「 レイシーの悩み事 2 」









 はあと冷たい手に息をかける。その吐息自体が雪のように白く外に出たのは失敗だったかと、私は顔をしかめた。

「レイシー、寒いなら私の上着をあげるよ」
「いいわよ、そんなに寒い訳じゃない。だいたいジャックの方が薄着でしょう」

 普段着に秋物に近い上着しか着ていないジャックの冬の防寒着といえばマフラーくらいものだったが、そのマフラーを差し出してくる。

 重い灰色の空はその下の世界を寂れた牢獄に連想させた。そこからこぼれる雪の美しさは監獄に下される慈悲だろうか、もっと凍えてしまえという罰の苛烈さか。
 なんにせよこの空の下にいる人間はすべて平等だ。つまりこの視点から考えるなら世界は平等だ。これから死ぬ運命だろうが、そうでなかろうが。

「これくらい何でもないわよ、私はバスカヴィルの屋敷で育ったようなものだし」
「でも君に何かあるかと思うと、私は死んでしまいそうだよ」

(現に死にかけているわよ、私があなたを殺すかどうか考え中なんだから)

 バスかヴィルの仇になりそうで兄様の大きな痛手になる「かもしれない」なんて薄情な理由で。

 実行を想定してみる。ジャックからの距離は一メートル、私が一歩足を引けばチェインの呼び出し時間の距離には十分だ。そうすればジャックの全身をバラバラにすることは簡単だろう。

 血だまりに浮かぶジャックを想像する、仕方ないと諦めた微笑みで死んでいた。がっかりだ、妄想の中でも期待を裏切るなんて。
 でも・・・・・・さすがに間近では死んで欲しくない、いえ万が一勘付かれるかもしれない。少し距離をとってみよう。私はバスカヴィルの屋敷の一番高い木を指差した。

「そんなことより私、今朝の新雪が欲しいわ。誰も触ってなさそうな雪、木の上ならあるかしら?なんなら、あの木の枝の雪をとってきれくれないかしら」
「えっ、そんなことでいいの?」

 いいからと追い払うと彼は高い私が指差した高い高い樅の木の近くに走った。そのまま登るつもりだろうか、それとも梯子でも探してくれるのかしら?なんにしろこれで距離は五十メートル、気配を感じさせずチェインを呼べる距離だ。

(走る後ろ姿が意外と八年前と変わらないわね)

 本質的には幼い少年のまま。あんな夢を見たからだろうか、ジャックに感傷的な気持ちになる――きっと私はジャックを羨ましいと思っている。
 狂気を持っていると思う、生涯かけても叶わぬ夢を追っていると思う。つまりジャックは不幸にしかなれない男だった

 そんな彼を羨むとはなんとも馬鹿馬鹿しい話だが、彼の羨ましいところ、それはつまり不幸になっても欲しいものがあるということだ。
 それは自分だけの幸福の定義を持っているという、実は稀なもの。客観的には不幸かもしれないが、自分だけの幸せを羅針盤に生きていける。風が吹こうが吹雪になろうが人が笑おうが、羅針盤は変わらない方向を進み続ける。

 そういう人間が全く羨ましくない人間は、意外と少ないのではないだろうか。今朝の夢で路上から這い上がって裕福な人間になったことを嬉しそうに語る「ありえたかもしれないジャック」。しかしあれは私の見た夢で、目の間にいる死をも恐れず私を探し続けたジャックが現実だ。

(あの夢とは違う、あのジャックなら自分が他人から見て明らかに不幸になるなんて耐えられないで、誰から見ても幸せになろうとする)

 だから彼にそんな未来があったのかもしれないと夢の中でほっとしたのだ。常識と他者との比較の中で優位であることに安寧を見いだす、それは平凡に幸福になれるということだ。

(私や兄様、そしてグレンとは違うわ。バスカヴィルとは、平凡な生や死を迎えられる人間は違う・・・・・・そう思っていた

 けれどジャックは死を厭わず、私に会うという物好きな夢だけ追いかけてここまできた。そして今でも人間には危険なバスカヴィルの館の森でのんきに新雪をとるために石を投げている。ぶつけて新雪を落とすつもりらしい、なかなか賢い。

