本当は、満月があればよかったのではない


この月はきっと彼も見ている、そう思っていたから
















あなたへの月 8















雪にはいろいろな思い出がある。雪遊びの記憶、寒くて手が真っ赤になった記憶、窓の中から見た雪の大地が鏡のように光を反射して眩しくてうまく当時教師だったギュンターの注釈を書き取れなかった記憶。比較的気温の低い眞魔国ではあまり雪は珍しいものではなく、思い出は限りない。

しかし、よく一緒に遊んでいた2番目の兄との記憶はあまりに幼かったときのことだからなのか、あまり思い出せない。何度記憶の彼方をこらしてみても、靄の中で何かを掴もうとした瞬間消えてしまってどうしても思い出せないものだった。


それでも、ひとつだけ思い出せるものがあった。


多分、幼かった頃コンラートと一緒に遊んででもいたときの記憶だろう。何をしていたのかは思い出せないが、とにかくヴォルフラムは一緒にいたコンラートを置いてどこかに行ってしまった。「すぐに戻ってくるから、絶対待ってて」と何度も念を押して立ち去った。
何度も振り返る弟にコンラートも苦笑しながら、手を振って笑っていた。

そして、急いで戻ってきたときにいつも優しかった叔父とすれ違った。優しく微笑みかけて彼は「こっちにおいで」といった。

でも、コンラートが待っていたのでヴォルフラムは首を横に振ってそのまま走った。後ろに叔父の慌てた声が聞こえたが、とにかくコンラートを待たせてはいけない、いや早く会いたいと思って叔父の方は振り向かずにそのまま走り続けた。

走った先ではコンラートが待っていた。白い雪が降る中でいつもと同じ柔らかな笑顔浮かべて、きっと飛びついてくるであろうヴォルフラムのために両手を広げて待っていた。
とても嬉しい光景だったであろうそれに、しかしヴォルフラムは顔を歪ませた。


コンラートの左頬には一筋の赤い血が流れていた。ほんの小さなものだったが、純白の雪の中で際だって、なにか恐ろしいものののようにはっきりと赤く見えた。


どうしたのとコンラートに飛びついた。コンラートは何を言っているのかよく分かっていなかったが、泣きじゃくるヴォルフラムが指さす先に一瞬眼を凍らせた。でも、それは一瞬で溶けて、しばらく考え込むと少し強張った笑みでこれはつららが落ちてきたときに避け損ねたものだと説明した。

つらら?とよく分からないヴォルフラムにコンラートはそれはね・・・と、赤い目のヴォルフラムの手を引いて城の屋根の方を指さした。あそこにね氷の柱が出来ているんだ、雪が溶けて針みたいになっているんだ。でも少し温かくなってきたからつららが落ちてくる。だから、ヴォルフも屋根の下に近づいたら駄目だよ・・・・・・そんなことを言われた。

よく理解は出来なかったが、ヴォルフラムはコンラートとの手を必死で握りながら、もう二度と彼を置いていかないと決めた。目に見えないところで傷ついて欲しくないから、置いていかない。そんな風に気遣いのための笑顔を浮かばせたりしたくないから、もう二度と。

全然手を離そうとしないヴォルフラムにコンラートは少し困ったように、でも今度は心からの笑顔を浮かべてヴォルフラムの頬にかかった雪を払った。






















泊まっていた部屋は2階だった。落ちたのは右足からだった。衝撃は予想以上ではあったが、下は大通りで道の端には雪かきをして摘まれた深い雪がある。怪我をするような落ち方さえしなければ、飛びおりるには十分だった。

ヴォルフラムはネグリジェの下には不似合いな軍用のブーツが凍った雪の表面を踏み砕くと両手をついて、そのまま勢いを殺しつつ雪面に倒れた。


「・・・・・っげ、けほっけほっ!!」


口を開けたまま雪に突っ込んでしまう。喉に詰まった真新しい雪をはき出すとヴォルフラムはすぐに四つん這いに立ち上がった。

大きい庶民向けの宿は建物と通りの間に小さな庭や柵はなく飛び出してさえしまえば、そのまま通りに出て外にいるものを追いかけることも容易だ。1階では通りを見渡すことはできないと2階で1人部屋を欲したことも、ユーリや大賢者に見とがめられないように追いかけることには不向きなネグリジェを着たことも、その下にすぐに追いかけられるようにブーツだけは身につけていたことも、すべては、ヴォルフラムがコンラートを逃がさないためだった。

