ノッブ逆行する(信勝生存ルート)





 弘治二年八月(1556年)。
 尾張。稲生の戦い。末森城。
 姉弟の骨肉の争いの果てに弟の信勝は敗北した。
 計画通りの劣勢を見て信勝は死を覚悟した。
「ここまでだ、白旗を上げろ……僕たちは負けたんだ」
 母の嘆願で白旗をあげたが姉は自分を許しはしまい。
 こんな時代だ。刃を向けた相手が弟だからと容赦などする人ではない。
 だから信勝は静かに死の道を歩いていた。刀はもちろん一切の武器は持たず、色の薄い着物を着て末森城の廊下を歩いていた。供は柴田勝家たった一人だ。
「権六、お前ももう下がれ。僕一人で歩ける」
「し、しかし、信勝様、流石に一人では……」
「僕はもう死ぬだけだ。それくらいお前の助けはいらない」
「お言葉ですが白旗はあげました。土田御前、実の母のたっての願いでもあります。信長様とはいえ実の弟の命まで……」
 信勝は振り返り、子供の頃からよく知る家臣をきっと睨んだ。
「馬鹿言うな、この戦でどれだけ人が死んだと思っている? 僕だけ逃れられるわけがないだろう」
「大半は雑兵です。あなたとは身分が違います」
「身分なんて関係あるか。相手はあの姉上だぞ、許すものか。……僕だって戦を起こしたんだ、覚悟している。余計なことをするなよ」
 そう言い放って信勝は早足で死の場所へ歩いていく。
 土田御前の願いも理解できる。信勝はまだ二十歳になってもいない。
 あまりに若すぎると柴田の迷いは消えない。
 信勝は急いで歩く……そう全て信勝の計画通り。
 自分の死で偉大な姉の立場は盤石になる。
 女だからと侮った馬鹿な家臣たちは大半姉の手で殺された。
(あとは一番邪魔な僕が死ぬだけ)
 信長が待つ部屋の襖が見えてきて、信勝は一瞬薄く笑った。
 これで自分は偉大な姉の道を開く礎になれる。
 一番願っていたことは叶わなくてもそれは嬉しいことだった。
(姉上、あとはお任せします)
 柴田勝家が襖を開けるとそこには信長と信長の家臣たちが武器を持ってずらりと待ち構えていた。
 武装した家臣たちの一番奥に腰に刀を二本差した信長がいる。
 こんな時にも思ってしまう。彼女は美しい。時々、もっと醜く生まれれば男として生きやすかったろうにと思ってしまうくらいに。
 胡座をかいた姉はやってきた弟をじっと見た。
「信勝」
「あ……兄上、信勝、お呼びの通り参りました」
 咄嗟に姉上と呼びかけて言い直す。
 最後なのだ。気を引き締めないと。
 深く頭を下げて、恭順の意思を示す。
 信勝は柴田をおいて、さっさと武装した信長派の家臣たちの間を歩く。
 もっと邪魔されるか、誰かに刀を突きつけられると思ったがあっさりと姉の前まで辿り着く。
 姉まであと十歩の所で信勝は片膝をつき、首を垂れた。
「兄上、お力のほど感服しました。謀りを起こしましたが、この戦で力の差を心底理解できました。あなたならこれからも尾張を守ってくれるに違いない……覚悟はできています」
 そう言って首を落としやすいように首をできるだけ前に出した。
 そんな弟を信長はじっと見下ろした。
「信勝、お前があんなに弱いとはな」
「お言葉ですが、兄上が強すぎるのですよ」
 顔を上げて少し笑う。姉は変な所で自信がない。圧倒的な才覚を持っているが故に周囲の者が理解できず、「どうせわしには奴らの声は分からんのさ」と時々こぼしていた。
「さあ」と再び信勝が首を垂れると姉は不満そうな声を出した。
「我が弟はこんなに拙速だったか?」
「……痛いのは苦手なので、つい沙汰を急いでしまい」
 そういうが信勝はどこも震えていない。
 家臣たちはざわめいた。この二十歳になる前の若者は死を恐れていないのだ。
 かすかに動揺が広がる中、信長は冷静だった。
「信勝……そうだな。お前は昔からそうだった。沙汰を言い渡す」
 信長が腰の刀を抜き、一歩前に出た。その足音を聞いて信勝はぼんやりと思う。
(もしかして姉上に殺してもらえるのかな?)
