夫婦ごっこ12~バケモノとヒトの姉妹喧嘩~






姉は弟に「どうして死んだ」と怒りをぶつけた


目次


プロローグ「今から姉にできること」

一章「弟の願い」

二章「魔王に相応しい世界」

三章「偽りの弟、姉の本音」

四章「お竜さんのアドバイス」

五章「バケモノの姉、ヒトの弟」

六章「卑弥呼と信長」

七章「自分を許す」

八章「姉は弟に「どうして死んだ」と怒りをぶつけた」

エピローグ「むかしの話 墓参り」

あとがき






プロローグ「今から姉にできること」




 これは夢だ。認識した途端、幼い罵声が飛んできた。

……バカ! なんで死んじゃったの!?……

「……よりによって黒歴史の僕か」

 信勝は黒のグレーの混じり合った空間に立っていた。その目の前に幼い頃の自分が立っている。

 幼い自分は遠慮なく信勝にズカズカと近寄るとポカポカと膝の辺りを殴った。正直、あまり痛くない。

……バカバカ! ぼくが死んじゃったら姉上が悲しいでしょ! なんでそんなことが分からないの!?……

「……うん」

……かわいそうな姉上、ぼくがいないと姉上は不幸に決まっているのに……

「うわ、我ながらよく言えるな」

 大した自信だ。それは信勝が年と共に失った根拠のない自負だった。自分が存在しているからこそ姉は幸せなのだと根拠なく信じていた。

……ぼくがいないなんて、姉上かわいそう! 姉上かわいそう! ……

「い、痛……いや、ずっとお前はそうでいてくれ」

……どういう意味?……

「僕はその気持ちをずっと捨てていた。姉上に憧れるあまり、僕にしかできないことがあるって忘れていた。僕がいない方が姉上は幸せだと思い込んだ」

……バカじゃない! 姉上は僕がいないと楽しくないのに! ……

「僕が死んだら姉上は喜ぶとさえ……そうやってそんな僕をバカバカって叱ってくれ。もうしないように」

……ぼくって本当にバカ! ぼくがいないと姉上は幸せなれないよ!……

「うーん図々しい、足して二で割れればいいんだけど無理なんだろうなあ」

 失ったのは図々しさだったのだろうか。それともそれを自信というのだろうか。

……本当のことだもん! ぼくが死んだから姉上は不幸になったに決まってる! だから生きなきゃいけなかったのに!……

「分かってる、分かってる」

……今からでいいからなんとかして! 本当にバカ! 姉上に色々しなきゃいけなんだ! ……

「色々って?」

……そんなの姉上にしてあげられる全てだよ! 全部償うことはできなくても少しでも痛みを和らげることはできる……はず。とにかく姉上のためになること全部して! ……

 子供の自分はポカポカと信勝の腰や腕を殴った。ちっとも痛くない。頭を撫でて分かったと伝えた。

……ほんと? ……

 それでもむくれた顔が頷くと夢は終わった。

「今から姉上にできること……全部」

 あんな酷いことをしておいて今更。けれどその今更を放棄すれば欲しい未来は遠ざかるばかりだ。

「できること、できること……あいたっ!?」

 信勝は顎に手を当てて考え込んだ。そのままその場をうろうろと行ったり来たりする。すると頭にゴンと何かが落ちてきた。

「なんだこれ……亀くん?」

 それは手のひらよりも少し大きい亀のワッペンだった。南の海を背景にしてデフォルメされた亀が「コチラ」と書かれた旗を振っている。

「なんか分からないけどまた会えてよかった……ん?」

 ワッペンの「コチラ」と書かれた旗の先にキラキラとした光の道が生まれた。







一章「弟の願い」




……「僕はずっと姉上と子供の頃のままでいたかった!」……


「……信勝?」

 信長が目覚めると信勝はいなかった。

 気がつくと原っぱに寝ていた。起き上がるとなんだか見覚えのある風景が広がっていた。起き上がって歩くとここがどこだか理解した。

「ここは……尾張?」

 この場所が故郷だと気づくと目の前から二つの幼い声がやってきた。

……「あねうえ、あねうえ、えへへ」……
……「なんじゃ、用もないのに連呼するな」……

 信長は驚愕した。それは幼い自分と弟だった。川辺を並んで歩いている。十と七つくらいだろうか。幼い信勝は幼い信長の着物の裾を掴んで早足の姉に必死に追いつこうとしている。

 驚いて触れようとすると信長の手の方がすり抜けてしまった。自分の体を身下ろすと半透明になっていた。まるで幽霊だ。

「……なんだ、これは?」

 信長の驚きをよそにその「信勝」は姉ににこにこと笑いかけた。

……「えへへ、なんでしょうか……昨日と同じ日が来ただけなのに、なんだか不安がすっかりなくなった気がするのです」……
……「意味がわからん」……
……「なんだか、姉上とずっと一緒にいられる気がするのです。もう時代も父上も母上も気にしなくていいんだって。ようやく、ずっとずっと何も気にせず姉上のおそばにいられるんだって」……
……「ふぅん」……

 姉はどうでもよさそうに弟から視線を離し、遠い空の雲を見た。弟の眉は少しだけ下がった。信長は「信勝」の言葉に不安を覚えた。

(これは……信勝の願いが叶ったのではないか? あの時、子供の頃に帰りたいと叫んでいた)

 だとしたらこれは聖杯が叶えたまやかしだ。この弟のささやかな願いも最後はボロボロにしてしまうに違いない。この安心し切った笑顔もズタズタに壊されてしまう。

(させるか)

 信長は信勝の目を覚まそうとその幼い信勝を触ろうとするがさっきと同じようにすり抜けてしまう。それでも諦めきれずスカスカと空振りばかりを繰り返す。

「おい、信勝。起きろ。これは聖杯の見せた夢、いや悪夢だ。目を覚ませ!」

 そう叫ぶが何も聞こえていないようだった。ガックリと肩を落とす。どうすればいいのだ。

 その間にも幼い姉弟はどんどん歩を進めていく。ある地点に到達すると二人は河原に降りていった。その場所には見覚えがあった。信長が気に入っていた河原の場所だ。

……「姉上、姉上、もうトンボが飛んでいます」……
……「へえ」……

 笑う弟が指さす先を姉は見なかった。

……「赤くてかわいいですね」……
……「ふぅん」……

 それにしても。
 信長は信勝に触れることを一時休止して、幼い姉弟の会話に耳をすませた。そして少し落ち込んだ。自分はこんなふうに弟と会話していたのか。

(信勝は必死で話しているのに、わしは「へえ」と「ふぅん」しかほとんど言わん。信勝はずっと笑いかけているがわしはろくにそちらを見ない、なぜ?)

 いや、過去の自分はずっとそうだった。自分とヒトは大きく隔てられている。だからヒトの弟にろくに反応しなかった。

……「姉上はまた凄いことを考えていますね、ぼく尊敬してます」……

 姉は弟の言葉に振り向かずただ夕焼けの向こうを見ていた。弟が目を伏せたことを現在の信長ははっきり見た。

(これじゃ、本当は好きだったなんて知りようがないではないか)

 信勝はうるさいが自分なりに「尊敬しています」とか「おそばにいたいです」と自分の気持ちを伝えている。笑顔とスキンシップもつけてくるから姉には「弟は自分が好きなのだ」と感じた。

 しかし過去の自分ときたらほとんど「へえ」と「ふぅん」しか言わない。基本的に遠くばかり見て弟の顔をほとんど見ない。

 自分のことだから分かる。内心、いつも好きだと伝えてくれる弟が可愛かった。自分と違う普通のヒトだと理解はしていたがその笑顔のぬくもりが心地よい。だからうっとうしいとも言いつつ連れ歩いていたのだ。

 だがそれは内心の話なので弟は知るはずもない。

(これでは信勝はわしにどうでもいいと思われていると思っても仕方がないではないか。どんなに話しかけてもろくに目も見んと「へえ」と「ふぅん」くらいしか言わんのに他にどう思えと?)

 その発想に自分で傷ついた。やはり弟が死んだの自分のせいなのだ。いなくなると寂しいと信勝は最後まで分からなかったのは自分の罪。

……「姉上、僕、昨日姉上のお話したこと考えてきたんですが、お話してもいいですか?」……
……「ふぅん」……
……「あ……む、無理に聞かなくてもいいのです。ぼくなんかの考えじゃ姉上はつまらないだろうし」……

 姉は相変わらず雲の流れから視線を逸らさない。弟の笑顔が曇ったことを透明になった信長は見逃さなかった。

「……くそ」

 今の精神年齢なら分かる。これでは大切に思っていたなどと伝わるはずがない。自分の積み重ねが信勝の硬直した思考を生み出したのではとずっと疑っていた。

(当時のわしは信勝のことはよく分からんかった。なんだかわしが好きらしいがやっぱりヒトじゃなと思ったし、ならば話しても分からんと思っていた。そのくせ……どうしてもそのあたたかさが気になってついそばに置いた。今ならそれが愛しいという気持ちだと分かるが当時はヒトには心を閉ざしていた)

 それからも弟は大好きな姉に話しかけ続けた。そして姉は無表情で「へえ」としか言わず、弟ではなく水面を見ていた。横で見ていた信長は苛立ちが募る。

(ええい、笑えとは言わんからせめて信勝の方を向いてやれ。一言くらい「面白い」と言ってやれ。信勝がわしから嫌われていると思ったらどうしてくれる? いや……大体そうなったんじゃが)

 当然、過去の自分は分からなかった。だから信勝は死んだ。これは聖杯の罠ではないか。信勝の願いが叶ったように見せかけて信長への精神攻撃では?

(そもそも……わしがずっとこんな態度なのに、どうして信勝はわしを慕うんじゃ? そういえば昔からそれが謎だった。優しくなんぞしていないのにどうして信勝はわしを慕うのか)

 愛に理由はないのだろうか。やはりヒトの気持ちはわからない。

 時間が経ち、空が夕暮れを迎えていた。姉弟は河原を立ち、家へ帰ろうとしていた。信長はまだ信勝の目を覚まそうと信勝(と時々信長にも)に触れようとしていたが腕は宙を舞うばかり。

(くそ……どうすればいい。ここにいても仕方ないのか。所詮は幻に過ぎないのか。この信勝は信勝ではないかもしれない。この二人を離れどこか探すべきか?)

 信長が姉弟と同じように河原から川縁の道へ上がるとポツンと信勝が一人で立っていた。夕焼けの橙色の光を浴びて影を長く伸びている。

「……どうした?」

 自分を探すと姉は少し先を歩いていた。信勝がいないことには気づいていないらしい。そういえばそうだった。転んで泣き喚いた時は振り返ったが道を別れたくらいではいちいち弟の方を振り返ったりしなかった。

 信勝は河原で拾った小さな石を手の平に乗せてじっと見ていた。しばらくするとそれをギュッと握って、ずいぶん遠くへ行ってしまった姉の背中を見た。

……「姉上……やっぱり僕といて楽しくないのかな」……

 ポツリとしたその言葉がひどく寂しそうだった。

……「やっと、やっと僕と姉上はずっと一緒にいられるようになったのに。
 全てのしがらみから離れて永遠に一緒にいられるようになったのに……これじゃ意味がないんじゃないか? そばにいられて僕は幸せだけど、姉上はちっとも楽しくない。今日だって一度だって笑わなかった。僕は必死で話したけど姉上はいつも遠くを見ていた……そうだ、昔と同じじゃないか。姉上は僕と一緒にいても楽しくない、幸せじゃない、退屈でつまらないんだ。
 僕は自分のわがままでつまらない世界に永遠に姉上を閉じ込めてしまったんじゃないか?」……

 また信長の腕は信勝を幽霊のようにすり抜ける。すると異変が起きた。ぐにゃりと空が歪んだ。次に地面が水彩絵の具を溶かしたように渦を巻いて崩れていく。さっき姉弟がいた河原もボロボロと砂場の城のように崩れていく。遠くを歩く姉の姿は消えていた。

……「僕じゃダメなんだ! 姉上は本当の天才、天下をとる人なんだから、本物の英傑じゃないとそばにいても楽しくない! 僕といてもちっとも幸せになれない! 僕は凡人、いや馬鹿で無能だから姉上は退屈でつまらないんだ! ……なんで永遠なんか願ったんだ。こんな世界に閉じ込められて、姉上は不幸でしかないのに! 姉上は僕じゃ絶対にダメなのに!」……

 信勝は大粒の涙をこぼして叫んだ。違うと信長は叫んだ。けれど世界はすでに崩壊を始めて、足場さえ崩れていく。

 壊れて、真っ黒になっていく世界で信勝はポツリと呟いた。

……「お願い、聖杯。僕を殺して。可哀想な姉上を解放して……」……

 その時、にゅうと中から黒い手が生えた。

……「そうだ、お前の願いは誰かを不幸にする。それを理解したようだな。ならばシネ」……

 そして信勝の首に触れ、その細い首を絞めた。信勝は抵抗せず、それを受け入れる……。

「させるか!!」

 信長は最後に残った足場を蹴って信勝の首を絞める聖杯の腕に喰らいついた。すり抜ける可能性も考えたが、幸いその腕には触れることがで来た。右手で腕に捕まると左手で刀を抜いて黒い腕を刺した。

 黒い腕はビクッと震え、赤い血を流した。ダメージがあったことに信長が内心安堵すると頭の中でひどく濁った声が響いた。

……「貴様、どうしてここにいる?」……

「知るか。はっ、とんだ悪趣味だな。これがお前のやり方か。願いを叶えてぬか喜びをさせて、最後に突き落とす。泥を吐き出すしか能がない汚れた聖杯に似合いだな、反吐が出る」

 やはり聖杯だ。これの泥に信勝が飲み込まれなければそもそも、と思うと信長はもう一度刀で指を斬った。切断はできなかったがそれでもまた赤い血が流れる。

……「何を言っている。それが人間だ。人間は汚らわしい。醜い生き物だ。だからどんな願いを叶えても破滅しかもたらさない。そもそも因果を捻じ曲げても願いを叶えたいと願うことそのものが醜悪だ」……

「盃の分際で思ったより口が回るではないか。やはり貴様は使い道がない。爆弾にでもできる分、帝都の聖杯の方がマシだわ。この産業廃棄物が……わしの弟に手を出してタダですむと思うなよ!」

……「僕だって最初はただの力にすぎなかった。しかし人の願いを叶えるうちに自然とこうなった。醜いとしたらそれはお前たちが鏡を見ているからだ」……

「言うとれ! ……信勝は返してもらうぞ!」

 信長は首を絞められた信勝に手を伸ばす。しかし眠るように目を閉じた信勝にはまた手がすり抜けてしまう。舌打ちするとさっきより大きく聖杯の声が頭に響いた。

……「そもそもお前だって願いを叶えたではないか」……

「……は?」

 そんなはずはない。信長は聖杯に願いを持たない。

……「お前はおかしい、どれもう一度……」……

「ちっ……くそ、触るな!」

 信長はそこで闇に飲まれた。小さな信勝に手を伸ばしたが触れることは叶わなかった。







二章「魔王に相応しい世界」





「……またか」

 信長はまた見慣れぬ場所で目を覚ました。周囲を見るが今度は原っぱすらない。闇だけの空間だった。

 じっと手を見るが信勝の手はない。あれは幻だったのだろうか……本物はどこなのだ?

「また聖杯の中か? どこにおる? ふん、次はどんな手品を見せる気じゃ」

 信長は立ち上がり、周囲を見るがやはり何もない。一応刀を抜いて、警戒をして歩く。不思議なもので歩くと足元に水のような波紋が生まれた。

……「わしのせいじゃ……」……

 すると早速きた。今度は聖杯の声ではなく、自分の声がした。自分らしくない、すすり泣きの混じった後悔の声だった。

「手をかえ、品をかえ、少しは飽きんのか、貴様は」

……「わしが信勝を殺してしまった。寺にとじ込めてしまえば命までとることはなかったのに……あの時、信勝に家督をやっても構わんと思ったから全ては中途半端になり、結局信勝から全てを奪ってしまった」……

 その言葉は信長を酷く不快にさせた。だがそれを表には出さない。

「ふん、なんじゃ、今度はよく調査しておるではないか。だがその後悔もわしの人生よ、今更貴様につつかれてなんだという」

……「全て仕方がないと思っていた。だが死後の世界で信勝は言った。全てわしの為だったと……どうして自ら死を選んだ? お前が死んだ後、わしの過ごした二十年以上の歳月はなんだったのだ? なぜあの時たった一言言ってくれなかったのだ?」……

「……」

 今度の言葉はさらに不快だった

 そのまま無言で歩いた。すると信長の前に信長がいた。

 今の黒い軍服ではなく、乱世の時代の着物を着ている。よく来ていた男物の着物に袴を着ている。地面に崩れ落ち、一筋の涙を流して、じっと信長を見上げている。

……「どうして信勝は死んだんじゃ?」……

「また手の込んだことを。そしてつまらん芝居じゃ。もうすぎた過去のことを語って今更なんの意味がある?」

……「わしの言葉が足りなかったせいではないか?」……

「……うるさい」

……「あんなにわしを慕っていた。それなのにわしはろくに返事もしなかった。いくらヒトの言葉が聞こえなかったとはいえ、取り返しのつかないことをした。たった一言で信勝は自分から死を選ぶことはなかったのではないか? きっと生きていれば共に都に渡り、支え合い、安土の城を見たこともあったであろうに」……

「くだらん。後悔は……しておるが、そんなもの、そんなもの」

……「たった一言、好きだといえば信勝は死んだりしなかった!!」……

 信長は刀をもう一人の自分に振り上げた。

「そんなもの、わしの自業自得ではないか!」

 そのまま涙を流す自分の首を落とした。






 確かにそう思っていた。信勝はたった一度、好きだと、信長に必要とされていると分かる言葉をかければ死など選ばなかったのではないか。

……「ええ、信勝はいつだって姉上の味方!」……

 生前はそうは思わなかった。死なせてしまったことを後悔してはいたが、弟は故郷を何より愛していると信じていた。本気で尾張を守ろうとしない姉を憎んでさえいるのだと思っていた。今殺さなくても死ぬと言った。弟の人生の選択は自分にはどうしようもなかったと胸の内の想いだけが燻っていた。

 けれど、死後、信勝は信長をずっと慕っていたと言い続けた。姉が世界で一番好きだと恥ずかしげもなく言ってきた。故郷はどうでも良かったのだ。

 憎まれていないと分かってが嬉しくなかったわけではない。けれど、それは信長に生前なかった後悔を生み出した。……信長が信勝の全てならたった一言で全てが変わったのではないか。お前が必要だ、そばにいてくれるだけでいい。生前そんな言葉をかけるだけで信勝はずっとそばにいてくれたのではないか。

 織田の内部抗争はあったが一度目の謀反、稲生の戦いで信長は信勝の命を奪いはしなかった。そこで信長に反旗を翻す多くの家臣たちは死んだ。本来、お家騒動はそこで終わっていたのではないか? どうしてそこで終わらなかった? なぜもう一度自分を殺させるように仕向けた?

