言って今殺したばかりの母の死体を振り返りもしない。優しい彼らしくない。いいや、確かに彼はこういうところがあった。賢くて優しい心の持ち主なのにどこか歪なのだ。何かが欠けている。









【信長は愛がわからない】



「姉上ー! やっと見つけた!」
「って結局来るんかい」

 子供の信勝はあっさり姉を見つけて、飛びつくように抱きついた。抱き止めた信長はため息をついたがその温もりにしっかりと抱きしめ返した。

「アンデルセンはどうした?」
「このひもから聞こえる声のことですか? なんだかうるさかったので無視してました」
「ええ……もうええから、お前はここにおれ」

 色々と無駄になっている。信長は再び子供の信勝を胸に抱くと彼に向き直った。

「……どういうつもりですか?」
「わしから逃げるからじゃ、というかお前弱すぎ」

 大人の信勝はピンク色のリボンでぐるぐる巻きに縛られていた。まるでリボンを巻きすぎたクリスマスプレゼントだ。長さがいくらでも伸びるのでつい余計に縛ってしまった。

(アンデルセン、こいつが信勝の心の核か解析を頼む)
……「一方的に切ったと思ったらそれか。いいご身分だな。ま、俺もさっさと帰りたい。カルデアに解析を頼んでおく……がどうもそいつはよくわからんらしい。しばらく待て」……
(構わん。どうせわしもこいつに話がある)

 そこでまた通信を切る。子供の信勝は心配になってきた。

「姉上……その、僕がいうのもなんですがこの僕は危険ではないですか?」
「まあ一応ここは聖杯の中で危険な可能性はあるが、縛ってあるしこの弱さなら大丈夫じゃろ。聖杯のやつ弱さまで完全再現しおったな」
「でも……」
「それにこいつには話したい事がある……信勝、しばらく黙っておれ」

 子供はしばし迷ったが大人しく姉に従った。わざわざ口チャックアピールまでしてくる。

 信長は子供の弟を胸に抱いたまま、縛り上げられた大人の弟の目線にあわえるためしゃがみ、地面に片膝をついた。

 大人の信勝はなぜかじーっと子供の自分を凝視していた。姉の視線が近づくとはっと逸らす。

「ち、違います! 別に羨ましくありません!」
「はあ? なんの話だ? そもそも押さえつけてもちっとも抵抗せんし、やる気あるのか?」
「僕に姉上は殴れません」
「撃ったくせに」
「あれはあいつを撃ったんです!」
「……どうしてそこまでして子供の自分を殺そうとする?」

 大人の信勝は憎々しげに子供の自分を睨んだ。

「それはいると姉上のためにならないからです、生きていてはいけないのです」
「わしのため? お前にわしの何が分かる?」
「それは……」
「わしにはこいつが必要じゃぞ、何せわしの言葉が聞こえるからな」
「聞こえる……?」

 大人の信勝は理解できないと眉根を寄せた。信長は質問を頭で整理して、一番聞きたくない質問を見つけた。

「わしはお前にそんなに冷たかったか?」
「……え?」
「先ほど言ったであろう。わしがお前の死を願っていた、だから叶えたと。それほどわしはお前に冷酷に接していたのか」
「違います。姉上はいつも僕に優しかった。冷たくなどされておりません」
「ではなぜ死んだ?」
「僕には他にできることがないのです」

 平行線だ。けれど信長は少し大胆になっていた。この弟は本物の弟ではないからだろうか。

「お前の死をわしが願うと思ったなら、それはお前の目にはわしがそう見えたからだろう。いつからだ? いつからそう見えた? 子供の時からか? それとも大人になってからか?」

 認めるのは苦しいが信長には心当たりがあった。

 十を過ぎる頃から信長は少しずつヒトの声が聞こえなくなった。信勝はまだマシで半分は聞こえていた。しかし元服の直前で完全に聞こえなくなった。一つの単語だけ聞こえたままだったがそれだけで顔もぼやけてしまった。

 だから自然と避けるようになった。

「もしくは父上が死んだ後か。……あの時はすまんかった。お前がわしに反発する派閥に囲まれていることを知っていたのに無視していた。あいつらに囲まれているうちにお前はおかしくなってしまった」
「そんなの……関係ないです」
「あの頃わしは世界中の何もかもがどうでもよかった。本当はできたはずだ。例え自由を奪ってもお前を寺に閉じ込めることも、信長排除派から守ることも、きっとどうにかするとお前とちゃんと話すことも……だがわしは無気力だった。自暴自棄だった。だから何もしなかった。どうでもいいと未来を考えていなかった。その結果が……お前の死だ」
「変なの……偉大なあなたには僕の死なんてどうでもいいことじゃないですか」
「お前を殺したのは二十五の時だった。三十になった時思った。お前がその歳まで生きていたらどんな風だったろうと。四十になった時思った。お前がその歳まで生きていたらどんな風だったろうと……」
「そんなの、そんなの……変です! 姉上がそんなこと思うわけないのに。 それじゃまるで僕は……!」

 姉を苦しめるために死んだようじゃないか、とは恐ろしくて言えなかった。それでは自分の人生はなんだったのだ。

 信長はしばし迷ったが言った。

「信勝が死んでわしは死ぬまで苦しかった。だがわしにそんなことをいう資格があるとは思えなかった」
「……どうして」
「だって……お前を殺したのはわしだろう」

 大人の信勝には信長のいうことが半分以上聞こえなかった。

「……姉上が何を言っているのか分からない。きっと僕が馬鹿だから。それに姉上が苦しむ理由が一つも思い浮かばない」

 信長は胸元にぬくもりを感じた。子供の信勝が軍服の胸元を握っている。こちらも青くなってこちらを見上げている。

 信長は数秒まぶたを閉じた。信勝を責めたかったわけではない。だが話せばそういう風に弟は受け取る。だからこの話は本人にはずっとするつもりがなかった。

「分からんというなら質問を変えよう。そうだな、カルデアの記憶はあるか?」
「……あります。姉上に……僕は姉上のこと何一つ理解していないって言われたことも覚えています」

 それなら記憶は本体に近い。記憶が子供とは違うのは大人だからだろうか。

「その発言のことは置いておいて……ならば夫婦のことも覚えておろう」
「覚えていますよ。姉上の新しい遊びでしょう?」
「お前をもう失いたくなかった」
「……?」
「わしは死後また会えたお前がそばにいることを願っていた。だがお前は自分から離れていく。どうしてかさっぱり分からなかった。再会した時は永遠の子供時代を望んでいたのに。言っていることもさっぱり分からなかった。わしはお前がいらないのだと言い張っていた。わしは一度だってそんなことは言ったことがない。思ったことだってない」

 結局、生前も死後も同じなのかもしれない。

 大人の信勝は身をよじった。苦しそうだった。

「姉上、すみません……耳がおかしいみたいで、うまく、聞こえない」
「愛しておる」
「えっ」
「ん? 聞こえたか? お前は本人よりはまだ聞こえるようじゃな」
「い、いやいやいや! 姉上が僕を愛しているわけ……!」
「ふむ、やはり聞こえたか。……お前が自分がいらないとかムカつくこと言うから、わしはお前に愛を与えることにした。だから夫婦になった。それ以上の愛情の示し方というのが思い付かなかった。だがお前はどうもそれじゃダメなようだった。セックスも長い間拒まれたし」
「いえいえいえ! その、あの生活自体は僕にはすごく嬉しくて楽しくて勿体無くて……というかセックスとかああああああ!」

 大人の信勝は生娘のように頬を染めてジタバタと芋虫のように悶えた。今頬にキスでもしたら頭部が爆発するんじゃないだろうかと信長はちょっと好奇心が湧いた。

「とにかくわしはお前に愛を与えることにした」
「そ、そそそ、そんな! それにそもそも姉上は僕を愛してないのに、偽りの愛など……!」
「しかしな、一つ大きな問題がある。そもそも愛ってなんじゃ?」
「へっ?」

 大人の信勝はほかんと口をあけ、信長は空中にはてなを浮かべた。

「いや、前々から訊こうと思っていたんじゃ……お前が欲しがる愛ってやつはそもそもなんなのじゃ? それが分からんからわしなりに色々アプローチを試していたんじゃが」
「からかわないでください! 愛なんて初歩的な気持ちを何でも出来る姉上が知らないわけがないでしょう……あ、愛っていうのはその、愛しくてたまらなくて、その、時に相手を求めてやまない気持ちで……えっと?」

 まさか姉からそんな初歩的な質問をされると思わなかった信勝は説明した。しかし説明するとなんだかうまく表現できない気がする。

 あれ、愛ってなんだっけ?

