夫婦ごっこ11~宝物は最初からこの手の中に~






目次

一章 姉は魔王だけれど
二章 亀くんの過去
三章 二人の弟の罪と罰
四章 もしも自分を好きになれたら
五章 無敵の僕にさようなら
六章 僕が僕を助けるために
七章 弟の捨てられなかったもの
間章 むかしの話 切腹前夜



一章 姉は魔王だけれど



「姉上」

 氷の壁の向こうには信長が立っていた。いつもの軍服を着て、右手にぶらりと刀を下げている。マントはボロボロで帽子はない。
 そして全身が血まみれだった。まっすぐな黒髪が血を吸って重くなっていた。黒い服だから分かりにくいが布地が多くの鮮血でベタりと身体に張り付いている。

……「いいや、また幻か」……

 弟に姉は刀を向けた。どうやら本物ではなく幻だと斬るつもりだ。かまわず信勝は近寄った。

「姉上、僕はずっと姉上に酷いことを……!」

……「こ、この……刃が見えておらんのか! これだから幻は!」……

 躊躇わず心臓が刺されるルートを選ぶ弟に咄嗟に姉は刃を引いてしまった。どちらにせよ姉弟は同じ空間にいないので触れることすらできない。信勝は信長に近づこうとして氷の壁にぶつかった。

 思い切り額をぶつけて涙目になるが信勝はせめてもと言葉を投げかけ続けた。

「姉上、僕はずっと間違ってました! 生きてた頃だけじゃない。死んだ後もずっとずっと……本当にごめんなさい」

……「わけの分からんことを言い出しおって! 大体、謝るって何を……いや、真面目に答えるな。これは何度も見せられた幻……聖杯が精巧に作った偽物……何度も何度も嘘の信勝だった」……

(そうだ、今更謝ってなんになる。こんなの僕の自己満足だ)

 冷静さが戻ると自分を恥じた。元より口先の謝罪などで償える罪ではない。

 もっと現実的なことを考えなければ。
 信勝が見ている信長はあくまで卑弥呼が繋いでくれた映像と音声だけだ。実体はそこに無い。信勝が触れても氷の壁は抜けられない。映っているだけ、カルデアの液晶モニターと同じだ。

「姉上、怪我をされたのですか? 僕は本物です。卑弥呼が僕と姉上の間にチャンネルと繋げてくれたのです。その血はどうしたのですか、聖杯に攻撃を受けたのですか?」

 せめて意味のある言葉を投げかけたい。けれど信長は拒絶的な態度を崩さず、届かない。

……「はっ。卑弥呼の名を出すなど、今度の幻は多少はリアリティがあるではないか……わしが怪我などしているはずがない。これは全てわしが斬ってきたものたちの血だ」……

 信長はズブと足元の血溜まりからブーツを引き抜いた。その血の海を見て、どうすればこれだけの血の海ができるのか想像してしまった。

「姉上、どれだけ人を殺したのですか?」

 深く考えず言った瞬間、失言したと分かった。姉の凍った眼差しに言葉を間違えたのだと弟は悟った。鋭くなった信長の眼差しはすぐに冷静に戻った。

……「だったらなんだ。この織田信長の人生、血に塗れておらん時などないわ。いつでも血の海で勝ってきたのがわしじゃ」……

「姉上が誰を殺しても信勝はちっとも構いません。ただ……」

 信勝の目には信長は酷く疲れきって見えた。生前の姉は殺人を好みはしないが、別に悔やむ性質でもない。でも今はとても苦しんでいると感じる。

 本質的には姉より信勝の方が冷酷だ。姉が自分の全て。だから彼女が必要で人を殺しても、気まぐれに殺しても気にしない。理由くらいは気になるかもしれないが、斬ったのが無辜の民でもマスターでも信勝は最終的には気にしないだろう。

「でも姉上はお疲れに見えて……っ!」

 信勝が口を開くと信長は問答無用で信勝に切り掛かった。しかし、氷の向こうの刃はただすり抜けるだけだった。

……「届かんか、やはり幻ではないか。わしはずっとこうだった。ヒトなどどれだけ殺しても心一つ動かんバケモノだ。お前だって……なんとも思わなかった」……

「姉上は……バケモノじゃありません。姉上は姉上です」

 最後が小さくてうまく聞き取れなかった。信勝は反論しつつ、前から姉にはこういうところがあると思い出す。露悪的で自分を魔王や怪物ということをよしとしている。むしろ積極的に自分を「血も涙もない」存在だとアピールする。

……「ふはは、確かに信勝っぽいな、聖杯も学習したらしい」……

 剛毅な笑いも今はどこか空疎に感じる。いつもの余裕が姉にはない。

「姉上、本当にお疲れに見えます。進むことを止めることはできないのですか?」

……「そんな暇はない。わしの人生はずっとこうさ、血の海で敵を探し続ける」……

「なぜそこまで戦い続けるのですか? 少しでいいから休みましょうよ」

……「それが魔王の道じゃ」……

 信勝の目には姉がこう映った。進むことしか許されない。もう疲れてしまったのにどこにも帰れない。

(これが僕が死ぬことで開いてしまった姉上の魔王の道なのか?)

 ずっと卑弥呼と一緒だった亀とは違い、信勝は信長がどうやって魔王になったかその過程を知らない。その過程で苦しんだかどうかすら知らない。姉自身「さてな」という風にしか伝えてくれなかった。


……『逆に言いましょう。最後まで見なかったあなたの方が幸せなのではないですか?』……


 走り去った亀の言葉が脳裏に浮かぶ。つまり亀は卑弥呼が辛かった姿も見たということだ。

(もしもあの聖杯が叶えた姉上の夢みたいに、僕がずっと姉上のそばにいたらどう思ったろう?)

 きっと信勝は「もうやめましょう」と言うと予測した。崇拝したことで「姉にはそんな凡人の感情はない」と見えなくなっていたがそれでもそばにいれば気づく。

……「なんじゃ、お前は……本当に今度の幻はリアリティがある。いや、まさか……聖杯が本物に何かしたのか?」……

「姉上、教えてください。織田の家を継いだことで姉上はしたくないことから逃げられなかったのですか? いやなら、いつでもやめればいい。辛くなったら織田の家なんて自由な姉上はいつでも捨てられる。死ぬまで僕はそう思っていました。でも……僕のせいで逃げられなくなったのですか?」

 最後の言葉は絞り出すような小さな声しか出なかった。

「誰よりも自由な姉上を、僕の死で縛ってしまったのですか?」

 信勝は一番恐れている推理を口にした。信長の人生は輝かしい。だって姉は本当に日の本を統一してしまった。本能寺で討たれるまで輝かしい頂点にいた。

 だから彼女自身、幸せだと決めつけていた。けれど……本当は違うのか?

……「自由? お前に縛られる? たわけたことを、わしは何にも縛られん。好きに生きた。それだけじゃ」……

 信勝は思わず安堵した。けれど信長の言葉は続きがあった。

……「大体、どこへ行けばいい。もう尾張にも帰れない」……

「尾張に帰れない? なぜです、姉上の故郷じゃないですか?」

 姉は何度も拠点を移動したことは知識で知っている。けれど尾張には何度も帰ったはずだ。信長はイライラと頭に手を当てた。

……「もう、尾張は帰る場所がない。戻ってこないのは分かっている」……

「それはどういう意味……あ」


……「帰ったらお前がいる部屋はわしが生涯かけても取り戻せないものだった」……


 信勝は姉の手紙の内容を思い出す。弟のいる家を生涯かけても取り戻せなかったと書いてあった。

(僕が愛されてるって知らずに死んだりしたから)

 姉の帰る場所を奪ってしまった? だから魔王の道がどれほど苦しくても逃げられなかったのか?

 信長はまた信勝に刀を振り上げた。

……「本当にうまくできた幻じゃった。つい……昔のことを喋ってしまった」……

「……ごめんなさい」

……「うるさい、わしは偽物には用はない」……

「死んでごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! 僕のせいなんです、僕が勝手に死んだんです! 姉上は僕に利用されただけなんです! ごめんなさい、ごめんなさい、死んでごめんなさい!!」

……「な……」……

 氷の向こうの映像と分かっていても信勝は謝罪した。何度も頭を下げて氷の壁に何度も額をぶつける。額からは血が、目からは涙が溢れていた。

「全部、僕が悪いんです。姉上は僕がいらないと決めつけて死んだ。しかもあなたの手で死にたいと手を汚させた。どんなに酷い事か、姉上がどんな苦しい想いをするかちっとも考えず……全部、僕だけの責任なんです。姉上は僕のわがままに巻き込まれただけなんです」

……「何を突然、戯けたことを……謝罪など意味がわからん」……

 信長はずっとこれは聖杯の幻と心を許すまいとしていたが、信勝の様子についに本音が溢れた。まして自ら弟が死を語るとは姉の想像を超えていた。

「どんなに謝っても償えないことは分かっています。それでも、ああ……本当にごめんなさい」

……「うるさい、黙れ。そもそもわしが……」……

「結局、僕の人生は全て無意味でした……いっそただ崖から身を投げていたら、せめて姉上の手を汚さず済んだのに」

 その言葉でわずかに開いた信長の心は閉じた。

……「……そんなもの、求めてない」……

 信長はカッと紅い目を見開いた。信勝の言葉のどこかが逆鱗に触れたようだ。

……「謝ってなんになる……謝罪なんぞ求めてない。意味がわからん。そんなことより……なぜ、なぜお前はそんなことばかり言うんじゃ! なぜだ信勝!?」……

「……姉上?」

 その表情に信勝は何かを間違えたと悟った。その叫びにまた彼女を傷つけたのだと理解した。しかし、どこを訂正すればいいか分からない。


……「お前がやなこと言うからだ」……


(あれ……?)

 前にもこんなことがなかったか?

「あねう……!」

 そこで姉と弟のチャンネルは途切れた。


 映像が遠ざかると信長の声が小さく響いた。


……「わしは万能じゃ。
 だからわしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。わしはもっとうまくやれたはず。
 それなのに、どうしてあの時、信勝を」……


 信勝の耳にはそれが泣いているように聞こえた。



 そして一つの出来事を思い出した。

 姉が「お前がやなこと言うからだ」と言った経緯だ。





 それは少し前の記憶。どうでもいいと忘れてかけていた小さなエピソード。

……「お前がやなこと言うからだ」……

 その言葉の直前に交わされた会話は以下の通りである。

……「信勝?」……
……「すみません、姉上、僕死んじゃって」……
……「……本当にお前か?」……
……「本当にすみません、うっかり死んじゃったので。なにしろ情けないほど弱っちいので……でも死んだのが僕でよかった」……
……「……は?」……

 てへと信勝は姉に微笑みかけた。

 先ほどの戦いで信勝は霊基を保てなくなり、カルデアに一時帰還した。信長を庇って目の前で竜の炎の中で灰になったのだ。ほんの数秒とはいえ信長は弟が燃え尽きる瞬間を見た。

 絶望した。弟がまた死んだ。これで何度目だ。魔王のはずの自分にそんな感情が残っていたことにも絶望した。
 気遣うマスターに口もきかず、ただパーティの後をついていった。

……「聞こえているかい? 君の弟は無事だ。いや、そっちでは無事じゃないが……とにかくカルデアに帰ってくることができた。早く顔を見せるといい」……

 ダヴィンチちゃんに通信で告げられて肩の力が抜けた。

……「……そうか、無事か」……

 だから一筋の灯りを辿るような気持ちでカルデアに戻ってきた。しかし言われた言葉は「死んだのが僕でよかった」だった。

……「だってこれが茶々とかだったら身内に甘い姉上は流石に気に病むでしょう? 相手がマスターだって。僕は違う、無能で存在価値がない。僕が死んでも偉大な姉上にはどうでもいい。だから身を灰にする宝具だって姉上の前で使えるのです。いいじゃないですか、僕なら死んでも……姉上?」……

 信長は思い切り信勝の頬を殴り倒した。そして信勝は気絶した。

 信勝が次に目を覚したのは信長の個室だった。ベッドに寝かされている。信勝は姉が仁王立ちで自分を見下ろしていることに気付いた。

……「姉上? ここは一体……?」……
……「おい信勝、お前、わしと夫婦になれ」……
……「はい、姉上! この信勝、姉上の命とあればなんであれ! ……え? め、めおと……?」……

 その後、信勝は熱を出して三日ほど寝込んだ。寝込んだうわ言で姉にこんな事を聞いた。

……「め、夫婦って……な、なんでです?」……
……「お前がやなこと言うからだ」……
……「????」……

 理解できない信勝はまた熱で倒れた。





(なんでずっと忘れていたんだ。死んでもいい。僕は姉上に何度そう言った?)

 信勝は何も映らなくなった氷の壁を叩いた。

「卑弥呼! 待ってくれ、姉上が!」

……「ごめん……時間切れ」……

 数秒だけ薄い卑弥呼の影が映るがすぐに靄のように姿形をなくして影だけになる。ノイズの混じった声だけが聞こえた。

「僕は……馬鹿だ。謝るなんて、そんなこと今更……卑弥呼、どうしても無理なのか? なんとかもう一度、姉上を助けるチャンスを」

……「大丈夫、今度こそ信長ちゃんを助けにいけそう」……

「……え?」

……「君がじゃなくてあたしがだけどね。ずっと信長ちゃんの魂が壁に囲われてどこにあるか分からなかった。でも信勝くんが話したかけことで信長ちゃんの心の壁が少し開いた。やっと本音を話してくれたから、これであたしが助けに行ける」……

 まさか役に立ったのか? 謝罪なんて求めていないと言われたのに。

「お前の力なら、僕をここから出すことはできないか?」

……「ごめんね、それは無理。自分から出ない限り君は死んでしまう。でも大丈夫。だって信勝くん、少しだけそこから「出てる」もん」……

 すっと卑弥呼の形をした靄が氷の壁から指先だけを出した。信勝は驚いてその指に指を触れさせた。本当だ、触れている。

「出てる? 僕は何か変わったのか?」

……「君は少しずつだけど確かに進んでいる。大丈夫、そっちで合ってるよ。そのまま進めば大丈夫。ほら、女王卑弥呼様の千里眼を信じなさい。それに信勝くんに触れて分かった……きっとそこにはあの子がいるんだね」……

 氷に映る卑弥呼の影が消える。声も消える。本当の時間切れだった。






二章 亀くんの過去



 信勝はしばらく卑弥呼が映っていた氷の塊を叩き続けた。しかし、なんの反応もなく、これは所詮映らなくなったモニターと同じだとその場を離れた。

……『ダメデス、ワタシニモキレマセン。オキタカナシイ』……

 桜の刀のキーホルダーは氷の壁を斬ろうとしてくれたが表面を浅く傷つけただけだった。

 また氷の廊下を進む。廊下が終わると部屋、部屋の扉から出ると廊下の繰り返しだった。それでも卑弥呼と接触したからだろうか、身体が軽いし目がちゃんと見える。

 姉の様子を思い出す。怪我ないと言っていたが疲労の限界に見えた。

(早く姉上を助けに行かないと……ああ、姉上をまた傷つけてしまった。どこがダメだったのかまだ分からない。でも卑弥呼が言うには心を開いてくれたのか?)

 一体、どの言葉がいけなくて、どうして自分はそれを言ってしまったのだろう。感情に任せて叫んだので内容の記憶も曖昧だ。

(馬鹿だな、僕は。気持ちが先行して言ったこともろくに覚えていない。ええと、少しは思い出せる。僕の人生は無意味でした……だっけ?)

 信勝が右手を顎に当てて歩いていると聞き覚えのある声が聞こえた。

『……姉上?』

 亀の声だ。信勝が振り返ると氷の廊下の向こうに亀がいた。酷く懐かしそうな目をしていた。

 そしてその口に赤いポイントカードを加えている。

「亀くん、もしかして返してくれるのか?」

 信勝が恐る恐る一歩を踏み出すと亀ははっと我に帰り、氷の向こうへ走り去っていった。







 信勝は床を蹴って追いかける。海ではないのに亀のスピードは早く、見失わないことで精一杯だ。いや、彼は陸亀だったはずだが……。

「待って、待ってくれ……! いたっ、こんな時くらいやめてくれ!」

……「ハシルノオソイデス」……

 桜の刀のキーホルダーは背中に突かれて痛い。
 しかし、速度は上がった。わずかだが距離が縮む。信勝は亀に呼びかけ続けた。

「本当にごめん、でもそれは僕の大切なものなんだ! 返してくれ!」

 ポイントカードを取り戻してなにができるわけでもない。それでも取り返せるなら悪魔に魂を売ってもよかった。

 走っているとまた頭の中に亀の声が響いた。

『どうして返して欲しいのですか? スタンプだって中途半端。持っている意味なんてないじゃないですか』
「そんなの関係ない!」

 どうして最後まで持っていたい。それは説明できない気持ちだった。理屈の破綻した感情だった。

「例え無駄でも……なんだこれ?」

 また廊下の氷のドアを開けて部屋に出ると様子が違った。そこは部屋ではなく広間だった。かなり広く向こう側の壁が見えない。ひやっとした風が吹き身震いしてそこを十歩歩くとヌッと大きな影が現れた。

 素朴だが荘厳な氷の建物があった。この形状は邪馬台国で見たことがある。確か丸太で作った神殿だ。

「亀くん、ここにいるのか?」

 信勝は戸惑ったが神殿の階段を登って扉を開き、恐る恐る中に入る。真っ暗で奥の方だけ小さな油の灯りが灯っている。そっちへ進むと信勝の耳に話し声が聞こえてきた。

……「姉上、もう逃げましょう。太陽の光が似合うあなたが暗い神殿の奥深くに閉じ込められた姿、これ以上見ていられません」……
……「何を言っているの、××××くん。女王が邪馬台国をおいてどこに逃げるっていうの?」……

 灯りを頼りに神殿の奥深くに辿り着くとぼんやりとした人影が二つあった。片方は座っていてもう片方は立っている。信勝がよく見ようと目を凝らすと急に視界は鮮明になった。

「卑弥呼と……誰?」

 そこには姉弟がいた。女王の衣装を着た卑弥呼と名無しの弟だ。信勝は彼を亀の姿でしか知らないが、卑弥呼を姉と呼んでいるなら彼なのだろう。卑弥呼は植物の装飾をした丸い鏡の前に座っており弟の方は影になっていてよく見えない。

……「私はこの神殿の差配をしております。私が計画すれば誰にも気付かれない。あなたはただ逃げてくれればいい……もし、もし許してくだされば私も一緒に」……
……「駄目。やっと邪馬台国が平和になったのにそんなことできないよ」……
……「もう、もう十分ではないですか! 十分に国は豊かになった。これからは姉上の力がなくとも皆飢えずに暮らしていけます!
 私が悪いのです。私があの時、日照りに困り果てた村人に姉上に未来を見る力があると口を滑らせてしまったからあなたを光のない場所に閉じ込めてしまった。
 どうしても考えてしまうのです……あの時、私が喋りさえしなければ姉上はただの人として幸せになれたのでは」……

 くるっと卑弥呼は振り返り、困ったような笑みを浮かべた。

……「××××くん、ありがとう。でもそれはできない。この国にはまだ力のある王が必要なの。それにね、私これでも結構幸せなの」……
……「そんな馬鹿な! あんなに日向で寝転ぶのが好きだったのに出歩く自由さえないではないですか。私のせいで姉上は邪馬台国の民の生贄になった!」……
……「私は王を退くことはできない。みんなが幸せならいい。でも君が自由を望むなら、××××くんだけはなんとか……」……
……「何を馬鹿な、姉上を置いていけるものですか!! ……どうして、どうしてこんなことに!」……

 弟は膝をつき、涙をこぼして床を拳で殴った。





 また周囲が暗くなり、壁伝いに歩く信勝の脳裏に亀の声が響く。

『あなたはすぐに死んでしまった。だからその先を見ていない。自分がなにをやったのか分かっていない』

 その通り。信勝は信長の魔王の道を開いたけれどどうやって魔王になっていったのか見ていない。そもそもさっきの卑弥呼のように辛い思いをしたかすら知らない。

 自分たちは似ていると亀は言っていた。人ならざる偉大な姉を持つ平凡な人の弟。そして誰よりも姉を慕っていた。

 けれどこれは違う。信勝は姉の魔王の道行を見ていないが、亀は卑弥呼の女王の道行を見ていたのだ。ずっと、ずっとそばで……あのクコチヒコの闇の中まで。

(姉上は辛いことがあっても僕が死んだせいで逃げられなかった?)

