「僕たちにとって、一番辛いことってなんだと思う?」






「 お兄さんはお隣さんにお悩みです 8 」






「ズドラーストビチェ、ようこそロシアへ!歓迎するよ、フランス君。
 まずどこ行く?休暇だから案内するね。モスクワとペテルブルクは行くよね?・・・・・・ね?それとねそれとね、こことそことあそこには最低行っておくべきだよ」

「ほらモスクワ、クレムリン!中入ってみる?・・・・・・なんてね、さすがにアポなしは上司に怒られて肩車(柔道)されちゃうよ。あ、ピロシキの屋台だよ・・・・・・なに疲れてるの?まだ始まりだよ?」

「じゃーん!モスクワまわったから、文化と芸術の都ペテルブルクだよ!
 十七世紀に作られたんだ。学問の中心でもあって、うちの文化と芸術がここには詰まってるんだ。帝国時代は首都だったからか焼けちゃったことも・・・・・・あ、君のせいもあるけど、君に全責任を問うつもりはないよ?
 じゃ、エルミタージュいこっか!エカテリーナが作り始めた時はね、宮殿の一角に美術館なんてほんとに出来るかなあってこっそり思ってたんだ。全部見るには数ヶ月かかるけど、一日で何部屋回れるかなあ。
 え、疲れた?反対意見は認めないよ?・・・・・・なんてね、アメリカ君じゃああるまいし、ゆっくり行こう。血の上の救世主教会なんてどう?」

「楽しい時間ってあっという間だね!それじゃあ次はどこに行こうか?・・・・・・フランス君?フランスくーん!?フランスくーん!!」







 イギリスに矢文をもらってとぼとぼしてた俺をロシアはとても歓迎してくれた。予想以上で息をつく暇もなく、ぶっ倒れるのもやむを得ないほどに。北の大地の三日間の旅の感想は、三日連続で乗り続けたジェットコースターのよう。

「疲れたなら、もっと早くに言ってくれればよかったのに~」
「お前がそれを言うのか・・・・・・お前が」

 三日でモスクワとペテルブルク全部まわろうとするやつがあるか!とか細い抗議すら声がろくに出ない。代わりにうつ伏せのまま両手をばたばたさせて抗議する。
 しかしロシアの方はケロリとしていて、テーブルの上で抜け殻になっている俺を不思議そうに見下ろしていた。なんでこいつは疲れてないんだ?

「やっぱり若さの差じゃない?」
「心を読むな!俺は!若いの!ぴっちぴち!」
「反論を聞くなんて、僕らしくないサービスだなあ」

 フルーツの籠というタルトをつつくロシアはマイペースで暖かみのある紫の瞳に反省の陰はなく、ロシアンコーヒー(ウォッカとミルクと砂糖と卵黄入り)を優雅にすすっていた。疲労限界突破気味の俺は病人のようにアメリカみあいにうすめたコーヒーをちびりちびりと飲んでいるというのに。

 高速観光にぶっ倒れた俺はびっくりしたロシアに「しょうがないなあ、貸しだよ」とペテルブルクの老舗の菓子屋へ運ばれた。
 地元の店らしくロシアが顔見知りであるのか、連れのくぐったりしている謎のフランス人(俺だ)にも咎めるような目を向けられることもない。昔ながらの接客ということでなかなかドライな対応を受けた、こういうのがアメリカと合わないところなのかなーとどうでもいい連想。

「だってなんか落ち込んでるみたいだったし、元気が出るかなあって・・・・・・フランス君、体力なくなったんじゃない?もう年だもんね、国の化身って結構疲れるもん・・・・・・辛いんなら、いつでもロシアになってくれていいよ」
「な・り・ま・せ・ん!・・・・・・そんなに歓迎してくれて嬉しい、どこでも連れってってくれ!と言った過去の俺が憎い」
「そんな遠慮しないで、僕の君の仲じゃない。敬老精神だよ」
「俺がおっさんみたいにいうな、お前それわざとだろ!少しは労れ!」
「・・・・・・ちっ」

 今舌打ちしたな!舌打ちしたな!?聞いたからな!?

