海へ出ると夕闇にカレーの街の明かりが星のようにきらめいていた。船は藍色の海に白い波を引いて進んでいく。クルーズチケットなんて大嘘つきやがって。

「こんなボロ漁船でごめんな」
「そんな事ないって、レトロでいいじゃん」

 奴への不満が顔に出てしまっていたらしい。イギリスが待つ海峡上までの航路の船を出してくれているのは、カレーに住む背筋のしっかりした爺さんだった。船乗りなのか、老後の楽しみなのか、よく使い込まれた船はよく磨かれている。

「こんな所に呼び出して、あいつは何考えているんだって思ってただけだよ」
「イギリスさんは変わったお方だからのう」
「何考えているのか予想つかないと言うか、訳が分からない」
「そうかのう、あんな分かりやすい御仁はそうそういないと思うが」

 フランスさんともあろう人が、と不思議そうなブルーグリーンの瞳がじっと俺を見る。そんなにまじまじと見られると照れる。爺さんは機器で航路を確認して自動運転に切り替え、デッキの俺の隣にちょこんと立った。白髪は昔はブラウンだったのだろう、老いと成熟を感じさせる爺さんだった。

「昔話をしていいかね、私はイギリスさんの釣り仲間でね」
「そうなんだ」
「昔っからへそ曲がりで妖精が見えて、これが私の生まれた国なんだと不思議な気持ちで一緒に釣りをしていた。あの人はやる気はあるんだが、それがかえってアダになってな。いつも魚を逃がして最後まで私の方が上手いままだった」

 最後? と振り返ると老人は妖精のようにいたずらっぽく笑った。

「私はイギリス生まれで、後にフランスに移住した。自分のしたい仕事のためだったし、故国を裏切ったとかそんな重い気持ちではなかった。だがあの人は最後の釣りの時涙ぐんだのは罪悪感を覚えたのう。もしかしたら家族と離れる以上に辛かったかもしれん」

 俺とイギリスは海峡では三十四キロ、地図上ならゼロメートルしか離れていない。だからお互いに移住する人間は珍しくなかった。

「だから慌てて説明したんじゃ、私はイギリスで生まれ育ったことを良かったと思っているし、あなたのことを忘れることもない。フランスに行くのはあなたが好きでなくなったという意味ではない子供のように言い訳を重ねた。
 この無口な私がだよ? そう思わないかね?」
「・・・・・・ははは、あいつは変な所でいつまでも子供だから」
「でもな、そうしたら彼は嫌われていないことは分かっている。ただどんなに近い国でも誰かがいなくなるのは血管から血が失われるように寂しさを感じてしまう、と言われた。そしてこう言った」

 ウインクした爺さんは俺を指さした。

「あんたがこれから行く国を俺は生まれた頃からよく知ってる、気取ったやつもいるが風光明媚で食事のうまい国だ。いい国だから楽しくやれるだろう。だから寂しいけれど、安心して送り出せる・・・・・・ってな」
「・・・・・・あいつが?」
「それから私も色々あったが、こうして海に出ればすぐに故郷に帰れることが心の支えになったよ。だからかな、あんたにずっと居着いちまった」

 だから彼の故国はこの海峡を隔てた両国なのだ、両方とも愛している、と懐かしそうに笑う。

「しかし、不思議だね。イギリスさんとフランスさんといえば、会えば喧嘩ばっかりだと聞いてたけどこんな夜に待ち合わせもするなんて・・・・・・まあ、私の娘もフランスで生まれたのにあっちがいい! ってイギリスに移住しちまったんだけどね」

 ははは、と明るい笑い声が波の音に混じっている。俺はその風景と老人の話がずしりと胸に重くのし掛かり、砂時計を見たーーそのガラスの表面に俺にそっくりの人物が忌々しげに俺を見ていた。『そのまま進めば大切なものを失うぞ』と何度も繰り返し告げている。そうに決まっている、でなければ北の大国まで訳も分からず逃げたりするか。

「しかしね、私は思うんじゃ。イギリスさんには言いづらいからあんたに言ってもいいかね」
「何をだい?」
「イギリス生まれで、今はフランスで生きている。・・・・・・私はあなたの一部なのか、それとも彼の一部なんだろうか」


 俺は船が滑らかに泳いでいく海面の下を感じた。そこには遠い場所から流れる海流と古い時代は陸続きだったかもしれない海底がある。流れの底で海底は互いの白い壁をずっと昔から繋いでいたのだ。







