聞こえなくてもよくなった日




※コンプティークに連載中のぐだぐだエースREの2話「さくさくノッブ公記」のネタバレしかないです。
※個人の妄想です。




 信長にはヒトの声は聞こえない。といっても意味が分からないのでも、聴力に問題があるわけでもない。耳は機能しているし、内容も記憶している。

(雨音も鳥のさえずりも川の音も聞こえるし、わしがうつけと噂する声も聞こえる)

 むしろ耳自体はいい方だった。馬のいななきで機嫌が分かるほどだ。

(だが……ヒトだけはどうしても「意味」が聞こえぬ)

 言葉は分かる。鳥や馬の機嫌のいい鳥の音色も分かる。ただヒトの話す言葉の「内容」に一切価値も感じられないだけだ。

 ヒトの言葉を「知って」はいる。ただ実感として「感じた」ことはない。知識はあるが体験が欠落する、とでも評せばいいのだろうか。

 もう一つ、気付いたことがある。

(わしはどうやらヒトの形をしているがヒトではないらしい)

 確かにヒトとは大きく視野が異なり、知識の量も考える速度も桁外れだった。

 そして父は大層そのことを喜び、自分に男としての教育をさせた。跡取りの信勝に比べてもなにかと優遇しているがそれは信長からすれば上滑りしている。

 噂が聞こえた。親方様は信長様を跡取りに考えてると聞こえて、うんざりした。領地の経営も戦も興味はない。家族も名誉も終わりの見えぬ戦の世も興味がもてない。

 それになにより。
 ヒトの考えることなんて分かり切っていて退屈だった。

(嫌いじゃ、ヒトなんぞ)

 十二を過ぎた頃、いくら学問をしてもちっとも理解できないヒトをそう思うようになった。そして学問をやめ、明日を考えない仲間とつるみ、予想のつかない無茶なことばかりするようになった。

 そうして信長は少しずつ一人を選ぶようになった。





 十三になった頃、弟に見切りをつけた。

「姉上、姉上、今日は何をして遊びますか?」
「さて、最近なにをしても退屈でな……」

 寺で学問を習った帰り道、弟は毎度そう聞いた。学問はとっくに教本を暗記してしまい退屈だ。毎日が分かり切って退屈だからか、信長は予想もつかないことを好んだ。無茶な遊びをして、大人に怒られることに弟を連れていった。

「僕、姉上とすることならなんでも好きです!」
「……」

 笑顔を向けてくる弟が最近苦手だった。ヒトが価値を感じるもの、それが信長には実感として分からない。なんというか全て分かり切ったむなしいものに見えるのだ。

 ヒトたちが重んじる価値、その一つが家族の愛情だ。信長が知識として学んだそれは弟にとっては「愛っていうのは僕の気持ちのことです!」と当たり前に感じられるものらしい。

 だからこそ最近弟と自分は全く別のものだと理解した。

「もうお前は帰れ」
「……え?」
「母上に最近うるさくいわれてるだろう」
「そ、そんなの関係ないです!」
「わしもお前と遊んでもつまらん、帰れ」

 傷付けて離れていく言葉を投げる。……これでも弟は大分「マシ」な方だった。話してあまり無駄なことを言わないし、ものの成り立ちを理解することも早かった。

 聡明な血族。少し期待はした、だがもう十分だ。

「ごめんなさい、姉上! 僕は何をしたんでしょうか。謝ります、だからどうか帰れなんて言わないでください」
「うるさい、お前は退屈でつまらない、それだけだ」

 弟の目が丸くなって涙がたまっていく。きっと大抵のヒトならこれを見て可哀想だと思うのだろう。そして自分はそう思わないことも十分学習していた。今は弟はこうして自分にすがりつくが、十回繰り返せば自分で離れていくだろう。

(ああ、信勝、お前といてもつまらない……でも別にそれはお前が特別に駄目なんじゃない。誰でもつまらないし、ちっとも耳に入ってこん)

 いかないでという手を振り払う。どんなに家族に愛されても、自分は一つも愛を返せない。こんなに泣いてすがられてもどうしてそこまでするのかさっぱり分からないのだ。

(さっさと帰れ、お前の世界に)

