信勝のバレンタインワンダーランド
信勝はとぼとぼと夜中の廊下を歩いていた。夜一時、ノウム・カルデア、そのキッチンへの道。いつも賑やかな廊下は消灯時間で誰もいない。夜中のキッチンの使用許可は貰ってある。
信勝の目の下にはクマができて、足下もふらついていた。
「今日こそ最高のちょこれいとができるはず……」
明日はバレンタインだ。起源や各国の文化は置いておいて、マスターの知るバレンタインは「想いを寄せる人、もしくは日頃お世話になってる人にチョコレートを贈る日」だ。そのイベントを知った信勝は姉に愛と感謝をこめてチョコレートを作ることにした。
贈る男女が逆だったかもしれないが、世界は男と女、より、世界は姉とそれ以外の信勝にとってはさして重要ではない。この世のものは全て姉に献上されればいい。
しかしチョコ作りは難航して、こうやって前日の夜まで徹夜をする羽目になっている。
信勝が特別に不器用なのではない。最初はひどかったがキッチンでエミヤとブーディカの手伝い(今回は大量の人参と大根の皮むき)をする代わりに見慣れぬ西洋菓子を湯煎するとこから教えて貰った。冷蔵庫に入れたハート型のチョコはちゃんと固まり、マスターの住む日本の高校生ならラッピングすればそのままバレンタインに贈れただろう。
だがその程度で満足してはだめだ、姉はすごい人だからすごいものを作らないと受け取ってもらえない。
「亀くん、僕はもうだめかもしれない……」
邪馬台国で世話になった亀と時折夢で再会した。昨日も夢を見て、何か話をした気がする。心を開くのが苦手なせいか、亀に会うとよく愚痴を言ってしまった。昨夜の夢ではチョコレートの話をした記憶がある。熱弁する信勝に亀は渋い顔をしていた。
……『信勝殿、それは×××ですぞ』……
彼はなんと言ったのだっけ? 夢の内容は目が覚めるとほとんど忘れてしまう。覚えていると卑弥呼には簡単に内容を伝えていた。
(ちょこれいと、どうして思った通りのものができないんだろう?)
あまりに信勝が目を血走らせては現実に打ちのめされ続けるのでエミヤは生チョコレート、ブーディカはブラウニーの作り方を教えてくれた。それはそれなりにできたのだが姉に捧げていいほど素晴らしいとは思えない。信勝は満足せず、ここ一週間はキッチンの傍の倉庫で仮眠しかとっていない。
金の茶室にもろくに顔を見せていない。一度キッチンで立って眠っている所を探しにきた茶々に発見され、茶々に頼まれた森長可に抱えられ連れ帰られた。目を覚ました信勝はさすがに謝った。
「姉上が欲しいと思うような、一番いいものを作らないと……」
姉は素晴らしい人で信勝はその弟ということ以外なにもない存在だ。渡すなら世界一でなければきっと受け取ってもらえない。
連日の疲れでふらついていたが、やっとキッチンについた。決戦は明日、気合いを入れるために両手で二回頬を叩いてドアを開くと……。
「って……うわあああああああああああ!?」
そこにあったのはキッチンではなく虚無で。
信勝は真っ暗な闇の中に落ちていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
信長は机に座って悩んでいるようだった。机の上にはペンと真っ白な封筒と便箋があった。指先でペンを回し、頭をかき、肘を突いて文字を綴った。
「……違う、これも違う」
不服そうに書いた便せんを丸めてゴミ箱に放り投げるを繰り返す。そうして疲れ、ため息をつき、考え込むと手を止める。しばらく休んでいたが、また何かを書いてはゴミ箱へ投げた。
「まったく……どう書けばいいものか」
(姉上、どうされたのですか?)
闇に落ちた信勝はズレた次元からそれを見ていた。疲れているようなのに姉は何度でも机に向かって書き続けた。
(悩みがあるなら仰ってください、僕が何とかして見せます。それが人なら殺します、ものなら壊します。だからそんなに悩まないでください)
次元を越えた声は届かなかった。
【魔王とチョコレート・フォンデュ】
ぼちゃんっ! という音ともに信勝は熱い水の中に落ちた。
いやこれは水ではない、飴のようにねっとりと全身に絡みついてくる。ごぼと酸素を吐いてしまい、酸欠になる前に脱出しようともがくがさらに沈んでいく……と突然誰かに足を掴まれ、引き上げられた。
「なんじゃ、誰かと思ったら信勝か」
「ごぼごぼ……げほ、お、大きな姉上!?」
信勝を助けたのは魔王の信長だった。赤い外套と紅の髪を翻し、逆さまに沈んでいた弟の足首をつかみ甘ったるい液体から引き抜く。相当深い壷におちたらしい。なにしろ164センチある信勝がまっすぐ頭から足までつっこんだのにまだ底に頭が到達しなかったのだから。
逆さまから妙な柔らかさの床に下ろされると頭に上った血が落ちてくらくらする。まだ飲み込んでいた甘い液体を姉の前なのに吐いてしまった。
「げほ、げほっ……本当にありがとうございます、死ぬところでした」
「バレンタインにチョコレートで溺死してたら洒落にならんぞ」
「ちょこ、れいと……?」
周囲を見回すとそこはチョコレートの世界だった。座り込んだ床は巨大な板チョコで、真っ暗な天井からチョコレートキャンディがばらばらと降ってくる。チョコレートケーキの山からチョコレートの滝が流れ、その川の先にいくつかチョコ壷があり、チョコレートフォンデュが溢れている。
どうやら信勝が落ちたのはその壷の一つらしい。道理で浮かび上がれなかったわけだ。
「ここは、ちょこれいとの世界……姉上はこれは一体?」
なぜか魔王は目をそらし、話題も逸らした。
「そんなことよりお前、姿が変わっておる。再臨とやらか?」
「え?」
信勝は自分の身体を見返してチョコまみれだがたしかに黒い衣装に変わっていることに気がついた。キッチンに着いたときは確かに軍服姿だったのに髪も魔王の姉と一緒の紅色になっている。
魔王は弟の頭からチョコの欠片を落とすとその髪を一束とって愉快そうに笑った。
「この姿の信勝は面白いな、髪が我と同じで炎だ。色も同じだし、内側で火が燃えている気配がする」
「本当ですか? 姉上と同じなら嬉しいです」
「でもマントと全身黒タイツって微妙ではないか? 赤とか金とかでごてごてしてるし、第三再臨はどういう路線じゃ?」
「姉上が微妙な全身黒タイツだなんて! 第三再臨はもちろん大きな姉上リスペクトです。たとえ微妙な服でも姉上ならお似合いです、いつだって絵にも描けない阿鼻叫喚地獄絵図です」
褒めているのか貶しているのか。よく分からないのでとりあえず魔王は弟の頬をぴっぱっておいた。
「えへへ、いてて……姉上、ここはどこなんですか?」
「あー、うん……ダ・ヴィンチやマスターにはいうなよ、小遣いを減らされる」
「絶対言いませんよ、言ったら射撃の的にしてください」
「実はキッチンを使ったら、空間が炎上してしまった」
「えっ?」
コンロとかではなく、空間が?
「明日はバレンタインだし、チョコでも作るかとキッチンで火を使ったらうっかり異界に繋がってしもうた。前もカップラーメンを作ろうと湯を沸かしたら、炎上本能寺に繋がったから気をつけておったんだが」
「さすが姉上! 思いつきの調理で破壊の限りをつくすなんで常人には真似できない悪鬼羅刹のようですね!