 そんなことを今更考える。誰より優れた人だから人並みの辛さなど最初から持っていないと信じていた。神のように崇めてしまったから。

……「わしは好きに生きた」……

 さっきだってそう言っていた。けれどそれが姉の本心だと信じられない自分がいた。

……「大体、どこへ行けばいい。もう尾張にも帰れない」……

(卑弥呼と姉上は違う。姉上は神殿に閉じ込められてないし、いやなら止められたはずだ。姉上は僕に縛られてなんかいないはず)

「……そんなの」

 信勝は感情のまま拳を握り、爪が突き刺さり一筋の血が流れる。

「そんなのただ自分か傷つかないためだけの保身じゃないか!」

 自分を殺させた上に、その先に開いた道で姉が辛い目にあったなんて信じたくはなかった。けれど亀はそう伝えたいのではないか。

 信勝が瞬きをするとまた亀の記憶が流れてきた。





 


 それは美しい思い出。セピア色に色褪せていやな部分も美しく見えてしまう。記憶の騙し絵。

……「××× ×くん、見て見て、はやく!」……
……「姉上、待ってください。姉上と私じゃ足の速さが違うのです」……

 それは卑弥呼が女王になってから珍しい光景だった。卑弥呼は女王の衣装を脱ぎ捨て、目立たない町娘の格好をして弟と邪馬台国の集落から離れた丘を走っていた。運動神経バツグンの姉に弟はついて行くのも精一杯だ。

 弟は息が切れて樹木の幹にもたれる。卑弥呼の弟はもう中年と言ってもいい年だ。年上のはずの卑弥呼はいつまでも若い肉体のままだ。それでちっとも構わないが流石に坂道のかけっこは足がついて行かない。

(懐かしい……まるで子供の頃のかけっこみたいだ)

 あの頃もこんな風に姉についてはいけず木の根元でうずくまっていた。
 
……「ごめんね、××××くん。あたし、歳とらないの忘れてた」……
……「ぜえ……全く、加減してください。いつも姉上は足が早くて追いつけないのですから」……
 
 すっと手が差し伸べられる。姉は老いない。きっとその特別な力の影響だろう。病もない。それはいいことなのに「それさえなければ」と思うことが増えていた。

 卑弥呼は弟を小高い丘の上に連れて行った。夕焼けの橙色の光が邪馬台国を眩く照らしていた。

……「見て、ここから見ると一番綺麗なんだよ。村も大きくなったなあ。もう村じゃなくて町、じゃなくて国だね」……
 
 稲穂が夕日を浴びて黄金に輝く。集落はすっかり大きくなり、道も整備されている。子供達が笑い声をあげて、母親の待つ家に手を振って帰っていく。飢えの苦しみも奪われる恐怖もここにはない。

 卑弥呼が女王になる前はあり得なかった光景だ。

……「みんなが幸せそうでよかった」……
……「この丘の存在は知っていたのに、こんなに綺麗なんて知らなかった。神殿の近くなのに来ようと考えたことすら」……
……「××××くん、ずっと忙しかったもんね。あたしの託宣を伝えるだけじゃなくて神殿の差配から貧しい人たちのための政まで」……
……「それは……私も神官ですから」……

 姉弟はずっとこの光景のために身を粉にしてきた。ようやく手にした苦しみない平和な国。

(本当に実現できたのに気付かなかったなんて。どこかでずっと夢物語だと)
  
 願ったもの全てがそこにあった。苦しみと飢えの影もない、卑弥呼が導き、守り、作ってきた邪馬台国だった。

 弟だって国のみんなの笑顔が嬉しい。

……「これが見たかったんだ、平和で豊かなみんな笑顔の邪馬台国。無理言って神殿を空にしてもこれを見たかった」……
……「姉上……」……

 卑弥呼はコツンと自分と弟の拳をぶつけた。
 
……「やったね、××××くん。あたし、やっぱり女王になってよかったよ」……

 振り返った卑弥呼の笑顔は神殿の中では見られなかった笑顔だと弟は思った。
 どこかであの美しい邪馬台国は姉の生き血をすすって生きているのだと影が心に差した。






 


 卑弥呼の弟は集落の深夜の暗がりを歩いていた。卑弥呼と同じく神殿につきっきりの彼には珍しい。供はなく、その手に松明だけを持っていた。

 邪馬台国は祭りで、夜遅くまであちこちに篝火がたかれていたので弟の持つ松明一つはさして目立たなかった。それに皆酒を飲んでいて細かいことは気にしない。なにしろ邪馬台国は豊かで平和なのだから。

……「おじいちゃん?」……

 寝ぼけ眼の幼な子にそう呼ばれて弟は振り返った。もう彼は老人に差し掛かっていた。無論、卑弥呼は若い頃のままだ。邪馬台国は弟の死後も卑弥呼の元、導かれるだろう。

……「どこの子だい? 祭りでももう子供は寝る時間だ。送っていこう」……
……「え、でもおじいちゃんも一緒に帰るでしょ?」……
……「こらお前! 神官様になんて口を!」……

 しゃがんで名前を聞いていると母親らしき女がやってきた。神官様。それは邪馬台国の女王であり、託宣を伝える弟が呼ばれている役職名だ。弟の名前はもう姉の卑弥呼が時々呼ぶだけで忘れられていた。

……「すみません、なにせ子供なもので」…… 
……「いや、かえって手を煩わせた。もう子供は家で寝かせなさい」……
……「この子ったら先月死んだ祖父に懐いていたもので」……
……「……そうか」……
 
 自分はもうそんな歳なのだ。死の気配を日に日に近く感じている。

 不意に卑弥呼が先日言った言葉を思い出す。

……「そろそろ××××君も引退していいんだよ? もうおじいちゃんなんだしさ。あたしは若いままだからいいけど。
 もちろん君が邪馬台国の神官を一番やりたいならそれでいい、でも少しは君にもゆっくりして欲しくてさ。政はほとんど任せちゃってるし……少しくらいわがまま言ってくれないとお姉ちゃん寂しいんだから」……

(その後、姉上は永遠にこの国に縛られるのですか、たった一人で?)

 目の前の子を抱き上げる母親を見る。卑弥呼の神官である存在にあたたかい笑顔を向けている。……歳のせいか、その民たちの笑顔に暗い感情を抱くようになった。

(私たちはみんな貧しかった。わずかな食糧のために争いが絶えなかった。だから、私はあの日、姉上の力なら日照りも解決できるかもしれない言ってしまった……私はどんなに暮らしが辛くとも姉上がいればそれでよかったのに)

 そこから姉は人でなく裁定者として祭り上げられた。か弱き民は強いものに縋ることになんの躊躇もない。まるで餓鬼が食事を貪るように卑弥呼に「助けてください」と言い続け、その力を与えられ続けた。

 国は豊かになり、邪馬台国と呼ばれるようになり、弟は平和と豊かさにこれでよかったのだと信じていた。神殿に封じられた卑弥呼の優しい笑顔を見るまでは。

 姉にも、誰にも告げずに育った感情はもはや呪いだ。

(平和な国をあれほど望んでいたのに、少しずつそれを憎むようになった。この平和が姉上から全て奪った。無辜の民達は卑弥呼様、助けてください、なんとかしてください、そういえば何をしても許されると驕っているのではないか。弱者なら強者に際限なく願っても許されるのではないかと……恨むようになった)

 だから、祭りの日を選んで松明を持って、神殿を抜け出した。
 油は十分撒いた。酒を飲んで動けないものも多い。そもそも酒自体に眠り薬を混ぜた。

 卑弥呼にどれだけ憎まれても構わない。
 助けを求める民が焼けてしまえば、今度こそ姉は解放されるのだから……。
 
……「おじいちゃん、おじいちゃん!」……

 わあっと子供は泣きだすと弟ははっと思考から浮上した。子供は弟をまだ祖父と思っていてねだるように服の裾を握った。その姿に「姉上、姉上」と卑弥呼の後ばかりついていった幼い自分の影が見えた。
 
……「危ない!」……

 感情の激しさからか、子供は転んでしまった。卑弥呼の弟は咄嗟にその体に両腕を差し出して守るように支えた。

 子供は無事だった。その代わり弟の持っていた松明が地面に転がった。あれがないとと振り返ると水瓶の中に落ちて火は完全に消えていた。

 計画は失敗した。
 
……「おじいちゃんじゃない? ……ありがとう」……
……「……いや」……

 子供は無邪気にニコッと笑った。それで弟は悟った。結局、卑弥呼も自分もこういう笑顔を守るために生きる道を選んだのだ。







 どうやって神殿まで戻ったのか覚えていない。

……「××××くん」……
……「……姉上」……
 
 神殿の扉のすぐそばで卑弥呼は待っていた。
 笑顔の中に悲しい光がある。

……「そういえば、姉上に私の心くらい見通せないわけがありませんでしたね。まして民を殺すという計画をあなたが見逃すはずがない。ははは……我ながらどうしてそれくらい分からなかったのでは」……
……「ごめんね」……

 卑弥呼は弟の肩を抱いた。老人になった弟は卑弥呼と背がもうあまり変わらない。

……「私を罰してください。たくさんの人を殺そうとした」……
……「いいえ、××××くんがやらないことは最初から決まっていました。いくつか道筋は違いましたが私の弟は思い留まる。憎しみではなく命を選ぶ。だからこうしてただ待っていたのです」……
……「最初から……決まっていた?」……

 そうだ。
 自分の大切な姉は人ではない何かなのだ。
 未来を見る事くらい造作もない。
 
……「姉上、あなたは……私を恐ろしいと思わないのですか?」……
……「思わないわ。こうしてあなたは戻ってきてくれた。分かるでしょう、私は昔からこうなる事を知っていたのです。あなたが苦しむことも、でも優しいから途中でやめることもずっと前から知っていた……気持ち悪い力でしょう? 恐ろしい力でしょう? 自分でもこの力が恐ろしい。こうして女王の地位について人を幸せにできることが今でも信じられない……でも××××くんは一度もそう言わなかった。それがどんなに私の救いになったか××××くんは知らないでしょう」……

 弟は受け入れた。卑弥呼はあまりに特別な人なのだ。平凡な幸福など叶わない。
 いや、おそらく人ではない。
 だから人のままではダメなのだ。


 
 



 もう自分の寿命は終わりだ。神殿で弟を看取る姉に弟は告げた。

……「この身を星辰に捧げます。私の名前を捨て、形をなくしても姉上をずっと支えます」……

 卑弥呼は止めたが弟の決意は硬かった。





 ずっと倒れていたらしい。やっと目を開けると珍しいものが見えた。卑弥呼が一筋を涙を流している。

 姉上、と口を開くと体がうまく動かない。まるで身体が空気に混ざり合っているような。

……「本当に名前を失ってしまったんだね。……どうしよう。本当に君の名前を思い出せない。残った君の形さえこんな風に崩れていく」……

 ああ、そうだ。自分は卑弥呼の力になりたかった。だが、この身は本当に平凡で特別な力を持つ卑弥呼を支えるには力が足りなかった。

 だから「名前」を捨てた。今は半透明になっただけだがそのうち人の形だって失うだろう。卑弥呼のそばにいること以外の全てを捨てたのだ。

……「ごめん、ごめんね……君があたしの弟でさえなければきっと幸せになれたのに」……

 ポツポツとさっきまで頬であった場所に温かいものがこぼれる。これは涙だと気づくまで人ならざる身には時間がかかった。

……「いいえ、姉上……これで良かったのです。いえ、これが良かったのです。私は姉上の弟で幸せです」……





 人の姿を失った名無しの弟は卑弥呼を支え続けた。

 徐々にその姿は卑弥呼以外には見えなくなり、声も姉以外には届かなくなった。一応、物体には触れられるので卑弥呼の代わりに書状を書いたり、鏡を磨いたり、時には湯を沸かしたりした。

 そんな幽霊のような日々の中、戦争が始まった。

……「……疲れた」……

 戦場から戻ってきた卑弥呼は珍しく暗い顔をして、弟のいる神殿に戻ってきた。彼の姿を確かめると壁に肩を置いてズルズルと床に座り込んだ。

……「姉上、水です。せめて水をお飲みください……今回は長い戦です、お疲れでしょう」……

 卑弥呼は暗い目で器の水を受け取った。

 今回、邪馬台国は狗奴国と戦をしてまだ決着がついていない。卑弥呼の率いる民は結束が強く、基本的に邪馬台国が優勢だ。なんでも弟子になりそうな娘まで見つけたらしい。

……「戦、まだ終わらないね……もうやだな」……
……「きっともうすぐ終わりますよ」……

 名無しの弟は後方に回っていたのでその活躍を全て見てないが、本当は戦など嫌いな姉のことだ。身体はともかく心が疲弊し切っているだろう。

 卑弥呼は酷く暗い目をして神殿の奥を見つめた。

……「姉上?」……
……「なんのために戦ってるんだろう。どうしてあんなに人を殺さなければならなかったんだろう。あたしは人を助けたかったのに……どうして人を殺しているんだろう?」……

 狗奴国は負の感情を利用した邪法を使う危険な国で邪馬台国のと戦いは避けられなかった。けれど卑弥呼はそう言いたいのではない。

 一人でも多く誰かを助けるために人としての当たり前を捨てた。それなのにどうして人を殺しているのか。本当にしたいことはこんな人殺しだったのか。

……「姉上」……

 弟は叫びかけた。今度こそ逃げましょう、姉上。そう言いたかった。
 けれど拒否されることを理解していたので別の言葉を探した。

……「……できたことに目を向けましょう。今度は閉じ込められていた娘を救ったそうではないですか。その娘は助けることができたではないですか」……
……「死んだの、あたしのせいで。敵だけじゃない。卑弥呼様のために戦えって味方もたくさん死んだ。敵も味方も血だらけで動かなくなった」……
……「あなたのせいじゃない、姉上は多くの人を救いました」……
……「君だって!!」……

 卑弥呼は怒りを滲ませて弟を睨んだ。

……「君だって犠牲になった! あたしのせいで人の形さえ失った。何度も呼んだのにあたしさえもう名前さえ思い出せない!」……
……「……私は姉上をおそばで支えたかった、そのためならこの身などどうなってもいいのです」……
……「いっそ恨んでよ……どうして私がこんな目にあうんだって言ってよ。全然辛くない、これが自分の幸せだ、なんて、そんな風に悟った風に言われても余計に辛いよ……どうして姉のあたしが弟の君の名前さえ思い出せないの」……

 卑弥呼の頬に涙の粒がこぼれ落ちた。

……「君に名前さえ失わせて……やってることが多くの人を殺すことだなんて、今まで一体なんのために」……
……「私のせいで……かえってお辛いですか?」……

 弟はたじろいだ。自分は凡人だ。ずっと卑弥呼の助けになるためには全てを星辰に捧げるしかなかった。

 姉のためなら自分の身などどうなっても構わない。そう思ったからこそやった。

(私のせいで、かえって苦しめた?)

 間違っていたのだろうか。卑弥呼は姉として弟を愛してくれた。そんな弟が人の形も名前も失った姿を見せ続けるなどかえって残酷ではないか? 

 自分はどうなってもいいから少しでも姉の力になれればいい。その気持ちがかえって姉を苦しめたのか。

……「姉上……すみませんでした。辛い思いをさせると思っていましたが本当には私は分かっていなかったようです。ふふ、凡人の辛いとこですな……もしも、姉上がお望みなら私は姿を消します。遠くで邪馬台国の行く末を見守りましょう」……
……「違う、そうじゃないの……どこにも行かないで。ただ……名前が思い出せなくて」……
……「まだそばにいても……いいのですか?」……
……「当たり前でしょ。そばにいてよ……私たちたった二人の姉弟じゃない」……

 姉弟はそれきり黙ってしまった。時だけが流れるうちに外からは雨の音が聞こえてきた。

……「戦、きっともうすぐ終わるよね。終わったらなにしようか」……
……「そうですね、せっかくだから魏の国から送られた茶というものを淹れましょう。最近、淹れ方を書いた本を見つけたのです」……
……「あれって葉っぱの塊じゃなかったの?」……
……「美味しいらしいですよ」……
……「ま、君が作ってくれるならなんでもいいか」……

 卑弥呼はすっと立ち上がった。その顔に先ほどまでの暗さはない。結局、姉はいつも強い。時にその強ささえなければ平穏な幸せを得られたのではと弟が時に夢想するほどに。

 卑弥呼は神殿の外へ歩く。そして出る直前にピタと足を止めた。振り返らずに言った。

……「ごめんね、弟くん。君がそばにいてくれて本当に嬉しい。でも……君の名前が二度と思い出せないと思うとどうしても「こうしてくれてありがとう」って言えないの」……




三章 二人の弟の罪と罰


 邪馬台国は狗奴国に勝利した。実際の王を倒して王に成り代わったクコチヒコは強力な呪術師だった。

……「卑弥呼……おのれ! 貴様さえいなければ!」……
……「やめなさい! その術は……」……

 最後に狗奴国の王・クコチヒコは卑弥呼に邪法の闇を放った。直撃した卑弥呼はなんとか立っていたが身体がひどく重く感じた。

……「邪馬台国など……貴様さえいなければきっと!」……

 そう言い残してクコチヒコは死んだ。こうして戦争は邪馬台国の勝利に終わった。






 しばらくは平和だった。

 卑弥呼は神殿に戻り、姉弟で約束した茶も無事に飲んだ。卑弥呼は苦いと言っていたが意外と気に入ったようでお代わりをした。

 弟は姉の代わりに戦後の国政を何事もなく行った。卑弥呼も神殿の奥で託宣を受けるだけの日々に戻った。壱与という娘に力の使い方を教えることもできた。

 けれど一年後、卑弥呼の肉体はクコチヒコの呪いに蝕まれ始めた。

……「姉上、姉上!」……
……「弟くん……ごめんね、あたし、死ぬみたい……もう一回、君のお茶、飲みたかったなあ」……

 ある日、神殿で卑弥呼は倒れた。全身に黒い斑点が浮かび、周囲の空気さえ澱んでいく。卑弥呼が受けた呪いは彼女を殺すほど強力だった。

 徐々に人の形を失った弟以外近づけないほど濃い闇が神殿を塗りつぶしていった。

……「狗奴国の呪いがこれほど強力なんて……!」……
……「けれどこの術はいけない、人の心の暗い部分を増大させていつか多くの人を破滅させる。私は死ぬけれど、魂だけを飛ばしてなんとかこの術を払う方法を探してくる。クコチヒコの呪いはきっと邪馬台国を滅ぼしてしまう。そんなことはさせられない」……

 姉は死ぬ。それは避けられないと知った弟は自然と手を伸ばした。

……「姉上……私もお供します。この身はすでに人ならざるものなのですから。ともに邪馬台国を守りましょう」……
……「全く……君はしょうがないなあ」……

 こうして姉弟は魂だけとなって、クコチヒコの常闇の中に囚われた。






 それから長い間、卑弥呼と弟は闇の中に取り残された。闇の中で卑弥呼はずっと祈り続ける。どこかにこの闇を祓えるものがいないか千里眼で探し続けているのだ。

(姉上、きっと大丈夫です。必ず邪馬台国を救うものが現れます)

 弟は姉の背中にそう囁いたが卑弥呼は一瞬たりとも祈りから気を逸らすことはなかった。それでも弟は姉に励ましの言葉をかけ続けた。

 ずっと闇の中にいた。時間の狂った世界で何年も、ひょっとしたら何十年もの時を二人だけで過ごした。

 そんな日々の中、ふと弟は「もしかしたらどこにも邪馬台国を救う術はないのでは?」といつまでも祈り続ける姉の背中に思ってしまった。

 なら、卑弥呼の人生はなんだったのだ。姉は邪馬台国の女王となることで一人でも多くの人を救うために当たり前の生活を捨てた。その邪馬台国の人々がクコチヒコの術で滅びてしまうならなんのために彼女は薄暗い神殿に閉じ込められた生を送ったのだ?
 