 一応反省してくれたのか、彼は静かになった。窓の外の街並みは、春のロシアらしく光と温度が穏やかで通りの緑が美しい。それでもロシアのTシャツとマフラーは軽装すぎて俺にはびっくりだけど。

「観光でなかなか聞けなかったんだけどさ、フランス君、この旅を初めてどれくらい経ったの?」
「えーと・・・・・・二週間くらい、かな?」
「僕たちにとって、国の化身にとって、一番嬉しい事ってなんだと思う?」
「はあ?お前な、今の自分の顔を鏡で見てみろ、答えが載ってる」

 街の人々の歩みを見つめるロシアは幸せそうだった。春に目を輝かせた住人に観光客、ペテルブルクは人の行き来が多い。春の日差しの下、楽しそうな人が何度も通った。

「・・・・・・人間が、特に自国の人間が幸福である以上に俺らに嬉しい事なんてないだろ」

 自分の幸福と文字通り直結している。ロシアを美しく微笑む。大男が春一番の花を見つけた少女のように穏やかで満ち足りている。

「気が合うようで嬉しいよ・・・・・・君はこの旅をしている間、自国のみんなのことはどれだけ思い出してる?早く帰りたいって思ってる?」
「・・・・・・えっ?」

 にこにこと投げかけられた質問に、やっと自分の国のみんなを思い出す。・・・・・・俺は何度思い出した?・・・・・・いや、その言葉を投げかけられるまでどうして意識の上に浮かばなかった?

「ふふ、君って国失格だね」
「・・・・・・笑えない」
「冗談だよ・・・・・・僕はね、フランス君の今の状態を面白く思っているんだ」
「・・・・・・面白いか?」

 聴いた気がする言葉だ。ドイツがロシアがそう言ってると説明していた。だからこうしてここに来たわけで。

(イギリスはもう追っかけて来ないみたいだけど)

 胸ポケットの矢文を握りしめる・・・・・・あのバカ、妙な約束書いて帰っちまって。

「いいじゃん。僕たちは帰ったところで神様みたいに恵みを与えられる訳じゃないし、大した干渉は出来ない。迷子の案内くらいしかできない。だから気にしなくていいじゃない」
「なら、お前だったら気にしないのかよ」
「ふふふふふふ、内緒。みんな楽しそうだなあ」
「ふん、誰だって気にするだろ・・・・・・俺たちならさ」
「ただ残念だなあ、君とイギリス君が好き同士になってアメリカ君のおうちのドーナツを食べ尽くしたり、南極でペンギンと競泳したり、コーヒーとビールと紅茶とコーラを混ぜてまずいまずいって泣いて、愛を確かめたオモシロエピソードがただの噂だったなんて」
「その噂の出元教えて!絶対それひそひそ話で生まれた噂じゃない、絶対面白がって広めた元凶がいるから!」

 彼はそれ以上教えてくれなかった。いつもように意味ありげに微笑んで、窓辺で自国を慈しんでいたーーロシアで見る、ロシアは底知れぬ美しさを持つ。

(それは俺たちはみんなそうかもしれない)

 ヴェネチアで見たイタリアやベルリンで見たドイツは、いつもよりエネルギーが満ち溢れていた。フランスで見る俺は普段の二倍美しく華麗なのかもしれない。

 けれどロシアは土地柄か性格か、純粋なエネルギーというより雪原の氷から芸術家が作った氷像を連想させる。彼がいかに求めていても、南国の彼はこんなに眩しくないだろう。南に憧れて雪に包まれて育った彼は、その長身の体躯も底知れぬ笑みも極北でこそ美しい。北欧の連中やカナダとはまた違う、巨大で苛烈な大地の氷の香りがする。

(ロンドンのイギリスってどんな感じだったっけ?)

 紳士だと気取っていたなりに様になっていただろうかと頭を探るが、記憶に霧がかかって思い出せない・・・・・・途端囁きが響く。

・・・・・・「もう思い出さなくていいんだよ、どうせ要らない記憶だ」・・・・・・

(ドッペルゲンガー!)

 俺そっくりでヒヤリと冷たい声ーー幻の声を睨むが、そこには誰もいない。ドッペルという悪魔は、ロシアに入ってからも俺につきまとっていた。しかしロシアがそれ以上の速度で振り回すから、会話や接触はなかった。だから安心していた。

「どうしたの、幽霊でも見た?」

 とつぜん起きあがった上に何もない手の平をじっと見つめてロシアに奇妙な顔をされる。適当に誤魔化しつつ苦笑する、このアイテムもドッペルも俺以外の誰にも見えないーードイツが一瞬俺とドッペルを見間違えたことを除けば。

 懐の砂時計を見れば半分ほど砂がたまっていてげんなりする。与えられたタイムリミットはじわじわと迫っている。正直ドッペルもこの砂時計も、どうすればいいのか分からない。きらきらしたクリスタルを思わせる素材の砂時計には淡い青の砂がじりじりと増えていた。最初は色も分からぬほど僅かだったのにーーどこかで見た色だが思い出せない。

(この旅に二週間か、砂の半分に二週間かかるならあと二週間いないになんとかしないと)

 ベルリンでこの砂がたまりきった時に三ヶ月の記憶が失われると悪魔は言った。砂時計に砂がたまりきった時、この三ヶ月の記憶とイギリスに関してはさらにいくつか記憶を忘却させると・・・・・・もしかしたら自国にいる彼の姿すら忘れて始めている?

