「 お兄さんはお隣さんにお悩み 12 」






 どうやってここへ帰ってきたのか記憶はない。

 俺は自宅の隠し部屋の扉の前にいた。
 懐から鍵を出す自分の指を他人事のように眺める。どうして俺はここにいる、そこには何をしまっていたのだっけ?

(ああ、あいつに見せたくなくて改造したんだっけ)

 扉を開ければそこには自作のあいつの油絵があった。
 壁に掛かった絵の中の彼は少し緊張して、必死に真顔を作っている。

(イタリアに教えてもらって最近技術第一号に描いたんだっけ?
 自然体でいいって言うのにがちがちで描きにくかった。普段着でいいって言ってんのにフォーマルスーツで来るし)

 一緒にオーロラを背景に取った写真があった。写真はイギリスと二人で撮影したものが多い。
 ヨーロッパのみんなと一緒のもの。アメリカやカナダとのもの、世界中のみんなとのもの。
 ーーもう手の届かない過去。
 ガラスのケースにしまった下手な陶芸品はあいつの手作りの贈り物だった。その隣にある著名な作家の初版本はこっそりくれたものだ。

 たくさんたくさん思い出の残骸あった。そこで笑っている過去の自分が憎くて、今の自分との落差で心臓が灼ける。

「・・・・・・死んだ、くせに、目の前に現れやがって」

 全部あの日彼と友人になってから出来た思い出の痕跡だった。一つ一つに触れて、また苦しい。

 俺は全てを後悔した。

(化身同士で人間の真似ごとなんてするべきじゃなかった)

 時間の流れも、生物としての成り立ちも違うのに。

 そして額縁の絵を外し、庭へと運んだ。
 写真を陶器をボトルシップを本を、全て一つ一つ運んだ。春の芝生に積み上げると思い出たちは思ったより多くはなく拍子抜けした。
 部屋はたった一時間で空っぽになった。

「さよなら」

 そして油を撒き、全て焼いた。
 黒い煙で焼け落ちていく。その中でイギリスの油絵のグリーンアイが俺を見ていた。彼が俺に何かを訴えている空想・・・・・・まるで大丈夫なのかと心配するみたいに見えて。

(ほっといてくれ、もうどこにもいないくせに)

 燃え落ちた灰をじっと見つめているともう涙はでなかった。


 ・・・・・・


 ヴィジョンの水底に浸かっている俺をドッペルゲンガーが引きずり出した。見上げた彼の表情は影になっていてよく見えない。

「・・・・・・お前は・・・・・・未来の俺なのか?」
「その質問に正確に回答することは難しいが・・・・・・おおむね正解だ」

 そのほうがわかりやすい、と俺に手をかざす。
 また倒れていたらしい。力が入らず砂の上でもがくとドッペルは白金の砂を一掬いした。

「俺は、この日さっきお前がイギリスに言ったことを後悔する未来からの使者だ。
 最後に全てを後悔したフランスーーといっても名前が違う場合もあるがーーが妙な機械を使って、未来から記憶だけ転送された」

 俺の頬へさらさらとかける。ざらつく感触にざわざわと感情が流れ込んでくる。

(そうか、この砂)

 頬にかかる度にさっきの映像がちらついた。砂時計の砂と同じ色。

「化身の生体防御うんぬんは・・・・・・嘘か?」
「あれも本当だ、未来では俺たちの生体ももう少し解明されているからな。
 お前は今アイデンティティが崩壊しかけているから、こうして代理の化身が現れている。しかしそこに未来の記憶が植え付けれている。
 それが俺だ」

 そして懐かしい目で上方を眺める。まるで懐かしい誰かがそこにいるみたいに。
 言っていることは半分も理解できなかった。
 けれどこれは理解できる、かつてこいつは今の俺だった。そしてあの未来も嘘じゃない。

「嘘だったらよかったのに・・・・・・あの未来を変えにきたのか?」
「原則時間干渉は禁忌だ。どんな些細なことでも歴史を改編したら恐ろしいことを引き起こしかねない。
 けど例外がある。国同士の個人的な関係なら申請が受理されれば介入できる。俺たちに友情なんてあってもなくても歴史には影響がないからな。
 親切な科学者たちが未来に俺たちを哀れんでくれたのさ、あなたたちはずっと私たちを見守ってきてくれた。だからどうしても辛くなったら使ってくれってな。
 ーーつまり歴史に影響のない時間干渉なら出来る」