で、でも聞き捨てなりません! だれですか、姉上のちょこれいとをねだった輩は!? 即刻毒を……」
一言もねだられたと言っていないのに妄想が激しい。
「あ? えーと……お前だ」
「え?」
実は誰に作るつもりではなく作ったら考えるか、まあマスターかな、と思っていたのだが弟が毒殺の準備を始めているので気を削いでおく。どちらしろ多目に作ったら渡すつもりだったのだ。
「なぜ驚く、家族や兄弟にはやるものらしいぞ」
イベント好きの魔王には挨拶。しかし軽いノリはブラックホールレベルで愛が重い信勝には通じなかった。
「えっ、えっ、姉上が僕にチョコ……えええええええ!?」
信勝は衝撃でベタに顔を真っ赤にして、夢か確かめるために人差し指を思いっきり噛み、めちゃくちゃ痛いので飛び上がって、地面を転がるとチョコの川に落ちた。
「あねうえ~!」
また溺死しかけたが、今度はフォンデュ用の巨大バナナが流れてきたのでなんとか掴まっていると魔王が助けてくれた。大量の火縄銃で川ごと吹き飛ばすという第六天魔王さながらの方法だったが、とりあえず吹き飛んだ信勝は無事ガトーショコラの山に無事突き刺さった。
ケーキの山から引き抜いた弟の背中をさすってげえげえチョコレートを吐かせる。窒息死は避けられそうだ。
「姉上、なんどもすみません……げほ」
「気に病むな、我の産み出したちょこれいとで死なれても目覚めが悪い」
「えええええ!? これ姉上のチョコなんですか!? いやです吐きません、むしろ吐いた分ものみこ……げふっ!?」
「こんなに作っておらんわ、いいから吐け」
腹に鋭いボディーブローを食らった信勝は飲み込んだチョコレートをほとんど吐き出した。
「まったく我が業とはいえバレンタインとは恐ろしい。本能寺がチョコまみれとか、いくら我でも若干引く」
「もったいないもったいないもったいない……えっと、ここって本能寺なんですか?」
「……たぶん、空間燃やすとだいたいそうだし」
若干自信なさげ。
火を使うとたまに炎上空間ができてしまうこと説明する魔王に弟は不思議だった。ここは炎上空間にも、図書館の資料で見た本能寺にも見えない。
「お前が落ちてくる一時間前から我はここにいた。また異界を開いたにしては菓子まみれじゃ、何が起きたのかと考えておるとお前が落ちてきた」
「僕もキッチンに夜中入ったら落ちていました。同じ場所ですし、姉上の作った世界に僕も落ちたと考えるのが妥当でしょう」
「夜中? 我がキッチンにいたのは昼過ぎだったが」
「ええ? うーん、時間もねじれているとか」
「というか、夜中に何してるんじゃお前は」
「なにってそれはもちろん、姉上のチョコを作るために。もちろん三人分」
「お前が我らにチョコレートを作っておるのは知っておる。しかし作り始めたのは大分前じゃろ、なぜ前日の夜中までつくっとるんじゃ」
「もちろん、いいものを作るためです。僕は馬鹿だから時間と労力をかけないと姉上にふさわしいものがつくれませんので。お陰で姉上にもちっとも会えなくて……あ、姉上というのは小さい方の姉上でして、一番僕が知っている姉上で」
魔王は目を見開いて、鼻にトンボが止まったような顔をした。
「それだと、いつもくっついてるお前がいなくてあやつつまらんのではないか?」
「そんなまさか、小さい姉上は僕が嫌いだからいない方が清々していますよ」
なぜか曇りない笑顔だった。
「あやつが嫌い、お前を?」
「はい、いつも避けられてますし、うっとうしいと思っていると……嫌いというと僕なんかが大げさですかね? どうでもいいんだと思います」
「ほーん?」
自分の知る限り軍服姿の信長は信勝を嫌ったことなどない。ただ一つ一つの可能性の内心を全て知っているわけではなく、結局は傍目に見た態度くらいしかわからないが……。
「どうでもいい僕が近寄ってくるのはさぞ目障りなんだと思います。昔からそうなんです、僕が好きな本は姉上と違うし、得意なことも違うからだんだん遊ぶ回数が減っていった。それに姉上がやる新しいことにどうしても馴染めなくて、追いつこうと思っても転んでばっかりで、だんだん会話がなくなっていって……」
「いや、あのな、あの頃は父上が戦にお忍びでな。それでよく尾張にいなくて替え玉で仮病を」
数多の弟の一人の誤解を解こうとしたが無駄だった。
「ほんっと姉弟でよかったです! 血縁でなければとっくに僕なんて撃ち殺されてますよ。姉上は身内には情が捨てられない人ですから、嫌いな僕でも時折優しくしてくれるんです」
「ちなみにどのへんが嫌われていると思うのだ?」
「え? 傍にいるといやそうにしてますし、一緒にいるとうっとうしいと言われて、あとは食事の時に隣に座ると走り去っていきます」
「うーん」
「そんなに嫌いなのにこの前は晩ご飯を一緒に食べてくれて……感動で涙がでました」
「だんだんどっちが悪いかわからんくなってきたの」
「なんの話ですか? えっと、だから僕はちょこれいとは最高のものを作らないといけないんです。嫌いな人間の菓子でも価値があれば口にしたくなるかもしれませんから!」
「なるほど、原因が分かった」
元凶というべきか。
信勝が首を傾げていると「せっかくだから本能寺にいくか」と手招きされた。
本能寺と言われても道が分からない信勝の手を魔王は握って引いてくれた。
「姉上、これいいんですか!?」
「なんじゃ昔はよくこうして歩いておったろう」
「で、でも手があたたかくて、やわかく……あ、いえ、特にやわらかくはないですが」
「戦場だらけで生きて、手が柔らかいわけなかろう」
刀や銃のタコだらけで手のひらが堅い。だからといって姉に触れて平静を保てる信勝ではない。
「この手は一生洗いません!」
「チョコを作るならちゃんと手を洗え、ほら本能寺が見えてきた」
繋いでいないもう一つの手で指さす先には燃える建築物があった。周囲は変わらずチョコレートだが、そこだけ禍々しく炎が揺れている。
本能寺の入り口までくると流石に炎で頬が焦げるようだった。不思議な建物だった、ずっと燃えているのにちっとも焼き崩れたりしない。
(そうか……異界とはいえ、ここが姉上の死んだ場所なのか)
そう思うと知らず涙が出た。慌てて拭うが魔王はじっとそれを見ていた。
「は、はやく行きましょう。姉上、いったいここに何が」
誤魔化すために入り口の階段を上るとぐちゃりといやな感触がした。
足下を見るとそれは切断された人間の腕だった。信勝悲鳴を飲み込んでその場を飛び退くと人間の首の山だった。たまらず口を押さえて悲鳴を押さえた。
「ああ、なんだ……ここはそのままなのか」
乾いた声で聞こえた姉の声にここが本能寺だという意味が信勝にもじわじわと染み込んできた。