 悪いことだと思っていたが伏せた顔が少し笑ってしまう。
 家臣の誰かに首を斬られるか、服毒を命じられると思っていたのだがまさかの彼女の手にかけてもらえるなんて。
 最愛の姉に手を汚してもらえるなんて愚弟にはもったいない幸せだ。
 誰も動かない中で柴田だけが前に出た。
「お待ちください、信長様。私と母君たっての願いです。どうか信勝様の命だけは……!」
「どけ、権六。母上は関係ない。わしはたった今、信勝に沙汰を下す」
 柴田を退けて、信長は弟に近づいた。あと半歩のところで足を止めて、信勝の首に刀を当てる。薄皮一枚の刃の冷たさに信勝は安堵していた。
(さようなら、姉上。どうかお元気で……ああ、最後にもう一度姉上と遊びたかったなあ)
「あとはお任せします、姉上」
 信勝は目を閉じた。
 しかし、すぐに信勝は目を開けた。信長に襟首を掴まれて、無理に膝立ちにされた。
「あね、うえ?」
 信長は信勝が顔を上げたことを確認すると着物の襟から手を離した。今度は弟の束ねた髪を掴み上げる。
「じっとしていろよ」
 ザクという音が広間に響いた。
 信長は刀の根元で掴んだ弟の髪を切り落とした。髪を切るザク、ザクという音がしばらく広間に響く。少し手こずったので信勝の髪の長さはバラバラになる。
「この髪はもうお前にはいらんからな」
「姉上、何を……?」
 信長はぽいと弟の髪を板の間に放った。
 信勝が目を点にしていると姉はにっと笑った。
「信勝、今回のわしへの謀反への沙汰を申し渡す。……お前を織田家から追放する。武士の位も取り上げる。これからはわしの指定した寺に入り、俗世と縁を断ち、経文を詠んで暮らすがよい。坊主になるからな、こんな長い髪はもう必要ない」
「信長様、追放とはそれはあまりにも……」
「権六、母上に伝えろ。命だけは助けたと。それが願いだったろう?」
 柴田は二の句が告げず、ただ俯いた。
 だが信勝は黙っていられなかった。
「なぜです!? どうして僕を殺さないのですか!? 謀反を起こしたんだ、僕だって死は覚悟はしていました……!」
「うるさい。お前への沙汰はもう決めた。敗者は勝者に従え」
「僕が弱いからですか、それとも母上の願いだからですか?」
「……さてな。おい、信勝を縛れ。寺の準備ができるまで末森城の奥の部屋に閉じ込めておけ。舌を噛まないようにくつわを噛ませておけよ」
「待ってください! 姉上、どうして……離せ! 離せよ!」
 信勝は抵抗したが、すぐに後ろ手を掴まれ、引き倒されてしまう。
 こうして信勝は末森城の奥深くに閉じ込められた。




 信長の拘束は念入りだった。信勝は両手両足をしっかり縛り上げられ、芋虫のようにしか動けない。目隠しをされて、食事さえ自分ではなくて誰かに食べさせられた。何度も舌を噛もうとしたが姉の命の通り、布で何重にもくつわをかまされているのでそれも叶わない。
(姉上、どうして?)
 たった一人の部屋で何度も信勝は考えた。どうして殺してくれなかったのだろう。どうして姉は自分を生かすのだろう。何の役にも立たない自分は死ぬしかないのに。
(分からない、姉上の心が分からない……)
 そうして閉じ込められて一週間ほどが過ぎただろうか。誰かに声をかけられた。
「信勝様、信長様の命です。寺へお連れします。ああ、動かないで、籠まで我々が運びます」
 信勝は猿轡と目隠しをされたまま、誰かに担ぎ上げられた。運ばれると何も見えないが頬を撫でる風で外に出たのだと分かった。
 宣言通り、そのまま籠に入れられ、縛られたまま何日も運ばれた。動けない拘束は変わらず、食事も誰かに見えないままわずかに口に運ばれるままだった。
 数日後、旅は終わった。信勝は再び担ぎ上げられ、どこかへ運ばれた。建物の扉を開けるような音がする。廊下を大きな足音が移動していく。
(ここが姉上の言っていた寺なのか?)