(私は嬉しいのかしら、ジャックに人生の目的と思われて)

 全く嬉しくないとは言い切れない、でも手放しで喜ぶでもない。やはり不幸にしか生きられなかったのかと、あの時別の方法を提示して置きべきだったかとくだらない妄想をしてしまう。
 今のジャックが私の理想なら、だったら暗殺計画なんて練らないで手に手を取って逃げようと言えばいいだけだ。ジャックが私の世界のすべてと思えたなら。

(無理よ)

 私に兄様を置いていけるわけない。
 自嘲が口元に浮かんで、すぐ打ち消した・・・・・・嘲る必要なんてない。兄様と一緒にバスカヴィルに来て、禍罪の子としていつか兄様に殺される。その運命を受け入れて生きてきた、それが私だ。悔い等ない・・・・・・ただジャックを見ているとふと寂しい気持ちになる。それだけ。

 ずり落ちたマフラーを直し、空を見つめ、監獄であろうとなかろうとその風景を美しいと感じた。黒に近いグレーの中にはっとするほど白い雪がちらちらと舞う、それを美しいと思うことに理由など必要を感じない。見たまま冬のこういう景色も悪くないから、この季節が嫌いになれないのだと思っただけだ。

(この世界は美しいわ、それだけじゃなく見方を変えると色が全然違う。角度を変えて見るだけで次々に変わって飽きないなんて、素敵なことだわ。
 残酷なところ薄情なところ、善良なところあたたかいところ。この世界に全ては揃っていなくてもこんなにも美しい)

 強いて難点を挙げれば、私の愛するもう一つの世界・アヴィスという金色の世界に比べるといささかその美しさは分かりにくかった。闇の深さ、光の美しさ。そういったものがアヴィスではただただ目映く満たされ、私は一番底にいる友人といつまでも見ていられる。
 それに比べるとこの世界は見方を変えて再確認しないと「いつもと同じ」と飽きさせやすい。しかし、万華鏡のようにくるくると変化して騒がしい。楽しい世界だと思う。

 私という個人は片方だけでは成り立たない、この世界とアヴィスは私の世界そのもので、どちらが自分の居場所だと切り分けられるものではない。脳と心臓を比べるようなものだ、もっともそう思うのは私という禍罪の子だけでバスカヴィルの民とて灰色の空を舞う雪をきれいだと思うようにアヴィスを身近だとは思ってくれない。そのことは正直寂しく、そして自分が異端だという事を痛感させた。

(私が美しいと思うものを、美しく思う人はいない)

 兄でさえ、グレンでさえ、そしてあのアヴィスの核でさえ。この世界とアヴィスの両方の美しさを当たり前に思うものはいない。禍罪の子だけなのかもしれない・・・・・・そう思うこと自体までを罪とは思いたくないが、一人だと感じる。

 そして目の前にいるのはその片方の世界しか知らないという意味では極普通の男だった、否アヴィスと交渉する力を持たないジャックはこの半径一キロメートルで一番普通の男だろう。異常性があるとしたら彼の精神だけだ。
 普通のジャックは私に頼まれたとおり新雪を手にするために杉の木の周りをうろうろしていた。よじ登ろうとしてあきらめたらしい。

「バカなジャック」

 私は雪なんてどうでもいい、それを悟れないあなたじゃないでしょうに。

 殺されるとも知らず、もし知っていてもきっと恐れず――あの夢の中のジャックのように平凡な幸せを望む心を持つことなく生きてきた。幸せになりたいと思えない、母からも父からも世間からも見放された可哀想なジャック。私の見つけたか弱い子供。

(普通に自分が世界で一番幸せじゃないことに、不平ばっかり言ってる人になれていたらよかったのに)

 しかし彼はそんな素直な生き方は出来なかった、そんな運命しか選べなかったのだ。

(ろくな生き方してきてないわよね、私がそういったからだけど)