(無駄だったなんて、そんな、そんな馬鹿な……なら姉上の人生はなんのために。日向で寝転がることすら許されなかったのに)

 卑弥呼は託宣に全力を注ぎ、弟の心に闇が侵食しても気付けない。クコチヒコの術は負の心を増大させる。いつ終わるとしれない姉の祈りをただ横で見ていた弟の心も限界に近かった。

 弟は闇を振り払うように姉に横顔を見た。卑弥呼はいつものように超然として神のようだった。祭り上げられた美しい女王。その美しさは人であることが許されないようで。

(そもそも……結局、姉上を一番不幸にしたの私なんじゃないか?)

 だってあの時、姉の力を他人に口にしてしまった。
 いや、それだけではない。弟が名前を失ったことだって、姉にとっては余計に女王の座から逃げられない理由になったのでは?

 卑弥呼を女王の座に縛り付けたのは。

 卑弥呼の特別な力でもなく。
 王を貪欲に求める民でもなく。
 敵対する狗奴国の王でもなく。

 全てを捨ててまでついてきた弟の自分ではないか?

(全部、私のせいだったのではないか……? 姉上を女王の座に縛り付けたのは私ではないか。それなのにさも理解者の顔をしてこんなところまでついてきて……姉上の心など本当はなにもわかっていないくせに)

 いつになったら闇は晴れるのだろう。これは罰なのだろうか。ならば罰は弟の自分一人だけにしてほしい。だって全部自分のせいなのだから……。

(この闇のせいだ。そんな今更……姉上をかえって苦しめたのでは? どうして、私はあの時……ただ、そばにいたくて、力になりたくて)

 弟は姉に言葉をかける回数が減り、取り巻く闇に少しずつ心を侵食されてった。








 辛い光景だった。どうすればよかったのだろう。
 二人はお互いの幸せを望んでいたのにどうして叶わなかったのか。

 夢が終わる。氷の扉の奥深くに亀はいた。その口に今は赤いポイントカードはない。
 信勝は額から流れ落ちた一筋の汗を袖で拭い、言うべき言葉を探した。桜の刀のキーホルダーは何も言わず、信勝の右側で浮いていた。

「ポイントカードはどこだ?」
『さあて、もしかしたら捨ててしまったのかもしれませんよ。なにしろ私は怒っているので』
「さっきまでの映像、見せたのはお前の意思なのか?」
『ええ、そうです』

 直感だが亀はポイントカードを捨てていない。信勝はさっきの映像を思い出し、亀の目をじっと見た。彼の目は何も読み取れず、ただ氷の光を反射したのみだった。

『どうです、私の人生は羨むようなものでしたか?』
「……どうだろうな」

 信勝は目を閉じる。自分が彼の立場なら自分を責めるだろうと痛いほど分かった。彼女の力になりたいと己を犠牲にすることで余計に最愛の姉を苦しめた。それを直視することはどんなに辛いだろう。

「それでも……お前が羨ましいよ、亀くん」
『ほう、なぜ?』

 信勝はもう一度気持ちを振り返り、もう一度頷いた。

「お前の方が楽だったとか、僕の方が辛かったとか、そう言うことは言わないよ。比較できない。でも、さっきの過去を見て確信した……僕はお前が羨ましい」
『……なぜ? 何を馬鹿なことを、あなたに何が分かる』

 亀の姿に影が差して歪む。瞬きをすると亀は大きな暗い影になっていた。黒いモヤが巨大な亀の形になり、地鳴りのような声を上げた。強い風が吹いて信勝は倒れそうになるが踏みとどまった。

 黒いもやは赤い光を二つ、目のように光らせて威圧した。

『見た方がよかったですって? そんなはずはない、見た方が苦しいに決まっているではないですか!』

 氷の雨が降る。両手で顔を庇うが一つ鋭い礫が当たって信勝の頬が切れてつうと血が滲む。

「そうだと思う。苦しかったのはお前だ。けれど、どうであれ……姉上のそばにいることができた。お前がただいるだけで卑弥呼はその分だけ幸せが増えたんだ」
『私がいて……姉上がその分幸せだった?』

 亀は本気で驚いていた。血を流しながら信勝はイタズラっぽく笑った。

「そりゃ、過去で見た卑弥呼が幸せそうだったからな。お前は卑弥呼のそばにいることで彼女をその時間の分幸せにしたんだ……僕にはできなかった。僕は自分でそれを壊してしまった」
『幸せ……そうだった? 気のせいでしょう。姉上は私が名前をなくしたせいで女王の座からかえって逃げられなかった』
「他人だからかな……姉弟や家族は近くてかえって分からないことがある。卑弥呼だって言ってただろ。お前は卑弥呼の力を一度も怖がりも気味悪がりもしなかった。だからただそばにいるだけで卑弥呼は幸せだったんだ」
 
 それは信勝が捨ててしまったものだ。信長のそばにいる時間は「どうせ姉にはいらない」と一方的に壊してしまった。

 黒いモヤの形がぼやけ、氷の雨が止まった。わずかに信勝の血に動揺したような仕草をした。

「まあ、僕が言っても説得力ないよな。お前を理解しないで一方的に酷い事を言った。そしてお前の言う通り、僕が死んだ後に姉上がどう生きたか直接見なかった。見た苦しみを知らない僕が言っても何も説得力はない」
『……本気ですか、ずっと女王の座に縛り付けられた姉上が幸せだったと?』
「さあな。卑弥呼の気持ちは本人にしか分からない。でも例え不幸だったとしてもお前がいた分幸せだったのは分かる。カルデアで接した卑弥呼はそうだった」

 黒いもやは亀の形に戻った。信勝はホッとしたが彼はジロリと睨んだ。

『……だったら、あなたもそうすればいいでしょう』
「え?」

 信勝が反応する前に亀は数本距離を縮めた。苛立ちの混じった声でうんざりしたとばかりに告げる。

『たった今言ったじゃないですか。そばにいる分、姉上は幸せだったと。ならなぜあなたはそうしないのですか?』
「……?」
『確かにあなたは死んでしまった。しかし、奇跡により死後姉上に再会できたではないですか。それなのに、どうして死に急ぐのですか? ええ、私には分かります。あなたは逃げたいのです。自分こそが姉を不幸してしまった現実を直視しないために死に逃げようとしている。これからそばにいることができるくせに……!』
「亀くん……?」
 
 何かがずれている。信勝が片手を顎に当てて数秒考えた。そして亀のキーホルダーが爆発した時の状況を思い出す。

「えっと、ごめん。多分、お前は一つ誤解している。確かにあれから会ってなかったもんな」
『ええ、敵と相打ちするつもりなのでしょう』
「とりあえず、もう僕は死ぬ気は無いんだ! まずそれをわかってくれ!」
『えっ?』

 信勝は必死に説明した。聖杯と相打ちはできなかったこと。その後、聖杯に自分を許せない限り出られない空間に閉じ込められたこと。

『……ええ?』
「ついさっきなのか、昔なのか、僕ももうよく分からないんだけど……ほら、こいつに刺されたことでまた死ぬのはダメだって分かったんだ!』

……「ツカマナイデクダサイ」……

 桜の刀のキーホルダーを掲げて弁明する。

『……マジですか』
「亀くん?」
 
 亀はぼんと音を立てると光と白煙を炸裂する。目を閉じた信勝が慌てて近寄るとそこには亀の姿はなく『探さないでください』と書かれた紙だけがあった。





四章 もしも自分を好きになれたら


「なんで逃げるんだよー!?」
『なんで探すんですかー!』

 一時間の探索の結果、亀は割とあっさり見つかった。

 氷の廊下をいくつか抜けると今度は珊瑚が生えた海底風の氷の部屋があった。そこに置かれた岩のふりをした手足を引っ込めた亀の甲羅があり、明らかに氷では無いのですぐに分かった。

『探さないでくださいって書き置きしたでしょう!』
「あの流れで探さないわけないだろ! なんだよ勘違いして恥ずかしかったのか!?」
『勢いでなんでもかんでもバラした私の身になってください!』
「バラしたって……あ、放火のことか?」
『ちゃんと未遂をつけてください! あー、言うんじゃなかった! あそこはカットしても別に良かったのに!』

 信勝が再会の喜びで甲羅に抱きつくと亀は抵抗して甲羅のままガタガタと振動して抵抗した。なんとか顔を見ようと信勝が甲羅の顔の部分の穴を覗き込むと細い尻尾が出てきて頬をペシと叩かれた。

『……どうやら勘違いをしていたようです。信勝殿が死に急がないならばもう特に言いたいことは無いのでこのまま置いていってください』
「だからそんなことできるわけないってお前は僕の……そもそも、僕たち霊基が一緒だから置いて行くこともできないし」
『うっ』
「友達だからこんなところに置いて行くことなんかできない……お前はもうそう思ってないだろうけど、僕には友達だから」
『……全くこの人は』
「?」

 なぜか亀はその言葉で顔を出してくれた。気まずい沈黙に信勝は慌てて言葉を探した。

「え、えーと、まあ勘違いしてもしょうがないんじゃないか? だって僕の感覚としても聖杯と相打ちしようとしたのはついさっきだし、お前はその時に爆発したからその後の展開なんて知るわけないっていうか。というか、お前が本当にキーホルダーになってたのがまだ若干信じられないんだけど」
『……なんででしょうね。そりゃ霊基は繋がっていますが、キーホルダーになったのはよく分かりません』
「ええと、ごめんな。ここは聖杯の呪いの中なんだけど、多分霊基が一緒だから一緒に閉じ込められたんだと思う。記憶は僕が聖杯と相打ちしようとしたところで止まっていたのか?」
『私は爆発した後、気がついたら信勝殿が目の前に居ただけです』
「そっか、じゃあ間違えるよな。うん、さっきのは忘れられないけど、僕は卑弥呼に言ったりしないから安心してくれ!」
『そこはもう忘れたと言ってください!』

 また甲羅の中に顔を引っ込めてしまったので信勝はため息をついた。

「結局、僕を心配してくれたんだろう? あんな酷いことを言ったのに、優しいな」
『そう思うなら忘れてください』
「印象が強すぎて無理、かな」
『どこかに強く頭をぶつけるとか』
「そんな物理的に記憶を破壊するほどイヤなのか!?」
『うるさい、うるさい! あなたに何が分かるというのです!』

……「イツマデヤッテルンデスカ」……

 桜の刀のキーホルダーは呆れたように二人の周りをぐるぐると回っていた。

 信勝は甲羅を離さず抱きしめ続けて、そこに頬擦りした。

「いや、ほんとごめん。お前の願いを全然叶えてやれなくて。……お前のためにもここから出ないとな」
『……自分を許さないと出られない呪いとは本当ですか?』
「うん。本当に難しい。そのくせもう一人の僕が考えた方法からも逃げてしまった」

 もう一度、信勝は状況を説明した。さっきのように忙しなくでなく、今度は少しゆっくりと。

『それじゃ……私は力になれそうにありませんね。私は一生、自分を許せなかった。心底から、ならば尚更です』
「……一生」
『ええ、あなたも同じ気持ちでしょう?』

 信勝と亀。大まかには同じだが結末が違う。二人とも姉が一番好きで、姉のためならなんでもできて、姉は人ではなかった。亀は人の形を失いながら姉と共に生きたが、信勝は死ぬことで姉を一人にした。

「……僕とお前は同じじゃないと思う。僕はそばにいることを放棄した」
『それはそうかもしれませんが、自分を許せない点では同じでしょう』

 信勝は卑弥呼が可哀想だと思った。カルデアの卑弥呼は夢の中の弟の話をするといつも喜んでくれた。もう直に会わせることができないことが申し訳ないと思うほど姉は弟が好きだった。

(多分、卑弥呼は知ってる。亀くんが自分を許せない理由が自分だってことを)

 こんなに卑弥呼を大切に思っている亀なのに、卑弥呼が願っていることは叶えてやれないのか。

「……亀くんは、どうしても自分を許すことは無理なのか。きっと卑弥呼はそう望んでるぞ」
『姉上の望みは分かっています。しかし……無理です。悟ったように「後悔したけれどやって良かった」とは言えます。でも心からは……無理です。できるならあの日、火をつけようとはしなかった』
「一番大切な卑弥呼の願いなのに、どうしてもか?」
『あなたなら分かるでしょう。姉上が自分より大切だからこそ許せないのです』

 信勝も理解している。誰であれ大切な人を苦しめることが許せない。シンプルにそれだけなのだ。

「でも……じゃあ、卑弥呼はどうなるんだ。お前の幸福を願っているのに」
『私はこれでも幸せですよ。最後に姉上とカルデアで邪馬台国を救うことができて満足な人生でした。ただ後悔と自責を捨てることもできないだけです……姉上がそんな私を見て苦しんでいることも知っています。けれど、それを捨てれば私は私でなくなってしまう。それではきっと姉上の知っている私ではないですよ』

 亀は視線を遠くへ移した。

『それを言うなら信勝殿こそ姉上の気持ちはどうなさるのですか?』
「僕の姉上の気持ち……?」
『信勝殿の姉上だって自分が原因であなたが自分を生涯許せないことを悲しむのではないですか?』
「姉上は……」

 ほんのさっきまで信勝は自分にそんな価値はないと決めつけていた。けれど今は違う。信勝自身にはうまく感じ取れないが、自分を大切に思う人は確かにいるのだ。

「そうだろうけど、でも……」
『ほら、無理でしょう? できないこともあるのです』
「そうだな……なら僕はこれからは少しだけでも……自分を嫌うのをやめる」
『……なんですって?』
「僕は今までずっと自分が嫌いだった。馬鹿で無能で姉上の弟に相応しくない。憎かった。でも僕はきっとそのことで姉上を悲しませてきたんだな。自分の好きな人が自分を嫌っていたら悲しいから……姉上、変なとこで義理堅いから自分のせいで僕が僕を嫌うようになったと思ったかもしれない」
『自分を……嫌うことをやめる?』

 嫌うという言葉が適切かは分からない。ただ亀はずっと自分を憎悪してきた。どうしてあの日、姉の力を他人に言ってしまったのか。どうして老いに任せて死なず、姉から弟の名前を奪ったのか。どうして、どうして、もっといい方法はなかったのか……自分にそう言い続けてきた。

 亀の目をじっと見て信勝は少しはにかんだ。

「今のお前を見て分かったんだぞ。友達が自分を嫌ってたら悲しい。それが止められないことは分かったけど、それでも僕が悲しいのも変わらないからな。なら……僕は自分を許せなくても嫌うのを止める。きっとその分、姉上が悲しい気持ちを減らすことができるから」
『……どうだか、実行できるか怪しいものです』
「信用がないなあ。まあ僕だから仕方ないか……でも、帰ったらきっとやる」

 亀は言葉が浮かばず、現実的な問題で話を逸らした。

『そんなことより、どうやって帰るのですか。自分を嫌わなくなることでここから出られるわけではないでしょう。どうしたものか……』
「いや、元々僕の問題だ。お前は関係ない。自分でなんとかするから気にしないでくれ」
『……』
「全部僕が蒔いた種だから」

 信勝は自分を嫌っている。だからとても自然に自分を突き放す。そこに計算はないと知っていてもならこうするしかないではないか。

 そこで亀はひょこっと甲羅から顔と手足を出す。ささっと歩くので甲羅を抱き抱えていた信勝の手から離れる。

『何を言っているのですか。信勝殿と私は霊基が同じで一蓮托生。関係ないなんてあり得ませんよ』

 横で見ていた桜の刀のキーホルダーはその様子が寂しがって拗ねているように見えた。





 しばらく歩くとなぜか亀は信勝を甲羅に乗せた。

『歩きましょう。何か手掛かりがあるかもしれません。あなたが出られなければ私も出られない』
「だ、だからって僕を乗せなくても……重いだろ。下りるって」
『いいえ、不思議と体が軽いです。夢の中、心の中だからですかね。だから信勝殿が歩くより早いです』
「でも……」
『ほら、すいーっと』
「こ、氷の上を滑ってる!」

 実際早い。亀は手足を引っ込めてアイスホッケーのように氷の上を滑っていく。信勝が目を回しているうちにもう廊下を抜けて新しいドアの前に移動する。

「あれ?」

 しかし、ドアの向こうに待っていたのは氷の廊下ではなかった。そこには氷の浮かんだ海が広がっていた。足元には氷の砂の浜辺が広がっている、

「おかしいな。もしかして城の外に出ちゃったのかな?」

 勝手に出て大丈夫なのだろうか。何かまずいことは起きないか。

『信勝殿……ここから戻ったらさっき自分を嫌わないと言ってましたよね』

 亀の言葉を冷たい強風がかき消す。信勝は手で耳を覆うと亀に顔を近づけた。

「ごめん、風が強くて……何?」
『もし……もし可能なら嫌わないだけではなく、自分を好きに……』

 今度は雪混じりの風が吹きつけて何も聞こえない。まさか何かいるのだろうか。きょろきょろと信勝は周囲を窺うが冷たい風が体に吹き付けるだけだった。

『……?』
「どうかしたか?」
『あれ……確かにここに……なぜ?』

 同じく浜辺で周囲を観察していた亀が異変を感じたらしく、甲羅に頭と手足を入れたり出したりし始める。

『そんな、さっきまでここにあったのに』
「亀くん?」

……「探し物はここ?」……

 女の声がした。振り返ると海の上に金髪の美しい人魚が頭を出していた。見覚えがある。桃色の鱗をもつ人魚姫だ。

「お前、どうしてそれを!?」

 そして彼女はその手に信勝のポイントカードを持っていた。亀は忘れ物を見つけたようにはっと振り返る。

 信勝は走って膝まで海に突っ込んだ。しかし人魚姫は挑発するようにひらりとかわしてしまう。

「返せ!」

……「あなたに仕返しに来たの」……

「仕返し?」

……「返してほしければ追いかけてきなさい」……

 人魚姫はポイントカードを持って、深い海の底へ沈んでいった。






 信勝が覚悟を決めてマントと上着を脱ぎ捨てて海に足を踏み入れると亀の声が止めた。

『私に乗ってください!』
「そんな悪いよ! 僕の問題なんだから自分で泳いで……わわ!?」
『いいから早く!』

 無理やり甲羅の上に乗せられた信勝は亀と共に海中に突っ込んだ。心象世界だからかまた問題なく呼吸はできた。

 周囲を窺うと右手の方向に人魚姫の桃色の鱗が小さく見えた。

「よ、よし、じゃああっちに……ええ!?」
『むむ、信勝殿、甲羅にしっかりしがみついてください』

……「テアシヒッコメテクダサイ」……

 桜の刀のキーホルダーが凛とした声を上げる。亀は悟ったように手足を引っ込めて甲羅だけになる。彼女は亀の後ろに立つとバッドでボールを打つ要領で人魚姫の方向に打ち込んだ。

「うわあああああ!?」
『方向は任せてください。とにかく信勝殿は落ちないでください!』

 文字通りボールのように海中を吹き飛ぶ。泡をまとって右手の方向に信勝は吹き飛んだ。亀の甲羅から滑り落ちないだけで信勝は精一杯だった。

「よし、今度こそ……うわっ!?」

……「うっとうしい。あなた一人じゃないの? 自分の心の中なの変なの」……

「お前こそどうして僕の心の中にいる!?」

 人魚姫から海流の竜巻が放たれる。信勝は必死で亀の甲羅にしがみつくが亀自身、泳ぎが不安定になっていく。せめて信勝は叫んだ。

「なんなんだ、お前はただの聖杯の手先じゃないのか!? どうして僕の邪魔をする!?」

……「なんだかあの子はもう私のことは忘れちゃったみたい。消えるはずだったけど、なぜか産みの親に会ったわ……会いたくなかった。後悔したわ!」……
「親ってなんだよ? お前は元々、童話の住人で」
……「お前のせいだ……お前も苦しめばいい!」……

