夫婦ごっこ10〜信勝、煉獄山を登る〜






目次

・せめてもの償い
・『本当は死にたいだけじゃないですか? 死んだ方がマシなことから逃げたいだけじゃないですか?』
・信勝、煉獄山を登る〜罪に罰を求める〜
・恥ずかしい自意識、見たくない自分
・本当に姉のことを考えたことがあったろうか?
・信勝、煉獄山を登る2〜自分を大切にする〜
・姉上はすごいという罪と罰
・「憧れと言えば聞こえがいいが人間扱いしなかった」
・もう一人の弟の罪



【せめてもの償い】



 崖から身を投げればよかったのだ。
 そうすれば姉の手を弟の血で汚さずにすんだ。

 成人前に僧侶になればよかった。姿を消して二度と現れなければよかった
 そうできれば大好きな人に長い間、辛い想いをさせずに済んだ。

「どうして気付かなかったんだ……ずっと姉上のそばにいたのに」

 何より今までその苦しみに気付きもしなかった自分が許せない。

「僕は罪人だ……姉上にどう償えば……いや、きっともう間に合わない」

 信勝は一人で海の底を歩いていた。真っ暗でなにも見えないが不思議と足元の白砂は見えた。心の世界だからだろう、海中でも呼吸は苦にならない。一歩進むごとに砂の上に靴底の跡が一つずつ増えていく。

 どこへ向かうのか。信勝の罪は姉に愛されていることに気づかず、その手で殺させるように綿密に計画を練ったこと。しかし、それは全て生前のこと。自分の愚かさも姉の苦しみも今更なにも取り戻せはしない。

 信勝の頬に一筋の涙が伝った。

「本当に馬鹿だ……僕はずっと被害者面してたのに、僕が一番の加害者じゃないか」

 どこかで自分のことを被害者だと思っていた。自分にも才能があれば、家臣たちがあんなことを言わなければ、いっそ自分も女ならきっとずっと信長のそばにいられたはずだ。「悪いのは自分ではなくこんな酷い世界だ」とうっすら恨んだ気持ちで世界を眺めていた。

 けれど実際は信勝は加害者だった。信長のそばにいることは信勝自身の手で壊してしまったのだ。とても分かりにくかったが姉は確かに弟を愛していたのに信勝は「こんな自分が愛されるはずがない」と愛自体を否定してきた。そのくせ愛されたかったと被害者面で生きてきたのだ。

 挙げ句「せめて姉の手で殺されたい」と計画して信長の手で殺された。彼女の苦しみを想像もせず切腹を言い渡されることを喜んだ。「本当に姉上に殺してもらえるんだ、ありがとうございます」と笑っていたのだ。

(酷い、こんなの酷すぎる。でも確かに僕がやったことだ。こんなの決して許されない。僕自身許せない。何か、何かしないと……けど今更僕が姉上にできる償いなんて……そうだ)

 信勝は足を止めた。小さな泡が数粒周囲浮き上がる。そして首に結びついた聖杯の鎖に手を伸ばす。少し迷うがそれをぎゅっと握る。

(来い、僕に少し似た汚れた聖杯)

……「やっと僕を使う気になったか」……

 念じるとすぐに聖杯は来た。信勝と背丈が変わらない同じ戦国時代の少年。水に溶けるような半透明の姿で今にも海に溶けそうだ。

「……こんなすぐに現れるなんてな」

……「ここはお前の心で作った世界。心は偽れないがお前自身の意思の力は大きいのさ。やっと僕を使う気になったようだな」……

 さっきと同じ歪んだ笑みを聖杯の少年は浮かべた。信勝はその笑みをじっと見て頷く。

「ああ、願いが決まった。でもお前に叶えられるかな?」

……「心配するな、半分に割られたが力はまだ十分残っている」……

「そうか、なら……」

 信勝と聖杯の周囲を闇が取り囲んだ。血のような赤が混じった闇だった。メキと闇に囲まれた聖杯の少年から金属が軋む音がした。

……「え?」……

「願いを言おう。僕は……お前を殺したい」

 信勝は聖杯の少年に体当たりをして馬乗りになった。そして少年の細い首を全力で締める。首の骨を折るように体重をかけた。

……「う、ぐっ……ど、どうして?」……

 信勝は念じた。すると傍らに黒い刃の剣が現れ、それを聖杯の腹に突き刺した。血が溢れるかと思ったが金属の破片が信勝の顔に当たった。
 砂の上で聖杯の少年がもがくと信勝は静かな目で囁いた。

「……ここって本当に僕の心の世界なんだな。だから僕の意思があれば結構融通がきく。お前をこうして壊せるくらいに」

 信勝が願うと聖杯の少年の体が少しずつ崩れていく。

……「なぜだ、願いを叶えたくないのか!?」……

「お前は僕に執着していると聞いた。だから僕に願いを言わせることにこだわりすぎたんだ……本来は聖杯の空間でお前は万能だろうに欲に目が眩んだ。願いを言わせるために僕に力を与えすぎたな、聖杯!」

 告げると聖杯の少年の手足にヒビが入る。聖杯を殺せば姉はカルデアに帰れる。この程度では償いにならないだろうが、信勝には他にできることがない。

 信勝が少年の首の骨を折るべくもう一度体重をかけると砂の上で少年はまたもがく。その抵抗で信勝の口から血が一筋流れた。信勝の心の世界とはいえ力を与えた聖杯そのものに抵抗されればダメージは大きい。

……「こんなことをすれば、お前だって死ぬぞ!」……

 もう一度聖杯が壊れるように念じると信勝の頭から血が幾筋も流れる。全身に痛みが走り、数秒目が見えなくなった。

 無茶をしている。多分相打ちが精一杯だろう。

「僕のことはどうでもいい。お前さえ死ねば姉上はカルデアに帰れる!」

 それでもいい。償わないといけないのだ。信勝が願いを持ったせいで信長を長く苦しめた。全ては取り返せなくても今できることで償わねばならない!

「償わないとい……だからお前は死ね。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……お前も僕も死ね!」

……「やめ……ガハッ!!」……

 聖杯の少年が大きな血の塊を吐いた。反動で信勝の右肩から腹にかけて袈裟斬りの傷が生まれ、血が溢れた。痛みで気絶しないように信勝が更に聖杯の首に体重をかけるとぼきりと折れる音がした。

 信勝の背中に黒い刃が現れて腹に突き刺さって貫通した。信勝も聖杯の少年もどんどん血だらけ傷だらけになっていく。

……「どうして!? お前は醜い人間のくせにどうして他人のために願いを叶えるなんて、命を捨てるなんて……やめろ、本当に壊れ……るっ!!」……
「姉上、ずっとすみませんでした。ごめんなさい。今更謝ってもなにも取り返せないのも分かっています。僕は許されない。過去は変えられない。僕の命も謝罪も今更じゃ意味がない。
 だから、これはせめてもの償いです……姉上だけはカルデアに帰ってください!」

 信勝は折れた首から手を離すと宙から黒い小刀を生み出して手にとる。それを聖杯の少年の右胸に突き刺した。悲鳴ではなく、金属にヒビが入るような音がした。同時に信勝の背中に刀が三本出現して全て深く突き刺さる。

 聖杯の少年からふっと力が抜けた。もう一度心臓を刺せば死ぬ。信勝も死ぬが些細なことだ。痛みを無視して信勝はもう一度刃を振り上げた。

「これで、終わりだ! ……え?」

 刃がもう一聖杯の少年の心臓を貫く直前。
 信勝の腰で亀のキーホルダーがガタガタと揺れ、眩しく光った。

……死んではいけません……

 懐かしい声がすると信勝の闇を光が切り裂いた。

 光が爆発して信勝は吹き飛ばされ、聖杯の少年から離れた。
 そして一陣の風が吹いて信勝と聖杯の少年は別の空間に移動した。







「……?」

『ああもう、大分治ったとはいえまだボロボロじゃないですか。ノッブが見たら静かにキレるやつですよ、これ』

 気を失っていたらしい。信勝が起きあがろうとすると全身が痛くて動けない。聞き覚えのある声がする。

「お前は……?」

 仁王立ちした誰かは見覚えがある。海底の砂の上で倒れている信勝を見下ろして強い口調でこう言った。

『おや、目が覚めましたか? それはよかった……ちょっと! 信勝さん、私との約束破る気ですか?』

 そこにいたのは腰に手を当てた沖田だった。












 アンデルセンは真面目に仕事をしていた。そしてあらゆるモニターから織田信勝の反応が消えたことに「やっぱり」と肩を落とした。

「こうなることは分かっていた」

……どういうこと!? 僕を騙したの!?……

 飛んで戻ってきた青い鳥の喚き声にアンデルセンは顔をしかめた。

「俺もカルデアもこうなることを望んでなどいない。ただ、どうしてこうなることは避けられなかった」

……やっぱり騙したんじゃない! 信じた僕が馬鹿だった。僕はただ、僕に姉上から「僕」は愛されてるって教えたかっただけなのに!……

「喚くな。耳が痛い。だから騙していない。ただ織田信勝は織田信長に愛されていると知れば人生の意味を失い、自分を罪人として罰するだろうと予測した……俺だって外れて欲しいと思っていたんだぞ、この予測」

……分からないよ! ……

「愛は無条件に持て囃され危険物であることを忘れられがちだ。
 俺があいつの立場だったら自分を許せないだろうと思った……だってそうだろう? あいつは姉のために自分の命を捧げた。けれどそれは「姉に愛されていない」と信じているからできたことだった。その認識が「本当は姉に愛されていた、なら自分のやったことは無意味、それどころか一番大切なものを深く苦しめたことだ」にひっくり返ったんだ。
 誰が許しても自分が自分を許せないさ」

……何それ、それじゃ……教えたことが間違いだったみたいじゃない……

「聖杯に取り込まれた織田信勝がこの空間から逃れるには「本当は姉に愛されている」と知る事がどうしても必要だった。だが……それをすると本人が死んでしまう。自己認識が最低最悪の罪人に変わったからな……罰を求めるだろうと最初から頭痛はしていた」

 アンデルセンは何も映らなくなったモニターにため息をついた。マスターは泣くだろうし一応顔くらいは知っているのだから助かってほしかった。ただ瀕死の病人を見た医者のように「手遅れだろうな」と予測して仕事をしていただけだ。

「俺の時代はな、人間の生きる意味が変わった。神を信じる時代から信じるものは自分で決める時代へ少しずつ変化していった。マスターの時代ではもう神は忘れ去れられ、人間の生きる意味は自分で決めるしかなくなった……というわけで織田信勝も自分の生きる意味が「ない」と決めた。以上」

……君って本当に作家? さっきから話が分かりにくいんだけど……

 童話の登場人物に本当に冷たい目で言われたのでアンデルセンは地味に傷ついた。

「つまり、自分で「生きる意味がない」と思ってしまえば、それ以上どうしようもない時代だということだ。そういう意味では宗教も悪くない。自殺は悪だという教えもあったしな」

 まあそれでも自殺者は出ていたのだが効果はあったはずだ。多分(アンデルセンはこれで真面目なクリスチャンだったのだ)。

 青い鳥はじわじわと胸の痛みが強くなった。自分が信勝の気持ちが一番分かるのだ。どんなに信長に酷いことをしたか、そんな自分がどんなに許せないか理解できる。

……それでも……こんなの、こんなの……結局、姉上が一番可哀想じゃないかっ!!……

「そういうのは順位を比べられるものではないさ」

……僕……戻るよ。引っ叩いても僕を連れ戻さないと……僕のためにも姉上のためにも……

「無理だ。こちらのコンタクトを全て拒絶している。カルデアの技術ですら不可能なほど深く遠い。あいつが望まない限りあいつには会えない」

……うるさい、ほっといて! きっともっといいやり方があったはずだ……

「おい、行くなとは言ってないぞ? こいつについていけ」

 青い鳥が振り返るとそこには桃色の鱗をもつ人魚姫がいた。人魚姫は腕を組んでアンデルセンを不満そうに見ていた。

「一応聖杯が生み出した敵なんだが俺は作者だから、妙な縁でさっきまで話をしていた……まあ一緒についていけば会えるんじゃないか?」

 人魚姫は仏頂面のまま青い鳥に銀色の鳥籠を差し出した。







【『本当は死にたいだけじゃないですか? 死んだ方がマシなことから逃げたいだけじゃないですか?』】



 信勝は腰のベルトに亀のキーホルダーを探した。しかしそこにはなにもなく、キーホルダーの金具ひとつ残っていなかった。

(亀くん、お前が僕を助けたのか? どうしろっていうんだ。僕は姉上を苦しめてきた。もう手遅れなんだ。お前と違って僕は馬鹿で冷たい人間なんだ。同じ姉弟でも卑弥呼をそばで支えてきたお前とは何もかも違うんだ……せめてもの償いに聖杯を道連れにするくらいしか)

『だから約束したじゃないですか。信勝さんはノッブに会って「僕がそばにいて欲しいですか?」って聞くって。ちょっと、ちゃんと聞いてますか?』
「……」

 信勝は沖田を無視して海底を歩いていた。その後ろをトテトテと沖田が軽やかについてくる。不思議なことにこの沖田はシャドウの沖田と違い、だんだらの浅葱の着物ではなく、桜色の着物に紅色の袴を着ている。

『信勝さんの嘘つき〜♪ 信勝さんは大嘘つき〜♪』

 無視されて飽きてきたのかそんな歌まで歌い始めた。軽くスキップまでしている。

(嘘つきか……確かにな)

 聖杯から受けたダメージはまだあるが足を引きずればのろのろとは歩けた。どこを目指しているわけでもなかったが沖田のそばにいたくなかった。確かに約束をしたのに果たせそうもない。

 信勝は自分の首を探った。聖杯の鎖は消えている。まだダメージがあって鎖が再生していないのだろうか。それとも道連れにしてくるとは思わず、流石に繋がりを絶ったのか。

(どうしよう……せめて聖杯を殺さないといけないのに、これじゃ呼び出せもしない)

 思考を能天気な歌声がかき消す。

『あの言葉は嘘だったんですか〜♪ シャドウの私が死んで、感謝していたんじゃないですか〜♪ 勢いだけで約束して土壇場で破るなんて最低です〜♫』
「……お前には」
『ん?』
「お前には悪かったと思ってる。姉上に直接聞くって約束したのに、確かに果たせそうにない。シャドウのお前は僕を助けて消えたのにな……すまない」
『お、やっと返事しましたね。そうですよ、約束したのに破るなんて酷いです。男と男の約束じゃないですか』
「お前は女だろ」
『男女差別はよくないですよ』

 ビシッと沖田は信勝を指差した。その指先はほのかに暖かい光をまとい、わずかに桜の花びらのようなものが溢れる。迷ったが信勝は足を止め、沖田に振り返った。

「お前はなんなんだ? またシャドウサーヴァントなのか?」
『さあ? 私にもあんまり分かんないですよね。またシャドウなのかもしれないし、信勝さんのピンチで一時的に召喚されたのかもしれません。私が覚えているのは信勝さんが私の約束を破ろうとしていることだけです』
「……シャドウのお前を死なせてしまったのに約束を守れなくて悪かった」

 信勝が頭を下げると沖田は肩をすくめた。

『謝ったからなんだっていうんですか? そんなことより約束を果たしてくださいよ』
「ごめんな、でも事情が変わってしまった。聖杯の中で知ったんだ。生前に僕を殺すことでどんなに姉上を傷つけたか……僕は今日までそれに気づきもしなかったんだ。しかも姉上に手を下すように綿密に全計画したのは僕自身だ……もう姉上に会うことはできない。だからお前との約束は守れないんだ」
『なんですかそれ? どうしてそれがノッブにもう会わない理由になるんですか? イミフです』
「どうしてって……そりゃ、そんな最低な僕の顔なんてもう大切な姉上に見せるわけには」
『それは逆でしょう』

 沖田はすっと人差し指を顔の前に立てた。

「逆ってなにがだ?」
『ノッブが信勝さんに会いたくないわけじゃなくて、信勝さんがノッブに会いたくないだけでしょう。罪悪感ってやつで』

 信勝は二の句が告げなかった。

(僕はまた……姉上のためと言った口で自分のために行動したのか?)