 ああ、遙か未来の人間はまだーーとてつもない力と優しさと危うさを持ち続けているのか。今と同じように。

「くくく、怯えやがって。どの未来なら本当でもよかった?」

 どれでもよくない。
 どれも苦しくてたまらなかったーードッペルはそれをよく理解して意地悪に口元を歪めていた。

「でも、どれが本当なんだ?」
「どれもまだ本当じゃないさ。
 イギリスがフランスより先に死ぬもしもがおおまかにああなるだけだ。そして俺をこの時代に送り込むことはあの記憶を持つフランスたちの総意だ」
「頭が痛くなってきた・・・・・・サイエンスフィクションは苦手なんだ、とくにタイムトラベル系は」
「信じがたいことを教えてやる」

 あいつはお前と親友になるんだ・・・・・・真剣な目でそんなことを告げる。
 何考えてるのか本当にわかんないよねとしみじみ上を仰いだ。視線を追うと真っ暗な空間に硬質な光の筋が規則性を持って切り取っていた。ガラスの中にいるよう、どこかで見たような形。

「お前はあいつと友人になれる。頼み方はアホみたいだったが願いが叶うぞ。とても楽しい日々を過ごすんだ」
「・・・・・・さっきの断られるってのはなんだったんだよ」
「悪意に決まってるだろ」

 鋭い眼差しに悟る。それはおそらく嫉妬だった。

「そして最後に心を砕かれる。亡くした後は惨めだったよ、同じ事ばっかり悔いて荒れた。
 そのくせ俺には科学者の慈悲でこういうドッペルゲンガーも現れないし、人類は悲しみに暮れた国の化身として優しくしてくれる。
 そんな迷惑かけながらこう思うのさーー「あんな事言わなければこんな思いをしなくてすんだのに! それまでもっと表面上だけで生きてきたのに!」」

 だからここが分岐点。
 友人関係を始めたらいつか失う未来が確定してしまう。優しい科学者たちの装置をくだらない干渉で消費して。
 そういってひらひらと笑う姿は酷く悲しいものだった。

「どうせ俺たちは自分で自分の生き方を決められない。
 歴史に沿った大往生を見守って、時には多少流れに逆らってこの手で殺して、全てを後悔する。
 国民だけを愛して、不要になったら解放されたって死ねばいいだろ。それで十分だ・・・・・・それ以上の幸福はいい。
 結構長く心を苛むのさ、同じ存在同士の思い出ってのは・・・・・・じくじくじくじく、ずきずきずきってな」

 ドッペルが砂時計をお手玉のように投げては戻す。その中の砂がひっくり返る度の足下が揺れた。

「だから俺を止めにきた?」
「今の時代は停滞期だ。余裕ができてあいつがただの好敵手じゃなくて、良き隣人だと気がついた。そして逃げ回ったもののその過程で結論を得た。
 きっとこんな平和な時代ならそれくらい、いいだろうって・・・・・・思ってしまったんだ」

 隣人。その言葉はすとんと胸に落ちた。
 聖典に愛せと載ってる言葉であり、近隣のへそ曲がりを当てはめる言葉。

「・・・・・・イギリスは必ず俺より先に死ぬのか?」
「どちらが先かこの時点では決まってない、けれど五分五分って所かな。ただ先立たれると俺は必ず今の俺を恨む」

 過去の選択を憎んでいると現在進行形で断言した。
 アイスブルーの瞳は空っぽだった。きっと俺はいろんなものをこれから無くしていくんだろう。

「イギリスにさっきのは取り消しだっていえば、あの未来は回避できる・・・・・・?」
「ああ・・・・・・あの悲しみも憎しみもマシになる。丁度いいだろう、お前は死にたい、俺は過去を変えたい」