 うるさいともう一度腕を振り払う。こんな姉になつくなんて弟は気の毒だ。

 信長の予想通り十回「お前といると退屈だ、うっとうしい」と言うと信勝はもう遊びましょうと言わなくなった。その代わり、後ろを黙って歩いてくるようになった。




「わしが跡取り?」

 父が妙なことを言い出した。国を守るために肝要なものを銭と答えた結果がこれらしい。

「馬鹿馬鹿しい、わしは女だし、後継者は信勝がいるでしょう」

 信長はヒトが分からない。その分知識だけはよく吸収していた。守る気がないだけで世の常識は理解している。

「信勝は普通の人間だ、それでは駄目だ。お前はそうじゃない、この乱世を織田が生き抜くにはお前がやるしかない。お前だって嫁がされ子を産むよりその方が性に合うだろう?」
「よくわしのことを分かっておいでで。それでははっきり言いますが戦も土地を治めることも、子を産むことも同じように興味はありません」

 父は血や土地を残すことに執着があるようだが、弟の愛情と同じようにそれは価値が分からなかった。だって誰が治めても同じようなもの、ヒトなど同じように生きて死んでいく。それが手腕一つで多かったり、少なかったりするだけだ。その量の差になんの価値がある?

「ではなんなら興味がある?」
「なににも。そうですね、いい機会ですから寺にでも入って俗世と縁を切るのも悪くないかもしれません。経文を読むだけですが、わしからみれば俗世だって同じように退屈な繰り返しです」

 こういえば大抵の人間は呆れて、離れていく。けれど信長の予想通り、父は娘をよく理解していた。

「寺? そんな退屈、お前には耐えられまいよ……この乱世でなければお前の退屈は癒せない」

 退屈しのぎでいいから織田を継げと杯を差し出されたがそっぽを向いた。




 それからかぶいた服装で練り歩き、父がいつまでそんなことを言っていられるのか試すようになった。

「姉上、いくらなんでもその格好は……せ、せめて上着を着てください!」
「あはははは! しらーぬ! ってかいい加減お前はついてくるな!」

 弟は未だ自分の後ろをくっついてくる。相変わらず「愛は分かってます」というヒトであることが当たり前の顔をして。

「その、心配なんです。姉上は年頃の美しい女性ですから、よからぬ輩に付け狙われるかと」
「美しいなあ……二度ほどそういう輩に会ったが、脇差し一つで死ぬし、逃げるし、また退屈だった」
「な、なんですかそれ!? ちゃんとそういうことは報告してください! そいつら殺します!」
「余計な心配をするな、数度斬ったら立ち上がることもできんくて、退屈で獣の前に置き去りした。わしはまともなヒトではない。最近は狼や猪すら向こうから逃げるしな」
「例え姉上が返り討ちにできても、僕は許せないんです!」
「ああもう、うっさい! かーえーれー!」

 昔と違って帰れと言っても帰らない弟だった。




 父はよく伏せるようになった。過労か年か。見舞いにきた信長は珍しく静かに父と話していた。

「父上、そろそろ年貢の納め時ですか?」
「ああ、かもな……どうだ、織田を継ぐ気になったか? 信勝では駄目だ、隠しているがあいつは戦の度に影で吐いている。乱世では弱すぎる、ヒトからはみ出たお前でなければだめなのだ」
「体裁は何とか取り繕っているでしょう、見てくれが保てているなら十分です。気が弱いだけで信勝もひどい言われようで……わしは嫁の貰い手もそろそろ根こそぎ逃げたようなので尼にでもなって経文でも写して暮らそうかと」
「お前が継がねば織田は滅びる。お前を嫌う母も、お前を慕う信勝も、兄弟姉妹たちも、つるんでいる仲間たちもこの乱世で殺され、犯され、侵される。お前だってのんきに経文なんか写してられるか」
「……だからって織田などいりません、わしもみな死ぬかもしれませんがわしには早いか遅いかだけにしか感じられません。一年後と百年後のなにが違いましょう……言ったでしょう、なにもかもどうでもいいのです。父上の領土へ執着もさっぱりわかりません」
「……この織田はわしが生涯をかけて広げた、わしの人生そのものだ。奪われるものか、奪われるものか、誰を殺しても裏切ってもわしの織田を残さねば……たとえわしの死んだ後だって織田の名は永遠でなければならぬ。そうでなければ何のための我が生涯だったのだ……!」
「……大した欲ですね」