 いいや、もしかして。
 ずっと姉のためではなく、自分のために行動してきたのでは。
 だって信勝は信長の心が分かっていなかったのだから彼女の望むように行動できるわけがない。

 沖田は棒立ちになった信勝の周りを軽快なスキップで回る。かごめかごめの遊びのように。

『それってノッブの気持ちを考えているわけじゃなくて、ただ自分の気持ちに従ってるだけですよね』
「僕は……」

 それは見たくない現実だった。自分の気持ちで頭の中がいっぱいで誰かの気持ちを想像することもできない。姉のためと言いながら自分の気持ちを優先してる。

『ノッブの気持ちはノッブにしか分からない。だから直接聞いてくれと約束したのに、結局確かめない。それって怖いからですか?』
「なら僕はどうやって姉上に償えば……」
『信勝さんには悪いですが、信勝さんが言ってることって私には今更なんですよね。明治維新の特異点の時に私もマスターもみんなも、ノッブが信勝さんを殺して深く後悔してるなんてとっくに知ってる。知らないのは信勝さんだけです……ううむ、でもある種土方さんと同じなんですかね? 土方さんも自分が北海道で死んだと気付かないでずっと戦ってますし」
「せめて聖杯を殺せば姉上をここから助けられるって……」
『強すぎる信念って時に厄介ですね、私には無縁なのでよく分かりませんが』

 信勝は膝から砂の上に崩れ落ちる。沖田は足を止め、しゃがんで信勝の目線に合わせた。

『本当は死にたいだけじゃないですか? 死んだ方がマシなことから逃げたいだけじゃないですか?』
「そんな……違うよ、僕は臆病で死ぬなんて怖い。ずっと姉上と生きていたかったんだ」
『じゃあ、そうしてくださいよ。そして私との約束を果たしてください』
「できない! あんな酷いことをした僕が姉上に会えるわけがない! 姉上はずっと苦しんで……!」
『……ノッブはそんなこと承知でずっと信勝さんと一緒にいたと思いますよ? 信勝さんがノッブの気持ちを知らずに勝手に死んだなんて、ノッブは明治維新で再会した時から分かった上でそばにいることを選んだんです』
「……え?」

 信勝は頭が真っ白になった。「そんなバカな」と喉元まで出てくる。

 けれど過去がその言葉を否定する。だって本当に信長はずっとそばにいてくれたのだ。幽霊のように帝都や戦国で再会した時も、邪馬台国で霊基を得た時もなにも言わずにそばにいてくれた。

……「信勝」……

 いつもそんな風に子供の頃と変わらない声で呼んでくれだ。

(そうだ……そもそも夫婦ごっこは姉上が始めたんだった)

 姉はどうしてそんなことをしたのだろう。信勝はなにも分かってない裏切り者で顔も見たくないのではなかったのか。でも、現実は信長はそうしなかったのだ。それどころか一緒の部屋で暮らすことまで初めてしまった。

(どうして?)

 信勝は深く考え込むと黙ってしまった。その様子を見て沖田は立ち上がり、腰に手を当ててビシッとを指差した。

『大体ヘンなんですよ。なぜ死ぬことでノッブを悲しませたのにまた死のうとするんですか? そこは普通、今度こそ生きるとこでは?』
「……あ」

 指摘されるまで気付かなかった。沖田の方が信長の気持ちを理解している。沖田への劣等感と自分への失望で凍りつく。

 しかし沖田は信勝に構わずどんどん話を進めた。

『とにかく、信勝さんは約束を守ってください! 私が言いたいのはそれだです!』
「だ、だから、それはごめんって!」

 沖田は急にシリアスな顔をして、幽霊のように両手を胸の前でぶらぶらと振った。

『どうしても死にたければ約束を守ってから死んでください。さもなくば……祟りますよ?』
「え?」

 信勝の目の前で桜の花びらが光と共に爆発した。
 光の強さに目をつぶっていると何かが頬をチクと刺した。

「いたっ!? な、なんだこれ?」

 信勝の横には小さな刀のキーホルダーが浮かんでいた。十センチもないが精密な作りをしている。桜色の鞘を持っていて、今は抜き身だ。

 その切先が信勝の頬を刺している。恐る恐る頬に指を伸ばすと小さく血の跡が残る。これはおもちゃの刃ではない、小さくても本物の刀だ。

「た、祟るってこういう……い、いたっ! 痛い、本当に痛いって!!」

 信勝が喚くと刀のキーホルダー(沖田?)は何度も位置を変えて信勝の頬をチクチクと刺す。たまらず信勝が背を向けると背中を刺された。

……『信勝さんの気持ちなんて知りません! いいから約束守ってください! 男と男の約束ですよ!』……

「だからお前は女……」

……『シャラップ!』……

「わ、分かったからやめてくれ〜!!」

 桜の刀のキーホルダーに刺されながら信勝は海の底から動き始めた。








 桜の刀のキーホルダーは『ヤクソクマモレ』『タタッテヤル』とだけ言うようになり、信勝が足を止めると背中や足をチクチクと刺してきた。

「だから痛いって、分かったから……いや、約束は守れないから仕方ないのか……いてっ。痛い、やっぱり痛いって!」

 姉に再会する資格があるとは思えなかった。だから約束を破った沖田にチクチクと祟られるくらい仕方がないのかもしれない。そう思うとこの程度ですんでいるのは幸運だろうか。

 それにチクチク刺されることより気になることがある。

(この女の言うことは正しい。死ぬことで姉上を苦しめたのにまたすぐ自分が死ぬことをなんとも思わなかった。どうして?)

 聖杯を殺す。それが唯一できる信勝の贖罪のはずだった。しかし沖田の言葉で分からなくなる。

(また姉上を悲しませるかもしれない。どうしてそんな簡単なことにも気付かなかったんだ。姉上のため、そう思えば何をしてもいいと僕は思っていなかったか?)

 誰かのため。その言葉は甘い毒がある。その人のためと言いながらだんだん自分の願いこそがその人の願いだと思いこむ。

(それに姉上は僕が犯した罪をずっと知ってたはずだ。なのにどうして一緒にいてくれたんだ?)

 何か理由があったのだろうか?
 死後、突然現れて「実は姉上のために死にました」なんて最低な言葉を投げつけた弟の顔など見たくなかったのではないのか。

「分からない……姉上の気持ちも、僕自身の気持ちも」

 海の底を一人歩きながら、信勝は少しずつ考え始めた。……本人に自覚はないがそれは「僕は馬鹿だから無駄」と信勝が捨ててきた「考えること」だった。

「ならどうすれば……あいたっ!?」

 情けないことに考え込んでいた信勝は何もない砂の上で思い切り転んでしまった。涙目で上半身だけ起き上がると目の前をふっと小さなものが横切った。

 それはポケットに入れたポイントカードだった。信長と信勝が一緒に毎週ソフトクリームを食べた証だ。あと一つスタンプが貯まれば景品がもらえるところで止まっている。

 ポケットからこぼれた赤いポイントカードは海流に乗ったのか、スイスイと泳ぐように信勝からどんどん遠ざかっていく。

「ま、待てよ! お前は姉上の……!」

 信勝は即座に立ち上がり、走り出した。あれはただの紙切れに過ぎない。それでも信長と毎週ソフトクリームを食べにいったことは大切な記憶だ。バニラが好き、いやミックスが味わいがある、と毎週言い合っていたことを不意に思い出す。

 信勝は走るのが遅い。だが必死で走ってなんとかポイントカードとの距離をつめる。だがまだ距離がある。海流に揺れるポイントカードを見て不意に思った。

(あれ、そういえば僕はどうして姉上と毎週ソフトクリームを食べていたんだっけ?)

 信勝はさらに足を早めた。あと三十センチメートル。前に手を伸ばす。あと十センチメートル。

(そうだ、確か姉上が「してほしいこと」を僕に聞いてくれたんだ。なんでそんなことをしたんだろう?)

 信勝はいったん足を止めて思い切り前へジャンプした。ポイントカードに指先が触れる。

「やった……え?」

……「認めよう、お前を甘く見ていた。いや、似ているからとお前に願いを言わせることに執着し過ぎた」……

 現れたのは聖杯の少年だった。

 衝撃でポイントカードは信勝の手を離れ、遠くへ流れていく。そちらへ行こうともがくが聖杯の少年は力場を作って信勝を目の前に拘束した。

「は、なせっ!」

……「今度こそ油断しない。お前はもういい。願いはお前の姉に言わせる……お前の心は壊れている。与えた力ごと自分自身に殺されろ」……

「やめろ、姉上にこれ以上何を……はなせ!!」

 聖杯の少年は慎重に信勝と距離をとって、力場を使って首を絞め、宙に固定した。本心を認めねばならない。信勝が自分に似ていたことで理性を失っていた。同じ戦乱の世で心を痛め、狂っていた武家の少年。そんな存在に出会えると思っておらず、絶対に願いを言わせようと心をバラバラにしたり、逆に力を与えたり、本末転倒なことをしていた。

……「僕は聖杯。願いを叶えるもの。そして人間は醜い。願いを叶えることで自滅する。……お前の姉の願いを叶えて力を取り戻す。そしてお前の帰りたがっているカルデアとやらも壊す」……

「やめろ! やめろ、やめろ、やめろ!!」

 信勝は抵抗した。けれど聖杯の少年は信勝にもう油断はない。力を使われる前に宙に暗い穴をあけてすぐに信勝を放り込んだ。ぽいとゴミを捨てるように。

……「ああ、こういうのも願いを叶えてやったっていうのかな? 死にたいから死なせてやったんだ、礼の一つでも言えば?」……

 信勝は言葉一つ吐くこともできず、奈落の闇に落ちていった。








【信勝、煉獄山を登る〜罪に罰を求める〜】



 落ちていく。落ちていく。ここが伝説の奈落なら果てなどないのだろうか?

(姉上を狙うって言ってた。僕があいつを殺し損ねたばっかりに!)

 じたばたと手足を動かすと独特の手応えを感じる。ここは水中のままだ。だからか身体が冷たくなってきた。

 信勝は必死に何かつかまるものがないか探した。だが闇の中で何も見えず、どんなに両手を動かしても水をかく感触があるだけだ。ただ落下していることだけが分かる。

(どこまで落ちていくんだろう? まさか底がないのか……くそ、底があるならついてくれ! 姉上を聖杯から助けないと!)

 強く願った瞬間、パキンとガラスが割れるような音がした。

 突然落下が止まる。信勝は自分の右肘辺りに冷たいものが触れていると気づいた。それに触れると冷たくて硬い。切れたらしく指先に僅かに血が滲む。

「これ、氷だ」

 信勝が近づいて確かめると確かにそれは氷だった。肘がぶつかってひび割れている。もう一度触れるとバリン! と大きく割れた。

 すると暗闇を光が切り裂いた。眩しい。咄嗟に目を閉じる。
 そしてもう一度目を開けると闇とは全く違う光景が広がっていた。

「これは……西洋の城?」

 そこは氷の城だった。信勝の知っている日本式のものではなく、円柱の柱とアーチ状の天井が見える。全て透明な氷でできていて手袋越しに触れても固く冷たかった。

『やっと起きたか』

 聞き覚えのある声に呼ばれる。床に座り込んでいた信勝が顔を上げるとそこは繊細な氷の彫刻で飾られた広間だった。確か拝謁の間というはずだ。

「……また、もう一人の僕か」

 玉座に座っていたのはもう一人の自分だった。信勝は隠さずため息をついた。自分の心の中なのだから当然といっても慣れるものではない。

『またとはご挨拶だな。まあ心の核のお前からすれば他の僕は偽物なんだろうが』

 今度のもう一人の信勝はカルデアの自分と服装も年齢も同じで赤い軍服と黒いマントも着ていた。

 違う点は頭に氷でできた西洋風の王冠を被っていて、手には先端に青い光を放つ杖を持っていることだ。そして氷の玉座に座っている。座るというか肘掛けに背中と膝の裏を預けた半分寝ているようなだらけた姿勢だ。

(聖杯は僕自身に殺されろって言ってた。ならこいつは僕を殺しに来たのか?)

 しかし殺意は感じられない。信勝の姿をじっと見るともう一人の自分は玉座から起き上がり、だるそうに杖を支えに立った。するとまた違う部分が見つかった。もう一人の自分は赤い瞳ではなく氷のようなアイスブルーの瞳だった。

「別に偽物なんて思ってない。お前も僕なんだろう。……聖杯は言っていた。僕を僕自身に殺させるって。つまりお前が僕を殺しに来たのか?」

『いいや、お前を殺す気はない。そんなことをしたら姉上をまた悲しませてしまう』

「え? ……じゃあ、僕をここから出してくれ。姉上を助けに行かないと」

『聖杯が姉上を狙うと言ったことは知っている。あいつの影響で生み出されたが……僕は聖杯の支配下にない。あくまで僕はお前、姉上が何よりも大切な織田信勝だ。だから姉上を助けにいく。でも……』

 もう一人の自分はダン! と氷の杖を床に叩きつける。不思議とその姿には威厳があった。

『このままではお前は姉上に会えない』
「やはり僕が死ぬべきだと思っているのか? 罪を償うために……でもきっと姉上は望まない」
『いいや、違う。……あの沖田という女のいうとおり、死んだことで苦しめたのにまた死ぬことはリスクが高すぎる。だがこのままではここから出られない』
「どういう意味……うわ!?」

 信勝は咄嗟に右に避けた。もう一人の自分は杖を振り上げて宙に人の身長ほどの大鎌の刃を生み出し、首を切ろうと振るってきた。首は避けたものの左腕が間に合わない。ちょうど左の肘のあたりに大鎌の刃が突き刺さる。

「や、やめ……ってあれ?」
『ちっ……やっぱり、無理か』

 大鎌の刃は信勝の左腕に直撃する直前で自ら砕け散った。破片に手を伸ばすと冷たい。これも氷だった。

 もう一人の自分はため息をついた。

『分かってるんだ。お前がこの世界の真の主人。影に過ぎない僕には傷一つつけられない……うまく乗っ取れないかとは思ったけど』
「驚かせるな。本当に聖杯の手先じゃないなら、邪魔しないでくれ」
『意外と冷静じゃないか。僕のくせに……時間、時間ね。僕には今更だ。この氷の中に閉じ込められて随分経つ』
「今はお前の時間のことじゃなくて姉上を」
『聞け。僕の視点ではお前はそこの床でずっと眠っていた。何をしても起きやしない。一体どれだけ時間が経ったと思う? ……十年だ。僕の視点では十年、お前はただ眠っているだけだった』
「十年……?」

 信勝が事態を飲み込めないでいるともう一人の自分はイライラと説明を続けた。

『僕は十年間で少し魔術を会得した。だから分かる。ここの時間は止まっている。夢の中と同じだ。その中ではどんなに時間が過ぎても目覚めれば瞬きの間にすぎない。……姉上は大丈夫だ。お前がここを出るまで時間は一秒も経過しない』
「十年、夢の中とはいえそんなに眠っていたのか……なら、今度こそ外に出ないと」
『出られない。僕たちは自分自身を許せない限りこの氷の中から永遠に出られない。聖杯はそういう風に僕たちを封じた』
「僕が、僕を許せないと出られない?」

 そんなこと不可能だ。同じことを誰かが信長にしたら信勝は一生許さない。ならば自分を許すことだってできやしない。

『その気持ちを利用されたカラクリだ。聖杯はそういう術の中に僕たちを閉じ込めた。僕の心というものを具現化するために力を与えすぎたんだな。逆に与えた力を利用したらしい』
「そんな……じゃあ出られないってことじゃないか。姉上が危ないのに、姉上どうすれば……」

 信勝がそういうともう一人の自分は杖を振り上げて信勝の頭を殴った。痛みで視界が白くなっていると今度は左腕を殴られた。

『いちいち、いちいち、姉上姉上と頼るな、うっとうしい。僕は、お前はいつもそれだ。今更、僕たちにそんな資格ないと知ったくせに』
「……そう、だな」

 また杖が頭に振り上げられたが信勝は避けない。当然の仕打ちだ。けれどその様子にもう一人の自分は動きを止めた。

『分かっているならいい。本題に戻る……ずっと僕は気が狂いそうだった。気がついたら僕はこの氷の城にいた。そしてすぐ自分がお前の影にすぎないと知った。すぐに姉上を助けに行きたかったがなにをしても出られない。あらゆる手段を使ったがお前はここで眠ったまま。僕だけでも出ようとしたがどうしても無理だった。
 せめて十年の間に少し魔術を取得して、外の様子を探ったけど【姉上が聖杯の術にかけられる寸前の時間で僕らの時間は止まってる】以外の情報を得ることはできなかった』
「そんな……姉上は危ないってことじゃないか」
『そうだ。そんな状態で十年待たされた。我ながら本当に殺してやりたい』

 殺意のこもったアイスブルーの目で睨まれる。信勝はあくまで冷静だった。

「でも、自分を許すって……僕にそんなことはできない。姉上を苦しめた奴を僕が許せるはずがない」
『僕も同意見だ。だが十年分の結論を言おう。心の核のお前が本当に自分を許せない限り、ここからは出られない。逆に言えば聖杯はそれだけはお前にはできないと確信してこの中に閉じ込めたんだ。与えた力が大きすぎたんだな、あいつもバカだ』
「自分を許すってどうすれば……もう許したって念じるとか?」

 氷の瞳をもつ信勝は内心ため息をついた。全ての鍵を握る核の自分が目覚めればもっと状況が動くと思ったが本当に起きただけのようだ。

『自分に嘘をついて上っ面だけ思っても無駄だ。自分の犯してきた罪を全て自覚した上で自分を心から許せばいい。姉上のそばでまた笑ってもいいと思えるくらいに。偽りなく心からだぞ?』
「そんなのできるわけない……催眠術とか?」
『ダメだ。偽りなく心から、意識だけでなく無意識の底から許せ。じゃないと術が解けない』
「そんなの……無理だ」

 許すなんて考えるだけで罪深いことだ。もう一人の自分は暗く笑った。

『絶望的な状況だが十年間考えた策がある。僕は元々お前の罪に罰を与えるためのもう一人の織田信勝だ』
「罰?」
『そうだ、罰を与えることで罪を償う。それほどの罰を与える。ははっ……やっぱりお前、笑うんだな』
「え?」

 目の前の氷の鏡を造られる。確かに信勝は安堵したように微笑んでいた。罰を与えられることを喜んでいた。

『分かるぞ。お前は罰を求めている。例え誰にも自分にも許されなくても罰が必要なんだ。僕はお前だから分かる。火で炙られたいよな。磔刑になりたいよな。腹を割いて生きたまま臓物を引き摺り出されたいよな。そうだ、両目に針を何本も刺して何年も山を登りたいか?』