来ると思っていた。一度、ベラール2世の襲撃が終わっただけでコンラートが安心してユーリから離れるとは考えがたかった。ぼくが一番側でそれを見ていたから、絶対だと思った。コンラートは大シマロンからユーリが離れるまで、下手をすれば眞魔国にたどり着くまでは影からユーリを見守り続けるだろうと確信していた。

問題はどこで捕まえるかだった。旅路でもヴォルフラムは少しでも余裕があるときは周囲に気を配って、馬の一頭でもいないかと雪原を見渡していたが駄目で、すぐに諦めた。コンラートは幼少から旅に出ることが多く、軍人としての経験もヴォルフラムとは比べものにならない。少し、離れて見えないぎりぎりの場所からヴォルフラムたちを追跡することはコンラートにとって造作もないことだろう。だから、捕まえるためにはどこが最適か考えてそれは一端全員が足を止める場所、つまり乗船するために止まる旅の最初の目的地となっている東ニルゾンだと結論づけた。こちらが立ち止まれば、あっちも立ち止まるしかない。だから、遠巻きに追うのではなく近づいてくる。その時を狙うしか、ヴォルフラムにはコンラートを捕まえる機会はなかった。

大賢者が宿泊を提案してときは、内心拍手喝采したほどだ。もっとも、彼が同じ漆黒ではあるがユーリとは異なる静けさを宿した瞳を意味ありげに何度か送っていたのだから気付かれてはいるのかもしれないとも感じていたが・・・でもきっと彼はヴォルフラムを止めはしまい。船での彼の態度を思い出してヴォルフラムは自分を叱咤した。

立ち上がろうとすると足がもつれた。尻餅をつくようにヴォルフラムは再び雪の中に倒れた。未だにしびれて動きを鈍磨させる手足にヴォルフラムがいらつくと目尻に何か熱いものを感じて慌てて振り払った。うまく動かない自分の体にいらだちを通り越して絶望すら感じた。


「兄上・・・・・・」


長兄へと向けたものではないそれは何十年ぶりのものなのかヴォルフラムにもわからなかった。せめて膝からだけでも立ち上がろうとすると素肌に触れる雪の冷たさが今更に痛かった。


コンラートは大シマロンから離れる前にどこかで捕まえければならない。コンラートを捕まえて眞魔国に連れ戻さないといけない。それがヴォルフラムの考えだった。きっと、このまま置いて言ってしまったらどんどん取り返しが付かない。コンラートのことだから、どこかで自分さえ犠牲になればいいと勝手に思っているのかもしれない。

大シマロンとコンラートの交わされたであろう何かしらの密約。「風の終わり」のことかコンラート自身がその「鍵」だとい信じがたいことが関わっているのか、それなら「風の終わり」を運び出してしまえばコンラートは自由になれるのか・・・・・・そのことはヴォルフラムには全く分からない。

それでも一つわかること・・・コンラートは自分の優先順位が低い。自分の生死や感情の痛みをまるで最初に犠牲にしていいものと定めているように。 そのくせ勝手に傷つく・・・自分が一番軽いと思う自分自身を投げ出して、勝手に傷ついて、そして誰にもそれを言わない。

でも、コンラートは眞魔国に帰るべきだ。だって、彼は16の成人の儀の時に魔族として生きると誓った。眞魔国で生きていきたいと、願ったはずだ。かつて盲目の彼女を失った国でも、今はユーリの待つ眞魔国に帰りたいと思っているはずだ。だから、コンラートは大シマロンから連れ戻さなければならない。

きっと、本当はコンラートだって帰りたいはずだ。だって・・・・・・


(どうして・・・・・・?)