 願いのある父が信長少し眩しかった。自分には欲しいものがない。

「だからお前が必要なのだ、信長。お前はヒトではない、バケモノだ。だからこそ織田を……なのにどうして欲が一つもないのか! バケモノらしくこの世を貪り、喰らい尽くそうとすればいい。いいか、お前の退屈は乱世で暴れることでしか決して……げほ、ごほごほっ」
「おい、医者を呼べ。父上は調子が悪いようだ」





 少し後、父が死んだ。最後の頃まで継げとうるさかった。実は少しは涙がでると期待したが「まあ寿命だな」と思うだけだった。

 父は死の前に信長を後継者に指名した。当然織田家中はざわつき、葬式も騒がしかった。

「跡継ぎのことはしらん、好きにしろ」

 父の葬式で抹香を投げつけて、そう言い放つとその場を去った……信長は父からバケモノと崇拝され、母から得体が知れないと恐れられ、弟からは憧れられた。

(全く自分がヒトからはみ出たなにかと家族がみんな知っているとは……いや、信勝はようわかっとらんかもしれんが)

 後継者など、無理だ。だってヒトが分からない、織田を継いでしたいこともない。自分の頭が図抜けた出来なのは知っていたが、それだけだ。

……「この乱世でなければお前の退屈は癒せない」……

「……確かに、退屈ではありますが」

 いっそ本当に寺に入って父の鼻をあかしてやるかと思ったがその言葉が妙に心に残った。





 信勝は二度姉に謀反を起こした。その結果こうして清洲城の牢に入っている。

「お断りします」
「お前な、死ぬんじゃぞ。分かっておるのか?」

 そして「死んだことにしてやるから、しばらく身を隠せ」という言葉をこうして退けている。

「僕はあなたに二度負けたんです、いい加減覚悟してますよ」
「お前が死ぬと母上がうるさい、うやむやにしてやるから隠れていろ」
「僕たちのことに母上の気持ちなどどうでもいいでしょう。二度の謀反で自分の身の程も、姉上の力も本当に骨の髄まで分かりました。納得して腹が切れますよ」
「……お前があれほど弱いとは思わなかった」

 信長は当初勝つ気はなかった。しかし予想のつかないことが起きないかと高揚している内に信勝は白旗を揚げていた。

「いいえ、あなたが強すぎるんですよ、分かっているでしょう? ……ねえ、姉上」

 僕との戦は退屈だったでしょうと弟は笑う。

「きっと姉上には尾張が退屈すぎたのでしょう。でももっと遠くへ行けば違います。きっと姉上を退屈させない、面白いものに会えますよ」
「お前は外の世界に期待しすぎだ、一度京の都に行ったが尾張となにも変わらん。大きいか小さいか、それだけだ」
「いいえ、一度だけでは分かりません。見たって京の都と尾張だけじゃないですか。織田を治めて、もっと広い世界へいけばきっと姉上が本当に楽しいと思える人に……会えますよ」

 一瞬だけ信勝の表情が陰ったがすぐ戻った。

「どうして謀反などした、わしが織田などどうでもいいと知っていたくせに」
「ええ僕も織田なんでどうでもいい、姉上にお願いすれば譲られることは知ってました。……あはは、こうもいらないと言われる織田家が少し気の毒に思えてきました。
 僕はただそんな風に姉上がなんでも手に入れられるのに、なににも執着しないから嫉妬しただけですよ。なにしろ自分の馬鹿さと無能がいつでも惨めでたまらなかったので」

 格子越しに信勝の襟首をつかむと怒気をはらんだ目でねめつけた。

「嘘をつくな。お前は自分が誰よりも強いことを望む性分ではない……死ぬならせめて本当のことを言え」
「……どうしても許せないことがあり、姉上と戦うことでそれは果たされました。だからもう未練はないんですよ」