 利害は一致している。
 砂時計の底が銃を突きつけるように額に突きつけられた。砂は落ちきっていて、タイムリミットだ。

 ーー決断の時だ、俺は。

「・・・・・・お前は」
「ラストチャンスだ、俺と代われ。さっきのは上手く誤魔化してなかったことにしてやる」
「お前は馬鹿じゃないのか?」

 ドッペルゲンガーは目をガキの頃のイギリスみたいにまん丸にした。

「・・・・・・はあ?」
「自分の気持ち分かってないのかよ!?」

 俺は怒り狂った。
 触れられるようになったんだ。俺は棒立ちになったドッペルの頬を力一杯殴った。襟首をつかみあげ、揺さぶった。
 どうしようもないほどアホ面でなんにもわかっていない。

「過去干渉を心配しているのか、心配しなくても役目を終えれば未来の記憶は消える」
「それがどういうことか分かってんのか」
「お前は確かに消える、けれどここにいる俺もお前とほとんど変わらない。政権が変わった方がよっぽど誤差がある」
「そんな問題じゃないだろ! アホ!」

 砂の中に引き倒すと平手で往復ビンタを喰らわせた。
 ドッペルはようやく会話がかみ合ってないことに気がつき始めた。

「なにを怒っているんだ? ・・・・・・お前だってあいつからずっと逃げてきたくせに!」

 だったら俺は現在でも未来でも馬鹿なんだ。救えない話だ。

「分かってないのかよ、苦しいのはやってきたことがあったからだろ!」
「だ、だからそれが間違い・・・・・・今に思うさ、この時ドッペルゲンガーと入れ替わってたらってな」
「失っても忘れられないほど、楽しかったんだろう」

 アイスブルーの瞳がぎゅっと引き絞られる。その過去自体を消さないとならない理由なんて。
 思い出の品なんかいくら焼いたって無駄だ。形がないから余計に脳の内側ばかり覗く羽目になる。

「違う・・・・・・俺の選択は間違ってたんだ」
「お前がわざわざ過去に飛んでくるほど苦しめた大事な歴史だ!」
「なにも問題ないはず・・・・・・申請は受理された、タイムパラドックスはない。歴史に影響はない。なら俺は」
「そうじゃねーよ、お前本当に自分が何で苦しいのか理解しろ」

 ドッペルは初めて動揺を見せ、瞳の色は氷の青ではなく俺と同じ野原に咲く花の色へと変化していた。

「何がおかしい・・・・・・叶わないことを願ったから苦しい、人じゃないのに真似をした罰を受けるんだ!」
「その苦しみは、お前があいつが大好きだったからだろう!」

 だってその苦しみはイギリスといろんな時間を過ごして幸せだったと証明しているようなものだ。
 ドッペルゲンガーは、「フランス」は真っ白な表情になった。もう一度平手打ちを喰らわせると首をだらり下げたままになった。

「隣人以上友人未満の俺よりずっとな! 散々楽しい思いしていやになったら捨てる?
 辛いならどうして忘れてしまわない? その方がずっと簡単だ」

 忘れるなんて選択肢なんて一度も思いつかなかった顔に言葉が決壊して止まらない。

「忘れられないのはその分幸せだった過去があるからだろ。
 その歴史をなかったことにしようとするなんて、誰が許しても俺が許すわけないだろう!?」

 この世で一番心を傷つけるのに、最後まで倒れそうな足を支える感情ーー自分を、誰かを、世界を・・・・・・何かを好きだった事実。
 もしかしたら愛と呼ぶのかもしれない。

「人でも俺たちでも変わらない。なにかを心から好きだと言える機会はとても少ないんだ。
 見つけたら、手に入れたら手放しちゃいけない」
「・・・・・・それは真似だ、どうせ俺は人間じゃないんだ。
 見ただろ、納得できる別離なんてない。だからこうして後悔してる」
「どんな理由でもそれは摘み取られちゃいけない。誇れよ、得難く尊いものだ!
 よりにもよって俺が自分でそれをやるなんて・・・・・・誰が許しても俺は許さない!」

