がむしゃらに突き進んできた。
 本当になにも考えなくてもいいようにがむしゃらに。
 今思えば、過去から逃げるように走ってきた。

 ただただ、グレンの役目のことだけを考えていれば自分の生き方など考えなくてもよかった。しかし運命はリーオのその道を「永遠に頭を空っぽにしてやるべきこと」などにしてくれなかった。

 だからその道が終われば過去が沸き上がり、そしてただのたった一人の友人を亡くした少年に逆戻りした。



「 リーオはちょっと旅行中です 2 ~鍵盤の誘い~ 」


 うんざりするほど積まれた白い壁。一つ一つに目を通すまで眠れない、たくさんの仕事の報告書。一つ一つを吟味してそれぞれに的確な指示を、的確でなくとも大失敗ではない指示を出さねばならない。それがトップというバランスを司るものの仕事というものだ。

 この義務を果たそうと生きてきた、バスカヴィルの長の宿命のために生きようとした。

(あの日エリオットの死を覆せるかもしれない可能性を捨てた。悔いが沢山あるのにあの日消滅したオズ君たちの分もと思ってやってきた。だから僕はいつも負けなかったし、なんでもできた)

 リーオが重いけど確かな義務に手を伸ばし、白い書類の山に触れた。すると壁は消滅し、指先は宙を撫でた。

「なにしてるんですか、マスターの仕事はこっちですよ」

 ひょいとヴィンセントが分厚い報告書を一冊差し出してくる。一冊、分厚いけどたったの一冊。リーオは肩を落としてそれを受け取った。

「あー仕事したいー」
「今してるじゃないですか」
「これじゃすぐ終わっちゃうじゃん、あとどれくらいあるの?」
「これで一年分です」

 ラトウィッジから近い町の宿屋。そこの広い客室には報告書は彼の持つ冊子一つだけ、彼が書くべき書類の白紙の方が多い。丸い木のテーブルは本来は談笑の為のもので書類仕事には向いていない。しかしそれでちょっと不便ではあっても、不足ではない。リーオがある程度書けばヴィンセントが片づけて次の白紙を差し出せばいいだけだ。

 いくらなんでも一年分の仕事がこれだけということに抗議する。

「いくらなんでも少なすぎでしょ?誰かさぼってるんじゃない」
「バスカヴィルのみんなは基本働き者ですよ。単純に変化がないから報告書には「異常なし」としか書けませんし、手は足りています。マスターはチェックでいいんですよ、さぼっても大した量じゃないので僕が見ればすぐ終わります」

 なんて張り合いのない職場だとがっかりしてペンを受け取り、夢想ほどではない量の白紙に読みやすさ重視で大きめの文字を書いていく。悪筆気味だったリーオのせめての部下たちへのフォローだった、文字が読めねば指示も理解できまい。仕事に追われる予定だったから一週間も広い部屋を貸しきったのにと項垂れるが、筆のペースは落ちない。こうすることにもすっかり慣れた。

 そう、リーオはなかなかよいバスカヴィルの長だった。過去形でなく、現在進行形で部下たちにとってのよきグレン=バスカヴィルだった。

 背後でため息をついて微笑んでいる従者が不気味だったので、何をそんなに心浮き立っているのか訪ねてみる。すると彼はすっかり仕事が減って負担が減ったから安心したと自慢げに言った。

 自慢げな理由はリーオ自身がよく知っていたが、あえてヴィンセントに聞いてみる。

「昔だってそんなに負担はなかったろ、今グレン=バスカヴィルがこんなに暇なのがそもそも変なんじゃないか?ほら、物語でも世界の支配者は善人も悪人もあくせくして世界を飛び回ってるものだろ」
「今が暇だとしたらマスターが努力した結果ですし、そのおかげで世界とアヴィスが安定したからじゃないですか。三日寝ないで報告書や指示書を書いたり、反対を押し切って僕とアヴィスに潜って調査したり、世界崩壊直後の忙しさがおかしかったんです。あとマスターはどう転んでも悪人にはなれないと思いますよ、勇者にしても大魔王にしても物欲や支配欲がなさすぎます」