「それなら最初からお前のことは「愛」しておる。わしにとって可愛い弟が信勝だ。昔から守りたいのがお前だった。ずっと心から笑顔でいてほしい、そういうのが愛ではないか?」
「えええ!? そ、それは家族だから一応不幸せだと目障りだという親切心なのでは?」
「求めるというと。まあお前みたいにベタベタしてはおらんがお前がいないと気になるし傍にいてほしいのが本音だ。これだって求めているということではないか?」

 大人の信勝はブンブンと首を横に振った。
 最初から欲しいものは目の前にあった。それなのに気付かなかった。そんな馬鹿な。

「お前は自分を他の英霊、特にサルと沖田と比べるようじゃが、一つはっきり言っておく。わしはお前をサルや沖田と同じには絶対思えん。だってあやつらに向ける感情は心から楽しい戦ができるだろうという感情じゃからな。お前は無理だ、わしは二度とお前と戦いたくない」
「た、戦う!?」

 大人の信勝は余計に目が回った。最愛の姉とまた戦うなんてこっちだってごめんだ。それが姉の愛なんてどうすれば……いや姉が自分風情を愛さないのは分かってるはず。いやしかし……気持ちがこんがらがってきた。

「と、とにかく愛っていうのは唯一無二のものなんです!」
「唯一無二か。それはやはり男女の愛のことか? 他は許さんという関係はやはりそこかのう。唯一無二で絶対……つまりわしがガッツを持てばいい?」
「ガッツ?」

 なんでバフ付与の話?

 信長はなぜか懐から写真を二枚取り出した。それは北欧のシグルドとブリュンヒルデが写っている。

「つまり……こいつらみたいにわしがお前に殺されてもガッツで蘇れば絶対的な愛ってことじゃろ」
「なんでそうなるんですか!」
「待て。わしはスキルにガッツを持っておらぬから、帰ってからマスターにガッツ付与に頼まんとならぬ。まだ殺すな」
「いつまでも殺しませんよ! 愛する人を殺すなんてできるわけないでしょう!」
「なんじゃと。まさか北欧夫婦の唯一無二的愛では不足というか?」
「いえ、不足とかそういう問題ではなく……」
「虞美人と項羽の場合は」
「だからからかうのはやめてください! 他人の真似をしてどうなるというのです!?」

 信長ははあとため息をついた。

「信勝、お前はわしを勘違いをしておる。わしは愛など分からんのじゃ。正直心というものも分からん。分からんから他人の真似するところからしか始められぬ」
「姉上は……愛が分からない?」

 弟の目には最強の姉が何故か弱々しく見えた。

「わしを万能かなにかだと思っとるようじゃが、わしには四十九年の人生で「誰かを愛した」というはっきりした実感はない。書物で愛情という定義を知って「そうかあれは愛ってやつなのか」と後追いで確認するのがせいぜいじゃ」
「嘘です……姉上はなんでもできる……!」
「そろそろ分かれ。わしは特殊な才は持っていたがなんでも出来ていたわけではない。愛や心などお前ほどは知らぬのだ。そう生まれついた生き物なのじゃ。我ながら愉快じゃがなかなか荒涼とした人生だった」
「姉上にも……できないことがある……?」

 信勝の愛情には大きく憧れが含まれている。それには残酷な側面がある。
 素晴らしい人には自分と同じつまらぬ悲しみや苦しみがないと思い込んでしまうのだ。自分を卑下するほど、偉大な相手はこんなつまらないことで悲しんだりしないと決めつける。相手を崇めるほど相手は苦しみを言えなくなっていく。
 信勝だけではない。元々憧れるという感情にはそういう毒がある。

 あまりに長く信長を見上げて生きてきた信勝には同じ目線に立とうとする姉が別人のように見えた。まるで自分と同じままならぬ人生に苦しんだことのある人間のようだ。

 信長はすっと大人の信勝に近づき、その頬に触れた。

「だがお前が必要とするならお前に愛を与えたい。お前がいない人生はもう十分だ。そう……うんざりするほど味わった。それなのにまた自らいなくなろうとするな。だがわしには愛が分からぬ。人の真似しか思い付かなかった。だから言葉で教えよ……信勝にとって愛とは何なのだ?」
「僕は……僕は……」

  大人の信勝は何も言葉が見つからなかった。なにか決定的なことを間違えている。それを正したいのにどうすればいいかわからない。……特にこの「大人の信勝」は聖杯が心の核から抽出した「大人になった信勝がこうであるべきと願った心の側面」なのだ。限りなく本人に近いが本体と違いコピーは成長できないので今できないことは永遠にできない。

 信長は縛られた信勝の手を握った。胸では子供の信勝が心配そうに二人を見比べている。そのぬくもりがあったからここまで言う勇気が出たのかもしれない。

(わしも人の事を言えぬ)

 いつもそばにいるからと気持ちを伝えなかった。そのくせそばに居なくなる日が来るとは想像もしなかった。そのぬくもりで十分だと弟が知る日は生者の頃永遠にこなかった。

「……分かりません」
「信勝」
「ごめんなさい、姉上。あんなにあなたの愛を願っていたのに、心を殺さなければならないほど望んでいたのに……僕には愛が分からなくなった。いえ、最初から愛なんてわかっていなかったのかもしれない。自分の気持ちに夢中で、姉上のためと言っておきながら、自分の心すら知らない愚か者だってやっと知りました」
「……なんじゃ、お前もそうだったのか」

 ふと信長はかつてなく弟を近く感じた。ヒトの心は自分には聞こえない。その価値が分からない。だから自分自身の気持ちすら時折分からないのだと自分を不完全な存在だと感じた。……けれど、誰よりもヒトのように見えた弟にも自分の心が分からなくなることがあるのだ。

「ふふ、ははは……」

 信長は気の抜けたような笑顔を浮かべた。なんだ姉弟揃って愛がわからないのだ。いつからか耳が聞こえなくなったが自分達の心にも一緒の部分があったのだ。

 大人の信勝はぽろりと涙をこぼした。

「姉上、ごめんなさい」
「ふはは、まあそう泣くな。わしは今悪くない気分じゃ」
「……早く逃げてください」
「どういう意味……」

 その瞬間、右手のリボンからアンデルセンの声が聞こえた。

……「気をつけろ! そいつは聖杯だ!」……

 その声に応えるように。
 大人の信勝はどろりと黒い泥へと変わっていった。









 信長に近づこうとすると大人の信勝を縛っていたリボンが光り、泥の進行を妨害した。

「……聖杯?」

……「さっきまでそれがなんのか分からんかった。だが今解析ができた。それは聖杯の泥、お前の敵だ! 触れると霊基ごと溶かされるぞ!」……

「姉上……ずっと抑えていられなくてすみません。う、ぐうっ……もうしばらく抑えていられる。だからその間に逃げてください。聖杯は織田信勝からあなたにターゲットを変更するか悩んでいる……ううっ!」
「姉上!」