……「姉上、またお会いできて信勝は嬉しいです!」……
……「姉上、信勝は姉上のおそばにいられるだけで幸せです」……
……「姉上、僕は今度こそ姉上の力になってみせます」……

 死後に信勝に慕われるほど信長の内側にその後悔は生まれた。あの時、言葉一つかければ全て違ったのではないかと時折信勝を見ていると心がざわついた。そんな弱い感情、信勝が命を捧げた魔王に相応しくないと心の中で握りつぶしていたが完全に消えはしなかった。

 歩くとまた昔の自分が立っていた。着物姿に無表情で一筋の涙を流している。嘘だ。信長は信勝が死んだ時に涙を流さなかった。

……「だったらわしのあの後の人生はなんだったんじゃ? あの悲しみと苦しみは一体なんだったのだ?」……

「うるさい」

 信長はまた自分を斬った。すると水に溶かした墨のように過去の自分は溶けた。全ては聖杯の精神攻撃だ。

「わしに願いはないからな、攻撃一本に絞ってきおったか。……後悔しているさ。だが聖杯の罠にされているとわかって引っかかるものか。……ん?」

 また人影が現れる。過去の自分かと刀を振り上げるがそれは別の人間だった。

「市……?」

 それは妹だった。花をあしらった着物を着て一筋の涙を流している。

……「兄上、いえ姉上、なぜ長政様を殺したのですか? どうしてあの子たちの父親を奪ったのですか? ……いいえ、市も分かっているのです。先に姉上を裏切ったのは夫だった」……

 それはかつて実際に信長が妹に言われたことだった。どうにか手元に戻ってきた妹は泣いて暮らすようになった。子供達の父親が失われたことを嘆き続けた。

……「でも、でも、どうしても思ってしまうのです。姉上ほどの人なら殺さずに済んだのではないですか? 姉上はできないことのないお方。本当は長政様を生かすことができたのにあえて殺したのではないですか。姉上は恐ろしい方だから一度逆らった夫を決して許さなかったのではないですか。あんなに仲がよかった信勝兄上だって逆らったと殺してしまったではないですか……やはり姉上はヒトならざるもの、ヒトの心を持たないのですか? みなが陰で言っているように、バケモノなのですか?」……

「だま、れ、聖杯が、市の姿を利用するな!」

 信長はまた刀を振り上げ、市を肩から切り伏せた。今度は墨のように消えることはなく、どろっと血が溢れて信長は真っ赤になった。市は絶命し、悲しい目を信長に向けたまま遺体だけがゴロンと転がった。

 信長は少し肩で息をした。今の言葉は実際に妹に言われたことだった。悲しみにくれた妹は一時おかしくなっていた。だから噂のようにあなたはバケモノではないかと直接言われた。

 ズキリと頭が痛むが先に進む。市の死体は見ない。どうせ聖杯の精神攻撃だ。早く信勝を助けないと……。

「そうじゃ、わしは第六天魔王、元々ヒトの声など聞こえぬ……」

……「そうじゃ、信長。お前はバケモノ、それで何が悪い? だからこそこの乱世で織田を生き延びさせることができる!」……

 今度現れたのは父の信秀だった。それはかつて父に実際に言われたことだったろうか? 似たようなことは言われていた気がする。

 信長は機械的に父に刀を振り上げた。

……「お前は女だ。だがその才能はバケモノだった。だから家中が割れることを承知で後継者に指名したのだ。ははっ、わしの目は確かだった。お前は尾張どころか、日の本を手にしたではないか! 信勝一人の命など気にすることはない!」……

「だまれ」

 刀を胸に刺すと父はごぼりと血を吐いて死んだ。また信長が赤くなっていく。何とも思わない……これは全て聖杯の幻だ。

……「お前など生まなければよかった。ずっと取り返しのつかないことをしたのではないかと思っていたのです。私はバケモノを産んだのではないかと」……

 今度は母だ。ある意味、予定調和だ。母の幻なら嘘を言わせなくても罵らせることができる。

 全部幻だ。信長は母に刀を振り上げた。

「母上に罵られるのは慣れておる」

……「でも結局、信勝を殺して後悔しているではないですか。愚かな子。私も殺しなさい。早くあの子のもとへ逝きたい」……

「うる、さい」

 母の死体も転がると足元がどぷりと血で沈んだ。たった三人でこんな血の海が生まれるはずがない。これは全て聖杯の幻……。

(早く、信勝を助ける。こんな幻に付き合う暇はない。そうだ、目的を忘れるな……それにこんなこと、魔王として生きている頃からいつものことだったではないか)

 どろりと信長の頭が少し濁った。

(そう……確かにわしはバケモノじゃったではないか……だって信勝が死んだ時も涙が出なかった。さっきの幻は嘘。涙なんてヒトらしいものわしにはない。……市のいう通りバケモノ、第六天魔王じゃ)






 それからも色んな顔が信長の前に立ち塞がった。

……「私を将軍にするのではなかったのか!? 信長、この裏切り者。結局最初から全て自分のものにするつもりだったのではないか!」……

「うるさい」

 足利義昭の心臓に刀を刺し、腹にむけて切り裂いた。血の海は足首まで水位が上がっていた。

……「叔母上、なぜ父上を殺したのですか? 他に道はなかったのですか?」……

「うるさい」

 茶々の首は細くて、すぐ斬れた。

……「大殿! あんたは本当にすげーぜ! ……でもよ、あんたって本当に親父が命をかけるほどのやつだったのか? 自分の失策を親父に被せて捨て駒にしただけじゃねーか?」……

「うるさい」

 森長可の首は太く、二回刃を振るった。

……「信長様、なぜ蘭丸は死なねばならなかったのです……あなた様に気に入られたばかりに一緒に殺されてしまった」……

「うるさい」

 蘭丸の首は小枝を折るようにあっけなく落とせた。

……「母上、いえ父上。お久しぶりです。ご活躍、お聞きしています。……私たちは思うのです。本当に私たちは父上の血を引いているのか。だって私たちはどう見てもヒト」……

……「母上のようなバケモノではない。我らはありがちな人間で……本当は母上の血を引いていないのではと皆が噂しています」……

「うるさい」

 二つの首が血の海に沈む。聖杯が我が子たちの姿を汚すな。血の海はどんどん水位を上げて腰ほどになっていた。

……「おのれ、信長! 仏のお山を焼くとは……呪われろ。お前はヒトではない、魔王だ。子々孫々まで仏罰をうけるがいい!」……

「うるさい」

 そう。自分はヒトではない。第六天魔王だ。呪いを受けるくらいなんでもない……いや、自分はずっと呪いを振り撒く側だったのか? だから家族も呪われたのか?

……「信長様……なぜです。なぜ私の声には耳を傾けてさえくれないのです。なぜあやつにだけそんな顔で笑いかけるのです? なぜ私にもあのように天下を語ってくれないのですか? 私はあなたに母親さえ捧げたのに……!」……

「うるさい」

 有能でよく働く男だと評価していた。だから要職につけ、城と土地を与えた。それなのに意味不明なことを言って、自分を殺した。そのくせ自分を蘇らせるなんて本末転倒なことをした。

 光秀を斬るとまた影が現れた。血の海はすでに胸まで上がり、周囲には死体が浮いている。その新しい人影に初めて信長は顔をしかめた。

……「おやかた様、いえ信長様! あなたは本当に素晴らしい主君でした! 身分の低いそれがしに城や土地を、何より機会を与えてくれた! ……けれどそれがしはあなたをいつか殺すつもりでした。だってあなたはヒトを愛することができない。だからあのようにヒトを殺していくことができる。ヒトの心の支えである仏の山まで焼いた。それがしはヒトが好きなのです。だからいつか衆生の敵である信長様とは殺し合う定めだったのです」……

「黙れ、貴様だけはわしと同じバケモノではないか」

……「それがしには信じらない、秀長がいる私には弟を殺すあなたは信じられない」……

「うるさい!」

 秀吉の首が転がった。その感触に彼の前ではたくさん笑ったことを思い出してしまった。

 それからも殺して、殺して、殺した。よく見知った顔もあれば、ほとんど思い出せないようなものもいた。その全てを斬った。

「はあ……はあ……はあ……」

 血の海はもう腰までになっていた。その海の中にたくさんの死体が浮かんで、それが余計に信長の歩みを邪魔した。もうとっくに千人以上斬ったはずだ。誰を斬ったのかも記憶が曖昧になってきた。

(わしは……目的を果たすんじゃ……目的?)

 疲れたのだろうか。記憶が混乱している。そうだ、これは罠。全ては幻のはず。……けれど目的がうまく思い出せなくなっている。

(そうじゃ、信勝、あいつに会うんじゃ、もう一度会って話を……)

……「姉上!!」……

「のぶ、かつ」

 最後に立ち塞がったのは信勝だった。信勝は今までのものたちと様子が違い、両手を広げて信長を笑顔で迎えている。

……「やっとこの時が来た、馬鹿で無能な僕を殺してください」……

「あ……」

 信長は今までと同じように刀を振り上げ、信勝の首に刃を根元まで突き刺した。信勝は最後までにっこり笑っていた。そうして笑顔の弟の死体は今までのみんなと同じように血の海に浮かんだ。

……「姉上、本当にありがとうございます、僕を殺してくれて」……

 弟が望んだから殺したのだ。

(あれ……?)

 何をしたかったのだっけ。

 力が抜ける。それでも魔王たる信長は刀を手放さない。ただうまく立てず、片膝を折り、首までを親しい人たちの血の海に身を浸した。

 目的が思い出せなくなった。自分はそもそも何だったのだ? ……そうだ、魔王だった。全てを壊し、新しい世を作る魔王……だがみんな死んでしまったのに世など作ってなんの意味がある。

(わしの目的は? わしは織田信長、いや第六天魔王。神仏衆生の敵なり。全てを滅ぼすもの……そうじゃ、だから全て殺した。なんの問題もない。わしはただ滅ぼすだけのもの。新しい世には誰もいない。だから世を拓く意味もない)

 そうだ。自分は壊すだけの存在だったじゃないか。
 なら、みんな殺した後は誰を殺せばいい?
 世界を滅ぼして魔王は役目を終えた。

 なら次は何を殺す?

……「姉上!」……

「信勝」

 弟だけはいてくれた。姉は安心して信勝の首を切り落とした。







三章「偽りの弟、姉の本音」





……「姉上! 姉上!」……
……「姉上、僕を殺してください! 何度でも!」……
……「もう理由なんてどうでもいいじゃないですか! 僕は姉上に殺されて幸せです」……

「……そうだな」

 信勝は何度も現れた。はにかんだ笑みで、穏やかな顔で、春の花のような笑顔で。その度に信長は弟を斬り殺した。

(これは幻。全ては聖杯の罠。偽りの弟なんて本物の信勝への侮辱じゃ。早く【偽物の信勝を全て殺さないと本物の信勝を助けに行けない】……そうに決まってる)

 足元の血の河を弟の首がいくつも流れていく。幻だと思っているが魔王の自分には相応しいと思う。

 全ては聖杯の策略通りに進んでいた。

 すっかり信長の思考は濁り、凝り固まっていた。愛するものたちを殺してきた痛みが理性を麻痺させる。確かに信長はヒトではなくバケモノかもしれない。けれどヒトと同じように大切なものを失って苦しまないわけではないのだ。むしろ、バケモノの同類にはほとんど出会わなかった信長の生においてわずかでも心が触れた人々は孤独を癒した、ヒトにとってのヒトよりも大きい存在であった。

 大量の信勝に囲まれた信長は無表情で一人ずつ斬り殺していく。
 笑顔で殺される度に弟は囁いた。

……「姉上、姉上、もうこれでいいじゃないですか」……
……「僕は姉上に殺されたかった、姉上は僕のような無価値な弟を殺してもなんとも思わない」……
……「このままでいい。僕たちはこのままで幸せなのです。魔王たる姉上に心なんて必要ありません」……

「……ああ」

 五人目の信勝の心臓を串刺して信長は返事をした。信勝は正しい。被害者と加害者。お互いの関係は永遠にこのままなのだ。

 信長は自己の心の存在を否定していた。愛する弟の死に涙を流さなかったならヒトの心がないに決まっている。だからバケモノ、血も涙もない、心がないと言われると必要以上に受け入れてしまう。さっきの幻たちだって斬る時、痛みを感じていたのに。

 いいのだ。この身は魔王。愛などない。だから愛するものを殺す痛みも存在しない。
 信勝たちは涙を流して殺されることを喜んだ。

……「だから、このまま僕を殺しましょう。今更、過去を振り返っても何もないのです」……
……「大好きです、姉上。ありがとう、僕を殺してくれて」……
……「永遠に僕を虐殺してください」……

「ああ……そうだな。それがわしらの関係だ」

 二人の信勝の首を同時に落とすと笑顔のまま血の海に沈んでいく。

……変な女だ……

 聖杯の少年は遠い空でそれを見ていた。計画通りにすすんでいる。弱い人間には弱い人間の、そして強い人間には強い人間には強いなりに弱みがある。自分は強いと言い張って死ぬまで気付かない。ヒトだろうとバケモノだろうと隙のない心はない。

 あとは繰り返し。最愛の弟を殺させ続ければいい。疲れた、もういい、こんなことをできる自分など生きていたくない。そうやって痛みで死を願うようになれば勝ちだ。

 弟を殺すたびにダメージを背負っていく姉の姿に少年は少し苛立つ。我欲が人間の本質だ。それなのに他者の心ばかり気にするなど……だからヒトではないのだろうか。

……醜い人間のくせに変な奴……

 信長は幻影に心のダメージが蓄積されている。だが「これは聖杯の幻だ」と強く思うことで奥の方へとダメージが届かない。だが弟を殺し続けることが弟を救うのだという思考以外を排除して固定できた。

 聖杯は信長の姿にまだ時間がかかると判断し、一時的にその場を離れた。








……「姉上、僕、死んで嬉しいです。役立たずで生まれてこない方がよかったから」……

「……いつまで続く。これで何人だ?」

 もう何人目になるのか分からない信勝の心臓を刺して殺す。弟が血の海に倒れるその視界の端で何か見慣れぬものが光った。

「これは?」

 真円の鏡が血の海の上に浮かんでいた。反射ではなく自分で光っている。覗き込むと薄い影が映し出された。

「卑弥呼……?」

……「……!」……

 薄れているがやはり卑弥呼の顔だ。何か話しているようだがノイズで聞こえない。信長は自分の右手首に巻かれたカルデアのリボンを見るとわずかに光っている。

「救援か? うまく、聞こえん」

……「……あなたは……悪く、ない……」……

 うっすらとそう聞こえた。その言葉が耳を掠めた瞬間、鏡は割れた。刀を振るった信長の瞳はうっすらと濁っていた。

「貴様に何が分かる。光の女王に魔王のことなど分かるものか。我は第六天魔王、神仏衆生の敵なり。全ての邪悪であるぞ」

 思考がそこで固まる。自分は悪なのだ。そういう人生を選んだ。あなたは悪くないなんて言葉は排除すべきだ。

……「……!」……

「ただ映っているだけなら意味はない、行くぞ」

 鏡の破片から何か聞こえたが無視して血の海を進む。
 不意に見ると手首のリボンが切れていた。光も失っている。だが「どうでもいい」と思考が誘導された。

 自分は魔王だ。邪悪だ。だから……ヒトのことが分からないのだ。最初から心のないバケモノなのだ。

 卑弥呼に何が分かる。ずっと弟がそばにいてくれたくせに。

(仕方ない。是非もない。だって卑弥呼は弟を殺してない)

 また信勝の幻が現れる。生前と同じでみんな笑顔で死んでいった。信長も生前と同じで涙が出ない。

(そうだ、わしは涙が出なかった。皆が噂するようにバケモノであろうよ)

 ヒトの心が分からない。何も「聞こえない」。それはバケモノには心がないからに違いない。

……「姉上!」……

(……あれ……?)