 つまり、リーオが頑張った結果、これほどやるべき義務が減ったのだ。しかし当の本人は誇れるはずの偉業をなぜかばつが悪そうに筆を進めている。このくらいなら宿屋に泊まって三日休んだり頑張ったりする間に終わってしまうだろう。

「あの頃は僕もグレンとしてお前を殺さず生かす方向にいったり、核に接触したり、バスカヴィルの仕事を一般人に任せたり、前例のないことばかりやったから頑張ったけどさあ」
「従者の胃が痛いほどやりすぎでした、もっと適当でよかったのに変なところで凝り性ですよね、リーオ様は」
「シャルロットたちは優秀だけどグレンに絶対服従でなかなか自分の意志で現場を判断してくれないから、マニュアルくらいは作らなきゃならなかったんだよ。一般人採用は、ほら、実質旧パンドラの人でやってたからチェインの知識はあったわけだし・・・・・・忙しいのは仕方なかっただろ。あと僕は必要とあらば悪党にもなれるからな」
「半年も締め切り前の小説家みたいな生活してるときは本当にアヴィスに連れてって休暇を取ってもらうべきか悩みました」
「ちょっと待て、そんなこと考えてたの!?」

 やっぱり従者はクビにしてアヴィスの核接触専門交渉役にだけやらせるべきだったかとリーオは睨むとヴィンセントは書き上げた書類をチェックして問題ないと判断し、封筒にしまう。重要書類なら写しまでやってくれる彼は多忙な時期は本当に重宝した。今は暇なのでただ口うるさいだけなのだが。

「あとマスターは大した悪党にはなれませんよ、管理職になって公的資金を横領して孤児院や学校の修繕費にあてるのがせいぜいです。あと権力振りかざして古い教育に口出して、読める本の自由化を図る小悪党程度です」
「それ小悪党かなあ・・・・・・しかもなんだよその例え、嫌味なの?」
「ただの従者の主人への愛ですよ。公爵家が解体した後のごちゃごちゃした貴族社会の利権問題にバスカヴィル特権で介入して金を出させてそういうことしたとか、グレンの知識があるのをいいことに慣例では通常のバスカヴィルにトップシークレットレベルの知識を書籍化してバスカヴィルに配ったりするとか、そういう話じゃありません」
「言ってろ、貴族のティーパーティを年十回の所を八回にすれば僻地の学校と孤児院がつぶれないでいいならいいんじゃないって思っただけだよ。書籍にしたのは、まあバスカヴィル内にだしいいかなって」

 身の回りに集うグレンの亡霊たちは半分が非難轟々だったが、レヴィのように三日笑い転げているような者もいた。同じように何事も一枚岩とはいかないのだ。人間だもの、人間じゃないか。

(バスカヴィルの長も楽じゃないのか楽なんだか)

 今は余裕があるのだろう、だからリーオは山に籠もっても何も言われなかった。むしろたまに来ていたギルバートの様子から静養して欲しいとバスカヴィルの民からは思われているらしい。
 バスカヴィルの仕組みを自分なりに変えてきた、それが間違っているとは思わない。目立った問題も今のところ出ていない。シャルロットたちも最初は戸惑ったが、今はグレンの役目の一部をこなすことを誇りを持ってやってくれている。

 妹のこともあったろうがオズワルドは一人で頂点に立つ孤独に耐えかねてジャック=ベザリウスにつけ込まれたふしがある。それを見た経験を生かす意味でも基本的にリーオが錯乱しようが依存しようが、最低限の務めが果たせる方向で組織を変えた。そしてリーオでないとできないことはいつの間にか消えていた。

(よかれと思ってやってきたけど、結局僕は自分で僕の人生を終えるまでの大仕事をみんなで分けあって、道をなくして迷子か)