「 お兄さんはお隣さんにお悩み 9 」 







 月光が夜の海の上で揺らめいていた。今宵は満月、灯台の一つもなくとも世界を見渡すことはたやすかった。

(ユーロスターができて以来、ドーバー海峡に来るのも久しぶりだな)

 戦や交易の記憶がたくさんある海面に過去の面影が見えるか探してみるが漆黒の海が静かに凪いでいるだけだった。漁船で案内されると中型船が待っていた。
 ここだとばかりに無愛想に縄ばしごがぶら下がっている。もっと簡単な乗船方法があるでしょと不満たっぷりで登っていた。爺さんには頼んで近隣を周遊してもらっている。

「メメント・モリって知ってるか?・・・・・・ラテン語で「死を記憶しろ」、つまり「いつか必ず死ぬことを忘れるな」って意味だ。
 言葉の始まりは古代ローマ帝国くらいと思われる。その頃は「いつか死ぬ、だから今飲め踊れ」って今こそ陽気に楽しもうって意味で使われていた。けど教会が力を持ち始めたり、科学が発達していく内に「この世でどんなに成功してもいつか死ぬ。この世で得たものはあの世まで持っていけない」って意味合いがでてくる。まあだから寄付しろってニュアンスもあったんだが、つまりはいつか必ず死ぬんだから生きている内にやっとけよってこと」
「うっせーよ、俺の幻影・・・・・・ロシアに消されたんじゃなかったのかよ」

 忌々しくドーバー海峡上に半透明に浮かぶもう一人の俺を睨む。奴は重力なんか関係なく、縄ばしごも必要ない。なのにわざわざ俺の周りを蝶のようにふわふわと飛んでいた。

「あの時言ったろ、俺はお前が元気にならなきゃ消えない優しいシステムだって」
「乗っ取るシステムの間違いだろ、ここに来るまで何度意識が飛んだことか」
「砂時計ももう終わりだしな」

 唯一の違いのアイスブルーの瞳は他人事。勝手に俺のポケットからきらきらした砂時計を取り出す。残りは本当にわずか、一日と保つまい。

「・・・・・・メメント・モリねえ。いつか自分が死ぬことを忘れた事なんかない、クリスマス・キャロルでも読んでろよ」
「でもお隣さんの死は忘れてたんだろう?」
「・・・・・・消えろ」
「イギリスってさ、面白い奴だよな」
「消えろって」

 素直に奴は消えた。・・・・・・縄ばしごは終わりに近づいていた。

 船のデッキに足をつけると人影は見つからなかった。周囲を伺うが波音だけが広いデッキに響いている。一人にはあまりにも広いデッキには誰も現れない。見た目より広い船だ、ここなら二十人でパーティを開いても十分だろう。

「イギリス、どこだ?」
「来やがったな、フランス」

 聞きなれきったその声が上から降ってくる。見上げればイギリスは月光をバックに立っていた。逆光でよく見えないはずなのにいつもの通りエラソーでふんぞり返っていることが手に取るようによく分かった。・・・・・・彼は俺にとって手足の延長上だから。

 どうやらイギリスはデッキではなく、わざわざ操縦室に当たる部屋の屋根に当たる部分で待っていたらしい。日本のコトワザでいうなんとかと煙は高いところってやつだろうか。

「・・・・・・待たせたみたいだね」

 彼の姿に体はやはり勝手に痛みを訴えた。隠しつつ観察する、海上で待っているなんて半信半疑だったのだが、イギリスは自分の船をご丁寧に国境上に留めていたらしい。彼とはロシアで別れて以来だが、心は初めての出会いのようにぎこちない。

「え、えーと、ずっと待っててくれて、メルシ・・・・・・」
「俺が死ぬとか思ってるらしいな!」

 人の話を聞いてない。物理的に上からびしっと指さされる。ドイツ、いやオーストリアか。どっちにせよ率直すぎる。

「なんで俺が先に死ぬことになってんだよ! お前が先だろおっさん!」
「そういう意味じゃねえ! てか俺のが長生きに決まってんだろ!」

 そこは国として譲れない。しかしイギリスは屋根の上で俺を睨んだまま身を屈めた。月光を戴いたまま、俺の方にゆっくり・・・・・・助走体勢?