 濁った思考に違和感がかすめる。また信勝だ。けれど今までと違う部分がある。

 笑っていない。その信勝はちっとも笑っておらず、悲しそうで、必死に話しかけてきた。

「のぶか……」

 だから、咄嗟に本物の信勝にそうするように右手を伸ばし……翻って刀の柄を握った。

「いいや、また幻か」

……「姉上、僕はずっと姉上に酷いことを……!」……

 今までと同じように喉元に切先を伸ばすとなんと自分から刀に飛び込んできた。あまりの勢いに咄嗟に刃を退いてしまう。

「こ、この……刃が見えておらんのか! これだから幻は!」

 どうせ幻だ。さっさと殺せばいい。

 しかしその信勝は一切笑わず、目に涙を浮かべて意味不明な言葉を並べた。
 ずっと間違っていたとか、ごめんなさいとか、生きてた頃とかさっぱり理解できない。

「卑弥呼の名前を出すなど、今度の幻は多少はリアリティがあるではないか」

 あまりに信勝を斬ったからか今度の幻は精巧だ。偽物に決まっているのに血の海に疲れたのかつい信長はあれこれと話してしまった。

(こんなのに構っている時間はない。早く本物の信勝を助けないと……)

……「姉上、どれだけ人を殺したのですか?」……

「……っ」

 信長にはその言葉がこう聞こえた。自分を殺したのはお前のくせに、なぜ助けようとする、この人殺し、と。魔王のくせに、バケモノのくせに、なぜヒトの心があるふりをするのだ。

(そうじゃ、なぜわしは信勝を助けようとするのだ? わしが殺したくせに。信勝が死を選ぶことを止められなかったくせに。どうして、どうして……死んでしまった? わしがたった一言好きだと言えば死なずにいたのか?)

 ふと横を見るとさっき斬った涙を流した自分が薄らぼんやりと立っていた。音を出さず唇だけで意思を伝える。

……『信勝を返せ』……
……『わしならできたはずなのに』……
……『一人になってしまった』……

 母のようなことを言う。
 そう。知っている。つまりそれが自分の、いつまでも過去にならない痛み……心のない魔王だから封じていた弱っちい心だ。

……「姉上が誰を殺しても信勝はちっとも構いません。でも姉上はお疲れに見えて……っ!」……

 今度こそ幻を薙ぎ払う。聖杯に付き合ってはいけない。【全ての偽物の信勝を殺さないと本物の信勝は助けられないのだ】。

……「姉上は……バケモノじゃありません。姉上は姉上です」……

 まだ消えない。血の海にも沈まない。幻は信勝のフリをずっと続けた。これは今までよりやっかいかもしれない。

……「誰よりも自由な姉上を、僕の死で縛ってしまったのですか?」……

 どうしてそんな苦しそうな顔をする? 何より苦しかったのは信勝のはずなのに……悪いのは自分なのに。

(あの頃、わしは無気力だった。だからわしか信勝が死ぬまで追い詰められるヒトの想いが見えなかった。だが今は分かる。わしならできた。信勝を生かせた。それなのに、しなかった!!)

 死なせないためならなんでもしたのに、いつの間にか信勝の死は確定していた。切腹するか、崖から落ちて地で潰れるか選ぶところまで行ってからしか分からなかった。

「もう、尾張に帰る場所がない。戻ってこないのは分かっている」

 そこから信勝は真っ青になった。必死に謝罪を繰り返してこういった。

……「死んでごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! 僕のせいなんです、僕が勝手に死んだんです! 姉上は僕に利用されただけなんです! ごめんなさい、ごめんなさい、死んでごめんなさい!」……

 信勝は大粒の涙を流し、額からは血が流れていた。

……「結局、僕の人生は無意味でした……いっそただ崖から身を投げていたら、せめて姉上の手を汚さずに済んだのに」……

 信長の頬から血の気が引いた。
 人生の意味がなかった。それだけは死後、信勝に言わせまいと決めていた言葉だった。

「なぜ、なぜそんなことばかり言うんじゃ! なぜだ信勝!?」

 自分は弟を殺した上に、人生を賭けてやったことの意味を台無しにしたのだ。姉のために死んだのに、その姉に人生の意味を否定された。そんな酷いことだけはしたくなかったのに。

……「……姉上?」……

「わしはもっと上手くやれたはずじゃ! そう、我こそは第六天魔王、皆が噂すバケモノ、万能に近かったと自負しておる! そんなわしなら、わしこそ……それなのにお前はどうしてわしを一度だって責めぬ!? わしなら救えたはずだと一度だって言わぬ!? 信勝、どうして……」

 姉の叫びの途中で信勝の幻は消えてしまった。



 





 どうやって歩いてきたか覚えていない。チャポチャポという金色のブーツが血をかき分ける音がやっとまた聞こえてきた。

「大丈夫……あれは全て聖杯の幻、わしは信勝に弱さを見せていない」

……「結局、僕の人生は無意味でした」……

「くそ!」

 血の海に刀を突き立てる。肉を刺したような嫌な感触が伝わる。

「落ち着け、あれは偽物……そうに決まっている……でなければあいつの人生はなんじゃったんじゃ」

 ずっと弟の人生の意味を壊してしまうことが怖かった。それは信長が愛情を上手く伝えられない枷のようなものだった。

 最初は色々、弟と話そうと思っていた。幻霊とはいえ死後に束縛なく会えたのだ。どうして死ぬ前に一言言ってくれなかったのか、そう訊こうと思って紅茶とスコーンで誘ったこともある。

 けれど徐々に不安の方が強くなった。

 もし愛していたと伝えたら姉のために死んだ弟の人生の意味は壊れてしまうのではないか。どんなに悲しかったか知れば信勝は自分の全てを否定してしまうのではないか。好きだとぎこちなく伝えるたび、心の奥底では怖かった。

 そのくせ夫婦の真似事など初めてしまった。「いいじゃないですか、僕が死んでも」。それは切腹前夜に言われた言葉だ。同じ言葉を言われて耐えられなくなった。

 この気持ちを分かってほしい。それは原始的な本能に近い本心だ。好きだったこともいなくなって寂しかったことも信勝に理解してほしい。どうして自分の手で死を命じられるなど残酷なことを喜ぶのか。

 けれどこれも本心だ。絶対にこの気持ちを知られてはならない。知ったら弟の人生の意味は壊れるかも知れない。いや、かもではない。九割、弟は壊れてしまうと予測した。

(それにわしは傷つく資格がない……あれ? なんでだっけ? 信勝はそんなこと言っていたっけ?)

 だからずっと後者を選んだつもりだった。永遠にわかってもらえなくても弟の望んだ姉の姿でいればいい。自分は歴戦の猛者だ。大丈夫。

(こういうのなんだっけ……矛盾? いや、違うっけ……相剋?)

 そこで信長の足は止まった。足元に大きな岩がある。覗き込むと巨大な蛇に似ていてトグロを巻いていた。そういえばさっきから偽物の信勝が出ていない。

(聖杯に異変か? カルデアの攻撃でわしへの攻撃をやめたとか……この蛇、どこかで見たような?)

「なんじゃ、お前?」

 岩は淡く光って縮んだ。そして一匹の白い石の蛇となった。そして信長に近づき、身体を登ると左腕に巻きついた。そしてじっと信長を見上げた。

「お前、どこかで見たような……?」

 蛇の瞳を覗き込んだ瞬間、バリンとガラスが割れるような音が真上から聞こえた。信長が見上げると今度は水晶が割れるような硬質な音が聞こえた。

 いや、実際に黒いだけの空に光の溢れる日々が入っていた。警戒して刀を構え直すと唐突に空が割れた。

「姉上ーーーーーーーーっ!!」

「は? はあああああああぁぁぁぁlあっ!?」

 割れた場所から信勝が落ちてきた。










 突然現れた信勝は意味不明なことに背中に青い翼を生やしている。そしてちゃんと滑空して正確に信長の真横に着地した。

「姉上姉上姉上! 信勝ですよ〜! やっと見つけました!」

「な……な」

 あまりの唐突さに信長は思考停止した。その間に信勝は背中の青い翼を消してしまった。空にあいた穴も黒へと戻っている。

「よかったあ、本当に姉上だ。お会いしたか……ぴっ!?」

「ま、また、偽物か!? 聖杯のやつ方向性を変え過ぎじゃろ!」

 抱きつかれかけて信長は信勝の喉元に切先を突きつけた。羽根が生えてるとかなんなのだ。

「うわーん! 殺さないでください! 僕は聖杯の手先じゃありません! ほら、これが嘘をついている人間の目ですか!?」

「羽根が生えてるとか偽物の証明じゃ。この幻が!」

「怖いよう! 死にたくないよう! 助けて姉上〜!」

 その偽物は今まで一番情けない信勝だった。泣き喚いてガタガタ震えている。そのくせ信勝は姉から離れようとしなかった。

「何が助けて姉上じゃ、わしが姉上じゃろ! 情けなさの解像度ばかりあげよって聖杯が……!」

「違います! 聞いてください、姉上! さっきの羽根は困っていたらなんか生えただけなので特に怪しくないんです!」

「怪しさの塊じゃろ!」

「ぼ、僕はよい信勝です……ぷるぷる、殺さないで」

「自分で本物とか言う奴、偽物に決まっておるじゃろ……大体、信勝は元からいい奴じゃないし」

 その言葉で信勝は急に情けない顔から真面目な顔になった。つい本音むき出しで姉弟水入らずのように喚いてしまった信長はその顔をついまっすぐ見てしまった。

「えっとですね、姉上! ええとあれですあれ。つまりそういうことだったのです。僕は大悪党です。姉上は当たり屋にあったのです。これで何もかもこれで証明できましたね!」

「いや、意味わからん、これまでで一番意味不明じゃ」

「がーん! どこから、何から話せば……語彙力っ! えっと聖杯が姉上に××××××××! ダメだ、言葉がおかしくなる……ぴぴっ!?」

「いかん、ペースが狂う……偽物の言葉など聞く必要はない、死ね」

 信長はまた刀を向けるが信勝はケロッと刃の方に自分で近づいた。思わず手が止まるが刃は進む信勝を貫通した。というかなんの手応えもなくスカと通り抜けた。

「……信勝?」

「やっぱり、ここにいる僕って影なんだなあ。本当には姉上にまだ会えない」

 そう言うと信勝は数秒だけ全身が半透明になった。金色の光とゼリーのように透明な全身。咄嗟に信長が刀を引くと揺らいでまた元に戻るがわずかに透けている。

「姉上、とりあえず僕を斬るのはやめましょう。二度とそんなことさせません。宝具に関してもカルデアと交渉することを考えます」

「じゃから意味不明……っ!」

 信勝は信長の頬に二本だけ触れて悲しそうにした。弟の赤い目に見つめられると姉は斬ることを忘れてしまった。本当の弟にそっくりだった。

「違う! ここから出るには【偽物の信勝を全て殺さないといけない】! 【そうしないと本物の信勝を助けられない】!」

「その発想が××××××××。くそ、肝心なことは伝わらない。なら……姉上、もう僕を斬るのはやめましょう。姉上だって斬りたくて斬っているわけじゃないんでしょう?」

「だ、黙れ!」

 数歩退く。騙されてしまいそうだった。だって信勝は全てを打ち明けても立っていられる強さを持つように見えた。

(わしは本当のことは何も言ってはいけない)

 そんなはずはない。弟は弱い人間だ。本当のことを言えば壊れてしまうに違いない。

「姉上、本当に相手のためになることってなんでしょうね? 最近、僕は分からなくなりました。以前は無駄に自信があったのに」

 信長は今までのように首を斬ろうとした。しかし、刀を持ち上げることもできない。

「それでもずっと考えていたのです。僕が今からでもできること。それは姉上に怒られることではないのかと」

「怒ら、れる?」

「ええ、僕に怒りたいこと沢山あるんじゃないですか。そうだ! 斬るんじゃなくて僕のこと殴りましょうよ! ふざけんなボカって! 僕が今まで弱くて、ずっと堪えていたんじゃないですか?」

 怒る。殴る。その単語に信長はカッとした。

「お前は何も分かってない、何がわしの理解者じゃ! 本当のことを何も分かってはないではないか!」

「……はい、これから一歩ずつ理解します」

「怒り? 怒りなんてお前に、お前に……なぜ一言もわしに相談しなかった?」

 きっとこれは偽物だ。でもその瞳の光は本物のようだ。矛盾した感情がない混ぜになり、ポロリといつか言いたかったことが胸からこぼれてしまった。

「なぜ死ぬ前に一言わしに相談しなかった? ずっと一緒だったではないか、死ぬなんて……そんな大事なこと、なぜわしに一言も言ってくれなかった?」

「……ごめんなさい、相談したら嫌われると思い込んで言えませんでした」

「嫌う?」

 話一つ始めると感情がマグマのように湧いた。弟の想像する自分は全然自分とは違う。あんなにそばにいたのにどうしてそんな風にしか思えないのか。

「勝手な妄想だ。助けてと昔のように泣きつかれれば、わしは必ず助けた。お前にやるつもりだった織田の後継だって、無理だと泣かれればやった……わしがロクに返事をしなかったからか?」

 さっきの弟の夢を思い出す。あれは真実だ。姉はいつも弟にろくに返事をしなかった。あんなに必死に話してくれたのに、無視するような冷たい言葉しか返さなかった。

「あの頃の僕は姉上に嫌われていると思っておりました……嫌われていると思っていたら言えないでしょう? 僕はあの頃、黙って死ぬことだけが僕の愛だと信じる愚か者でした」

「黙って死ぬだけが、愛……?」

 その単語を脳が理解することを拒否した。信勝が腹を切って動かなくなった時が脳裏に蘇る。あれが、愛?

「そんなものが愛なら愛などいらぬ。死体だけ残して、何が愛じゃ。去れ、偽物! 本当の信勝はそんなこと言わぬ!」

 怒りが炸裂する。涙が溢れかけて堪えた。遠い場所で何かにヒビが入る音がした。

「姉上、僕は本当に愚かで、だから今から……っ!」

 血の海の水嵩が急速に増していく。一気に信長の胸まで水の高さが増す。咄嗟に信勝は姉に手を伸ばした。

「危ない! 姉上、手を……」

「うるさい! 寄るな! 出ていけ、お前なんて顔も見たくない!」

 その叫びで信勝はどんどん透明になり、信長が三度呼吸をしたら消えてしまった。








 あれは本当に信勝だったのか? 拒絶することで消えてしまった?

「そんなわけはない……あれは偽物のはず……」

 それでも罪悪感は残った。あの瞳が本物の信勝に見えてしまった。偽物でなくてはならない。どうしてこの口は言ってはいけないことばかり言うのか。

 おかしい。おかしい。ないはずの心がおかしい。

「くそ……くそっ」

 涙が出る前に何度も堪えた。悲しいのではない。さっきの言葉をきっかけに怒りが溢れるたびに涙が連動した。けれど【自分には泣く資格が無い】のだ。最初に見た幻影のように泣くわけにはいかない。

「何も本当のことは言わなくていい。わしはバケモノ、信勝はヒト。最初からそばにいるべきではなかった」

 血の海は信長の首まで水嵩を増していた。信勝は消えてから現れない。こんな海だが泳げるだろうか。

……「それは聞き捨てならないぞ」……

 ギョッとして振り返ると左腕から聞き覚えのある声がした。それは信勝の登場で忘れていた石の蛇だった。

「貴様、何者……ぎゃあああああああああ!?」

 一瞬で石の蛇は五メートル以上に巨大化して、信長をぐるぐる巻きにして、血の海を飛び去った。







四章「お竜さんのアドバイス」




「なんじゃこりゃーーーー!?」

 信長は血の海の上で大きな蛇に乗って海を渡っていた。乗っているというか黒い大蛇に胴体をぐるぐる巻きにされていた。大蛇は信長のことなど意に留めず悠々と血の海原を泳いでいた。

「離せ! 離さんかーーー! ていうかなんで蛇!?」

 人の胴体ほどある鱗を刺してやりたいが巻きつかれた拍子に刀を落としてしまった。怒りのままにじたばたと金属製のブーツで胴体を蹴ろうとするが届かない。

「おい、このデカブツ! 話の途中だったというのに……このっ!」

 火縄銃・種子島を顕現しようとするがうまく魔力が形にならない。二度、試すとにゅっと大蛇が赤い瞳で見下ろしてきた。

……「お前、うるさいぞ。お竜さんの耳がキンキンだ」……

 聞き覚えのある声にハッとする。

「貴様……お竜か!?」

……「そうだ、お前を助けにきた。だからバンバン撃つのはやめろ」……

 そういえば龍馬は出撃メンバーにいた。ならばお竜もいるはずだ。つまりはカルデアの救援か。

 お竜はそのまま血の海の上を泳いだ。ザバザバと血の波の音が聞こえる。

……「お前、よくこんな瘴気のこもった空間で生きてたな。お竜さんでも気分が滅入るぞ、ここ」……

 信長は咄嗟にさっき切り落としたカルデアのリボンを見た。リボンがあった右腕をじっと見つめるとわずかに糸が数本光っていた。光を反射しているだけでなく自ら光を放っている。これを頼りに助けがきたということか。

……「よく気が狂わなかったな。汚れた聖杯ってやつはこんなに瘴気を出すのか。お竜さんは強いから平気だけど、えっへん」……

「お竜……どうしてここが分かった?」

……「うむ。お竜さんにもよく分かっていない。立香に頼まれてピカーっと光ったらここにいた。ああ、このお竜さんは影ってやつらしいぞ」……

「影? シャドウサーヴァントということか?」

……「そうなんじゃないか? 本体じゃないとダ・ヴィンチは言ったな。光ったら卑弥呼ってやつの声がしてピューッとここに飛んできた。最初は石になっていてうまく動けなかったがお前が喚いている間に外と繋がり始めて動けるようになった」……

「……そう、なのか」

 あの信勝はどこへ行ってしまったのだろう。あれは偽物だから気にしなくていいのだが嫌なことを言ってくれた。

(あれが……愛、なんて)

 いっそその言葉が汚らわしく聞こえる。

……「ダ・ヴィンチがいうにはお前とお竜さんは縁が結構深いらしい。だから選ばれたみたいだ。縁がないと入れない」……

「まあ、帝都からの仲じゃしのう」

……「うーん、他にも何か言っていたような……まあいいか。それはそうとピンチだぞ」……

「なんじゃと?」

 お竜はスイスイと血の海を泳ぐがその視線の先はキョロキョロと動いている。

……「卑弥呼からもらった「コンパス」ってやつがない。どこへ向かえばいいか分からん。目を頼りにしても血の海と暗い空しか見えない。遭難ってやつだ」……

「ええ……コンパスってやつはどこでなくした?」

……「さっきお前に会うまではあったはずなんだが……お前を連れながら探していたが見つからなかった。ほら、さっきいた場所まで戻ってきたけどない」……

 どうやらぐるぐる巻きにして連れ回ったのはコンパスを探してのことらしい。

 ぐるぐる巻きを解除された信長は地面が恋しくなり血の海に再び飛び込む。すると水深はさらに深くなっていて一気に頭まで浸かってしまった。

「ぎゃぼ!?」

 溺れているところをお竜がマントの襟首を咥えて信長を助けてくれる。そのままとぐろを巻いて水深より高くなっている胴体の部分に乗せてくれる。ゴボと飲み込んだ血を吐いてちゃんと血の味がすることに返って頭が冷えた。

……「気をつけろ。もう大分深くなってる。お前の格好じゃ泳ぐのだって無理だぞ」……

「むう……手間をかけた」

……「この空間はおかしいんだ。お前と聖杯以外は本来誰も入れないしお前は出られないらしい。卑弥呼ってやつがこの空間の外で待っているが目印がもうない。お竜さん知ってるぞ、これが二次遭難ってやつだな」……

「卑弥呼……」

 わずかに記憶がある。卑弥呼の声が聞こえたが鏡を割ってしまった。……今振り返ると自分らしくないと信長は思った。感情に任せて救出の可能性を破壊するなど。

(だって、あいつが悪い。間違ったことを言うから……わしが悪くないなんて、わしが悪いのに……ん?)