 子供の信勝が信長の顔に手を伸ばして何かを防いだ。大人の信勝の指が溶けて、黒い泥の小さな粒が信長へ飛んだのだ。子供の腕に火傷のような傷ができる。

「馬鹿者! この程度ならわしは……!」
「こ、こんなの平気です! それより逃げましょう!」
「不思議だな……お前は聖杯から作られていないのか?」

 この場の誰も預かりしれぬことだが。
 子供の信勝は聖杯に作られた存在ではなく、アンデルセンの宝具によって解析された信勝の心の影の一部だった。無論、聖杯に全く関係のない存在ではないが大人の信勝と違い聖杯に操られることはない。

「姉上、あなたをこの島で見た時、気が狂いそうになりました。「僕」一人ですむ話だったのに、あなたが聖杯の中にいては意味がない。しばし僕の聖杯の泥を抑えて、説得して外に帰ってもらわねばと……でもやはりあなたは僕風情の思い通りにはならないのですね」

 体の半分が泥になった大人の信勝は春の花のような笑みを浮かべた。その気持ちを汲むべきだと信長は逃げようとした。しかし、足が動かない。

 また泥が溢れると大人の信勝を縛っていたリボンが千切れた。

……「いい加減に逃げろ! もう持ち堪えれんぞ!」……
「逃げて姉上! あいつも願ってます!」

 アンデルセンと子供の信勝が正しい。信長はようやく背を向けて退いた。けれど声を聞くことはやめられなかった。

「僕なりにあなたを助けたかったのです。だから聖杯に願ってあなたから僕の記憶を消すつもりだった、僕みたいな無意味な存在でも家族だから苦しいなら最初から忘れていればいい。昔と一緒です。好きな気持ちは僕だけが持っていればいい。そう信じてました。さっきの話ならそれが僕の精一杯の愛だと思っていました。どんなに苦しくても、軽蔑されても、忘れられても、見返りを求めず相手の幸せを願うことが本当の愛だと……あなたに裏切り者と思われても黙って死ぬのが僕の人生の意味だと」
「……ふざけるな」
「けれどあなたと話して分からなくなった。聞こえない部分もいっぱいあったけど、今の僕にはあなたの記憶を消すことが正しいとは思えなくなった。不思議ですね、それがあなたの苦しみを消すことになることは分かっているのに……なんだかしてはいけないことのようの思えるのです」
「……アンデルセン、なんとかならんか」

……「無理だ!」……

 大人の信勝は困ったように笑った。

「姉上、前々から思っていましたがあなたは変な人ですね。あなたはいつも人に囲まれているのに不思議と僕のそばにいてくれた……あなたはなんのために聖杯の中に来たんですか?」
「しれたこと、信勝を取り戻すためだ」
「僕、行方を知っています」
「っ!?」

 信長は振り返ってしまった。聖杯の泥はまだわずかに人の形をしていた。ぎりぎり形を保っている顔で大人の信勝が苦しそうに笑っていた。

「さっきのひもをもう一つ僕に。それで泥を押さえつけている間に場所を教えます。だってあいつを見つけないと姉上は帰ってくれないでしょう?」
「アンデルセン! 頼む!」

 信長は振り返り、弱々しく伸ばされた腕にリボンを一本巻きつけた。

……「ああもう、聖杯の罠の可能性がどれだけ高いと……どうなっても知らんぞ! 後で死ぬほどダ・ヴィンチに小言を言われろ!」……

 結ばれたリボンが光り始めると泥の暴走が少し弱まった。

 それで大人の信勝は少し顔の苦痛が和らいだ。人の形が崩れるスピードが止まった。

「僕は本当の織田信勝に願いを言わせるために聖杯に作られた存在なんです。だから願いを言わせるために本当の僕を拷問をしていた。……でも妙な存在の介入で逃げられた。それを追っていたところだったのです。告白しますが、あなたの記憶を利用しました。わずかでも聖杯の泥に触れたものは少しだけ記憶を奪われる。だからあの……姉上と母上の酷い記憶を映像として飛ばして足止めしていました。それでゆっくり迎えにいくつもりだった。まさか聖杯の中に姉上が入っていたとは完全に予想外でしたが」
「……何を見たか知らんが、つまり本当の信勝の場所を知っておるんじゃな?」
「ええ、大まかな方角ですが。そんなに遠くはないですよ。僕は知っての通り足があまり早くないので……最後の力でそこへあなたを飛ばします。わずかだけど聖杯に力をもらっているので」
「それでお前はどうなる?」
「そこで力尽きて終わりでしょう。消えますよ。……なんだか変な気分です。僕はただ聖杯に作られた仮初の存在なのにこんなことをしているなんて。なんていうんでしょう……自分が誇らしいってこんな気持ちなのかな?」
「信勝」
「姉上、行ってください。僕は今、生まれてきた意味がわかった気がします」

 そう言った瞬間に大人の信勝の腕が光った。信長の腕の中の子供の信勝ごと彼女が消える。消えた瞬間、二本目のリボンが千切れた。

 それでようやく大人の信勝は消えていった。少しずつ体と意識が崩れていく。聖杯が用済みと処分しているのだろう。

……「……一途なことだな、再会できるのはお前ではないのに」……

 ぼうっと空を見ているとリボンの切れ端からアンデルセンの声がした。気のせいだろうか。少し悲しそうな声に聞こえる。

「姉上……どうかご無事で……本当の「僕」に愛が分かればいいんだけど……」

 そう話す言葉もごぼごぼと泥の溶ける音に消えていった。









【信勝は愛がわからない】



 信勝は刀を鞘に収めるとまた亀の上に乗った。亀はしっかり掴まるようにいうと上へと泳いだ。しかし途中で止まってしまった。

『……そう簡単にはいきませんか』

 信勝の右足には例の鎖があり、それが最初の頃より短くなっていた。鎖の反対は海底に繋がれ、三メートル程度で限界がきてしまう。無理に亀が強く泳ぐと信勝の方が落ちてしまう。

「この鎖っ、このっ!」
『信勝殿、ご自分を傷つけないよう気をつけてください』

 信勝は軍刀を抜いて何度も鎖に突き刺した。しかしびくともしないので自分の足首に巻きついて鎖に一層強く刃を突き刺す。それでもダメで信勝はふと気がついた。

「そうだ、僕の足を切り落とせば……」
『信勝殿! ここは聖杯の中です。英霊とはいえ治療できる場所はないのですよ』
「でも他にどうすればいいんだ! 一応英霊なんだからまたすぐ生えるよ。僕なんかの足ですむならそれが一番いい! ここを出るにはそれしかないだろう?」
『……分かりました。しかし最終手段にしませんか? 私の背に乗ってもう少し海底を探索しましょう。何か別の方法があるかもしれない。信勝殿だって海上に戻って歩けなくなったら困るでしょう?』
「それは……そうだな。歩けなくなるのは困る。うん、お前の方が冷静だな、卑弥呼が信頼していた弟なだけあるよ」

 信勝は最後の台詞でなぜか暗い目をした。

 亀は安堵してまた信勝を背にして泳いだ。鎖の端はどこに結びついているわけでもなく泳ぐとそれを追うように海底を移動した。また何度か上へと泳いだが海底からちょうど三メートルで長さが限界になってしまう。

 亀はとりあえずさっきの場所から離れることを意識した。信勝が母の幻をたくさん殺した場所。亀も理屈ではこんな場所に彼の母がいるはずがないのは分かっているが異様さによくないもの感じる。

 しばらく海底を無言で泳いでいると亀は一つ尋ねた。

『信勝殿は母君と憎み合うような関係だったのですか?』
「? いいや、さっきも言ったじゃないか、母上はいつも僕に優しかった。変なことを聞くやつだな」
『いえ、幻だと分かってはいるのですが、あまりに平然と斬ったので』
「ああ、それか……だっておかしいだろう? 僕が死んで悲しいなんて。そんな人間いるわけないのに。母上は僕のことなんかすぐに忘れたに決まってる」