「すまんな、本能寺といったが現実の本能寺ではない。ここはな衆生がおそれる第六天魔王にふさわしい場所だ。我ならそういう場所にいるに違いない、そう願われ、我が至った場所の一つ。そういう場所にうっかりすると繋がってしまうのじゃ」
「ここは……姉上が殺された場所で、姉上がこんなことするわけ……」
ないという言葉をまた手で飲み込んだ。尾張で死んだ信勝がその後の信長の何を知っているというのか。どうして第六天魔王と呼ばれるようになったのか。
首の山の前で涙と吐き気をこらえる信勝の肩を魔王は支えた。ああ、いつもの死体の山がある。自分には馴染みすぎて気がつかなかったが、弟の性質には合うまい。
「そう自分を嫌うな、お前のそういうところを我は好ましく思っておる。どうあがいても平穏が似合うのがお前だ」
「だからいやなんです……姉上はそうじゃないのに」
それでも魔王の本心だった。弟の本質は平穏、時代に合わない子だった。戦乱に望まれて生まれたような魔王は弟の正反対の性質が好きだった。けれど弟は自分が嫌いだった。
「平和とかそういうのじゃないです……単に僕が弱いってことでしょう」
「我は戦乱を生きたが、平和が嫌いなわけではないぞ。うつけと呼ばれたままのんきに生きるのも楽しいだろうさ」
「せっかくカルデアにこれたのに、姉上の傍で戦えるようになったのに、僕がこれがだめです」
血を怖がり、痛みに弱く、動物の死に涙する。平穏になじみ、戦場に馴染めない自分の性質が昔から嫌いだ。
「それでも我も変わらぬものが好きだからな。ほら、だからお前にもバレンタインの贈り物を作ったのだぞ、カルデアに帰るまではお預けだが……ああ、お前が来たから世界が変わっていくぞ。戻っていくともいうが」
外の指さすとチョコレートは炎で溶けて消え始めていた。その隙間から多くの髑髏たちがこちらを覗いている。呪いの声が聞こえる。
……「オノレ、ノブナガ、ウラギッタナ」「ダマシタナ、クチオシヤクチオシヤ」「マオウ、カゾクヲカエセ」「シュクンヲ、コロシタナ」「ノロワレロ、ダイロクテンマオウ……!」……
「……」
その声の全てが信長の真実ではない。
けれどいくつかは事実なのだと悟った信勝は本能寺を囲んでいる骸たちを見た。
階段を上がろうとした骸が姉に手を伸ばしたので、慌てて弟は飛び出した。けれど触れる前に骸は燃えて灰になってしまった。
「お前が死んだ後起きたことを知って……我が嫌いなったか?」
魔王は少しだけ寂しげだった。
「いいえ、なにがあっても……僕は姉上が世界で一番好きです」
「ふ、ははははは。そうか、そうか……そうだそうだぞ?」
「姉上……?」
燃える本能寺に向かって言葉を放つ姉は弟ではない人を見ているような。そんな馬鹿な、この空間には二人だけのはず。
「ここには我が招いたもの以外入れん、死体以外は全て炎に焼かれるのみ……ついてこい」
魔王が炎の中を進むので弟はその背中をおった。髪が燃えるとか、肌が熱いとかどうでもいい。その背中を見失わないことがどれほど大変か。
燃える本能寺の広間にでる。建物の大きさを考えると中央に近い場所だ。すると魔王は足を止め、なんとも微妙な顔をした。
「こんな所にまでちょこれいとか」
姉に追いつくと確かにそこにはチョコレートがあった。黄金髑髏をかたどった一メートルほどの高さの壷から煮えたぎったチョコレートフォンデュがどろどろと溢れていた。
魔王がそれを凝視しているのでふと思いつく。
「もしかしてこれが姉上のちょこれいとですか?」
「信勝、お前は我にお返しとやらを用意しているのか?」
「当たり前ですよ、というか僕たちの場合は交換になりますね。もちろん更にお返ししますね」
「いらん……いいか、忘れるな。贈り物は贈って、返礼を受け取ることで完結するのだ」
「は、はい、えっとメモを……えっとなにが完結するんですか?」
マントからメモを取りだそうとする信勝は宙に浮いた。魔王は弟のマントの後ろの首根っこを掴んで高々と持ち上げた。
「それでじゃあな、信勝、またカルデアで……それと我はお前が嫌いではないぞ」
何か返事をする間もなく。
信勝はチョコレートフォンデュの中に突き落とされた。
【信長の悩み事②】
「なにをふてくされているんですか?」
「別にどうもしておらん」
金の茶室で信長は将棋をしていた。相手は沖田。基本的に信長の方が強いのだが、昨日から負けが増えている。
「味見させてくれと言えばいいじゃないですか、無視のふりなんてうっとうしいですよ」
「それじゃあっちの目論見が台無しじゃろ、隠してるつもりなんじゃぞ、あれで」
「おや意外です、実は親切心だったんですね。てっきい私は刑部姫さんが教えてくれたツンデレってやつかと」
「知らんのか、ツンデレにデレはいらん」
「それって現実だとかえって恥ずかしいやつですよ、胸に秘めたままのデレって」
「わしはもとよりツン百パーセント、デレなどもとより存在せん」
「もはやこの茶室で信勝君の失敗チョコを食べてないのノッブだけですよ。みんななんだかんだ覗きに行ってるんです。土方さんがこれは沢庵に合わないとかダーオカがこれはまずいうまいっていってるのに、まだノッブが食べてないなんてパラドックスです」
「この茶室は暇人しかいないのか」
「最終的に出来るチョコトトカルチョではノッブの彫像チョコがオッズ一位です」
「おいまて、なに賭けておる。胴元を教えろ」
その時王手と信長の王が取られる。今日は先に二回勝ったので、沖田の勝ちで終わらせてやる。そのまま別れてと自室に戻る。しまった、胴元を聞き出し損ねた。あとで以蔵あたりにカマをかけてみるか。
「……なんでこんなに時間が掛かるのか」
鍵をかけた自室の机の上には未使用の便せんが折り重なっている。ゴミ箱には大量の丸めた便せん。部屋の鍵はあるとはいえ部屋にやってくる事も多い沖田に見つかるとツンデレの証明書にされるからあとでシュレッダーにかけておこう。
「勘違いするな、わしはツンデレではない」
声はのぞく。
一時は日の本の大半を支配した魔王は欲も愛など知り尽くしている。これはちょっと久々の手書きの字の書き方にこだわりが出ているだけ……ぶつぶつとまた信長は便せんに文字を書いては握りつぶし、また新しい便せんにインクを走らせる。それを繰り返すうちに少しずつ夜は更けていった。
「まったく、バレンタインなんぞあるからこんな目に……菓子業界の陰謀じゃろ、あほらし」
茶請けのチョコレートをばくばくと食べる。せっかくだからあらゆる種類のチョコレートを買い込んだ。今日は溶かしたチョコに果物を突っ込んで食べる凝ったものだ。
(あまり味が分からん)
元々南蛮菓子は好きなのに、胸に妙な風が吹き込んであまり味が分からなかった。
腹が立って気分を変えてレモネードを買いに行くと売り切れていた。まったく散々だと金の茶室に戻ると誰もいない。当然信勝もいない。
(最後にあいつと話したのはいつだっけ?)