 ある部屋に着くと信勝はようやく目隠しを解かれた。そこは襖しかない、窓のない暗い部屋だった。一人の男が信勝の猿轡を解くと静かに言った。
「自害はなされませんように、信長様の命令です」
「お前は誰だ? 姉上の家臣か?」
「左様。ここで拘束は解きますが、逃げられるとは思わぬよう。ここは寺ですが信長様の城の一つのようなもの。この部屋から一歩も出られません。あなたはこれからここで僧となり経文を詠んで暮らすのです。夢ゆめ余計なことはなされませんように」
「……どうして僕を生かすんだ? 僕は姉上のためにならないのに」
 男は少し渋い顔をした。
「信長様の命です。くれぐれも自害だけはなされぬよう……ああ、信長様の伝言です。一月ほどしたら会いに行くからちゃんと待っているように、と」
「姉上が……僕に会いに来る?」
 男は一枚の紙を懐から取り出した。
 そこには姉の字で「一月ほど待て、話がある」を書かれていた。
 その手紙をじっと見ていると信勝の目から、謀反から始めて一粒の涙が落ちた。
 謀反をして死を命じられるはずだったのに。
 そんな弟に姉はどうして会いにくるのだろう。
 猿轡を解かれたので舌を噛んで自殺しようと思えばできないことはない。
 だが一月後に姉がやってくると思うと弟はできなかった。
(死ぬのは怖くない……でも、姉上が会ってくれるっていうなら待っていよう。僕は大したことを知らないけど、何か聞き出したいことがあるのかもしれない)
 それまでは生きていていいのかもしれない。そんな迷いが死を急ぐ信勝の足を止めた。
 拘束を解かれ、手足は自由になったので部屋の様子を伺う。窓がないので外の風景はさっぱり分からないが、かなり広い部屋だった。四面の土壁の二面に襖があった。
 そしてポツンと文机と座布団が置かれている。机の上には一輪の桔梗が細い花瓶に飾られ、燭台が左右に二つ置かれている。
 仏教の経典と真っ白な紙と墨が机の上にある。流石に写す気にはなれなかった。
「信長様の命です」
 数日たち、恐る恐る信勝が部屋を出ようとする信勝を武器を持った男たちが遮った。思い切って襖を開けてみると何度やっても同じことを言われる。信長の命令だ、絶対に出るなと部屋に追い返される。
(姉上、本当に僕に僧になれと……?)
 長さがバラバラで短くなった髪をいじって疑念を頭に浮かべる。そんな中途半端な結末でいいのだろうか。死なないでいいのだろうか。
 一週間も経つと本当の僧侶が現れた。優しげな老人で「まだ写しておらんようですな」と白紙のままの机を見られた。僧侶は小さく笑うと「こうするのです」と達筆な字で経典を写した。一枚写し終えると僧侶はこう言った。
「明日までにこれだけは写しておくように」
 そう言われて、信勝は本当に経典を写すようになった。閉じ込められて他にやることもなく、もともと字を書くのは嫌いではない。それから毎日一枚は几帳面な信勝らしく字を書いた。
 一応大名家の子息だったので布団を敷いたこともなかったが、ここにきて生まれて始めて自分の手で布団を敷いて眠った。一人だけの部屋は静寂も一際大きく感じられる。連れてこられてもう十日ほどが経っていた。
(姉上……僕に何を聞きたいんだろう)
 一瞬頬に力がこもる。武器どころか筆すら経文を書く時以外は取り上げられている。だが自害するならこの歯さえあれば舌を噛みきれないわけではない。今からでも姉のために死を……。
(でも姉上は……もうすぐ僕に会いにくるって)
 その約束が信勝をギリギリ生の淵へ留めていた。



 一ヶ月より数日早く信長はやってきた。この部屋ではあまり分からないが蝋燭を灯されてたので夕暮れの時だったと思う。赤い着物を着て、紺色の袴を履いていた。
「姉上……本当にいらっしゃるなんて」
「信勝、まあまあ息災なようじゃな。酷い顔じゃが」
 実際、頬はこけて、目を下のクマは濃い。信勝はここにきてからろくに寝むらず、食事も一日一食程度しか食べない。健康でいるなんてもうすぐ死ぬ身に意味がないと思っていた。
 この部屋に鏡はないが酷い顔になっているだろう。姉は相変わらず美しい白い顔をしていて、信勝は少し気まずかった。