 常人なら泣き叫ぶようなことを言われる。それでも信勝はその言葉に救いを感じた。自分を罰したい。いくら痛みを与えられても許されるとは思わないがそれでも罰を受けないでいいとは思わない。

 確かに信勝は罰を望んでいた。

「……でも、僕は姉上じゃない」

 信勝は歪な笑みを消して、じっともう一人の自分の氷の瞳を見返した。

「確かに僕は罰を求めてる。償えなくても苦しい罰を与えられたい。でもそれはどんなに苦しくても辛くても……結局、僕の願望に過ぎない。姉上の望みとはきっと違う。きっと罪を償うことにならない」
『……そんなことは分かっている』

 もう一人の自分は初めて驚いたように信勝を見て、顔を逸らした。

『罰はここから出るためだ。僕はお前が本当に自分を許せる罰を考えた。その罰を受ければお前は自分を許せてここから出られる』
「僕が罪を許せるほどの罰? そんなものどんなに苦しくてもあるとは思えない……聖杯はよく考えたな、僕は自分を許せない。一万回八つ裂きになって、十万回生きたまま焼かれても僕には無理だ」
『それは僕も知ってる。その僕が「これなら自分を許せる状態になる」と十年考えた。罰を受けろ、他に姉上を助けに行く方法がない』
「許せる……状態になる? 気になる言い方をするな」
『結果として少し精神が欠けるが……それくらいいいだろう?」
「別に構わないけど……いやでも、そんな僕を見たら姉上は悲しまないか?」
『心配するな。まあ姉上のことだから仕方ないが……その状態になっても「姉上が望んでくれた僕」は無事に返せる。ここから出たいんだろう、罰を受けろ』
「……」

 問答で信勝は矛盾に気付いてしまった。信勝自身は罰を望んでいる。けれど信長が自分を愛してくれたなら罰を受けることで悲しませるかもしれない。

 何よりも大切な姉を悲しませることを望んでいる。最初から矛盾しているのだ。

『姉上が心配か?』
「……自分で自分の気持ちが分からない。罰が欲しい。でもそのことで姉上は悲しむかもしれない。ずっと堂々巡りをしている気がする」

 もう一人の自分はじっと信勝を見ると突然首に腕を回して軽く抱きしめた。温かい。氷の城に来て、初めて温かさを思い出した。

「なんだよ、お前意外とあったかいな……お前は氷じゃないのか」
『分かる。僕もずっとそう思っていた。どうしたら罪を償えるのか、どうしたらもう姉上を悲しませないで済むのか。その僕自身がこの方法なら「姉上を悲しませず、僕が自分を許せる」と十年間かけて考え抜いた方法だ』
「……」
『信じてくれ。これなら僕は僕を許せる。姉上もきっと悲しまないで済むはずだ……罰を受けてくれ』
「……わかった」

 そう言うともう一人の自分は抱擁を解き、一歩離れた。くるっと氷の杖を回転させて、床でとんと鳴らした。

 すると信勝の上でチリンと音がした。宙が大きく光るとキラキラしたものが手のひらに落ちてくる。それは手の平より大きい金色の鍵だった。淡い光を放っていて見た目よりずしりと重い。

 鍵には丸い穴があいており青いリボンがついていた。ちょうど首から下げて持ち運ぶにちょうどいい長さでループしてる。

『それでこの煉獄山を登れ、そうすれば受けるべき罰が分かる』
「受けるべき罰? いや、煉獄山ってここは城じゃないか」

 無視された。

『そう、姉上におかした罪を全て直視してもらう。自分の罪を見る、それが最初のお前の罰だ』
「罪を見るって……そんなことで?」
『僕にとっては何よりの拷問だ。自分のことだから分かる。その先で待ってる』

 煉獄。それは座の知識にある。西洋の地獄における罪人が罰を受ける場所だ。

「……本当に時間は止まっているのか?」
『ここは夢と同じ。どんなに長く感じても時間は瞬き一つと変わらない』

 鍵を握りしめてまた考える。自分のことは自分が一番知っている。おそらくそれが間違っている。だからここから出られない。姉の元へ戻れない。このもう一人の自分だって結局自分が生み出したのだ。

『自分の罪と罰を考え抜け。考える、僕が一番放棄してきたことだ。姉上のことも、僕自身のことも……自分を否定するあまりに考えていなかった』
「……考える」

 これが正しいかわからない。けれど自分が罰を望んでいることも事実だ。

「わかった、僕は……」
『わかったら、さっさと行け』
「え?」

 もう一人の自分は氷の杖を思い切り床に叩きつけた。すると信勝の足元の床に大きなヒビが入り、謁見の間の床が全て砕け散った。

 砕けた氷の塊と一緒に信勝は落下していく。

「ちょっとお前、乱暴すぎるだろ!! これじゃお前も落ちて……ああー!!」

 落下していく信勝の視線の向こうででもう一人の自分は宙に浮いていた。

「それはなんかずるくないかーー!?!?」

 そう叫びながら、信勝は一階の高さどころではない深さを落ちていった。まるで底などないような深い深い場所へ。もう一人の自分は氷の瞳を光らせて静かに呟いた。

『全部知れば理解できるさ、どうすれば罰になるか。そして切除するべき僕がどれかだって分かる』









【恥ずかしい自意識、見たくない自分】



「うわああああああああああぁぁぁぁぁ……!!」

 どこまで落ちていくのだろう。信勝はかなり長い間落下を続けていた。城の高さどころか、百階建のビルを落ちていくほどの時間が経過した気がする。

「一体どこまで……って……あれ?」

 信勝は床の上に落ちた。墜落はもっと痛いかと思ったが尻餅をついた程度だ。ようやく底に辿り着いたのかと周囲を見ると仰天した。

「ここは……外?」

 そこはバルコニーだった。立派な部屋があってそれに相応しい大きなバルコニーがついている。

 どうやら城の一番上の部屋に大きなバルコニーがあり、信勝はその真ん中に落ちたようだった。下に落ちたのにと周囲を伺ったがさっき砕けた氷の床も一緒にバルコニーに散らばっていたので落ちたことにはかわりないようだ。

「まあ、心の中、というか夢の中なら下に落ちて上に行くのもあるんだろうけど」

 バルコニーからは海が見えた。それはおそらくさっき信勝が青い鳥と船旅をしていた海なのだろう。空に龍の巣があったし、ナイアガラの滝のようなものも見えた。

 見渡すとこの場所のこともわかった。ここは海に浮いた巨大な氷山だ。その上に氷の城が建っている。城は氷山とともに海を流れているようだ。

「さっきと同じ場所なのか、ということは僕はさっきまであの海の底にいたのかな?」

 いや、十年経っているんだっけ。いや、時間は止まっているからさっきであっているのか。分からない。夢の中と言っていた。時間も空間も深く考えても答えはなさそうだ。

(夢の中……正直、リアリティがあって僕にはなかなかそう思えないけど)

 手摺りによってじっと灰色の海を見る。当然青い鳥はいなかった。

「青い鳥の僕、僕のくせに優しかったな……あいつだけ姉上の元に帰れればよかったのに」

 風が強くなりバルコニーが少し軋んだ。かなり雪が降っていてもはや吹雪だ。身体が小刻みに震え始めた。

「さ……さぶっ!」

 マント以外上着らしい上着もない。寒さに耐えられずバルコニーの両開き窓を開いて部屋の中に入る。氷でできた部屋だが風雪がないだけ大分マシだ。

 夢の中なのに寒かったり痛かったり、なんでそんなところだけ現実的なのだろう。しかも少し空腹まで感じている。

「ふう……って、いたっ!? お、お前、こんなところまでついてきたのか?」

 信勝がソファに座り込んで(氷で冷たいのになぜか気にならない)ホッとしているとちくっと頬を刺された。

 振り返るとそこには桜の刀のキーホルダーが浮いていた。沖田(?)だ。まさかずっとついてきていたのか?

「すごいな、お前。ここって僕の意識の深い場所のはずなのによく入れたなぁ」

……「ヤクソク、ハタシテクダサイ」……

 もはや沖田の声というより古いゲームのようなデジタルな声だった。

「分かってるって。姉上を助けなきゃいけないんだ。ただ……僕が僕を許すなんてどんな罰を受ければいいんだろう」

 信勝はキーホルダーに手を伸ばしてその柄を握ってみた。怒って刺されるかと思っていたが手の平の中で大人しくしている。まるで本当にキーホルダーのようだ。

……「タタリマスヨ」……

 手から飛んでいく。もしかして祟りだから心の奥まで入れたのだろうか。祟りって怖い。

「祟られないようにやってみるさ。まずはここから出よう」

 大きな両開きの扉には鍵がかかっていた。首から下げている金の鍵を錠前にさすとあっさりと開く。そうして信勝は氷の城を駆けていった。その背中に桜の刀のキーホルダーがピタリとくっついて宙を飛んでいった。








 信勝は城の上から下まで探索した。そして絶叫した。

「なんだこの破廉恥な城はーーー!?」

 氷の城は六階建てで全てのフロアに中央の大階段から移動できた。六階には信勝が落ちたバルコニーの大部屋しかなく、他の階にはもう少し小さい部屋が四つあった。部屋には全て鍵がかかっていたが金の鍵で全て突破できた。

 そして城には大量の信長の全裸像があった。六階以外の全ての部屋に等身大の信長の氷の像が合計で二十体もある。

「姉上、服を着てください! ……ってどこにも服ないし!」

 クローゼットには何も入っていない。せめて一つの姉の全裸像に自分のマントをかけるがツルツルしているせいかすぐにずり落ちた。

 信長の像は半分は昔の和服や今の軍服にマントを着ているが、あと全裸だ。しかもポーズが多様でただ立っているだけのものもあれば足を開いて座っている挑発的なポーズのものあった。一階の姉の像が一番際どく、おそらく信勝の思春期の妄想がそのまま反映されている。

「もう一人の僕でてこい! なんだこの破廉恥な像は……って、うわ!?」

……『うるさいな、何の用だ』……

 いつの間にか信勝の胸ポケットに入っていた氷の板が振動した。手に取るとマスターがよく使っていた携帯端末にそっくりだった(よくそれに向かって「もう石がない」と言っていた)。仕方なく信勝は通話ボタン(らしき場所)を押して板を耳に当てた。

「もしもし。青い鳥といい、お前といい、なんで魔法が使えるのにこんな夢のない方法を使うんだよ?」

……『はい、もしもし。魔法じゃない魔術だ。そして僕もその青い鳥とやらもお前自身。つまり夢がないのはお前だ、反省しろ』……

「ふざけるな、僕は夢くらいある! ……じゃなくて、なんなんだこの破廉恥な城は! 姉上の、は、裸の像がたくさん置いてあるじゃないか! 即時撤去しろ!」

……『不可能だ。この城の中身はお前の頭の中だから僕にだって変えられない。脳内をそのまま形にしているだけだからな』……

「……う、嘘だ」

 心あたりはあったが口だけ否定した。

……『声が小さい。具体的にいうとそれはお前の恋愛脳の具現化だ』……

「れ、恋愛脳の具現化……!?」

……『姉上の像が裸なのはお前の性欲のせいだ』……

 一番聞きたくない言葉だった。

……『思春期の頭は救いようがない。お前の捻れた性欲が消えない限り、姉上の像から服は消え続ける。実は最初の頃は服を着ていない像は一つだけだった。全裸像が増えているのはお前のせいだ』……

「僕の捻れた性欲……!?」

 聞きたくないワードの連発だった。

……『それはお前が封じてきたものだ。この城、というかこの氷山自体、お前の精神の奥の領域なんだ。そして僕たちの精神の中にはどこでも姉上がいる。その表出の一つがこれだな。……まあ、確かに死刑レベルの破廉恥さだが恋に関してはギリギリ許容範囲だ』……

「どこが!?!?」

……『理性で抑えられているからだ。城の中以外に姉上の像はない、つまり理性としての城の中に欲望を封じている。だから内心の範疇だ。だが完全に消せなかった、その二十体の像はお前の捨てられない恋と性欲だ』……

「恋っていうか完全に性欲じゃないか! ……これが罰なのか? 僕の頭がどれだけ破廉恥なのか見せつけたいのか? どうしようもないクズだって思い知らせたいのか? いや、流石にこれは罰のためにかなり誇張してないか? 僕こんなじゃないと思う!」

……『別にそれは罰じゃない。この城と氷山はお前の精神の具現化。僕は何もしていない、最初からこの城は姉上だらけで割とすけべだった。自分で言うのもなんだがお前ってとんだマセガキだよな』……

 罰の方がマシだ。その返答自体が罰のようなものだった。

「嘘だ、僕はすけべじゃない! ま、マセガキなんて……子供の頃の僕は純粋だった! いや僕の気持ちはずっと純粋だ! やっぱり罰のためにあえて僕を駄目に見せてるんだろう!?」

……『純粋なわけあるか。自分の胸に手を当ててみろ。そう、ついこの間、カルデアに正式に所属して一ヶ月後のことだ。お前は姉上の茶碗をレロレロと舐めてこっそり拝借して自分のタンスにしまった後も何度も……こうやって口に出すと本当に最低だな。死んで詫びろ』……

「うわああああああああ! いっそ殺せ! もう死んでやるうううううう!」

 あまりに信勝が大声で喚くのでもう一人の自分は少し慌てた声を出した。

……『おい、本当に死ぬな。姉上が悲しむ』……

「うっ、ううっ……死にたい。姉上、こんな弟で生まれてきてごめんなさい。違う、違うんです、すけべなのはこいつで僕じゃないんです!」

……『ひどい冤罪だ、本当に僕って最低なんだな。ちょっと落ち込んできたぞ……そこまで思うなら二階の奥の部屋の本棚は見るなよ。別にそこにお前が十四歳の時に姉上の下着について長々書いた文書は存在しないが、とにかくそこは探すな。おい?』……

 信勝は即座に二階の本棚を探し出し、その本を見つけ出した。馬鹿ですけべでとにかくどうしようもない思春期男子の駄目な妄想だった。魔術の向こうで本が破壊される音を聞いてもう一人の信勝は頭痛がした。

「死にたい……死にたい」

……『ちなみにお前はこの世界では死ねないぞ。氷山から海に飛び降りても無駄だ。死ぬほどのダメージは死ぬほど痛いだけで最終的にさっきの玉座の前に戻って来るだけだ』……

「完全に茶室にあったゲームじゃないか! やっぱりこれが罰なんだろ! だってすごく辛い! 死んだ方がマシなほど辛い! 姉上、ごめんなさいごめんなさい!」

……『あーもう、泣くな。うざい。じゃあ、それも罰ってことでいいよ。いいからさっさと次に行って』……

「扱い雑だし! ……ぼ、僕は確かに姉上にずっと恋してたけどそれはもっと清らかで尊いものだったというか、とにかくこんな破廉恥じゃない! 取り消せ!」

……『自分に夢を見るな。それが現実なんだ、受け入れろ。それじゃ城の探索を続けるように。お前の罰はまだまだこれからだぞ。じゃあな』……

「おい、待て! ふざけるな、切るな……おい!?」

 一方的にブツっと通話が切れる。信勝はマスターの見様見真似でボタンを押して通話を試みるが応答はなかった。











 何が封じた恋と性欲だ。ふざけるな。自分の頭の中はこんなでは……あった時期もあったが何もここまで直視させなくてもいいではないか。

「あー! 違う! 僕はこんなじゃない! いや、十四くらいの頃はそうなんだけどぉ……ううっ」

 床にうずくまって涙目になる。さっきの本の内容を脳内から消し去ってしまいたい。

「死にたい、死にたい……これが罰なのか……確かに本当に辛いな。いや、その方がいいんだけど、こういう辛さだとは……」

 信勝の心の防衛本能はさっき見たものは与えられた罰だと決めつけていた(都合の悪いもう一人の自分の言葉は忘れていた)。

 火炙りや八つ裂きとは違う苦痛だ。誰しも自分のマイナス面は見たくない。しかも性欲が絡むなら尚更だ。自分に引くし、更に嫌になるし、失望する。心の世界って最悪だ。

(僕の醜さでもここまで焦点拡大しなくてもいいじゃないか……ダメな部分だけ拡大印刷されて壁に貼られた気分だ)

 疲れ果てた。せめて姉の氷像を見ないために階段を登って最初に落ちたバルコニーの部屋に戻る。ソファを見つけて倒れるように座り込む。氷のソファだが不思議と硬さと冷たさは気にならなかった。

「というか、この城、姉上の像以外なにもないじゃないか……僕の頭がすけべな大馬鹿野郎だってことくらいしか分からない。次にいくもどこにもいけないじゃないか」

 信勝も叫んでいただけではない。すでに城の一階から一番上の六階の隅々まで探索を終えていた。一階には玄関があり、外にも出れた。しかしそこには氷山の向こうの雪降る海と城の周りに草花と樹木を模した氷があるだけだった。一応、崖の前には腰ほどの高さの氷の柵があった。

 見つけたのは主に信長の氷像だ。あとは大きな姉の肖像画が壁に飾ってある。なるほど、この城が自分の頭の中なら中身は姉ばかりだろう。

「封じているなら恋や性欲が城の中にあるのは納得だけど……ううっ、これからも似たような感じなのか」

 ただ、もう一人の自分は恋について否定的ではなかった。心底情けないが理性の範囲だと言っていた。

(この氷は僕の封じていた無意識って言ってたっけ。つまり僕は恋と欲をずっと凍らせて封じていた。うん、それは正しい。だって僕たちは姉弟だったし、姉上と僕じゃ生きてる世界が違すぎて遠すぎる……だから弁えてた。馬鹿なりに制御できてたってことかな)