 不満なんてないけれど。下の階でざわざわという音がする、外を見ればもう夕方だ。この宿を取って資料を待っているだけの午前午後だった、今からは働こうとリーオは文字を書くペースを上げた。

 ふと筆先がふるえた、下の階から陽気な旋律のピアノの音が聞こえてきた。酒場が盛り上がってきたのだろう、久々のその音色を意識から追い払うためリーオは目の前のことに更に没頭した。




 カリカリというペンの音に耳を澄ませるのがヴィンセントのひそかな楽しみだった、主限定だが。ここ数年の習慣で、もうすぐ休憩の時間だろうとこっそり準備をする。ちらりらと主を覗き見していることがばれないように本を無意味に開いたり閉じたりを繰り返す。

(人間で言うと二十歳くらいに見えるのかな、マスター)

 多少なりとも成長したリーオは初めて会ったころと変わらず髪の毛を適当に伸ばしぼさぼさ頭だったが、今は仕事中なのでくくっている。変わっていないようで、変化はある。そしてヴィンセントはそんな主に対して大それた望みを持っていた。

 リーオには寿命を甘受して欲しい。つまり長生きして欲しい。主に知られたら怒られるか、そう思ってるのは知ってるとそっけなくされるかだろうか。だからそれを悟られないように本の整理に没頭するフリをする。

 主は二時間きっかり書類を書き、一区切りついて伸びをしていた。凝り固まった肩を腕を回してほぐしているリーオに食事は必要かを尋ねる。 

「んー、いらない」

 そっけない、机にうつ伏せになるとだらだらし始める。ふとさっきの会話が気になった。

「マスターはグレンの役目が好きだったんですか?」

 生まれつきの運命で、望んでなったわけではないのに?

「好きっていうほどじゃないよ、ただ僕以外できない役割なんて物語の主人公みたいな宿命に没頭していた時は気楽な側面もあったよ。それだけ」
「グレンが気楽、なんですか?」
「自分の足を一度も止めないで、自分にしかできない役目をこなすって意味ではね、そういう意味ではオズワルドと一緒だ。彼は妹が死んでから世界から心を切り離すためにグレンであろうとしていたから」

 まあそれで人生に罰を求め、二人のアリスを育てたりジャック=ベザリウスにつけ込まれたりもしたのだが。人間は正直だ、しなければならないことよりしたいことを最後は望む。

 彼は定められたバスカヴィルの長の役目をこなす一方、実際のオズワルドの心の中を占めていたのはレイシーを殺した罰を求め二人のアリスを育てることやレイシーの思い出を共有するためにジャックとのかりそめの友情ばかりを維持することだった。バスカヴィルは肉体的にはチェインに近いが、心はどこまでも人だ。時には心の安定のためにいろんなことを見えないフリをして日々を送ることができる。

(僕がそうだったからよくわかるよ、オズワルド)

 サブリエで生まれて初めて得た友人が自分をかばって死んだ、それを自分がなかったことにしたことで更に彼の運命は歪み、挙句死の苦しみを二度味あわせた。そしてリーオはそれを全て夢と思い、いつもおかしいのは自分の方だったと過去のトラウマに逃げて忘れようとした。永遠に変わらないリーオの罪だ。

 間違っているかもしれないと思っても、自分では触れられないことがある。人は自分の本音や覆せない真実には臆病だ。

 悲しげなピアノの旋律が、下の階からではなく記憶の中から響く。エリオットの弾いたレイシーのメロディーーきれいな音だった。今はそんな風に思い出せるようになった、なってしまった。それが、辛い。

(僕に何かを綺麗に思う資格なんてない、欲しくない。そうなりたくない・・・・・・オズワルド、あんたも自分が一生苦しめばいいと思ってたのか?)