(砂時計が落ちるときに全て消えるとあいつは言っていた、けどもうすでにいくつか消えてるとしたら?)

 背筋に走る冷たい予感。俺はすでにいくつか記憶を消されている?こうして少しづつ失っていくのか、そしてその先は?

・・・・・・「記憶が失われたこと自体を忘れていく。俺とお前の違いは徐々に消える。俺はお前になり、お前は俺であることに違和感なんてなくなる」・・・・・・

「フランス君、ねえねえ、どうしたの?」

 ドッペルの声が近い。ロシアの声がとても遠い。

 そんな、そんなそんな。そんなそんな、いやだ。うそだうそだうそだ。これは俺のバカな妄想だ。

(あと二週間で、俺が見えなくなってあいつが見えるようになるなんて!)

 あのベルリンの悪夢のように!
 目の前が真っ暗になると本当に闇に落ちた。









 かつんと唐突な石畳の音。視界がぐるりと渦巻き、美しい都の風景が広がる。

「ねえ、フランス君」
「・・・・・・え?」

 ロシアの歓談の真っ最中のような親しげな声。ジャケットに入れた砂時計が重みを増す錯覚。ドッペルは現れないーーしかし景色ががらりと変わっていた。

 さっさきまでいた喫茶店はない、急に視界が三百六十度開けた。俺はロシアの隣でペテルブルクの大通りを歩いていた。ーーどうしてここにいるのかまったく記憶にない。

 ついていけない。しかしそれは俺だけのこと。ロシアは何の違和感もないようで「急に無口になるからびっくりした」と告げる。

「・・・・・・ロシア、俺、喫茶店にいなかったか?」

 血しぶきのような予感。ギロチンで真っ二つになったような悪寒。

「喫茶店じゃなくて菓子屋だよ、一時間前に出たでしょ?大丈夫、真っ青だよ」
「いや・・・・・・なんでもない、それから俺どうしてたっけ?」
「本当にどうしたの?急に元気になって、今は冬宮広場楽しそうにを見てたじゃない」

 ーードイツの時とは違った。見間違えるどころじゃない。気がつかない間に、乗っ取られていた?見えないと安心していたのにーー俺の動揺にかまわずロシアは話を続けた。

「これ落としたよ、何かの手紙?」

 折り目が何重にもある折り畳まれた便せんーーイギリスの手紙。

「・・・・・・モスクワに来る前にイギリスが渡してきたんだ」
「え?追いつかれちゃったの?」
「心配すんな、手紙置いて帰っていった。もう追わないって」

 落ち着きなく靴底を石畳に擦りつけてみる、別にがっかりしたワケないじゃない。あんな対応は意外だっただけだ。

「じゃあ、イギリス君ってもう追ってこないの?折角超高速観光プランを立てたのに」
「このハードスケジュールそのせいだったの!?・・・・・・うん、もう来ない」
「じゃあ急いで逃げなくていいんだ」

 宙を舞う花びらというより、雪原で舞うブリザートの美しさ。屋外の風景の中のロシアはさっきと違って氷というより雪のよう。

「僕らって何なんだろうね?」
「なんだよ・・・・・・藪から棒に」
「変な存在だとは思うんだ。政府ってわけでもないし、もちろん権力者でもない。純粋な民意ってわけでもないし・・・・・・何のために僕はいるんだろうな」

 モスクワだけでなく、帝国時代の元首都ペテルブルクにいるからか、ロシアは穏やかで力にあふれて見えた。しかし哲学的かつ寂しいことを言う。

「昔、暴れん坊の上司と一緒にここへきたよね。雪降り積もるペテルブルクへ」
「・・・・・・ああ、あん時は死ぬかと思った、ナポ公はそれから色々あったな」

 ボナパルドは力と混沌に愛された男だった。俺はそう思っている。彼は奇跡と思える連勝によって、コルシカの地方貴族から共和制を敷いたばかりのフランスで皇帝になった。
 彼の転落はロシアで始まった・・・・・・それを冬将軍、ジェネラル・フロストと初めて呼んだのはイギリスの新聞だったか。