 しかし、ならなにがこの先の罰なのか。姉が大好きで恋までしていたということしか城の痕跡にはない。

 信勝がソファに座り直し項垂れていると温かい香りが鼻をくすぐった。

「……なんだこれ?」

 さっきまでなかったものがある。目の前のテーブルに湯気の立つ紅茶のカップがあった。青いカップでレモンがソーサーに添えてあり、砂糖壺まである。さらに隣にはスコーンに苺ジャムが添えた青地の皿があった。

「……?」

 信勝は目を細めた。見覚えがあるような……ないような。

 夢の中なのに空腹は感じる。しかし怪しいものは口にしてはいけないと小さい頃から姉にも母にも言われてきた。

 無視して立ち上がる。するとさっきの氷の携帯端末が振動した。手に取ると今度はテキストメッセージが表示される。

……『ちゃんと飲め』……

「な、なんだよ、さっきは通話に出なかったくせに……えっと……『お前が用意したのか? なぜこんな真似をする?』」

 見様見真似で返信するとすぐにレスがついた。

……『いいから飲め。食べないと力が出ない。考えるための力をつけろ』……

「なんだっていうんだ……『ここは夢の中で食べ物なんていらないだろ? 毒じゃないのか?』」

……『毒じゃない。食べろ』……

 そこで返信が途絶えた。何度メッセージを送っても返事は来ない。なんだというのだ。食べるものか。

 周囲を見まわした。ここは広い部屋だ。天蓋付きの大きなベッドに豪華なテーブルと椅子、そして壁中に本棚があった(無論、全て氷だったが)。もしこの城の王様の部屋だと言われたら納得しただろう。

「あいつも罰を受けろっていうならさっさとすればいいのに。何もったいつけてるんだか……それとも本当は僕が逃げてるのか?」

 もう一人の自分は言っていた。この世界の本当の主人は心の核の信勝だけだと。

 ならばこれが自分の本心なのだろうか。もう一人の自分は罰を与えると言っていた。それは痛みなどではなく、さっきのような自分の醜い部分を見せつけるものなのかもしれない。

 信勝は火炙りや磔刑のような自分の物理的な苦痛に関する罰は望んでいる。しかし己のマイナス面を見せつけられるとさっきのように泣き叫んでしまう。さっき自分の性欲に向き合わされただけでギャーギャー喚いた。その心の弱さならありうる。

 コツコツと靴音を立てながら部屋を歩き回る。

「でも無意識に避けてるなら、僕はどうすれば……精神ってどうすればいいんだ? 心って触れないし、無意識ってどうやって変えればいいんだ?」

……「ナニカアリマスヨ?」……

 桜の刀のキーホルダーの声に振り返ると扉の二メートルほど横の宙を差し示された。そこにいつの間にか首のリボンから消えていた金の鍵が浮いている。慌てて駆け寄るとがんと何かにぶつかって弾かれてしまう。

「いてて……これは氷の鏡?」

 限りなく透明に近い二メートルほどの氷の鏡だった。大きな楕円の周囲に唐草の飾りがしてある。その鏡の中に金の鍵は閉じ込められていた。

……『お前に罰を与える』……

 信勝が椅子で氷の鏡を壊そうとするとそこにもう一人の自分が映った。自分が映っていると本当に鏡のようだ。

「お前の仕業だったのか? 回りくどい真似はやめてくれ、ちゃんと罰は受ける。ただどこに次の罰があるのか分からないんだ」

……『別にさっきのは罰じゃ……まあいいか。次の罰を告げる。お前はこの部屋で結論が出るまで考えろ。それが最初の罰だ』……

「考えることが罰? 一体何を考えるんだ?」

……『もちろん姉上のことだ。姉上の気持ちをもう一度考える、それがお前の罰だ。この部屋、というか城はお前の精神の意識にあたる。そしてその一番上の部屋はお前の知識や記憶を担当する。そこには全ての記憶という資料がある。材料は全て揃っているから考えろ』……

「姉上の気持ちを考える?」

 桜の刀の方を信勝は一度、ちらっと振り返った。

「いやでも、姉上の気持ちは姉上にしか分からないから、僕は直接尋ねない限り本当のことは分からない。他人の推察なんて妄想なんだ。だから考えるのは無駄……ぎゃあああああ!!?」

 足元からつららが生えて信勝のふくらはぎを刺した。

……『いいから考えろ。間違ってもいい。むしろ間違えることは当然だ。だがお前はあまりに「考えること」をしてこなかった。そのくせ姉上の理解者面していたんだ。一度でも理解者と名乗ったなら考えろ。姉上が……どう思っていたか』……

 そこで鏡からもう一人の自分の映像は消えた。鍵も氷の中に封じられたままだ。

「僕なんかが……姉上の気持ちを考えたって意味ないだろ」

 それでも思えば「僕は馬鹿だから」を考えることを放棄していなかったか。
 転んだ信勝は刺さった部分に涙を浮かべて少しさする。少しだけ血が出ていた。

(姉上、どうしているだろう)

 信長は誰よりも強い。それでも聖杯の力を考えると心配だった。誰よりも強くても弟はいつも姉が心配だった。

 信長のことを思う。信勝の世界の全て。それなのに彼女のことを理解者だと、知っていると決めつけて考えることをしてこなかった。だから、こうなったのだろうか。

 時間のことが気になった。早く姉を助けに行かないと。でももう一人の自分はここの時間はどれだけ経っても夢と同じ、と言っていた。それはきっと本当だ。

「それなら……気になることがある」

 時間を気にしなくていいならじっくり考えたいことがあった。










【本当に姉のことを考えたことがあったろうか?】




 案の定、部屋のドアには鍵がかかっており、金の鍵なしではビクともしなかった。

 信勝はテーブルの上の紅茶にレモンと大量の砂糖を入れ激甘レモンティーにして半分飲み干した。次に皿のスコーンに思いっきりいちごジャムをつけて一気に一つ食べる。そして残りのレモンティーで飲み下した。

「うーん?」

 何か思い出しかけたがすぐ忘れてしまう。

「よし」

 不思議と背筋が伸びる。夢の中なら食べ物など意味はないと思ったが元気が出た。身体が軽くなり足早になる。

 なにしろ理解していると思い込んでいた姉のことを頭を空にして一から考えるのだ。元気がないと始まらない。

「うわ……姉上のことばっかり」

 まず壁の本を開いてみると信勝の記憶が詳細に文字で記録してあった。物心ついた頃からカルデアまでの記憶だ。まるで知らない自分がせっせと書いた日記のようだった。ほとんど姉のことで、信勝の頭の中そのものだった。

「……うう」

 最後の数冊は写真集だった。信勝にとって印象的な映像が記録されているらしい。当然、どのページも姉の姿ばかりで自分で自分に引いた。

 ふと怖くなり最後の方からめくってみるとばっちり夫婦ごっこの時の無防備な姉の写真がたくさん載っていた。そして恐れの通り初夜の姉の姿もあり、というか様々な角度からかなりの枚数があり、その辺のページは完全にヌード写真集だった。

 最終的に耐えきれず信勝は本を投げた。

「なんてダメなやつなんだ僕はー! ……あいたっ!?」

 桜の刀のキーホルダーに柄で背中をつつかれる。バツが悪い。沖田は「相手の気持ちは推察しないで直接尋ねろ」と言ったのだから相手の気持ちを考えることには反対だろう。

「ご、ごめん、お前は考えないで直接聞けって言ってたのに反対のことしちゃって。あいつも僕だから、尚更ごめん」

……「サッサトシテクダサイ」……

「え? 怒ってないのか?」

……「ココカラデマショウ」……

「でも、お前は考えてないで直接聞かないと意味がないって」

……「ベツニ、カンガエルコトニイミガナイ、ナンテイッテマセンヨ」……

 どうやら沖田は考えること自体には反対ではないらしい。

 一人でも味方がいると小さな勇気が湧く。それならと信勝は本を数冊抜き出して、テーブルに置いた。そして何冊かあった白紙の本を二冊ほど持ってくる。

 最後に万年筆らしきものを持ってくるとページに字を書いてみた。なんと氷の本のくせにちゃんとページは曲がる。万年筆はインクは出なかったが削ることで綺麗な字が書けた。

「よ、よし」

 そして信勝はそこにこう書いた。


【どうして姉上は僕と夫婦ごっこを始めたのか?】


 それは信勝にとって大きな謎だった。だから「僕は馬鹿だから考えても無駄」と深く考えてこなかった。一番ありそうな「英傑の気まぐれ」という可能性を採用して「いつでも終わっていいように何も期待しないようにしよう」と心の奥は閉じて姉が楽しめることを最優先に振る舞った。

 さっきの姉の像を思い出す。そう、ずっと恋はしていた。だが弟なのだからと自分なりに封じていた。それなのに信長は突然それを叶えるような真似をしたのだ。

 もし考える時間があるのなら考えたい。信長はどうしてあんな酷い死に方を仕向けた信勝を特別扱いする真似をしたのだろう。普通なら遠ざけたり、恨んだり、怒ったりするのではないだろうか。もちろん、姉は普通ではないが姉らしいとも思わない。

「今度こそ考えるぞ……えっと、夫婦が始まった頃、姉上はなんて言ってったっけ?」

 そもそも全ては突然だった。姉はある日、夫婦になろうといい出して信勝は衝撃で寝込んだ。信長は起き上がるまでの間に二人で住む部屋まで用意してしまった。

……「お前がやなこと言うからだ」……

 理由を尋ねると信長はそう言っていた。信勝は意味が分からず、自分が馬鹿だから分からないと思考停止した。

「姉上のやなことって……なんだったんだろう?」

 「やなことを言った」ということは自分の言葉だったはずだ。目を閉じて集中するが思い出せない。迷ったがそのまま信勝はページに【僕は嫌なことを言ったらしい。内容は思い出せない。】と書き足した。

「えっと、他にも姉上の言ったことを思い出そう。そうすれば夫婦ごっこを始めた理由が分かるかもしれない……うーん」

 信勝は抜き出してきた氷の本を開いた。そこには夫婦ごっこを始めた頃の記憶もちゃんと記載されていた。

……「どうして、笑わない」……

 夫婦ごっこ一日目。二人の部屋に入ったばかりの姉はそう言った。信勝としてはかなり不思議だ。信長のそばにいられれば信勝は幸せでよく笑っていたはずだったのだが……今思い出すとかなり緊張していたからうまく笑えていなかったのだろうか。

 信長は何かが期待外れだった。つまり姉は弟に笑って欲しかったのだ。夫婦になれば信勝は笑うと思っていたのに期待が外れた……コツコツ書いていた信勝ははっと閃く。

「つまり、姉上は僕を笑わせるために夫婦になった……え、そんなことで!?」

 笑うなんて信長に言われればいつでもしたのになぜ。不可解だがそれも「姉上は僕を笑わせるために夫婦になったのかもしれない」と書き出す。とにかく可能性があるものは書き残しておこう。

「よし……姉上の言葉を片っ端から書いてみよう」

 それにしても書くというのはいい。考えているだけだとどんどん忘れてしまうが、書くと思考がそのまま残るから忘れることを気にせず考えを深めていける。忘れていい分、安心するからどんどん考えが湧いてくる。

……「当世では夫婦とは家ではなくお互いがお互いを選ぶんじゃ、お前とはそういう夫婦になりたい」……

 そう。戦国時代の家同士の結婚では駄目。つまり信長は信勝と二十一世紀風の想い合う夫婦になりたかったわけで、推察される信長の気持ちは……。

「それじゃ、姉上がまるで僕を好きみたい……え?」

 顔を真っ赤にして頭を横にブンブンと振った。

「おおおおお、落ち着け! 可能性、あくまで可能性の話だ!」

 【あくまで可能性】と大きく注釈して耳まで真っ赤になって何とか最後まで書いた。ぜえはあと机に突っ伏するとようやく顔が冷えた。

(というか……「実感」は取り戻せなかったけど「知識としては」僕は姉上に愛されていたことが分かったのにどうしてこういう感じになっちゃうんだろうな)

 やはり恋愛脳のせいだろうか。

 ともかくあくまで生前の信長は姉として信勝を愛していたはずだ。恋をしたのは弟の信勝だけ。死後もそれを大きく変える出来事はなかった。特に恋愛イベントはなかった……はずだ。

 しかし、なら信長はどうして夫婦になろうなどと言い出したのだ? 信勝を笑わせるためにそこまで? しかも姉弟なのに? 信勝の秘めた恋心はそんなにバレバレだったのか? いや、だからって叶えようとするか?

 たくさんの「なぜ?」を書き記すと落ち込んだ。疑問ばかりで答えがない。

「全然わからない。やっぱり……考えても分からないのかな。無駄なんじゃないか」

 それでも信勝は考え続けた。どうして姉は夫婦になりたいなどと言ったのか。文字を一つ一つ綴って思考を深めていく。

(なんか、初めてかも、こんなに真剣に姉上の気持ちを考えたのって)

 弟は気づく。信長は人には手の届かない超越者で馬鹿の信勝がその心を考えるなど無駄だと決めつけていた。だから、最初から考えようとしなかった。それが原因で姉の愛が見えなかったのだろうか。

 夫婦ごっこのことを、一つずつ書き出していく。

 二人の部屋で過ごした二日目、奇妙な流れで姉に妻と信澄の話をした。信澄は実の息子ではないと知ると信長は妙に暗い顔になってしまった。そしてその日の晩になぜか「してほしいことはないか」と言われた。信勝が一緒にソフトクリームを食べに行きたいというと姉は「そんなことでいいのか?」と大層首を傾げたが、次の日に願いを叶えてくれた。

「こうやって書いてると……僕ってかなり甘やかされてるな。信澄ってあの後、結構出世したみたいだけど姉上にはなにか思い入れがあったのかな?」

 血の繋がらない息子の顔を思い出すがろくに会わなかったので思い出せない。赤子なので守らねばと思ってはいたが信勝にとっては信澄は根本的に他人だった。

 そしてさらに時間が経過して、卑弥呼の占いの件で一緒に人魚姫の絵本を読んだ。そうだ、あの時信勝は初めて「姉は自分が死んで悲しかったのでは?」と思い至ったのだ。姉はこんなことを言っていた。

……「人魚姫の姉も泡になったか分からんではないか」……
……「案外、姉もその方が幸せかもしれんな。残される痛みを味あわないで済むんじゃから」……
……「さっきも言ったがお前は死ぬのが早すぎた。死なれるというのはな、時にこっちが死んだ方がマシなもんじゃ」……

 信勝は万年筆を落とした。テーブルの上で氷がぶつかる硬質な音がする。

「あ……」

信長はこんなに前に答えを言っていたのだ。それなのにちっとも気付かなかった。姉が横で血を流していても弟はそれを「存在しない」と認識しなかった。

 ポツポツと氷のページに涙が落ちる。いけないと万年筆にまた手を伸ばすが滲んだ視界で逆にテーブルから床に落としてしまう。

(ダメだ、続けないと……だってたったこれだけ書いただけでこんなに気付くことがあったじゃないか。逃げちゃいけない)

 泣いたままテーブルの下に潜って、なんとか万年筆を拾う。涙が止まらないままテーブルに頭をぶつけないように這い出ると声をかけられた。沖田のキーホルダーだった。今回は静かに浮いていて刺してこない。

……「イタイデスカ?」……

「大丈夫だ」

……「デモ、ナイテルジャナイデスカ」……

「これは……僕が酷いことしたって改めて分かったから泣いてるだけだ」

 信勝が袖で涙を拭うともう泣いていなかった。そのせいか沖田はそれ以上何も言わなかった。











 万年筆を持つ手が引き攣ってしまい、信勝は椅子を持ってきて少し休んだ。左手でも書けないか試したが流石にまともな文字が書けない。

 まだ泣いていたので袖で涙を拭う。椅子に座って、右手を開いたり閉じたりして体操の真似事をする。

(こんなことしてる場合かな……いくら出られないからって姉上が危ないのに考え事なんて。全部、今更取り戻せないのに)

 全て無意味ではないか。そう暗い考えが忍び寄ってきた信勝の鼻を突然食べ物の香りが鼻をくすぐった。強烈なスパイスの香りだ。

「これって……カレー?」

 振り返ると向こうのテーブルに白い皿に盛られたカレーライスと水が入ったガラスのコップが置いてあった。カレーにはハンバーグが乗っていた。

「おい、またお前の差金か?」

 氷の携帯端末に話しかけるが返事はない。情けないことに空腹を感じはじめていた。考えることは結構疲れる。

 スパイスの香りに誘われてカレーライスに近づき、ついスプーンを手に取った。スプーンの先が三つに割れていることに気づくと信勝の脳裏にある光景が蘇った。

(思い出した。これ、人魚姫の絵本を読んだ夜に姉上と一緒に食べたハンバーグカレーだ)

 先割れスプーンでハンバーグを一口だけ切り分けて、カレーとライスと共に口に運ぶ。

「……辛い」

 涙が出た。姉と同じ辛さにして無理をした時のままだ。信長は「カレーの辛さとか一緒にしてどうする」と呆れていた。

 もう一口食べると何もかもが懐かしくなってまた食べた。辛くて水を飲んだのもあの時と同じ。

(そうだ、姉上は何度も一緒に食事をしてくれたんだ。こんな僕なんかに)

 どうして忘れていたのだろう。










 ハンバーグカレーは最後まで綺麗に食べた。するとまた力が湧いてきて万年筆を握ることができた。

 もう一度、白紙の本に「夫婦ごっこ」の記憶を綴り始めた。

(姉上、僕はあなたに取り返しのつかない酷いことをしました。その上、それにちっとも気付かなかった……それなのにどうしてそばにいてくれたのですか?)