 最近まで無責任にも言ったこと自体忘れていたのだが、思い出しても私が間違っていたとは思わない。あのままならジャックは死んでいた、路傍の哀れな少年が死体になっても誰も振り向きはしない。見たところで気の毒に無関心に目を逸らすだけだ。
 身を売ったり人を殺したりはできればしないに越したことはない、けれど彼があのまま死ぬよりはその後で後悔しても生き延びた方がマシ思っただけだ。

 そして私はジャックが生きていて、悪いとは思えない。彼のような人こそ、私の知る気まぐれなこの世界の象徴だ。彼は生きるために賢さも美しさも若さもあった、あのまま死ぬにはもったいないと思ったのだ。血にまみれた人生だったろうけど私は彼の持つ生き抜く素質の使い方を教えて後悔などない。

(でも兄様に危害がある可能性があるなら、ジャックの命なんてただの知り合いのものよ。兄様は私のたった一人の家族なんだから、そのためなら私は何でも出来る)

 彼がそう言ってくれたように、何にも囚われない私なら出来るはずだ。

 ジャックに右手を向けチェインを呼び出す。宙に黒い亀裂が走り、そこからぬうと黒い腕が現れた。気を遣ってくれたのか、チェインは断罪の鎖でふわりと私に落ちる雪を遮る。風が冷たいのだろう、それでも寒い。

(ジャックに出会ったのも、こんな風に雪が降っていたわね)

 感傷などない、彼は気まぐれに声をかけただけの他人だ。音なく現れた黒いウサギの陰は慣れた仕草で私に問うーー「命令は?」

「ジャックを、あの男を」

 ――苦しませず、一瞬で殺してほしい――

 そう告げればすぐ終わる、簡単なことだ。
 そうなのに、その言葉を告げられないのは何故だったのか。

 息が弾み、視界が揺れる。指をさしてターゲットは彼だと伝えることさえ出来ない。震えている?私が?

 黒いウサギは無言で私の命令を待っている。チェインの穏やかさ、無垢さがよけいに私に混乱をもたらした。

(どうして)

 ジャックは枝までジャンプして失敗し、転んだ。今なら苦しませずに一瞬で終わらせられる。きれいなお人形のような彼の首は簡単に落とせる、彼と別れた日に絡んできた男たちを始末したように簡単に――簡単なはずなのに、私の右腕は下がったまま。見下ろせば指先がふるえていた。

 肺の奥がまとも雪を吸い咳が漏れ、げほげほと俯く。自分が信じられない。

(どうして、できないの?)

 ジャックが何者にも囚われないと言った私は、何かに囚われたように身動き一つ出来なかった。私はウサギのチェインをアヴィスへ帰した。虚空に映る闇の入り口が消える様を見上げると頬がさっきより冷たい。

 頬にふれて涙に濡れているせいだと気がつくと、私は慌ててマフラーでそれを拭った。そしてジャックがこれを巻いてくれたことを思い出した。








 レイシーは悩んでいるようだった、内容は愚かで空っぽな私にはわからない。ただ彼女の命じたまま新雪をとる試行錯誤を続けていた。

(何を悩んでいるんだろう、私のこと?)

 思い上がりかもしれない、しかしそうかもしれない。私はここでは新参者で部外者だ。扱いづらいと思われている方が自然だろう。
 しかし、彼女の本心など私にはわからない、だから彼女の不自然なわがままを叶えるために木に登るか考え始める。幹を撫でるとつるりとして、足場はなさそうだ。かといって蹴って揺らすには太すぎる。

(全身で揺すってみようかな)

 幹に頬を押し当てて思案する。しかし思考はレイシーに傾いていく。さっきまでお茶を一緒に飲んでいたレイシーを思い出し、それだけで私は世界に存在する意義を見つけられて安堵する。

 八年前、私が十五で路傍で死にかけていたときレイシーは話しかけてくれ、生き方を教えてくれた。その時の彼女との会話は私の生きる上に道しるべとなり、初めて感じる生きる実感でもあった。

 けれど、彼女はすぐに去り、小さな約束とピアスの片割れだけを残して消えた。

(それに比べると、今の私は幸せだな)