「僕も焦土作戦で死にそうだったよ~。あの時にねえ、君をプチプチッってしたいなあって思ってたんだ~」
「こ、怖いこというなよ」
「怖い?・・・・・・ねえ国民や大地、文化や権力、そんなものと切り離された僕ら個人の感情って存在すると思う?」

 どうしてドッペルと同じ事を言う?・・・・・・それが俺たちという存在の、自然な本音なのだというのか。

「僕たちはこの世界の人類っていう種の影だけど・・・・・・そんな僕たち同士が、奇妙な同類同士が、個人の感情をお互いに持つことなんてあるのかな。・・・・・・そんなもの錯覚だと思わない?」

 二世紀前のロシアとの争いの発端。それはヨーロッパを制したナポ公の元、俺はヨーロッパ諸国へ当時の最大の工業国イギリスとの貿易を禁止したことだ。しかしロシアは遠く、それ故か密かに良質な工業品を作るイギリスと密貿易を行った。その報復がボナパルドの名目だったのだが・・・・・・大量の若者の死は大きな悲しみを呼んだ。

 死んだ兵士たちの家族が、恋人が、友人が、あるいは見知らぬ他人が大きく悲しみ、それ故に俺も皇帝やロシアを疎んじた。そんな風にみんなの気持ちを俺の心は映し出す・・・・・・だから、俺たちには個人としての感情などない?
 
「そんな愛のない考え方に、俺が賛成するワケないでしょ」

 手を横にひらひら振って、ばっさり否定した。・・・・・・脳裏にイタリアとドイツの姿。

・・・・・・「人よりずっと長生きのこの身を恨んだりしたよ」・・・・・・
・・・・・・「兄さん、まだ行かないでくれ」・・・・・・

 そんな姿に心を動かされた俺の感情は、錯覚なんかじゃない。

 イタリアは遠い昔、俺のガキの頃からの付き合いだ。長い歴史の狭間に、ただ化身であることに悲嘆にくれた時があった。
 プロイセンはもう過去の国になってしまっても・・・・・・ドイツの国民には過去の歴史でも、あの時のドイツの感情は彼個人の本物だった。

 俺たちが変な生き物だというなら、なんでもありでもいいはずだ。
 だから、心の中ではその論理に「そうかもしれない」と怯えても、態度は余裕ぶってみせる。みせてやる。

「俺はフランスという国だ、そして俺という個人でもある。その両立に矛盾した気持ちはみじんもない」
「・・・・・・意外だね、君はそういうところ気にすると思ってたのに」

 温度のない視線。さっきまで晴れていたのに春の町には小さな雪が舞う。雪国ではない俺には嵐のようだ。

「生も死も、心も体も、僕たちには主体性がないんだよ?」
「いーの、俺があるって言ってるから、あるの」
「人が生きて国が生まれて、僕らは生まれる。行き詰まれば病や死だ。それを自分で選ぶことはできない。君とは手を組んだことも殺しあったこともある。でもそれは民意や時の権力者の流れにのっただけ。
 そんな風に生きる僕らが、人類を後追いするだけの概念じゃないと思うの?」
「そんな論理寂しいだろ、それだけ俺たちの全てじゃない。だから本当でも、そんなもの嘘だ」
「寂しいからその逆が正しいなんて、滅茶苦茶だ」

 一理ある、でもドイツに約束した。イタリア、スペイン、プロイセン、彼らの様々のフォローでここまでこれた俺が「はい、そうですね」とは言えない。

「うるせー・・・・・・そういう善悪二限論で世界を切り分けないのが俺のいい所なんだよ」

 イタリアのほめ言葉と拝借して、足下を支えた。バカだろうと矛盾を貫くしかない。イギリスみたいに舌を何枚をも使って、屁理屈はり倒してみせる。

「やけに絡むじゃないか、お前もそういうの悩んでるの?」
「どーだろうねー・・・・・・正直言うと君にちょっと当てられちゃったかな、今更変なことをしつこく気にしてるから」
「俺のせいなら尚更言わせてもらう。束縛がないとは言わないさ、けどそれが人とそんなに変わらないと思う。人は誰も生まれも時代も選べない。でも何を見て、何を好きになるか、それくらいの自由はある。・・・・・・俺はそんな人類と同じだと思っている。
 お前だって初めて見たときはこんなちっこい奴が生き延びられるかと思ったが、今はどうしたんだってくらいでっかくなってる。初めてあったときよりお前は面白い奴になったじゃないか。そんな感想は歴史学者と俺たちしか思わないさ」