「ちょ、お前、まさか!?」

 十メートルほどの距離があった。だが一秒後に屋根を蹴り、デッキに着地するや否や俺へと疾走した。

「せええええいっ!」
「あっぶねえええっ!・・・・・・いきなり蹴って、こないで、よっ!」

 呆気にとられる間もなく、顔面直撃のコースの跳び蹴りを両手でガードする。後ろに飛ぶことで威力を殺すが痛い、腕は痺れていた。さらにその勢いで拳が飛んでくる。左に飛んで、さらに後ろに飛んで距離をとる。

 イギリスの攻撃なら体が勝手に防いでくれるから良かった。顔面に突入してくる靴底を避けて、足首をつかむ。馬鹿め、大降りは反撃されやすい。足を引っ張って転ばせようとする。が、

「こ、このバカ野郎っ!?」
「この三ヶ月の恨みくらいやがれ!」

 なんとイギリスは掴んだ足の逆の足を振りあげ宙に浮いた。そのまま落下するが、その一瞬でかかと落としをくりだした。左足が肩にめり込む。手をを離してもかわしきれず、後ろに転がることで衝撃を逃がす。

「いっててて・・・・・・お前なあ!」

 何が楽しいのか満面の笑顔で腰に手を当てて、イギリスは急に高笑いを始めた。

「見たか! 俺の国境が五メートル広がったぞ!」
「・・・・・・は?」

 その時満月が雲に隠れた。月光の薄れた闇の中、船のデッキに淡いイエローの直線が現れる。目を凝らすとそれは闇の中で光る蛍光テープで引かれた線らしく、デッキをまっぷたつに分けていた。

「何だよ、このテープ?」
「ふっ、気がついたか。この線は二週間前から用意していた英仏国境線だ。ここなら俺とお前の最終決戦の場にぴったりだろ」

 蛍光イエローの光を指さし謎の自信で断言する。

「すげーだろ! 大英帝国様がじきじきドーバー海峡上で国境線を引いて待ってやってたんだぞ! あの世まで感謝しろよ」

 確かにここは国境付近だ。だが、この馬鹿わざわざ国境線を引いて俺に会うためにこの船用意してここで待ってたのか? しかもカレーからのクルーズチケット(知り合いの漁船)まで手配して二週間待ってた?

 で、海の上でおれを蹴飛ばして五メートル後退したら国境が広がったと主張している。馬鹿だ馬鹿だ、とは思っていたけど・・・・・・どん引きしてるとイギリスは海風になびくはずもない長さの髪をかきあげた。

「イギリス・・・・・・お前、正気か?」
「俺がお前を蹴飛ばして五メートル飛んだろ。つまりイギリスの国境はそんだけ広くなったってことだ!」
「お前、ふざけんな。この眉毛、国際法をなんだと思ってんだ!」
「今俺が決めた! だからいい! 俺は大英帝国さまだからな!」

 この馬鹿。このアホ。このイギリス。この、この。

「大英帝国とか、一世紀も前のことで何言ってんだあっ! とっくに覇権から転がり落ちたくせに!」
「い、いいい、一世紀も前じゃねえよ、ばーか! 落ちたのはお前だってそうだろ!」

 それだともう大英帝国じゃないって認めた発言だろうが!
 国境上でお互いの顔に左ストレートがめりこんだ。いってえ、しかしこの蛍光テープの上から退きたくない。勝手にイギリスが決めたこととはいえ国境の真上と思うと隣国に引けを取りたくない。そんな馬鹿な意地こそ思う壺だが、彼が目の前で偉そうにしていると無条件で俺の闘志は短い導火線と化す。

 再び飛んできた足をサイドステップでかわし、急接近して死角に入り込む。無言でイギリスの腕を捻りあげると国境線が一メートルほどイギリス側にずれる。

「ははは、ざまっみろ! イギリスの国境線の方が一メートル削れてんの! だっせえ!」
「ば、ばーか! よく見ろ、俺の右足がまだテープの上にあるから一メートルは無効だ!」
「この野郎・・・・・・ほんっとムカつく奴だよ、イギリスは」
「いって・・・・・・フランスの方が三倍ムカつくだろ!」
「お前はその十倍ムカつく!」
「ならお前はその百倍だ!」
「うっせうっせ! お前なんか俺と殴りあってりゃいいんだよ!」