「姉上、僕に聞きたいことって何ですか? そのために僕を今日まで生かしてくれたのでしょう。一体何を……?」
「信勝はいつからそうも拙速になったんじゃ。わしも旅で疲れた。少し座る」
 信長はどかと新しく持ってきた座布団にさっさと座ってしまった。確かに疲れた顔している。信勝はどうすればいいか分からず座布団も敷かず板の間に正座をして待った。
 すると姉は本当に疲れたのか、座布団を折りたたんで寝転んでしまった。流石に信勝は一言言った。
「あ、姉上、いくら何でも寝ては駄目です。僕は謀反人なんですよ。こんな無防備な……」
 思わず姉の肩を掴んで揺する弟の手を掴んで、信長は寝転んだままじっと信勝を見上げた。姉は謀反を起こした弟を前にちっとも緊張せず、寛いでいた。
 姉はのんびりした目のままで休むの邪魔されて不満げに上体を起こす。
「ああ、話がまだだったな。今日は長雨のせいで橋が使えなくて、遠回りしたからちと疲れてのう……ん」
「あ、姉上!?」
 信長は起き上がると同時に信勝の肩に腕を回して抱きしめた。子供の頃以来の姉の体温に弟の頬は真っ赤になった。
「よう生きていてくれた」
「あ、ああああ、姉上、何を?」
「いやな、心配しとった。お前は頑固じゃからな。死ぬと決めたら舌を噛み切りかねんと思っておったんじゃが……約束の通り、わしが来るまで堪えてくれたようじゃな」
「そ、そうです、姉上がお話があるっていうから……今日まで待ってました。教えてください、僕に何を聞きたいのですか?」
 信長はじっと弟の顔を見た。
「その前に一つ聞くが……お前、わしが憎いのか?」
「憎い?」
「織田の家督を奪われて、わしを憎んでおったんじゃないのか?」
 信勝はそんなことないと叫びかけて、状況を思い出し、言葉を選んだ。
「憎んでいるわけではないのです。家督を奪われたとも思っていません。父上の遺言ですから……憎むというより嫉妬していたんです。僕は何もできないのに姉上は何でもできるから。ただ稲生の戦いで完敗して……その気持ちも消えました。実際に戦って力の差を痛感したので納得できたのです」
「……そうか」
「あ、あの、姉上、なんか近い……近すぎないですか?」
 姉は珍しく柔らかく微笑んで、弟のそばによりその頬に右手で触れた。信勝はそれが嬉しくてたまらなかったが、立場上それを見せるわけにもいかず必死で隠したので固まった。
「憎んでおらんならよい」
 そう言うと信長は信勝から離れた。残念なようなホッとしたような相反した感情が信勝を胸を駆け巡ったがとにかく表面上は冷静さを装う。
 信長は信勝から一歩分離れると正座して真っ直ぐ弟を見た。真剣な眼差しに例の話が始めるのだと信勝も背筋が伸びた。
「手紙に書いた話なんじゃが、実はお前はわしの秘密兵器なんじゃ」
「秘密……兵器?」
「そうじゃ、お前は知らんかったろうが、信勝には信勝にしかできん役割がある。信勝が死んだらわしは困るんじゃ……じゃから、謀反のことはもう気にするな。ほとぼりが冷めるまでしばらくここで暮らせ。心配するな、いずれはここから出して、またわしのそばにいてもらう。だってわしを憎んでおるわけではないのじゃろ? 嫉妬も消えたと言った。なら問題ない」
 死ななくていい。姉のそばにいていい。あまりに夢みたいなことを言われて信勝は混乱した。バタバタと両手を横に振る。
「そ、そんな、僕は謀反人で……また姉上のおそばになんて」
「うるさい。わしはうつけと知っておろう。常識なんぞ知るか……お前はわしの切り札じゃ。ゆめゆめ死ぬなど考えるなよ。謀反のこともあるからしばらくはここに閉じ込めるが時期を見てちゃんと迎えに来る」
「僕が……姉上の切り札なんて。馬鹿で無能な僕なんかが……あいた!」
 なぜか姉は弟の頬をつねった。
「やかましい。わしが秘密兵器と言ったら秘密兵器なんじゃ! 弟なら姉のいうことをきけ!」
「あ、姉上〜、痛いですぅ!」
「わしは信勝が必要なんじゃ! ……じゃからそんな顔してないで、毎日よく食べてちゃんと眠れ。しばらくここから出すことはできんが……いつか必ずお前はわしのそばで生きるんじゃ。それまで身体は大切にしろ」
「僕が……必要?」
 信勝はまだ信じられなかった。死ぬことは怖くない。それなのに姉の「必要だ」という言葉を聞くと死がとても怖くなった。