コンラートにとって眞魔国は帰るべき場所か?どうして?頭の片隅から漏れる声にヴォルフラムは耳を傾けない勇気はなかった。ずっと考えることを避けていた、疑問に思ってはいけないこと。


眞魔国はコンラートにとって帰るべき場所か?何のために?


(それは・・・ユーリがいるから)

(コンラートはユーリを大切にしている。それは本当だ。コンラートにとって一番大切なのはユーリ。
でも、それなら大シマロンにいる理由だってユーリのためじゃないのか?コンラートならユーリの側にいないことがそれ以上にユーリのためになることだったら眞魔国にコンラートが帰る理由にはならないんじゃないか?)

(ユーリだって望んで・・・!)

(ユーリもそれを望んでいる。でも、ユーリはぼくほど弱くはないんだ。コンラートが決めたことを無理に曲げさせることなんでしない。コンラートが自分の意志で大シマロンから帰らないんならそれを尊重する・・・コンラートが眞魔国に帰る理由にはならない)

(でも、本当は帰りたいはずだ!眞魔国には母上や兄上だって・・・!)

(コンラートは母上のことも兄上のことも愛している。でも、元々離れ離れになることの多かった家族だ。ちゃんと理由があって離れるなら、家族の形が変わるだけだ・・・・・・往生際が悪いのはぼくだけだ。
コンラートは自分が犠牲になることを厭わないけれど、そもそもコンラートが眞魔国に帰らない理由とは限らない。人間の血を引くことでコンラートを排斥してきた国がコンラートが帰りたい場所だと思うのか?)

(・・・・・・そうだ)

(嘘をつくな。わかっているはずだ、眞魔国は彼に優しくない国だった。ぼくだってそうじゃないか)


そうだ、その通りだ。ほぼ全滅したルッテンベルク師団。未だに残る純血派が向けるコンラートへの眼差し。ヴォルフラムが最後にコンラートに投げつけた言葉・・・「汚らわしい人間の手でぼくに触れるな!」・・・

ぼくにコンラートを止めることなんてできないかもしれない。それどころかコンラートに責められるかもしれない、今まで人間と罵ってきたくせに今更何のようだと手を振り払われるかも。冷たい瞳で刺されるかもしれない、今更何のようだと軽蔑されるかもしれない。
お前など兄弟となど思っていない、と。

今までそうしてきたのはヴォルフラムのはずなのに、そう考えただけで体が凍った。こわい、彼に否定されることを思うと体の内側が凍り付く。触れたがるようで、どこか一線からは決して手を伸ばしてこなかったコンラートの手。ヴォルフラムの罵声に素知らぬ顔の柔らかな笑顔。それに拒絶される。それはヴォルフラムにとって悪夢だった。

だったらここで諦めた方が傷つかずにすむ?ここでただ、宿に帰ればいい。それだけでいい。

耳元の誘惑にヴォルフラムは悲鳴を上げた。


「いやだ、コンラートは・・・!」


ぼくのそばで生きてほしい。

哀願のようにそう叫ばなかったのは理性のせいではなかった。右足に激しい熱が生まれた。そしてそのまま今度は急に凍り付くように冷たくなる。足が自分ものではなくなったような感覚にヴォルフラムは何とか視線だけを送ると氷の柱が右足にネグリジェを切り裂いて突き刺さっていた。

つらら?幼いコンラートの言葉。冬に窓の側に立ったら危ないよ・・・そんな言葉だったろうか。
思い出せないヴォルフラムは何かに憑かれたように比較的小さいそれを握った。絡めた指が痛いほど冷たい。そのまま引き抜くと痛みに声が漏れる。つららの表面の血がぽたりと雪を赤く染めた。いたい。でも、大丈夫。肌の表面が切れただけで、たいした傷じゃない。

でも、これでは走れない。コンラートを捕まえられない。あの時に二度と置いていかないと決めたのに。

ヴォルフラムは裂けた肌に手を当てた。痛いが凍るように冷たい肌の痛みは常時ほどではない。目を閉じて、指先に意識を集中する。かすかに暖かなものを指先に感じると強烈な圧迫感で目眩がする。こみ上げてくる吐き気にヴォルフラムは奥歯を噛んだ。でも、あと少し。あと、少しだから・・・・・・