 美しい顔を憎しみで染めた人魚姫。その目が青く光った瞬間、彼女を中心に渦が巻き起こる。その流れで亀の泳ぐスピードが遅くなる。

『しっかり掴まって!』

 亀は本領発揮とばかりに海を泳ぐ。人魚姫との距離が少しずつ縮まる。
 信勝は右手を必死に人魚姫の手に伸ばす。その間も人魚姫は呪いの言葉を吐き続けた。

……「滑稽ね、あなた。どうしてこんなものをそんなに欲しがるの? ただの汚い紙じゃない」……
「うるさい、誰がなんと言おうとそれは僕の大切なものなんだ!」
……「だってあなた元々全然これを大切にしてなかったじゃない。ポケットに適当に突っ込んで、ぐしゃぐしゃ。本当に大切だったらこんな扱いする?」……

 信勝は言葉が喉で引っかかる。それは事実だった。ポイントカードはポケットに突っ込んだままで雑な扱いをした。信勝は几帳面で物は丁寧に扱う性格だ。だが異星の神にノウム・カルデアを破壊されてからやけになっていた。姉との夫婦ごっこの部屋は全て灰になってしまった。

(そう、僕だって思っていた。こんなものだけ残ってどうなるんだって。あの部屋がなくなってこんなものしかないのかって。……もう店もない。スタンプを集めることも景品を交換することもない。姉上と一緒に行くことができないのに、なんでこんなものって思った。中途半端に、スタンプがあと一つで、僕みたいに未練がましく見えて嫌だった)

 景清の件で、今ほどはっきりとではないが自分が姉を苦しめたと知った。それから信勝は自分が怖くなった。無価値だと信じていた自分は大切な人を傷つけるかもしれないと可能性に怯えた。

 だから、あまり姉のことは探さなかった。ましてや能天気に一緒にソフトクリームを食べていた頃に戻れるわけがない。だからポイントカードを冷たく扱った。

 寂しいと感じることから逃げていた。だからもっと寂しかった。

「だからだ」
……「お前のせいで何もかも台無し! 人のためのフリをして自分のことばかり! 自分のこと以外考えていないくせに!」……
「僕は自分のことばっかりで姉上の気持ちを考えてこなかった、だから今度こそ最後まで何かしたい! そのカードは途中だろう? だから最後までやり遂げないと、姉上に何も報えないんだ!」
……「……なによ、突然まともな人間みたいに」……

 人魚姫から流れる海流が少し弱まった。

……「知りたくなかった! 私が泡になった後の話なんて! 知るはずなかったのに!」……

 元々人魚姫は信勝の絵本を読んだ記憶から形成されている。信勝の読んだ絵本は人魚姫が泡になったところで終わっており、その後のことは一切分からない。……けれど消えるはずの彼女の前に原作者のアンデルセンが現れてしまった。

……「王子様が私を探し続けたなんて知りたくなかった!」……

 絵本とは違い、原著の人魚姫には泡になった後の続きがある。彼女は泡になった後、風の精になりある種の死後の世界を知った。そこで彼女は王子と王妃が人魚姫を案じてずっと探していることを知った。

……「知りたくなかった。絵本の中にいる限り、知るはずがないことだったのに……お前のせいだ! お前なんてもっと苦しめばいい!」……

 人魚姫の目に真珠の涙が浮かび、逆流が一層強くなった。

 関係ない。知るもんか。信勝はそう叫ぼうとした。
 けれど信勝はその気持ちが分かってしまった。死んで後のことなんてさっぱり知らないで満足していたのに、それが壊れた。

 自分の人生はあの死によって意味があったと信じていたのに、知ったことで意味が壊れてしまった。

……「だからお前の大切なものを壊すことしかできないじゃない!」……

 人魚姫はポイントカードを乱暴に握りしめた。クシャとカードが歪む。

(知りたくなかった。僕もそうだ。……くそ、こいつはただの絵本の住人なのに、聖杯の罠の残滓なのに。同情なんてしても仕方ないがないのに!)

 どうしてこんなことばかり思うのだろう。死んで悲しませたくせに、惜しんで欲しいと思っていたのに、いざ知ると知りたくなかったと身勝手になるのか。

 信長だって、王子だって。
 信勝と人魚姫を失って、大切だから悲しんだのに。

「……よかったじゃないか」
……「……は?」……
「よかったじゃないか、王子が悲しんでくれて! だって好きだったんだろう!? 惜しんでくれてよかったじゃないか!」
……「何を言ってるの……?」……
「じゃあ、お前はどうしたら満足なんだ? お前が突然消えたのに、王子は綺麗さっぱり忘れる方がいいのか? 死んだのに忘れられた方がよかったのか? そんなの嘘だ」

 人魚姫はピタリと泳ぎを止めて、表情を凍らせた。

……「私は……私はあの時、ただ、王子様が助かればそれでいいって。他には何も考えてなくて」……
「お前は喜んだはずだ、自分がいなくなって好きな人が悲しんでくれたことに! 泡になってその先を見ないことに安心したはずだ! だって忘れられていても見なかったら苦しまなくてすむもんな!」
……「お前に……お前に私の何が分かる!!」……
「分かるさ、僕がそうだから」

 人魚姫は信勝に向き直り、またその動きを止めた。

「分かるよ。今、お前を見て、自分の気持ちが分かった。姉上にどう思われてもいい。そう言っておいて、どこかで僕が死んで平気な姉上を直接見たくはなかった。ほんの数秒でいいから悲しんで欲しいって、自分で死ぬくせに醜く願っていた。……だから死ぬことに安堵していた。現実を見なくて済むから、現実が怖かったから」

 自己犠牲の対価のようにせめて現実を見ようとしなかった。幻想は現実の前には脆い。一度、本当は違ったと知れば夢は前と同じようには見れない。

 だから目を塞いでただ見なかった。きっと現実は自分に冷たいだろうと自分の世界でだけ完結していた。

(ああ、僕……本当にひどいな)

 自分のことばかりだ。一体何を理解したつもりだったのか。

……「私はただ……誰も傷つけたくなかった。助けようとしてくれた姉様も、大事な王子様も……だから私だけ死ねばいいと思った。それなのにどうして苦しいの? どうして……嬉しいの?」……

 もう人魚姫からは海流は放たれない。もっとも刺さりたくなかった場所に傷を負ったから。亀と信勝は彼女の目の前まで泳ぎ、ポイントカードは目の前だった。

……「もういい……こんなもの勝手に持っていけばいい」……

 信勝は差し出されたポイントカードを受け取ると大切にポケットにしまう。人魚姫は抜け殻のような目をしていた。

「誰よりも……好きな人だから死んで平然としてほしいなんて願えないさ」
……「そんなの矛盾してる……好きだから死んでもよかったのにその死を悲しんでほしいなんて」……
「きっと最初から気持ちは矛盾してたんだ……それじゃだめかな?」

 妙な共通点、ただ少し共感した絵本の主人公にすぎなかったのに。信勝の笑顔は強がりそのものだったが、人魚姫は目を見開いてわずかに下を向いた。

……「なんて醜い私……私は幸せなんて願えない。だって大切な人を傷つけたから、そんな人は永遠に不幸でいればいい」……
「……それは」

 信勝の気持ちが分裂した。一つは共感。

(分かる、僕はずっと幸せになっちゃいけない、ずっと不幸でいることがお似合いだ)

 自分の幸せは願えない。大切な人を傷つけた悪は永遠に不幸であればいい。

「でも……王子はきっとお前の幸せを願っていたのに」
……「……他人に何がわかるの」……

 けれど、それは本当に相手のためなのか?
 死んでしまって悲しんだのは大切な人が自分の幸せを願っていたからだ。
 それなのに幸せになろうとしないのは結局自分のためなのではないか。

 カルデアで他愛のない亀の話をしていた時の卑弥呼の笑顔を思い出す。

「分かるよ、僕も一番大切な人を苦しめたから。きっとお前よりずっと酷い形で……ずっとこんな自分は不幸でいればいいって思う。でもそれはきっと自分のためなんだ。相手のためじゃない。だって姉上も王子も、僕やお前が好きだったんじゃないか」
……「……」……

 近くの亀が目を見開いて信勝を見上げた。

「幸せになる資格がない、もう幸せにならないなんて言うなよ。もしも僕は姉上にそう言われたら悲しい。お前の王子もきっとそうだ。だから……僕も、どんなに自分が憎くても、これからは少しでも」
……「本当にもういいわ……これは返す」……

 人魚姫は海の中に腕を突っ込むと銀色の鳥籠を取り出した。そのままポイっと信勝に投げる。

「お前は……青い鳥?」

 亀の上で鳥籠の中身を取り出す。それは信勝を導いてくれた青い鳥だった。しかし、今はその翼は青さはなく、白い石の塊になっていた。

……「産みの親に渡された。お前に会いたがっていた。でもこの空間に来た途端石になってしまった」……

 信勝は石化した青い鳥を手に取った。青い鳥は信勝が思い出せない姉に愛された幸福な記憶だ。それが石になった。聖杯の仕業とは思えない、沖田も亀も人魚姫もそのままだったのに。それはやはり……信勝が幸せな自分を許せないからだろうか。

「ごめん……多分僕のせいだ」

 信勝は青い鳥を石像を抱いた。きっと姉は幸福を願ってくれているのにどうしてそうできないのだろう。自分を許すって何なんなのだろう。

……「……だよ」……
「え?」
……「全ては君の心一つだよ、ただ自分の心は一番思い通りにならないものだけど」……

 確かにあの青い鳥の声だった。全て自分の心一つ、けれどそれは一番難しい?

『信勝殿』

 心配そうな亀の声。相変わらず沖田はキーホルダーの姿で傍に浮いている。根が善良なせいか人魚姫すらわずかに心配そうだ。

(どうしてみんなここにいるんだろう?)

 少し冷静になると不思議だ。ここは聖杯の呪いの中。そして形は変えられたけれど信勝の心の中だ。どうして外部の存在がこんなにいるのだろう。沖田は呪いに入る前からいる、亀は霊基が同じだからと納得できる部分はあるが、人魚姫までいると流石に違和感がある。

「……あ」

 ある推理が閃くと信勝は上をむいて海面を見た。そして信勝はみんなを振り返った。沖田、亀、人魚姫、今はここにいない卑弥呼と姉も思い浮かべる。

「今までありがとう、みんな、ここからは僕一人でいくよ」
『信勝殿? どうしたのですか』
「ずっと思っていたんだ。ここは僕の心の中にしては綺麗すぎる。綺麗な城も綺麗な海も、僕らしくない……だから本当の僕に会いに行かないと……巻き込んでごめんな」

 信勝が心から願うと。
 世界がぐにゃりと揺れた。
 風景に波紋が走ると沖田と人魚姫が消えた。

『信勝殿、一人では危険です』
「大丈夫、お前と僕は一心同体だ。ただ……本当の自分は誰にも見られたくない。だからまた外で会おう。心配するな、諦めたわけじゃない。諦めないためにいくんだ」

 亀は慌てて遠ざかる気配がする信勝に声をかけた。

『……もう決めてしまったんですね。諦めないという言葉、信じましたよ。もし裏切ったら許しません』
「あはは、怖いなあ……なあ、無事に帰れたらさ、本当に友達になってくれないか?」

 亀が返事をする前に信勝は霞のように消えた。残された空間で亀はポツンと呟いた。

『本当に馬鹿な人ですね……最初から友達じゃないですか』





五章 無敵の僕にさようなら



 随分と酷い世界にきてしまった。

「それとも、こここそが僕の心の中の正しい風景なのかな? なら納得できるけど」

 信勝は一人だった。もう沖田も、亀も、卑弥呼も、人魚姫も、もちろん姉もいない。
 ポケットの探ると赤いポイントカードはあった。手の平を見ると石像になった青い鳥は消えていた。

 一人ぼっちで真っ暗な荒野の中を歩いていた。空は黒い雲に閉ざされている。動物はもちろん植物一つ生えておらず、水は一滴もないカラカラの大地はひび割れている。

(うん、やっぱりこっちが僕っぽい。あんな綺麗な氷の城や、ナイアガラの滝や青い鳥よりこっちだよな。だって僕はちっとも僕を大事にしなかった。むしろ蔑み、否定し、苛んできた)

 ぽつっと頬を雨が打つ。わずかに痛みを感じて頬に触れるとその手も火傷した。どうやら毒の雨らしい。不毛の大地どころか毒の大地らしい。

(僕はずっと僕を大切にしなかった。馬鹿だ無能だゴミだって粗末に扱って愛さなかった。ずっと放置されて、踏みつけられた花壇に綺麗な花が咲くわけがない。大事にしなかった服はボタンが取れてボロボロになってしまう。馬鹿だ無能だと罵ってきた。そんな僕の心の中が綺麗なわけない。ネグレクトされた心なんだから毒の雨くらい降る)

 あんなにひどく扱ってきたのは自分自身だから。
 こんな風に心は荒地になったのだ。

 それが愛だと信じていた。自分をボロボロにして見返りを求めない。それこそが最愛の人に捧げるべき本当の愛で、どれだけ傷ついてもそうしている自分は本当の幸せを実現しているのだ。

 ごうっと熱い風が吹いて、その熱で目が痛む。少しだけ笑う。そう、自分はなんて厚かましくて見当違いの男なのだ。

(愛していたつもりだった。でも、今はやっぱり……これが愛なんて言えないな)

 信じた愛は自分のへ執拗な虐待だった。姉は弟がただいるだけで幸せだった。それを念入りに壊したのは信勝自身だ。幼い頃以外は死後もずっとそうやって、死後さえ自分を虐待して姉に見せつけてきた。大切なものを目の前で何度も何度も壊す。そんなの信長を虐待していたようなものだ。

 そんなものを愛だと信じて繰り返した。到底許されない。誰が許しても信勝自身が許すことはできない。亀と同じだ。許さないことがもはや自分自身になっている。

「でもそれじゃあ……ダメなんだよな」

 全く、世の中は難しい。
 自己矛盾。自己嫌悪。自家撞着。
 そもそも自分とはなんだったっけ。哲学書は読んでない。

 信勝は足を早めて荒野を進んだ。毒の雨が降ればマントで顔を守った。うっかり飲み込んだ分は吐き出す。自分を無意味に痛めつけたりはしない。自分を大切にすることを少しはこの旅で学んでいた。

(僕は姉上に大切にされていた)

 だから自分を許すことはできなくても。
 自分を嫌ったままではダメなことは分かる。
 だってそれじゃ、彼女が悲しいままだろ?

「いたいた」

 予想通り歩いたその先に石像があった。
 そっくりの信勝の石像だった。石像と言っても動かないわけではなく、近づくとくるっと振り返った。
 すぐニコッと笑って自分の顔なのに少し可愛いと思ってしまった。もしかして姉にはこう見えているのだろうか?

……「姉上のために命を捨てる! 何度でも! 僕は死ぬことなんて怖くない!」……
「……うん」

 本当に怖くないのだろう。身体にヒビが入っているのに怯まない。いや、信勝にはその気持ちが痛いほど分かった。だって昨日までそう思っていたのだから。

「僕だから……そうだよな」
……「それに僕は自分が嫌い! 大嫌い! だから嫌いなものを壊せて嬉しい! あっ、これってお得だよな? 一挙両得、一石二鳥ってやつだ!」……

「違うよ」

 石像はキョトンと信勝を丸い目で見た。まさか自分に自分を否定されるとは思わなかった。だって自分は「彼」が作ったのに。

……「あ、う?」……

 石像の腹にヒビが入る。信勝は刀を抜き、自分の石像の腹を刺し貫いていた。本来物理的にできることではないが「壊れろ」と念じると心象世界では石像は壊れていった。

 石像は痛みに顔を顰め、ただただ驚いて信勝を見ていた。

……「痛い、痛いよ、やめて」……
「そうだ、それが僕だ。痛くないはずない、平気じゃなかった」
……「どうして、だって僕は」……
「もう自分で自分を殺さなくていい。お前たちは僕がこの手で壊す。愛のための連続自殺は終わりだ」
……「君が僕を作ったのに!」……

 信勝が刀を右に払うと石像は粉々に砕け散った。脆い石膏のように白い粉が宙に漂う。

「……さよなら」






 また進む。
 すると自分そっくりの石像が再度現れる。今度は信勝を見ずに誰かを追いかけていた。その視線の先はぼんやりとしていた。

……「姉上! 姉上! 僕の宝具を見てくれましたか! またちゃんと死ぬことができました!」……

 石像の手を伸ばした先には髪の長い女性らしき影があった。石像ははにかんで女性を見上げている。

……「ほ、褒めてもらうほどのことじゃないことは分かっています。ただ、僕も命を使えば姉上の仲間になれたみたいで嬉しいのです。僕、死ぬことはちっとも怖くないのです。生きている時は僕はなんの価値もなかった。生まれなければよかった。死ぬことで初めて価値ができたのです。だから僕は死ぬことで初めて幸せになれたのです」……
「……っ」

 ここまで直接的ではないが似たようなことを時々言っていた。

「嘘つくな」
……「がっ!?」……
 
 信勝は銃で石像の背中を三発撃った。衝撃で石像の胴体は割れて、上と下で地面に落ちてまた小さく砕ける。姉らしき影はカゲロウのように消えていった。

「嘘だ。僕はずっと死ぬのが怖かった。痛いのが嫌いだった。死にたくなかった。平気だったことなんて一度もない。姉上のそばで生きることがずっと望みだった……そんな僕が死んで平気なわけ、ないだろ」
……「だって僕は死なないと姉上の役に立てない。だから死ぬしかないんだ! 本当は痛くて怖いけど仕方ないじゃないか! 姉上、姉上……どうしてあなたに相応しい超人の弟に生まれなかったんだろう……そばにいたいだけなのに」……

 信勝は再度銃弾を装填して、ためらい、銃を下ろした。石像は涙を流していた。あちこち砕けてもう動けない。

……「……何?」……

 信勝は石像の首のついた上半身の部分を抱き上げた。不思議だ。本当に塩味の涙が石像から流れている。

「馬鹿だな、僕は。姉上は……そんなこと一度も言わなかったのに。超人と凡人って線を勝手に引いたのは僕の方なのに――その言い方じゃまるで姉上が僕をいらないって言ったみたいじゃないか」
……「何を言ってるんだ? 姉上はすごい人で僕はすごくない。馬鹿だし無能だし何もできない。だからそばにいちゃいけないんだ。死ぬこと以外何もできない。姉上も望んでる、いらない僕がせめて役に立つべきだって」……
「違う。このたわけもの。姉上は言ったか? 本当にそんなことを一度でも言ったか? 僕がそばにいちゃいけない、死んで役に立てって一言でも言ったのか?」

 石像は必死で記憶を探ったが全て砂嵐が起きて、何も思い出せない。ただ、記憶の中の姉はどこまでも遠くて違いすぎて、あまりにも偉大で……いつも手が届かない。

……「そう思ってるに決まってる。僕は姉上の一番の理解者だから分かるんだ。僕にそばにいて欲しくないって、だっていつも退屈そうで、虚しそうで、だからいつも僕は笑って欲しくて色々したけど何をしても姉上は笑わなかった」……
「馬鹿言え。うつけもの……僕が姉上の理解者なわけないだろ。姉上は僕に……ただそばにいることを一番に望んでいた。それを理解しなくて何が理解者だ。一度、それが壊れたから好きじゃないままごとを始めるくらい……いることだけを僕に望んでいた」
……「嘘だ、嘘だ、姉上は僕がいらないんだ。後継の邪魔なんだ。父上だって僕を殺すことを考えた。生まれてくるべきじゃなかった。だから死ぬしかないんだ……ああでも、もう少しでいいからそばに、いた、かった……死にたくない」……

 信勝の腕の中で石像は石膏の粉になって風の中に消えていった。

「なんで、だろうな。僕と姉上は願いが一緒だったのに……やっぱり僕のせいだろうな」

 姉弟は願いが一緒。それをお互いに知ることは生きているうちは叶わなかった。






 今度の石像は信勝のものではなかった。

「……姉上?」

 信長の石像が二体ある。信勝の行く手のちょうど左右の位置に二メートルほどの姉の石像が立っていた。

 右側の石像はいつもの姉だ。軍服にマントを羽織り勇敢で凛々しい。右手に火縄銃、左手に刀を持って悠然と構えている。不適な笑みを浮かべ、これから戦いに赴くのだと分かる。

 左側の石像はいつもの信長の様子と違った。昔の尾張でよく見たゆるく着物を着て袴を着ている。髪は自由に流していた。そしてまるで図書館で見た聖母マリアのように慈愛の笑みを浮かべている。優しくて穏やかで平穏の象徴のようだ。

(こんな姉上は知らない……なのにどこかで見たことがあるような?)