その時思い出した、信勝に嫌いだと言ってしまったことを。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
バレンタインのちょうど一週間前のこと。信勝は夜中に傷だらけで帰ってきた。火傷に切り傷、服全体が焦げている。どんな戦闘をしたそうなると眉をひそめているとにこにこ近寄ってきた。
「姉上! 信勝ただいま戻りました!」
「なんじゃその手は、焦げておるぞ」
「そ、それは言えません! 内緒です!」
来週のバレンタインだろうと弟の頬についた溶けたチョコレートの欠片で察する。生意気にサプライズを企んで、手作りチョコとか面倒なことを考えているのだろう。これでも大名の子息だ、チョコレートを直接湯につっこむとか、まな板ででチョコレートを砕くなど奇っ怪な調理をやって火傷をしたに違いない。
「そのくらいカルデアの医務室にいけばすぐ治るだろう、すぐいってこい」
「こんなのどうでもいいですよ。そんなことより姉上は……その、ちょこれいとってお好きですか?」
くっついてくる信勝の手が信長のマントの飾りに触れると小さな傷から血が付いた。まだ少しだけ血が流れているのに放置されて、うっとうしいとその手を振り払うことすら忘れてしまった。
「姉上は南蛮のものがお好きですか、ちょこれいともお好きですよね? そのまま食べるのが好きですか、それとも焼き菓子とか……もしかするとアイスですか?」
「おい、まずその手をどうにかしろ。ナイチンゲールの前に叩き出すぞ」
「ちょこれいとお好きですか? どうしても気になって」
信勝は傷に気がついていないらしい。信長のマントが少しずつ血のシミが増えていく。信勝はハイになっているらしくいつもより大胆な口をきいた。
「そ、その、おいしいものを用意したら姉上は僕が少し、好きになって……もらえたり……し、しませんか!?」
「嫌いだ」
「……え?」
「いい加減にしろ、お前のそういうところが嫌いだ!」
信勝がなにか言った気がしたが。
その時の信長は弟を引きずって深夜の医務室に行くことしか考えられなかった。怒りで言ったことなど忘れた。
ただの言葉の行き違い。信勝にも非がある、けれど弟はそれ以上何も言わなかったから姉も何も言えなかった。
キッチンから帰ってこなくなったのはその日からだった。一度投げてしまった言葉は戻らない。顔を合わせれば違うと言えるのに、結局この姉弟は自分からその機会を避けてしまった。
【吉法師と鬼退治】
「だから誰なんですか姉上、そんなに悩ませているのは~~~!?」
チョコ壷に突っ込まれて気を失ってるとまた信長の白昼夢を見た。詳細は分からないが、誰かのせいで悩んでいた。姉を困らせる不届きものへの怒りを叫ぶと目が覚めた。
(また息が出来ない、というか深い深い! 海か!?)
どぼんとしゅわしゅわした液体の中に落ちる。肴のようなものが頬をかすめた。さっきのチョコレートはどうしたのか、何も分からないままじたばたと水の中を落ちていく。
海? いやこの水は甘い? さっきと違って目を開くとかすかに視界が開く。するとすっと手が伸びてくる。
「おい、しっかりしろ!」
「ごぼ……お、男の姉上!?」
沈む信勝の腕を助けたのは織田吉法師だった。小降りの船に乗っていて、海面でじたばたした腕を甲板に引き上げてくれる。
「いや、俺は性別不詳だし」
「げほっ……それは僕が確かめてもいいってことですか?」
「宇宙が滅亡しても断る」
それでも吉法師は海水を吐き出す信勝の背をさすってくれる。妙に身が軽いと不思議に思うとまた再臨が変更されて水着姿になっていた。
「なんだこの海……塩の味がしない?」
「そりゃそうだ、レモネードだからな」
「は?」
当たり前のようにいう吉法師は白地に赤ストライプのキャンディーで出来たオールを手にしていた。周囲を見回すと世界は一変していた。どこまでも広がるレモンスライス一杯のソーダの海。
浮くはずがないのだがホワイトチョコレート製の小船に二人が乗っている。カルデアの子供組が喜びそうな市松模様の甲板にはいくつもキャンディーが生えていた。
なんだここは、大きな姉はどこにいったのだろう。チョコレートの本能寺は?
「鬼ヶ島に行く途中なのに猿も犬もいないと思ったらお前がいるなんてな」
「鬼? ……その、僕は大きな姉上の炎上空間に迷い込んでしまって、気がついたらここに」
「魔王の俺がらみか?」
複雑そうに天を仰ぐ吉法師は当然のようにレモネードの海をキャンディーのオールで漕いだ。
「姉上、鬼ヶ島ってどういうことですか?」
「いや、目が覚めたら妙にメルヘンな空間にいてこちら鬼ヶ島って看板に沿ってきただけだ。そもそも何で俺たちの夢の中にお前がいるんだ?」
「夢? ……これって夢なんですか?」
「知らなかったのか? まあ、俺じゃなくて数多の俺の誰かの夢だけどな」
これが現実に見えるか? と指さす先にはレモネードの海の上で七つの虹が架かっている。スライスされたレモンが魚の形となってじっとこちらを見て、マシュマロのクラゲが半透明のゼリーの触手を伸ばしている。
「あれが鬼ヶ島らしいな、俺もよくわからんが時が来ないと夢がさめないから暇だった」
更にその先には角を生やした形のホワイトチョコレートで出来た島がある……なるほど、夢だ。さっきのチョコレート本能寺も、ホワイトチョコの鬼ヶ島も夢と言われれば納得しやすい。
「サーヴァントは夢を見ないでは?」
「夢というと厳密には違う。まあストレスだな、それが俺たちの間でだけ夢のような形で共有される」
「つまり、姉上たちはいつも夢を共有しているのですか?」
「いつもじゃない。激しい感情が漏れるとたまにこうしてほかの誰かが巻き込まれる。これだけ飲み物があるならすっげー喉でも乾いてるやつでもいるんだろ」
「そういうものですか?」
「このアヴェンジャーの身のからくりは俺もよく知らんがな、そういうことがある。まあ目が覚めるとだいたい元通りだ」
どの信長かが強く願っていることが夢に反映されるらしい。吉法師としてはこれだけ飲み物があるなら誰か乾きを感じているだろうと。
まだくらくらするので甲板に座り込んだまま水着にしみこんだレモネードを絞る。そんな信勝に吉法師はにやと軽く笑った。
「ははーん、さてはお前、あいつと喧嘩でもしただろ? 軍服着たお前の姉上と」
「なんでですか、してませんよ」
「きっとここはあいつの夢だ、夢に他者が迷い込むなんてそいつが原因な時くらいだ」
「ありえませんよ」
謎の自信で断言する。
「だって僕は……姉上に嫌われてますから、夢にまで見たくないと思います」
「え、なんで?」
「そ、そりゃ……そちらの僕は僕と違うみたいだから分からないかもしれませんが」
「俺だってあいつの何を知ってるわけじゃないが……でもあいつはお前が好きだろ、普通に考えれば」
「そんなわけないでしょう、姉上は普通じゃないんですよ」
岩のように頑ななので角度を変えて事実確認をする。
「あいつは言ったのか? お前が嫌いだって」
「……」
吉法師はぎょっとした。信勝は下唇噛んで涙をにじませている。本当に言われたのか、それは過去なのか、それともカルデアに召還された後なのか。
「その嫌いというか、お荷物の身内なんです。どうでもいいし、うっとうしいけど、情があるから捨てられない……そういう仕方ないだけの存在……むぐ」
泣かれると思わなかったので適当に甲板に生えているキャンディーを信勝の口に突っ込む。
「あーあ、もういい。なるほど、家族だからお情けでかまってもらえると」
「もがもが……その通りです、いつもの姉上を見ていれば誰だって分かりますよ」
そんなことはない。けれど改めて信勝の目線で見れば好かれていると分かれというのは無理だろう。うっとうしそうにされて本当は好きだなんて分かるものではない。横で見ていれば見える弟がくっついてくる時の楽しそうな信長の表情は後ろからは見えない。
それに。
「お前さ、自分が嫌いだから、相手も自分が嫌いだと思ってるんだろ?」
「?」
「自分がこんなに自分を嫌いだから、向こうだってそうに決まってると思ってないか?」
「えっと、なんの話ですか?」
十代、二十代の若さなんてそんなものか。自分をいやだと思えば、世界中も自分がいやに決まってると決めつけるものだ。
「……時々思うんです、森長可みたいだったらなって」
「ええ、あいつに? それはどうかと」