 アホな応酬だ。そして普遍とも思えた殴り合いが始まる。拳を振るえば足が飛んできて、蹴れば拳が飛んできた。そんな繰り返し。

「だいたいな、お前が俺を避けてる理由が俺は嫌いだ!」

 俺の左エルボーをかわした向こうで罵られる。

「俺がいつか死ぬのがムカつく? お前は人間をなんだと思ってんだ。お前は今まで見送った奴らのこと忘れちまったのかよ」

 雲が流れ月が再び姿を現す、そして光がイギリスの立っている場所にさした。その光景がまるで奴が正論をいって、俺は間違っているように見えた。

「お前は二つ前の世紀でいい加減にしろって位革命するし、でもなんだかんだ強さを維持して・・・・・・そんなことの繰り返しで人とたくさん会っただろう。そんな奴らのことを忘れて、俺のこと考えるなんてばっかじゃねーの!」
「忘れるわけねーだろ、お前なんかに何が分かる!」
「人間に比べれば、俺たちなんか不死身だろ! それを」
「本当には不死身じゃないだろう!」

 イギリスがつっこんできたタイミングで攻撃を打撃から投げ技に切り替える。気持ちがいいほど綺麗に投げられ、そして綺麗に受け身をとった。そして転がった体勢から足払いをかけてられ、俺も転ぶ。
 いてえ、畜生。立ち上がる隙を見せればまたやられるだろう、と俺は転がったままあいつの襟首をつかんだ。

「お前のことがずっと気に入らなかった! 対仏同盟とかプロイセンと何度も何度も・・・・・・十九世紀じゅうお前をぶん殴りたかった!」
「んだとこら! アメリカからようやくいなくなったと思ったら独立に荷担んしやがって、俺は十九世紀も十八世紀もお前ぶん殴りたかった!」
「はっ、勝った。俺は十五世紀からだから俺の方が長い!」
「ふざけんな! 俺は十四世紀・・・・・・いや、てめーと会った頃からお前をぶん殴りたかった! だから俺の勝ちだ!」
「なら最初にあった頃から! これで俺が年上だから俺の勝ちでしょ!」

 体が温まりだんだんとお互いの動きは洗練された格闘になっていく。けれどそれに反比例するように言い合いは馬鹿馬鹿しくなっていく。

「だいたいお前の家の本読んだけど、なんか色々気に入らない! 生きるべきか死ぬべきかなんて知るかよ! シェイクスピアが世界でうけたからって調子に乗るな!」
「はっ、お前ん家のファッションや料理は前々から合理性に欠けてると思ってたんだ。目立ちやがりの権化め、少しは質素ってものを覚えやがれ!」
「ずっと俺の飯食って、こっそり輸入して着てたお前に言われたくないね! 俺はな、坊ちゃんにだけは」
「そっちこそ! こっそり輸入して読んでたやつがケチつけんな! 俺はお前にだけは」
「たとえ上司が認めても、俺個人だけは!」
「たとえ国民が認めても、俺個人だけは!」

 清々しいほどのハーモニーで月下に同じ台詞が発せられる。

「「俺は! お前にだけは、絶対負けねえっ!!」」

 殴って、蹴られて。締め技かけて、逆に間接技を食らう。やって、やりかえされる。ーーそんな中視界の端でもう一人の俺が微笑んでいた。いっそ安らかなほどの変わらない風景の中で俺は血を吐くことを堪えていた。

(・・・・・・いつまでもこうして喧嘩していたい)

 それが本音だ。有限の中の無限の錯覚、それを無価値だと俺にはいえない。殴りあいの度に彼のもろい皮膚と血管の流れを感じる。

「こんのおお! イギリスいい加減にしろよ!」
「それはこっちの台詞だ! 勝手に消えて訳分かんねえことばっかりすんじゃねーよ、フランス!」

 イギリスは焦ってるように見える。何か、勝手が違うと。

「お前が無神経なのが悪いんだろ! ヴェネチアでは俺とイタリアの話邪魔しやがって!」
「はっ、いい気味だ!」
「その後もプロイセンに迷惑かけやがって!」
「ドイツの件ではお前もあいこだろ!お前の目つきがムカつく!」
「なら俺はお前のダサさがムカつく!」
「なんだとこら!」
「それはこっちの台詞だ!」