 もう抵抗はなかった。
 ドッペルは憑き物が落ちたような目をして、全身から力が抜け落ちていた。頬に流れる涙だけが熱を持っていた。

 その手からぽろりとこぼれた砂時計を手に取る人肌の温もりが残っている。こいつにも体温があったのかと感心しているとドッペルゲンガーは身体が半分透けていた。
 周囲の闇の空間は強い光が差し、鮮やかなブルーへと変化している。すすり泣く声が青に残響した。

「でも辛くて耐えられない・・・・・・お前だって俺になるんだ。こうして後悔して、過去へやってくるんだ」
「だったら俺は苦しむ、お前もこのまま苦しめ。
 体も心も灼いた鉄で引き裂けばいい。
 それでいい。後悔してもこうしてまた過去の、今の俺に突っ返されればいい。せいぜい恨めばいい」

 怒りは全身に満ちていた。それは過ちを犯す己の弱さへ。
 そして俺に、「フランス」という存在にそんなことをさせてはいけないという感情・・・・・・誇りと呼ぶにはささやかかもしれないけれど。

「・・・・・・いつから俺はそんなに強くなったんだ、覚えがないんだが」
「たいしたことじゃない。
 パリで買い物して、お茶を飲んで、ヴェネチアでゴンドラに載って、ベルリンでへんな俺にあって、堅物の悩みを聞いて、北の大地で不思議なダーチャに招かれた。
 最後に腐れ縁と海の上で殴り合っただけさ」

 けれどそれで十分だ。「フランス」はもう何も言わなかった。

 かちかちと砂時計が手の中で振動を始めた。同時に足下が揺れ、光がどんどん強くなる外の空間を見て直感した。

(そうか、ここはこの砂時計の中なんだ)

 力任せに砂時計を透明な壁にぶつけた。案の定そこにはクリスタルガラスの壁があり、壁にヒビが入るとあれほど不変だった砂時計の内側にもヒビが入った。

「呆れた。
 その砂時計はお前の心を物としての形を与えたものだ」

 壁が壊れていくほど、心臓と脳に痛みが走った。

「破壊してもお前が生きて心がある限り返ってくる仕組みだったんだが・・・・・・こう説明するとまるで俺たちだな」

 お前の心が変わらなければどうしたって割れはしないのにようやく泣き止んだ声。つまり砂時計の中は俺の心の中でもある。ならば中身のこの砂は?

 俺はもう一度砂時計を壁にたたきつけると真ん中からへし折った。ガラスの破片の隙間からこぼれる砂を手のひらで受け止める。
 そしてその砂を飲み下した。

「・・・・・・なにやってんだ? 中身は俺とかの記憶と封じてたものだぞ」
「うるさい、あんな悲惨に未来は俺だって怖い。せめて記憶して可能な限り回避してやる」

 淡々と告げられる。そんな事はできない。
 未来の記憶をこの時代に保存することはできない。こうしてイレギュラーの砂時計が壊れれば消える。
 それでも残る物があるとすれば。

「お前の中に残るのは未来の、つまり俺の悲しみと苦しみだけ。地上に戻ればただ理由も分からない負の感情に支配される。
 しかも俺は多数の可能性から成立してるから何人分もの苦痛を背負うことになる」
「うっさいってんだろ! ・・・・・・それでいい。そうすりゃお前も俺に押しつけて、多少ましな気持ちになるだろ」
「はっ・・・・・・馬鹿だね」
「生きとし生けるものへの愛だ、俺は愛の国だからな」

 苦しい世界に返すなら・・・・・・俺が苦しむのも道理だ。

「俺は自分を歴史の化身だと思ってる。
 だからお前の苦しみは正しくて美しい。何かを得られる喜びと失う苦痛は抱き合わせで生まれる。
 けれど・・・・・・そのどちらも生きてこその苦しみと喜びだ」
「・・・・・・」
「苦しむからこそ生まれる喜びはどちらかだけは選択できない。なら苦しくていいから楽しい方を選ぶ。
 俺たちはさ、誰かが生まれて今生きていることが奇跡だって知ってるだろ。この身この心に刻まれて。
 だから生きてこそ得られるものを肯定しなきゃならない・・・・・・そうだろ?」