「だって姉上にふさわしい武将だから、茶々だって天下人を手中に収めた姉上にふさわしい親類です。英雄が集うカルデアなのに……僕だけ違う」
僕はそうじゃないから。
なりたくてもなれなかったから。
自分が嫌いで仕方ないのだと。
そういって自分のものでない弟は暗い目でソーダの海を見ていた。
「……家の騒動がなけりゃ、お前だってあいつに必要な存在だったさ」
もちろんそれがあるから致命的で、自分だっていつか弟を殺すのだろうけど。
「姉上はやっぱり姉上ですね、僕なんかに優しいです」
心を一つも受け取らぬまま、信勝は礼儀正しく礼を取った。優しさなんてそういうものだ。相手が受け取らないと宙に消えるソーダ水の泡にすぎない。
「これでもわきまえてるつもりです、姉上にはお情けで傍にいさせてもらえるんだって」
「はいはい。ところでさ、お前ってあいつに惚れてんの?」
ささやかな話題転換のつもりだったのだが信勝の顔色は真っ赤になった。
「ばばばばばば、ばかなこと言わないでください! 姉上のことお慕いしてるのは、尊敬、敬愛、憧れで、そんないかがわしい気持ちなどいっさい……!」
「だってお前、あいつどころか、俺ややばい俺にまでしょっちゅうセクハラ未遂を」
実の姉弟に道ならぬ想いを抱き、劣情を持て余しているようにしか見えないと説明すると抗弁が始まった。
「あれは確かめたかっただけです、性的な意図はありません! 僕が、僕なんかが、なにもできないくせに姉上に恋なんて……!」
吉法師の肩をぽかぽか痛くない拳をぶつけた信勝は必死に首を横に降り続けて、平衡感覚が乱れ、どぼんと船から落ちた。
「あねうえ~!」
またレモネードの海で溺れているところを吉法師に助けられた。オールにひっかけられて引き上げられると全身にレモンスライスがついていてなんだかむずがゆい。
「お前な、実はわざとやってないか?」
「僕は……姉上に恋なんかしたことないです」
「はいはい、俺が誤解してましたって」
「ごめんなさい、嘘つきました。五歳の時に好きになって、七歳で速攻でフられました。率直に姉弟だから、お前はわしには嫁げないと言われました」
「お、おう、お前が嫁ぐのか」
「近しい姉弟にありがちな話で笑えるでしょう?」
死ぬほど辛そうに自嘲されると笑いにくい。
「その後はすっぱり忘れたわけか」
「もちろんです」
「ぜったい嘘だろ」
「姉上は本当にすごいですね……本当は十四の時に少しそんな気持ちになりました。大人になった姉上を見て、どうして僕たちは姉弟なんだろう、姉弟じゃなければってつまらない夢想をしました」
海面をのぞき込む信勝を身を乗り出して更にのぞく。表情は笑顔、けれど瞳は虚ろな穴のよう。
「でも、その時もすぐすっぱり忘れたんです。だって僕たちは家族ですから。その後は捨てた気持ちの分も勉強して弟として織田の当主を支えようと決めたんです」
大嘘付きの笑顔は晴れやかだった。あくまでもう一人の自分の断片的な知識だが……そうして努力すればするほど信長対立派の象徴となり、慕う人を嘲る人間たちが寄ってきたはずだ。二度恋を諦めた結末としては救われない。
「つまりお前は俺に二回フられたってことか」
「あはは、そうです、そんな感じです。ずっと昔に終わった話なんです。弟なんてそんなものですよ」
「そんなに好きだったのに、あいつはお前が嫌いなのか?」
「仕方ないんです、僕は姉上に必要なものがなかったから」
「俺はお前が嫌いじゃないぞ、見ていて飽きない、たしかに多少面倒だがそれも味だしな」
信勝が目を丸くしていると船は鬼ヶ島に着いた。
貝殻の形のマドレーヌが敷き詰められた海岸を吉法師と信勝は歩いていた。夢のはずなのに焼き菓子を踏んでいる感触はぐにぐにとやたらリアルだ。
「鬼いないな」
金平糖の浜辺には「こちら鬼ヶ島」とホワイトチョコレートの看板があるのだが。
「いませんね、そんなに大きな島じゃないのに」
一応ぐるりと一周したのだが誰もいない。ざあざあとレモネード波音だけが聞こえる静かな島だった。島と言うより大きなホワイトチョコレートが浮いているだけ程度の広さだ。
「夢とはいえ、せっかくここまで来たのに無駄足だと空しいな」
「……あの姉上、危険がないようなのでお尋ねしたいのですが、そちらの僕はだいぶ僕とは違うのですか?」
「俺の弟か? まああちこち違うが、やっぱり似てるぞ」
「だって、嫌いじゃないって……」
「俺が嫌いじゃないのは目の前にいるお前だぞ」
「……変です、大きな姉上もそう言ったんです。僕が嫌いじゃないって」
不思議なことに信勝は嫌いと言われたことより、嫌いじゃないと言われたことの方が堪えているらしい。
「それじゃあ、僕を嫌いなのは僕自身の姉上だけみたいじゃないですか」
返事をする前に吉法師は表情を堅くした……鬼がいる。
涙を堪える信勝は暗い影がにじみ、額から角のようなモノが生えている。影もどんどん信勝のものから巨大な鬼の影へ変化している。
鬼は信勝だった? 島に連れてきたことで鬼になってしまった? 吉法師は腰に差した飴細工の打ち刀に手を伸ばす。
「本当は僕だって……姉上に嫌われて平気な訳じゃないです。でもどうしようもないこともあるじゃないですか! 僕だって姉上に嫌いじゃない、好きだっていって欲しいですよ!」
「……それをあいつに言え!」
信勝の影から鬼の手が伸びて、吉法師に伸びる。オールをたたきつけると霧散する姿に安堵するが、すでに新しい鬼の手が、角が、目が大きくなった影から漏れ出ている。手近な鬼の足を飴の刀で切ったが数が多すぎる。
「鬼? ……さっきまでいなかったのに。足、が動かない……姉上だけでも逃げてください!」
「いや、最初からいた……お前が鬼だ」
戸惑う信勝が自己否定に走る前に吉法師はその口を塞いだ。
「いいか、これは全部夢だ。だからって現実と関係ない訳じゃない。言ったろ、現実の俺たちがなにか願うからこういう形になるんだ。この夢の持ち主は間違いなく、お前の姉上だ」
「なら姉上は僕を鬼だと……?」
違うと言おうとしてやめる。一筋の涙を流す信勝の額にはすでに二本目の角が生え始めている。
「ああ、お前が鬼だ。お前の心の一部をあいつは鬼のように思っている。だから鬼退治の呪文を教えてやる……「姉上、嫌いなんて嘘ですよね」ってあいつにいってみろ! それで全部戻る!」
「そ、そんなの……絶対違うから言えません! 嫌いに決まっていると否定されるに決まってじゃないですか……危ない!」
鬼はすでに島中に溢れ、奮闘する吉法師も苦戦している。信勝も助けようとするがすでに自分自身が鬼になりかけている。
「考えるな! いいから言え!」
「でも、だって、ここには僕の姉上はいないじゃないですか……姉上、逃げて!」
世界が真っ暗になっていく。いつの間にかレモネードの海も、ホワイトチョコの島も溢れる鬼たちに食い尽くされていく。中心にいる信勝には何も出来ない。むしろ自分が動くほど世界はおかしくなっていくので動かず、内側にこもっていく。
「勇気を出せ……お前は俺の弟だろ」
鬼に半身を食われた吉法師の言葉を最後に世界は真っ暗になった。
夢のようなワンダーランドは、違う形の姉を助けられなかった信勝が自分を責めるほどどす黒く塗りつぶされていく。助けてくれた姉をひどい目にあわせた、自分が鬼だと知っていればこんなことには……。
「姉上、ごめんなさい、ごめんなさい……いつも勇気がなくて。
姉上……本当は僕が嫌いじゃないんですか? 嘘なんですか? 怖いけど……教えてください!」
信勝がそう叫ぶと。
世界は真っ白になって鬼たちは消えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夢の中で亀に言われた。
……『信勝殿、それは逆効果ですぞ』……
亀の夢を見ると信勝はつい彼にあれこれ愚痴を言った。話は長いがようするに「信長が喜んでくれるような最高のチョコレートが作れない」という話だ。
亀は言った。そんな風に意固地になって離れているより、一度話をした方がいい。嫌いというのは言葉の行き違いできっと姉も気にしているだろうから仲直りをしろと。
信勝は反論した。そんなわけない、嫌いというのは本心に違いない、家族だから今までは許してもらえていただけ、亀と卑弥呼と違って自分は必要のない弟なのだと……亀が悲しそうな顔をしたとき目を覚ました。
(どうして……今まで忘れていたんだろう)
【信長の悩み事③】
「だから、姉上は僕が嫌いなんですって!」
(……は?)