 亀は言葉に詰まった。本当におかしそうに笑っている信勝は本気でそう思っている。亀は信勝の母に会ったことはないが……さっきの幻のように息子が死んで悲しんだのではないかと思った。もしそうなら信勝の言葉はあまりに彼女が哀れだった。

「変な話していいか?」
『どうぞ』
「僕は死ぬのがあんまり怖くなかったんだ。腹を切るのは痛そうで怖かったけど、やっとその時が来たと思った……だから怖いよりホッとしてた気持ちが大きかった。それに安心してた。無能な僕が死んでも誰も悲しまない。誰も苦しませないですむ。無価値なことにも役に立つことがあるんだなって」
『……私は信勝殿が好きですよ、いつも話していて楽しいです』
「……ごめん、なんて言ったんだ?」

 亀の言葉はノイズが混じって信勝には届かなかった。亀がもう一度伝えるか迷う間に異変が起きた。

「亀くん! 前!」

 信勝が指差す先には桃色の鱗の人魚姫がいた。距離は三メートルほどで亀が泳ぎを止めても間に合わない。相変わらず顔のない人魚姫は身長ほどある大きな泡にたくさん囲まれていた。

『いつまで逃げているの』

 彼女がそう告げると周囲の泡が向かってきて、信勝と亀はあっという間に飲み込まれた。







 また信勝は映画館にいた。どうせ嘘に決まっているのに聖杯はしつこい。亀は無事だろうか。彼が心配だった。

(こんなあり得ないものばかり見せるなんて聖杯は何を考えているんだ。僕が見て嘘ばっかりなのに。……そうだ、嘘に決まってる。僕が死んだせいで母上が姉上を憎むようになったなんて嘘に決まってる)

 信勝がそう強く思うと今度はなんとか席から立ち上がることができた。少し足を引きずっていたが歩ける。ここがどこかわからないけれど亀を探しに行かないと。

 信勝が背を向けても映画の音声は聞こえた。


……「……また来たのですか。一体に何をしにきているのです。今度は将軍を意のままにしているとか。いつもお前は世の理をめちゃくちゃにしますね」……
……「変わらずお元気そうで何よりです、母上」……
……「それだけの力を得たら私一人消すことなぞ造作もないでしょうに。それとも罵ることしかできない私が面白いですか。なんの利用価値もないでしょうに」……
……「これでも孔子の教えを寺で習ったので、親孝行ですよ」……
……「嘘をつくでない。そんな世の習い歯牙にかけたこともないくせに。兄弟を殺したくせに」……

 映像は少し変化を始めた。歳月を重ねると二人は少し歳をとり、土田御前は信長を罵る回数が減った。その代わり無視するようになっていった。自然と両者はピリピリとした静寂の中で座っているだけになっていった。姉はずっと母に正面から向き合い、母はずっと姉から顔を背けている。

 一定の時間が過ぎると姉は再会の約束をして去っていく。

……「それではまた」……
……「もう来るでない」……

 徐々に母娘はそんな風に別れるようになった。


(姉上はどうして母上に会いに行くんだろう? 悪く言われるか、こんな風に無視されるのに?)

 信勝は首を横に振った。これは全部嘘だ。幻だ。疑問なんて持っても答えがある訳がない。

 もう一度両手で頬を叩いて前に進むと妙な感触がした。何か硬いものを踏んでいる。

『信勝殿?』
「ええっ!? 亀くん!?』

 なんと今度は亀まで映画館にいた。信勝の座っていた座席のほんの数メートル先にいたのだ。意識がぼやけ、足がふらついていたのでちっとも気付かなかった。

『見つけられてよかった。こちらにいらしたのですね。いやはや、聖杯の中とは奇妙なものですな。先ほどは海と思えば、今度は映画館? という場所とは。まあ全て聖杯の思うままと思えば姿は重要ではないのでしょうが』
「……よかった、会えて」

 信勝は安堵でわずかに涙が出た。この空間が怖かった。彼がいてくれると思うだけで気が緩んで涙が出る。

『ふらふらではないですか、私の背に乗ってください。なに、これでも陸亀です。少し遅いかもしれませんが』

 海の中でもないのに流石に申し訳ないと最初は丁重に断った。しかし信勝が歩くたびにふらつき座席にぶつかって進まず、最終的に亀の背にまた乗った。

「ご、ごめん……なんかうまく歩けなくて」
『いえいえ、この方が離れ離れにならず安心です。速度には自信がありませんが。しかしこの映像はなんでしょうな……?』

 亀は映画をチラリと見た。映っている女性はどちらも見覚えがある。邪馬台国で会った信勝の姉とさっき死体を見た信勝の母だ。あまり見ていて気分のいいものではなく一方的に母が娘を責めている。

『聖杯の罠でしょう、早く移動しましょう』
「……うん」

 そう言って亀は信勝をのせて映画館の出口へ歩いた。しかしドアの向こうを見て愕然とした。その先はまた同じ映画館の非常口だった。もう一度出口へ歩くとまた同じだった。

 亀はめげなかった。十回同じ出口をくぐった。けれど何度やっても非常口に出るばかりだった。

 ぐるぐるとループしているようで目が回りそうだ。そうしているうちに亀も映画の内容が頭に入ってくる。二人はずっと信勝の話をしている。母は娘を憎んでいる。息子を奪ったと、返してくれ、さもなくば死なせてくれと。

 二十回目同じ非常口に出ると信勝は休憩しようと言った。だから二人は席には座らず、最後尾の廊下で並んでしゃがんだ。

『母君は……こんな風だったのですか?』

 あまりに真に迫った映像だった。だから亀はうっかり聞いてしまった。信勝はポツリといった。

「母上は……昔から少し変だったんだ」
『変というと?』
「昔からなんだ。僕の方が姉上より優れているっていう。そんなはずないのに……ただ無能な僕を哀れんで慰めてくれたんだろうけど」

 亀は迷った。この映像は全て聖杯の嘘かもしれない。しかし今は信勝が自己否定を続ける様子の方が気に掛かった。

 もしも母がただ信勝を愛していたなら。
 そんなはずないと当の本人に否定されていることを哀れに思った。

「どうしてかずっと分からなかった……姉上は凄くて僕なんか無能で生まれてきた意味がないのに」
『信勝殿、それは違いますぞ。凄いとか無能とか関係ありません』

 亀は一つ決めた。信勝は今まで亀の前で自分を軽んじる言葉を平気で言ってきた。それは同じ偉大な姉を持つ弟の気持ちとして仕方ないと流してきた。けれど今は言わねばならない。

「どうして……?」
『好きだからです。好きという気持ちに凄いだの無能など関係ありません。存在そのものを必要としているのです』
「母上が、僕を好き……?」

 その言葉は少し掠れていたが霊基の繋がった亀の言葉ならなんとか聞こえた。

 けれどこんな無価値な自分を愛する人なんて存在するわけがない。
 だって自分自身がこんなに自分を嫌い、存在を呪っている。

「そんなはずない、だって僕は生まれてこない方がよかったから……」
『あなたが自分を嫌っているからといって他の人も同じではないのです』
「……え?」
『それは信勝殿の気持ちでしょう。自分が生まれてこなければよかったというのは……そう思い至るのは辛かったと思います。けれどおそらく母君は違うのです。私も。そしてあなたの周りの多くの人も。もちろん信勝殿の姉上も……自分の気持ちと周囲の気持ちを混同してはなりません』


……「自分とわしを混同するな」……


 夫婦ごっこを始めたばかりの頃、姉にそう言われたことを思い出した。

(僕とみんなの気持ちは違う? 僕をいてよかったと思ってくれる人がいる? そんなはずない、みんな僕が嫌いか、僕はどうでもいいだけのはず……姉上だって)