 ウィンクするとべーと舌を出されて「死んでしまえ」と言われた。・・・・・・傷ついていると「好きすれば」と小さな声。
 もう周囲はほとんど海に戻っていた。砂時計は砕け、俺たちを包むクリスタルガラスの空間もドーバー海峡へと戻っていく。

(結局俺が心の殻に閉じこもってただけか)

 そして現実に帰る。不思議の旅は終わろうとしていた。

「生きてこその喜び・・・・・・ね・・・・・・ま、どんな大層なこと言っても相手がイギリスじゃ締まらないけどな」
「う・・・・・・うっせー!」
「さっき死んで逃げようとしてたし、いつだってあいつに素直になるのが俺たちは苦手だ」
「今から戻るもん」
「反発ばっかりでばっかみたい、苦しんで死ねばいいのに」
「言われなくても苦しむ方を選んださ。・・・・・・そんなお前の姿に腹が立つから帰る羽目になっちまったんだろ。全部お前のせいだばーかばーか」

 どろどろとした悲しみが内部で荒れ狂い初めた。その苦痛の分「フランス」を少しは休ませてやれればいいんだけど。
 なんとか俺を笑ってみせるとドッペルゲンガーはようやく立ち上がって俺をまっすぐ見た。

「俺はただの手紙だ。破り捨てらた挙げ句丸めて飲み込まれたら世話ないさ・・・・・・もう一度言うが未来のこともなにもかも忘れるからな」
「ふん、帰れ帰れ。そして素直に泣いてこい」
「本当に台無しだよ・・・・・・でもきっとお前もあいつが大好きなんだろ?」

 返答する前にどんと俺は突き飛ばされた。
 すると海水が押し寄せた。海に帰っていく世界で「フランス」はほとんど透けて向こうに魚のヒレのようなものが見えた。

「ほんっと・・・・・・坊ちゃんの言ってた通り、フランスは世界一の馬鹿だな!」
「言われたのはお前だ・・・・・・ろ」
「ちなみに未来の研究結果だと俺たち国の化身は隣国のイメージを強く受けて人格形成されてると判明してるぞ」
「は?・・・・・・え」
「よかったな、俺もあいつもお互いの人格を反映して作られている。ロシアの言ってたことは存外間違ってない、ステレオタイプってやつだ。お互いに影響度ランキング上位でお互いに否定してた」
「ちょ、なに最後に爆弾発言・・・・・・を」

 海に飲まれて意識が薄れていく。
 ドッペルゲンガーは手を振って「せいぜいあがけ」と言った。そして砂時計は砕け散り、俺は再びドーヴァー海峡へ帰った。
 あの数多の悲痛だけを身の内に残して。



 ・・・・・・



 足下が砕けていく、砂時計が砕け散る度に「フランス」も砕け始めていた。

「・・・・・・馬鹿な奴」

 悲しみの砂はもうない。彼が全て持っていってしまった。・・・・・・いや。
 全てではない。一掬いだけ白金の砂が足下に残っている。掬い上げてドッペルゲンガーは呆れた。
 まったく中身が未来のフランスのものだけだと誰が言っただろう。ちゃんと俺「とか」の記憶と告げたのに。

「ほら、あいつが海から上がった戻れよ」

 そう砂に告げれば、光を放ち空へ上る。持ち主の元へ帰っていく。
 この時代のフランスの封じられた記憶が解放された。一筋の光が星くずを撒いて海の中を飛んでいく姿は美しい。

「俺の分も苦しむのもいいけど、まずは自業自得を思い出すんだな」

 あのよく分からない魔法をフランスが無理矢理解いた。だからイギリスの記憶も戻っているだろう。
 「今」はない海の流れの光景をじっと眺め、その音に耳を澄ませた。

「本当に無駄足。
 まあ土台過去より未来より、今が一番強いよなあ」

 むなしい話だ。
 ドッペルだの、未来の使者だの、妙なイレギュラーは終わり。全てはこの海峡の流れに消えていく。
 それにしても最悪の決着の付け方だった。苦しみだけ持って帰るなんて。

(けど確かに・・・・・・さっきよりマシな気分だ)