バレンタインの六日前。火傷の弟を医務室に突っ込んでいらいらしていた翌日のこと。
夜中のキッチンに菓子を拝借に来た信長に飛び込んできたのはそんな声だった。中をのぞき込むと椅子に座った信勝がエミヤとブーディカを押しのけて立ち上がろうとしていた。
「ちょっとダメよ、君ったらさっきまで冷蔵庫の中で倒れてたんだから」
「それはその……迷惑をかけてすまなかった。でもちゃんとしたものができないから」
チョコレートを作ろうと無茶をしていたらしい。立ち去るべきか、顔を出すべきか躊躇している内に話が進む。しかし嫌い?
(そんなこと言ったか?)
心当たりはない。基本的に信長はそういう嘘はつかない。
「姉想いなのは結構だが、君が倒れては姉君も悲しむだろう」
「そんなわけないですよ、姉上は僕がいない方が楽しそうですから」
「そんな風には見えないが」
信勝が言い張るほど目の前の世話焼きの二人は余計に放っておけなくなってしまう。
「お二人には感謝しています、僕一人ではこれほど短期間で菓子作りが上達することはなかったでしょうから……でももう放っておいてほしいんです。キッチンはきれいに戻しておきます、その、冷蔵庫のことは本当に申し訳なかったですが……」
「君はお姉さんに嫌われているっていうけど、私にはそう見えないよ。廊下ですれ違う時、いつも楽しそうだもん。それに嫌われてるならなぜそこまでするの?」
「姉上が嫌いでも僕は好きだからです……あ、おい、勝手に!」
「……なるほど」
エミヤは信勝が作ったガトーショコラを冷蔵庫から取り出した。すでに切ってあるので一切れとって口にする。確かに粉っぽさはあるし、焼きすぎだ。しかしそれは既製品に比べればの話で手作りの贈り物なら微笑ましい程度のミスだ。
「勝手に食べるな! その、どうせマズいんだろう?」
「いいや、普通に美味いよ。これが思い詰めて連日徹夜するほどひどいとは思わない」
「それは、その……姉上は天下をとったお人だから、間違いは許されないんだ」
織田信長は一時は日本を手中に収めた人物と言うことはエミヤも生前から知っている。生前は美味の限りを尽くしていても不思議ではない。しかし、カルデアで見かけた彼女はミスを許さない完璧主義者ではなく、鷹揚なタイプだ。
「嫌われているというのは姉弟喧嘩かね? 君たちはいつも一緒だろう、なぜそんなに」
頑ななんだという言葉を飲み込む。いつもなら若者の未熟にも踏み込むエミヤだが生前読んだ歴史の本の「織田信長は謀反を起こした弟を殺した」という一文が躊躇させる。
「仕方ないんだ、姉上はすごいけど僕はそうじゃないから……今まで何もできなかった分も何かしないと」
「だからってこんなになるまで作らなくていいじゃない、喧嘩したのかしらないけど放っておけないよ。そんなにしてまでお菓子作るより傍にいた方がきっとお姉さんも……」
優しいブーディカの手を振り払って、信勝は逃げるように二人に背を向けた。
「放っておいてください! ……生きてるときに色々あったんです、それは二人もそうなんじゃないですか?」
生前のことを言われると。
世話焼きのキッチンの英霊たちはそれ以上なにも言えなかった。
気の毒そうに去る二人からあわてて隠れる信長は一度前の廊下の角に移動して、もう一度キッチンの入り口から弟を覗く。
「悪いことした、明日謝らなきゃ……」
そう呟くとまたチョコレートの湯煎を始めた。ふらついた足付きで、目のしたにクマを作っているのに意志だけは鋼で、それはどうも信長のせいらしい。
五分ほど弟の背中を見ていたが答えは出なかった。なにを勝手に決めつけるという苛立ちだけが胸に増えた。
翌日の朝、信長はペンを取って信勝への手紙を書き始めた。来週のバレンタインに持ってくるチョコレートの礼という形で渡せばいい。お返しのチョコ入のマシュマロは買って引き出しに入れた。
しかし、書いては握りつぶし、書いては握りつぶしの繰り返しになった。
(生きてる頃のことでってのは謀反のことか? でもそれはもう……明治で再会したときに話したし、終わった話じゃろ)
休憩をやめてまた書いては捨てた。だんだん何を書きたいのか忘れてきた。なにを書きたいのだっけ……そうだ、嫌っていない、勝手に誤解するなと伝えたいのだ。しかし書けば書くほど「本当は信長は信勝をどう思っているか」について触れなければならなくなる。そこをうまく隠して、嫌いという思いこみだけなくす文章はなかなか生まれない。なぜこんなに苦労しなければならないのだ……。
(どう思ってるって……普通じゃ、普通の家族、弟……いや、流石に普通はおかしいか)
殺したし、殺された。普通ではない。しかし普通以外にどう表現すればいいのか。
信長にとって信勝はある種の過去だった。英霊となった以前に弟の死後二十年以上生きた。弟は二十そこそこで死んだから、弟の人生の倍の時間をその死後を生きたことになる。記憶の上では生きて話していた時より墓参りをしていた期間の方が長い。
(いやなことを思い出させる)
ゴミ箱が紙くずで一杯になるとやっと自分の気持ちが分かった。信長は信勝のことを考えると辛いのだ。
この第六天魔王は、日の本を手にした織田信長は死ぬまで弟の死んだ姿が忘れられなかった。尾張に帰る度に墓を見てなぜもっとうまくやれなかったと十年以上自問自答した。難局を切り抜けて勢力拡大が進むと「これほどの力がわしにあったと最初から知っていれば、あいつ一人どうとでもなったな」と脳裏によぎった。
死んだ後の方が弟のことを考える時間の方が長かった……それを思い出した。思い出させたのだ、あのバカ弟は。
明治維新で再会した時「そういう時代だった」と弟を諭した。けれど言った自分は結局信勝の死をそういう時代だと割り切れなかったと思い知る……もうこんな辛い作業は止めてしまうかとペンを持つ手が止まる。
「……むかつくんじゃ」
自分を決めつけられることが信長は嫌いだ。
翌日、お返しとしてマシュマロは「嫌いです」という意味を持つと聞いた信長は仕方なく自分でそれを食べた。そしてその味に嫌いと言ってしまったことを思い出した。そして尚更どう手紙を書けばいいのか分からなくなった。
【言わなかった言葉と帰る約束】
信勝は消毒液の香りの中で目を覚ました。
(夢……?)