 ごろごろとデッキを転がり、もみ合う。間近にみた彼は獣のように凶暴で目の前の俺をぶん殴ることしか考えていないようだった。

(ああ、ずっとこうしていられたらいいのに)

 そしてそれを彼を失うまで、一度も疑わずにいられたらよかったのに。

 転がりすぎて俺たちはデッキの手すりにごちーんと同時に頭がぶつかって、痛みにお互い手が止まった。その隙間の時間、両腕を掴みあったままのにらみ合いにイギリスは先に動いた。立ち上がり、ホールド状態の俺をふりほどこうとする。

「させるか」

 俺の腕は彼の腕をもっと強く拘束するがイギリスは全身の力を使って離れようとする。そして結果離れた勢いでブリッジの柵にぶつかった。

「・・・・・・ってえ」

 障害物にバランスを崩す。馬鹿め、海軍国なら船と海の境界線ぐらい把握しておけ。飛びかかって右腕を捕まえると、彼の方向からイヤな音がした。まるで鉄柵が壊れるような。

「やべ、離れろ!」

 道連れにしないようにイギリスは俺をデッキへと突き飛ばした。

 そしてそのまま、一人だけドーバー海峡へぐらりとよろめく。落ちる姿が数十年前の即死した姿が重なる。あの時も文句ばっかり言ってたのに結局最後は俺を守ろうとして・・・・・・。

「ーーイギリスっ!」

 俺は壊れた手すりを越えて届かない彼を追った。




 クリスマス・キャロルという有名な物語がある。スクルージってケチな爺さんは金持ちだけど町の嫌われ者。クリスマスに親戚が挨拶に来ても無碍に扱い、貧しい雇い人にも冷たい。しかしそんな彼はある日夢を見て、町一番の慈善家に変わる。さて彼に何があったのだろう。

 空中で離した手が再び繋がり、俺の右腕でイギリスは船と海の間でぶら下がった。

「ばか、離せ」
「ふざけんなよ・・・・・・俺の前でお前が倒れるな! 許さないからな、死ぬなんて絶対許さない!」

 地響きのような声は自分のものとは思えなかった。イギリスも信じられないような顔で海の上に吊り下がったまま俺を見上げる。月光に照らされてみれば似合わないフランス製のスーツ姿が黒の空と海の間でとても鮮明だった。・・・・・・俺が贈ってやった服で俺と殴りあってのかよ。高かったのに俺のせいでぼろぼろじゃないか。

 彼を支える右腕の付け根がぎりぎりと痛い。一人分だったイギリスの危機は俺たちの危機になった。

「お、俺は・・・・・・別に落ちても大丈夫だ」
「いいから早く上がれ!」
「救助用の浮き輪ならあらかじめ海に浮かべておいた。ライフベストだってある」
「関係ない、俺の前で二度と死にそうになるな」
「フランス・・・・・・?」

 無事の手すりにすがりつきなんとか引き上げる。イギリスは信じられないと言う表情だったがデッキに近づいて俺がその襟首を持ち上げる距離まで来ると自分でもデッキへ手を伸ばした。

 なんとか船に戻ったことを確認すると繋いだ腕を乱暴に放す。びっくりした顔でイギリスはデッキに転がった。・・・・・・いつまでも喧嘩したいと思った途端これだ。

 再び夢想する。クリスマス・キャロルでスクルージが見た夢の内容は自分の過去と現在と未来だった。彼は精霊に導かれ、荒む前の過去と隣人の苦しみを冷酷に切り捨てる現在を見る。そして最後に自分と雇い人の子供の無惨な死を見せつけられる。そして善人になるというエピソードがどうも俺には不思議だった・・・・・・断っておくが、俺は金より愛が好きだし、ラストに異論はない。
 しかし金がすべての爺さんが一晩の夢を見ただけで、絶対に思っていた生き方を変えてしまうのかよく分からない。スクルージ、お前は金が確かなものだと思っていたんじゃなかったのか?