 信勝の精神は歪んでいた。心の一部が欠けて好意を認識できない。自分への愛を捨てた時に自分を愛する声が「聞こえなくなった」。弱い信勝が全てを引き換えに姉の敵を抹殺するためにはそういう風に壊れるしかなかった。

 自分がいらない存在だと信じるから平気で死ぬことができた。だから自分が死んだことで悲しむ人のことなど想像したこともない。

 そんな信勝を愛した人物は浮かばれない。認識されない愛は当の本人には存在しない。告げても嘘だと思われるだけだ。

 けれど霊基が繋がっている亀の声は例外だった。彼の声はノイズに遮られず信勝の心にダイレクトに響いた。超常的な精神の繋がりは信勝の精神の殻に少しずつヒビを入れた。

『私は母君の気持ちは少し分かります。私も信勝殿が好きですからな。ちっとも伝わっていないようですが……私は信勝殿が馬鹿とも無能とも思っていませんが、例えそうだとしても私はあなたが好きですよ』
「お、お前は……たまたま僕と似ているからだろう。お前も偉大な姉がいるから……そんな存在はたまたま僕しかいなかったから」
『逆に聞きますが信勝殿は私が少しは好きですか? 馬鹿で無能なら無価値な亀だと嫌いになってしまいますか?』
「そんなわけ……!」

 結局信勝は優しい。
 だから亀は必死に言葉を届けた。彼が傷つくことを承知で、霊基の繋がりを強くして信勝の精神の硬い部分に割り込んだ。

『いい加減、気付いてください。信勝殿が自分をどんなに憎んでいても、世界は、周りの人々は憎んでいるとは限らないのです。あなたを好きな人はたくさんいるのです……それを「誰からも愛されていない」「誰からも必要とされていない」とあなた自らに否定されることが相手にとってどんなに辛いことか分かりますか?』
「嘘だ……嘘だ……!」
『……母上に愛された記憶は本当にないのですか?」

 信勝は耳を塞ぎ、目を閉じ、首を横に振った。母はいつも優しかった。それはただ母親の義務以上のものではなかったのか?

(もしも、もしも、仮定の話……本当は母上が僕が好きだったとしたら?)

 足元がぐらりと揺れた。偽物と斬り殺した母親の死体の山を思い出す。だとしたら偽物とはいえあまりにも酷いことをしたのではないか。愛してるなんて母が言うはずないと必要以上に痛めつけた。

(あの幻、ずっと言ってた。僕が死んで辛かったって……もしかして他にもそんなこと思った人がいるのか?)

 それでは自分はなんなのだ。母が死後辛い想いをしたなんて考えたこともなかった。だから平気で死んだ。母の嘆きなど想像もしないで、幻とはいえ即座に否定した。そんな、そんな酷い人間なのか。


 信勝が呆然としていると映像の声が酷く大きく聞こえた。

 映像では母はもう姉を激しく罵ることはなかった。


……「どうしていつまでも会いに来るのですか?」……
……「さて、それが子の務めと習ったので」……
……「悔いているのですか、信勝を殺したことを」……


 その言葉に信勝は凍りついた。

 姉は初めて少し表情を変えた。わずかに母から目を逸らす。


……「……なんのことだか」……
……「そなたが私に会いに来る理由をずっと考えた。最初は殺しにくるのだと思っていた。けれどこの二十年お前はずっと私を殺さなかった……ならなんのために? それで気付きました。お前は罵られるために私に会いに来ているのではないか」……
……「……」……
……「母に罵られ、無視され、恨まれることで信勝を殺した後悔を晴らしているのですか?」……
……「勘違いしています、私は信勝を殺したことをなんとも思っていませんよ。なにしろ二度も謀反を起こされたので」……
……「ではなぜ謀反を起こせと信勝に言った私を生かすのですか?」……
……「ご自分で何度も仰っているではないですか。あなた一人では何もできない」……
……「それは私に会いに来る理由にはならない」……

 母は姉をまっすぐ見た。

……「もしそうだとしたら哀れなことです。そんなことをしても後悔など晴れない。最初から間違えています。悔いているならただ墓前を弔いなさい……お前の嫌う世の理に従って」……

 そこで映像は終わった。


「嘘だ……姉上がそんなこと思うはずない。だってそれじゃ……僕はなんのために……!」
『信勝殿』
「う、うるさい! 放っておいてくれ! ……こんなの聖杯の罠だ! 絶対に現実じゃない!」

 信勝は叫ぶと脳裏に姉の声が蘇った。

(……あれ?)


……「わしがいうことでもないが……お前は少し宝具を軽々しく使いすぎる。もう少しこう……ちっとは惜しめ」……


 不意に自分の宝具を使う時の姉の表情を思い出した。わずかに硬い表情をして、ため息をついてそう言った。

 何を言っているのか分からず信勝はその後も積極的に宝具を使った。自分にできることは姉のために死ぬことだけと何度も目の前で我が身をチリにした。その光景を見て姉はなんとも思うはずがないと信じていた。

(あれあれあれ……?)

 もしも姉がわずかでも自分の死で悲しんだなら。
 自分は許されないことをしてきたのでは?

「嘘だ! 嘘だ! 姉上は一言もそんなこと僕に言わなかった!」
『信勝殿、危ない!』

 はっと信勝が顔を上げると顔のない人魚姫が映画館の宙を泳いでいた。真っ直ぐに信勝の元へ飛ぶとその腕を掴む。抵抗したがぐいと手を引かれると信勝の体ごと宙に浮かんだ。

 人魚姫は笑ったように見えた。

「離せ!」
『やっと真実、現実に気付いたのね』
「……っ」
『王子様の気持ちを考えなかったのが私。姉の気持ちを考えなかったのがあなた。どっちも同じ罪、とっても大事な人だったのに悲しませたことを知ろうともしなかった』

 人魚姫は宙を泳ぐ。腕に掴んだ信勝を真っ暗なスクリーンの方へと連れていく。


 いやスクリーンにはまた映画が映った。それは初めて姉一人だけの映像だった。彼女は一手には何も持たずじっと一つの墓石を見ていた。

 その墓石に刻まれた名前は自分のものだった。

……「やはりただの石ではないか……母上のやついい加減なことを」……

 信長は墓には近づかずすっと背を向けた。けれどその表情は苦しそうで……。



「姉上……どうしてそんな顔をするのです?」

 もしもこの映像が真実なら彼女は自分のせいで苦しんできたことになる。
 一番の理解者面をしながらそれを知ろうとしなかった自分は一体なんなのか。

『させるか!』

 亀が空を飛んだ。

 彼の体は金色の光をまとい、人魚姫に体当たりをした。衝撃で人魚姫は手を離し、信勝は座席へ落ちた。

 亀は近寄ってその無事にホッとした。この身がここにあるのは姉の卑弥呼の力と意志。なんとしても信勝は守らねば……。

『信勝殿、どこへとは言えませんが逃げてください! ここは私が……!』
「……るさい」
『え?』
「うるさい! うるさい! 僕のことはもう放っておいてくれ!」
『何を言って』
「お前に何がわかる! 前から思ってたんだ! 僕とお前は全然違う! だってお前は最後まで卑弥呼のそばにいたんじゃないか! あのクチナヒコの闇の中でまでずっとそばにいることを許されたんじゃないか! 僕はいることも許されなかった! それを理解者面して僕と同じなんて二度というな!」
『信勝ど……』
「僕は! 僕は! 僕だって! ただ姉上のそばに最後までいたかった……」