 どこか自分はおかしくなっているのでは? 思考の中でわずかに違和感に立ち止まる。

 考えようとするとお竜から声をかけられた。お竜はまたどこかへと泳ぎ始めて、信長はその胴体にまたがっている形になる。

……「さっきの続きだ。どうしてバケモノとヒトは一緒にいてはいけないんだ?」……

「なんじゃ……どうでもいいじゃろ。ただの戯言よ」

 そういえばそんなことを聞かれた記憶がある。

……「バケモノとヒトっていうのはお前と弟のことか? どうして一緒じゃダメなんだ? お前たちはいつも楽しそうだったじゃないか」……

「別に貴様には関係ない」

……「さっき溺れたの助けてやっただろ」……

「ぐう……生きる世界が違うからじゃ。仲が良くても猫と獅子は一緒に暮らせない。じゃれあったら獅子は猫を傷つける。下手すると殺してしまうのに傍にいるわけにはいかんだろう」

……「それなら獅子がすごく気をつければいいんじゃないか? 丁寧に触ればいい。大事にするなら大丈夫だ」……

「そんな必要はない。最初から一緒にいなければそんな心配すら必要ない。殺したくないなら獅子は離れるべきじゃ」

 お竜はしばし沈黙した。何かを考え込んでいるようだった。

……「お前、弟が怖いのか? そんな風に聞こえるぞ」……

「はあ? あいつはこの世で最もわしが恐れぬものよ。あんなヘタレ怖いものか」

……「傷つける前に傷つけることを避けてるんじゃないか? 人間は脆いからな、お竜さんも気をつけて触るようにしている」……

「そりゃ、信勝は最初はふにゃふにゃした赤ん坊で触るだけで死にそうで怖かったが……そうだな。ヒトは脆い。ヒトはわしからすると些細な力を込めるだけで死んでしまう。だからヒトとは……距離をとっていたかもしれん」

……「自分の力が怖いのか?」……

「……そうだな、わしなりにヒトを傷つけたくなかったのかもしれん。貴様と違ってこのように見てくれはヒトでヒトに混じって育ったからな」

 お竜は自分を振り返る。今は英霊だが、龍馬が人間だった頃はその脆さが結構怖かった。わずかな力で人間は死んでしまう。その生物としての違いが悲しかった。

……「違ったらそばにいたらダメか? 好きでもダメか?」……

「……好きなら、傷つける前に離れるべきじゃろ」

……「すごく好きでも、そばにいるだけで幸せでもダメなのか?」……

「ヒトとバケモノはそばにいない方がいい。実際……わしの生涯でわしが原因でおかしくなった者は振り返れば多かった。傍にいただけなのにな……そう、思い返せば信勝が最初の一人であった。その時は知る由もなかったが死後はっきり言われた。わしのために喜んで死んだのだと……」

 バケモノの力に魅せられて。
 弟は自分の命を投げ捨ててしまった。

 信長は苛立ちで手袋越しにお竜の鱗に爪を立てた。分厚い鱗はびくともしなかった。

「ヒトはヒトと一緒にいるのが結局幸せなのだ。母上にはそれが分かっていた。信勝にはそれが分からなかった……違うもの同士が傍にいてなんの利益がある? 一緒にいるだけで気を遣い、そのくせ本当には理解しあえない。一緒にいたって……幸せになれない」

……「そんなことはない、好き同士ならヒトとバケモノでも傍にいた方が幸せだ」……

「バケモノはヒトを不幸にしかできない!! 好きなんて気持ち意味がない!!」

 信長が好きだから、信長のバケモノの力に魅せられて信勝は死んだのだ! 信長を置き去りにして!

 今だって信勝は本当の気持ちだけは理解してくれない。
 ヒトとバケモノだからだ。本当には理解し合えない。権六だって光秀だって、サル以外は、ヒトは分からないのだ。

……「本気で」……

 大蛇が覗き込んでいる。赤い目を暗く光らせて牙が見えるほど大きな口を開いている。

……「本気で言っているのか、そんなこと? バケモノはヒトを不幸にしかしないって」……

 信長は目を丸くした。大蛇が泣いている。じっと信長を見下ろす目から大きな涙が落ちて信長の顔を濡らした。……そこでやっと龍馬とお竜もヒトとバケモノであることを思い出した。

「貴様らのことを言ったんじゃない。わ、わしは……うあっ!!?」

 信長は叫んだが。
 問答無用でお竜に口から飲み込まれてしまった。







 お竜のことを思い出す。お竜は龍馬を先に亡くしていたはずだ。龍馬が死んだ原因は不明だがおそらくお竜がバケモノであるからではない。それでもお竜が悲しみ苦しんだことは理解できた。

 信長が目を開けると真っ暗な空間で倒れていた。髪が水に濡れていた。少しべとべとする。

「お竜……? どこだ?」

 闇に語りかけると内側に反響するような声が聞こえた。

……「はっはっは。悪いな。ついカッとして飲み込んでしまった」……

 頭痛がして額に手を当てる。つまりここはお竜の体内だということだ。髪が濡れているのは胃液だろうか。

「悪いと思うならさっさと吐き出せ」

……「しばらくそこにいろ。このお竜さんは影だからお前を本当に食べることはできない。お前は今危なかっしいから腹の中にいる方が安全だ」……

「危なかっしいのは貴様……うおっ!?」

 突然慣性の力で何か別の壁まで吹き飛ばされる。これは胃壁だろうか。

……「お前はこの血の海にいない方がいい。いつもと違うぞ。おかしい。いつもは龍馬の次に冷静なのに。ああ、瘴気のせいか?」……

「ずっとここにいろって、おい」

……「お竜さんがなんとか出口を見つけてやる。お前はそこにいろ、血の海よりマシだ」……

 確かにあの血の海の水深はすっかり深くなり、下手に落ちれば溺れてしまう。お竜の胴体から滑り落ちればそこで信長はゲームオーバーだ。だがこの真っ暗な胃の中にずっといろと言われると気が滅入る。

「……是非もないのかの」

 反論も思い付かず、信長はしばらく無言でお竜の胃の中にいた。不思議なものでしばらくすると目が慣れて少し目が見えるようになった。

 胃壁に背を預けているとお竜の声が響き聞こえた。

……「お竜さんはリョーマを怪我させたことがある。剣の稽古ってやつをイゾーみたいにやってみたくて人型で真似をした。でもお竜さんは力の加減が分からなくてリョーマを怪我させてしまった。リョーマは気にするなって言ったけど捻挫ってやつでしばらく右手が動かなかった」……

「……そうじゃろ、身体の作りそのものがどこか違うんじゃ」

 柄でもなく信長は後悔した。バケモノとヒトは一緒にいられないというのは龍馬とお竜に一緒にいるなと言っているようなものだ。特にお竜は今こそ人型形態をしているが本来は今のような巨大な大蛇なのだ。

……「どうして自分が人間じゃないのか考えてしまった。その後、変な坊さんに話を聞いてみたり、小さな神がいると呼ばれた祠を覗いてみたりした。人間になる方法がないか見つけたかったんだ。リョーマを傷つけない、神とかバケモノとかじゃないヒトと同じ存在になりたかった。でも何をしてもダメだった。ヒトになれないことだけが分かった」……

「ふぅん」

 わざと興味がなさそうな声を出した。幼い日に病人用の「耳が聞こえる薬」を盗んで飲み干したことを思い出す。当然、なんの効果もなかった。

……「リョーマの周りにはお竜さんがリョーマの傍にいることに反対のやつがいっぱいいた。「坂本くん、あのバケモノと付き合っちゃいけない」「君がそんなだから何を考えているのか分からない」、そんな風に言われていた。
 だからバケモノとヒトは一緒にいるなって言われるのは慣れてる。お前、多数派ってやつだな。リョーマの周りのやつと言ってることが一緒だ」……

「多数派なんぞ、生まれてこの方初めて言われたわ」

……「じゃあ、なんで一緒にいたんだ?」……

「なんのことだ?」

……「お前たちはいつも一緒だったじゃないか、姉と弟で。バケモノとヒトは一緒にいちゃいけないって思ってるのにどうしてだ?」……

「あれはカルデアで英霊だから……いや、違うか」

 信長と信勝はいつも一緒だった。生きている時も死んだ後も。幼い日から一緒に遊び、死んだ時だって、その少し前まではいつも弟は後ろにいた。

 信長は口に手を当てた。自分はなんてバカバカしいのだろう。バケモノとヒトは一緒にいてはいけないとああまで言っておいて、実際は信勝とはずっと一緒だったのだ。

……「なんでダメだと思っているのに一緒にいたんだ? 生きてる頃は離れていたのか?」……

「分からん……生きている時から一緒だ、尚更分からんよな。ハハ……矛盾してる」

 乾笑いも虚しい。自分の矛盾を指摘されるのはかゆい感覚に似ている。

「ヒトとバケモノは一緒にいない方がいいと思っている。それなのにかつてのわしはどうして一緒にいたのか……気がつけば一緒だった。あいつは最初からわしを慕ったいた。理由を聞けば「大好きだから」と花みたいに笑う。そうされると……わしは自然と信勝と一緒にいた。いつも着いてきていたし拒む理由も思いつかなかった。いつの間にか出かける時には自分からあいつを呼ぶようになった。わしはバケモノ、というかヒトとは違う異質な存在で一緒にいない方がいいと思っていたのは変わらんのに……なぜだろうな」

……「それは好きって言われたから好きになったんじゃないか?」……

「ええ……そんなイージーな」

……「それくらい簡単だぞ。逆に複雑だから好きになるわけじゃない」……

「でも、好きってやつはヒトの重要な感情で、そんな簡単なはず……まあわしはバケモノじゃからヒトとは違うんじゃが……じゃが」

……「お竜さんも最初リョーマが好きか分からなかった。ただずっと自分を封印していた鉾をあいつがなんでもないような顔で抜いたからなんとなく着いていった。ちょっと気を遣ってヒトの形に化けてまで。そうしているうちに気がついたら好きになった」……

 お竜はちょっと考え込んでまた会話を再開した。

……「お竜さんはずっとリョーマをどう想っているのか分からなかった。とにかく最初はびっくりした。長い封印を解かれたのにあいつと来たら解除したらさっさと帰るんだもんな。だからビックリしてビックリして……そういえば食べるの忘れてたなってヒトに化けて押しかけた。それでもこう、すぐに食べる気もなくてただあいつの傍にいた。それで腹は満たされていた」……

 ただ傍にいること。
 それは信勝が与えてくれたもので最後に失われた。

……「あの何も食べないでいいって気持ちが好きってやつなんだろうな。今もそうだしこれからも変わらない。ええとつまり、お竜さんが言いたかったことはお竜さんはビックリしたからリョーマが好きになったということだ。だからお前も好きだと言われただけで好きになっていいんだぞ」……

「わしは信勝が好きなわけじゃ……いや、掻い摘んで言うとそうなんじゃけど」

 信勝を好き。今でも違和感がある言葉だ。
 信長には好きという言葉に自分なりのイメージがあった。好き、愛しているという言葉は激しいものだ。パステルカラーを原色で塗りつぶすような鮮烈なものだと思っていた。

 だから信勝を好きなのか時々分からない。いつでも笑っていてほしいし守りたいと思う。けれどほとんど何も求めるものがないのだ。何がなんでも求めるというイメージのある愛しているという言葉を信勝に当てはめるのは違和感がある。だって信長は信勝にはそばにいること以外望んでいないのだ。

 そのことをお竜に伝えると意外な言葉が返ってきた。

……「ええー、まさにそれが好きってことじゃないのか」……

「ええ、マジで? 普通逆じゃろ?」

 信長は内心楽しくなってきた。お竜は自他ともに認めるバケモノだ。バケモノ同士でヒトについて話すのは意外と楽しい。

……「だって一緒にいるともっと色々望むじゃないか。強いとかカエルを食わせろとか。それが何も望まないって好きだからだと思うぞ」……

「そう……か。何も望まないことが愛……なのか」

 愛。さっきの信勝の幻覚のせいもあり、いい印象の言葉ではない。

 ならば信長は最初から信勝を愛していたのだろう。好きだと言われたから思わず愛してしまった。間の抜けた理由だが、大体はそんなものなのかもしれない。

 信勝のどこが好きなのか考える。信勝は自己否定が激しく能力を卑下するが、平均的なヒトより聡明だ。幼い日に会話して意外と響くように話すので感心したこともある。やたら情が深く、子犬や子猫のために自分の食事を隠し持ったり、死ぬと泣きながら爪を剥がし地面に墓穴を掘った。笑うといつもそこだけ春のようで……なんだ、何を思い出しても好きなんじゃないか。

(わしは信勝に何も望まないのは……昔から全部好きだからなのか)

 恥ずかしくなり帽子のフチを下げて少し俯く。

……「なんだ、お前、病気か? 急に熱くなったぞ」……

「うるさい、なんでもない。放っておいてくれ……」

 信長の顔はかなり赤い。バケモノとヒトは一緒にいない方がいいと思いつつ、そうできなかったのはすごく好きだったからだと改めて自覚すると恥ずかしい。そう、いけないと分かっていたが傍にいる幸せの方を選んでしまった。

(散々、偉そうに言っておいて、欲望剥き出しで恥ずかしい。あとでお竜と坂本に釘を刺しておかんと)

 それでも。
 信勝が死んでしまった理由を考えると「それでも一緒にいない方がよかった」と思う自分を否定しきれないが。








五章「バケモノの姉、ヒトの弟」




 信長がお竜の胃で大人しくしていると少し背中が胃壁から浮いた。どうやら止まったらしい。

……「んん? 多分、今……カルデアと繋がったぞ」……

「おお、マジか。通信できそうか?」

 状況が好転したのかと信長は胃壁から離れて、一歩踏み出す、ぼちゃんと胃液が足元で跳ねた。

……「いや、力は弱い。すぐに消えてしまうだろう。ただ……何か、送り込まれてくる?」……

 突然信長の前で光が炸裂した。ぽん! とポップコーンが破裂するような軽い音と共に何かが目の前に現れた。

「は? 信勝?」

 それは小さなマスコットだった。信勝の形をしている。ちゃんと姉に似た帽子を被っていて赤い軍服に黒いマントを纏っていた。マスコットと言っていい大きさで信長の手のひらにちょうど収まるほどだろう。

 信勝マスコットは淡い光を纏っていて真っ暗だったお竜の胃の中がほのかに照らし出された。

「い、意味が分からんのじゃが」

 信勝形状のものが出てきて咄嗟に喜んでしまったことは隠す。

 フラフラと信勝マスコットは信長の方に飛んできて、ちょうど信長の右手の辺りをうろうろする。是非もないか、と右手のひらを差し出すとそこにそっと乗った。すっぽりを収まる。

「なんなんじゃ? おい、何か言えるか?」

……「……あ、ねうえ……姉上……」……

「マジで喋っとる。信勝か? カルデアに保護されたのか?」

 期待を込めて信長が話しかけると別の答えが返ってくる。信勝の声というより、壊れたおもちゃのような声であまり弟の声だとは思えなかった。

……「僕は姉上と何があっても、これからずっと一緒です」……

「……っ」

 それはずっと言って欲しかった言葉。
 けれど「生前に自分で反故にしたじゃないか」と咄嗟に反発してしまう。

「……本当に信勝なのか? お前どこにいる、カルデアか?」

……「だから姉上、僕をぶってください」……

「……は?」

……「僕は姉上にずっと叩かれたかったのです! 蹴ったり踏まれりしたかったのです! お願いです、どうか一度僕を平手打ちにしてください! もちろん百回でも構いませんが! 鞭とかローソクとかも全然オッケーです!」……

「……」

 信長は信勝マスコットを強めに投げ捨てた。ぽちゃんと胃液で跳ねる音がした。

……「あ、痛い!? 何するんだ卑弥呼! え、言い方が気持ち悪いってなんだよ!? 願望入ってるって何のこと!? 僕はただもういなくならないから姉上はいくらでも怒っていいって……姉上? もしもし?」……

「……信勝が変態になった」

……「え?」……

「うちの弟が被虐趣味の変態になった! 元々変態じゃったがパワーアップしておる! うわーん、信勝が茶碗を舐め回す以上の変態になるなんていやじゃ〜!!」

……「な、なに言ってるんですか姉上! 信勝は元々変態じゃないですよ!」……

「それこそ嘘じゃ! さてはお前も聖杯の手先じゃな!?」

……「いや、それこそ本物の弟の証明じゃないか? 本物は自分じゃ分からないって昔リョーマが言ってた」……

 お竜の声が入ってきた。胃の中の騒ぎに黙っていられなくなったらしい。

……「そいつはおそらく本物だ。カルデアの匂いがする。どんどん弱まっているが……」……

「うう、うちの弟の変態レベルアップが真実になってもうた……つら」

……「だから違いますって! き、貴重な通信時間がなぜか変態の話に、清純派の僕が変態じゃないことは偉大な姉上なら分かるはずなのに……じゃなくて! えっと、姉上、僕はもう姉上になにを言われても傍におります。生前の愚は繰り返しません。だから、僕に……」……

 そこでプツッと音声が途切れた。信勝マスコット自体は消えていない。光っていること自体も同じでお竜の胃の中を柔らかく照らしている。

「え……信勝? まさか本物? 本物が変態?」

 声が聞こえなくなると冷静になり、信勝マスコットを拾い上げる。まだ光っているがもう声はしない。

……「通信が切れたみたいだな」……

「マジか……本物じゃったのか。いや、変態は知ってたけど……」

 大切な茶碗を戸棚から出して「使用済みだ」とベロベロ舐め回しているのを何度も見た。
 変態以外のなんなのだ。

 聖杯の仕業だとしたらかなり悪質だ。いや、そちらも元から悪質なのだが。

(信勝、カルデアに保護されたのか?)