 訊くけれど答えなどあるはずもない、彼はあの時消滅したのだ、他のグレンの亡霊たちは下がらせている。よけいな口出しが多いので、基本的には眠ってもらっている。

「妙なこときくけど、今の僕ってやっぱり大人になって仕事してるのかな?」
「はあ?・・・・・・そこらのパン屋や仕立屋とグレンの役目が同じとは思いませんが、マスターはやらなければならない義務を果たすという意味では仕事をしてます。大人か子供かという意味尋ねられたら、大人と答えます」
「うう~、そっか僕も大人になっちゃったのか~」
「なんでイジケるんですか、今はもう隠居してる老人の方が近いかと」

 世界がアヴィスに墜ちる寸前だった、あの危機。あれからもう、そんなに時間がたったろうか。暦を数えるが、それでも十年は経っていまい。リーオもヴィンセントもバスカヴィルなので外見年齢はあまり変わらないせいで、時間経過のことをつい忘れてしまう。あの時はたくさんのことがあり過ぎて自分は子供で色々なことを学ばなければと痛感したのだが、一応大人になったのか。

 はー、と憂鬱にリーオはため息をこれ見よがしについた。

「僕はさ、学校に行ってた頃は子供だったから大人になって仕事するってことに夢や畏れを抱いていた気がするよ。でもさ、グレンが大人の仕事かは分からないけど、なってみれば学校の頃と変わらない。ノート取りや試験勉強、あとは嫌われたらまずい相手にどう対処するかっていう、根本的に学校の頃と変わらないことをしている気がするよ」
「僕は学校に行ったことはないのでわかりかねます」
「行ってないのにヴィンセントは基礎教養がありすぎなんだよーー責任が昔よりともなうかなとも思うけど、ミスしたら全部ぱあなんてことは滅多にない。
 この書類仕事だってミスしたって謝ったり書き直したりはするけど、そんなのは試験の成績が落ちることと変わらない。がっかりするけど頑張ったりまあいいやって思ったりするだけで、すぐに慣れたよ。補習は受けても落第まではなかなかいかない」
「仕事なんて日常生活の一部なんですから、そんなものですよ。マスターの尽力で世界も平和ですから、余計に。僕もバスカヴィルとパンドラの二重スパイやってた頃はそんなものでした」
「いやそれはさすがにばれたら殺されてただろ、そんなブラックな仕事から離れて正解だ」
「マスターの従者という天性の仕事を見つけましたから」
「あー、そうだった。しまった、クビにしづらい」
「しないでください」

 ヴィンセントは茶を用意していない、それこそ彼がまだまだやるべきことを抱えていた頃に何回か書類にぶちまけて書き直しなって以来懲りたらしい。さらさらと読みやすい字を書いていた主は仕事が楽しそうに見えた。久しぶりだからだろうか。

 リーオが楽しそうな姿を見るのは、素直にうれしい。

(結局、僕はマスターに幸せになってほしいのかな。エイダ=ベザリウスが前に僕に喚いた「幸せにしてやる」みたいに、楽しいことや生きてて良かったってことを味わって欲しいんだろうか、僕は・・・・・・あの時は勝手で意味不明なことを言ってると思ったけど、生きていることの喜びって結局そこに行き着くのか)

 そんな彼を苦しめることは望みたくなかった。更にいえば自分にもできないことを望むのはフェアではない。けれど結局リーオが長く生きるとしたら、それは彼がそう望んでもらうしかないだろう。

 彼が言ったとおり彼の義務は徐々に仲間で肩代わりできるようになってきた。それが軌道に乗ったとき主は張り詰めていた精神のバランスを崩し、山に籠もってしまった。

 リーオは途方にくれている。それはあくまでヴィンセントの見解だったが、少しはリーオの感情は理解できる気がした。やるべきことをなくすことは、辛いことだ。時間を持て余せば余計に自分を追いつめてしまう。

(僕もサブリエの悲劇を自分の消滅でなかったことにできないと知ったときは、どうすればいいか分からなかった)