 信勝は考えることを続けた。何度も無駄ではないかと放り出したい気持ちを抱えて必死に堪えた。その間にどんどんページは増えていった。

 姉との生活を思い出す。トマトを植えて、収穫したそれを一緒に食べた。信長の手料理とワインを飲み、なぜか初めて床を共にした(そこは映画並の解像度で覚えている信勝だった)。買い物をしたらゴルゴーンと初めて話をした。その間、ずっと週に一度ソフトクリームを食べに行き続けた。

 振り返るだけで幸せな思い出だった。それに記憶の中の信長は自然によく笑っていた。

(何だかこれは、うーん……僕は姉上に大切にされていた、と考えるしかなくないか?
 だって一緒に食事して、床まで共にして、たくさん笑ってくれて……『ありえない。自惚れるな、無能の弟くせに』……違う、これは青い鳥が言っていた「僕の思い込み」だ。苦しかったから理屈に合わないことを信じてしまったんだ。
 どうしてありえないんだ? それこそ姉上に直接確かめてないじゃないか。……『うるさい。僕はダメなんだ。理由なんてない、とにかくダメなんだ。僕はダメダメダメダメダメダメ』……。ダメだ、頭が痛い。何も考えられない。いいから、真偽はいいから、まず書いて残すんだ)

 思考に靄がかかって頭痛がする。全身が震えて、文字を書く右手を支えるだけで精一杯。それでも何とか書くことはやめなかった。

 そして「僕が死んで悲しかったですか?」と聞けず酒に溺れた。その内に長尾景虎や平景清と話をするようになった。そして知らない内に信勝の偽装殺人事件が起きたらしい(信勝は現場を見ていないのでほぼ知らなかった)。しかし景虎の目論見は暴かれた。

……「失礼なことを言うな! 姉上が僕なんか好きなわけないだろう! 僕のこと一度だって必要としたことなんてない! 強い姉上がどうでもいい僕が死んだって睫毛一つ動かすもんか!」……

 びくりと信勝の肩は震えた。思い出した自分の言葉の残酷さが怖かった。これを言った時はこれは姉のためだと信じていたのだ。

(姉上、なんで……何でこんな酷い僕をそばに置いたりしたのですか!?)

 そこから何かに取り憑かれたように記憶を書き殴った。

 その言葉を言った直後、信長に平手打ちをされた。滅多に見せない傷ついた表情をしていた。そして部屋でついに「僕が死んだことで姉上は悲しまれたのでしょうか?」と口に出せた。会話を続けていくうちに姉に「お前はわしの理解者ではない」と言われたこと。

 自分が言った言葉が何度も頭だけでなく心でも再生された。

……「違う……僕らは再会しない方がよかった……僕が現れたことは姉上を苦しめただけだった!」……
……「死ぬのが駄目ならいっそ僕なんか生まれてこなければ!」……
……「馬鹿だ、馬鹿だ。こんな僕が……僕は大嫌いです」……

 記憶の中の信長は刀で自分の手の平を斬り、お前を失った方が痛かったと言った。それでも信勝は気持ちを受け取らなかった。何も見えないし聞こえていなかった。

 呆然とする。死に方だけではなく、その後もずっと傷つけ続けているではないか。

「どうして僕はこんなことばっかり言ってるんだ……これじゃまるで姉上を苦しめるために話しているみたいじゃないか」

 信勝はまた万年筆を落とした。今度は涙を流さず、床にうずくまって拳で何度も殴りつけた。自分を殴れるものなら殴りたかった。

 心底自分に吐き気がした。さっき、姉と食べたカレーを食べていなかったら本当に吐いていたかもしれない。

(何で僕、こんなことばっかりしてるんだ? 姉上に辛い思いをさせることは僕が一番したくないことだったのに、どうして!?)

 逃げてはいけない。だからまた立ち上がって、書き続けた。桜の刀のキーホルダーは何も言わず、ただ少し離れた場所で浮いていた。

「そうだ、原点に帰れ。どうして姉上は夫婦ごっこを始めたんだ? 僕は何を言ったんだ? 姉上は辛いはずなのにどうして僕をそばに置いたんだ? 考えろ……考えろ」

 信勝はまた夫婦ごっこの記憶を最初から思い出し、最後に部屋が焼けるところまで残らず書き出した。しかし、一度では不十分だ。もう一度最初から全て書き出した。二度目が終わる頃は三冊の本が文字でいっぱいにだった。

 文字だけでは足りないと英霊の座に与えられた数学の論理式まで持ち出して信長の気持ちを計算して、推察して、推理して、仮説を立てて、考えて、考えて、考えた。いつの間にか信勝の目の前には一つの大きな数式が出来上がっていた。

 記憶を最初から書き出して、論理学を少し足す。帰納法、演繹法、同一律、排中律、矛盾律、テセウスの船、ヘンペルのカラス、悪魔の証明、パラドックス……。

(姉上、あなたはどうして僕のそばにいてくれたのですか? 妻の真似事までして……きっと辛かったのに)

 どれほどそうしていたか。三時間のような気もするし、三年のような気もする。夢の中のように時間の感覚はわからない。

「あれ……?」

 四度記憶を振り返り五回目に戻ろうとした時。
 ある考えが信勝に浮かんで、思考する前にそれを書き出していた。



 姉上は僕が酷い弟でも最終的に全て許していた。
 理由は僕が好きだから、大切だから許すしかなかった。

 夫婦ごっこをしたのは姉弟よりも強い繋がりが欲しかったから。
 姉上はもう僕にいなくなってほしくなかった。そばにいて欲しかった。
 理由は僕が生前、一方的に死んだから姉弟の絆では信じられなった。

 他に動機が考えられない。



「……は?」


 ありえない。

 信勝は目をゴシゴシと擦ってその文章を二度見した。いくらなんでも結果がおかしい。きっと計算式を間違えたのだろう。

 最初からやり直して、数式も作り直す。英霊の座に一定の知識を与えられたと論理学や数学まで持ち出したのがいけなけなかったのだろう。もっと簡単な論理式と数式だけを使おう。

 もう一度やり直す。しかし、結果は同じだった。計算結果も同じ。

 全ての不可能を消去して、最後に残ったものがいかに奇妙な事であっても、それが真実となる。作品の中でそう言ったシャーロック・ホームズと信勝は直接話したことはなかった。

「そ、そんなバカなーーー!!」

 それは信勝が抜け出せないパラドックスの一つだった。大好きな姉に愛されたいと誰より願うが故に決して愛されるはずがないと思ってから、どんな言葉や態度も「気のせい」で処理してきた。自己否定する信勝は嫌いという言葉はすぐ信じても好きという言葉は届かなかった。

 だが、今回は違う。気のせいと切り捨てるにはあまりに本気で信長の気持ちを考えた。自分に嘘などついていない。記憶を探り、自分の手で一つ一つ書き、何度も考え続けたからこそ「気のせい」と切り捨てられない。

 理性は囁いた。不可能なことを消去した後に残ったものが真実だと。それがどんなにあり得なくてもこれが現実だ。

「あ、姉上が僕を好きとかありえない! じゃなくて、愛されてるのは分かったけどそれは生前の話で! 新しく夫婦の絆を結ぶとかそこまで好きなわけじないじゃないか! ……いや、つまり姉上が夫婦になろうって言ったのはカルデアで時間軸的には死後で僕が勝手に姉上に殺されたと知った後で? ……あ、あうあう……」

 胸が温かい。どうしても嬉しかった。愛されることを諦めたのはそれだけ「姉に好きでいてほしい」という願いが本気だったからだ。

(どうして気付かなかったんだ。姉上は自分から嫌なことをする人じゃない。ぼ、僕がそばにいて嬉しいから、夫婦になったんだ……ただ僕が好きだったから……僕が、死ぬっていう最悪の形で姉上の前からいなくなったから)

 嬉しさの次は罪悪感を感じる。自分は罪人だ。そんな自分は喜んではいけない。

「こんなの……姉上があまりに可哀想じゃないか!」

 するりとある手紙が脳裏に再生された。
 それは夫婦ごっこの中断。長尾景虎の騒動の後、信勝が部屋を出て行こうとした時に書き残された信長の手紙だった。


……「

信勝へ

 出て行こうとしているのだろう。
 だが、お前が出ていくことはない、わしが出て行く。

 信勝はこれまでと同じようにその部屋で暮らしてくれ。
 お前には分からないだろうが帰ってきたらお前がいる部屋はわしが生涯かけても取り戻せなかったものなのだ。
 失うまで分からなかったが本当に大切だったのだ、心から。

 諦めるな。
 時が解決してくれるかもしれない。
 なにか妙案を思いつくかもしれない。

 とにかくまた二人で暮らすことを諦めないでくれ。

」……


 丁寧な字だった。姉は達筆だがそれでも時間をかけて書いたと分かった。
 そんな手紙で告げられたのだ。帰ったら信勝のいる部屋をどうしても失いたくないと。
 こんなにはっきりと告げられていたのに信勝は今まで気づかなかった。

(僕は酷いことをした。姉上に自分を殺させた。それを喜んだ。でもそれだけじゃなかった。僕はそんなことをしても愛してくれた姉上をずっと無視してた。何度もそばにいてほしいって伝えられていたのに……どうせ気まぐれって何も気持ちを受け取らなかった。それどころか気のせいだって踏み躙っていたんだ)

 生前も、死後も、自分がやっていたことは姉を苦しめることだけ。
 これを知ることが罰なのか、もう一人の自分。

 信勝は本から離れ、幽霊のようにふらりと部屋を彷徨った。
 ふと頬に手を当てるが涙は流れていなかった。
 額に手を当てて、歯を食いしばる。叫びたかったが出てきたのは小さな一言だった。

「どうして……僕はこんなに馬鹿なんだ」

 一つ溢れると堰を切ったように溢れ出した。

「だって馬鹿じゃないか。ずっと姉上のそばにいられれば何もいらなかったのに僕自身がその願いを台無しにしてきたんじゃないか。僕だけじゃない、姉上の願いも自分で粉々にしてきたんじゃないか。どうして? 僕が馬鹿だから?」

 信勝は拳で何度も机を殴りつけ、床に座り込むと今度は血が滲むほど床を殴った。

「どうしてこうなったんだ!? あんなに愛されたかったのになぜ姉上に愛されてるって分からなかったんだろう? 僕はずっと姉上のそばにいたかったのに自分でそれを壊してきたなんて。僕はそのためならなんでもしたのに、両腕をもがれて目を抉られても、耳を切り落とされて臓腑を抉られも平気だったのに!」

 家臣たちのせいにはできない。だって死後のことは彼らは関係ない。この罪は信勝のものなのだ。

「どうしてなんだ! 僕も姉上もそばにいることを願っていたのになんで! 織田家から解放された死後でも僕は姉上を苦しめて……それにあんな、宝具まで……なんで!?」

 生前だけでなく、死んだ後も姉を傷つけてきた。
 自分が笑って崩れ去る宝具を何度も見て姉は何を思ったのか。
 姉の考えた結果、知ったことは自分の新しい罪だった。

(もう一人の僕、これが罰なのか?)

 鏡を振り返るともう一人の自分が映っていた。そして小さく頷いた。

……『そうだ、知らないままではすまさない。自分の罪を余さず知れ』……

 これが罰。
 信勝の願いは自分で壊したのだ。
 姉の願いさえ道連れにして。

 次の瞬間、氷の部屋の床にヒビが入った。信勝の視界の隅で金色の鍵を封じた氷の鏡が砕け、鍵は信勝の手に飛んできた。咄嗟にドアを見たが部屋自体が崩壊を始めている。

……「クズレマスヨ」……

 桜の刀のキーホルダーがそばに飛んできた。その瞬間、部屋の床が全て砕け散った。二人には見えていなかったが城自体が崩壊を始めていた。

 金の鍵を握りながら信勝は氷の塊と共に落下した。

(これが罰なのか。こうして罰を受け続ければ僕は自分を許せるのか? でも僕はもっと自分が許せなくなった……姉上が大切だから自分を許せない。だからもう姉上には会えないのか?
 僕はこんなことを望んでいなかった。でも全部僕がやったことだ。どうして? いつから僕はこんな風になったんだ? 一体、いつから……)

 信勝は氷山の深くへ落ちていった。








【信勝、煉獄山を登る2〜自分を大切にする〜】




 ここが氷山だと知ってから思い出したことがある。

 心理学の知識だ。心には意識と無意識があり、それは海に浮いた氷山に似ている。氷山はわずかに海の上に突き出しているが、海に沈んでいる部分の方がはるかに大きい。それを意識と無意識と呼ぶらしい。

 つまり、本当は無意識の方が心の主人で、自覚している意識というものはあまり心をコントロールできないのだ。

「ここは……?」

 信勝が目を覚ますと一人だった。周囲にはただ氷の塊だけが積み重なっていた。

 見回すが桜の刀のキーホルダーの姿は見えない。見上げるとどこまでも氷の塊が積み重なってるだけで果ては見えない。かなり落ちてきたらしい。

 右手を見ると金色の鍵があった。無くさないように結んである青いリボンを首にかける。

「いてっ……折れたか?」

 右足が氷の塊に挟まっていた。何とか足を引き摺り出すがうまく動かない。何とか立てたから折れてはいないだろう。這うように進むと長細い氷を見つけて杖にする。

 かなり痛い。しかも視界がぼやける。また泣いたのかと思ったがどうやら氷の粒が目に入って眼球がやられたらしい。大丈夫、左目はまだちゃんと見える。

「上に戻らないと……」

 右足はうまく動かない。信勝は巨大な氷の塊の山を這うように登っていった。

 周囲は酷い有様だった。氷の塊の断面が刃のようで両手足が切り傷だらけになっていく。さらにつららのような氷の棘が生えていて、右腿を深く抉られた。時々、強い吹雪が吹き荒び、粒子が目に入って痛かった。

(ずっと姉上と子供の頃のように過ごしたかったなんてバカなこと言った。僕が全部壊したのに)

 傷を放置したまま進むほど、信勝は穴だらけでボロボロになっていった。

 ずっと芋虫のように這って進む。数時間のような気もするし、数日のような気もする。時間の止まった夢の中で体感時間に意味はないがそれでも感情がとても疲れた。

(なんでこんなことになったんだろう。僕は姉上を愛していたから愛されたかった。でも愛は最初から僕の手の中にあった。一番の願いを自分で壊したんだ。どうして? 僕は僕を……恨む)

 進むと雪が降り始め、吹雪となって全身を叩きつけた。目もほとんど見えないし耳もあまり聞こえない。

 やはりただの氷ではないのだろうか。登っていると時々氷が光り、音声が流れた。まるで鏡のようだ。信勝の記憶が動画のように氷の中で再生される。

 じっと見つめるとそれは夫婦ごっこを始めたばかりの頃の記憶だった。

……「あの、お礼をさせてください、なにか欲しいものはありませんか?」……
……「……今日は先に帰っておかえりを言え」……

 信澄のことを話した姉はひどく沈んで見えた。それがなぜなのかまだ分からない。

 それで映像は消えたので信勝はまた登り始めた。

(もしかして、それが姉上の望みだったのか? ただ僕が家で待っていることが?)