 だとしたら肩の荷が降りる。信長は信勝を助けるために聖杯の泥に身を投げたのだ。とはいえ確認していないから完全には安心できないが。

「おい、おい、なんとか言えんのか?」

 軽く信勝マスコットをこづく。子供の頃、こんなふうにこづいたことを思い出す。

……「それ、お竜さんが落としたやつだぞ」……

「落とした?」

……「コンパスってやつだ」……

 その言葉と同時に信勝マスコットは再び輝き、ちょうど顔のあたりから真っ直ぐな光を放ち始めた。






 うげえ。
 なんとも形容し難い音がして、お竜は信長を吐き出した。気を遣ってくれてちゃんと血の海ではなくお竜の胴体の上にそっと舌で乗せてくれた。

「意外とベタベタしないのが不思議空間って奴じゃな」

 信長は信勝マスコットを持ってお竜の鱗の上で胡座をかいた。相変わらず淡く光っている。そして一本の線のような光を放っていた。お竜の頭を北とするなら光は西の方に伸びている。

「これが出口に通じているのか。いや卑弥呼のいる場所だったか?」

……「どっちにしろそれがコンパスってやつだ。その人形からはカルデアの匂いがする。その光の先に行こう」……

 そう言うとお竜は信長を加えて頭の上に乗せた。かなり視界が高くなる。しかし四方全て血の海だった。あの下に父や母や妹、そしてたくさんの信勝の死体が沈んでいるのだろうか。偽物とはいえこれが自分のしたことかと思うと魔王とはいえ眩暈がする。

(わしは元々さして殺戮を好む方ではない。必要ならやるが別にこうなることを望んでいたわけじゃ……いや、魔王としてそれでいいのか)

 魔王という名前。それにはこだわりがあった。その名に相応しい行動を無意識に選択してきた。

……「お竜さんはもう忘れ物はしない。そのコンパスの先までお前を送る……う」……

「どうした?」

……「時間が経ちすぎた。このお竜さんは影。そろそろ消えるらしい」……

 尻尾を示されてそちらを見ると確かに透けている。お竜は少しずつ薄らいでいった。

……「心配するな、消える前にお前をそのコンパスの先まで連れて行ってみせる」……

「すまぬ、世話をかけるな」

……「つかまれ、全速全力進行だ! もしお竜さんが途中で消えたらお前はその人形を離すな、泳いででもカルデアに帰ってくるんだぞ!」……

 信長がお竜の頭に生えた髭を両手で掴んだ瞬間、お竜は全速力で進み始めた。血の海に大きな波が立ち、まるで巨大な船が進むような大きな波音が響く。その波のカケラ、血の滴がいくつか信長の頬に飛び散った。

 尻尾が完全に消えてお竜はうめいた。

……「ぐぬぬ、思ったより早く身体が消える! お前、泳ぐの得意か!?」……

「得意とはいえんな。だがなんとかするさ……」

 お竜は必死で助けてくれている。それなのに信長は自分の意思が弱まっていることが分かった。光を放つ信勝マスコットを胸に押さえつけた。

(変だ。助かりたいと思えない。あんなに多くの人を殺めた……違う、あれは聖杯の作った幻。でもわしが生前したことと何が違う? 直接手にかけなかっただけのニンゲンがどれだけいた? 信勝が笑って死んだことだって一緒だ。おかしい。変だ変だ、人生を後悔する……なんて)

 たくさん殺して、たくさん死なせて、それでも笑っているのが魔王のはずなのにさっきはちっとも笑えなかった。ゲラゲラと笑うべきなのにとてもそんな気分ではなかった。

「お竜、さっきはすまんかったな。ヒトとバケモノは一緒にいるななどお前たちを否定するようなことを言って」

……「む、気が変わったのか? さっきも言ったが生きている頃からリョーマの友達からはそう言われるのは慣れている。まあイゾーは言わなかったが」……

「ダーオカもたまには気が効くではないか……ヒトとバケモノ、か」

(わしは第六天魔王。そのはずなのに、さっきからそれらしくないことばかり考える。これが聖杯の仕業なのか?)

 お竜は進み続ける。どこまで行っても黒い空と血の海ばかりの風景は変わらない。しかしお竜はその中でカルデアと卑弥呼の気配を感じ取っていた。それが近づいているとオロチの感覚が告げている。

「なあ、お竜。聞いてくれるか。わしはバケモノだと思う。そしてお前とは違う」

 突然の問いかけにお竜は戸惑った。内容よりも信長の声が酷く乾いていることに妙な焦りを感じた。

……「なんだ。お竜さんもヒトじゃない、オロチでバケモノだ。知っているだろう?」……

「違うんじゃ。貴様も確かにヒトではないだろう。だがヒトを狂わせるわけではない。……わしはかつて本能寺で死んだ。わしを殺した光秀は片腕といえる部下じゃった。奴は帝都で言っておった。ただ、わしに自分だけに笑いかけて欲しかったから殺した、と。そんなつもりはなかったんじゃがの……だが生前からよくあることだった。わしのため、わしこそが、信じていたのに裏切られた、そう言って突然歯向かってきたり、逆に自ら死を選ぶものはあとを絶たなかった。わしのためだと死体の山が築かれてきた。
 わしのそばにいるとヒトはおかしくなるんじゃ。平気で死んだり、殺したりするようになる。お前は坂本をそんな風にはしなかっただろう?」

……「……リョーマはそんなことしない」……

「確かに坂本はしないだろうて。だから貴様とわしは違う。……明治維新で再会した時から分かっておるんじゃ。信勝はわしがおかしくしたのじゃ、生前に数多くの者たちを狂わせてきたように。その者たちもそれが選んだ道だったのかもしれん……だが、だが、わしは信勝にだけはそうなって欲しくなかった」

 どうして死んだ。なぜ自ら死んだ。
 何度もそう言いかけて飲み込んできた。

「だって信勝は狂わせて殺したのはわしじゃ。誰が姉だなど誰も選べぬ。あいつはたまたまわしの弟に生まれたばかりに狂うことを運命づけられた。だから……わしが姉でさえなければ、せめてそばにいることを許さねば、弟は狂って自ら死など選ばなかったのでは」

……「それは……っ!」……

 お竜は足を止めた。前方に誰かいる。着物を着た少年で肩から血を流している。ダヴィンチに見せられた聖杯に身を投げた少年だ。

……「おのれ、あいつに力を奪われるなんて……せめてお前たちだけは!」……

……「話は後だ! 敵がきた、武器を構えろ!」……

「……あれ?」

 信長は聖杯にさっきまでの怒りをぶつけようと刀を握ろうとした。だが手に力が入らず、刀は血の海に落ちた。

……「お前、どうした!?」……

……「無駄だ。そいつはここから【出ること自体を望めない】。【だから出られない】。【ここが魔王に一番相応しい世界だからと本人が認めてる】。僕はちゃんと聖杯として願いを叶えている」……

 信長は戦おうとした。だが全身に力が入らない。血の海で弟を殺し続けることこそが自分の存在意義だという思考から逃げられなかった。

 両手で額を抑えた信長がお竜の頭の上で膝をつく。今の彼女には無理だと判断したお竜は聖杯の少年に青白い炎を吐いた。聖杯の少年て手の平一枚の距離でそれをかわす。

……「こんなものの何が願いだ! そう仕組んだのはお前じゃないか!」……

……「当然だ! 汚らわしいニンゲンの願いが聖杯を汚したんだからな!」……

 お竜はもう一度炎を吹くが聖杯の少年は素早く空を飛んでかわしてしまう。カルデアの攻撃か、手負いのようだが戦うこと自体はできるらしい。

 お竜は聖杯の少年を噛みちぎろうと顎を振るうがまた逃げられる。そこでマズイと気づいた。胴体の半分が透けている。力を使うほど消えるのが早まる。このままでは動けない信長は血の海に沈んでしまう。

……「おい! このままじゃやられるぞ! なんとかならないか!?」……

「わしは……わしは……信勝、どうして……」

……「無駄だ、こいつは罰を求めている。血の海で地獄を生み出すことを願っている! ここから出たいと願えるものか!」……

 お竜は迷った。さっき信長はそう願っているようなことを言っていた。自分のせいだと。それは龍馬の死に何度かお竜自身が思ってしまったことでもある。

……「大好きな奴が死んだら苦しくなって当たり前だバカ!」……

「……は?」

 お竜は最後の力を使ってヒトの姿の自分を生み出した。半透明ですぐに消えるが両手を落とし膝をついた信長の頬を両手で触れる。ちょっとつねる。オロチの自分の身体は残り半分になってしまった。

……「お前おかしくなってる! でも当たり前だ、大好きな奴が死んだらヒトもバケモノもおかしくなる。自分のせいじゃないことも悲しくて自分のせいだと思ってしまう。でもそれは好きだからだ!」……

 お竜は顔をしかめた。聖杯の少年は宙に魔力で作った黒いかまいたちを生み出し、オロチのお竜の胴体を三度傷つけた。痛い。最後までは行けそうにない。

 信長の目は赤く血に染まって光がない。

……「お前の弟、自分で死んだって言ったな。だからだ。だからお前は何もかも自分のせいだと思うようになった。死んだだけでも悲しくて気が狂いそうなのに、自分で死んだなんてもうどうしたらいいか分からない。そこにつけ込まれてここから出られない。でも出ろ!」……

 聖杯の少年はカマイタチでもう五度、お竜の胴体を傷つけた。人型のお竜も呻き声をあげる。オロチの身体はもう腕のあたりまでしか残っていない。

 お竜が倒れ、血の海に浮かぶ。その光景に信長の身体がわずかだけ動いた。

「お竜……もういい。わしはどうしても……動けない。見捨てろ。バケモノでヒトの心がないはずなのに、魔王だからつけ込まれる心自体がないはずなのに」

 その言葉にヒトのお竜はにいっと笑った。

……「馬鹿だなあ。バケモノにも心はある、ヒトと違っていても、魔王って奴でも大切な奴が死んだら悲しくておかしくなる。お竜さんは同じバケモノだから分かる、本当だぞ」……

「でも、わしとお前は違う……そう言ったろう。お前はヒトをおかしくするバケモノではない」

 お竜はもう血の海に巨大なオロチの頭が浮いているだけだ。その上に膝をついた信長がかろうじて座っている。理屈では戦わないといけないと理解しているのに、ここから出る理由をどうしても思い出せなかった。

 人型のお竜はすでに消えかけていたが優しく微笑んで信長の肩を抱き寄せた。

……「ここから出ろ。なんとか泳げ。お竜さんが運んでやりたかったがここまでみたいだ……お前はここから出てやることがあるだろう?」……

「……やること?」

……「うん、お前の弟殴ってこい。大切に思われてるのに自分で死ぬなんて最低だ。だからお前はおかしくなった。もしリョーマがそんなことしたらお竜さんは殴る」……

「そんな……死なせたのはわしだというに」

……「いいから殴ってこい。悲しくて怒って当然だ。ちゃんと帰ってこい……うん? そうか、だからさっきお前の弟は殴ってくれって言ったんじゃないか? やっと分かったんじゃないか?」……

「信勝が……?」

……「そうに決まってる! だからここから出なきゃ、いけ、ないぞ……悲しい時は悲しいと思わないと歪む。きっとそれだけの話なんだ」……

 お竜は血を吐いて笑いかけるとそのまま消えてしまった。わずかに残っていたオロチの頭が血の海に沈んでいく。

 信長はわずかに残った鱗に手を伸ばし、その上で拳を握りしめた。

……「やっと死んだか。バケモノのくせに目障りなんだよ……そいつは願っている。罰を。出たいなどと心から思えるものか」……

「……お竜」

 信長は血の海から自分の刀を拾い上げた。さっきは沈むほどの深さだったのに今は不思議と立つことができた。

……「お前、なんで動け……っ!」……

 聖杯の少年の首が落ちる。信長の刀は正確に少年の喉笛を切り裂き、切断した。

「貴様が死ね。わしは……やることがある」

 聖杯の少年の首と身体は血の海に沈み、二度と浮かんでこなかった。









六章「卑弥呼と信長」




 あの騒乱の後だがコンパスは落としていなかった。

「……こっちか?」

 信長は信勝マスコットをランプのようにかざして血の海を歩いていた。マスコットは相変わらず無垢に微笑んでただ一条の光で道を示していた。聖杯の少年を斬った後から不思議と血の海は深さがなくなりふくらはぎの半ば程度の深さのままだった。

 光の進む先に沿ってザブザブと血の海を一人進む。不安だったが海は変わらずちゃんと足がつく。深さがコロコロ変わるなんてこの海は一体なんなのだろう。

 さっきまでお竜と話していたせいだろう。
 らしくなく感傷的だった。

(全部、信勝のせいだと思うことがある。そう思ってはならないと封じてきた)

 信勝を責めたくない。
 だって自分のせいで死んだのだ。
 少なくとも信長はそう思ってる。

 追い詰めて殺してしまったのだと思っていた。
 真相を知ったところで「なら一度も好きだと言わなかったせいだ」としか思えなかった。
 自分という存在で人生が狂っていった多くのニンゲンたちを思い出した。

(バケモノの姉がいたせいで弟の人生はめちゃくちゃになった)

 けれど信長が一度「どうして自分から信勝が奪われたのだ?」と思い始めると信勝を責めずにはいられない。
 結局、信勝は何一つ教えてくれないまま死を選んだことは事実だからだ。
 たった一言言ってくれれば必ず助けたのに「僕は馬鹿で無能でなんの価値もないから」となぜ訳のわからないことを言うのだ。

 酷い。酷い。信勝は酷すぎる。責める気持ちが溢れ出る。

(違う! 信勝をわしから奪ったのは、結局わしではないか……自業自得、自分のせいじゃないか!)