 亀は何か言いかけたが。
 口を開く前に宙を泳ぐ人魚姫に捕らえられた。
 ひどく甘く邪悪な声が響く。

『あなたは邪魔、彼に拒絶されたならもうここにはいられない』
「や、やめろっ!」

 信勝は叫んだが。
 人魚姫は亀の甲羅を抱いた。すると亀はわずかに苦しい顔をして、体が水に流した墨のように溶けて消えてしまった。
 それで終わり。亀は溶けて消えてしまった。

「ごめん、ごめんっ……なんで僕はっ!」

 信勝はまた叫んだ。彼のことが大好きだったのに。助けてくれてとても嬉しかったのに。そんな人に最後にあんなことしか言えない人間なのか。

(……逃げなきゃ)

 彼の言葉を思い出す。逃がしてくれようとした。それにカルデアに帰れば亀の霊基を卑弥呼のそばにおいて置く事ができる。

 信勝は立ち上がり、宙の人魚姫を睨むとくるりと背を向けて出口へと走った。

 不思議なことに人魚姫は追ってこなかった。ただぽつりと尋ねた。

『また現実から逃げるの?』
「……現実? これは全部聖杯の見せた茶番じゃないか」
『これは確かに幻だけど、本当にあったことだよ。そうしていつまでも逃げるの? 大切な人を傷つけたことに気付かないまま罪を重ねて生きていくの?』
「なら……姉上に直接確かめる、ちゃんと本人の口から聞く」

 人魚姫は宙でくるくると回って笑った。

『そんな勇気ないくせに。生きている時からそう。あなたって一度も本当のことを大切な人に聞かなかった。喉が潰れてもいなかったくせに』
「……今度は聞く」
『また同じことを繰り返して後悔するだけよ』
「さよなら」

 そう言って信勝は映画館の出口の扉をくぐった。








【再会の言葉】



 信勝が後ろ背にドアを閉めると胸中で亀に詫びた。必ず帰ってみせる。

(あの沖田って女に言われるまでもなかったんだ……僕は色んなことを姉上に聞かなきゃ。母上のことも直接確かめなきゃ……)

 信勝が顔を上げるとそこはもう映画館ではなかった。そこは赤い絨毯が敷き詰められた暗い廊下だった。

 暗闇に少し躊躇ったが進む。すると扉があった。右手で押すとわずかに開く。鍵はかかっていない。

 両手で押して開けるとそこは外だった。

 信勝が最初に歩いていた浅い海だった。一歩外に出ると扉は墨に溶けるように消えた。また膝から下がとぷんと海に浸る。

(元の場所に戻ってきた……?)

 けれどそこには最初の光景と違いがあった。
 そこにはある人物が立っていた。

「信勝……おい、信勝、どこだ?」

 それは姉だった。信勝とは逆方向を向いて誰かを探している。なぜかかがみ、膝丈のあたりをきょろきょろと視線を彷徨わせている。

「姉上……?」

 呼ぶと彼女は振り返った。それは間違いなく姉だった。聖杯の幻を疑ったが本物の信長にしか見えなかった。なぜか右手首に桃色のリボンが結ばれている。

「……信勝?」

 そしてそれは本当に信長だった。聖杯に作られた大人の信勝の力でここまで飛ばされたのだ。しかし子供の信勝とははぐれてしまった。

「姉上、ですか? 本当に助けに来てくださったのですか?」
「……だ」

 近寄った信勝は凍りついた。
 信長の目から一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。

 アンデルセンの宝具だと信長の冷静な部分が囁いた。
 つまりこれは本物の信勝なのだ。

(やっと会えた、さっきの「信勝」の言った事は本当だった……ああ、さっき勝手なことを言っていた。聖杯を使ってわしの信勝の記憶を消すとかなんとか……どうしてだ、信勝。あれは本物ではないとはいえどうしてお前はいつもそんなことばっかり願う……そんなことわしは一言も言ってないのに)

 止まらない涙は信長の心を揺さぶった。
 涙は本人の心に作用することがある。
 だから信長の心の中で凍らせて封じていた言葉をこぼしてしまった。

「あ、あああ、姉上!? どこか痛いのですか!?」
「なんで死んだ?」
「……え?」

 信長の手が信勝のマントに伸びた。マントをつかみ、俯き、絞り出すように死ぬまで言うつもりのなかった言葉が溢れる。ポツポツと海面に涙が落ちる音がした。

「お前が死んだのはわしのせいなのか?」









【姉の昔の話】




 誘拐事件の二週間後、やっと信勝は外を歩き回れるほど回復した。

 九つの信勝の足はまだふらふらしている。しかし小走りでなにかを探していた。屋敷の外に出るときょろきょろと周囲を見回した。

「姉上!」
「……なんじゃ、ようやく起きたんか」

 ちょうど帰るところの姉を見つけて弟は駆け寄った。ちょうど鷹狩りをした帰りでまだ十二歳の信長は少し疲れていた。

「姉上、あの……」
「もう、わしに近づくな」
「え……?」
「お前は怖がりがすぎる、わしとは気が合わん」

 信勝の顔から感情が消えた。内心信長も戸惑っていた。人を殺した姿に怯えられて一線引こうと思っていた。けれど久しぶりに見た弟の顔を見ると妙にホッとしていた。やっと起き上がることができたのだ。

(お前はそれでいい、そっちの世界にいろ)

 ヒトの世界が弟の居場所だ。異質な姉のそばにはいなくていい。

「じゃあな」
「待ってください、姉上! ……怒っているのですよね」
「……?」

 別に怒っていたわけではない。しかし妙だ。弟はわんわん泣くと思っていたのに現実にはただ申し訳なさそうだった。

「あの時、助けていただいたのに僕が吐いたりして……ずっと謝らなければと思っていたのになかなか動けなくて。姉上、申し訳ありませんでした」

 すっと弟が頭を深く下げた。さっさと去るつもりだった姉はそのつむじをポカンと見つめてしまった。

 信勝は頭を上げるとまっすぐに信長を見た。

「そしてありがとうございます。姉上は僕の命の恩人です。必ずこの御恩はお返しします」
「……変なやつじゃな、お前は」

 最後の態度との落差に戸惑う。最後に見たのは恐怖に引きつった目だった。今はただまっすぐな眼差しだった。

「全部僕が悪いのです。僕が弱いからあの時姉上の血を拭ってさしあげられなかった。しばらく近づくなと言われても仕方ありません。姉上が怒るのは当然です……寂しいですけど」
「……」

 苦しそうに目を伏せる。なんだこれは。この弟は初めてだ。拒否すればただ泣いていかないでというだけだと思っていたのに。

「あの、姉上、しばらくは近づきません。でも……その内また、前みたいに」
「別に怒っておらん」

 信長は信勝の頭に手を伸ばした。そっと触れるような撫で方。信勝の目が丸く見開かれた。

「あ、姉上?」
「怒っとらん。ただお前がわしに怯えるから近寄るのはよせと思っただけだ」
「姉上に怯えたのではありません! ただ……僕が情けなかっただけなのです。血に怯えるなんて、武士のくせに」
「もういい、ついて来たければ好きにせよ」
「……姉上!」

 パッと花が咲くように笑う。緊張が解けたのだろう。信勝は九つの子供に戻って姉の着物の裾を握った。

 結局、いつものように二人は一緒に屋敷の門へと歩く。

「あの姉上……」
「今度はなんじゃ」
「おかえりなさい、姉上!」

 また春の花のような笑顔を浮かべる。その笑顔を見ると信長は信勝と距離を取ることをすっかり忘れてしまった。





 思えば弟は妙なところで聡明で、頑固なほど誠実でそれで何度も距離をとり損ねた気がする。





 ある日、信長は妙なものを見た。

 信長が木刀を持って城下を歩いてるとこの前十歳になった信勝が同じ年頃の少年たち三人に囲まれている。信勝は擦り傷を作って、地面に膝をついている。

(まーた、いじめられてるんか)