 過去をやり直すなんて無菌室の安全より、どんなに辛くても泥寧から這い上がる方が美しいと感じてしまうのは何故だろう。その先を見たいと願ってしまうのは業なのか。

 その時、声が聞こえた。
 見上げれば溺れているフランスが鬼気迫ったイギリスに腕を捕まれる光景が見えた。硬直したドッペルゲンガーに気がつくことなくじたばたと地上へ戻っていく。
 届かないと知っているのに、それでも手を伸ばしてしまった。

「・・・・・・坊ちゃん、元気かな。元気か、この頃は」

 結局、この姿では会うことはなかった・・・・・・会ったら取り乱して即消滅だったかも。ならまあ一緒か。

 そしてドッペルゲンガーは意外なほど穏やかな声で「がんばれよ」と応援して、海の泡と共に消えた。









 フランスはごぼりと海水を吐き出した。

 ぜえはあとやっと呼吸をする。その体積と同じだけの大気の肺に満ちていく。
 内側に悲しみがある。まったく理由がわからない感情の爆発はさらに呼吸を加速させた。

 同時に三ヶ月前のことを思い出していた。


 ーー夕暮れの帰り道ーー
 ーーまん丸に揺らめいた緑の瞳ーー

 ーーここ百年で少しは友達になれたと思ってたのに・・・・・・このワイン野郎!ーー

 なあんだ。
 最初っから受け入れられていたのだ。

 ーーそんなを言うお前なんか俺の知ってるイギリスじゃない! 顔も見たくない、消え失せろーー

 そして自分で台無しにしていた。

(ああやっぱり、俺のせいだ)

 早く帰りたい・・・・・・会って、そして。


 徐々に意識が回復し、誰かがのぞき込んでいる気がついた。

「おい・・・・・・いい加減返事をしろよ!」

 ぼやけた視界にバスタオルにくるまったイギリスがいた。
 腐れ縁は幼い頃のように感情を露わにして、安堵と怒りで真っ赤になっていた。

「・・・・・・イギリス?」
「馬鹿野郎っ! ・・・・・・無事だったのは偶然だからな」
「坊ちゃんも、海に、落ちたの?」

 思考が真っ白たっだ。なぜか心臓と脳が酷く痛む。
 よくみるとAEDをかまえていたイギリスはフランスの意識をもう一度確認すると冷えきった手で頭をはたいてきた。

「ワイン野郎、全部お前のせいだぞ!」

 イギリスがフランスの上体を起こして、唇に気付け用のウィスキーを押し当てた。氷の冷たさの肉体に火のような熱がやってくると記憶が混乱した。

(・・・・・・どうして飛び降りたんだっけ?)

 とても悲しい夢をたくさん見た。
 けれど内容は一つたりとも思い出せない。悲しみと怒りと寂しさだけが内側でフランスを責めていた。間違いを罰する天使の天秤のように公平に。
 理由はちっとも思い出せないのにその痛みは仕方ないと受け入れている。

 でも、一つ思い出した。
 三ヶ月前のこと。
 勝手な理由でひどいことを言ってしまった。

 気がつけば手を伸ばし、手が届く。・・・・・・それだけのことが得難い奇跡と思えた、海底で誰かがずるいと詰るような今だけの・・・・・・。

 溺死寸前だったのに自分で起き上がったフランスはイギリスによりかかった。予想より遙かに軽いその身体に驚くと、感情がぶちまけられた。

「なにを、フラ」
「不安なんだ」
「・・・・・・?」
「世界が平和にならない、いつまでもみんなもお前も敵で味方で・・・・・・なのに俺はずっとみんなにそのままいてほしくて、お前までやだよう・・・・・・坊ちゃんくらいはそのままでいいじゃん」

 慌てたイギリスが動くより早くフランスは彼に抱きついた。迷子の子供が優しい母親をやっと見つけたみたいに。そしてすすり泣きが波音に混ざる。

 イギリスはそんな風にフランスの弱さをぶつけられたのは初めてで、呆然とした。
 なにかを言わなくては口を開いては閉じる。すると急に三ヶ月前の記憶が蘇った。その記憶のブレにめまいがしたが、それでようやく言いたいことを口にした。