 だから寂しいことを言うな、決めつけるな。ロシアは目を細め、マフラーを押さえてじっとこっちを見る。話に集中しているときの「ロシア」の癖ーー彼の個人的な癖だ。

「自由と博愛を志した人々が混乱の末に模索して、生きてる国だ。そんな俺が自分が不自由か自由か分からないワケないだろう」
「ふふ・・・・・・革命を君だけ語られたくはないなあ。
 君を戦って殺そうかと思ったこともある。でも君の国の本を読みたくて、一目置かれたくて、フランス語を必死に学んだうちの子たちもたくさんいた」
「つまり?」
「君を嫌いになれないんだ。憧れたことも憎んだことも覚えているから。僕を構成する今のみんなと過去のみんなと・・・・・・数百年つきあいのある僕の個人の感情として」
「ほーら・・・・・・この世は愛に溢れているだろ」

 そう言って冬宮広場を越えてエルミタージュ美術館へとペテルブルクを進もうとすると、ロシアは奇妙なことを言い出した。

「ねえ、フランス君・・・・・・オーロラ見に行かない?」
「オーロラ?・・・・・・空で光る、あのオーロラ?」

 バンアレン帯だのコロナだのが原因の、とにかく空に光の帯が走るあれ?

「綺麗だよ。せっかくだから君に敬意を払ってた過去の僕とさよならする記念として見ていってよ」
「ちょ!?今からも敬意を払ってくれててよ!」
「やだなあ、一昔の思い出を区切るだけだよ」

 そう言って笑う彼は、古都の風景にによく映えるただのロシア人のようだった。

「オーロラがよく見える場所にダーチャがあるんだ、着いてきてよ」

 そう言ってにっこりと笑って、手招きをした。







 ドッペルにとって変わられる不安を振り切るように、俺はコンパスが長い上に早歩きのロシアを一心に追いかけた。ーーすると、一歩進むごとに風景が白くなり始めた。

 というか一歩ごとに世界が切り替わっているような。

(五月のロシアってこんなに雪ばっかりだっけ?)

 視界いっぱいに白銀の平原と数本の葉のない木々、そこに一本だけある道をロシアと歩いていた。ええっと今って観光シーズンじゃなかったっけ?緑が今だけが盛りと延び盛ってたわけで・・・・・・んん?さっきまでペテルブルクという大都会にいたのに、なんかシベリアみたいな風景になってない?

「おい、変なところまで来てないか?後ろにペテルブルクが全然見えないんだけど」
「気にしない気にしない、はい上着」

 いつの間にか分厚いコートを来てる彼から同じものを受け取る。気になるところしかないぞ。いやいやいや、歩いていたのは三十分程度、それがどうして雪原を歩いているんだ?

 記憶を遡るが、今度は悪魔に乗っ取られた形跡はない。とすると、ロシアが妙な手品でも使った可能性があるが・・・・・・いやいやそんな非科学的な。イギリスじゃああるまいし、ロシアがまさか・・・・・・ちょっとありそうで怖い。

 妄想にふけっていると冷や汗が雪混じりの風全身が冷える。嘘だろ、今は春だぞ?

「それにしてもさ」

 ロシアはさくさくと雪原の上を歩く。聞き出したいことが山ほどあるのに、雪道になれた足取りについていくのがやっとだ。せめてその大きな背中を睨むが素知らぬ声。

「イギリスくんが死んだら悲しい?なんかつまらないことで悩んでるんだね。
 フランス君がアルコールの抜けたウォッカみたいにボロボロって聞いて、何だろう何だろう、噂通りシャチと戦って失恋したのかな?って思ってたのに、なんか理由が普通というか、ベタというか、ありがちな感じ」
「ちょっと待った、色々つっこみどころはあるとしてその例えオーストリアとドイツどっちがいったんだ?」
「どうだっていいじゃない、そんなちっちゃいこと」

 ぜってえオーストリアだ。それにしてもがっかりされてる。いったい何を期待していたんだろう。

「どいつもこいつもそういう反応しやがるんだよな、いいけどさ」
「だって君たちって身内でしょ」
「ち、ちがわい!」
「えー、なら友達?僕から見るとヨーロッパなんて全部身内だと思うけど」
「違うもん!・・・・・・家が隣同士なだけ!あんなダサいやつと一緒にしないで」
「こういう時に日本君なら『つんでれ』っていうのかな~」
「違うって!・・・・・・お互いいなけりゃ清々するだけだって!」
「手紙一つ、胸ポケットに大事にしまってるのに?」

 無視して、逃げて、空を見た。ぐったり空を仰ぐと広くて深い青。白い平原も相まって黒を思わせるほど濃いのにどこまでもそれは青でーーどう見ても都市の春の空の色じゃないぞ、これ。