 呆れ半分日常半分ちょっぴり怒りな心境で信長は家の影からそっと様子を伺った。

 しかし様子がおかしい。信勝の泣き声が聞こえない。いじめられるとすぐ泣くはずなのに信勝は泣いていなかった。それどころか一人の足に自ら飛びかかって、振り払われても抵抗していた。

「いい加減にしろよ! お前殴ると親がうるせえんだよ!」
「う……うるさい! お前、謝れ! 謝れよ!」
「しつこんだよ! 弱いくせに! てめ、いってえっ!?」

 何度も殴られたのに信勝はいじめっ子の足にしがみつき、ガブっと噛み付いた。

 信長は目を丸くした。あの臆病者の弟が反撃している。三人相手に謝れとまで言い返している。信勝は掴みかかった相手に足蹴にされていたがそれでも噛み付くことをやめなかった。

(……あいつなりに、成長しているのか)

 いつまでもいじめられて姉に泣きつく弟ではないのかもしれない。考えれば当たり前だ。

 どうしよう。いつもは悪ガキを追い払って助けていた。しかしこれが弟なりの戦いなら横から姉が介入していいものか。

 信長が悩んでいると信勝の声が聞こえた。

「このっ! でかい家の子だから手加減してやってんのに!」
「うるさい! 謝れ、謝れ! 姉上に謝れよ!」
「本当のことを言って何が悪い! いってぇ!? いい加減離せ!」

 信長の思考が停止した。

(わし?)

 一人の子供が拳ほどの石を拾って信勝の頭に振りかぶった。しかし直撃する直前に信長が割って入った。石を持った手を軽く捻りあげる。

「うちの弟になにする」
「げっ、男女が来たぞ!」

 信長は一瞬で三人の子供の肩や腰に木刀で打ちつけた。

「いってぇ! ……うつけが来たぞ! うつけが感染る! 逃げろ、逃げろ〜!」

 そう言って蜘蛛の子を散らすように逃げていく。強いものが来ると正直だなと呆れていると信勝の行動にまた目を丸くした。

 しかしまだ信勝は立ち上がっていじめっ子を追いかけようとしていた。慌てて信長が着物を掴んで止める。しかし信勝は叫び続けた。

「おい、いい加減にしろ。傷だらけじゃ」
「逃げるな! 待てよ! 謝れ! 姉上に謝れ!」
「……いいからこい!」

 自分がなんだというのか。

 信長はまだ暴れる信勝を引きずって木陰に運んだ。あちこち血が流れているので信長は新しい手拭いで拭う。やはり痛いのだろう。目端に涙が滲んでいる。

「まったく、三人相手に正面から向かうからこんなことになるんじゃ……おい?」

 信勝はボロボロと大粒の涙を流した。

「ごめんなさい、姉上。僕、なんにもできなかった……いつも姉上に助けてもらってるのに」
「……全く、今日はどうしたというのじゃ。一体、なにがあった? 泣き虫のくせに噛み付いたりして」

 その涙は自分の痛みのためではない。それは感情を読むことが苦手な信長でもわかった。弟は自分の無力が悔しいのだ。

「だって……あいつら、姉上のひどい悪口言ってたから。姉上に謝らせたくて必死に掴みかかったけど……結局負けちゃって」
「……」

 大体内容は予測がつく。大人たちだって奇抜なことばかりする信長の陰口を言うのだ。それを家で聞いている子供がなにを言うのか想像はつく。

「僕、なんにもできなかった。あ、あんなひどいこと言う奴らやっつけてやりたかったのに。姉上の前に連れていって謝らせることもできなかった」
「信勝」
「僕は助けられるばっかりで、姉上の足手まといで、一体いつになったらあなたを助けられるようになるんだろう。ごめんなさい、僕は……姉上?」
「……もういいから休め」

 信長は信勝の肩を抱いた。そして頭をぽんぽんと撫でた。……いつも泣いて後をついてくるだけの弟だと思っていた。

「わしはなにを言われても気にせん。お前は帰って傷の手当てをしろ」
「これくらい僕は平気です。ほら……い、痛っ!?」

 無理に立ち上がって足の痛みに信勝は今日初めて自分の痛みに泣いた。信長はなにも言わず弟をおぶって帰った。

(臆病なくせにこんな怪我するまで戦うなんて変なやつ)

 不思議な気持ちだった。自分は遥かに強い姉なのにそれでも弟はそんな姉を守ろうとしたのだ。守られるというのは妙な心地がする。






 弟の世界はヒトの世界、姉の世界はヒトの異端者の世界。
 その二つは交わらぬと理解していたのに、その笑顔を見ると、その言葉を聞くともう少しだけと決意が先延ばしになっていった。





 信長が十五になり元服する頃、十二になったばかりの信勝にいつものように笑顔で話掛けられた。

「なんの用じゃ、信勝?」
「姉上、ーーーーーーーー、ーーーーーーーーー」
「……?」
「ーーーーーー、姉上、ーーーーーーーー」

 ああ、この時が来てしまった。

 弟の声が完全に聞こえなくなった。元々最近はぶつ切りでしか聞こえなかったがぷつっと完全に消えた。内容はわかっている。いつもの今日はどこに行きますか、だ。信長の「聞こえない」は人の言葉の内容が分からないのではない。その価値が感じられなくなるのだ。だから信長は少しづつヒトに価値を感じられなくなった。

 昨日まで感じられていた弟の言葉の妙な気持ちになる温もりや距離が近過ぎて面倒に感じる心すら消えた。

 弟はこれでも大分マシな方だった。他の人間は父を除き十を過ぎた頃にはヒトの言葉の価値が分からなくなった。顔を合わせるとなじる母の言葉も面倒だとすら感じなくなった。信勝の言葉も十を過ぎた頃から半分は価値が分からなくなったがそれでも半分は価値が心に感じられた。何故だったのだろう。家族だからだろうか、信勝が普通のヒトより聡明だったからだろうか、ずっとそばにいたからだろうか。

 なんにせよ、それももう終わりだ。

「ーーーーーーー、ーーー、姉上!」

 じっと見ると弟の顔はぼやけ、白く塗りつぶされていた。それでも分かる。さっきまで笑っていたからいつもの少し困ったような笑顔だろう。

「……姉上?」
「……信勝?」

 なぜか信勝の「姉上」という言葉だけはそれまでと同じように聞こえた。

 こうして信長は弟の言葉と笑顔を感じることはできなくなった。

 そして少しずつ距離を取るようになった。距離を詰められるとこれまでより強く拒絶した。ただ……時々聞こえる「姉上」という声につい時々ついてくることを許してしまった。





 もう弟の声を聞くことはできない。けれど弟を見るといつもあの日見せた春の花のような笑顔を思い出すことができた。痛みを顧みず姉のために戦ってくれた。その記憶だけで十分だった。





 父が死んだ。死ぬ前に女の信長を後継に指名して。

 すると織田家は信長派と信勝派に別れた。

 誰の言葉の意味も感じられず、すっかり無気力になっていた信長はこう思っていた。

(織田の家督に興味はない。誰の声も聞こえんし、誰の言葉も心に響かない。お前たちの好きにしろ。……父上のやつ、余計なことを)

 そう思って父の葬式で抹香を位牌に投げつけた。驚きと軽蔑の眼差しが心地いい。どうせ自分にはヒトの声が聞こえない。そんなヒトを治めることに興味など失せた。

「お前たちの好きにしろ、わしは知らん」

 そう言って父の葬儀を立ち去った。かつては信勝に天下の新しい形を語った。自分にはそんなほら話をした思い出だけで十分だ。

(昔からの保守派は信勝を推すだろう、好きにすればいい。どうせわしにヒトの声は聞こえない。信勝が継げばいい)