「何をしているんだ・・・やめろ!!」


ヴォルフラムの集中は視界の端から急に現れた白い袖に遮られた。白い袖をまとった腕が治癒の魔術を使っていた右足の傷に触れていたヴォルフラムの手をはがして、そのまま捕らえた。

ヴォルフラムは顔を上げた・・・ダークブラウンの髪に薄茶の瞳。満月の月明かりではっきりと見て取れたそれは間違いようがなく次兄のものだった。コンラートだった・・・ヴォルフラムはコンラートに拘束されたままの腕をほどこうとはせず白い袖を掴んだ。布越しに手の平に食い込む自分の爪を感じた。


「こんな場所で魔術を使おうとするなんて・・・なぜこんな、飛び降りたり」

「・・・・・・えた」

「母上やユーリは特別なんだ、お前がこんなところで魔術を使ったら・・・死ぬんだ、死ぬかもしれないんじゃない!絶対死んで・・・・・・!だいたいなぜ窓から飛び降りたり・・・・!」

「コンラート・・・捕まえたぞ」


ヴォルフラムの落ち着き払った態度にコンラートの方が動揺した。湖底の瞳は一切の感情を見せずにただコンラートを映していた。その中には大シマロンの軍服を着たコンラートが映っていた。
その事実にヴォルフラムは眉をひそめた。その黒と黄色は好きじゃない。まるで彼を別人のようにする。


「コンラート、眞魔国に帰るんだ。そんな服を着ていないで・・・」

「ヴォルフ・・・」

「そんな服嫌いだ、そんな服捨てて、眞魔国に・・・」

「・・・・・・それはできない。いや、しないんだ。俺は眞魔国には帰らない」


瞬間、ヴォルフラムの瞳に激情が戻った。


「なぜだ!なぜだ眞魔国はお前の故郷だろう!」

「だからだよ、眞魔国には帰らない。・・・ヴォルフラム宿に帰るんだ、俺にかまうことはない」

「大シマロンとの間に密約があるのか?「鍵」のことか?でも「風の終わり」はぼくたちが運び出して・・・だったら帰れるだろう?」

「そうじゃない、そうじゃないんだ。でも、俺は帰らない」

「なんでだ・・・ユーリのためか?でも、ユーリは眞魔国にいるのに」

「・・・・・さあ、俺が運ぶからじっとして」

「どうしてだ!?」


抱きかかえようとするコンラートにヴォルフラムはその胸ぐらを掴んだ。バランスを崩して雪溜まりに膝をつくコンラートにヴォルフラムは両手をのその襟首にかけた。


「わからない、答えろコンラート!どうしてだ!?眞魔国にはユーリだって、母上だって、兄上だって、ギュンターだって、グリエだって・・・なぜ帰らない?帰りたいんだろう・・・!?」

「・・・・・・帰りたくはないよ」

「・・・・・・え?」


ヴォルフラムの力が急に抜けた。帰りたくはない。掴んでいた両腕がコンラートから落ちる。コンラートの声と頭の奥の声がヴォルフラムの内側で反響した。


コンラートは眞魔国に帰りたくない。

もう帰る理由はない、ぼくのそばには。



「俺は帰らない・・・帰る気はない」



目をそらしたコンラートの声にヴォルフラムは自分が遠くに行く感覚に沈んだ。両足からふわりと浮いて雪に沈んでいく。コンラートの表情が歪むその向こうに白く浮かぶ満月。柔らかな光がコンラートを白く照らしている。いつでもコンラートの側にいられるであろうその光がやさしく、慈しむように。

その光景が白く消えていく光景を見ながら、ヴォルフラムは自分の中で呪いが解けていく音を確かに聞いて、意識を閉ざした。























......to be continued......


















(反転アトガキ)
うちの次男は考察なんかでも書いてるように「たぶん、大シマロンと地球での暗躍とかは何か裏マでは明らかにされていない目的があるはずだ〜」と思って書いてるので次男の台詞がちょっと意味不明かもしれません・・・。
あと少し、です・・・(たぶん2話・・・)。




2008/03/31