 けれどここが自分の心の中なら見たことがあるはずなのだ。青い鳥は「優しい記憶はなかったものとして封印している」と言っていた。なら、こんな風に笑いかけてもらったのに忘れているのだろうか。

「馬鹿だな、僕は……もったいない。せっかくこんなに優しく笑いかけてもらったのに忘れているなんて。それとも僕の妄想なのか? 流石に姉上のキャラじゃないし」

『信勝』

 慈愛の笑みを浮かべた石像から柔らかい声が聴こえた。今までの信勝の石像のように慈愛の信長の石像の手が動いた。

 驚いて固まっている信勝の頭を石像は撫でた。すると笑みがより優しいものになる。

『とんだうつけじゃな、信勝は。わしらは姉弟じゃ、ずっと一緒に決まっておるだろう。それに……お前はわしが好きなのだろう? この前言っていた。ならば尚更ずっと一緒さ』

 信じられないことに石像はそのまま柔らかく弟を抱きしめた。無邪気で無垢で無防備な笑顔だった。

(そうか、姉上はずっと僕が一緒にいるに決まっていると信じ切っていたんだ。だから後継の話をそのままにして放置した。謀反を起こしても放置した。僕は逆だ、一緒にいられないと思い込んで死ぬ以外の可能性を捨てた)

 その姉の表情は本当に珍しく甘い。砂糖でできた無垢な少女のように根拠のない未来を完全に信じ切っていた。信長は信勝のいない未来を想像できなかったのだ。リアリストの姉らしくない砂糖より甘すぎる見通しだ。

 信勝は流石にこれは自分の空想ではないと判断した。なにしろ想像を超えてる。

「姉上……僕たちは本当にズレていたのですね。真逆の未来を信じて、相手もそう信じていると思い込み、それを直接伝えなかった。……馬鹿な姉弟ですね。もちろん、僕の方が馬鹿ですが……そんな無防備に未来を信じられるとちょっと姉上もどうかと思います」

 慈愛の石像はただ微笑み続けた。信勝はしばらく撫でられていたが、一度その手を握り、ぺこりと頭を下げた。そして二つの姉に手を振って進んだ。

「姉上、必ず本物のあなたの元へ戻ります」








 三度目の自分の石像は自分から歩いてきた。一番自分に近く子供っぽい。えぐえぐと泣きじゃくり、恨んだ目で信勝を睨んだ。

……「ひどい、ひどいよ。どうして僕を捨ててしまうの? あんなに必死に【僕】を作ったじゃないか」……
「……泣きすぎだろ」

 今まで会った石像を思い出す。どれも自分らしく泣き虫で感情をすぐ剥き出しにした。そんな自分が嫌いで感情を凍らせて封じていた。死の恐怖がずっと邪魔だった。

「事情が変わったんだ。恨むなら僕を恨め。僕はこんな僕を作るべきじゃなかった」
……「せっかく無敵の僕を作ったのに。命だって平気で捨てられてなんでもできるようになった。どうして壊してしまうの?」……
「それはもちろん姉上のためだ。僕らしいだろ? ……姉上は自分のために死ぬ僕を見て悲しんでいた。それを知ったからにはそのままではいられない」
……「そんなの、そんなの仕方ないじゃないか! 姉上は優しいから虫みたいな僕にも悲しいのかもしれないけど、ほんのちょっとだけだ!」……
「そんなことはない。姉上は深く深く悲しんだ。大きく……傷つけた。だから姉上のために死ぬことだけを誇る僕のままじゃ駄目なんだ」
……「だって命を平気で捨てないと僕は何もできない! それが一番辛い。何もできないんだ……何もできないことが死ぬことより辛い」……

 何もできないことが死ぬことよりも辛い。それは本心だった。自分の無力が死より辛かった。何をしても笑わない姉が悲しくて、自分には何の意味もないのだと自分を憎んだ。

 石像は涙を流して、絵画のように悲鳴を上げた。

……「いやだ! 何もできない僕に戻りたくない! 死んだ方がマシだ、何もできないなんて死んだ方がマシだ」……

 信勝は刀の柄を握ったまま迷った。壊すべき自分だ。ただ壊せばいい。
 けれど……最後は近寄って「自分」を抱きしめた。

「違う、違うよ。でもそんな風に思わせてごめんな。こんなに僕は僕を苦しめていたんだな」
……「何も違わない! 僕は死ぬこと以外何もできない! だから死ぬことも怖くない!」……
「できるよ。僕はただそばにいるだけで姉上を幸せにしていたんだ。それはとても分かりにくかったけど、時々微笑んでいた。何もできないなんて嘘だ」
……「嘘だ! 僕の都合のいい妄想だ! だって姉上はずっと笑わなかった。姉上の笑顔なんて僕の記憶にない!」……
「本当だ。青い鳥が教えてくれた。僕は欲しいものは最初から持っていたんだ」
……「嘘だ! そうだったら僕がこんなに悩むもんか! 苦しむもんか! そんな馬鹿なことあるわけない!」……
「だって僕は馬鹿なんだろ?」

 クスッと信勝は笑うと石像を抱いた腕を解き、そっと頬に手を当てて石像の涙を手袋で拭った。

「……僕は死にたくなかった」

 石像は聞きたくないと両手で耳を塞いで首を必死で横に振った。

「ずっとそれを認めることが怖かった。死ぬことしかできないのに死にたくないなんて思いたくなかった。姉上のためなら僕は命を捨てて何でもできることが僕の存在意義だと信じていた……でも、嘘だった。僕は生きていたかった、死ぬことは誰よりも怖かった。ずっと姉上の着物の裾を握っている泣いてる子供の信勝のままで生きていたかった」
……「そんな僕は姉上に必要とされない! 生きてる意味がない!」……
「違う。もう分かってるんだろ? ああでも……僕が「僕」をそうしてしまったんだな。かつての僕はどうしても……死ぬ以外に姉上の役に立てないと信じていた。だから自分を殺した。死にたくない気持ちを殺した。生きていたいという気持ちは嘘にした……大嘘で自分を騙した。だからお前がそうなのは仕方ないんだと思う」

 信勝が本心から「死にたくなかった」というと石像の背中に大きなヒビが入った。石像は膝をついて悲鳴を上げた。

……「僕は姉上のために死んでもいい! 僕を壊さないで! 無敵になった僕を殺さないで!」……
「僕は生きていたかった」

 石像は左足が砕けちり、胴体から地面に倒れた。

……「やめろ!」……
「僕は死ぬことが怖かった。切腹の直前に刃を持つ手が震えないようにすることで精一杯だった」

 石像の両手足が砕け、真っ二つになった胴体がそれぞれ地面に転がる。

……「やめてやめて!」……
「生きたいよ、姉上のそばでずっと」

 手足が砕けちった。

……「やめ……本当に壊れる!!」……

 信勝が生きたいと心から言葉にするたび「無敵の信勝」は壊れていった。ずっと信勝は無敵だった。だって姉のためなら何をしても怖くなかった。どんな酷いことでも平気でできた。死んでもどうでもよかった。

 でもそんな信勝こそが信長を長く苦しめた。だから……自分を騙していた嘘を壊す。

……「呪ってやる」……

 壊れた顔面で両目だけがギロリと見上げていた。

「今までありがとう」

 もう石像は人の形をしていない。だから残った眼球のみが涙を流し、屈み込んだ信勝を睨みつけた。

……「呪ってやる……何もできない僕に戻って後悔するがいい!」……
「大丈夫、僕は最初から欲しいものは持ってるんだ――だからお前とはここでさようならだ」

 信勝は眼球を拾い上げ、少し悼む目をしてグッと握りつぶした。灰の塊を潰すような感触と共に声が聞こえなくなる。

「おやすみ」

 こうして信勝は再び死ぬことが怖いただの少年に戻った。けれど、やっと失っていたものを取り返すことができた。





六章 僕が僕を助けるために


 手の平を開くとそこには石になった青い鳥が戻ってきていた。驚くべきことに右の翼の先がわずかに青さを取り戻している。流石にポケットには入らないのでマントに包む。

「どういう意味なのやら……さて」

 そこはもう荒野ではなく、白い灰の平原だった。今まで自分が殺してきた自分の遺灰だろう。姉ではないがどれだけ殺したのやら。手を合わすべきか悩んでやめる。今の信勝は生きているのだ。

(僕はこれからも生きていく。新しい形で……そのためにも)

「いるんだろう? 出てこいよ」

 灰色の平原の上は闇夜。星は一つもない。その虚空に向かって信勝は呼びかけた。

「ここは僕の心象世界だ。僕が本心から願えば逆らえない。なあ、いるんだろう?」

 返事はない。それは予想済みだったので信勝はずんずんと灰の中を進んだ。心から願い、どこだと念じる。すると右手の方に気配を感じた。

 右に進むと足が止まった。見えない壁がある。その壁に右手で触れて告げる。

「もう一人の僕! 出てこい!」

 信勝が心からそう告げると空間に大きなヒビが入った。割れた石膏のようにボロボロと景色が崩れる。そのヒビの中に両手を突っ込むと確かな手応えがした。

『な、なんで僕がいるって分かった?』

 信勝がヒビの中から引きずり出したのはもう一人の自分だった。気配は同じ。たださっきとは姿が違う。大人の姿で白装束を着ている。……切腹する直前の自分だ。

「話がしたい。なあ全部お前が仕組んだことだろ?」
『話の意味が分からない!』

 もう一人の自分は信勝の手を振り払うと逃げ出した。彼の行く手に氷のドアが現れてその中に飛び込んでしまう。目の前でガシャンと鍵が閉まる音を聞くと信勝はポケットから渡された金色の鍵を取り出した。

「無駄だ。もう逃げられない。僕は本気だから……自分を理解したからこの世界は僕の味方だ」

 鍵で錠前を開くと氷の扉そのものが壊れた。ガラガラと崩壊するドアの隙間から呆然としたもう一人の自分の顔が覗いている。崩れた氷の上から手を差し出してしっかりのその手を掴む。

「お前はどうしてそんな顔になったんだろうな。それとも本質はそっちだからか?」

 信勝がその顔を軽く払うと大人の信勝は姿が変わった。信勝と同じ姿と軍服で、氷の冠と杖を持った最初のもう一人の自分の姿に戻る。

 逃げられないと悟ったもう一人の自分は皮肉な笑みを浮かべた

『なんの真似だ。ずっと僕を拒絶して、会うこともできなかったのに』
「お前が僕を姉上に会わせたんだろう? 姉上だけじゃない。姉上に会わせるために卑弥呼を、亀くんを、童話の住人である人魚姫までこの呪いの中に招いた。……僕に過去の記憶を捨てさせるために」

 沖田だけは別だったようだが。

『ここはお前の心の中、お前が本気で拒絶すれば僕は何もできない……なんのことだか』
「だからお前は僕の心を変えようとしたんだな。僕を絶望させて、子供の記憶以外を全て捨てさせるために。……僕は姉上を見たら謝らずにはいられなかった。そして拒絶された。「今更謝ってもどうしようもない」と痛感した。卑弥呼と亀くんの過去を見た。卑弥呼の過去を見て、姉上が僕が死んだ後に苦しかったとしたらこういう風なのかとさらに罪悪感を感じた」
『離せ、僕は知らない』
「亀くんと話した。亀くんは自分を心から許すことはもうできないと言っていたから僕もそうなんだと感じた。人魚姫の嘆きを見た。彼女を見て死んだ後に姉上が悲しんでどこかで喜んでしまった自分に気付いた。僕はどこまでも罪深いと感じた……でも彼女が青い鳥を届けてくれたから気付いた。これは全部お前の策略だって」
『……だったらなんだ』

 もう一人の自分はもう抵抗しなかった。ただ冷たく信勝を見ていた。

「僕を絶望させたかったんだろう。僕は姉上に取り返しのつかないことをして、僕はどんなに最低で、それを償うために外に出るには子供の記憶以外を捨てるしかないって……亀くんの言葉はお前は嬉しかっただろう。亀くんは例え卑弥呼のためでも自分を許すことができない」
『僕は最初から言っている。他に方法はない。無垢な記憶以外は捨てるべきだ。なのに……どうしてまだお前は分からない?』
「ここは僕の心の中、だからそう簡単には入れない。聖杯の呪いもあるしな。でももう一人の僕であるお前が招けば入れるのかもしれない。魔術も使えるって言ってたしな。そんなことができるのは僕以外にはお前しかいない」
『お前は身勝手なんだ。僕がどうして外部の連中を招いたと思っている。いくらお前と縁があると言っても大変だし、危険もあった。でも仕方ないじゃないか。お前は本気で僕を拒絶した。そうされると流石の僕も近づけないから絡め手を使うしかない……お前が過去を捨てる以外に選択肢がないと思い知らせるために』

 信勝はにっと笑った。

「やっぱり、僕は馬鹿だな。全部逆効果だったぞ」
『なに……?』

 信勝を中心に風が吹いた。もう一人の自分は腕を掴まれて動けない。

「姉上に、みんなに会うことで僕は、僕がどれだけ大切にされていたのか分かった。そんな僕を捨てるなんてとんでもない。そうだろ?」
『馬鹿な……じゃあなんでさっき「自分」を壊した!? さっき「無敵になった僕」を徹底的に壊しただろ!? だから、お前はもう、過去を捨てると思ったのに!』
「……あの「僕」は僕に必要だと思ったから作った。でも姉上を傷つけていたと知ったから壊した。これから新しい僕になるために」
『新しい……自分?』

 信勝はまっすぐにもう一人の自分を見つめた。

「お前、聖杯をあんまり信用しない方がいいぞ。自分を許せば出られるなんてどうしてあいつが教えてくれたと思う?」
『それは……』

 そのことを考えるともう一人の自分は脳に大きなノイズが走ってまともに考えることができない。もう一人の信勝は限りなく本人に近いが、ここから出ないために聖杯の提示した条件そのものを「疑うことができない」。他にもいくつもいじられているだろうと信勝は両手をこめかみに当てたもう一人の自分をじっと見つめた。

「きっと本当の条件は違うんだ。僕が自分を許せば出られるってそれこそ僕の心がまだ強い力を持っているってこと。……きっとお前は騙されてる。いや、色々な知識が意図的に抜かれている」
『あ、たまが……動かない』

 信勝はもう一人の自分の崩れ落ちそうな肩を支えた。

「聖杯、聞いているか! 僕はここを出るには自分の罪を心から許さないといけないんだって!? どうしてそんなサービスをする? 単に「二度と出られない」ようにすればいいだけなのに。僕にはそれが不可能で苦しめたいから? 僕はそれを素直に信じるほどお人好しじゃない」

 もう一人の自分は信勝を不思議そうに見た。何かをとても怒っている。一体何を?

「僕はこう推理する。結局、お前は僕の心に力を与えすぎたことには変わりないんだ。だから僕を殺せなかった。僕には自滅してもらうしかない。逆に言えば……僕が自分の心を理解して与えられた力を使えば、出ることは不可能じゃない。ただ……聖杯、お前が見透かした通り僕は姉上に会うことを……」

 そこでもう一人の自分は信勝の襟首を掴んだ。必死に首を横に振って叫んだ。

『そんなことはさせない! お前はこのままじゃまた姉上を傷つける! 僕たちは姉上を傷つけた、何度も何度も何度も! もう二度とそんなことはさせない! ……大人になった僕は間違っている。僕は子供の僕だけしか存在しちゃいけないんだ!』
「馬鹿、お前そんな状態で無理するな。ほら、こんなに血が……」

 もう一人の自分はまた姿が変わった。白装束を着た死ぬ前の信勝。白い服に新しい血が次々と染み込んでいく。

『姉上に二度と酷いことはさせない! 僕をその手で殺させた、崇拝して心がないもののように扱った! それは酷いことだ! 僕が大人になったことは全て間違いだった! だから僕は僕を消毒しないといけないんだ!』
「消毒するってようはお前を消すってことだろ。僕はお前を絶対に置いて行かない! 姉上をこれ以上苦しめないためにも!」
『意味が分からない……まさかお前、自分を許すつもりか? そんなこと絶対できやしない!』

 氷の杖によりかかってもう一人の自分はゴボッと血を吐いた。信勝は寄り添って頬に流れる血を袖で拭った。

「なんて言えばいいのかな……僕なりに辛かったよな」

 もう一人の自分は寄り添う信勝を突き飛ばした。しかし信勝も転んだりせず、数歩下がっただけだ。

『僕が辛いなんてどうでもいい。大切なのは姉上だけだ』
「さっきの無敵の僕にも言ったがすまなかった。僕はあまりにも僕を虐待していた。死ばかり願うほどに……そんな僕に姉上が悲しまないわけがないんだよな。大切な存在を本人が虐待しているんだから」

 信勝の口元から一筋血が流れた。胃の辺りが痛い。氷の刃が地面から生えて突き刺している。

 痛みに緩んた信勝の腕からもう一人の自分が抜け出してきっと睨んだ。氷の色の瞳はそういう時やけに鋭く見えた。

『何が僕だって辛いだ……一番大切な人を身勝手に傷つけたくせに傷つく資格なんてない。そんな僕は……』
「そんな僕だから姉上は苦しんだ。僕が傷つくたびに僕の代わりに悲しんでた。そんなの歪だ。僕自身が自分の痛みにちゃんと悲しんでやるべきだった」
『あ、姉上は……確かに僕の死に悲しんでいた。償わないとならない。だから僕は綺麗な僕だけを姉上の元へ返したくて……それの何がいけないんだ!?』

 もう一人の自分が氷の錫杖を振るうと氷の礫が信勝に降り注いだ。けれど信勝が本気で睨むと氷の礫は空中でピタリと止まった。信勝は薄く微笑む。最後の最後だが本当に自分の心の世界をコントロールできているようだ。

「それじゃダメなんだ。きっと姉上はまた悲しむ。それに僕は僕を守らないといけない。そうしないと姉上はずっと僕の代わりに僕を守ることになる……今までと同じように」
『ちっ――なんでだ? どうして僕にこだわる? 僕はただの聖杯のコピーなのに』
「コピーに過ぎないかもしれない。でもお前は本当に苦しんでるだろ。大人の僕の姿をしてるじゃないか……僕はさ、子供の無邪気な僕だけじゃないくて、姉上を崇拝してそのくせ身勝手な大人の僕も取り戻さないといけないんだ」
『分からず屋!』

 もう一人の自分は天から氷山を作って信勝の脳天に落とした。信勝は「消えろ」と氷山に念じる。すると氷山は真っ二つになったが破片が降ってきて避けたものの右腕に傷を負う。さらに飛び散った破片で首の皮が切れる。動脈を切ったせいでまるで血の化粧だ。

(これが僕の心の中の出来事にすぎないなら……これが僕の本音なのかな。ここから出てい気持ちと……出たくない気持ち)

 姉と飲んだほうじ茶を思い出す。すっと念じると出血が止まった。もう一人の自分は鬼のような顔をして氷の刃を周囲に浮かべていた。

『僕のやり方が一番姉上を幸せにできる! きっとこうすることだけが償い――!』
「きっと……僕はどこかで姉上に会うことを拒絶している。会わせる顔がないから。会ったら僕がどんなに傷つくか知ってるから」