 いくつか氷の山を登るとまた記憶が映っていた。

 それはもっと昔、生前の記憶だった。いつもは信勝が信長の帰りを待っているのだがその時は逆だった。家で姉が弟の帰りを待っていたのだ。

 なぜ自分の部屋で仁王立ちで待っている信長の姿に幼い信勝は仰天した。

……「信勝、お前、遅い」……
……「姉上、なぜ僕の部屋に? え、も、もしかして怒ってらっしゃいますか?」……
……「質問に答えろ。なぜこんなに遅かった? もう暗いぞ」……

 姉の指がビシッと窓を指差した。もう夕暮れも終わり、空は夜になりかけている。

……「ええと、寺に忘れ物をしたんです。写すように言われた書物を忘れて。そうしたら護衛とはぐれちゃって、合流したらこんな時間に……」……
……「ふぅん」……
……「姉上、もしかして待っててくれたんですか?」……

 姉はいつもの無表情に戻り、返事をせず去っていった。

 また氷は記憶の再生をやめて、信勝も登ることを再開した。

 姉の手紙を思い出す。信勝が待っている部屋が一生取り戻せなかったと書いてあった。信勝が出ていくなら自分が出ていくから夫婦の部屋にいてくれと懇願された。

「……姉上は僕にただいることを望んでいた」

 迷ったが一つの結論に至ってしまう。
 つまり信長は信勝がただそばにいればよかったのだ。

「じゃあ僕はずっと子供でいればよかったのか……大人になろうとしたのが間違いだった?」

 信勝は子供のままでいればよかった。姉はただ家で待っている弟が好きだった。成長して役に立とうとか織田の家督とか考えるようになった大人の自分ではなく、ただ慕う子供のままの自分が必要だったのだ。

「……僕なりに強くなろうとしたのが間違いだったのかな」

 必死に勉強したことも、苦手なりに剣術をやったことも、馬鹿な家臣たちをうまく騙して殺したことも弱いままの自分ではダメだと信じたからやったことだ。
 けれど結果はただ姉を苦しめることしかできなかった。

「本当に、僕、馬鹿だな」

 姉のためになにかしたかったのに結局彼女の願いに逆らうことばかりしている。理解者なんてとんでもない。彼女のことなんて何もわかっていなかったのだ。

 ああ、自分の人生は無意味だったのだ……。

「……う」

 冷たい氷の上に倒れる。ついに両腕も両足も動かなくなった。全身、ズタズタで、目もよく見えていない。動けていたこと自体、奇跡だった。

 それでも残りの力で氷の上を這って進む。

(僕なんかずっと苦しめばいい)

 痛くて痛くて苦しい。ふと自分は泣いているのではないかと頬に触れたが涙は流れていなかった。

(そうだ、僕に泣く資格なんてない)

 姉や仲間のことならともかく自分のためにも泣く価値などない。傷だらけでも苦しくてもどうでもいい存在だ。

 だからか、それからどんなに身体が傷んでも涙は出なかった。むしろ、自分に罰が与えられているようで安心した。

(僕は僕が嫌い、大嫌いだ。だって姉上の手にかかって喜んだ。苦しめたのにこっそり笑ってさえいた。ずっと姉上の気持ちを踏み躙ってきた。姉上の願いも知らず逆のことばかりしていた。僕自身の一番の願いを壊した。そんな自分、憎むしかないじゃないか)

 いっそここから飛び降りてもっと自分を罰しようか、そんな空想を弄んで登ってきた道を見る。冷たい世界だった。罪を犯してきた自分に相応しい世界だ。こうしてずっと苦しめばいい。休まず、痛みだけを全身に浴びればいい。

 無理をしたせいか手足が動かなくなる。役立たずと手足を罵った。氷の上で冷たくなっていった。

(動けない。もう誰もいない。僕の心の中なのになんで思い通りにならないんだろう。僕は行かないといけないのに。動け、動けよ、僕。馬鹿、無能、能無し。役立たず、クズ、いつも迷惑ばかりかけて。だからお前なんて『死ねばいいんだ』……あれ?)

 不意に「おい、寒いだろう?」という信長の声を思い出す。ずいぶん昔の話だ。あの時はまだただの幻霊で信勝は雪降る場所に長い間座っていた。

 珍しく心配そうな顔をしていた。

(そうだ……姉上は)

 それでも信長はそんな自分を愛してくれたのだ。

 不思議なことに温かい香りがした。信勝がじっと見るとそこにはほうじ茶が入った湯呑みと大福があった。氷の座布団と小さな和風のテーブルまであった。

 信勝の手は震えていたが湯呑みに手を伸ばし、ほうじ茶を飲んだ。温かい。全身の覆っていた霜が少し溶けた。

 大福を齧ると味に覚えがある。そうして思い出した……その時、姉は「わしはいらん、お前が食え」とほうじ茶と大福をくれたのだ。

 今なら分かる。本当は信長は自分が食べるつもりだったけれど信勝が寒そうだったから渡した。それなのに信勝は「姉上いらないんですね、なら僕が処分しておきます」とろくに味あわず飲み込むように食べてしまった。

 頬に一筋涙が伝う。どこから間違った?

(このままじゃ、ダメだ……僕。姉上ならどうするだろう?)

 信勝は休むことを自分に許した。氷の座布団に座り、ほうじ茶を飲み干した。そしてマントを切り裂いて、姉が愛してくれた人間の身体を手当てした。

 きっとここにいたら姉はこうしてくれただろう。
 姉が大切にいているものは自分も大切にしなければならない。

(僕は姉上に大切にされていた。だから粗末に扱うべきではない)

 本当は心から自分を愛して、大切にできれば一番なのだろう。
 それでも信勝には「そうするべき」だから義務的に自分を「大切そう」に扱うことで限界だった。

(いや……姉上だけじゃない、色んな人に僕は大切にされていた。どうして、今更気づくんだろう? その時にありがとうって言えたらよかったのに)

 「こんな自分死ねばいい」と止まる手を姉だけでなくお人好しのマスターや亀を思い出して、彼らならどうするだろうと拙い想像力で支えた。

 まず自分を罵るのをやめた。そして座布団を枕にして身体を横たえた。すると足に痛みを感じて、刺さっているつららを数本抜いた。

 深呼吸をする。自分を粗末に扱いたい衝動と戦う。傷つけて楽になりたい感情を抑える。姉やみんなが大切にしてくれた自分を守らなければ。

(自分を大切にするって難しいな、少なくとも僕の場合は)

 それは所詮「自分を大切にする真似」にすぎない。それでも信勝が自分を休ませ、丁寧に手当てすると身体の痛みは減り、目もよく見えるようになった。いたわった身体は再び動き始め、また進むことができた。

 最後に齧った大福は苺の甘さがした。そうだいちご大福だったと思い出す。

 すると折れた右足が動くようになり、まともに歩けるようになった。











【「姉上はすごい」という罪と罰】




 まともに歩けるようになると風景が違って見えた。氷の塊が積み重なっているように見えた山はちゃんと整備されており、道があった。信勝は道から遠ざかり、わざわざ尖った氷がたくさんある場所を這っていたらしい。

「また……食べ物がある」

 今度はポップコーンだった。白と赤のストライプの容器に入っていて陽気な雰囲気だ。

 一つ齧るとそれはバター醤油の味だった。なぜか氷の上に置いてあるくせにあたたかい。これはすぐに思い出せた。信長と映画を見にいった時に食べていたものだ。信長は映画が結構好きで信勝は夫婦ごっこをする前からたまに一緒に見ていた。

(これってやっぱり姉上と食べたものが出てきてるんだよな。なんでだろう? もう一人の僕の仕業ってわけでもなさそうだし)

 ポップコーンを食べているとなぜか道の脇に氷のベンチが出現する。今度は赤い紙の容器にコーラが入っていた。信勝は思わず笑みがこぼれた。

(姉上はバター醤油味と一緒に飲むコーラが好きだったなあ)

 頭の中で記憶が巻き戻る。姉とはいくつも映画を見た。ハリウッドのアクション映画を見たと思えば「どうもわしが派手に燃えるらしい。こうバーンとクレーターができるくらい」と日本の歴史映画を見た(信勝は本能寺のシーンに暴れ出し信長に連れ出されたので最後まで見ていない)。

 そういえば一度だけ恋愛映画を見た。素直になれない女性と自信のない男性が主役で二人は想い合っているのだがすれ違ってばかりいた。そしてラストはすれ違ったまま二人は別の道を歩み出す。悲恋の物語だった。最後に二人は「どこにいても幸せを願っている」と言って別の列車に乗った。

 信長はその映画が不満だったようで終わった後、渋い顔をしていた。信勝は対照的に感動して大泣きしていたので早く泣き止むのが大変だった。

 姉はこんなことを言っていた。どうして二人は結ばれなかったのか納得がいかない。ただ一言どちらかが好きと言えばずっと一緒だったのになぜそんな程度の短いセリフが二人とも言えないのか。なぜ最後に遠くで幸せを願うなんて中途半端なラストにしたのか脚本家が理解できない。

 弟は珍しく姉に同調せずこう返した。「僕は分かる気がします、今までが壊れるのが怖いです」と言った。好きと言ったら今までの関係が壊れると思うとどうしても言えなかったのだ。偉大な姉から見ればくだらない躊躇だろうが、臆病な自分にはよく分かる。

……「だってたった一言ではないか。あんなに悩み迷うほど好いているのに、一つの言葉を口にすることくらい……今までが壊れるかもしれない?」……

 突然、姉は「そうか」と納得して数秒信勝をみた。そして残ったコーラを飲み干すと一緒に夫婦の部屋に帰った。

(あの時、姉上は何を納得したんだろう? 結局、聞いてないや。違う。僕はこう思った。僕なんかに姉上の感想なんて分かるわけないって)

 理解者のつもりだったのに分かろうとしなかった。また会えれば聞けるだろうか。そう思ってコーラを啜るとちょうどなくなった。

 早く上に戻りたい。ポップコーンと大福の力か今度はスイスイと進めた。そのまま一時間ほど歩くと謎の看板があった。

「なんだこれ……?」

 それは氷の看板だった。信勝の肩ほどの高さで赤いペンキで文字が書いてある。

『こちら煉獄山 罪人に罰を与える場所』

「煉獄、あいつが言ってたな……ん?」

 看板に手を伸ばすと金属の音がした。首に下げた金の鍵が光を宿し、ある方向を指し示すように浮かんだ。右斜め前を示している。

「あっちへいけって事か?」

 迷ったが鍵に従った。元々、もう一人の自分がいうように信勝が自分を許せない限りここからは出られないのだ。

 鍵についていく透明な階段が出現した。まだふらつくがさっき手当したお陰で階段を登ることはできた。

 ステップを登る音にふと考えてしまう。聖杯は「信勝は絶対に自分を許せない」と確信したからこうして閉じ込められている……そうだ、確かにとても自分を許せる気がしない。聖杯の見立ては正しい。

 しかし、もう一人の自分は不可能を可能にする方法を見つけ出したらしい。いっそ記憶を失うくらいしか思いつかないが……。

 階段の先にはドアがあった。氷のドアでドアノブと錠前だけ金でできていた。信勝は辿り着くと鍵を金色の錠前に刺した。かちゃりと回すとあっさりドアは開く。

 わずかに開いたドアに文字が刻んであることに気づく。ペンキではなく、ナイフで傷つけたように木製のドアに字が書いてあった。

【××は罪】

「……?」

 前半が掠れて意味は分からない。信勝はドアノブを握ると中から光が溢れた。











 ドアを開けると世界は一変した。

……「姉上は本当にすごいです! 僕には考えつかないことばかり!」……
……「お前はいつもそればかりじゃな、よく飽きんな」……

 また幼い頃の幻影だ。十にもならない信長と信勝が川辺を並んで歩いている。弟は姉の考えを聞くたびにすごいすごいと囃し立てた。

……「そんなことよりお前はどう考える?」……
……「え?」……

 弟はまだ幼い丸い顔で首を傾げた。

……「今、言ったことを信勝はどう考える?」……

 弟は目を丸くしてきょとんと姉の顔を見た。

……「ええと……僕は姉上じゃないのでそんなすごいことは考えられないです。だから僕が考えても意味がないと思います。僕は姉上の考えるすごいことをそのまますることにします」……

 姉はその時、なんて返事をしたんだっけ?

……「姉上、姉上、僕ずっと姉上と一緒にいます! すごい姉上の弟で僕、幸せです!」……

 それでも繋いだ手を握り返されたことだけを覚えていた。








 そこで映像はプツッと切れた。風景が氷の世界に戻る。

『これがお前の罪だ』

 気がつくと後ろにもう一人の自分がそばにいた。どこだろう。拝謁の間でも氷の山でもない。少し狭い氷の部屋、そこに二人で並んで立っている。そうしていると鏡を見ているようだった。

 もう一人の自分はアイスブルーの瞳にさらに冷たい光を宿らせていた。

『姉上はすごいという言葉で僕は罪を犯した』
「そんな……それはただの、事実じゃないか。姉上はすごいじゃないか」

「姉上はすごい」。
 信勝の決まり文句だ。子供の頃から死ぬまで、死後カルデアでも言い続けた。
 信長はすごい。だから英霊の座に信長はいる、何も間違ってはいないではないか。

『歴史的には事実でも、僕の解釈は違う。憧れは時に相手を傷つける。人間は自分という色眼鏡から逃れられない。色眼鏡の一つが憧れ。憧れが……最悪の結末を生んだ』

 カッとした信勝は睨み返す。そこを否定されるのは我慢できなかった。

「僕が姉上に憧れたから、間違いだって言うのか? そんな、そんなことまで否定するのか……!」
『そうだ。憧れたから僕は姉上の声が聞こえなくなった』

 もう一人の信勝が杖を振るとまた風景が変わった。氷の瞳が悲しげに光る。

『姉上はすごい。最初はただ姉上が好きで、無垢な好意の言葉だった。だがその言葉を唱え続けることで僕は過ちを犯したんだ』












 今度は辛い記憶だった。

「きっと姉上なら……こんな世を変えてくれる」

 臆病な信勝も三度も戦に出ると慣れてきた。本当は怖くてたまらないけど、弓を射り刀を抜くことに慣れてきた。安全な家に帰ると影で何度も吐いたが何日も眠れなくなることは無くなった。

 そんなある日。十四になる直前の信勝は最悪なものを見た。

 それは戦の略奪だった。突然、信勝が数度見た穏やかな農村は焼かれていた。

 家は燃やされ、食べ物は奪われ、田畑は踏み躙られた。男は殺され、女は犯されてから殺され、子供は殺されるか奴隷として連れて行かれた。たくさんの死体はそのあたりで野晒しとなっていた。

 地獄だと思った。一週間前に母に抱かれていた赤子が串刺しになって転がっている。綺麗だと思った稲畑が燃えている。

「権六、権六! これはどうして!?」

 叫んで昔からの忠臣に縋ることしかできなかった。今までの戦でも当たり前にこんな酷いことが裏で行われてきたのか?

(僕は……今まで何も知らずに、ただ戦に出ることだけが怖かった)

 半年も経つと現実を思い知った。何度も焼かれた村を見た。親を殺されて奴隷として子供達が連れて行かれる。飢えて仕方なくというだけでなく、退屈だからと子供を斬る兵も何度も見た。それを誰も助けない。

「酷いことですな。ですが仕方ない。……信勝様のような身分の人が見るものではありません」
「末端の兵は飢えるのだ。それに血の気が多くて飢えていなくても試し切りをしたがる。そういう時代だ、仕方ない。全くお前は母が甘やかしすぎたようだな」

 柴田も父もこの時代では仕方ないとしか言ってくれなかった。姉に話をしたかったが、姉は濃姫と祝言をあげ別の館に移り住んでいた。

(死んで地獄に落ちるなんで嘘だ……ここがもう地獄じゃないか)

 この世は最初から地獄だった。ただ信勝の生まれた地位がそれを見えにくくしていただけなのだ。だって飢えるなんて父に言われるまで考えたことさえなかった。

(耐えられない。姉上、姉上……助けて……)

 信勝はどうしても仕方ないと思えなかった。けれど現実を変えることもできない。だから、もういない姉に空想で縋った。

 そんな日々でまた姉に会うことがあった。織田の家の宴会か何かだった。信長と信勝は正室の姉弟なので近くに座っていた。

「信勝、どうした? 腹でも痛いか?」
「……姉上、僕は……どうしてと思ってしまったのです」

 一口も食べない弟に姉は尋ねた。信勝は信長に聞きたいことが山ほどあった。でも喉につかえてうまく言葉が出ず、ポツポツと話すと姉がじっと待っていてくれた。

「どうして戦は無くならないのでしょうか。どうして殺しが当たり前の時代になったのでしょう? ……どうして僕はみんなの当たり前が受け入れられないのでしょう?」
「戦が無くならない? まあ、そうじゃろうな」
「姉上は……理由が分かるのですか?」

 姉は当たり前だと言わなかった。それだけでも弟は嬉しかった。

「都も荒れておるし、将軍もすっかり権勢を失った。誰もが立ち上がり、奪わなければ奪われる時代じゃ。誰にも戦をやめる理由がなければなくならんさ」
「そんな……酷い理由で百姓が殺されているのに」
「あいつらだって奪う時は奪うぞ。まあ、まさしく書物の地獄のような時代ではある。終わらせるにはまず市の形を変え、都を……」

 信長はこの時代を「仕方ない」ではなく「地獄」と言ってくれた。それだけで信勝は内心とても嬉しかった。

「都を……?」
「なんでもない、少し喋りすぎた」

 それきり信長は黙ってしまった。信勝は昔の姉の話を思い出した。奇想天外な戦や新しい市や国の形。

(そうだ、きっと姉上ならこの地獄を終わらせることができるんだ。昔、新しい世の形の話をしてくれた。姉上ならできる。だって姉上は誰よりもすごいから!)