 葬式の後信勝はよくヒトに囲まれていた。

「信勝さま」「信勝さま、お話が」「信勝さま、やはりあなたさまの方が」
「ど、どうしたんだ、お前たち。急に……」

 そうだ、そっちがいい。

 重臣たちに戸惑うような笑顔を浮かべる信勝に信長は背を向けた。

(信勝、やっぱりお前の世界はそっちだったろう、ヒトよ)

 そうして信長は無気力に多くの家臣たちが信勝を囲んで怪しげな話をする光景を放置した。





 とはいえ、今更女の生き方などできない。どこかに嫁いで子を産むなど考えられなかった。元々形に嵌れないのが信長なのだ。

「信長さま、此度の鷹狩りはいかにしますか」
「ふむ、陣形を組め。形はこれにしろ」

 鷹狩りを戦に見立てて手下たちに指示を出す。形に嵌れない自分に一番向いているのはやはり戦だ。自分は男で通っている。家督は信勝に渡し、その下で一族のものとして型破りな戦をするくらいがちょうどいいだろう。

 鷹狩りが成功すると参加していた織田の家臣に話しかけられた。確か戦で成果を上げ、結構いい地位についた男だ。

「信長さまは見事です! これが戦でしたらこちらの圧勝でしょう!」
「ふむ、それもいいな」
「やはり信秀さまは正しかった……確かにあなたさまは女子ですが、間違いなく織田の家を継ぐのはあなたさまがふさわしい! あなたさまならこれからの戦を勝ち抜けます!」
「ふん……そんなもの興味はない」

 信長は誰の声も意味がわからないことに何処か自暴自棄になっていた。

 だから自分の才能が昔からの織田の家臣や地位に関係なく集めた手下たちを魅了していく姿を無視していた。
 信勝を推す家臣たちの冷ややかな視線をどうでもいいと視野に入れなかった。
 そして織田の家の信長派と信勝派の対立が激化して行くことを他人事のように眺めていた。

(わしは織田の家督などいらん。派閥など無意味なことを。わしが欲しがらんのに争ってなんの意味がある)

 だからそのことについて一度も信勝とちゃんと話をしなかった。







続く









あとがき


あと二話で終わりそう! 多分!
次は春までに更新できるといいな!

ところで山南さんと千利休引けましたヒャッホウ!!


過去編のノッブはノッブ公記の2ページ目2コマ目の「そんなわけだからあとはお前が継げ、家臣の声も聞こえんわしよりマシじゃろ」の私なりの新解釈です。つまりノッブはやる気もなかったし、自棄だったし、だから政治に関心を持たなかったという。


今回のノッブ

「どうして死んだんだ。そんなことして欲しいなんて一言も言ってない!」というのは本編のノッブも多少は思ったことあるんじゃないかな……。

 個人的にそれを言わないのはあまりに今更だからと殺した自分にはいう資格じゃない(自分で自分を罰してる)からかな〜と。

 本来は「信勝は自分を憎んで死んだ」と遠い悲しい思い出だけがあったのに明治維新で「姉上のためでした〜!」ととんでもネタバラシがあったのでアンドラスは罪なやつ。

 母の元に通ってた理由は母の指摘の通りですが、通ってる時期は本人にも自覚がないです。

 真相がわかっても分からなくても、どう足掻いてもカッツが死んだのノッブのせいじゃないです。それは正論です。だからこそノッブは何かを責めたかったら自分で自分を責めるしかなかった。その例外が母でした。



今回のカッツ

 信勝にとっては「自分を愛してる」っていうやつはみんな嘘つきなのです。だって自分が愛してないから、自分で憎んでる自分を失って悲しむ人がいるとか想像もしてないです(これ二話でもやったな……)。自分に優しい人は「無能な自分を憐れんで親切にしてくれる人」だと思ってます。母のことも姉のことも、亀も卑弥呼も。マスターだけちょっと別。不思議な人だなと思ってる。

 ただ好きな人に好きだと言って「嘘つくな」と言われるのはまあ辛いし酷いし報われないなと思います。でも平気でそう言ってきた。その罪を自覚したら信勝はどうなるのか? 次回。

 それはそうと亀には謝った方がいい、ホント。




2022/11/25


おまけ


・土田御前(捏造)

 カッツにお前の死のせいでノッブがどれだけ悲しかったか「わからせ」してやる〜! でもいきなりメインディッシュ(ノッブの悲しみ)はキツすぎてかえってわかんないだろうから前菜(土田御前)からにしてやんよ! というノリのせいで酷い目にあった今回の被害者。

 マイ土田御前は絶世の美女のイメージで作ってます。そしてノッブとカッツにそっくりだというマイ設定。

 土田御前の登場シーンを何度か見たんですが「もはや織田家の最高権力者となった信長にこんな口を叩くなんて土田御前はなんて命知らずなんだ……普通言わねえぞ。親とはいえこの時代ぶっ殺されても不思議じゃないぞ」と思ったせいで、

 土田御前出すぞ! と土田御前になりきった結果「信勝が死んだ! 信長を止められなかった! 辛い! 信勝のいない世界で生きてても仕方ない! 死のう(首の動脈切断)」みたいなイメージが降りてきた結果こうなった。

 当初は土田御前が死んだあたりで信長が「信勝が死んだことをいつまでも一緒に悲しんでくれる人を失う」予定だったんですが史実みて「えっ!? 土田御前って本能寺の変の後も十年以上生きてるの!? うっそ〜!?」と変更しました(ちなみに死ぬまで金に困ってないです)。

 土田御前は勘違いしてるのだと思います。狂人だらけの家族(信秀、信長信勝)で自分と同じ普通の人間は信勝だけに違いない! まともなのは私たちだけ! ぎゅ! みたいなノリでやってるから信勝が立派な狂人の一人だと気付かなかった。

 彼女の信勝への愛情が本物なのか、歪んでるのかはちょっとあれだけの登場シーンでは判断つきませんでした。信長への暴言も「まあこの状況だと人間正気を保てないよなあ……」みたいな目で見てしまう。

 信長に対して幼い時点で「こいつヒトじゃない……!?」と何か察している設定。



織田信秀

 パパ。マイ設定では「信長を可愛がり、信勝の扱いは割と雑」。信長はかなり贔屓して育てた(なんでも買ってくれた、武器とか人とか)。でも跡取りとサブってそういうもんだと思う。信長の才能が女子であることより有益だと思ってるからこそ跡取りにしたんだろうし、そりゃ贔屓するやろと(信勝本人はその扱いで当然だと思っている)(信長はヒトが分からないので気付かない)(土田御前は不満)。

 信長のことを一般的な親の愛というよりは「織田家を存続させてくれる人ならざる化け物」として大切に大切にしている。




卑弥呼と弟

まだ出ます。



信勝のメンタルモデル

信勝1(超自我)

 大人の外見の信勝のコピー。聖杯が信勝に願いを言わせるために作られた精神的ゆさぶり。
「こうあるべき」思考の信勝。したいことではなくこうあるべきことを願う。一部を極端に引き延ばしたアルターエゴみたいなもの(実際メルトリリスやパッションリップはそんな形でBBから分離した)。
 こちらのコピーの方が現在の信勝の思考パターンに近い。

 逆説的に言えば汚れた上に砕かれた聖杯は揺さぶりをかけることしか出来ず、強制的に願いを言わせることは出来ない。


信勝2(衝動)

 子供の外見の信勝のコピー。聖杯が信勝に願いを言わせるために作られた精神的揺さぶりその2。

 信勝のどうしても叶えたい願いが二つあるので、戸惑いつつ聖杯は二つ目のコピーを作った。

「こうしたい」思考の信勝。するべきことではなくしたいことを貪欲にも求める。アルターエゴみたいなもの。
 こちらのコピーの精神性は現在の信勝が強く抑圧しているため、大人の方より影響力が劣る。

 超自我と衝動に挟まれて意志を試されるのは完全にフロイトなのじゃ。