 もう一人の自分の錫杖に大きくヒビが入った。

「やっぱり。この最低な気持ちがお前のエネルギー源だったんだな」
『ぼ、僕が姉上に会いたくないわけないだろ……誰よりも姉上が大切なのが僕なのに』
「そりゃ、僕も人間だからな。自分の罪を見ることが死ぬほど怖い。ずっと被害者面して生きてきたから自分が加害者だって知ることが一番怖い。しかも一番好きな人の加害者だったんだ……諦めろ。これを自覚すればもうお前に力はない」
『嘘だ……姉上は僕の全てなのに、あ、会いたくないなんて』
「僕は、お前も含め色んな事を周囲に押し付けてきた。これからは自分の気持ちをちゃんと知ろうとする。……心配するな。会いたくない気持ちも本心だが会いたいのも本心だ。帰って償わなければと言う責任感もある。人魚姫が教えてくれた。気持ちは矛盾してるからって間違いじゃない」
『どうして……僕を捨てない?』

 信勝は「自分」に手を伸ばした。けれどもう一人の自分は触れる前に信勝の頬をパンと平手打ちした。

『なんでだよ! 分からない。僕が頑張ったから姉上を苦しめたのに、どうして頑張った僕を捨てちゃいけないんだ?』
「僕はずっと姉上に助けられてきた。そんな僕を……僕が捨てるわけにはいかない」

 信勝はずっと気付かなかった。それが見つけてしまった一つの大きな罪。

 ずっと多くの人に助けられてきたことを見なかった。
 姉に、父に、母に、権六に。
 卑弥呼や亀に、ゴルゴーンに、いつも優しいマスターに、気の置けない茶室の連中、カルデアのみんなだって。

『姉上が……僕を助けてきた?』
「そうだ。知ってるだろ、姉上はいつも僕を助けてくれた。僕が大切だから……それなのに僕は僕を嫌うことで彼女を悲しませてきた」

 信勝は自分が嫌いだからいつも冷たく扱った。その姿に姉を、みんなを苦しめてきた罪に気づいた。

 信長は不器用に夫婦ごっこで伝えたこと。
 信勝に自分自身を嫌わないでほしい、少しでも好きになってほしい。
 あんなごっこ遊びまでして弟に伝えたかったことはきっとこれなのだ。

(これが僕)

 誇るべきでもない、恥じるべきでもない、ただの自分。
 だから今度は自分が自分を助けてやらないといつまでも姉が代わりに傷ついてしまう。

「ほら僕は織田信勝だろ! 姉上が大切にしているものは大切にしないと!」

 傷だらけ、後悔だらけの大人の自分を抱きしめた。
 そうしないとすぐに消えてしまいそうだった。

「僕は姉上にに助けられてきた。これからは僕が僕を嫌わないで、少しでも好きになってやらないと」
『だからなんだ……それを全部台無しにしてきたのがこの「僕」じゃないか。強くなろうと必死で何も「聞こえなくなった」。一番したくないことをしてきた。僕は最低の人間だ』
「みんなに助けられてきた僕を僕自身が見捨てることはできない。それこそ姉上とみんなへの裏切りだ」

 願った通りの結果でなくても、それはやはりそれが自分の人生なのだ。

『捨てていけよ。この「間違った成長をした僕」を。子供の頃を記憶だけ持ち帰れ……ずっと子供でいればよかったんだ。僕はただ微笑んで姉上の帰りを待っていればよかったのに』
「僕が僕を置いていくことはできない。僕は大人になって一番の願いを最低の形でやり通りした。そこから逃げちゃいけない……一緒に帰ろう。姉上を助けなきゃ」
『何を、馬鹿なことを……お前が自分を許せるわけない。心から自分はここから出たいなんて願えるもんか……好きなんてなれるはずがない』

 信勝はじっともう一人の自分を見つめた。苦しんでいる。自分を責めていた。己だけは信長のために自分を許すまいとしていた。

「そうだな……多分、僕は僕を許すことはできない。努力はするけど……自分を好きになることも難しいと思う。元々自分が嫌いだしな」
『そうだ、僕は分かる。お前は口だけだ。今だって自分が憎くて仕方ない。分かるぞ、自雑して楽になりたいんだろ? だって姉上を傷つけるもの全てが許せない、それが織田信勝だろ?』
「姉上は僕が僕を好きでいることを望んでいる。とても難しいけど、たとえ無理だって、僕はそうするよう努力する。本当に愛された実感も一つは残ってるみたいだしな」
『なんで、そこまで僕に……こだわる?』

 信勝はうまく言葉にできず、ぎこちなく笑った。

「覚えてるか? 昔、姉上が言ってたこと」

 鮮やかに思い出せる。柿の色と同じ色の空の下、川の流れを見ながら姉の話を聞いた。

「姉上とは色んな話をしたよな。国のことや戦のこと、柿のことや本のこと。姉上は時々どう生きるべきか言ってた。自分の人生は自分で考えて自分で選べ。その結果がどんなに辛くても背負って生きていくのがヒトだって……だから僕は自分が許せないけど、自分の人生をなかったことにはしない」
『……?』
「覚えてない? ……そうか、聖杯はそういう風にお前を仕組んだのか」

 自分が忘れるはずない。今でも鮮明に覚えている。姉は確かにそういう風に生きろと言っていた。あまりに幸せな尾張の夕暮れの中で「お前の人生だ、お前の道を行け」と……そうだ、微かに思い出せる。笑いかけてもらったのだ。

「ほら、僕らしいだろ? 姉上がそう言ってたんだ。だからそうする。自分のしたことを心底後悔していても、なかったことになんてしちゃいけない」
『……見ただろ。聖杯が叶えた姉上の願い。僕はただそばにいればよかった。それを僕自身が最低の形で台無しにしたんだ』
「僕なりに姉上の気持ちを想像してみたんだ。たとえ最悪の結果でも僕が僕の人生を否定したら姉上は余計に悲しむんじゃないかって」

 先ほど卑弥呼の力で繋がった時、信勝は言った。自分の人生は間違いだったと。その言葉に姉はとても怒ったのだ。今ならなぜ怒ったのか、何を言ってはいけなかったか、分かる。

「だからお前を置いていけない。お前は間違ったけど僕の人生じゃないか。どんなに辛くても背負っていかないと……ふふ、きっと姉上に怒られる」
『それは……それは』

 信勝は苦く笑った。
 自分が憎い気持ちはある。正直、憎んで嫌ってしまった方が楽だ。

 それに甘えてきたとも言える。自分を否定することで自分に守られていた。
 でも、もう終わりだ。

「これから僕は少しでも自分を好きになろうと思う。僕が僕を好きでいることを願ってもらったから、自分への憎しみを捨てられなくても努力はやめない。夫婦ごっこのことは覚えているだろ。姉上があんなに無理してくれたんだ」

 自分が嫌いだった。だから姉も嫌いだと決めつけていた。
 そこから間違ったのだろう。
 あんなに不器用に愛を注いでもらったのに。

「沖田って女に言われたみたいにまだ直接聞けてないけど、これで少しだけは姉上の気持ちに応えることができたんじゃないかな……まず僕は自分を少しでも嫌うのをやめる」
『馬鹿じゃないか……僕には分かる。お前、今だって自殺衝動を抑えるので精一杯じゃないか。首の血管を切り裂きたい気持ちでいっぱいじゃないか』
「……」

 それは事実だ。信勝は今すぐ死にたい衝動を抑えることで精一杯だ。それでも未来はきっと変えていける。

『そんな心で自分を好きになるなんてできるもんか……まるで拷問だ』
「あはは、僕が馬鹿なのは今更だろ? それに拷問でちょうどいいじゃないか。僕は罰を望んでいたんだから」
『……やっぱりダメだ。お前は子供の記憶以外を捨てろ。姉上も分かってくれる』

 きっと氷の瞳に睨まれる。信勝はまっすぐ見返した。

「分かっているだろう、この空間では僕には逆らえない……お前の力は全部壊した」
『好きになるだって? 絶対無理だ……なら、言ってみろよ! 自分のいいところを一つでも!!』
「えっ」

 信勝は固まった。そこを隙と見てもう一人の自分は畳み掛ける。

『ほら! 何がこれからは自分を好きになるだ! 一つも言えないじゃないか! いや、三つは言うべきだ! 言っておくがここは心の中、お前だって嘘はつけないぞ!』
「そ、そそそ、そんなことくらいかん、たん…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あ、あれ?」

 信勝の脳内にあったもの。それは虚無だった。空虚。がらんどう。空っぽ。それくらい自分のいいところが思いつかない。悪いところを考えれば無限に思いつくのにいいところだけ白紙のノートを渡されたようだ。

『ほらみろ、一つも言えないじゃないか! やっぱり無理なんだ、僕に従え!』
「そ、そそそ、そんなこと、あ、あるもんか……さっきはちょっとびっくりしただけだ。えっとえっと、うーん……そうだ! 夫婦ごっこの二週間後、姉上にコーヒーを出すタイミングを「ちょうどいい」と褒められたんだ。だから僕はタイミングがいい……はず」
『そんなのいいところってほどか!』
「うう〜! ち、違う、僕はいいところがあるはず!?」

 言葉と裏腹に信勝は床に膝をついて頭を抱えている。どうしよう。本当に何も思いつかない。なんとか思いついたものは確かに「いいところ」というほどではない。長所とはもっとはっきりしたもののはずだ。

 もう一人の自分は言葉で信勝を制圧することで少しパワーを取り戻しつつあった。

『ほら! 子供に戻れ!』
「だ、ダメだって! どうしよう……」

 本心で動揺すれば信勝の優位性は揺らぐ。心からいいところを思いつかねばらないのに誰もが素晴らしいと言える長所が思いつかない。どうしよう。確かにこんなことでは自分を好きになって姉の元へ帰るなど不可能なのでは。

(ダメだ……頭の中に何も浮かばない。はっきりとした長所なんて僕には……僕は僕を好きになるって言ったのに、本当にこんなことで……頭が真っ白だ)

 思わず小さく言葉が漏れた。

「だ、誰か……助けて」

 本当に情けない言葉だったが、それは信勝が大人になって言わなくなってしまった助けを求める言葉だった。
 すると一陣の風が吹いた。どこからか桜の花びらが舞う。

……「うりゃー!」……

 桜吹雪とともに桜の刀のキーホルダーが現れる。キーホルダーは信勝ともう一人の自分の間に割り込み、桜の花の渦を生み出した。

 もう一人の自分が気圧されて数本退くと桜の渦の中から一人の女性、つまり沖田が現れる。キーホルダーになる直前の桜色の着物を着ている。そして半透明で身体が透けている。

「お前、ど、どうして?」
……「そりゃ召喚されたからですよ。助けてって聞こえましたから……言えば案外助けてくれるものです。私もそういうの苦手ですけどね」……
『お前は詠んでない! どうしてこの空間に……』
……「また別の信勝さんですか……あのですね、そんなの簡単なんですよ。召喚されたからシチュエーション分かっちゃうんですよね」……
『えっ?』「え?」

 思わず信勝もツッコむと沖田はビシッと指をさした。

……「信勝さんのいいところ! それはこの沖田さんを助けたことに決まってるじゃないですか! 本体の私が外で元気にしているのは聖杯の泥から信勝さんが庇ったからです! これがいいところじゃなくてなんなんですか!?」……
『……な』

 まさか他人が割り込んで「信勝のいいところ」を主張してくるとは思わずもう一人の自分の思考はオーバーヒートした。信勝本人も沖田の後ろでツッコむ。

「そ、そんなことでいいのか? それはただのなりゆきというか……」
……「なんでですか!? 沖田さんを助けてどうでもいいことですか!?」……
「で、でも、長所ってもっと客観的というか、そんな主観的に決めちゃダメっていうか」
……「ちなみに私のいいところは強い、顔がいい、スピーディです! どうです、文句ないでしょう?」……

 信勝はコメントを差し控えた。

……「なんですかその目は。私から言えば長所も短所も主観的なモノです。自分がそう思えばそれでいいんですよ……ほらタイミングの話したでしょう? あれでいいんですよ」……
「そ、そうなのか……僕はいいところが言えていたのか?」

 真面目に悩む信勝に沖田は苦笑して腰の刀を抜いた。

……「まあ、マスターに会えば十個、ノッブにまた会えば二十個くらいは言ってくれますって。一個は思いついて、もう一個は私が教えたんだから、あとは他人に教えてもらってください」……
「そ、それは多すぎだろ! ……うわ」
……「さっさと用事済ませてください」……

 もう一人の自分の方へ沖田は信勝を突き飛ばす。
 信勝は膝をついたもう一人の自分の手をとる。

「ほら、行こう」
『お前、しつこいぞ。なんで……僕は聖杯のコピーだ』
「それでもお前は僕の人生だろ。姉上に僕を会わせて失敗だったな。姉上は僕が自分の人生を否定したら怒ってたぞ。それだけじゃない、きっと傷ついた」

 自分を助けながら信勝は信長を思う。
 もしかしてずっと姉がそのことを弟に言わなかったのは、言ってしまったら信勝が人生の意味を否定するかもしれないと怖かったからかもしれない。
 そんなことを強い姉が怖がっていた……かもしれない。

「あ、思いついだぞ、僕のいいところ! 僕は姉上が大好きだ! これで三つだ!」
『……それ、最悪に悪いとこだろ』
「だからこれからいいところにするんだって!」

 能天気そうに笑う信勝。もう一人の信勝は自分だからその笑顔が偽りだと知っている。罪悪感で死にたい気持ちを泣いて堪えるのが精一杯のはずだ。それなのに無理をしているのは……自分の人生を抱えていく覚悟なのか。

(僕の人生にそんな価値あるかな)

『もっと賢くて優しい弟ならよかったのに……どう転んでも僕は馬鹿なんだな』

 大人の自分は一筋の涙を流して、握られた信勝の手を握り返した。

『でも……それが僕なんだな』

 最後にわずかに微笑む。白装束の大人の信勝の身体は金色の光に溶けて、信勝の手のひらに吸い込まれていった。信勝は光が消えると手に平に囁きかけた。

「大丈夫、きっとこれからは大丈夫だ」

 そう「自分」に言い聞かせた。

 もう一人の自分が消えた後には半分は青さが戻った青い鳥の石像があった。



七章 弟の捨てられなかったもの


 信勝が戻ってくると沖田は不敵な笑みを浮かべた。

……「やっと私が斬るべきものが見つかりました」……

 沖田は音もなく刀を抜いた。そして果てしない灰色の空間の真っ暗な空に刀を向けて、一線に斬った。

 すると空間に断裂が生まれた。そこから吹く風で分かる。これは呪いの外だ。

「す、すごい……本当に?」
……「信勝さん、ここから出てください。しばらくすれば戻ってしまうので」……

 思わず切れ目に近づくと確かに外の風を感じた。振り返ると沖田は透明に近くなり、消えようとしていた。

……「さっさとしてください、私の最後の一撃なので」……
「そんな、またお前……何がいいところだ。僕のせいじゃないか、いたっ!?」

 沖田のデコピンが信勝の額に炸裂した。

……「そういうシーンじゃないですよ。ここは沖田さん、かっこいい、ありがとう、が正解です。ま……私の一番の長所は斬るところですから、これで借りを返せましたね」……
「借りなんてとっくに返してるだろ」
……「細かいことはいいじゃないですか。気になるなら外の私に恩返しでもしてください。団子三皿で手を打ちましょう」……

 沖田は指先から光る花びらが溢れて少しずつ薄くなっていった。

……「今度こそ約束守ってくださいね。ノッブにちゃんと……言うんです、よ……」……

 そう告げて。
 沖田は空間の裂け目を残して花吹雪を散らして消えた。

 信勝は一秒だけ立ち止まって走り出した。

「待て! まだ閉じるな!」

 信勝は沖田が斬り開いた空中の穴に手を伸ばした。さっきより狭くなっている。長持ちはしないだろう。

 右手を突っ込むと腕が向こうに抜けたので左手も差し込んでなんとか顔を入れる。

 焦がれていた外に出る。外は真っ暗だったが「ここは本当に外なのだ」と空気の違いを感じた。

「や、やっと出られた……うわ!?」

 穴が縮む。信勝はなんとか肩までは外に出ていたがそこで穴が縮んだので腹のあたりを空間ごと挟まれた。これが聖杯の呪いと外の境目なのだろう。

「離せ! この……僕は帰るんだ!」

 もう一人の自分は言っていた。自分を本当に許すことができないとこの呪いから出ることはできない。しかし信勝は直感で違うと感じていた。もう一人の自分は一部の記憶を奪われていた。彼の思考そのものに仕掛けがあったと推理する。

 信勝がじたばたと穴の上でもがいていると少し緩くなり、外へと進んだ。

「僕は姉上に会いたい! 姉上に償いたい! 僕は本当は……もう一度姉上に会うのが怖い! 姉上を傷つけたことを深く知って、僕が傷つくのが怖い!」

 本心をぶちまける。聖杯は信勝の心象世界に力を与えすぎたことで呪いをかけて封じた。「自分を許す」ということがキーのようだが、それは信勝の心が力を持っていることの裏返しのようなものだ。

「僕が一番の加害者だなんて思い知りたくない! それでも僕は姉上に会いたい、償うためにも会わなきゃいけないんだ! だからここを出たい!」

 心から出たいと願えば聖杯の力を使って出られる。ただしその願いに一つの曇りもあってはいけない。おそらくそういう仕組みだ。だから目を逸らしたい気持ちを全てぶちまけ、曇りを拭っていく。信勝が本心から叫ぶほど、呪いにはヒビが入っていった。しかし信勝の足を何かが引っ張って引き戻そうとしている。

 自分を許す、とはなんだろう。
 大切な人を傷つけたことをなかったことにすることか? 違う。大切な人を傷つけた自分を罰することか? 違う。

 償うと信勝が願っているならば、それは許す自分になろうとしているということ。「呪い」は判定に迷っていた。償うとは自分の罪に埋め合わせをすることだ。「償う」と願っているのは自分を許し始めることなのでは? 曖昧な定義で作られた魔術式は矛盾に揺れていた。

 信勝は胸まで引き戻された。もう一度と両手を伸ばすとそこに青い影が横切った。手の平に乗る程の小さな美しい青い鳥だ。

「お前は僕の青い鳥……うわ!?」

 どすっと信勝の頭ほどの大きなクチバシが呪いの壁をぶち抜いた。

 視界の端からトンボ帰りをして戻ってきた青い鳥は一瞬で大きなワシになり、さらに巨大化して信勝の身長より巨大になる。青い巨大鳥は力強く、数回クチバシで呪いの壁を突き刺すと次は巨大な前足でガンガンと信勝の周りの呪いを破っていく。

……「幸福の記憶を心から願うなら僕に手を伸ばせ!」……

 青い鳥の声が聞こえた。自分の子供の頃の声なのでなんだか懐かしい。
 即座に右手を伸ばす。すると鳥の姿なのにニコッと微笑まれた気がした。すっと青い翼が手に触れると呪いがボロボロと崩れた。

 呪いから抜けて、巨大な翼に足を踏み出すとペイッと青い背中に放り投げられた。

……「まーったく、君のせいでずっと石になってて大変だった! 決意したならさっさといくよ!」……

 信勝の返事も待たず、青い鳥は信勝を背に乗せて高く空を飛んだ。下を見ると青い海、上を見ると青い空。そして目の前には灰色の雲の渦があった。

(そうだ、僕はこの龍の巣を目指して青い鳥と旅をしたんだ。確かここに「僕に消されていない、姉上にから本当に愛された記憶」があるって)

 信勝は青い鳥の背中をそっと撫でた。

「ありがとう、来てくれて。これで僕は……」

 信勝が言い終わる前に青い鳥は雲の渦の中に突っ込んだ。











 青い鳥は大変に難しい顔をしていた。今は鳥ではなく、幼い信勝の姿をしている。その右手に小さな燭台を持ち、細い灯りで雲の中の道を下へと降りていく。

 後ろについていく信勝は結構ワクワクしていた。

「本当にまた会えてよかった。もう僕自身にも自分の心がどういう形なのか分からなかったし、無意識に意識的に働きかけろなんて無理ゲーだよな。それにしても姉上に僕が心から愛された記憶、本当にあったんだな……今でも知識や推理で「愛されてた」って分かってるんだけど実感した生の記憶があるなら一番嬉しい。まあ僕自身が壊したんだけど、とにかく残ってた本物の過去。どんなだろう、すごくすごくたのしみ」

 青い鳥は足を止めて、やたら重苦しい目で話を遮った。

……「まあ、期待するほどのものじゃないよ」……
「なんだよ! 僕がせっかく楽しみにしているのに! ま、まさか嘘なのか?」

 それを当てにして「少しだけ自分を心から好きになる」つもりだったので焦る。

……「そんなわけないでしょ……ただ、ただ、ああー!」……

 青い鳥は耳まで赤くなるとしゃがんで頭を抱えた。信勝は心配して背中をさすると不思議そうに尋ねる。

「大丈夫か? 嘘じゃないなら、一体何を焦って……うわ!?」
……「うるさい! うるさい! 僕の気持ちがお前に分かるもんか!」……

 青い鳥は突然、怪力を発揮して信勝のベルトを掴んで全身を持ち上げる。それでそのまま奈落のある一点を定めて信勝を投げ捨ててしまった。

「ばか、しね! さっさと知ってお前も……恥ずかしい想いをして後悔すればいいんだーーー!」
「死ねっていくらなんでもひど……ぎゃああああああああああああああ!?!?」

 こうして信勝は奈落へ落ちていった。恥ずかしいって何?