 まあ、自分を引き替えにすれば世界が救われるという願い自体そもそも図々しいのかもしれない。そんな事態になること自体まれだ。個人と世界は本来天秤に乗るものではない。
 それが無理と知ったとき、ヴィンセントは贖罪を望んだ。罪をなかったことにするのではなく、罪を購う役目を果たすことを望んだ。エイダ=ベザリウスに「あなたの罪を赦します」と言われたときに、サブリエの悲劇をなかったことすること以外の贖罪の道を望んでいることに気がついた。

 だから、アヴィスの深淵に潜り核と交流する義務に安堵を感じている。その役割を彼から与えられたことには感謝している。

(でも、僕がマスターに幸せになって欲しいなんて図々しい発想だ)

 自分の幸福も、よく分からないのに。

「グレンなんてさ、結局はアヴィスってものの管理人だから何事もないと見回りと掃除くらいしかすることないよね」
「アヴィスの監視を見回り、こちらに出現したチェインのあと処理を掃除というのもどうかと思いますが」
「うるさいなー、暇だ暇だ、ひーまーだー。グレンがこんな暇な職業と思っていなかった、詐欺だ」

 時間があると本当にこれでよかったのかと自問自答が生じる、しかし難しいのはそれがただの不安か必要な自分への問いかけかは中々わからないことだ。

 自分が罪を背負っているのに罰がないことは苦しいことだ。エリオットを死なせたと思っているリーオも同じようなものだろう。しかしその義務すらほとんど終えてしまった。なら何が彼の長い生を支えるのか、間違って死に走らせないのか?・・・・・・結局思いついたことは、幸せくらいしかリーオを引き留めるものはないだろうということ。

(結局あの女の言うことは甘ちゃんだけど・・・・・・正論だったのかな)

 今彼女は平凡な波乱はありつつもなんとか楽しく暮らしているらしい、尋ねてみたい欲求を抑える。・・・・・・個人の求める最終的な幸せとは何だろう?かつてヴィンセントはそうなろうとしてことはなかった。
 世界の崩壊の危機の時からは不幸になろうとするのだけは兄のためにやめた。それに今更自分を犠牲にしても兄のために出来ることは特に思い当たらなかった。何のために生きればいい、それはまだ分からない。けどやっぱりリーオにはこっちが腹が立つほど脳天気に笑って欲しい。それがヴィンセントの素直な願望だ。

「グレンなんて、他にアヴィスの管理ができるものがいないから特殊な気もしますが、基本見回りと現状維持くらいしかやることありませんからね。平和であればあるほど待機しか業務のない、究極の閑職かもしれません」
「あんな大魔王みたいな設定してるのに、詐欺だ、だーまーさーれーたー。夜な夜な怪しい活動をしているバスカヴィルを陰ながら調査する勇者一行とかいないの?」

 退屈は平和に付きものの毒らしい、ふと思いつきぽんと手を叩く。

「世界平和がお嫌いですか、そうですか成程・・・・・・」
「待て!止めろ、お前がアヴィスの核をたきつけたら洒落にならないんだよ!」
「べ、別にマスターのために一騒動起こそうとか考えてませんよ、勘違いしないでください」
「なんかキャラ崩れてない!?あー僕、お前のコーヒー飲みたい!今から仕事再開する僕のために下の台所で一から淹れてください、ほらさっさとしろ!」

 幸せなんて埒外の存在だけど、彼にはそうなって欲しい。けどどうすれば彼がそうなれるか想像もつかない。そんなことを考えながらヴィンセントは部屋の外に蹴り出された。





 また鍵盤の旋律が耳をかすめて、リーオは「現状維持」という言葉を一枚の紙に延ばした手を止めた。宿の下は酒場が深夜に近い、その割には穏やかで静かな旋律が流れる。ピアノはもう触れることはないが、聴くことくらいは大丈夫だ・・・・・・確かに大丈夫じゃない時期もあったけれど。