 まっすぐな目。今度は嘘を言っていない。いつも後ろにくっついていた弟の死んでも果たしたいこと。今更姉が知らないことがあったのだと知る。

「もうお休みください、僕は僕なりにしたいことをした。だからいいんです」

 姉はもうしばらく牢の前にいたが、弟はそれ以上何もいわなかった。


 ようやく姉がいなくなった牢屋で弟は「どうしてそれが僕じゃないんだろう」としばらく泣いた。




 最後まで笑顔を崩さす弟は死んだ。

「あとはお任せします、姉上」
「……」

 涙はでなかった。
 その夜は目が冴えて眠れなかった。しかし次の夜からは何事もなくよく眠れた。


 謀反を起こされてなおこう感じていた……多分、自分は弟に愛されていた。父よりも、母よりも。幼き日に愛された分で他の家族の分を補うほどに。ヒトならそんな家族がいたらとても嬉しく、失ったら激しく苦しむのだろう。

(これでも多少、ヒトの振りをしてきたが……もういいか)

 そしてそんな存在を失ってもどうもないのが自分という生き物なのだ。

 今は冬。庭の椿をちぎって昔遊んだ池に投げた。

「……損なやつ」

 何一つ返すことのない空洞を愛するなんて悲惨な人生だ。

 自分はきっと何一つ返せなかったから弟の墓には行かなかった。密告した権六の方がよっぽど悲しんだので、信勝の墓参りを命じると律儀な男は尾張に帰る度に花を添えていた。


……「きっと姉上には尾張が退屈すぎたのでしょう。でももっと遠くへ行けば違います。きっと姉上を退屈させない、面白いものに会えますよ」……


「父上と似たようなことを……」

 自分の内側にヒトの心は相変わらず感じられなかったが、それでもそれから信長は寺に入ることは考えないようになった。

 弟がそこまで言うならしばらくは退屈させないものを探すのも悪くない。





 弟の予言は当たった。
 形だけでも織田を継いだのだから、広げるだけ広げているうちにその男は足下から現れた。

「信長様、草履はこちらにございます。もちろんそれがしの懐であたためておきました!」
「わはははは! そういうのやめろいうとるじゃろ、サル!」

 生まれて初めて心から笑った。言葉の意味が分かる。それがサル、木下秀吉だった。

 その男はヒトには見えなかった。物の怪、あやかし、自分と同じ何かに見えた。

(わしと同じ、ヒトの形をしているヒトではないもの)

 サルと出会い、初めて自分が孤独だったと知った。

 少しづつ自分がどういうものか理解ができた。そして自分の感情を知ることができた。二人だと初めて自分の心が分かる。怒り、悲しみ、楽しみ、喜び。ヒトが振り回され、愛おしむそれがようやく分かった。

(これが感情、自分の内側にあったのに気が付かなかったもの)

 感情とは分け合うものだから自分には分からなかったのだろうか。随分遅く理解した自分の感情はなんとも拙く、激しい赤子のようなものだった。

「さて……これからどうするか」

 それから二つ決めたことがある





 自分を知ることで一つ理解した。
 自分はこの時代にとても適合している。だから弟には悪いことをしたと思った。

「継ぐべきはわしじゃった。ヒトの心が分からぬからヒトを統べられないと逃げるべきではなかった。ほれ、今こうしてどうにかなっとるじゃろ。これでも結構やり手の方なんじゃぞ」

 そう言って信勝の墓に柄杓で水をかけ、咲いていた彼岸花を添えた。手を合わせて一通り墓参りの手順を終えると墓石の前にしゃがむ。

 護衛はいるが、寺の入り口に待たせている。だから姉弟二人きり。いいや分かっている、ここには一人しかない。

「殺してしまったからな。最初から織田家を掌握する気でいればお前から全てを奪い、寺に閉じこめたんじゃがのう」

 そうすれば命までは奪わずにすんだ。領土を広げた今も信勝が生きていれば時々会って話したり、文くらいは交わしていたかもしれない。年をとった姿を見れなかったことを悔いていたことを今更自覚した。

 後悔という感情を自覚して、初めて石の固まりにすぎない墓に詫びの真似事をすることができた。

 父の遺言を無視して織田家を弟に継げと投げやりに押し付けるのではなかった。信勝だって言っていた。織田家などいらない。そう、全ては信長が跡目を継ぐことに積極的でなかったから今ここに信勝はいない。

「すまんな、信勝、こんな姉で。でもお前も変わっておる」

 もし弟が生きていたらどんな人生だったろう。

「よりによってわしに懐いたりするなんてお互い馬鹿じゃ」

 少しだけ信長は躊躇った。しかし最後は墓石に指先を触れさせ、軽く抱擁した。死なせてしまった。そしてこんなにそのことに傷ついた自分にようやく気付くことができた。

(さよなら、信勝。死なせないですんだはずの弟。お前と生きればまた違ったのかのう)