 ストーリーの意義は理解できる。死はいつでも俺たちのすぐ横にあって、あっけなく訪れる。だから残り枚数の決まった時間のチケットをどう使うのか、どんな死に方をしたいのかよく考えておけという教訓だ。

 でも俺はそれはあまりにもハードな教訓だと思う。いつか誰でも死んでしまうことは忘れているから生きていけるのだ・・・・・・傍らの死をずっと覚えている事はきついことだ。隣人が死んでしまう日を逆算して、その日に後悔しないために生きるだなんて過酷すぎる。

 シャツを掴んだときに喉を詰まらせたのだろう。イギリスはげほげほを弱々しく咳をして、デッキに膝をついていた。

(これが現実だ。人間と同じ、イギリスだってあっさり死んじまうのさ)

 ドッペルの囁きを受け流す。苦しみから逃れたいだけなら、とっくに投げ出して彼になっている。けどプロイセンが、スペインが、イタリアが言っていた。俺は投げることはできないだろうと。ドイツが、オーストリアが、ロシアが言っていた。投げない方の俺に価値があると。

「二度と俺の前で死にそうになるな」
「別に今のは・・・・・・っ!?」

 立ち上がったイギリスにノーモーションで蹴りを入れた。

 ガードは間に合わず、イギリスの体勢は大きく崩れた。再び転がれば海に落ちる、彼のその警戒をも計算して俺は転がる彼をデッキに柔道の要領で押しつけた。

 馬乗りになってイギリスの襟首をつかんで頭をデッキに叩きつけた。朦朧とした目が睨む。何をしてやろう、殴りつけるか蹴りつけるか、かつての争いでは何度も望んだ立ち位置だ。それこそ何世紀も俺はイギリスを負かせてやりたくてたまらなかった。

「訳分かんねえよ・・・・・・くそったれ」

 毒付くがイギリスも理解している。この体勢で口以外の何でたてつける!

(殴っちまえよ、ほら「今まで通りに」)

 けれど俺は何もしなかった。目を逸らして、呼吸を止めてしまった。どうしようもなく何かが終わってしまう。

「・・・・・・だ」

 こんなこと死んでも言いたくない。海流の底で繋がっている海底のことなんか忘れていたい。

「俺にはお前が必要なんだよ」
「・・・・・・は?」
「ちっさい頃から目障りで、そのクセ森でうじうじして気になるし、変に知恵が付いてて強くて」
「お前、何がしたいんだよ」

 片手で掴みあげられた子猫みたいにじたばたと動くイギリスを押さえつける。ホールドした肩から彼の温もりが伝わってきて、その生物としての暖かさと儚さが悲しかった。

「なんでみんな死ぬんだ。俺は王にも民にも貴族たちにも、死んでほしくなかった」
「・・・・・・」
「滅んでいった国のみんなにも置いて逝かれたくなかった」

 抵抗が止まる。彼は俺の話をじっと聞いていた。

「なんで忌々しいお前まで、そんな危うい存在なんだ」
「俺は、危うくなんか・・・・・・なんで今なんだよ、なんで今更俺を、心配なんかするんだ」

 ずっと敵だったろう、好敵手だったろう、これからも変わらずに南東にいるのだろう? グリーンアイが三日月のように細く、俺の心を探る。

「おい、よっく聞けよ。この自称紳士の大馬鹿眉毛」
「んむっ!てめ、放せ・・・・・・馬鹿はお前だろ!」

 馬鹿だけは同意して、月を背景に俺は微笑んだ。・・・・・・俺はきっと人間としても、化身としても、馬鹿みたいにあらゆる死を恐れすぎている。カーテンの影でいちいち幽霊に怯える子供のよう。

「イギリス、お前に伝えることがある」
「また、そのネタかよ・・・・・・もごっ」

 右手のひらでイギリスの三枚舌を黙らせる。しかし噛まれるので、両側から頬に手を押し当てる。それでも彼はなかなか黙らない。

「お前は俺と同じだと思ってた。人間からできた人間とは相入れない概念だ。だからずっと隣で憎みあったり協力したりするのは永遠だと錯覚してた・・・・・・お前がいたから生きてこれた」

 グリーンアイが満月のように丸くなる。瞳にはきらめく星座が映っていた。

「お前がいたから張り合って強くなれた。強い奴だと忌々しかったから死ぬことなんか考えたこともなかった」
「・・・・・・」
「でも気のせいだった。百年戦争のせいか、二次百年戦争のせいか。分からないが、俺はお前が死んでいった国家の化身と同じであることを忘れてた。
 でも正気に戻った。お前だっていつか死ぬ。初めて心からお前に裏切られたよ。こんな所まで三枚舌なんて」
「・・・・・・勝手なことを言うな」
「お前がいつか他の奴らみたいに死んでしまう。人や国のみんなと同じ。その当たり前の現実が辛い」
「お前、血が」