(どこまでも広がってて飲み込まれそうだ)

 寒さとは異なる畏怖で身が震えた。ここがどこかなんてどうでもいいんじゃないだろうか、だってどんなに冷たくても白い世界は美しいし、歩いていたら大都市から大自然に移動した事なんてどうでも・・・・・・いかん寒さで頭が虚ろにで何も考えられない。

(寒くて、広くて、白くてーー不安ごと埋まってしまいたい)

 危険な思考に浸り、ぼうっとしているといつの間にか分厚い手袋に包まれた手が差し出される。

「迷っちゃうかもしれないから手をつないで。目的地のダーチャまで遠くないけど、雪道で迷ったら探すの大変だから」
「・・・・・・あ、ああ」

 いつもならそんな子供みたいな真似を承諾したりはしないのだが・・・・・・頭が凍り付いたように動かない。そうだ彼の言うとおりだ、雪国でロシアの誘導に従わないなんて馬鹿げてる。手の温もりに安堵する。

 とてとてと二人でロシアの別荘へ向かうーー別荘といっても俺たち化身はさしたる財産は持たない。ブルジョワジーは我が家の言葉でも別に俺の生活のことじゃない(ある程度の保護は受けて、権力者に仕えることもあるのでいい生活してたこともあるが自分のものじゃない)。まあ普通に飢えては死なないし(逆に言えば国が機能不全になればどんなに食べても死ぬ)。

 彼の別荘というのはダーチャというロシア独自のものだ。前の世紀のロシアの上司の政策でロシア人の八割は所有しており、週末や夏休み、引退後に都市郊外で農耕をして過ごす場所。食料の自給自足という観点でもロシア国民には大切な生活の支えだ。

 手の温もりに安心したのでもう一度質問した。

「ここどこなの?春のロシアってもっとあったかくて緑にあふれてるし、ベスト観光シーズンは五月くらいでしょ。
 俺、このわけわかんない旅に出て二週間くらい経ってるから、五月には入ってるだろうし・・・・・・まさかここシベリア!?いつのまにどうやって?!?」
「ツンデレ地帯なんて呼ばれちゃうけど~♪」
「ツーンードーラーだー!!ここマジでシベリアとかイルクーツクじゃないよね!嘘だって言って!?」
「嘘もなにもシベリアじゃない、ここはペテルブルクの近くのダーチャへの道だよ~」

 通り雪でも降ったんだと永久凍土のごとき道を軽快に歩く。時空間くらいは捻れてそうな雰囲気でドッペルとは別の意味で絶望しかける。

「あとさ、なんで俺たち歩いているの?都市郊外のダーチャって普通は車で行くもんじゃないの?」
「その方が面白いかと思って、キャラ立てだよ」
「お前には要らないから!十分キャラ立ってるから!」
「キャラが立つ~性格じゃないし~♪」
「さっきから、歌ってるの何?」
「さあ?日本君がこの前忘れていったCDなんだけど、面白そうだったから翻訳してもらったんだ」

 聞き捨てならないことを聞き流さず、抗議で乱暴に手を離すと面倒くさそうな表情。

(・・・・・・まあ、ロシアと一緒だし、大丈夫か)

 ぐっと疑問を飲み込む。底は読めないけど頼りになる奴、それが彼だ。

 手は離れたので、歩行ペースが変わる。容赦なくずんずん進む彼の後を必死に追う。待ってくれとは言いたくないが、背の高い奴は足が速い。

「僕たち国の化身にとって、一番辛いことってなんだと思う?」
「また妙なことを訊くな・・・・・・わかんね」

 こっちの速度が遅いからからかロシアは立ち止まっては進む。立ち止まってる間は雪玉を握っては道の端に置いていく。慣れた遊びらしく、子供っぽくても無駄な動きがなく洗練された動きだった。

「僕はね・・・・・・人が滅び去ったときに僕がまだいたらどうしようって考えることが一番怖い」

 無邪気な瞳で恐ろしいことを言う。誰もいない世界に俺たちのような存在だけ残る

「あるわけないだろ。人が滅びる時がきたらに真っ先に俺たちは消えるさ」
「僕もそう思う、でも考えちゃうんだ」

 雪を握りながら、遠い地平を見る。こういう景色を一人で見ていると思ってしまうんだ、と。

「僕らある種不死身だからさ、世界が滅んでも死んでなかったらどうしよう。人の世に争いが無くならないのは辛いけど、残されるくらいならずっと争っていいから残っててって思っちゃうよ。
 人間から取り残されて、一人きりで、影である僕だけが永遠に取り残されるかもしれないと思うとぞっとするーーきっと、そうなれば僕は」


 ーーロシア!