 添えた花をもう一度整える。もう来ることはないだろう。
 なにしろここからは修羅道だ。





 比叡山を見上げて口から自然と言葉がこぼれ落ちた。

「さて焼くか」

 軍で比叡山を取り囲み、家臣たちに皆殺しの指示を出していく。理由は説明してあるが戸惑う顔も多い。逃亡兵には注意するか。

「相手を坊主と思うな。比叡山に住まうは肉を食らい、女と交わる罰当たりにすぎん。仏罰神罰など起きぬ!」

 祭られたもの、歴史のある寺院、名の馳せた僧侶、ただそこにいる女子供たち。その全てを壊し・殺すように命じた。

「全ての寺に火をつけろ。女子供も殺せ、しょせんは敵の民だ。容赦などいらん」
「おやかた様、これはあまりにも!」

 秀吉があれこれいっていたがその内心は信長と変わらない。命令を出せばすごすごと軍を率いていった。

「なんじゃキンカン、何か言いたいことでもあるのか?」
「い、いえ……確かに比叡山は浅井・朝倉をかくまい、坊主とは思えぬ行いをしております」
「それが本音か?」
「それでは……鏖殺にいってまいります」

 質問には答えず光秀は兵を連れて山に入っていった。

(奇妙なもんじゃ、女子供を殺し、村を焼くことにためらないなどない荒くれ者が多いというに寺や坊主だと怯むか)

 それとも。
 やはり父が言ったように信長がバケモノだからか。

 比叡山を焼く理由はいくつもある。信長を包囲して殺そうとした浅井と朝倉をかくまった。引き渡さねば攻撃するという手紙も何度も無視された。それと似たようなことが数度繰り返された。

 理由はいくらでもある。そして他の大名たちだってそんな煮え湯を飲んでも比叡山を焼くことはしなかった。

 それには理由がある。比叡山を攻撃することはこの戦乱の世に苦しむ人々の心の支えを攻撃することだからだ。来世になれば阿弥陀の教えで救われる。善き行いをすれば報われる。現世はこんなに辛くても死ねば極楽へいける。

 そういう民衆の心の支えになっている仏の教え、その象徴である比叡山。実は信長はそれがとても嫌いだった。嫌いだとようやく自覚できた。

(ヒトが神仏に縋るなど不快じゃ。神は神、ヒトはヒト。人は己の意志で道を開くべきだ)

 だから来世だの仏だの邪魔なのだ。そんな曖昧な支えがあるからまだ己の意志を持たぬものがいる。だったら「そんなもの」焼いて滅ぼせばいい。

 多くの権力者は仏罰、あるいは心の支えを奪われた民衆からの憎悪を畏れ、比叡山を焼かなかった。例え実体は腐敗していても、人は見たくなものは見ない。

(だがわしは違う。全てのヒトに憎まれてもどうもない。むしろわしを憎み、ヒトが自分の意志で戦うなら楽しみなほどだ……そう、来世や仏にすがって大人しく死を待つより、神仏を焼いたわしを憎んでいる方がヒトは好ましい)

 そうやっとだ。
 これでヒトを好きになることができる。

(神仏衆生よ、いやヒトよ、わしを恐れ・憎み・戦うがいい……わしを恐れ研鑽するヒトの姿がなによりわしが望んだこと。平和などより命を燃やすヒトが見たい、それでこそ我が天下布武よ!)

 かつてはヒトらしさを模倣し、形だけヒトの重んじるものを壊しはしなかった。だから敵対はしても比叡山を焼くことはしなかった。

 そう比叡山を焼かなかったのは「ヒトならこうするだろう」という真似に過ぎない。

 けれど今は違う。サルと出会い、少しずつ自分を知ることで自分にも願いがあることに気付いた。そう……これでヒトを好きになれる。
 信長はヒトが己の意志でもがく姿が一番好きだった。戦いそのものではなく、ヒトが己の魂を燃やす姿好きだったのだ。