『姉上、姉上……!』

 聞こえたのは幼い自分の声だった。奈落の底まで落ちた信勝はようやく足がついて、その声の方へ行く。

 そこには自分がいた。まだ七歳ほどだろうか。拙い足取りで必死に姉の方に走っている。

『姉上、大好きです! 姉上も僕が好きですよね!』

(ああ、この頃の僕はまだ……愛されているって信じられていたんだ)

 信勝は思わず目端に涙の粒が浮かんだ。青い鳥はなぜこれを嫌がったのだろう。

『なんじゃ、信勝、うるさいぞ』

 今度は十になったばかりの面倒くさそうな無表情の信長が現れる。袴姿で髪を高くに括っている。

『ああ、姉上、やっと見つけた……姉上、その、ぼく大きくなったら姉上に嫁ぎたいです! だから夫婦になる約束をしてください!』
『はあ?』

 背景になっていた信勝が固まる。確か、この記憶は……おかしい、思い出せないのに頭痛がする。

『だってだって! ぼくは姉上が大好きだし、姉上もぼくが好きでしょう? だったら夫婦になったらいいじゃないですか! 好きな人とはそうするものだって本に書いてありました! だから……』
『ばぁか、姉弟は夫婦になれんわ。却下』

 速攻でフラれる。心底時間の無駄だと信長は背を向けてひらひらと手を振った。信勝の背筋に嫌なものが流れる。そうだ、自分は幼い頃姉と結婚したくてこんなことを……まずい、思い出せないのに舌を噛みちぎりたい。

 死ぬほどうるさい泣き声が響き渡る。

『だったらぼく、姉上の弟やめるー! うわーん!』
『何かと思えば心底くだらん話をしおって、えーと本の続き……』
『わーん! わーん! ば……ばか、姉上のばか! おたんこなす! 目つきわるい! ひどいひどい! あ、姉上の、ぶ、ぶぶぶぶ、ブス!!』

 なんだこのクソガキ。子供とはいえ許されざる発言だ。世界一美しい信長によりによってブスとかふざけんなクソガキが!

『……お前なあ、フラれてそういう態度、普通に最悪じゃぞ。引くわ』
『だって姉上が! だって姉上がぼくと夫婦にならないっていうから……こ、コウカイするに決まってます! だって姉上もぼくが好きに決まってる! ゼンセ! そう、前世からのシュクメイなんです! だから夫婦になるに決まっているのに宿命に逆らうなんて……あ、姉上のばかばかー!』
『夫婦とか、前世とか、宿命とか……信勝、さてはわしの部屋の書物を勝手に見たな。位置が動いておると思っていた』
『だからなんだっていうんですか!! なんで夫婦になってくれないんですか!! ぼくはこんなに好きなのに!! 姉上もぼくが好きなくせに!! やだやだ、うわーん!! うわーん!!』
『アホくさ、知らん』
『あねうえひどい! バカ、ブス、もうきらいですううううううううう!!』
『うわ、また言いおった。最悪じゃな、信勝は』

 そこが信勝の限界だった。その過去の幻影に走り寄って馬鹿な自分にダッシュして全力の拳で殴る。すると過去の幻影は消えた。

「うぎゃあああああああああああああああああああっ!!」

 一人残されてた信勝が絶叫して、青い鳥の予告通り後悔した。
 こんな記憶から抹消されて当然だ。ひどすぎる。誰なんだこのクソガキは。

……「なに勝手に止めてるの? 黒歴史はこれからだよ?」……

 にっこりとなぜか黒い影のある笑顔を浮かべた青い鳥に後ろから襟首を掴まれる。

「ちょ、ちょっと待てよ! こ、これはなんか、違うような」
……「なにも違わないよ? はい、この後の僕が書いた冊子」……
「ぎゃあああああああああああああああ!!?」

 闇の葬った黒歴史ノートだった。何ページも信勝と信長との架空の結婚生活が書かれている。ところどころ手描きイラスト付きで、設定もかなり盛っている。しかも一冊じゃない。十冊以上ある。

……「ほらほら、読んで! 『ぼくとあねうえのえたーなる・ふぉーえばー・らぶ・めもりー』!」……
「読めるかあ! あと流石にそんな名前はあの頃つけてなかったああ!」
……「うるさいなあ。なら僕が読むよ。あ、僕と君って連動してるから僕が読めば君の目にも映るから」……
「殺してくれ、いっそ殺してくれ!」

 本当に目を閉じているのに冊子の内容が蘇ってくる。大分、ご都合主義で、信勝に都合のいい、ちょっぴりませた内容をありありと思い出してしまった。その中で信長は王子様だかお姫様だか分からない立ち位置だった。







 信長にフラれた七歳の信勝はその後泣き続けた。そして涙も枯れると寝食を断ち、部屋にこもった。そして鬼気迫る勢いでこの冊子を書き上げた。ちなみに信長は一週間ほどふらりと旅に出ていたので信勝は一週間そのままだった。

『あねうえのばか……あねうえのブス……ぜったいに夫婦になるんですからあ』

 まだ「ブス」と言ったので背景の信勝が包丁を持って立ち上がったので青い鳥がその手に噛みついて止めた。

 突然、寝食を絶った溺愛する息子の有り様に母は嘆いた。眠り食事をしてくれるように懇願した。しかし、姉のことしか頭にない信勝は最初は丁寧に、最後は雑に母の願いをはねつけた。

『また信長ですか! ああ、恐ろしい……あの子はやはり恐ろしい子! あんなに優しい信勝が別人のよう……ううっ! 信勝や、お願いだから母の言うことを聞いておくれ!』

 信勝は泣く母を無視した。弟はまた母と姉の確執を増やしていた。

 流石に三日も経つと父の耳にも入り、信勝は何度も父を無視したので拳で殴られた。母は嘆いたが父は『いい加減にしろ』と凄んだ。しかし、暴走する信勝には無駄だった。

『ほっといてください! ぼくは、ぼくはやりとげないといけないのです! 食事なんてしてる時間はありません! 寝てる時間もありません!』
『愚か者。城下でもお前が信長のせいで異常な行動していると噂になっているぞ。……お前たちは姉弟だ。夫婦にはなれん。子供はわけの分からんことを言い出す』
『ちちうえのばか! これ以上にたいせつなことなんてありません!』

 信勝は言い張って、そのまま冊子を書き続けた。また殴られたが意思は変わらなかった。

 二度、父に冊子を取り上げられた。しかし信勝は白紙の冊子を持って部屋から抜け出し、床下や外れの小屋の薪の中で続きを書いた。どんなに罰を与えても変わらない息子に父は姉に手紙を出した。

 手に血が滲み、頬はこけ、全身ボロボロだったが信勝の目は(危なく)爛々と輝いていた。

『これさえ見れば……あねうえだって夫婦になってくれる。そうに決まってる。だって
ゼンセのシュクメイだもん……うふふ』

 どうやら見せるつもりらしい。
 見せられてたまるかと信勝が過去の幻影をまた殴りかけたので青い鳥が翼でビンタした。

『だってこんなに楽しいことないから……うふふっ、あはははっ! あねうえ早くかえってこないかなあ!』

 闇夜の中で一人狂気じみた笑い声を上げる七歳児を信勝は指差した。

「なあ……僕って生まれつき危ないやつなんじゃないか?」
……「……」……
「否定しろよ!」

 青い鳥は「僕は君だから君が思ったのと同じだよ」と過去の再生を少し早送りした。







「もう見たくない」
……「言うと思った。駄目だよ」……

 体育座りをして顔を隠した信勝に青い鳥は腰に手を当ててプリプリと怒った。

……「駄目だよ、この先が重要なんだから」……
「いや、思い出した……この後、確か僕は倒れて姉上が帰ってきてくれた。母上に泣きつかれた姉上は僕に水を飲ませた。その時、何か温かい言葉をかけてくれたと思う。それが愛されてたって事だろ。だからもうやだ」
……「もうやだじゃない、ほら」……
「だ、だからもう分かってるし、これ以上は武士の情けっていうか」
……「武士の自覚なんて死ぬまでなかったくせに。自分の罪が分かったんだから黒歴史の再生くらい我慢しなよ」……

 信勝はもうかなり冊子の内容を思い出していたので死にそうだ。恥ずかしさ的に。精神的に。

「黒歴史いうな! ううっ……つ、辛いってこういう方向性だったのか」
……「すごい内容だよね。なんというかご都合主義ラブストーリーここに極まれりって感じ。即座に結婚しているし、その後ぽんぽん子供が生まれてる。なぜか母上と父上も泣いて祝福してる。ほんと展開が唐突だし、全体としてかなり痛い」……
「痛い言うな!」
……「あと七歳のくせにちょっとエロい」……
「ぎゃああああああああああ!!」
……「挿絵も大分アレなんだよね、なんと妙にネットリしているというか……絵が下手でよかった」……
「もうやだあああああああああああああ!」

 子供なので本当の意味の際どいシーンはない。だがその分やたら口付けのシーンが出てくる(百回で信勝は数える事をやめた)。そして子供は二十人もいて、孫も百人登場する。マセガキここに極まれりだ。

……「設定集がすごいよね。まず分厚い。姉上に見せるだけなのにこんなに分厚くする必要ないのにバカの力で書いてる。結婚式の権六のスピーチなんてマジでなんで書いたの? なんか設定の力で二百歳まで生きて二人同時に天に召されてるし転生先の設定まである。ねえ、なんで書いたの?」……
「知るか! 死にたい……死にたい」
……「死にたいとかいうな。償いのために自分を大切にするってのは嘘だったのか?」……
「死にたいと思うほど恥ずかしくて辛い! こんな馬鹿冊子書いて情けなくて泣きたい! ぼ、ぼぼぼ、僕がフラれた腹いせに姉上にブスとか泣きたい! うわーん!」

 地面でもがき苦しみ始める信勝に青い鳥はため息をついて言葉を探した。

……「まあ、君がそうだったからこの記憶だけ無事だったんだよね」……
「ど、どういう意味だ?」
……「君はこの時の記憶をすっかり忘れて十二歳の時にこの冊子を本棚の裏から見つけた。そして今の君みたいに全てを思い出して即座に冊子を全て念入りに燃やした。情けなくて恥ずかしかったから」……
「当然だよ! ていうか、思い出した! 見つけた時、死にたい気持ちだった! バレないように燃やすのに何日も様子を見て……姉上にバレたら本当に死ぬつもりだった! ぼ、僕が敬愛する姉上にブスなんて言うとか思い出したくなかった!」
……「だから死ぬいうな。まあそういう風に黒歴史だから記憶が封印されていたんだよね。天才と凡人の差に絶望する前に封印されていた。それが僕、青い鳥」……
「マジ?」
……「何その口調? そう、僕は君の黒歴史でそして姉上に確かに愛された記憶の一つ。旅で探した幸福が家の中にあった、君の願いは君の黒歴史の中にあった、これはそういう話」……
「お前が……僕の黒歴史???」
……「そして君が探し続けた本当の幸せだよ」……

 青い鳥は誇らしく胸を叩いたが信勝はちょっとだけ抹殺しようか悩んだ。

「なんであのガキはああなんだろうな、どうして姉上に愛されてるってあんなに信じてるんだろう」
……「あのガキって君だからね」……
「うるさい! ……僕はもうあんな気持ちは残ってない。あんな風に自分に価値があるって根拠もないのに信じているなんて」
……「子供だったからね。いや、思い込みが激しいからかな? ……泣いてるの?」……

 信勝は泣いていた。思い出した幸福は馬鹿でアホで忘れていたいものだったけど……本当に無根拠なのに幸せそうだった。自分と一緒だからこそ姉は世界一幸せになれると馬鹿みたいに信じていた。

「あのガキを見てるとなんか根拠とかなくても……いいのかなって思ったじゃないか」
……「だから昔の君だって。いいんじゃないかな、気持ちに根拠は求めすぎない方が」……
「あのクソガキは僕じゃない」
……「君だってーの」……

 ため息をつく青い鳥は大きな青い鳥の姿に戻った。そして軽く翼の先で信勝の頬をはたく。

……「ほら、クライマックスはすぐそこだ! べそかいてないでさっさと幸せになれ!」……








 最後の記憶は姉の声から始まる。

『信勝、このアホ!』
『……あねうえ?』

 一週間、寝食を絶っていた信勝は墨と紙の中で気絶していた。しまった、まだあれは完成していない。あれがないと姉は結婚してくれない。

『すみません、あねうえ、ぼくやることが……』
『ふざけんな! なんで死にかけおる!? いいから飯を、いやまずは水だ』
『ダメです。神様に誓ったんです……願いを叶えるまで水は飲まないしご飯は食べないって』

 どうやらそういう設定で寝食を絶っていたらしい。発想が修行僧だ。誓願された神も困惑しただろう。

『うつけもの! いいから水を飲め。母上がわしに泣いて懇願するなんて相当だぞ!?』
『だって、だって……あねうえがぼくと夫婦になってくれないから! だったらぼくはこうするしかないじゃないですか!?』
『……は?』

 姉は本気で理解不能と弟を見た。瞳の中が遠い宇宙にいっている。

『夫婦って、まだそのネタ引きずってたのか? 嘘、マジで? 水も飲まず?』
『やだやだ! あねうえと結婚! あねうえと結婚! ダメならここで死にます!』
『ああもううるさい……あー! 分かった! なるなる夫婦になる! だから水を飲め!』
『ほ、本当ですか!?』

 ボロボロになっていたがその時の弟の顔は、なんと言うか、光り輝いていた。

『やったー!!』
『このわしを根負けさせるとか……お前も末恐ろしい弟よな』
『あねうえと結婚! あねうえと結婚! うふふあはははあっ!』
『うわあ』

 その後、信勝は水を茶碗三杯飲むと倒れて深い眠りについた。









 三日後、弟が布団で目を覚ますと隣で姉が何かをめくっていた。

『なんじゃこの話、お前が書いたのか?』

 信勝の黒歴史ノートだった。しかもすでに読んだ形跡ある冊子が傍に二冊ある。


……「姉上に読まれてるしいいいいいいいいいいいい!!」「ああもうじっとしてて!」「やだやだ! 酷い! 死にたい死にたい!」「耐えろ!」……

 背景に溶け込んだ信勝が泣いていたがそれは過去の世界に関わりにないことだ。


 幼い弟はそんな未来のことは露とも想像せず、ぱあっと顔を明るくした。

『あねうえ、読んでくださったのですね!』
『って起きたのか。ほら、もう一度水を飲んだら粥を食え。母上がまたどれだけ泣いたと……』
『これでもうぜったいにぼくたち夫婦になれます。どれだけ楽しいかたくさん書きましたから』
『夫婦? ああ、そんなこと言ったっけ……まあ、その内な、その内』
『式はいつにしますか? 明日ですか? 明後日ですか?』

 適当に流す姉にゴリ押す弟。信長はため息をついた。

『どうしてそんなに夫婦になりたがる。わしらは姉弟じゃろ?』
『だって男の兄弟と違って女の人は結婚したらいなくなってしまうんでしょう? 本に書いてありました。そんなの絶対いやです。だからぼくと姉上は夫婦になるしかないんです。それならずっとずっと一緒です』

 視野狭窄が激しい。弟に粥を五匙食べさせた姉は少し真面目な顔をした。

『どうしてそんなにわしと一緒がいい? お前とわしは……こんなに違うのに』

 お前は人間なのに、とは姉は口にしなかった。

『姉上が大好きだからです! 姉上もぼくが好きでしょう?』
『……さあな』
『姉上! ぼくが好きだから一緒にいたいでしょう?』

 一度フラれた弟は少しだけ自信がなくなっていた。超人の姉の胸の内の葛藤など七歳の信勝はちっとも分からない。ただいつか姉が嫁いでいなくなる日だけを恐れる幼子だった。

『とんだうつけじゃな、信勝は。わしらは姉弟じゃ、ずっと一緒に決まっておるだろう。それに……お前はわしが好きなのだろう? ならば尚更ずっと一緒さ』

 信長は信勝の粥を食べる匙を持つ手ごと抱きしめた。

 背景の信勝は目を見開いた。その時の姉の顔は心象世界で見た慈母の笑みだ。

『で、でも、本に姉上は姉上だから、いつかいなくなるって……ははうえだって遠くの国から来たって言ってたし』
『わしは普通の姉とは違う。父上はわしに戦の才を見出してお前の兄として育てると言うておる。男の兄弟と一緒だ。だから嫁いでいなくなったりしないさ。ほら、もうだから夫婦はいいだろう』
『ええー!? 夫婦になると言ったのはウソだったんですか! ひどい!』
『もういいから寝ろ。いなくなったりはせん。それでいいだろう?』
『だまされた! だまされた! 結婚詐欺です!』
『お前、マジでその言葉どこで覚えたんじゃ』

 食事をさせたのでさっさと布団の中に弟を放り込む姉。弟は納得していなかったようだが精神力だけで無茶をしていたので気が抜けると眠気に勝てない。

『むにゃ……あねうえ、ほんとうにいなくなりませんか?』
『いかんいかん』
『うにゃ……あねうえ、ぼくのこと好きですか?』

 非常に珍しいことに。
 姉は弟のそばに寝そべり、肩をくっつけるとにかっと笑った。

『そりゃ、お前はかわいいからな……わしはヒトの心はよく分からんが、それでもこの気持ちはただ信勝がかわいいのだと思う』

 その言葉ですっかり安心して。
 姉に抱きしめられて気が抜け切って。
 そして弟はそのまま一週間寝込んで、その記憶を十二歳に冊子を見るまですっかり忘れてしまった。









 青い鳥の背に乗って空を登る。その背に信勝は乗っていた。過去は終わったのだ。

 青空にヒビが入る。その向こうはやっと現実だ。

……「泣いてるの?」……
「だって、だって、ううっ、うわーん!」
……「ちょっと羽根に鼻水つけないで」……
「本当に……思い出した。姉上が僕を愛してくれたこと」

 青い鳥はホッとした。やっと知識ではなく実感として「愛されている」と分かったのだ。ならば外に戻ってももう今までの信勝ではない。

 ずっと信勝には愛情を受け止める機能が欠損していた。それがやっと愛情の実感で埋まったのだ。本当の姉に再会すれば今度は彼女の愛も苦しみも「分かる」だろう。

 まだ信勝は大声で泣いていた。確かに思い出した。大切なものを取り戻したのだ。
 ひっくひっくとしゃくりをあげる。

「でも、僕ってかわいいかな?」
……「その辺は個人の好き嫌いだから」……
「かわいいからって好きって早とちりじゃないか?」
……「分かってるくせに。姉上は僕が好きだからかわいいんだ。顔立ちなんて関係ない」……