 叫ぶことができない。追いつこうとした足が凍り付き、動かない。刃物で撫で斬りされたごとき焼け付く恐怖が黒い影となり、雪原をよぎり、人の形となる。

 瞬間、俺は見た。一人の俺ーードッペルゲンガーがロシアのすぐ後ろにいる!

 最初はパリにいるときの俺のお気に入りの服、不意に俺を振り返るとロシアが貸してくれたコート姿に変わる。そのままロシアの方へ走っていった。

「・・・・・・っ!」

 身の自由はない。足が凍り付いたように動かない、声すら出ない。
 唯一自由になった眼球で姿を追うとドッペルゲンガーの姿は最後に見たときよりもはっきりとしていた。奴こそが本物になりつつあるとでも言いたげで頭が真っ白になる。

 そして、あの時のように、フランスらしく陽気に、ロシアに近づいた。奴の笑みは透き通るように俺らしい。フランスの化身らしく、俺よりそれらしく。

「ん・・・・・・フランス君?」
「よう、ロシア!」


(やめろ!それは俺じゃない!)


 心で助けを呼んだ。プロイセン、スペイン、イタリア、ドイツ、オーストリア、今まで助けてくれたみんな。誰か助けてくれ、今だけでいいから。・・・・・・しかし、当然、誰も現れない。

 こちらを見たアイスブルーの瞳が俺を嘲笑した。振り返ったロシアはきょとんとそいつを見た。そしてドッペルを俺、フランスだと・・・・・・。

「あ、間違えた」
「・・・・・・がっ、は!?」

 ロシアは当たり前のようにドッペルの胸に右手を突き立てた。握手を差し出すような自然な動作だった。ドッペルのアイスブルーの瞳が驚愕に開く。全身に白い亀裂が入り、ひび割れる。

「お前っ・・・・・・何を!?」
「・・・・・・」

 ドッペルの声にロシアは答えない。そして大きな手が猫を追い払うよう手を振るとドッペルは氷像と化し、こなごなに砕け散った。白い雪をまき散らして、俺の姿をしたものは風に溶けて消えた。

「・・・・・・え?」

 そして俺の肉体は自由になった。呼吸できなかった反動で膝を突き、凍った大気を必死に吸った。

 へたりこみ、せき込む。無様な姿に驚くことなく、軽くステップを踏みながらロシアは駆け寄ってきた。膝を突いた俺の目線を合わせて屈んでくれる。

「ごめんごめん、雪が目に入ったみたい。ちょっと目の錯覚がしてさ」
「・・・・・・ロシア、お前」

 見えているのか?そして奴の正体が分かったのか?

「おかしいよね、フランス君は今僕の目の前にいるのにーーさっきはすぐ後ろにいるような気がしたんだ」
「・・・・・・」

 腰が抜けてしまった俺を遠慮なく情けないなあと笑うとロシアは再び担いでくれた。
 しばらくは喜びも悲しみも怒りもなく、無感情だった。しかし、一歩一歩運ばれるその足音に一つの感情が浮かんだ。

(・・・・・・よかった)

 ロシアがあいつではなく、俺をフランスだと呼んでくれて、心底安心した。

 さくさく、ざくざく。無言の雪道を一人分の足音が二人分の重みで歩む。彼の運び方は小麦袋を抱えるように大雑把だったが、大樹に寄りかかるような安堵をもたらした。ふと遠くの針葉樹から雪が落ちる音が聞こえた。

「ねえ、フランス君は僕よりも長生きだよね」
「ああ」
「後悔する事ってある?」
「そりゃ、もちろん」

 雪と木々の間を行く。その先に丸太を組んだ屋根が見え始めた。ロシアのダーチャとはあれだろう。

「過去に戻ってやり直したいと思う事ってある?」
「勿論・・・・・・でも願うなら、そう思わないように生きたいもんな」
「えー、そうかな?」

 彼の歩みとともに俺の体が揺れ、同時にその家が徐々に大きくなる。しっかりした作りの家はそれでも白銀の世界に比べるとちょこんと可愛らしい・・・・・・まるで今俺を運ぶ大男のようだ。

「つまらなくない?・・・・・・後悔すらないなんてさ」

 後悔するほどのものがない人生なんてさ、と含蓄のある呟きと共に扉がばたんと閉じた。大いなる白の大地では頑健な建物も狼と戦えそうな大男も、同じくらい小さいのだろうか。