 けれど「結局、殺したのは自分じゃないか」という罪悪感が全てを堰き止めていた。

 姉は弟を責めないために自分を責めていた。
 だってどんなことであったとしても、死を選んだことは信勝にとっては人生を賭けた全てだったのだ。

(わしが一言、後継の座などいらなかった、どうして自分から死んだりしたのだと責めたら、信勝はきっと粉々に砕けてしまう)

 自分を責めることで、信長は信勝への怒りを心の奥深くへ封じていった。

(何が第六天魔王じゃ……わしはこんなに弱い)

 知らないふりをすることが愛だと思っていた。なんて脆い愛だったのだ。

 信勝マスコットが動いた。ずっとじっとしていたのにバイブレーションのようにブルブルと振動を始めた。足を止めてボタンでできた両目を見下ろす。

「信勝、なんじゃ?」

 咄嗟に弟の名を呼んでしまう。光で導いてくれた信勝マスコットは信長の手から十センチほど浮かび上がり、まとっていた淡い光がどんどん強くなる。

 眩しさで咄嗟に目を閉じると声が聞こえた。

……「やっと見つけた」……

 聞き覚えのある声がして、優しくマスコットを持つ右手を掴まれた。驚きで目を開くと周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。

 完全に目を開くとそこは淡いベージュとグレイの雲の上だった。血の海から数メートル上に浮かんでいる。雲の上には見覚えのある黒髪の女が立っていた。

「卑弥呼……?」

「もー! 信長ちゃんってばやっと見つかった!」

 卑弥呼はいつものように歯を見せてにかっと笑った。今はスーパー卑弥呼モードではなく、普段のラフな格好に戻っている。声も今までは遠かったがとても近くで聞こえる。

 信長が右手を見ると信勝マスコットはまだあり、淡い光は消えていた。
 卑弥呼は肩に手を当ててぐるぐると肩を回した。

「よかったー! 完徹して探してたんだから! ってそれは例えだけど、とにかく頑張った!」

「……信勝は無事か?」

「あはは、開口一番それ? 大丈夫、信勝くんってばすっごく頑張ったのよ! 大事な姉上を助けるために!」

 卑弥呼曰く。
 信勝は聖杯によって深く封じられていたが、起死回生でそれを抜け出し、逆に封印に使われていた力を奪い取った。その力で聖杯を攻撃して、大きな打撃を与えた。信長は肩から血を流した聖杯の少年の姿を思い出す。

「反動で今は休んでるけどね。一度、私とコンタクトをとって、聖杯に囚われた信長ちゃんに影を送ったよ。私の力でドーンとね。まあ、それはすぐに消えちゃったみたいだけど……信勝くんの言い方とかダメだったんだろうね。その後はカルデアから心の縁の深いお竜さんが選ばれて彼女に助けてもらったのよね」

「お竜は、無事か?」

「シャドウサーヴァントの彼女は消滅した。でも外では無事よ。少し酔ったみたいだけど……戻ったらお礼にいかないとね。私の影はかなり長くここにいられるけど」

「なんというか……卑弥呼、貴様なんでもありだな」

「そりゃ、光の女王だからね。ピカ!」

 本当に光る。

「貴様のその光、魔王のわしには少し痛いのよね……そうか、無事ならよかった」

 大きく胸を撫で下ろす。最後にあった信勝とマスコットから聞こえた声。あの信勝は本物だったのかとわずかに安堵した。

「結局、あの血の海はなんじゃったのじゃ? お竜から言わせれば瘴気の濃い空間らしいが……」

「ねえ、信長ちゃん。自分のことをバケモノだと思ってる?」

 卑弥呼は真面目な顔になると身体から淡い光を放った。後頭部にわずかに光の輪ができる。

「……ああ、そうじゃ。なにしろ魔王じゃからな。光の女王とは違うさ」

「なら一緒ね。私もずっと自分のことをバケモノだと思っていた。ヒトには見えないものが見える、聞こえないものが聞こえる。周囲とは自分は違うと思って生きてきた。たった一人の理解者だった弟の運命を狂わせた……光の女王といえば聞こえがいいけど、多くのニンゲンの運命をめちゃくちゃにしたバケモノよ」

「破滅って、貴様は邪馬台国を大きく豊かな国にした立派な女王様じゃろ」

「変なこというのね。あなただって戦乱の世を鎮めて平和な時代の礎を築いた戦国武将でしょう? あなたに救われたヒトがどれほど多いことか。そしてバケモノだった私たちをいつも理解しようとしてくれた大切な弟がいた。私たちになんの違いがあるでしょう」

「違う! わしは魔王じゃ、貴様とは違う……貴様は弟を殺してなどおらぬではないか! ずっと共にあったではないか!」

 信長の叫びに卑弥呼は一度目を閉じ、すっと開いた。

「そうね、私は弟を直接は殺していない。でも、人生をめちゃくちゃにしたとは思っているわ。あの子は普通の子だった。それなのに私の弟というだけで、神殿の奥にいた私の世話ばかり。生涯、神官としてしか生きられず、本人の願いとはいえ名前を永遠に失うことで私の力になるために死後を売り渡した」

「そうじゃ、貴様たちはずっと一緒だった……わしとは違う、わしは一人になった……」

「そこまでの献身に私は自分の力を疑わずにはいられませんでした。姉のバケモノの力が弟をおかしくしたのではないか。いくら私を大切に想ってくれるからってそこまでするものかと弟の心を疑いました。……よくあることだったのです。女王・卑弥呼のためならなんでもすると命を投げ出す者は後を絶ちませんでした。だから弟も私の力が狂わせて、異常なまでの献身を生んでしまったのではとずっとそばで疑ってしまった……私の弟に生まれてしまったばっかりに普通の幸せを奪ってしまったのではと」

 信長は咄嗟に言葉が出ない。バケモノの姉の下に生まれたばかりに弟の人生を狂わせた。それは自分も想っていたから。

「私は自分のことも疑っていました。弟だけには平凡で平穏な人生を望んでいる、なんて口では言いながらただそばにいて欲しいからと無意識にこの力がそんな風に仕向けたのではと自分が恐ろしかった。私はヒトではない、姿だけヒトに似たなにかのバケモノ。だから、私自身に対する疑念は晴れず、そばにいて嬉しいのに「こんなに酷い目に合わせているのは私ではないか」と苦しかった……」

「なぜ……そんな話をわしにする?」

 卑弥呼は薄く微笑んだ。

「さあ、一人ではないと言いたかっただけかもしれません。そんな風に弟を狂わせたのではないかと怯えるバケモノは一人ではないと」

「……」

「それが私は悲しかった。ねえ信長ちゃん、悲しむべき時に悲しめないときっと歪んでしまうのよ」

「……わしに、そんなニンゲンのような心など……」

 最後まで言えなかった。お竜の「バケモノにも心はある」という言葉を否定できなかった。

「でもさ信長ちゃん」

 卑弥呼はくるっとその場で右に一回りした。すると衣装が邪馬台国の女王のものになる。

「それはそれでお互いにいくらなんでも姉バカがすぎるんじゃないかしら。姉バカっていうより弟を可愛がるあまり軽んじているってもいうのかな。そこまで弟に自分の意思がないように扱うのは正直どうなのかなっても思う……あの子達は過酷な運命だった。けれど、やはりそれは姉の力で心を狂わされたのではなく、姉を想って自分の意思で運命に身を投じたんじゃないかしら?」

「信勝は……本当に普通の子供だった。気弱で泣き虫で優しくて誰よりも穏やかで凡庸な幸せの似合う子供じゃった。とても自ら多くの死を道連れに笑って死ぬようなニンゲンには見えなかった」

「だから、自分のせいだと?」

「そうじゃ……他にどう解釈すればいいのか分からなかった。今でもあやつは根本的には穏やかな凡人であることに変わらない。それなのに平気で身を砕く宝具を笑って使う。本当にどうしてそうなったのか……卑弥呼、そなたと同じようにわしも自分のために死ぬ人間は山のようにいた。逆に殺されたこともあったかのう。なぜかヒトはバケモノを恐れるくせに心狂わせて命を捨てる……信勝にだけはそうなってほしくなかったのに」

「それで痛みがマシになるわけではないでしょうが、本人の意思の可能性だってありますよ」

「馬鹿馬鹿しい……そんなことは証明不能だ」

「信じてみませんか、私たちの大切な弟のことを」

「だから貴様とは違う。自分の意思だからなんだ。あいつはわしのために自分で死んだ。そのことは変わらん。ああ、貴様が羨ましい、妬ましい。信勝が幽霊になってそばにいてくれるなんてわしの人生を考えれば夢のようさ……冷たくなって二度と動かなかった弟を見ないですんだ貴様には決して分からない!」

 平行線だ。こんなことを卑弥呼と話している自分が信長は不思議だった。

 ニコッと卑弥呼は笑うと今度は左回りにその場で回ると今度はスーパーモードになって後光が差した。すっと数歩進み、信長の両手を両手で握ると女神のように微笑んだ。

「ありがとう、信長ちゃん。その言葉を待ってた」

「何……?」

 ごう……っ!

 卑弥呼の言葉と同時に大きな音がした。信長が音の方向を振り返ると雲の下の血の海の様子がおかしかった。海の底に大きな穴が空いたように血が引いていく。上方の真っ暗な空もわずかに綻んでいた。

「さっきこの空間はなんだったのかって言ったわよね。ここは聖杯が作った結界の中、あなたの歪んだ怒りの中よ。……信長ちゃんはずっと自分に怒っていた。あまりに大きな怒りで信長ちゃんと聖杯以外はここには入れなかった。だから、自分自身以外に怒りを向けてくれるように色々話していたの。ほら、今私に怒ったでしょ?」

 信長は血の海の様子に目を奪われていた。たくさんの死体が流れていく。

「だから、結界に穴が空いてそこから私がこじ開けることができた。無理に開けると信長ちゃんの心が壊れてしまう。本当は信勝くんこそがこの役割に適任でした。だって信長ちゃんめちゃくちゃ彼に怒っていたでしょう? だから彼は自分の影を飛ばして自分へ怒りが向くように話したのです。若干、気持ち悪かったですが」

「……自分に怒り、わしが?」

「ええ、私もよく感じていました。弟から幸せを奪った最悪の姉だと」

 雲の上からはまるで地獄のようだった。多くの死体が海のように流れていく。あれが自分の怒りなのか?

「あなたの怒りを私に少し向ければ、そこから暗い願いを解いていけばいい。少し強引ですが、これで信勝くんの元へあなたを連れていけます」

「……聖杯のやつはどうした?」

「ダメージを受けた後から行方不明です。おそらく隠れているのでしょう。残念ながら信勝くんの力では倒しきれず、まだこの空間は壊れません。信勝くんもほとんど力を失いました。けれど進展はありました。こうして二人とも結界から出すことはできましたし、聖杯も今までのようには力を振るえないでしょう。リボンは切れてしまったようですが、目印をつけたから大丈夫。さあ、こっちへ……」

「やだ」

 言葉とは裏腹に信長は穏やかに笑った。

「なんじゃそれ。それじゃわし聖杯にいいようにやられて、貴様に助けられたってことじゃろ。いやじゃ。わしは自ら結界を出る。そうでないと聖杯に負けたことになるではないか」

 不思議なことに卑弥呼は驚かず、ただ静かに佇んでいた。

 それにやり方は最初からわかっていた気がする。
 あそこで間違えたのだ。

「聖杯につけ込まれたなら自分で結界くらい壊す。信勝が頑張ったなら姉のわしもそれくらいやらんと顔がたたんではないか……ま、心配するな。やっと、どこで間違えたのか分かった」

「他人のことは言えませんが……頑固な姉弟ですね」

「貴様もな」








七章「自分を許す」




 すっと目を開くと白い霧の中にいた。信長が数歩歩くと彼女が立っていた。

……「どうして、自分から来た?」……

「おお、ここにおったのか」

 探していた人物はもう一人の信長だった。あの結界の中で最初に出会い、最初に斬った人物だ。聖杯の作った見たくない弱い自分。そして隠してきた本心だ。

 彼女を斬ったことで信長は結界に囚われたと卑弥呼は言った。悲しみを否定することで全ての怒りを自分にぶつけることを選んだのだと。

 そう、自分から罠にかかった。もう一人の自分を斬らない道もあったはずなのに斬ってしまった。自分の弱さを見ることが耐えられなかった。

(わしには悲しむ権利がないと怒りに囚われ、バケモノにも心があることを否定した)

 だから卑弥呼にここに戻してもらった。彼女を斬らなければ信長は聖杯に囚われることはないのだから、信長自身が結界を壊すことができる。

 幻の自分は変わらず涙を一筋流していた。信長に一歩近づくと責める声を上げた。

……「どうして、信勝を殺した?」……

「どうしてじゃろうのう……気がつけば牢の中だった。あいつは切腹するか、飛び降りるかしかないと言った。岩に叩きつけられて潰れるあいつを見たくなかった。だから切腹させるしかなかった」

……「わしならできたはずじゃ。わしの力なら信勝を救うことができたはず」……

「どうなんじゃろな。意外とわしにはどうにもできんかったのかもしれん。あいつは自分の命を使ってわしの道を開きたかった。その意思にあの頃の意志薄弱なわしは逆らうことなどできなかったのかもしれん。なにしろあの頃のわしは聞こえないからと全てを無視していたからのう」

 誰にも告げたことのない想いを告げたからだろうか。
 じわりじわりと胸が痛んだ。

……「そんなことはない! 父上も母上も、皆もわしをバケモノだと言っておった。実際、魔王となり、わしはなんでもできた。人ならざる力が確かにあった。信勝を救うことなど造作もなかったはずなのに、わしは「聞こえない」の一点張りでやらなかった!」……

 幻の自分の目からは涙がまた多く溢れた。それは無視してきた自分の痛みだ。信勝に再会して自分ならば弟を救えたはず、自分が死なせたのだという罪悪感の声だ。

(悲しむべき時に悲しまないと歪んでしまう……か)

 難しい。悲しみが深いからこそ歪むのだ。

……「誰がわしから信勝を奪った? それはわしじゃ。だからわしは永遠にわしを恨む」……

「そうじゃな、恨んでいるからこそお前が目の前にいるんじゃろう」

……「だが、あの明治維新の時に知った。信勝はわしが誰よりも好きだった。ならばたった一言好きだと言えば信勝は生きたはず!」……

 そんな自分を見て信長は苦笑いをした。これはあまりにもあからさまで自分でも丸わかりだ。他人からはこんな風に見えていたんだろうか。

「そう簡単にいくかのう。信勝は強情で意外と頭がいい。そもそもあいつが命をかけてやったことをわしが魔王だからチョチョイっと覆せるってそれこそ信勝に失礼ではないか?」

……「何をたわけたことを! 貴様自身が一番知っているではないか、信勝はわしに誰よりも必要とされたかったと! あの時、信勝が好きだと、必要だと一言伝えればあいつは死ななかった……ずっとそばにいたはずじゃ! あんなに長い間、一緒だったのに、なぜ一度も好きだ、そばにいろと言わんかったんじゃ」……

「ああ……そうじゃのう。その通り。きっとわしが好きだと、そばにいてくれと願えば信勝は自ら死を選ばなかった。あいつが死後にそう言い出すまでまさかそんな一言で全て変わったとは夢にも思わんかった。なにしろわしはあの時までずっと信勝は尾張のために死んだと信じきっていたからな……だがのう、わしにも事情があった」

……「事情? わしは貴様じゃ、何もかもお見通し。今更、何を」……

「ずっとわしは「ヒトの声が聞こえなかった」。サル以外は聞こえない、信勝も含めて。顔もろくに見えない。それに周囲のヒトを大きく凌ぐ力が生まれつき備わっていた。だから、母上が言うように自分でわしは姿形はヒトじゃが本質はバケモノじゃと思った……だから、ヒトの信勝のそばにいない方がいいと思っていた。好きだといえば単純な信勝はいつまでもついてくるではないか。だから言えなかった。遠ざけることがわしなりの愛じゃった。いつか、自分の力が、聞こえないことが弟を傷つけることが怖かった……卑弥呼のように」

 お竜は言っていた。バケモノも心がある。だからバケモノなりに愛した。
 卑弥呼は言っていた。この力が弟を傷つけ、操ることを恐れたと。だから信長の愛は遠ざけることだった。

「バケモノはヒトを愛してはいけない。わしはそう思い込んでいた。ヒトはヒトといることが結局は幸せなのじゃと……それに信勝はヒトの中でも一際ヒトらしく見えた。臆病なのに犬猫のために嵐の中に飛び出すほど優しく、意外と利発で、上手く見えない時もあったけど笑顔が春の花のように愛らしかった。そのぬくもりだけでいつまでもうたた寝ができる可愛い自慢の弟じゃった」

……「な、なんじゃ、貴様」……

 まさか弟自慢をしだすと思っていなかったらしい。幻の自分は信長自身より純粋なのかも知れない。

「失敬。我が弟がいかに可愛かったか少し喋り過ぎた。……わしには信勝が世界で一番ヒトらしく見えた。優しさ、賢さ、愛らしさ。弟はヒトの一番美しい部分だけを持っているのではないかと思っていた。実際、死ぬ時も口を開けば故郷のためだ……まあ死後に全部大嘘だったとバレたんじゃが! 話がズレた、つまり誰よりもわしと違うヒトであると信じたからこそバケモノの姉に近づけてはいけないと思ったんじゃ。信勝は優しいからわしが好きじゃと言えば離れられんのではないかと怖かった」

……「でも……結局、それで死なせたのではないか」……

「ま、半分、後付けなんじゃけどね。わしはあいつが当たり前でいなくなることなんか考えたこともなかったから好きだと口に出すことだって考えなかった方が八割だ」

……「貴様!」……

「たわけ。両方、本当じゃ。あれだけ好きだと言われて一度もそう返そうか考えなかったわけがあるか。残り二割はバケモノのなりの気遣いさ……さて」

 信長はもう一人の自分へ一歩ずつ近づいた。もちろん刀は抜かない。代わりに手袋を取って両手を掲げる。もう一人の自分は怪訝そうだったが逃げはしなかった。

……「な、なんじゃ?」……

「ずっとお前に悲しみを押し付けてすまなかった」

 信長は幻の自分を抱きしめていた。頭に手を回して長い黒髪を優しく撫でる。

……「どういう意味じゃ……?」……

「わしはずっと信勝を死なせて後悔していた」

……「……」……

「ずっと寂しかった、一人になってしまって。あいつの代わりはどこにもいなくて悲しくて尾張に帰ると憂鬱だった」

……「黙れ……そんなことわしに言う資格ない」……

 投げられた言葉は自分の心の鏡だ。資格がないからと心を抑えていた。

「そう、わしは信勝を殺した。悲しむ資格なんてない。何より……自分で自分を許せない。わしのせいなのに、と思っていた。……だが、今あえて言う。例えわしの失態のせいで信勝を殺したとしても、わしが信勝を失ったことを悲しんでいい。そう、自分を……許す」

……「できるものか! 許すなんて、信勝を殺したことを許すなんて……貴様を、絶対に許さない!」……

「許してなどおらぬ。だが、悲しい、苦しい……そう感じることを自分に許す」

 どんな理由であれ、信勝を奪ったのは自分自身なのだ。その信長が悲しむほど、その原因となった自分を恨むことになる。その恨みが自分が悲しいと感じることを許さなかった。

 信長は幻の自分の頬の涙を拭った。こうして泣きたかった。そう願う自分がずっと許せなかった。だが今はその贖罪意識が弟の再会を阻んでいる。

「そうして泣いておくれ、それはずっとわしができなかったことじゃ……だが今日までだ。これからはわしは自分自身で悲しもう。わしの悲しみを返しておくれ」

……「許さぬ! 許さぬ! 今更、悲しむ資格などない! だって取り返しがつかない!」……

 幻の自分はもやは涙ではなく血の涙を流していた。その姿を見て泣くと少しだけ母の顔に似ていて血のつながりを感じる。

「ああ、わしのせいだと思う。ずっとそう思って生きてきた。今更、変えられない。けれど……わしは泣くことを、弱さを、自分に許す」

……「許せぬ……許せぬ! どんな理由があっても信勝を死なせたことを許せぬ! もっともっと苦しめばいい! 解放などさせない!」……

「許す……信勝にまた会うために」

 信長はもう一人の自分を抱き直した。するともう一人の自分は信長の背に手を一つだけ回した。

……「信勝……どんな形でも生きてさえいればなんでもよかったのに……なぜ死んだ。そんなこと、そんなこと望んでない!」……

「おお、ここにきて完全同意じゃ。本当あいつサイテーじゃからな」

 もう一人の自分はまた泣いた。信勝は酷い酷いと自分同士で嘆き合った。そうしているとこの自分が何よりも愛おしいものに感じる。

(どうして最初は斬ったりしたんじゃろうか。ただ一緒にいればよかったのに。こうしていると不思議じゃ……一番わしを分かってくれるのに)