 比叡山が燃える。多くの命が奪われる。比叡山を焼いたら祟りが起きると信じる衆生も目が覚める。

「これよりわしは魔王となり、ヒトから恐れられ、恨まれ、憎まれる。それでよいのだ。この世に恐ろしい魔王がいるからこそ、人間は己の全てをかけて戦うのだから」

 信長は争いを決して嫌いはしなかった。ヒトが懸命に生きる姿が戦争がある限り見れるなら、平和なんて必要ないとさえ思う。……ま、現実は戦争ばかりだと焼け野原で加減が必要だが。

(ああ、これで……)

 魔王になれた。やっと生きていることが楽しくなる。




 比叡山が焼け落ちていく。信心深い兵たちは仏罰を恐れたがいくらまってもそれは起きなかった。憑き物が落ちたような顔が増えて信長はにいと笑った。

 火の勢いがあがっていく。いくつかの火の粉が頬を焼くと濡れた手ぬぐいが差し出された。朝倉から織田にきたばかりの光秀だ。

「なにをしておる。焼き討ちを続けよ」
「いえ、一度報告に……顔だけでなくあちこち火傷していますよ」
「報告か、ちゃんと念入りに殺し、祭られたもの達を壊してきたか?」
「……はい、みな鏖殺しました」
「よいよい、これで一向宗の連中もちっとは目が覚めるとよいのじゃが……はは、これでわしも魔王とでも呼ばれるか。いやなにより比叡山を焼いても天罰など起きぬと民衆も目が覚めるか」

 信長は手ぬぐいで額の火傷を冷やすと光秀の顔を見た。「見れば分かる」。心を殺している。いいたいことがあるならはっきり言えばいいものを。

「その……信長公、これはあくまで比叡山が浅井と朝倉を二度も匿い、行いも僧侶とはいえぬからやったのですね」
「は? 先程そういったであろう。そうだ、サルはどこだ?」

 明智光秀の目に一瞬暗い炎が宿った。

「いえ、やつは……まだ鏖殺をしております」
「うむ、ならばよい」

 秀吉がもうすぐ帰るといっていたことを光秀は隠した。信長のそうかとさして気にしなかった。

「さて、これから忙しくなるぞ」

 なにしろこれで世界の敵となれた。常人なら発狂するその立場は信長にはあつらえたようにぴったりと馴染んだ。……ああ、今までの退屈はまだ魔王でなかったからなのだ。

「父上、信勝、あの時背を押してくれて感謝する」

 世界にはちゃんと信長にぴったりの椅子があったのだ。ドクロでできた血塗れの椅子でも生きる意味がちゃんとそこにはあった。ここまでこれたことを家族に深く感謝した。



 明智光秀は主人と比叡山の悲鳴を見比べて「違う、これは……仕方ないことだったのだ……」と一人で譫言のように繰り返した。



 これより信長は古きを壊す道を邁進する。







 闇と……。
 ……少しの水音と。

「……ん?」

 真っ暗な場所で信長は目を覚ました。服は着ておらず生前気に入っていた真紅のマントだけが肩に掛かっていた。空は見えず、真っ黒な世界に生ぬるい水だけが膝ほどの高さにあった。直接触れたことはないが羊水とはこういう感じだろうか。


……『おはよう、織田信長。我は英霊の座……と呼ばれる存在だ。今回召還されるアナタにいくらか話がある』……


「話……?」

 空中から得体の知れない声がする。ヒトの声ではない。だって意味と価値が分かる。自分のようなバケモノだろうか。

 しかしその期待はあっさりと霧散する。頭の中に知識が流れ込んでくる。英霊。聖杯戦争。そこに呼び出される自分は英霊の座というものに登録されている。……いくつかの歴史の知識の断片で思い出す。

(そうか、キンカンめに本能寺で焼かれたのだった)

 自分の死を思い出す。まさかあの真面目男がというのが素直な感想だった。


……『状況は理解しましたか? さて今回あなたをこの場に呼んだのはアナタが聞こえないからです。なぜ知っているというのは訊かないで下さない。登録時に知識が自然と登録されるのです。
 アナタが聞こえないのは聖杯戦争において不利になるのでそれを変更にきました』……

「……変更じゃと? そんなことができるのか」


……『ええ、アナタの肉体は既になく、私が再構成しています。それくらい容易いですよ。今までのように知識で理解しなくてもアナタはヒトの声が聞こえる、実感を伴って理解できる』……