 そう思って弱った心を支えた。
 姉は超人だからきっと酷い時代から自分を、みんなを救ってくれるのだと安堵した。









 また風景が切り替わる。信勝はいつの間にか長い氷の階段を登っていた。

 氷の山から階段へと変わって、随分登りやすくなったが信勝は苦い顔をしていた。ギリギリと右手で左の肘の辺りを食い込むほど強く掴む。

「何がいけないって言うんだ……姉上はすごい。姉上は本当に戦乱の世を変えた。あんなひどい時代を終わらせたんだ……僕は事実を言っているだけだ!」

 もう一人の自分は鏡のように氷の壁に映っていた。

『だんだん分かってきたみたいじゃないか。姉上はすごい。でもしちゃいけないことがあることを僕は忘れていた』

 もう一人の自分が杖を振るうと周囲の氷の鏡が割れ、視界がキラキラした破片でいっぱいになった。








 泣き声が聞こえた。それは自分の声だった。

「姉上……姉上……助けて!」

 自分ごと邪魔者を殺す計画を一人で実行していた時。

 信勝は自室で泣いていた。自分の計画が全てが恐ろしくなって抑えきれなかった。姉を裏切って憎まれることも、計画で自分は確実に死ぬことも、たくさんの顔見知りがいる家臣たちを殺すことも怖くなってしまった。

 病気だと偽って数日、部屋に篭って泣いた。口から出る言葉は幼い頃のように姉に縋るものばかり。そんな自分にうんざりしてもやめることができなかった。

「やっぱり、いやだ……死にたくない、死にたくない……姉上、姉上、助けて」

(そうか、最初の頃はこんなこともあったっけ……元々、権力に興味はなかったし、戦で人を殺すことも嫌いだった。まして自分の手で殺して、姉上に憎まれるなんて、どうしても辛くて時々こんな風に泣いてた)

「助けて、姉上、助けてください」

 哀れな声だった。無力な声だった。姉に頼ることしかできない弱い自分だった。そんないじめられて泣いている子供の頃と同じ自分が嫌いだった。

(そう、僕は自分が嫌いでたまらなかった)

 けれど不思議なものでこうして泣いている姿を見ていると嫌いとは思わなかった。むしろ、自然な感情だと思った。

 死にたくなかったし、大好きな姉を裏切って憎まれたくなかった。憎かった家臣たちだって、古くからの顔見知りがほとんど。憎む一方で「そうか、何度も馬の乗り方を教えてくれたこいつは僕が殺すのか」と時に心が揺らいだ。当時は家族も同罪。おそらく彼らの家族全員を殺すことに怯えていた。殺しすら慣れない自分がそんな風に思うことは自然だと思った。

「ダメだ……僕、このままじゃ。姉上に迷惑かけてばっかりで……ダメだ」

 けれど当時の自分はそんな自分を許さなかった。
 こんな弱い人間だから姉は心から笑いかけてくれないのだと信じていた。
 耐えられず泣いている自分を泣いているからダメだと責めていた。

「泣いて姉上に頼ってばかり、昔からそうだった。変わらないと……変わらないと……このままじゃ絶対ダメだ」

(そう、僕は自分が許せなかった。だから姉上だって僕が嫌いだと思っていた……自分の気持ちを姉上のものだと押し付けたんだ)

 やっと泣き止み、信勝は起き上がって窓辺に座った。障子ではっきりと見えなかったが時刻は深夜だった。明るいと思ってわずかに開けると夜空には下弦の月が浮かんでいた。

「……そうだ」

(……なんだっけ、こんなことしたっけ?)

 何かを思いつき障子を閉めて、信勝は一人で外に出ていった。一応織田の後継者候補なので夜道に一人で歩くなど許されないのだが、信勝は姉と遊んでいた杵柄で見つからない道を抜けて一人で夜道を歩いた。

 一応、腰に脇差を差していく。灯りも持たず、月明かりだけを頼りにこそこそと夜道を歩いていく。迷いなき足取りは目的地があるようだ。

(これは全然覚えてないな。僕はどこへ行くんだろう?)

 もう一人の自分は半刻ほど歩いて小さな空き地へ入っていった。そこは見覚えがあった。幼い日に姉と二人で遊んだり昼飯を食べた場所だ。ここは見つかりにくいと姉が言っていた。

 空き地の隅には忘れられた石の仏像があった。信勝の膝の高さ程しかない小さなもので赤い前掛けをしてつかみどころのない笑みを浮かべている。横で見ている自分は「地蔵菩薩かな」となんとなく当たりをつけていた。

「……大丈夫、大丈夫」

 そして過去の信勝はその仏像に跪き、両手を合わせた。目を閉じて一心に祈る。信勝は今も過去も信心深い方ではない。むしろ戦乱の世に心を痛めるたびに「この世に神も仏もあるものか」と内心嫌っていた。

 それでも限界を感じ何かに縋りたかったのだろう。最後まで姉に本当のことを言わず死ねるように祈っていた。仏像は月光を浴びてただ静謐にそこにいた。

「姉上、姉上……僕はずっとあなたに助けられてきた。だからその全てをお返しいないとならないのです。例えその一族郎党を皆殺しにしてもあいつらを全部殺さなきゃいけないのです」

 目の前の仏像を見ていない。信勝が見ているのは仏像ではなく姉なのだ。うわごとのように信勝は語りかけた。

「姉上、そうですよね? 僕は間違ってませんよね、姉上?」

(僕は姉上が一番好きで……こんなに必死だったのに)

 どうして彼女を苦しめてしまったのだろう。

「それに……心から思います。この世界を救えるのは姉上だけだって、だから僕は最後までやり遂げないといけませんよね」

(……?)

 信勝は仏像から目を離し、今度と夜空に浮かぶ月へ語り続けた。

「子供の頃からずっと思っていた。この世界は戦や殺しが当たり前で、その当たり前が僕は辛かった。どうしてみんな平気なのか分からなかった。だんだん僕が弱いせいなんだって思うようになった。
 でもやっぱりこの世界はおかしい。どうして土地のために戦ばかりしなくちゃいけないんだ。どうして欲しくもない家督のために大切な人と敵対しなくちゃいけないんだ。なぜ飢えと殺戮が当たり前になったんだ。おかしい、おかしい。この世界は最初から狂ってる。
 だからずっと姉上が話してくれたことだけが救いだった。姉上の話はいつも面白くて、僕には想像もつかなくて、そして今の世界を壊して作り直す話だった」

 それは信勝が信長に傾倒していった理由の一つだった。生来気が弱く根が優しい。その性格で戦ばかりの世の中が辛くてたまらない。中途半端に聡明でどんなに人が苦しんでいるか理解できたゆえに余計に苦しかった。

 だから救いを求めた。
 この世界を一度壊し、新しく作り変えると語ってくれたこの世で一番優れていると信じた人に。

「こんな辛い世界は作り変えるしかない。姉上は凄いからできる。こんな世界をめちゃくちゃに壊してくれる。そして素晴らしい世界を作るんだ。だから僕は死んでも力にならなきゃ。そうですよね、姉上?」

 信勝は仏像を通して姉に祈り続けた。

 貧しい衆生が神仏に縋るように平凡な弟は人ならざる姉に縋った。
 死にたくないけれど死ぬ、憎まれたくない姉に謀反を起こさねばらないという現実に耐えられず、姉の敬愛が崇拝へ変わっていく。

 胸に手を当てると痛い。そうだ、この懐かしい痛みは自分のものだった。

(そうだ、忘れていた。ずっと僕は辛かった……だから姉上に救いを求めた。姉上の嫌う神仏を崇める衆生のように。姉上なら凄いからできるって……でもだから僕は姉上が「僕みたいな虫ケラ」が死んでも悲しむわけないって思うようになったんじゃないか?)

 姉として慕うだけではなく、密かに女性として愛するだけではなく。
 救済者として崇拝するようになっていった。
 その崇高な使命のために自分や家臣たちの命は捧げて当然だと思った。

 ずっと祈っていた信勝は立ち上がった。そして祈っていた仏像を少し睨んだ。

「姉上はお前たち神仏より凄い。だからその歩みを決して止めてはならない。僕やあいつらの命なんて捧げ物にもならないけど、少しでも力にならなきゃ。姉上もそう思っている」

(それは違う!!)

 信勝は去っていく自分に手を伸ばした。過去の映像は触れると呆気なく消えた。

「それは、違うだろ、僕……それは僕が救われたかっただけだ。姉上の望みじゃない、直接確かめもしなかったじゃないか!」

 それでも自分の気持ちを一つ知った気がした。
 自分は乱世に生きるのが辛かった。世間の当たり前に馴染むことができず、世界が壊れることを望んだ。
 だから人ならざる力を持つ信長を人として愛するだけでなく、神のように崇拝することで救われようとした。

 ずっと自分の辛さを忘れていた。だから他人の辛さも分からなかった。








【「憧れと言えば聞こえがいいが人間扱いしなかった」】





 いつの間にか氷の部屋でもう一人の自分の前に立っていた。信勝は膝をつき、俯いて床を見つめた。

『思い出したか? そう、僕は幼い頃のように姉上が好きで尊敬しているだけではなくなり、姉上の嫌う神のように崇拝するようになった』
「神のように……崇拝した。違う、姉上は神じゃなくて魔王で」
『魔王でも神でも同じだ。超人の役割を押し付けるられるならなんでもよかった。そして救いを求めたから超越者として扱うようになった。別の言い方をすると人間扱いしなくなった』
「……人間扱い、していない」
『憧れといえば聞こえがいいが人間扱いしなかった。だから僕は大切にされても気付かなくなった。神も魔王もヒトを愛するはずがない……その手で殺させても姉上が苦しむなんて全く思わなくなった』

 信勝は床から顔を上げ、もう一人の自分を見た。その後ろに最初のドアに刻まれた文字が見えた。『憧れは罪』。

「……憧れは罪なのか? 尊敬したり、すごい人だと思うことが全て間違っているのか?」
『限度がある。僕とお前は一線を超えてしまった。崇拝に至ってしまった憧れは時に暴力だ……これも自分の愚かさを知ることの痛み。それが罰だ』

 罰。けれど姉はすごいと言ったことが罪だとまだ思えない。

『現実の辛さに僕たちは姉上を崇めてしまった……だから今日まで気づかなかった、姉上にも人の心があることを。神や魔王には人の心はないからな』

 信勝は口の中を噛み、一筋の血が流れた。否定する言葉を探した。

「僕は……辛かった」
『そう、だから救いを求めた。凡庸な人間はいつもそうなのさ、苦しみが大きいと超越者に救いを求める。そして僕は辛いことさえ忘れていた。だから姉上を超越者にして崇拝したこと自体気づくはずない』
「僕は……姉上をすごいと言ったことが罪だとは思えない!」
『じゃあ、肯定できるのか? さっきの哀れな記憶を。ああして救いを求めて、挙句黙って殺させる計画を立てた過去をお前は許すのか?』
「……っ!」

 もう一人の自分の言っていることはおおむね正しい。崇拝の末に信勝は信長に殺される計画を立てた。人ではない姉は人の弟を殺しても傷つかないと押し付けたのだ。

『ずっと被害者のつもりだったよな。でも本当は僕は加害者だった。それを理解するための罰だ。……償えよ、姉上は被害者だ』

 必死になればなるほど姉を苦しめた。蜘蛛の巣でもがく蝶のように足掻くほど堕ちていく。

「加害者、本当にそうだな。それを理解させる、まさしく僕にとっての罰だ……でも僕はこれじゃとても自分を許せそうにない。ここから出られない。なんだよ……結局、お前の罰は僕を許せるものじゃない」

 信勝の頬を静かに一筋だけ涙を伝う。もう一人の自分をじっと見る。見たくないものを見せた憎い相手。それでもなんだか、信勝にはもう一人の自分が憎めなかった。必死に考えて行動していることが伝わってきた……自分自身だからだろうか。

『そうだ、僕はお前のその感情に到達するまで二年かかった。だから自分を許せないのは分かっている。聖杯だって確信してた。だが……心を削り取って綺麗な場所だけ残せばここから出られると五年経つと気づいた』
「心を……削る?」
『なあ、僕、自分に絶望しただろう? でも最初は違ったはずだ。僕もお前もただ姉上が好きだった……だからそこだけ残せばいい』
「……残す?」
『僕は十年考えた。お前と同じようにここで一人で考え続けた。そして同じ結論に到達して絶望した。そこから更に何年も考えた……どうしたらここから出られるのか。どうしたら僕はこんな自分を心から許すなんてことができるのか……そして結論が出た。僕は許せる自分だけ自分から切り離せばいい。精神のリフォームとでも言えばいいか』
「……」

 まだ結論は分からないが、信勝はもう一人の自分がどうしようもなく孤独に見えた。
 こんな冷たい場所にずっと一人でいたのだと場違いにも頬に触れた。本当に冷たかった。でも氷ではない。生きている。
 接触が気持ち悪かったのか、もう一人の自分は半歩退いて信勝の手をかわしてしまった。

『僕は僕が許せない。それは僕が姉上を苦しめたからだ。なら苦しめていない僕だけ残して切除すればいい。子供の頃の僕に戻るんだ。ただ姉上が好きで他には何もいらなかった。大人の僕は僕の一番の願いを壊して、姉上を苦しめた』

 信勝は驚かなかった。ここに来るまで何度か似たようなことを思った。青い鳥の時代の自分が姉の元へ帰れればいいのに。大人になろうと努力したことが結果として姉を苦しめたのだと。

「つまり僕の人生をほとんど消すのか……大人になった僕の記憶を全て。憧れた記憶を全て削り取って捨てるのか」
『そうでないを僕は僕を許すことはできない。僕たちは姉上に愛されている。だからもう殺すわけにはいかない。だが許すこともできないなら……まだ姉上を苦しめていない僕に戻って許すしかない。まだ罪をおかしていないから許すも許さないもない。崇拝も恋もいらないものだ』
「崇拝だけじゃなくて……恋も消すのか」
『一応な。まあ、ほぼ封じられていた。僕は確かに姉上以外を愛したことはない。だからこそ生前に自分で封じて切除した。その程度には僕も良識があったようだな』

 そう、だろうか? 今でも彼女を愛している。確かに自分なりに抑えてきたことは事実だが切除というほど徹底していただろうか。

「それって僕を子供に戻すってことか?」

 氷の杖の先端が信勝の鼻先に突きつけられた。

『いいだろう? ……気付いたようだが、僕も十年の間に思い出した。姉上は僕にただ笑顔で帰りを待っていることを望んでいると。それは子供の僕で十分果たせる役割だ』
「僕がやってきたことは……全て無駄だったのか?」
『いいや、有害だ。姉上を苦しめたんだからな。生きていくと人間は汚れていく。好きなだけでいいのに、欲を持って恋をしたり、辛い現実に崇拝したり……そういうのは余分だ。いらないものだ。純粋に好きだったのに、現実に汚れて無駄な部分ができて姉上を傷つけることになった。そんなのお前だっていやだろう?』
「余分……いらないもの」
『自分で書き出して思い出したんだろう? せっかく死後再会した後も自分がどんな酷い人間だったか』

 そうだ。どんなに愛されていたか理解したからこそ自分が許せなかった。

『だから戻すんだ。ただ純粋に姉上が好きだけだった頃の僕に。そうすれば罪を犯していないから自分を許せる。これが僕の結論だ』

 それは構図の逆転だった。今まで信勝は弱い子供の自分が嫌いで強い大人になることで過去を否定していた。しかし大人になることでかえって姉を傷つけたと知って、今度は大人の自分を否定して子供に戻ることを願うようになった。

(でも、それは……)

 場違いなことに信勝はもう一人の自分が放っておけなかった。
 だってそれは……目の前で必死に頑張っている自分を否定して消すことだ。

『心配するな。本当に頭の中を幼児にするわけじゃない。それじゃ足手まといだから、知識や経験は今までと同じだ。ただ姉上への感情から好き以外のものを消す。余計な努力をした大人の記憶もいらない。
 それで十分だろう? 僕たちは姉上が好きであることが全てじゃないか。すごい姉上という言葉を免罪符にして姉上を人間扱いしないことはもうない。姉上だって誰かを崇拝する人間なんて嫌っていたじゃないか。早くこんなゴミ、捨ててしまおう』
「こんな……ゴミ」

 信勝はその言葉を口の中で数度繰り返した。それは自分の人生のことだ。

 もう一人の自分は確かに信勝自身だった。きっと彼も苦しかったのだろう。一人でこの場所に十年閉じ込められて必死に考え続けた結論がこれなのだ。
 
 彼はとても正しい。けれど信勝は迷った。
 自分への憎悪は確かにあるが……なんだか目の前のもう一人の自分を見ていると躊躇が消えない。彼を消すしか本当に道はないのだろうか?