あとがき

 お久しぶりになってしまいました、すみません。

 先日竹林を漁っていたら「みんなが飼っている動物は彼らのそばにいる限りは長生きで、離れると普通に年とります」と書いてあって「うっわあああ!前回のお兄さんのそんなことできない発言がああ!」と見悶えしてました。でも「イギリスも身近な人(たぶんハワードのこと)には気を遣って、そんなに接しすぎないようにしてる」みたいにも書いてあったし、なによりプーちゃんはそこのカテゴリーには入ってないからセーフセーフ!みたいに自己暗示して戻ってきました。嘘です、忙しくて書けなかっただけです。いや竹林はなにがあるかわからない。

 ロシアさんが歌ってる歌はキャラソン「ペチカ~心灯して~」です。

 お茶してるお店はセーヴェルという帝政ロシア時代からの老舗のお菓子屋さんをモデルにしています。
 お店によってはソ連時代のサービスを受けられるらしく、レジを打ってレシートをもらってから再度並ぶのだそう。レジ打ちさんは当たり外れがあり、愛想なんて期待できなかったり、値段は自分で覚えてこいみたいに言われたりすることもあるとか。
 資本主義世界に慣れた人にはびっくりかもですが、サービス過剰な資本主義に疲れた人はそこがいいのだそうです。知らないで行くとびっくりしそうですね。ただ店員のサービスが過剰になったのはここ数十年の話なのでソ連がというより、こっちがそれまでの時代のデフォルトなのかもですね。

 お兄さんの悩みはどうなるのか、むしろ彼らはどこにいるのか、地球上に存在する場所なのか。というかモスクワ書くつもりがどうしてペテルブルクになったのか。



2015/11/26



間違っているかもしれない豆知識


ダーチャ

 ロシアの人々が都市郊外にもつ菜園付き別荘。夏休みや週末や老後を過ごす人が多い。ソ連時代に市民にたくさん与えられ、今では八割近い人口が保有してるらしい。自作自営の市民の食料のセーフティネットとして注目する動きもあるとか。


エリザヴェータ女帝

 国政より文化事業派で、ロシア宮廷をベルサイユ化した人。ヘタリアならフリッツ親父をオーストリアのマリア・テレジアやフランスのポンパドゥール夫人と三人で包囲して、大ピンチに陥れさせたとかおいしいかもしんない。これを三枚のペチコート作戦と呼ぶ(今風にいうならブラに囲まれ大ピンチみたいなもんか?)。
 しかし彼女が亡くなり、跡を継いだピョートル三世がフリードリヒ大王贔屓だったので途中で作戦はお流れになったとかなんとか。


エカテリーナ女帝

 エリザヴェータ女帝は姑。
 ロシア人でなく、プロイセン人の女性。夫のピョートル三世がフリードリヒ大王崇拝者すぎたので、権力闘争に勝利。ロシア正教に改宗しロシア語を話すエカテリーナの方が国民人気があったらしい。
 内政、外部との戦争、なんとかのりきった。リアル逆ハーもやりました。彼女の一番の愛人である軍人ポチョムキンは、戦争で彼女の元を離れるときは好みの若い愛人を自ら選りすぐって送った(この辺は最強の愛人ポンパドゥール夫人の鹿の園と同じですな)。
 晩年にフランス革命にぶち切れて、それまでの啓蒙家ぶりに反して、啓蒙書の焚書をやったことがある。


ペテルブルク

 サンクトペテルブルク、サンクトは古都京都の「古都」みたいな部分らしくあんまり言わないらしい。
 十八世紀初頭にバルト海に造られた湾岸大都市。エストニアの首都タリンやフィンランドの首都ヘルシンキに結構近い。
 十二世紀からあるモスクワより新しく洗練された雰囲気があるのか、父性のペテルブルク 母性のモスクワみたいに言われることも。百年前くらいまでロシアの首都でした。
 前世紀に色々あったので名前がよく変わった(ペテルブルク→ブルクってドイツっぽいからやだ→ペトログラード→偉い人が死んだ→レニングラード→国家形態が変わった→ペテルブルク)


エルミタージュ

 フランス語で「隠れ家」とか「世捨て人」みたいな意味らしい。もともとは宮殿の一角を展示室として公開したもの。今は宮殿(冬宮)ごと美術館になっており、一日では回ることが不可能みたいに言われる広さを持つ(東京ドーム10個分くらい?)。
 フランス語は今も使う人多いですが、百~二百年前はもっとメジャーでロシアの偉い人やお金持ちの人たちはがんばって覚えました(だから国連などの機関ではフランス語が必須のところもあるようです)。



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