 信長は違和感を感じて、自分の頬に触れた。そこには一筋の涙が流れていた。

「なんじゃ、バケモノでも流れるではないか……?」

 そこで幻の自分は消えていた。
 そして世界はひび割れ、黒い空間は自ら壊れ始めた。






八章「姉は弟に「どうして死んだ」と怒りをぶつけた」




……「でもさー」……

 頭の中に卑弥呼の声が聞こえる。

……「この方法で今の信長ちゃんなら結界を壊せるとは思うけど……そうしたら長年抑えていた怒りが炸裂しちゃうと思う」……

 その通り。
 悲しみを受け入れた信長は怒りも受け入れた。
 ぶつける相手は決まっている。

「ここは……?」

 黒い結界が壊れると少しずつ光が漏れ出した。黒の向こうには昔見た夕暮れのような橙色の空が広がっていた。懐かしい川辺があり、家までの道もある。

 故郷の風景だ。自分の影響だろうか。それとも信勝だろうか。
 くらりと額に手をあてる。ガンガンと頭が痛い。怒りの感情が満ち溢れて頭が割れそうだ。よくぞ今までこれほどの怒りを封じていたと自分で感心する。
 
(思ったより、わし、耐えてきたんじゃな……知らんかった)

 当てもなく歩いているが人影もない。卑弥呼を呼ぶと返事がある。

「おい、卑弥呼。ここはどこじゃ?」

……「ほら、キレちゃった。というか結界が怒りをぶつける方向に変質しちゃったみたい。ほら、今から彼がいくからもう好きにしていいよ」……

「なんじゃそれ……あれ?」

 夕焼けの向こうから誰かが歩いてくる。川の岸の向こう側でこちらを見ている。

「信勝……?」
 
「姉上〜〜!」

 信勝は姉の姿を見た途端、川の岸の坂を無茶なスピードで走った。同時に信長も川の岸をブーツで滑るように降りていった。無茶なスピードが祟った信勝は案の定転び、ゴロゴロと顔を擦りむきながら河川敷へ落ちる。痛いと情けない声が聞こえた。

「この馬鹿! もういいからそこでじっとしておれ!」
 
「そ、そうはいきません。僕は姉上に、姉上に〜」

 怒りに心配が混じる信長は一歩川の水へ両足を入れた。橋などもあるのかもしれないが視界の中にはない。水深は浅くふくらはぎ程度だった。少し慎重に進むと立ち上がった信勝が慎重もクソもなくザブザブと川に突っ込んでこちらへ駆けてくる。

「お前、ちっとは我が身を顧みんか! そういうところが……」
 
「姉上、今まですみませんでした」

 全身擦りむいて情けないくせに。
 信勝はとても真剣な目で信長をまっすぐ見ていた。
 夕焼けが姉弟の瞳をより赤く照らしていた。

(怖い)

 全身の怒りをぶつけようとして躊躇う。
 もしこの怒りをぶつけたら信勝の人生の意味は壊れてしまうかもしれない。

(そんなの信勝を二度殺すようなものではないか)

……「それでもずっと考えていたのです。僕が今からでもできること。それは姉上に怒られることではないのかと」……
……「だから姉上、僕をぶってください」……

 青い翼を持った信勝、あの言葉が本当なら。
 変態じみた言葉の真意がそれなら。
 この怒りを解放しても信勝は壊れないかもしれない。

 長く迷ったが信長はこういった。

「信勝、今一度聞く……お前が死んだのはわしのせいか?」

 信勝は疑問に疑問で返した。

「姉上……僕も今更聞きます。僕の死で悲しんだのですか?」

 信長は目を細めた。信勝は本気で言っている。今まで「僕なんて」と捨てていたその可能性に本気で目を向けている。

 信長は少し沈黙し、にっと笑った。

「ふん。そうやってわしの質問に答えんなら、わしだって言いたいことを言わせてもらおう。……この裏切り者が!!」

 信長は信勝に駆け寄るとその襟首を掴んで思い切り平手打ちをした。信勝は目を丸くして叩かれた頬に手を当てるが、その逆の頬もまた姉に平手打ちされる。信勝の両頬が真っ赤になる。

「そ、そうです、姉上……僕は裏切り者で、死んで当然で」
 
「なんで死んだ?」
 
「姉上……?」
 
「なんで死んだ? なんで死んだ? なんで死んだ!? ……どうして自分から死んだりしたっ!!?」

 信勝が二の句を告げないでいると信長はさらに捲し立てた。頭と胸で熱い炎が燃えている。

 弟に抱いていて、隠していた感情。これは怒りだ。
 そう。弟は自分のためと言って一言も告げず勝手に一人で死んだ。怒りを感じて当然だろう。

「わしのために死んだ? わしの立場のためだと!? ふざけるな、何がわしのためじゃ! わしのためというならまず生きろ! それなのになぜ死ぬ? そんなの意味がない、お前がいないとわしはどこへ帰ればいいのわからんじゃろっ!!」
 
「……」

 信勝は口を開かない。

「どうしてそんな簡単なことがわからんのじゃ? わしはお前に何も望まなかった。そこにいるだけでわしの願いは叶っていた。それなのに自ら死ぬなどわしに対する最大の裏切りじゃ! どうして一言言ってくれなかった? あんなにうっとうしいくらいいつもわしにくっついていたくせに、どうして肝心なことは相談一つしないで決めてしまった!? 挙げ句、死ぬなんて、自分から死ぬなんて……なぜじゃ!?」
 
「……」

 怒っているはずの信長はまた泣いていた。アンデルセンのせいかは分からない。襟首を掴まれたままの信勝は虚な目でそれをじっと見ていた。ぼんやりと姉を泣かせたなんて初めてだと思う。

「なぜわしがお前を必要としているとわからんかった!!? どうして自分だけで抱え込んで死ぬんじゃ! わしのせいか? わしが好きと口に出さなかったからか? かわいい弟だと口に出さなかったからなのか? でも、そんなの……お前だって何も言ってくれなかったではないか! わしに愛していると言って欲しいならそういえ! わしは言われんとそんなこと求めているなんてわからん! どうして……どうして死んだり」
 
「……そうです」

 ようやく信勝は口を開いた。虚な目にわずかに光が宿っている。信勝はマントの襟首を掴んでいる姉の右手首に手を伸ばし、強く握った。その力で姉の身体を寄せて、逆の手を上げた。

 小さくぱんという音がなった。信勝が信長の頬を叩いた音だ。ほとんど力は入っていなかったがそれでも姉の頬は少し赤くなった。

「そうです、姉上が僕を好きなんてちっとも分かりませんでした! いてもいなくてもいい弟で織田後継の邪魔者だと分かったら嫌われたと思っていました。か、かわいい弟だなんて思ってくれてるなんて夢にも見ませんでした! いつも僕がくっついてて邪魔だとしか……姉上はいつも遠くを見ていて、どんなに追いかけてもこっちを振り返ってくれなかった。
 だいたい姉上は僕の言葉なんてほとんど「へえ」とか「ふぅん」しか返事をしなかったではないですか!! それなのに本当は好きとか、かわいいと思っていたとか……そんなの分かるわけないじゃないですか!!」
 
「なっ……!」

 内心思っていたことをそのまま信勝に言われて言葉を失った。

「姉上の心はいつも遠い世界で僕なんか見なかった! 僕は姉上が全てだけど姉上は僕なんていてもいなくても同じ。僕はそれでいいと思っていました。だって姉上が語る遠い世界は凄かったから僕なんか見なくて当然だ。馬鹿な子供の頃と違って僕だって身の程を弁えまえたのです。それに姉上は僕も見なかったけど、いつも乾いた目をしていてほとんど誰にも興味を持たなかった。姉上はすごいから誰もそばに必要としない、するとしたらそれは規格外の乱世の英雄だけだと。だから無能な僕の死なんてすぐ忘れると思ってました!」
 
「こ、このっ……!」

 信長は叩かれた頬に手を当てると信勝の肩を掴み、川に突き倒した。信勝はあっさり転んで肩から川の水に浸かる。はっと信長は助け起こそうと屈むが信勝が逆に信長の腕を掴み、逆に川に引き摺り込んだ。思い切り川に顔を突っ込んだ信長は思わず目を閉じたまま身を起こすとまた頬に小さな痛みが走った。

 弟がまた姉の頬を叩いたのだ。今度はぺちという小さな音しかしなかったが二度目の平手打ちだった。

「こ、この、弟のくせに姉をぶつと何事じゃ! このうつけ! いいからわしの質問に答えよ!」
 
「姉上が先に僕をぶったんじゃないですか! あ、姉上こそ馬鹿! 姉が弟をぶつとは何事ですか!」
 
「うっさいわ、たわけ! 馬鹿って言ったほうが馬鹿なんじゃ! 質問に答えろ! お前が死んだのは、わしの……」
 
「姉上の馬鹿」

 信勝はどんと信長の肩を突き飛ばす。せっかく立ちあがろうとした信長はまた水に落ち、どんどんずぶ濡れ手になっていく。

「僕が死んだのはちょうどいいタイミングだったからだけですよ! 馬鹿な家臣は僕に群がってくる。僕がいる限り逆臣は生まれる。そいつらを巻き込んで死ぬのが一番効率がいいと思っただけですよ! むしろ僕はそういう機会に恵まれて幸運だと思いました。だって姉上の邪魔者を一掃できて少しは役に立てたと思ってもらえると思ったから!」

「うつけ! それが……それがわしのせいかと問うておる! 大体一度目の謀反の時にそいつらはほとんど死んだではないか! なのになぜ二度目の謀反まで起こした!? あの時は巻き込む逆臣もなく、お前一人死んだだけではないか!!?」

「斎藤義龍から手紙が来ました! 僕が姉上に謀反を起こすならいつでも力になるって! 稲生の戦いの後も馬鹿な家臣たちは僕に声をかけるのをやめなかった! 僕がいる限り駄目なんです、生きてる限り姉上への刃になる!」

「そんな手紙なぜわしに相談しなかった! なぜわしを頼らない? ずっとわしの後をついてきたではないか、転べばわしを泣いて呼んだではないか……それなのにどうして一番肝心な時に一言も言ってくれない? わしは必ずお前を守った。武士の位は取り上げたかもしれないが命だけは絶対に……なぜじゃ、わしはそんなにも……お前に冷たかったか?」

「姉上なんか頼れるわけないですよ! そんなこと言って嫌われるに決まっている! だって姉上は僕といていつもつまらなそうだった。返事がないことなんて当たり前で、返事をする時だって上の空。僕がつきまとって姉上には邪魔だと知ってました。
 でも、僕は……どうしても姉上が大好きだった。だからせめていつも追いかけて思い付く限り楽しい話をしたのです! でも姉上は一度だって笑わなかった……」

 信長の脳裏に「すまんのう、何やら楽しい話をしているようじゃが、わしには聞こえんのだ」と必死に話す弟を前に申し訳なく思っていた記憶が蘇る。

「元服する頃は心底理解したのです。僕は永遠に姉上を笑わせることができないんだって。せめて織田の一員として支える役割に縋ろうとしたけどそれも駄目だった。つまらなくてうっとうしい弟だと思われている上に反逆の種なんて……嫌われると思ったから絶対に姉上に頼るなんて無理でした!」

「つまりそれは……お前の死はわしのせいだということだろう?」

 取っ組み合いの合間。ピタと姉は動きを止めて、弟の目をじっと見た。暗くて静かな目だった。

「あなたのせいじゃない」

「……それはもういい。結局、お前にはわしの気持ちは分からん」

 ぐいと弟は姉の手首を掴む。信勝は信長の背中に手を回し、すっかり冷えてしまった背中を抱きしめた。

「全部僕のせいです……なんて言っても、姉上の苦しみがなくなるわけじゃないですよね。ようやくそれが分かりました」

「信勝……?」

 信勝は信長の頬に手を当てると困ったように笑った。

「僕やっと思い出せたのです。姉上は僕を好きでいてくれた。今だって……やっと姉上の愛を感じられるようになったのです。
 だから大事な人が死んだ原因が自分だと思ってしまったら、気にしないでなんて言われてもなんの解決にもならないことは分かっております」

「……」

 信長は一度拳を握って、少し振り上げたがすぐ力を失い、宙に力無く落ちた。

「姉上、もう一度聞きます……僕が死んで、その後の生で苦しかったですか?」

「当たり前じゃ! このうつけっ!」

 怒りに任せて思い切り拳で殴る。意外なことに信勝はよろけたが倒れはしなかった。

「死んだらわしが誰よりも悲しいに決まっているじゃろ! お前が大切なんて当然じゃろ! いなくなって苦しいなんて当たり前じゃろ! ……なんで言うまで、死ぬまで気づかんのじゃこのたわけっ!!」

 起き上がるので反対の頬も拳で殴る。怒りを解放したせいか息がきれた。ぜえはあと肩で息をすると信勝は変わらず困ったような笑みを浮かべている。そこで信長は自分の目尻にまた涙が浮かんでいることに気付いた。怒りと悲しみはどこから違うのだろう。

「そうだよなあ、僕が姉上だったらそうなるよな……どんなふうに悲しかったですか?」

 信長はなんだか上手く力が入らず、また殴る気にもなれず、両手を下ろした。わずかに俯くと懐かしい川の流れがそこにあった。

「少し歩こう……長い話になる」

 




 信長と信勝は川から出て、懐かしい河原を歩いていた。
 
「わしは……ヒトのいう苦しみがよくわからん」

「はい」

「信勝が死んで、わしが殺してしまって……涙は出なかった。墓にも行かなかった。ただ……しばらく眠れなくなった。涙が出ない自分をわしは皆が言う通り化け物だと思った。母上に罵られても当然だと思った。ただ、それ以後、尾張に帰る足が遠のいた。帰ってもお前がいなかったから」

「……はい」

「お前が二十二で死んだ後、わしは二十五年生きた。本当に色々なことがあった。
 わしはすごかったぞ。将軍も公家もわしには逆らえなかった。有力諸大名も次々にわしの足元にひれ伏した。ようやく同類と思えるものにも出会えた。日の本を手中に収めた。
 ただ……世界はどんどん広くなるのにどこにも信勝はいなかった。時に尾張に帰っても信勝がいない故郷は余計に何か欠けているように思えてならなかった。
 わしは何百回も豪華な食事を献上された。極上の唐の茶器で達人の茶を飲んだ。職人の魂を込めた絵画の数々を見た。
 そして……時々お前を思い出した。これは信勝が好きそうな茶碗じゃ、とか、これは信勝にも食べさせてやりたかった、とか、こんな美しいもの信勝にも見せてやりたかった、とか……死んだ時に涙も出なかったのに愚かなことが何度も頭をよぎった」

 信長の声は悲しい。信勝はその響きを聞くたびに胸からはらわたがずきずきと傷んだ。

「それが死ぬまで続いた。確かに歳月は薬じゃ。思い出す回数は減っていった。けれどわしは……今思うと信勝を忘れたくなかった。お前を忘れるくらいならずっと苦しんだほうがマシだと思っていた。だから嫌われていると知っていたのに母上の元の尋ねて困らせたりしたな」

「母上は……僕が死んだせいで姉上を憎むようになってしまったのですか?」

 弟が苦しそうに聞くので姉は少し目を開いた。少し迷ったが口にする。

「母上は元々わしを憎んでいたさ。いや、あの人はわしが幼い頃からわしにずっと怯えていた。鋭い人だった、わしがヒトじゃないと気付いて、怯えから会えば憎まれ口を叩かずにいられなかった。お前を焚き付けたのもわしへの怯えがそうさせたのかもしれんな」

「それでも僕が……あの時、死ななければ」

「……そうじゃな、母上はお前のせいで苦しんださ。だからわしを憎んだ。一生な」

「母上が……僕の後を追って死のうとしたというのは本当ですか?」

「……なぜ知っている?」

「すみません、後で説明します」

「そうだ。お前が死んで三月後、人の少ない場所で喉を小刀で突いた。手元が狂わなければ本当に死んでいただろうな。自室には「信勝の元へいく」と手紙があった」

「……ごめんなさい」

「何を謝る?」

「少し考えれば、すぐ分かることだった。母上は僕を……多少歪だったけど愛してくれた。僕が死ねば母上は姉上を憎む。そんな簡単なことが僕はずっと分からなかった……僕のせいで姉上は母上に憎まれることになった」

 母の愛は歪だった。夫も娘も理解できないと現実逃避のように息子に縋った。そういう愛だった。けれど信勝が大切にされたことも嘘ではないのだ。

「ふん、わしはあの人のことなどどうでもいい」

「それでも、僕は、自分の死のせいであなたを苦しめたことにまた一つ気付かなかった」

「……少しはわしのことだけではなく、母上の苦しみを思いやってやれ」

「すみません、それは後で……姉上、気付かないんですか?」

「何に?」

 信勝は自嘲した。

「僕は冷たい人間なんですよ。姉上のこと以外はどうでもいい……母上も権六も、カルデアの仲間たちも、そして姉上も僕を優しい人間だと誤解しています。
 僕は自分のことしか考えられない薄情な男なんです。だから一番大切な姉上が苦しんでいる時に、僕のせいで自殺しそうになった母上のことは考えられないんです」