 人生の苦悩がわけの分からない仕組み一つで組み変わる。なかなか死ぬに死ねない話だ。いやもう死んでるが。

(わしが聞こえないことを変えるくらい容易いか、いやはや……)

 そうだとしたら……。

「なあ一つ知りたいんじゃが」


……『なにか?』……


「わしが聞こえないってのは結局病気かなんかじゃったのか?」


……『いいえ、ただ頭が良すぎた。それだけです。ついでに考え方が周囲より独創的すぎただけです。ただ、そのままでは不便でしょうから少し手を加えます』……


「ん? なんじゃ、改造か?」

 暗い水から光が沸いてくる。同時に頭になにか手を加えられている感触がこそばゆい。不思議と不快ではないのは自分が「英霊」というものになったからだろうか。


……『根こそぎは変えません。アナタ風にいえば少しヒトの声が聞こえやすくなるだけですよ。聖杯戦争で特別不利にならない程度に』……


「ふーん、病気ではなかったのか……そうか」

 拍子抜けたが人生なんてそんなものだろうか。もう一度光が周囲を包むと信長の意識は眠りに落ちていった。


……『ようこそ、織田信長、英霊の座へ。聖杯戦争がアナタにとってよきものになりますように』……






 おわり




あとがき




「さて焼くか」の「さて」と「アトはわかるじゃろ」の「アト」が分からなかったので書いた。墓参りの後に焼き討ちとはこれいかに?。

 ぐだぐだエースREノッブ公記・自己解釈での頂羽型ノッブのヴリトラエンドです。

 スパコンの並の処理能力を持つ故に、人間の執着するものが一切実感として理解できなかったノッブ。それがサルと出会ったことで「そうか、ヒトとしてではなく、魔王としてヒトの可能性を愛せばいいのか」と生きる意味が分かって、めっちゃやる気出たし楽しいみたいな話です。

 ノッブは聖杯にかける願いがなく、人の可能性こそを神という割に、魔王を名乗ってるあたり「自分という魔王にヒトが対抗している姿に価値を感じる」のかなと。

 ヴリトラも「自分という魔に対抗する人間そのものが好きで、支配することそのものにさして興味はない」みたいだったので、ノッブはこれに近いのでは? 神仏に祈ってるやつとかいやだなーみたいに言ってたので魔王になって必死で自分に対抗することそのものに意味を感じるような。


 ちょうど一年前の今日、織田関連で創作しだしたのでなんだか感慨深いです。



2021/10/25



余談

信勝

 たまたま産まれなかったとかで信勝がいない信長は今より少しだけ冷たく乾いた人間になる気もする。

 たくさん出してしまったのは私が信勝好きなのもある。あとそれ以上にサルと光秀の情報がないので信勝に話が集中しやすくなった。特にサル。


サル

 君をもっと出したかったけど全て嘘になりそうでだせなかったよ! 私の弱虫!

 ゼロにおけるヤング言峰にとってのギルガメッシュなのでは疑惑がノッブ公記読んでからずっとしてる。目覚めるのはどうかなーって存在を目覚めさせたような。

 信長はもともと経験値先生による最強のラスボスなのでFateのラスボスに類似点があるはありえなくもなかったり? ノッブ公記のノッブのつまんなさそうな顔、酒を飲んでも己を鍛えても妻子を持っても「お前たちの幸福は私に喜びを与えなかった」言峰を思い出させる。

 ネタバレすると言峰がなんでそんなになにも楽しくなかったのかは突き詰めれば生まれつきの体質です。人間の痛みと絶望しか喜びを感じれない運命。下手に善人の鏡の父親が道徳を教えたから長く苦しんだ。ノッブもどこかそうなのかな……という気も。気がしただけ。


光秀

 イベントで喋ってる部分しか分からないので書くとき悩ましい。

 実は比叡山焼いた頃に信長の家臣に正式になった感じもあるので、どの程度ぐだぐだと史実を混ぜるか悩む。サルより織田家就職十年くらい遅いし。朝倉家に長い間仕えていたので両方に属している時期が結構長いんですよね。

 ネット記事に比叡山バーニング参加で光秀は正式に織田家臣になったみたいなの見かけて、どんなダークネスバースデーケーキやねんって顔になった(でも実際これで城と領土をもらった)。