(ピアノ、懐かしいな)

 ふと虚しさが胸を突く、エリオットがおかしいと気がついたのはリーオが作った曲のことがきっかけだった。それ自体は辛い記憶だ、でも楽しい思い出もあった。二人で連弾をしたこと、この作曲家のこれが好きだ最近の流行はこれらしいと話したこと、それもまたピアノとともにあった。それに触れることは二度と出来ない、そう決めていた。

(君の人生も音楽も、僕が奪ったんだから)

 自虐的と言われても、それはリーオが抱えると決めた重石だった。それがなければ自分を支えてこれなかった。自分に罰を与えていなければ、何のために生きているのか・・・・・・。

「みーみー」
「シロ?起きたのか」

 柔らかな白い毛並みがふわふわと手の甲を掠める。バスケットで作ったベッド寝ていたのに、もう元気になったのだろうか。山の中で伸び伸びと暮らしていたのに、乗り合い馬車や人混みの中をぎゅうぎゅう籠に入れて歩いてきたので疲れていたろうに。大きめの個室でシロの羽を伸ばしてやれる、それはリーオが宿を数日取って仕事を片づけてしまおうとした理由でもあった。

「みー」
「なんだい、お腹空いた?」

 袖口を小さな口にくわえられて、引っ張られる。猫の食事なるようなものなら、その逆の方向にまとめてある。ああ、違うよ、そっちは宿の部屋の出口で・・・・・・。

「にゃー!」

 その出口の先の階段のさらに向こう、その下の階でピアノの音が大きくなった。それに併せてシロは鳴いた。早く早くと何かに急かされて全身で袖口を引くその姿に違和感を覚えた、この子は何を求めているのだろう。シロの食事のことは忘れて、リーオはその姿を見て何を望んでいるかを考えた。

(シロ?・・・・・・ピアノに反応してる?)

 聞こえてくる旋律、その音が盛り上がる度にシロの力は強くなった。決してたまたま音に反応しているとは思えなかった。白い体はメロディと共に力を強めたり、弱めたりしている。ピアノは好きだった、時にはくたくたになるまで親友と弾いた。

「にゃー」

 だからシロの態度はメロディとは無縁ではないと理解できた、できてしまう。

「シロ、おいで・・・・・・僕はね、もうピアノは弾かないんだ。昔、大事な友だちを死なせてしまったから」
「みゃー!」

 その声は、リーオを非難してるように響いた。

「昔はこうやって誰かが弾くのを聴くことも辛かった、今でも鍵盤どころかピアノや楽譜に触れることも出来ない。僕はねピアノを捨てたんだ」
「・・・・・・みー」

 遠慮がちに頬を舐められる。シロを抱き上げて、膝の上に後ろの両足で立たせる。シロはきょとんと見上げている。胸に広がるもやはずっと抱えてきた疑惑だった。

 あの酷い風邪を引いた日、この白い猫は自分を助けようとしてくれた。まるでリーオが死を待っていることを知っていたように・・・・・・人間のようなことをした。

(シロ、お前はさ、本当はただの猫じゃないんだろう?)

 そうであってほしくないと水色の瞳をじっと見つめるとシロはただリーオを見返した。指先から伝わる子猫特有の温もりが心地よく、暗い予感に世界のすべてが疑惑に包まれた。結局ヴィンセントがコーヒーを作って部屋に帰ってくるまでリーオはずっとシロを抱き上げて見つめ合っていた。



あとがき

 お久しぶりです、パンドラ最終回以降どうやってこのシリーズを続けるかちょい悩んでいた七花です。

 しょせん二時創作のパラレル的ななにかのお話なのでそんなに整合性にこだわらなくていいや~と思っていたのですが、いざ最終回を迎えると気にしてしまいました。そんなわけで「あの後何が起きたか」を本編と今までの話から自分なりに設定とまとめた設定説明回となりました。こうなるんじゃないかな~でできた話なので、ストーリーはさして進まずに説明が多くて申し訳ない。