 ぽつぽつと白い顔に血の点がこぼれる。
 子供の頃と同じ。まん丸な目で俺を見上げる、森に住む偏屈な子供。その頃と同じにぼさぼさ頭を可能な限り優しくなでた。

 死を知ったスクルージは人に優しくすることを覚えた。雇い人の子供の病を心から心配した。・・・・・・いつか死んでしまう日のために、接し方が変わった。ーーそんな顛末が十九世紀にイギリス人の作家ディケンズが書いた物語だった。

(こいつはいつまでも死にそうにないのに、な)

 結局彼から生み出されたものと似たものに、怯えた。

 白い顔を三日月が照らす。その肌にこぼれた血の上にさらに数滴の水がこぼれた。波しぶきだろうか。いいや、俺の涙だ。

(なんでイングランドにこんなこと言わなきゃならないんだ)

 でもこれは彼のせいじゃない。俺のわがままだ。

「お前なんて千年前に征服されてりゃよかったのに」
「・・・・・・なんで泣く」
「征服されてくれなかった。俺の庇護下でぶつくさ言いながら暮らしてくれなかったから」
「嘘付け。それで今更泣くフランスじゃないだろう」
「庇護下に入れてりゃ、家族にしてやったのに」
「そんなこと俺も国民も許さなかった。兄さんたちもな」
「可愛げねえ」
「そんなもんいらないだろ、俺たちの関係には」
「俺の中では変わってしまったんだよ」

 落ち着こう、深呼吸を・・・・・・やめた。冷静になれば、絶対に言わないことだ。

「だから・・・・・・なれ」

 狂ってしまえ、これを言いたくないためにずっと逃げていたんだ。

「俺と友達になれ、この馬鹿イギリス!」

 沈黙。
 沈黙、波の音だけがイヤにクリアに響く。ざぱーんと船が揺れる。全身から力が抜けたせいでイギリスはがばっと起き上がり、俺を見つめた。

「・・・・・・は? ・・・・・・え?」

 絶句した顔は月の光より少し白かった。彼は驚き、そして首をひねり、苦い顔をして、そして口を開く。

「・・・・・・お前、もぐっ!?」
「ごめん、今のなし」
「むぐ?」

 両手の平で顔を塞いで黙ってもらう。もぐもぐしか言わなくなったが、指の隙間から正気を疑うようなグリーンアイ。その感情は困惑、戸惑い、ようするに・・・・・・いや考えるのはやめよう。

「無理だ、やっぱり今のなし。タンマだ、ダンマ」
「むぐぐぐ?」
「そんな目でお兄さんを見るな!」
「むー?」


 俺は、俺は、俺は。
 待ってくれ、やっぱり今のは、今のはいくらなんでも。


「駄目だやっぱり恥ずかしい! もう死ぬ、いっそ殺せーーー!」


 俺はムンクの絵画のように叫んで、真っ赤になって走り去った。後ろからイギリスの声が聞こえた気がしたが、耳をふさいで俺は船からドーバー海峡へと飛び降りた。




 つづく



 あとがき

 あと一話です。たぶんエピローグも一つつく。
 この話を書き始めたのは去年の二月からなのですが、一年で終わらせるつもりでした。しかし、もうちょっとかかりそうです。ちょっと焦りましたが四月には終わるはずです。

 ドーヴァーの関係って私の中では血祭りクリスマスのラストあたりで固まってます。あんな感じにどつきあってるとイメージしていただければなあと。


間違ってるかもしれない豆知識

ドーバー海峡:
 ウィキの地図でみるとホントドーバー海峡ってすぐ側ですね。
 イングリッシュチャネルとも呼ぶ。北緯五十一度。最狭部三十四キロ。水深は35~55メートルと浅め。英仏は両岸ともチョークの石灰岩で構成されている。
 水泳で渡る挑戦者が多く、遠泳のコースとして有名。コース達成者をチャネルスイマーと呼ぶ。


覇権について;
 本編ではああいっておりますが、私は覇権から英仏が完全に落ちたきったとは思ってません。ナンバー1ではないのは確かですが、なかなかしぶといです。
 歴史的に見るとフランスよりイギリスの方が覇権からの落ちぶれ方は上手かったような気もします。昔読んだ対談集「イギリスのすすめ」の影響かもね。







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