「わしがいうのもなんじゃが……お前もとんだ親不孝ものだな」

 呆れた信長は弟に手を伸ばす。背伸びをして弟のずれた帽子をなおしてやった。

「でも、それがいけなかったのかもしれません。
 僕は姉上のこと以外、自分の命だってどうでもよかった。そう思うあまり、僕が死んで姉上が苦しむなんて夢にも思わなくなった。
 ……うまく言えませんがそれが僕の愛だった。見返りを求めないでいるのが、自分を大切にしないのが本当の愛だと信じていた。
 でもその愛はあなたを苦しめるものだった。僕が死んでも姉上は悲しまないと思っていた。母上や権六だって僕が死んで悲しむなんてちっとも考えませんでした。
 姉上さえよければいい。その想いが結局あなたを苦しめた。だから、僕は平気で死んだ」

 風で信長の帽子が飛ぶ。信勝はとっさに帽子をキャッチすると風で乱れた姉の長い黒髪を梳いてそっと乗せた。

「僕があなたを愛したり、憧れたりしなかったらよかったのかもしれません。でも僕はどうしても姉上を好きにならずにはいられなかった……ごめんなさい」

「……謝らんでいい」

「姉上が僕の全て。そう思うあまり、僕は姉上の気持ちを考えなくなった。姉上は凄いから僕が考えても意味がないと考えることをやめてしまった。そうして……あなたを置いて死んでしまった」

「……」

「ごめんなさい、姉上、あなたを置いて死んでしまって。そしてその苦しみに今日まで気付きもしないで。僕の死はあなたのせいじゃない、なんて今更僕が言っても無意味ですよね。ずっと苦しめてきたんですから……姉上がずっと自分を責めてたことにすら気付かず理解者面してた」

 信勝がそんなことばかり言うから。
 さっきまで溢れていた怒りが消えて、信長の口からポロリと心がこぼれた。

「ただいてほしい、という願いは分かりにくいのかもしれんな」

「え?」

「これがしてほしいとか、ここが役に立つとかそういう願いの方が理解しやすいんじゃろな。ただ存在することを望んでいるとうのはあまりに漠然としすぎている。
 お前は最後までそれに気付かなかった。じゃがそれはわしの表現が下手なだけではなく、あまりに気付きにくい願いであるせいかもな」

「それでも……僕は気付くべきだった。僕があなたを愛しているなら尚更、愛されていることに気付かなきゃいけなかった」

「なあ、信勝……お前、今は「聞こえて」いるのか?」

「はい……聞こえております。かすかにですが姉上の愛、確かに分かるようになりました。小さな僕が思い出させてくれました。ちょっぴり……恥ずかしかったですが」

 本当は舌を噛み切りたいほど恥ずかしかったがそこは伏せる。

「は? 恥ずかしいって何が?」

「いえいえ、なんでもありません。全て闇に葬ったことです」

「意味不明なんじゃが……あと、あのお前の人形。殴れとか言ってたけどなんじゃあれ? あれ中身は信勝じゃろ?」

 信勝は真面目な顔と照れた顔を行ったり来たりした。

「そのその! 今の僕が姉上に何ができるか必死に考えたのです。そして僕は怒られるべきではないかと思い……だから変態とかではないのです!」

「どーだか……ふん、なぜそう思った?」

 実際、怒り狂いそうだったのだがそこは気になった。

「想像したんです。姉上が僕のために死んじゃったら、僕はどう思うだろうって。きっと悲しくて……同じくらいなんで! どうして!? と怒ると思ったのです。それくらいなら僕も一緒に死にたかったって」

 仮定の話なのに弟はベソをかく。すっと姉の頭は冷えていった。

「そうじゃ、わしはずっとお前に怒りを抱いておった。どうして勝手に死んだりしたのか。だが同時にずっとそれを伝えることが怖かった」

「それは……僕は自分の人生を否定すると予測したからですか?」

「なんじゃ、察しがよすぎて気味が悪いの。そうじゃ……信勝はわしのためと思って死んだ。その当のわしがそんなこと望んでないと言えばどうなる? お前は満足して死んだのに、死後にその全てを否定される。臆病なお前がわしのために命をかけてやったことをこのわしの言葉で全て壊されてしまう。……結局、あの時わしはお前を助けることはできなかった。それなのにわしのために死んだなんてふざけるなと言われれば、お前を二度殺すようなものではないか」

「僕は……自分を許すことはできません。本当にこんな自分消してしまおうかなんて考えが頭をよぎったりしました。でもそれは……かつて姉上に言われた「どんな結果であれ、己の人生を生きよ」という言葉に反しますから。
 僕は自分の人生を素晴らしいとは思えないけど、それでもあれがたった一つの僕の結末だと受け入れています。だからどんなに姉上に怒りをぶつけられても平気です。何度でも気の済むまで怒ってください」

「……お前、変わりすぎ」

「ええ? そんなことないと思いますが」

「結構、気持ち悪い」

「そ、そんな姉上〜!」

「急に落ち着きおって、一体何があったんだか……ああもう。今はもう怒るのは疲れた。肩をかせ」

 信長が坂の草原にどかと座るので慌てて信勝も隣に座る。信長が信勝の肩に顔を埋めてきたので弟は慌てた。

「姉上。その……僕はもう少し僕を嫌わないでいこうと思っています。できればちょっとだけでも好きになりたい」

 信長は目を丸くした。信勝は無理をしている様子ではなくあくまで自然体だった。

「すごく難しいですがひとカケラだけでも好きになってみます。努力は必要でしょうが頑張ります。……姉上に愛されているとわかって考えたんです。僕が僕を嫌いだと姉上は悲しいのではと。多分、カルデアのみんなも」

「……なんでそう思う?」

「僕なりに想像したんです。姉上が自分を嫌いだと言ったら僕はどんなに悲しいだろう。マスターやみんなも僕がこのままだと心配するんじゃないか……僕なりにこのままじゃいけないと思ったのです」

「……」

「これまで僕は自分を大切にしないことが愛だと思っていました。でもこれからは違う。姉上に愛されてるって分かったから自分を大切にすることがこれからの僕の姉上への愛です」

 信長は体を起こして、信勝の顔を見つめた。弟の紅い瞳を覗き込み、そしてそっとキスをした。

「あ、あああ、姉上!?」

「そうしてくれると助かる」

 バケモノの姉の元に生まれてしまったから弟の心は歪み、自分を嫌うようになった。
 自分の弟にさえ生まれなければ人としての幸せを手にできたのではないか。
 そんな風に傷んでいた心のことなど話したことはないのに信勝は何かを掴んだらしい。

(信勝、お前はお前を嫌うな。いっそ憎むならわしにしてくれ。呪うならバケモノの弟に生まれたことにしてくれ。だからどうか自分を嫌わないでくれ……こっそりそう思っていたんじゃがの)

 この弟はどこまでも姉の予測通りにいかない。
 でもこの予想外は嬉しいものだった。

(わしが想う百分の一でいいから……自分を好きになっておくれ)

「僕なんか」「馬鹿」「間抜け」「無能」「生きていても仕方ない」。
 大切な人にそう言われるたびにずっと悲しかったのだから。

「信勝、もう一度聞く……あの頃、わしがお前が好きだ、そばにいてくれと言われれば死ななかったか?」

 信勝はじっと信長の顔を見つめると目を閉じた。

「はい……姉上が好きだと言ってくれれば僕はどんなことがあっても死を選びませんでした」

「じゃろうな……そうじゃよな」

 信長は胸に手を当てた。やはりたった一言で全て変わったのだ。心臓に痛みはある。けれど頭の中は穏やかだった。

「僕のせいです、姉上のせいじゃありません。なんて……言っても気は晴れませんよね。僕の本心だとしても」

「……ああ」

「でも是非も無いことです。そういう時代だったのです。姉上も口に出す性格じゃなかったしそれが僕の選んだ結末だったのです」

「なんじゃ、人の口癖を真似しおって」

「明治維新で再会した時に姉上が言ったのですよ。そういう時代だった、是非もない、と。ほら、僕たちの時代はあまり好きだとか伝えない時代だったじゃないですか。それもまた時代のせいです、よね?」

 目を開いて信勝が苦く笑いかける。信長はその頬に手を伸ばし、素手でその温かさを確かめる。
 幻の世界なのに川辺には昔のように赤とんぼが夕陽を受けながら飛んでいた。

「信勝のくせに生意気じゃ」

「あの、姉上、姉上! そのあの……これからはずっとおそばにおります。それこそ、生前の僕ができなかったことですから」

 信長は何度目を丸くすればいいのか。一番欲しい言葉をくれるなんて。

「……ほんに急に生意気になったことよなぁ」

「姉上、僕たち……ひどく遠回りしてしまいましたね。僕さえ気付けば全ては最初から最後まで全ては僕たちの手にあったのでしょうか?」

 過ちも後悔も変わらずこの胸にある。
 けれど故郷の夕焼けの空を見て、心がとても自由なのだと感じた。
 信勝を失った悲しみは永遠に消えはしないだろう。ただ、自分への怒りはかなり薄らいでいた。

「いいや……わしらは本当に馬鹿な姉弟さ。卑弥呼たちのように賢くはいかない。こうしかなれなかった……これで是非もない」

 信長と信勝は二人で夕焼けの下で手を取って、帰る場所へと歩き始めた。

 こうしてバケモノの姉とヒトの弟は並んで歩く事ができた。






エピローグ「むかしの話 墓参り」




 灰色の墓石の前に白い紙で包んだ赤い花を置く。もう墓参りには行かないつもりだったが、思ったより長生きしてしまった。

「信勝、久しぶりじゃな」

 そう言うと信長はしゃがみ小さな墓石に両手を合わせた。少し口元に笑みが浮かぶ。神仏の敵と名乗っているのに弟の前でだけは手を合わせるとは滑稽だろうか。誰もがこの身を化け物という。人の形をした人ならざるものだと自分でも思う。

(だがわしは信勝の前でだけはヒトだったのかもしれん。小さくてうるさくて……かわいいものだった。本当の意味では理解し合えなくてもそばにいるといつも春のようだった。そんな気持ちはお前にしか感じなかった……お前が謀反を起こすまでは)

 信勝を殺してしまった。それは故郷を守るためと信勝自身も覚悟していたことだ。けれど信長はずっとそのことを後悔していた。後悔の自覚さえ最近になってだが、そんなヒトの感情を持ったことに驚いた。

「お前だけは……わしをヒトにしたのかもしれん。わずかな間でもお前の前ではただの姉だった。だから……どんな形でも生きていてほしかった。今でも思う。あの夜、わしが出奔すればお前が織田を治めて何もかもうまくいったのではと」

 無論、それは夢想だ。
 信勝ではあの時代に織田を生かすことはできなかっただろう。
 あんなに信勝が守りたかった故郷を守ることは不可能だった。だから信長が引き継ぐしかなかった。

(あれから一族は増えた。わしの実子さえいるぞ。養子なら孫もいる……化け物のわしなりにヒトのフリをして接することができたと思うか?)

 信勝の死後、信長は「もし信勝が生きていたら」という形で親族に接した。それは信勝の喪失の穴埋めだった。もし信勝を生かすことができていたらという前提で親族を信勝のように扱った。だから身内に甘いと言われたが実態は取り返しのつかないことを追いかけていただけだ。

 もう一つの意味では「信勝ならこうするだろう」という行動の模倣だった。信長にとって信勝はもっともヒトの美しい部分を体現したヒトだった。猫どころか虫が死んでも泣き手を痛めても自分で墓を掘る。途方もない信長の話を何度も真剣に聞いてくれた。何度も乱世の死に悲しみ、戦に心を痛めていた。あれがヒトの美しさなのだろう。

 お市のことはまだ心が痛む。「きっと信勝なら」夫の浅井長政が裏切ったとしても妹のために夫を生かそうとするだろうと何度も長政に交渉の使者を送った。結局、長政は死んでしまったが……。

(どうじゃ、わしの「ヒト真似」は? わしは「聞こえない」。我ながらヒトではあるまい。それは理解している。それでも……お前という弟がいたなら少しはヒトの真似ができたと思うか?)

 当然、墓石は何も答えない。信勝が生きていたらどう思うだろうか。故郷を守ることができたことを喜ぶだろうか。

 サラサラと風が吹く。こんな気持ちは久しぶりだ。安土城が完成したからだろうか。故郷に帰ることはめっきり減ったが戦のない世はやっと見えてきた。あの優しい信勝ならそのことをきっと喜んでくれる。

「ま、そんなこともないか。なにしろわしは神仏を焼く魔王じゃからな。それでも……お前ならそんなモノにも優しいのか?」

 信勝はヒトだった。そしてそれがヒトならばと信長は決して分かり合えなくても、ヒトを愛そうと思って生きてきた。信勝の優しさがヒトの美しさなら、どんなに乱世で醜くなったとしてもヒトが好きだ。バケモノがヒトを愛したっていい。

 そんな風に二度目の墓参りは穏やかに過ごせた。いつも感じる自責の念もわずかに忘れることができた。……そして、その数ヶ月後、信長は本能寺の変でこの世を去った。







……「ええ、信勝はいつだって姉上の味方!!」……

 そして死後、信長は知る。信勝は自分が思っているような優しいヒトではなかった。
 自分のためにたくさん人を殺して当然だと言った。弟自身も死んで当然だと笑って言ってのけた。
 ヒトの美しさとはなんだったのやら。

(わし、こいつを美化しすぎてたんじゃろか)

 故郷のために死んだという信勝の言葉は嘘だった。尾張を守るために尽力した自分は一体なんだったのやら。それでもそれがなければ今の自分はないと分かる。

 姉を崇拝して自分も他人も殺す。とても優しいヒトだとはもう思えない。それでも弟の「永遠に子供の頃でいたかった」という願いに「それでもやはりこれはかわいかった信勝なのだ」と思った。

 弟は明治維新で消えたはずなのに、何度も姉の前にまた現れた。

(何度か話すか迷った。だが悲しいとは言えなかった)

 どうして死んだのだと言って信勝が生きた意味を否定することが怖かった。そのために生きて死んだことはもう取り返しがつかない。それなのに死後「そんなことよりただ生きてくれれば一番嬉しかった」などと告げられるなどあまりに酷ではないか。

(言う必要は無い。そもそもあの時期、わしが無気力だったせいではないか。悲しいのも寂しいのも自業自得だ……信勝がわしを魔王の道に導く礎になったことを誇りに思っている。もうそれでいいではないか、今更台無しにする必要はない)

 それでも夢想した。
 もしも悲しいと言って信勝が人生の意義を否定することなく、ただ信長の悲しみを受け止めてくれたら、と。
 もう少し信勝が自分自身を好きになって様々なものを受け止められるようになったら、母に罵られても癒えなかった痛みが軽くなる。

「ま、所詮、泣き虫の信勝じゃし、ありえんか」

 そんな日は来ないと諦めてきた。このままずっと悲しかったと一番の気持ちは伝えられないまま、カルデアの日々は終わる。それでいい。また会えただけで十分だ。

 そう思っていたのだが。






つづく











あとがき




 次回最終回です。

 劇場版ルックバックを観たら結構内容が変わってしまったでござる。やはり物語は見たものでできている。

 ノッブは自分の一番のファンであるカッツを失って、それでもそのファンのために生きねばならぬのだな。京本を失った藤野が「あれ、京本が死んだの、私のせいじゃん……?」となるのは理屈とかは全くないのですが(犯人は明確に別なので)、大切な人を失った人間の思考は正気じゃないので、ましてや直接殺害に関わった信長が「信勝が死んで悲しい! 殺した奴が憎い! でも殺したのは自分だから悲しむ資格なんてない! 悲しいと思ってはいけないという罰を与える!」のループに落ちるのも宜なるかな。

 ノッブが封じられた結界はぐだぐだイベの「経験値先生版の失意の庭」を見た時に考えたものになります。と言ってもそれは沖田さん向けで「そんなんじゃ沖田さんは倒せないに決まってるだろ!まず山南さんを百人斬らせろ!家族を殺させろ!斉藤さんも土方さんも近藤さんも斬らせろ!そしてその上で平然と立っている自分に絶望させるんだ!自分は大切な人を殺してもなんともないバケモノだと思わせろ!私ならやれますやらせてください!」みたいなののノッブアレンジバージョンとなります(悪逆)。




信長

 チートキャラに近いノッブをこういうトラウマ手法で書くのはかなり勇気がいったのですが、今回だけは「魔王だけど、信勝に対してだけは人一倍ヒトらしい心を持っている、ずっと後悔している姉」をフルスロットルにして書き切りました。元々、そういう話なので夫婦ごっことかしてるわけで必然だったのです、はい。と思っていたけど「バケモノというか別生物だけどヒトを愛してしまった」みたいな路線になりました。

 信長が信勝に対して「自分のせいだ」と思うのは真相聞くと「ちゃうよ」ってなりますが、ルックバックの藤野が「あれ、京本が死んだのあたしのせいじゃん」となってしまうようにその辺は理屈じゃないんだと思います。大事な人を失った悲しみは人をおかしくする。


信勝

 変態の話。この話の信勝は自分のことを変態とは縁もゆかりも無い清純派だと思っています。私は変態だと思っています(盗難茶碗をスキルで使って舐め回しているわけなので)。

 これからは贖罪の道をいくしかないんですが、その贖罪内容が信勝にとって望んでいたものであることが罪悪感を生むでしょう(ノッブはこれからは一緒に楽しく過ごしたいって思ってるので)。


 2024年8月24日