 論理は冷たいほど正しい。信勝は自分を許すことができない。罪を犯した自分を消してしまうことでやっと許すことができる。そしてここから出て姉を助けるのだ……でも。

「でも姉上はきっと僕が……っ!?」

 血の匂いがした。そして激痛。信勝の右の手の平が血まみれになっていた。

 それは桜の刀のキーホルダーだった。鞘が抜かれ刃が信勝の手の平を貫通していた。

『誰だ! どうしてこんな僕たちの無意識の底にまで!?』

 もう一人の自分は氷の瞳を冷たく光らせ、杖を振り上げた。その杖が冷たい光を放つと桜の刀のキーホルダーの刃がみしと小さな音を立てた。

 それこそ無意識に信勝は弾かれたように動いた。
 刀のキーホルダーを手の平から抜くともう一人の自分に切り掛かった。小さな刃だったが杖を持つ手に刺すと杖を落とした。

「ごめん……!」

 もう一度返す刀でもう一度腕を切り裂く。血を失って握力を失ったもう一人の自分は杖を落として、痛みに信勝を信じられないと見た。

『なんで……なんで? これしか方法はないのに……やっぱりお前は本当は姉上のためじゃなくて自分のためだけに生きているのか! 僕はやっぱりそんな人間でしかないのか!? ……姉上、ごめんなさい。またダメだった……!』

 もう一人の自分は今までの凍った仮面が剥がれ落ちたように泣いていた。

 信勝はキーホルダーを持ったまま逃げ出した。自分が心の核だというなら追いかけてこないでくれ、そう念じながら氷の中を走った。もう一人の自分は追いかけてこなかった。









【もう一人の弟の罪】


 ぜえと息を吐く。ずいぶん走って来た。
 来ないでくれと願った。そのせいか本当にもう一人の自分は追ってこなかった。

 ずっとどうして心の世界なのに自分の思い通りにならないのだと思ってきた。けれど心底から願っていなかっただけなのかもしれない。

(自分の本当の気持ちって本当に全然分からないものなんだな)

 ここは自分の無意識の底だと言っていた。無意識などどう変えればいい? いや、それはさっき彼が見つけていた。もう一人の自分は間違っていないと思う。子供の自分の心だけ切り離せば、罪を消した自分になれて許せなくてもここから出られる。

(姉上を好きでいられれば僕はそれで十分だ。でも……)

 どうして逃げたのか今でも分からない。あれが間違っているとは今も思っていない。ただ……何かを見落としている気がした。

 かなりの距離を登ってきた。周囲はまた氷の階段だった。右手には桜の刀のキーホルダーを刃剥き出しで持ったままだったので、血まみれだった。

……「ハナシテクダサイ、ケガシテマス」……

 沖田の声でキーホルダーは信勝から浮いて離れていった。宙に浮くと自然と刃は鞘に収まった。全く今までどこにいたのやら。

「ありが、とう……助けてくれたのか?」

……「アレジャ、シヌッテコトジャナイデスカ。ヤクソクハタシテクダサイ」……

 そう言って宙に浮いて先に進んでしまう。

「死ぬ……そうなのかな? 姉上もそう思うかな?」

……「ノッブホンニンニキイテクダサイ」……

 信勝も後についていく。本当に何も考えていないで逃げてしまった。

(僕はまた、間違ったのか? でも、他にどうすればいい。どうすれば本当に姉上のためになるんだ)

 本当に姉のためになることは何か。
 氷の階段を登りながらそれを考え続けた。










 長い階段の向こうにようやく果てがあった。二十段登っては折り返しになる氷の階段の先にやっと部屋らしき空間が見えてきた。先行した桜の刀のキーホルダーが飛ぶとコツと軽くぶつかる音がした。

……「トオレマセン」……

「蓋があるな。よっ……と」

 氷の蓋を押し上げる。気付かないほど薄い氷で信勝が少し力をこめればあっさり開いた。そのままキーホルダーと二人で広い空間に出た。

「部屋……にしては広いな」

 そこは広間といっていいほどの広さだった。立方体の内側にいるようで壁はまっすぐな垂直だった。少し部屋らしく壁の四隅に柱が立っている。足元を見ると絨毯のような唐草紋様が彫ってあった。

 信勝が数歩歩いて見回すと広間には観音開きの扉があった。片方が半開きで気になって、中を覗いてみるとそこには火を灯した蝋燭の灯りがあった。この空間に来て初めての炎の姿に驚いて思わず中に入るとそこは廊下だった。

 そして廊下の床にあるものに信勝は驚愕した。……それは海底で無くしてしまった安っぽい紙のソフトクリームのポイントカードだった。

「どうしてここに……えっ?」

 信勝が駆け寄ってポイントカードに手を伸ばすと何かが横切って指先が触れる直前に奪い去った。

「誰だ!」

 もう一人の自分かと身構える。その何かを目で追うと言葉が溢れた。

「え……亀くん?」

 そこにいたのはポイントカードをくわえた名無しの亀だった。

……「ワタシイガイニツイテコレルナンテ」……

 桜の刀のキーホルダーは感心したように言った。信勝は目を擦ったがそれは間違いなく名無しの亀だった。陸亀の姿だが、寒さにケロリとしている。そして口にポイントカードをしっかり咥えている。

『信勝殿』

 亀は器用に口にポイントカードを咥えたまま流暢に喋る。

「亀くん、だよな? よ、よかった。また会えるなんて……あの時は酷いことを言ってごめん……!」
『許しません』
「え?」

 信勝が駆け寄る前に亀は動いた。具体的に言うと頭と両手足を甲羅に引っ込め、空中を高速回転して、信勝の腹にぶつかった。

「ぐはあっ!?」

 信勝は後方三メートルほど吹っ飛ばされた。思い切り壁に後頭部をぶつける。思わず目が回ったし甲羅が直撃した腹が痛い。

「か、亀くん……?」

 うずくまって見上げるが亀は冷静だった。

『なんでも謝れば許されると思ったら大間違いですよ』
「そ、それは……」

 信勝は腹を抑えてなんとか上半身を起こした。いつも優しかった亀の目が冷たい光を宿している。信勝はどこかで謝れば彼は許してくれると甘えていたことを自覚する。

「そうだな、あんな酷いことを言って許してくれるわけないか……でも最後にもう一回だけ、本当にごめ……」
『それではさようなら』
「ま、待ってくれ! 僕を許さないのは当然のことだ。でもそのポイントカードだけは置いていってくれ! 僕には大事なものだし、お前にはなんの価値もないものだろう!?」
『返してほしければ追いかければいいじゃないですか』

 亀は走り、信勝から離れていく。

『あなたの方が辛い、私は最後まで一緒だから幸せだった。その思い込み、砕いて差し上げましょう。逆に言いましょう。最後まで見なかったあなたの方が幸せなのではないですか?』

 その言葉だけを残して亀は廊下の向こうに走り去っていった。










「待って! 待ってくれ、ごめん! いや、謝ってもダメなんだよな……くそ!」

 信勝は亀を追い続けた。周囲の空間は廊下と広間のループを繰り返している。ループする風景に前に亀と歩いた映画館を思い出す。

……「ストップ、ナニカアリマスヨ」……

「なんだ……光ってる?」

 また廊下を抜けるとピカピカと光る不思議な氷の壁が現れた。広間と広間の間の廊下の先にあった、不自然に小さな部屋でその壁は光っていた。

 激しく光っていてうるさい。なんの音だろう? まるで氷の内側から拳でガンガン叩き続けているような。

「って……卑弥呼?」

 信勝がその氷の前に立つとなんとその中に卑弥呼がいた。スーパーモードの方で神のごとき光を纏っている。

……「信勝くん! 本当にいた! ていうかこの場所だけ、時間が遡って止まってるけどどうしたの!?」……

「お前こそ、なんでここにいるんだ!? ……もしかしてお前の弟もそこにいるのか?」

 走り去った亀はもしかして彼の姉と一緒なのか。しかし卑弥呼にとっても想定外だった。

……「弟!? うちの弟もそこにいるの!?」……

 どうやらいないらしい。信勝と卑弥呼は同時に落胆する。卑弥呼の方が先に立ち直って顔を上げた。

……「そうじゃなーい! あのね、あたしは信長ちゃんを助けにきたの。なんか闇の力でやばそうだったから光のパワーでバーンと……やりたかったんだけどうまくいかなくて。代わりになんとかできそうな存在にチャンネルが繋がるように千里眼で探していたら信勝くんがいたんだけど」……

「あ、姉上!? 闇って、ぼ、僕はどうすれば!?」

 まさか自分を許さないと会えないはずの姉に会えるのか? 一刻も早くと信勝は氷の壁を殴る。しかし卑弥呼は首を横に振った。

……「ごめん、これ鏡に映ってるだけで実体はそこにはいないんだ。……多分、あたしじゃダメなんだと思う。信長ちゃんにとってあたしってそんな感じみたい。ぐすん。でも信勝くんならきっと心の奥深くに入れる、かも」……

「かもじゃ困る! 教えてくれ、僕はどうすればいい?」

 おや、と卑弥呼は首を傾げた。少しだけ前の彼と違うような。

……「信勝くんはそこから出られない。でもあたしの力で声と姿を届けることはできる。君の声なら彼女の心を取り巻く闇に隙を作れる。お姉ちゃんに呼びかけてあげて。お願い……久遠の鏡よ」……

 すっと卑弥呼の姿が氷から消えた。信勝が少し待つとその先の風景が切り替わった。

 そこは真っ暗な血の海だった。たくさんの死体が浮いている。その中で唯一生きている存在がいた。

「姉上!!」

……「のぶ、かつ?」……

 鏡の向こうの信長は血に濡れた刀を右手に下げ、血の海の中で一人立っていた。










ちょっと前の話



 それは帝都の事件を解決してもう数ヶ月経つ頃の記憶。
 まだ幻霊にすぎない信勝と信長は色とりどりの薔薇が美しいイングリッシュガーデンにいた。

 信勝は青空と花々に見惚れており、信長は自慢げに笑う。

「うわあ、すごい。これが南蛮の庭なんですね。えげれす、でしたっけ?」
「信勝は英霊の座に登録されてないのにどこからそんな知識湧いてくるんじゃ。まあ、あっとる。イングリシュガーデンというやつじゃ」

 信長は手招きした。赤と白のボーダーのパラソルの下にアルミ製の丸テーブルと椅子があってそこに座っている。どうやらアミューズメントパークの一部のイングリッシュガーデンらしい。

 信長はまるで現代という時代で遊園地に弟と遊びにきたようだと連想した。

「ほら、座れ。お前だって異国の春を愛でるくらいできるじゃろ」
「あ、あああ、姉上の隣に座れるなんて! いいんですか!? 夢じゃないですか!?」
「腹も減ったから気が向いただけじゃ。もう信勝の分も注文はしたし、わしの気が変わらんうちにさっさと座れ」

 視界の端に屋台を出しているタマモキャットがいる。他にも料理好きなサーヴァントが手作りのスコーンを焼いてきたらしい。いくらか払ったからもうすぐ紅茶とスコーンが二人分来るはずだ。

 今回はもう特異点を解決している。数日で消える場所だが、消えるまでは遊ぶのがカルデア流儀だ。頬を撫でる春風は確かに心地いい。

 意外にも信勝は恐る恐る信長の向かいに座った。いつも図々しいし好き勝手言っているのにビクビクしている。傍若無人な弟なのに妙な反応だ。

 まるで人見知りの小さい頃のようだ。まるで……また嫌われたようだ。

(だって言ったじゃないか、死んだのは……わしの為だったって。わしを憎んでいるのではないだろう?)

 ずっと憎まれているのだと思ってきた。それが覆されたのは明治の特異点の話だ。正直、天地がひっくり返った。

「い、いいのかな……姉上、僕がいていやじゃないですか?」
「?」

 言っている意味が分からず、信長は珍しく外見年齢相応に首を傾げてしまった。

「わしは好きなことしかせん。なんじゃ、何が言いたい?」
「い、いえ、その僕でいいのかなって……ほら、いつも顔色の悪い女とつるんでるじゃないですか。マスターって人も気に入ってるみたいだし……話すのが僕じゃ、退屈じゃないですか?」
「春の花を愛でて退屈などないさ」
「そ、そっか、花が綺麗だから……そっかぁ!」

 突然、信勝が子供の頃のような春の花のような笑顔で笑うので信長は黙ってしまった。

「あ、あの、姉上! ……え、えっと、花が綺麗ですね!」
「見れば分かる」
「……ううっ、せっかくのチャンスなのに何も思いつかないなんて」
「今更、信勝に気の利いた会話なんぞ求めておらん」
「ううー!」

 謎の会話だ。そこでちょうどタマモキャットが銀のトレイを持って近づいてくる。

「お待たせニャー♫」

 紅茶が青いティーカップで二つテーブルに並べられる。サービスなのかレモンがついていた。そして同じ青の皿で大きめのスコーンが一つずつ乗って苺のジャムを添えられている。

 信長が皿の上を何度も見たのでタマモキャットは猫口を開いた。

「すまぬがクロテッドクリームはさっきなくなってしまったのだ」
「ええー、マジで。あれ、わし好きなのに……こうスコーンにデロデロっとつけるのが楽しくてな」
「おい! 給仕、いや猫……? とにかく、姉上のお気に入りを出さないとは何事だ!」
「信勝うるさい。キャット、カルデアに戻ったら何かサービスしてくれるだろうな」
「カレーのおかわり無料一回で手をうとう」
「うむ、忘れるなよ」

 信長はさっさと紅茶にレモンを入れて口をつけた。信勝は口をつけないまま、まだキャットを睨んでいる。

「いいんですか、姉上。あの給仕、いや猫? 姉上を軽んじていませんか?」
「昔は正一位のわしも今はボイラー室の横暮らしよ、品切れくらい諦めるさ。それより、信勝、早く食べろ。冷めた紅茶はまずいぞ」
「は、はい」
「……」

 信勝は猫舌だ。だからふうふうと紅茶を吹いている。それを横目で見ながら信長は脳裏にいくつも言葉を用意した。

(……どう切り出したものか)

 帝都で信勝に再会してもう数ヶ月だ。明治維新の時はまさか再会できるとは思わなかった。幻霊のくせにまだカルデアにいる。きっとまだしばらくいるだろう。

 だから、信勝に聞きたいことがある。帝都では信勝の霊基に入って、信勝の心をいくらか覗く事ができた。だから、信勝に本当に殺された憎しみも恨みもかけらもない事は知っている。

(少しは恨めっつーの、死んだんじゃぞ)

 気にしているのは信長ばかりで腹立たしい。けれど、だから聞ける事がある。ここまで数ヶ月迷ったが……風景は尾張と似ても似つかぬ異国の風景。食べるものも遠い異国のもの。信勝が腹を切った時のものを連想させるものはない。

(どうして何も言わなかった?)

 どうして死ぬ前に一言も言ってくれなかったのか。
 姉になんでも話していた弟だったのに、なぜ最後だけは何も言わなかったのか。
 明治の時はそこまで考えが回らなかったが、また幻霊として再会できたなら聞きたかった。なぜかまだ現界しているが次があるとは限らない。

「てか、まだ食べてないんかい」
「す、すみません、猫舌で……それに食べたら消えちゃうなあって」
「そりゃ食べれば消えるじゃろ」
「もったいないなあ」

 ようやく信勝は紅茶のカップを手にした。それを飲んだら話そうと信長はその手元をじっと見つめた。

「姉上、いただきます」

 ガシャンと陶器の割れる音がした。信勝のティーカップが地面で砕け散る。

「……信勝?」

 信勝は紅茶に口をつける直前に金色の粒子になって青空に消えた。帝都から数ヶ月英霊でもないのに平然とカルデアに存在していた。そのくせ信勝はたった今目の前で消えてしまった。

「……」
「む? どうした? 賊か?」

 砕けた音を聞きつけたタマモキャットが戻ってきた。信長はじっと砕け散ったティーカップを見た。さっきまで信勝の足があった場所にレモンのスライスがある。青い破片に手を伸ばすと手袋が切れ、信長の指先に小さな血の球ができた。

「むむ? 弟はどうした? やはり賊なのか?」
「いや……もう、信勝は帰っただけじゃ」

 これでよかったのかもしれない。
 どうして死んでしまったなんて、今更聞いてなんになる。

 信長はその日、日が暮れるまでじっとその席に座っていた。二つの皿をスコーンは誰にも食べられず冷たくなっていった。固くなってしまったので信長は翌日スコーンをゴミ箱に捨てた。






 







続く














あとがき

おそらく死んでもダメ。謝ってもそんなことは望んでない。二度と会わないことも違う。なら本当の贖罪はなぁに?

書いてて思い知ったのですが私は本当に氷の城のモチーフが好きですね。

久しぶりに信勝のバレンタイン礼装テキスト見たのですが「多分、他にも色々あったんだろうが、信勝はこれしか覚えてないんだろうなー(遠い目)」となった。

福袋はアーキタイプ・アースでした。やったー! ヤマタケも当たったよ! うっ!!(聖杯がなくなった)

信勝の贖罪の物語、終わりませんでした。次は早めにアップしたいです。




おまけ


憧れと理解

インターネットで有名な「憧れとは理解からもっとも遠い感情だよ」とはジャンプ漫画のブリーチの藍染先生のお言葉ですが、このセリフを踏まえて信勝に「僕は姉上の一番の理解者ですから!」と言わせるなら経験値先生いいキャラ造形だぜ……と思う。



信勝

カッツ、セカオワのhabit聴こうぜ! 割とお前と現代人向けな気がする!

レモンティーとスコーンは食べる前に消えたので思い出せない。

手に届かない片思いを続ける、自分を卑下することで他人から遠ざかっている、自分への好意を受け取ることが下手。こうやって書くと令和っぽい人格である。

ポップコーンで一番好きなのはキャラメル味。



信長

この話のラストはもう決まっているのですが、そのハッピーエンドが遠くてなかなかそこに連れて行けず申し訳ない。ノッブに「どうして死んだ?」と恨み言を言われても「あの時は分からなくてごめんなさい。これからずっとおそばにおります」というカッツを届けたくてやってるんだが私の力量ではまだ届けられないようだ……。

このノッブは映画が好きで最初はアクションとか見てたけど、人間の心理を勉強するために人情ものや恋愛映画も時々見る。

ポップコーンで一番好きなのはバター醤油。



もう一人の信勝

信勝はどう見ても自分に冷たいのでもう一人の自分も当然信勝に冷たいです。氷のように。青い鳥は役割があるので優しいです(あと子供時代は信勝は自分が好きだったので)。


桜の刀のキーホルダー

マジで祟りです。沖田本人というわけではなく、約束を守らなかったことを怒っている気持ちだけついてきている感じ。ほとんど干渉せず、約束を守らないと判断した時だけ突っついてきます。


卑弥呼

どんな無茶苦茶でも「それでも卑弥呼ならできるのでは……!」と作者に思われているので超過労働気味。




ずっと大好きな姉と一緒だった名無しの亀は本当に幸せだったのでしょうか。


煉獄

日本では煉獄というと煉獄さんなんだろうな。

西洋の地獄的には罰を受けて罪を許されるための場所です。
地獄に落ちると許されることはなく、永遠に罰を受けます。

煉獄山はダンテの神曲に出てるやつのイメージ。