 レイシーが消えた後、私は不安だった。レイシーは本当にいたのだろうか、彼女は雪の路傍で見た都合のいい夢ではなかったのだろうか?だって彼女は私に都合がよすぎる。

 行き場のない私に話しかけ、この世界にはいろいろな見方があり、世界は滑稽で残酷で美しいものと言い、食事をともにして、笑いかけ歌ってくれる――そんな夢のような人が本当にいたのだろうか?雪の冷たさの中で見た「死にたくない」という願望のみせた幻想だった方がつじつまが合う。

 それはあのまま死ぬつもりだった私の生の足場を揺らがせるような疑念だった。レイシーなんて夢で、本当はどこにもいないかもしれないーーピアスの片割れを握り締めて「違う違う」とその堅く小さな石の感覚を何度も確認した。彼女は確かにいて私に気まぐれに声をかけた、決して私の夢ではないと。
 小さな物証以外にも、彼女の存在を確認するように盗み、身を売り、人の殺した。私は、「俺」はこんなことをする人間は汚い人間は最低で、そんなことをするくらいなら死んだ方がましだと路上で眠っていた。「汚い行い」は今思い出しても楽しく何ともないものだったが、彼女に会う前はしようともしなかったことだ。できたのはレイシーに出会ったからで、おかげで私は生き延びることが出来た。

 だから私が今、死なずに生きているのはレイシーが生きていく覚悟を教えてくれたからだ。手を汚す覚悟で生きていく覚悟はあの時の「俺」にはなく、レイシーに出会った今の「私」にある――今私が生きていること、それは彼女の存在した証明と思えた。そう思って血で汚れた手を洗っていた夜を思う。

 それに比べると今は間違いなく私は安らいでいた、だってレイシーは証明するまでもなくここにいる。木の上の誰も触れていない新雪がほしいと言って、振り返ればそこにいるはずで・・・・・・。

「ねえ、ジャック」
「え、レイシーいつのまにっ?」

 気配に振り返るとレイシーがいた、気配がなかったのでビックリして一歩足がずれる。私が気配を察知できないなんて、彼女のチェインの力だろうか?それともオズワルドと同じように彼女も武術の達人だったのだろうか?こう見えて夜道で刺されない程度には気配には敏感(じゃないととっくに死んでる)なのだけど。

 なにか彼女の機嫌を損ねてしまったろうかと彼女を見つめたり、枝を上を見たり視線がさまよう。レイシーは真紅の瞳でじっと私を見ていた。ああ、私を真っ直ぐに見たのは彼女が始めて、いや今でも彼女だけだ。こんな歪みを持ってそれを見抜いてもも、彼女はそれも世界の一部と見なして、否定も肯定もしない。私から、世界から、残酷で滑稽なものからも目をそらさない――彼女は何者にも囚われない人だ。

「どうしたの、雪はもういいのかな?」

(こんな人になりたいと思ってずっと生きてきた、おこがましいけどね)

 彼女の光と影と血と瞳の紅に憧れた、冬の厚い雲の向こうの太陽に手を伸ばすように生きてきた。彼女はこの世界の誰よりも「生きて」いる――そして今はなぜか私を思いつめた目で見ている。走ってきたのだろう、ドレスの裾が雪にまみれていた。
 彼女が口を開く姿を見て、間の抜けた私はそんな仕草一つであの時から今まで生きてきてよかったのだと実感する。

「私と一緒に、どこか遠くへ行ってくれない?」

 レイシーは変わらない、十五の時と変わらない綺麗な赤いの瞳で真っ直ぐに私を見つめた。私は不思議に思って、返答した。

「どうして嘘をつくんだい、レイシー?」

 嘘を見抜くことは彼女が教えてくれた生きる術を学ぶうちに身につけたものだった。





つづく


前から間が空いてしまった、私がレイシーならジャック抹殺計画建てるだろうなと思った話。

ジャックって、あんな風にレイシーと別れたら、何度も「あれは死に際に見た夢だったんじゃないか、そんなのいやだ」と思ったんじゃないかと思いました。

あと二回くらいで終わるはず・・・・・・うう、パンドラも終わる・・・・・・。


2015/3/16