「そうじゃ、お前には分からんじゃろうが……わしが新しい世を開くにはお前の力が必要なんじゃ。いなくなったら困る……困るんじゃ。まだわしを姉と思ってくれるなら聞き入れてくれ」
「姉上、僕は……生きていて姉上のお邪魔ではないのですか?」
「ふざけるな、そんなわけはない。ないのじゃ、信勝にはまだ分からんのだろうが……お前が必要だ。頼む、生きてくれ、我が弟よ」
 姉は弟の方を両腕で抱いて何度も言い聞かせた。信勝は顔を伏せて大粒の涙をこぼした。あの時、死ななくて、まだ生きていて良かったと思ってしまった。
 こうして信勝は死ねなくなった。


 秘密兵器というのは嘘だ。だが信勝が必要だというのは嘘ではない。
「……ふー」
 信勝を訪ねて、ようやく尾張に帰ってきた。信長は自室に戻ると布団の上に寝転んだ。信勝を閉じ込めた寺は遠く、往復すると流石に疲れる。
 布団の上で姉は弟の涙を思い出して、悪いと思ったが笑ってしまった。信勝は本質的に真面目で約束を違えたりしない。あの様子ならもう自害しようとは思うまい。
……「姉上……ありがとうございます。また、会えますか?」……
……「当たり前じゃ。忙しいので毎月来るとはいかんが手紙は毎月送る。お前も返事を書けよ」……
 帰り際にそう言うと弟はまた泣いた。弟が泣いていると姉はホッとする。泣き虫のくせに泣くことすらやめてしまう時、信勝は一番危険なのだ。
(よかった。あの様子ならこれから信勝は自分を大切にしてくれる。これからはちゃんと食べて寝てくれるだろう)
 もうしばらくはあの部屋だけで過ごしてもらうが、一月後も大丈夫そうだったら庭くらいは散歩させて大丈夫だろう。
 信長は布団の上で伸びをすると立ち上がり、枕のそばの大きな木の箱の前に立った。端が鉄で囲まれた頑丈な箱だ。懐から鍵を取り出すと蓋を開けると淡い光がこぼれた。
「聖杯……これでよかったのか?」
 信長が取り出したのは「聖杯」だった。全ての願いを叶えるという奇跡の盃。ただ信長がよく知る聖杯とは違い、銀色で、ヒビが入っており、小さかった。
 しかし奇跡の力を持つことには変わりない。手にとっていると聖杯の声が聞こえた。
『あなたの願いを叶えましょう。私は奇跡の力を持つ。織田信勝を生かす道を開きましょう』
「ふむ、わしからすると前世の記憶があること自体、奇跡って感じなんじゃが」
 この織田信長、普通の「織田信長」とは違っていた。女性であると言うことではなく、前世、カルデアと呼ばれた場所の記憶がそっくりそのまま残っているのだ。この状態を前世というのは珍妙だが他に呼びようがない。
 そこで再会した死んだはずの弟の記憶も全て覚えている。だから弟の謀反は全て自分のためで、本当は姉を憎んでおらず慕っていたことも知っている。
 信長の記憶が蘇ったのは稲生の戦いの直前だった。部屋で休んでいると膨大な記憶が蘇り、倒れてしまった。そして気がつくと淡い光を放つ銀色の聖杯をその手に持って目覚めたのだ。
『あなたの願いは何ですか?』
 目覚めた信長は記憶からそれが聖杯と呼ばれるものだと知った。それは使い方を誤れば破滅にも繋がる危険なものだ。だがカルデアの記憶を持つ信長には一つ願いがあった。
 願うか迷っていると「信長様、信勝様が謀反です!」と部屋の外で声が響いた。そうか、今はそんな時期なのかと一度聖杯を隠し、家臣に指示を出すともう一度部屋に戻った。そして聖杯をもう一度手にして、願いを言った。
「多少、胡散臭いが願ってやる……信勝を、我が弟を死なせるな。歴史の中では死んでしまう我が弟が生きる道を何とか作ってくれ」
『分かりました。しかし、私は完全な聖杯というには力が弱い。大きな歴史の流れは変えられません。けれど、あなたの弟は大きな歴史の流れではない。大まかに辻褄があっていれば小さな歴史の流れに紛れて、あなたの願いは叶えられるでしょう』
「ふん、相変わらず願いを叶えるというには中途半端な……だがいい」
 信長は聖杯を懐にしまうと戦いに向かった。
(信勝……もう勝手に死ぬな。今度こそ、お前を生かしてみせる)
 こうして信長は聖杯を使って弟を生かす道を探し始めた。