 リーオの疑惑がどうなるか、早めに続きを書けたらなあと思います。


プチ設定。最終回みて「あー!リーオもヴィンセントも仕事する気満々じゃん!!」という勢いでできた人物設定。

リーオ

 改革派グレン=バスカヴィル、やるときは働き者だった。必要なくなると動かない、根はずぼらなまま。

 世界崩壊の危機の際オズワルドの苦しみをいやってほどみたので、「オズワルドがぶち切れようがつけ込まれようが、それが世界の崩壊につながるような事態にはさせない」システムを考案して、文句が出ても実行し続けた。結果思った以上にうまくいき、本人も驚きを隠せない。

 死んだエリオットや消滅したオズの分も世界の安定のために尽くそうと思っていたのに、こんなにあっさり成功してしまい人生の意味を見失い気味。義務に打ち込めば過去の償いになると思っていたけど・・・・・・。


ヴィンセント

 禍罪の子、本来なら掟によりアヴィスに墜ちて消滅する運命なのだがリーオが核との交渉役としての生き方を示したのでそれをサブリエの悲劇の贖罪の道としてこなしている。

 サブリエの悲劇から自分を消滅させることでちゃらにしようとやりすぎるほど頑張ってきたが、エイダの「赦します」を聞いたことで「自分は赦されたい、贖罪を生きたままやりたい」と自分が望んでいることに気がついた。口には出さないけど彼女には感謝してる。

 核とは仲良し、現世のものを気晴らしに与えたり、核の方から近未来的なアイテムをもらったりもする。世界を揺るがす知識を世間話で与えてもらったりする。禍罪の力でどこからでもアヴィスにいけるし、核の方からヴィンセントにメッセージを送ることもある(スマホでライン的なことをしてるわけです)。

 リーオに幸せになって欲しいが、自分がそういって説得力がないことは分かってる。でもそろそろはっきり言った方がいいのかもしれない・・・・・・。


次ページに無駄に長い設定

 ふわっと5年後くらいを想定しています。パンドラは解体していますが、人間とのいざこざもあるのでレイムやシャロンみたいな事情に詳しい人がバスカヴィルをサポートしつつ緩やかに活動している感じ。ロッティたちは新参のバスカヴィルを見つけたり、たまに出る違法契約者を裁いたりしています。
 ヴィンセントがアヴィスの核と交流していくことでちょこちょこアヴィスが安定する方法を実施しているのでアヴィスから出てくるチェイン自体が減り、そんなに仕事はなくなりました。リーオがバスカヴィル内での情報の自由化・効率化を徹底的に行ったので、バスカヴィルのみんなだけで現場乗務がこなせるようになったのも大きいです。

 まあジャックの記憶のオズワルドとか見ているとグレンって本来は暇な仕事だろうなーとは思っていましたが。突然死の運命にあったり身内を裁いたりもしますが、基本待機が仕事ですよね、あれ。リーオが忙しかったのは新しい概念をバスカヴィルにぶち込んだのでその後処理が大変だった、という設定。

 リーオはグレン=バスカヴィルなので、本来は五つの黒翼すべてと契約するものなのですが、思ったよりギルバートが鴉との契約が馴染んでいたのとそんなに力を一点集中させる意義もないのでリーオは黒翼三体と契約しています。鴉はギルバートに、もう一体をバスカヴィルでもチェインの扱いの巧い人員に持ち回りで契約してもらっています。ので、リーオはそんなに負担はありませんというマイ設定。

 あと後継者はそれっぽいギルが辞退したのと適任者がいないので、保留。黒翼を分散して契約しているので、リーオがいなくなっても一応グレンは適任者がいれば存続できる体制になっています。作中の様子からグレンの後継者は黒翼を順々に受け渡していって、最後に歴代グレンの亡霊?と知識を引き継ぐから、大丈夫かなと解釈。夢のない設定だ。