 子供の信勝だった青い鳥も信長に似たようなことを言っていたことは隠す。

 青い鳥の背に乗って信勝は青空を登っていく。下を見ると氷山と海と黒歴史を封じた宙に浮いた島が見えた。その全てが少しずつ灰色になり、ボロボロと端から壊れていく。

 ごちゃごちゃだった心の中はこれで終わり。現実の姉の元へ帰らねば。

「でもでも、姉上のとこだけトリミングして保存できないか? 僕のクソガキなとこは冊子とまとめてカットして削除したいんだけど」
……「そんな都合よく行くか、セットなんだから一緒に黒歴史も連れてけ」……
「あんなクソガキ僕じゃない」
……「ぜーんぶ自分だって」……

 そんなくだらない会話をしていると青空のヒビが大きくなった。その隙間から光が炸裂すると思わず信勝は目を閉じ、すると手の平の中の羽の感触がなくなった。








「……あれ?」
『やっと戻ってきたか』

 気がつくと世界は灰色だった。心の世界は消えていた。
 そこには青い髪の子供、アンデルセンがいる。その前に信勝は一人で立っていた。
 ふと気になってアンデルセンの周囲を見回すと足元で人魚姫が眠っていたのでホッとする。

『おはよう。ぐうぐうとよくもまあ長々と眠れるものだ』
「僕は……戻ってきたのか? 青い鳥は?」
『役割を終えてお前と同化した。やっと記憶を取り戻したんだろう?』

 確かに胸の中に今までない温かさがある。目を閉じると姉の笑顔が浮かぶ、愛された記憶が本物だと分かる。

「……さよならも言えなかった」
『お前と一つになったんだ、別れをいう必要なんてない。さて、どうする?』
「決まってる……姉上を助けにいく」

 アンデルセンは予想していたようでピンク色のリボンを差し出した。

『行け、このリボンの先にいる……お前の分も用意してやりたかったが、あいにくここにいる俺は通信用の映像でな。助かりたければ自力で助かってくれ』
「ううん、ありがとう」
『リボンを見失うなよ、帰り道が分からなくなるぞ』

 リボンを受け取った信勝は軽く一礼すると先を急いだ。十歩進むとアンデルセンを振り返った。

「青い鳥、いい話だった。ありがとう。そんな馬鹿なって思ったけど大切なものは最初から持ってるって本当なんだな」
『礼などいい。青い鳥は俺が書いた話ではないしな、お前にちょうどいいから見繕っただけだ』
「そうなのか? お前が書いたと思っていた。でもカルデアに帰ったら青い鳥もまた読んでみようと思う……ん? お前、何を持っているんだ?」

 ピンク色のリボンはくいくいと手を引っ張る。そちらに足が進むが信勝の目にはアンデルセンの手に見逃せないものが映っていた。アンデルセンの口の堪えきれない苦笑いが浮かんでいる。

『しまった、バレた……くくっ』
「な、なんでそれをーーー!!?」

 それは信勝の黒歴史ノートだった。十冊が全部アンデルセンの手にある。

『いや、これはいいな。童心に帰れる』
「読むな、捨ててくれーーー!!」
『そうはいくか。これは青い鳥が『自分が存在した証明』として最後の力で実体化させたものだ。あいつの最後の願いは「織田信勝が二度をこの記憶を忘れないように」だからな』
「いやいやいや! もう忘れたりしないから! 燃やせ!」
『お前の信頼はゼロらしい。いや、心配するな。一応、確認で数ページ読んだだけで俺はこれ以上は読まない。マスターにも見せたりしないし、カルデアに持ち帰ったらちゃんとお前たちの部屋に届けよう』
「届けるな! 青い鳥の馬鹿野郎! 黒歴史なら名前の通り闇に葬ってくれーーー!」

 叫びも虚しく信勝はリボンに引っ張られて闇の中に飲み込まれていった。……勘だがアンデルセンにもマスターにも全て読まれるだろうと思った。







間章 むかしの話 切腹前夜

「ここから出ろ、外に馬を待たせてある」
「……姉上」

 やっと全てうまくいったのに姉はまた弟を助けにきていた。いや、ただ甘やかしているのだろう。

(ずっと子供だと思われてるんだろうか、謀反までしたのに)

 弟は牢屋の格子の影でこっそりため息をつく。すると姉が牢屋の鍵を錠前に刺したので慌てて止める。

「やめてください」
「馬鹿言え、さっさと牢を出ろ。お前は遠くの寺でしばらく隠れていろ。流石に城の近くだと信勝を生かすべからずのやつが多いんじゃ」

 清洲城の地下の一番広い牢屋。そこに柴田勝家に謀反を密告された信勝は捕えられていた。やっと死ねると安堵していた弟の元へ姉は「しばらく遠くで身を潜めろ」と牢屋の鍵を持ってきた。

「姉上姉上、落ち着いてください。いいじゃないですか、僕なら死んでも」
「……は?」

 信長は信じられないと目を見開く。いつも無表情の姉には珍しいと信勝は内心驚いた。

「僕は負けたんです。ここで死ぬ方が自然ですよ」
「お前が……死ぬ?」
「ええ、二度あなたに謀反をして生きていられるとは最初から思っていません。一度目の謀反の時から死は覚悟していました」

 また目を皿のように丸くする。謀反をされたことより信長は驚いた。言われた言葉の意味が分からない。信勝が死ぬ。そんなこと今日まで考えたこともなかった。永遠に信勝がいる尾張をどこかで信じていた。

「馬鹿言え、その、信勝が死ぬと母上がうるさいじゃろ」
「なんで母上? うるさいならどこかに閉じ込めておけばいい。姉上が気にかけるほどのことではないでしょう」
「な、なんじゃお前、いつもは母上に気を遣うくせにどうして」
「僕と母上は関係ないでしょう、姉上は昔から変なところで母上に気を遣いますね」

 それは時々弟がやたらと母に冷たいせいなのだが姉の気苦労を弟が知る機会はない。

 信長は動揺した。こんなに狼狽えたのは人生で初めてだった。姉はやっと弟が本当に死ぬのかもしれないと実感が湧いてきた。背中に冷たいものが伝い思いついたことを片っ端から話す。

「ああ、信勝は弱い。二年前に実際戦ったが驚くほど弱かった。だからいちいち殺す必要はないじゃろ!」
「生かす必要もないでしょう。二度目です、お願いですから情けはかけないでください。家臣たちの信用を失いますよ」
「……どうして、どうしてそこまで。お前は怖がりで痛いのも死ぬのも怖がっていたではないか?」

 そこで信勝は半身だった姿勢から格子を挟んで正面から信長の赤い目を見た。なぜ神のごとき力を持つ姉がこんなに自分に関わるのか弟はさっぱり分からない。

(あなたは僕とは全然違う、尊くて遠すぎる人。だから僕の死を気にかけるなんて夢にも思わなかった)

 姉はこんな雑魚の死に悲しむ心など持ち合わせているはずがない。悲しむとしたら同じ神の領域の存在だけだろう。それとも神の気まぐれとはこういうものだろうか。

「僕は自分の命より大切なものがあるのです」
「なんだと? そいつのために死ぬというのか?」

 信勝は貼り付けた笑みを浮かべた。目を伏せて神妙そうにする。

「人ではありません、尾張です。僕は故郷のためにこの命を捧げるのです」
「尾張……? このうつけ、お前が生きていても尾張には差し障りなかろう」
「大有りです。尾張は織田が治める土地。そこで後継者争いなどで隙を作ったら侵略されて故郷が壊されるかもしれない。だから、負けた僕は死ぬべきなんです」

 信勝は一歩、姉に近づきに笑みを維持した。

「どうしたら尾張を守れるのかずっと考えていました。それには誰よりも強いものが大名になる必要がある。だから強い姉上を後継者にするという父上の遺言を守るつもりだった。でも姉上はどこか気がそぞろで邪魔な僕を排除してくれなかった……少しだけ分かります、姉上は神のごとき才を持つ方、大名なんて身分窮屈ですよね。ずっと姉上は力はあっても心が伴わなかった」
「……どうして」
「だから謀反を起こしました。僕と姉上で家中が割れるなら戦って勝った方が尾張を守ればいい。万一僕が勝つなら僕が尾張を治めればいい……言っておきますが戦ったら九割九部負けるという確信はありました。まあ結果は予想通り。いっそ父上の遺言の後に僕の両手足を折って、幽閉してくれればよかったのにむしろ姉上は僕を守ってしまう……きっとあなたにとっては僕は幼い頃のままだったのでしょう」
「分からん。どうして信勝が死なねばならんのだ……尾張なんてただの土地だろう?」

 信長は感情が表情に出ない。だから外見上は何も感じず理由を確認しているだけに見える。
 弟も姉はいつものように何も感じていないのだと信じた。けれど信勝はその瞬間だけ、偽りではなく本当に笑みを浮かべた。生きていても死んでいても同じ身なのに惜しまれて少しだけ嬉しい。

「僕にとっては尾張は生まれ、育ち、遊び、学んだ場所です。この土地とそこに住まう人々が何より大切です。少しはいじめられたこともあったけど、この命を捨てても守りたいのです。この乱世で故郷を守るには一番強いものが頂点に立つしかない……姉上、お願いします」
「おい、なんじゃ……やめよ」

 信勝は信長に向かったまま、しゃがみ込み、そのまま土下座をした。信長は弟が何をしているのか理解できず見ることしかできなかった。

「姉上、あなたの勝ちです。どうかこれから尾張を守ってください。姉上はあまり大事ではないようですが、僕たち姉弟が共に学び遊び育った故郷じゃないですか……お願いします」
「……分からん」
「尾張をお願いします、勝ったものが守るしかないのです。僕の最後の望みです。命などいりませんから」
「なぜじゃ?」
「もし姉上が無理に僕を逃すなら、今度こそ本当に崖から飛び降りて死にます。そうすればもう尾張は後継者争いで割れることはない」
「分からん」

 信勝はもう一度床に額をぶつけ、姉に懇願し続けた。石の床だからか、ぬるっと額から一筋の血が伝う。

「これ以上、言うことはありません。どうか、尾張を守ってください」
「なぜじゃ?」
「お願いします」
「分からん」
「尾張を守ってください」
「なぜじゃ?」
「お願いします」
「分からん」
「尾張を守ってください」
「なぜじゃ?」
「お願いします」
「分からん」
「尾張を守ってください」
「なぜじゃ?」

 ひたすらそのやりとりが繰り返された。信勝は「お願いします」と「尾張を守ってください」しか言わず、信長は「分からん」と「なぜじゃ?」しか返さない。何刻もそんなやりとりが交わされた。大きく月の位置が変わっていた。

 ふっと燭台の油が切れて暗くなった。ずいぶん時間が経ってしまった。小さな窓の月明かりだけが二人を照らす。

「何度も繰り返すようですが、どうせ僕は死ぬのです。あなたに負けて殺されるか、隙を見て崖から身を投げて死ぬか。どちらになるかなのです」
「分からん」
「姉上、どうか尾張を……」
「なんでか分からん……だがお前の気持ちは分かった。分かってしまった……」

 か細く「分かりたくなかった」と消えるような声が溢れ、信勝には聞こえなかった。

「信勝、どの道お前は死ぬのだな? 尾張に後継者争いの種を一粒も残さないために」
「はい」
「そうか……そうなのか」
「……姉上?」

 信勝はわずかに頭を上げて目を疑った。姉が泣いているように見えた。しかし瞬きをするといつもの無表情の姉だったので錯覚だろう。

「帰る。沙汰は追って伝える」
「姉上、お願いします」
「……帰る」

 信長は酷く疲れた背中で階段を登って行った。




 翌日、信長は信勝に切腹を言い渡した。
 信勝は笑顔で腹を切り「あとはお任せします」と言い残して死んだ。



 信長はずっと大切なものがなかった。だから人生に情熱を持たなかった。弟に語った新しい世の夢もヒトの声が完全に聞こえなくなると捨てた。
 だが信勝がどうしても死んでしまうと知ってしまったあの夜、苦しかった。次の日に本当に死んでしまった弟の死体にこの感情が後悔と呼ばれるものだと知った。涙は出なかったが弟のいない故郷の姿に、胸にびゅうびゅう風が吹いているようでこれが悲しみと知った。

 信勝が大切なものだったのだ。死なないと気付かないなんて救えない。

……「あとはお任せします、姉上」……
……「尾張を守ってください」……

 だから。
 大切なものをなくした信長は信勝が欠けた故郷を守るために戦い続けた。
 どんなに強くても願いが空っぽのものは強い願いを持つ者に支配される。
 元が空なのだ。強い願いを差し出されればそれで空の胸を埋めるしかないではないか。

(元より何をしたいわけでもなかったしな……信勝がいれば故郷でぼうっと生きる道もあったがもう叶わぬ。結局、この乱世からわしも逃れられなかった)

 信勝が命を捨てても守りたかった故郷だ。
 この胸に他の願いが埋まるまで……そんなことはないだろうが……この力を使い果たしても尾張を守ろう。







 僕は嘘つきです。故郷なんてどうでもいい。
 だから地獄行きです。そこには父上もいるでしょうか。
 姉上、どうかあなただけは幸せに。








続く















あとがき


 さすがカッツ! 母上のことは一秒も思い出さない! そういうとこだぞ!

 色々長くなってしまったことに考えてしまいましたが新境地なのだと言い聞かせてやってきました。



ノッブ

 ノッブ出ない! やだ! と登場。
 嘘です。とにかく謝ればいいもんじゃない、でも帰ってきて欲しいと願っていることが伝わればよかった。


カッツ

「姉のために平気で死ねる自分を壊す」とカッツのアイデンティティを全破壊したんじゃ……とあれこれ悩みましたが「姉に深く愛されてると知る」とどうしても「自分が許せない」「姉が愛した存在(自分)を粗末に扱うことができない」「償うためにもむしろこれからは大切にする」となってしまうのです。姉が最愛ゆえの着地点なのです、はい。



亀くん

 ぐだぐだエースREを読んだら亀くんは老人になってから死んどるやんけ! と老後まで書きました。こうなったら老いて最愛の姉を置いていくまでの長き日々で絶望することも許されない希望を持たせよう! と当初よりだいぶ増えたよ。

 私の中では亀くんはレゴシで信勝はフォスフォフィライトなんだなーと思いました。レゴシは最初のまま内側でずっと悩むけど、信勝とフォスは最初の原型が無くなるまで変わり果ててやりたいことをやるわけです。


むかしの話

 信勝の切腹前夜を書くのはもう三回目なのですが、全パターン「信長は信勝を逃しにくるが信勝は「逃げるくらいなら死にます、僕のことは忘れてください」と全力拒否。毎回信長は根負けして死にたい気持ちで死を命じる」というオチになっていてこれが解釈ってやつか……と思ったりします。

 書くのも三回目だと慣れてきて「はい! ここで母上が悲しい、じゃなくてわしが悲しい! って言ったら信勝はちょろいので死にませんでした!」とか「やだやだ! 寂しい! 死なないで! って言ったらやっぱり死にませんでした! ノッブはそういうキャラじゃないからね!」とか「キャラじゃないから生涯癒えぬ傷を抱えるってしんどくない?」とか考えながら書いてました。今回は姉上を入れるところに尾張を入れてみました! ってやつです。

「魔王の涙」では「殺してくれないなら両目抉って両手足潰して半死人になります!」
「ノッブ公記感想小説」では「僕は死なないと目的が果たせないんです」

 これまで拒否がちょっと婉曲表現ですね。

 そう思うと夫婦ごっこでは「助けたらその足で崖から飛び降りて死にます!!」と言うウルトラストレート生存拒否で姉を根負けさせました(まる)


2024/05/18



【助けて!阿良々木くん!】

 基本的に夫婦ごっこのオチ(特に今回の話)は「終物語(上中下)」をインスピするぞ! と思っていたら大学生時代がアニメ化するみたいで時の流れに震えてます。まあでも阿良々木くんの過剰な自己犠牲と自己批判精神はカッツが自分を捨てているところと似通ってる部分があると思います。阿良々木くんが自分を捨てて(命とか)傷つくことで周囲が傷つくとこも同じだし。

 阿良々木くんは十字架のキリスト並みの正義の味方なので、小説に詰まると「いやー! 阿良々木くん羽川さん助けて〜! ガハラさんに殺されてもいいから〜! あ、ウソウソ、ホッチキスはやめて(迫真)」みたいになってました。



参考したもの引用・全部西尾維新著、講談社(ちょっと略したりして不完全な引用です。そうしないと超長くなるので……)


終物語(下)(ネタバレだけ伏せ)
「己を犠牲に。己を殺してきたきみだ。殺し続けてきたきみだ―――果ては地獄にまで落ちたきみだ。はた目には頭がおかしいと思うくらいに、他人本位で利他的な阿良々木暦だ――そんな阿良々木暦にとって、阿良々木暦自身である×××を退治することなんて赤子の手を捻るよりも簡単だ――自分の手を捻るくらいに容易いことだ。
 他人を救うために自分の命を、ゴミか何かのようにいとも簡単に放り出してきたきみは――考えることと同時に放り投げてきたきみは、今回も同じように、何も考えることなく、自分を殺せばいい。自傷し、自殺すればいい。他人のために自分を殺す。きみが毎日やっていることだ。難しいことは何もない。(中略)きみがもっとも憎む、阿良々木暦だ。だから――終わらせなさい。きみの手で、きみが終わらせなさい。それがきみの――青春の終わりだ」


終物語(下)
 思えばとんだ自作自演。
 だけどそれだけのことだった。
 僕はそんな立派な奴じゃない、大した奴じゃない。
 だけどそんな弱っちい僕だからこそ。
 僕が助けなきゃ――僕が死んじゃうじゃないか。
「ひたぎ……が」
 うわ言のように、僕は言う。
「羽川が……、忍が……、斧乃木ちゃんが……、みんなが、助けてくれた……みんなが助けてくれた僕を、僕が助けないなんて……、そんなこと、あっていいわけないだろう……」


終物語
「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」


終物語(上)341-342p
「だってさあ、私の脆さで幸せになんかなったら、ぐしゃって潰れちゃうよ。目も身も、潰れちゃうよ。幸せの重みに耐えられない。今更幸せになるより、ぬるーい不幸に足首までつかって適当に凌いでいきたい。靴をずぶ濡れにして生きていきたい。実際今までそうして……うん。今更幸せになんかなりたくない。手遅れなんだよ」
(中略)
「ねぇよ」
 僕は言った。
「お前が潰れるほど重い幸せなんてこの世にねぇ。幸せはまぶしくもなければ重くもない。幸せを過大評価するな――あらゆる幸せは、お前にとって丁度良いんだ」
 ぴったしなんだ。
 あつらえたように――よく似合うんだ。
「だからそんな風に、幸せを嫌うな。世界を嫌うな、何もかもを嫌うな――自分を嫌うな。お前の身体の中の『嫌い』は俺が全部受け止めてやるから――受け入れてやるから。だから、お前は自分のことを好きになれ」
 老倉育を好きになれ。
 僕のことを好きなだけ嫌っていいから――お前のことを好きになれ。
 せめて僕がかつて、好きだったくらいには。
「確かに僕はとても幸せだ――だからこそあえて言うぞ! こんなもんはな、誰もが持ってて当たり前のもんなんだよ!!」


>>
そういうとこだぞ西尾維新!! 続編のアニメ化おめでとう!!


おまけ引用

恋物語
「しかも、その内容がすごいって……、なんだよあの、とろけるようなご都合主義のラブコメは。八十年代かよ。あんな男が現実にいるかよ馬鹿馬鹿しい。しかも展開的には結構えっちだったりしてな」
(中略)
「こ、殺す! 殺す、殺す、殺す――お前を殺して私も死ぬ!」

>>
中学生女子の秘密のノート見てその批評は酷いぜ貝木さん!(でもその女子に殺される寸前だからしょうがないのかもしれない)
いちばん大切なもの、それは一番恥ずかしい黒歴史なのだ! という斜めの上の主張がラストになりました。
アニメで見るとその後の貝木さんの説得?はまじで感動するのでよかったら「千石撫子 黒歴史」で検索してください。三木眞一郎の演技すげえぜ。