「おいクソ髭、三ヶ月前のこと覚えてるか?」
「・・・・・・さっき思い出した」
「じゃあさっきの発言は何だったんだよ?」

 拗ねた気持ちで嫌みを言うと余計泣いてしまった。調子が狂うにもほどがある。

「・・・・・・お前は少しも、俺を友達だと思ってなかったのかよ」

 違うと即答。びっくりして何もかも言いたいことを忘れてしまった。
 そしてフランスはイギリスに縋って、わんわんと泣き始めた。どうしてこんなに悲しいのかぜんぜん理由が分からないまま「助けて」と「ごめんね」と何度も何度も繰り返しながら。



つづく




 フランス兄さんがどうしてもドッペルを殴りたいと直談判してくるので続いちゃった。
 四月に終わるとか嘘ついてすみません・・・・・・夏には終わります(自戒)。

 ベッドのシーンで手を握ってるのはスコ兄、薬草焚いてるのはウェー兄、いないのはアイル兄という裏設定。

 ヘタに再燃して一年半くらいですがニュースを見る回数が増えて、こっそり世界平和を祈る回数が増えた気がします。それと同じくらいそれがとてつもなく難しく脆いものとも痛感します。

 kokiaの「大事なものは瞼の裏」とkalafinaの「君の銀の庭」を聞きながら書きました。でも影響されてるのはたぶんMagiaの方。


2016/05/26









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おまけ(ドッペルさんの設定)→


「フランスのドッペルゲンガー設定」

 マイ設定にもほどがあるので補足。SF成分多め。


 200人分の未来の後悔したフランスの記憶。
 「イギリスを友人にして、死後心底後悔するフランスが記憶を修正したい」場合の記憶がまとまって過去に転送された存在。

 看取りパターンから手を下すパターンまで、200通りは後悔する未来が確定している(もちろんフランスが先に死ぬ場合の未来からはなにもこない)。
 化身の個人的な感情とはいえ過去を改変するのは禁じ手。なので心身に深刻なダメージが長期に渡って表れると医師に判断され、ちゃんと科学者数名に許可を取って、やっと現在に転送された。

 200人分の負の感情なので、そんなもの飲み干したら大変だ。

 未来の記憶はあくまでメンタル的なもので、肉体は化身がその国らしくないとリタイアするための精神衛生上の存存在(というルールを仮定しています)。

 ドッペルゲンガーのような「本人に似た存在」を法則に則って干渉する程度なら可能である。国の化身がアイデンティティーを保てなくなる場合、代替が具現化される。夢枕にたって「代わってあげようか?」と囁く存在。

 本来は本人が拒否したらあっさり消える程度の儚い存在である。なので本当に現在のフランスが望んでいなければ出現はしなかったし、未来の記憶がなければいじめっこにはならなかった。
 ドッペルゲンガーが本人のあきらめを促しているのは同意が必要なせいでもある。

 未来でも性格はそんな変わってないです。フランスをいじめてばっかなのは、真剣に後悔してるから。あと自分がすっかり嫌いな気持ちだったから。

「1対200で1が勝つなんて、やになっちゃうよ、もう民主主義もクソもないんだから」


あとがき2

 こいつは一人でなにをやってるんだ・・・・・・?(お前が書いたんだろ)

 ドッペルはずっと「国としての仏 対 人としての仏」だったので最後で「人 対 人」になれてよかったです。

 ヘタキャラは国家として、国民として、ステレオタイプとして、時事ニュースとして、政治として、ネットスラングとして、ネットミームとして、そしてたまに遊びに行って髪型をいじり合って喧嘩するような本当に個人的な人の部分が、全て曖昧に溶け合っていると思っています。
 が、人っぽい部分に苦しむならと最後は個人として対立して決断してもらいました。

 ヘタキャラたちに人類への深い愛を感じる今日この頃です。私見ですが彼らは「結局どんな人間でも自分の身一つ引き替えなら助けてしまうんだろうなー」と幻視してしまいます。
 イギリスが「あー射殺されたのが俺でよかったー、人間だとそこで終わりだもんなー」っていうみたいに。

 だから本編みたいにふざけあえるうちはずーっとそうしててほしいです。