夢を半分は忘れていた。それでも……違う形の姉たちがかけてくれた言葉は覚えていた。
「過労と栄養失調です……おや、思ったより早く目を覚ましましたね」
そこはカルデアの救護室のベッドで、傍にはナイチンゲールとブーディカが立っていた。扉のあたりにはエミヤが壁を背にしている。軍服の上着はなくワイシャツをまくられて左手に点滴の針が刺さっている。
「ここは……?」
はっきりしない頭で上半身を起こすとナイチンゲールが鬼の形相になったがその前にブーディカがずいとベッドに身を乗り出した。
「結局倒れちゃったんじゃない! まったく何してる君は!」
「あの……ここは? 僕はいったい?」
「医務室。朝キッチンに行ったら君が倒れてたの、だからここに運んだ。それから丸一日眠ってたの」
信勝は混乱した。迷惑をかけてしまった、それに丸一日? 頬からさあっと血の気が引く。
白い壁の時計に目をやると夜の九時を過ぎている……すでにバレンタインは終ろうとしていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
結局信長の手紙は書き上がらず、全てシュレッダーにかけて捨てた。
(なにしてたんじゃろ、わし)
代わりに購買で売っていた棒のついたチョコレートを買う。丸いチョコレートを淡いピンクとオレンジのカラーシュガーで飾ってある。
(とりあえず、嫌いは言い過ぎたと言っておこう……眠い)
最近夜遅くまで書き物をしていたせいか、昨日は深く眠った。なにか夢を見た気がするがなにも覚えていていない。
バレンタインの日、信長は信勝を待った。その手に返礼の菓子を持って、どこにいるか分からないと困るだろうと朝からほぼ自室にいた。
朝食はコーヒーで済ませた。本を三冊用意して、用意した軽食を食べて待った。昼を過ぎでも来ない。さては三時のおやつ狙いか。退屈で少し掃除をする。夕食の時間になってもこないので用意していたサンドイッチを食べた。全くまだ作っているのか……それでも弟は必ず来るに違いない。
けれど夜になっても信勝はこなかった。
(……は?)
時計が午後十時を過ぎた時、信長は持っているマグカップを握りつぶした。ばらばらと零れる陶器の破片が床で乾いた音を立てる。怒髪天をつくというが実際信長の髪は数束蛇のように蠢いた。
「なんじゃあいつっ!」
壁に拳を叩きつけると金属製の壁がへこむ。バレンタインに必ずくるから待っていたいたのに、嫌いと言ったことだって思い出したのに信勝が来なければ台無しだ。
(まさか……昼食の時に来たのか?)
怒りを発散すると一抹の冷静さがやってきた。昼に三十分だけ食堂にいった。しかし食堂に信勝がいないことは確認したし、ドアには「ただいま食堂」と張り紙までした。
頭が怒りと不安の間をいったりきたりしているうちにドアがノックされた。やっとか、何時だと思っている! と怒りを任せてドアに向かう。
「信勝! 貴様、どういうつもりで……!」
「姉上! まだ起きてますか、がはっ!?」
ドアが開いた瞬間姉弟は正面衝突した。信勝が前のめりになっていたので額と額がぶつかって痛い。
「あう、すみません、姉上……夜中に押し掛けて」
信勝は大粒の涙を流していた。背中を丸めて、何度も頭を下げ、何度もごめんなさいを繰り返す。信長は目を据わる。弟は昔からずるい、怒る気が失せた。
面倒になって部屋に入れてやるとおろおろと羊のように震えている。
「……こんな夜中になんの用じゃ」
かなり今更で白々しい、棒読みの台詞だったがこれ以上泣き声を聞きたくない一心だった。
「あ、あの……今日はバレンタインという祭りで、姉上がご存じか知らないのですが」
「知っておる、チョコ祭りじゃろ」
「その……いつもお世話になってたり、だ、大好きな家族にもちょこれいとという菓子を贈ると聞いて、こっそり僕も練習していたのですが」
「うむ」
やっと受け取れると待ちぼうけの一日を思いを込めて少し笑みが漏れた。
「ごめんなさい! 昨日いつの間にか眠ってしまって、さっき目が覚めたばかりで間に合いませんでした!」
「……は?」
受け取る手が空しく空を舞う。その手の横でまた弟は頭を下げた。……この魔王に心底肩すかしさせるとは、やはり弟は恐ろしい男だ。
ようやく顔を上げると泣いてはいるが顔色はいい。うっすら連日徹夜していると沖田や龍馬から聞いてはいたから内心ほっとした。
「せっかく、姉上に日頃の感謝を伝えられる日だったのに……ごめんなさい」
まだ泣きやまない。気にするな、バレンタインのことなど忘れていたと口にしようとすると棒つきチョコレートを思い出す。
「ほれやる、ハッピーバレンタインじゃ」
「……え?」
ただの安菓子だ。それでも渡すと信勝は泣きやんだ。
「どうして、姉上が僕に……?」
「お前がわしに菓子を作っておるのは知っておった。わしはケチではないし、一応お返しじゃ」
「……信じられない」
貰っていないのにお返しもないが、それでも信勝はそのチョコレートを神聖なもののように両手でそっと握っていた。……少しだけ、その手にあったのが書けなかった手紙の方だったらと夢想を振り払う。
信勝は頬をぎゅっと摘まむ。
「やっぱり痛い……夢じゃない」
「勘違いするなよ、わしはケチじゃないと言いたかっただけじゃ。……それとこの前は」
「夢みたいです。僕なんかにありがとうございます、姉上……あの、その……もう一つだけいいですか?」
せっかく泣きやんだのにまた泣く。それを見る度に胸がひりついて、痛みを伴う苛立ちがわき上がる。そんなに自分を慕うというならまず泣くのをやめてほしい。
「僕なんかが、本当に図々しいんですが……どうしても聞かなきゃいけなくて」
信勝は夢を半分は忘れていた。けれど魔王と吉法師の言葉はまだ覚えている。お返しと……勇気を出せ。
「僕が嫌いって……嘘、ですよね?」
信勝は震えているが真っ直ぐ信長を見て言った。信長は驚いたが、内側の冷静な自分が「ちょうどいい、ああ嘘だ、言い過ぎたといってしまえ」とささやく。その通り、それで全て元通り。
「僕なんか、姉上にとっていなくていい、どうでもいい存在だって分かってます。このカルデアで僕より無価値な英霊はいない。わかってます、姉上に一番相応しくないのは僕だって……それでも、嫌いは嘘なんですか?」
「いなくていい……?」
その言葉で頭の中でぷつんという音がした。……ばちんと平手打ちが炸裂した。頬を真っ赤にした信勝が呆然としているともう一度逆の頬に平手を打つ。
「どうでもいい?」
信長は信勝の襟首を掴むと両手で締め上げた。弟が何かしゃべる前に姉は壁に追いつめ、その頭を壁に打ちつけると床に引きずり倒した。床に倒れた信勝に馬乗りになると棒付きチョコレートが悲しげに転がった。
「あね、うえ」
「お前など嫌いだ。いつもいつもむかつく事ばかりいいおって……いらつく、むかつく、そんなことばかりする。わしにとって一番苛立つのはお前じゃ、信勝」
信勝は目を皿のように丸くするして数秒硬直した。そして「やっぱり……やっぱり、そうなんだ」とさっきとは違う悲しみの涙を流した。
「ごめんなさい、目障りで、役立たずで、ごめんなさい……もう二度話しかけたり」
「食え」
「……え?」
「わしがやったんじゃ、今食え!」
棒付きチョコレートのラッピングをはがして、信勝の口元に押しつける。目を白黒させていたが、口を開いたので乱暴に突っ込んだ。一口大のチョコレートはあっという間に口に溶けてなくなり、信勝はまた泣いた。
「食ったな、確かに食ったな?」
「はい……名残惜しいですが、全部飲み込みました」
「はあ? あんなもの、なにを惜しむ?」
「……だって、姉上との最後の思い出だったから、食べたくなかった」
これで全部終わりだと泣く弟は間違いなく最大の苛立ちだった。両手で泣き顔を隠す弟の腕を押さえて、逆の手で顎をつかみ、こちらを向かせる。
「食ったからにはお返しを寄越せ、今すぐ」
「……おかえし?」
「知らんのか、贈り物はお返しを受け取って完結するのじゃ」
「で、でも、僕いまなにも持ってなくて……すみませ……んっ?」
また謝る前に信長は唇でその口を塞いだ。触れるだけだったがチョコレートの味がした。
「姉上……?」
「持ってないなら仕方ない、お前がわしのものなれ」
ふわりと信勝の鼻先を黒髪がかすめた。かなり顔が近いが、顎掴んで目をそらせないようにする。
「全くお前は……わけがわからん。理解不能だ。お前が一番なにをしでかすかわしには分からん」
明治維新で再会したと思ったら永遠とか言い出し、帝都では理解者のつもり、本能寺の件では別の信長を毒殺した上に撃ってくるし、邪馬台国では霊基を得た。……生きていた頃も分からなかったが、死後再会してからもまったく分からない。
「あの、姉上、その……ち、ちかいです」
「だがそれもこの魔王には一興だ。これからお前はわしのものになれ。ものなんじゃからずっと手元にいろ。二度と勝手にいなくなるな」
顎から手を離して頬をなでる。ひっぱたいたので腫れている……弟の体は温かかった。幼子の頃のようにそれに触れて、信長はそれでいいと思ってしまった……いなくなるなと言えた。
(そうだ、もう……わしを置いていくな)
「あの……」
信勝の涙は止まっていた。うつむいて唇に手を当てるとむくと起きあがると身が離れる。
信長がむっとすると信勝は顔を真っ青にして、次は赤く染め、それを三度繰り返し、ようやくおずおずと口を開いた。
「その、勘違いでなければですが……それって僕が姉上の愛人になってもいいってことですか?」
愛人。はっきり言われると大分爛れた単語だ。
「あ、愛人とかいうな! あれだ、その……それは正式なやつじゃないし、まあ側室くらいからで、まあでも別に今は全部空だし」
「でも……僕たちは姉弟ですし」
「それは……わし、魔王じゃから、いい」
「僕なんかの、どこが……?」
「むかつくし、いらつくから気に入った。こんなにいらつくの珍しいから、これがいい」
「でもさっき、僕が……嫌いだって」
「そ、そういうのも守備範囲じゃ……なんじゃ、お前こそいやなのか!?」
姉弟ですしといわれて信長は内心かなり不安だったが、信勝はひしっと両手を握ってきた。
「嬉しいに決まってるじゃないですか! だって姉上のそばにいてもいいてことでしょう!?」
本当に嬉しそうにまた泣く。いつもいつも……いつか離れていくことが前提の話をする弟が姉は苦い。大事なものをこんなものいらないと投げ捨てられる痛みを決して理解しない。
「いていいのではない、これはからは傍にいるのが義務じゃ」
「あの、僕、頑張ります。いい妾になれるかまだ分からないけど、姉上の傍にいられるなら精一杯頑張ります。……そうだ、荷物まとめてこないと!」
弟はすくっと立ち上がって準備を始めたので、順応の早さに姉の方が動揺した。
「こら、勝手にランクダウンするな! その、すぐにこの部屋に住む気か?」
「廊下にでも暮らして、いつもおそばにいるようにするだけですよ! あの、あの……姉上が僕を嫌いでも、気に入ってくださって嬉しいです! つまらない身ですが三日で飽きられないように頑張ります!」
「ちょ、ま、それは言葉の綾……!」
「そうだ、帰ってきたらちょこれいともまた作りますね! すぐ帰ってきますね!」
竜巻のように。
信勝は部屋からいなくなった。
信長はちょっと肩がこけた。そして一人の部屋に頭から血の気が引くと、理性が帰ってきた。
「え……なにしてんの……わし?」
そして我に返った信長は首を真っ赤にして床に転がって悶絶した。なぜ口づけ、なぜ側室、そもそも姉弟だし。なぜこんなことになったのか、姉弟で仲良くすればいいだけなのにますます闇の方向へむかってるじゃんと床を転がる。
(あいつがいなくなっていい、とか言うから)
さっき「嫌いと言ったのは嘘だ、少し話でもしよう」と言えば心の蔵が焼けるほど苛つかずにすんだのに信長自身止められなかった。いなくなってもいいと言われてとにかく腹が立って、いなくならないことだけ考えたらこんなことをしてしまった。
……『すぐ帰ってきますね』……
「……帰って、くる……」
それでもその言葉が嬉しくて、訂正する気も失せた。さっき言ったことは手紙に書いては捨てた、言えなかったことが言えてやけに胸が温かい。
ふと冷えた声がした。
……『信勝を手にかけたのに、今度は道を誤らせる気か。やっと普通の姉弟になれるかもしれなかったのに』……
振り返ると薄墨のような過去の自分が立っていた。目を丸くしてると厳しい声が投げられる。どうして。また辛い目にあわせる。まともに愛せるのか。ただ嫌いじゃないと伝えればよかったのにどうして。と責めは続いた。
それをじっと聞いた信長は逆に心が凪いでいった。
「うるさい、もう悲劇の姉弟なんかやめる。こじれたもんなんか壊せばいい……わしはただあいつがいなくならないならいいだけじゃ」
……『きっと後悔する、二十年以上後悔したのにまた後悔する』……
「まあな……じゃがわしは魔王じゃ、悪いこともするさ。あやつがそれを受けるなら地獄までつれていく」
……『……愛しているのか?』……
それは一番きつい質問だった。口をつぐんでいると影はほらみたことかと形をゆがめた。
「そんなもん知るか! やってみてから考える……失せろ、あやつが受け入れるなら地獄まで連れて行くだけよ」
告げると影は消えた。
くらりと視界が揺れて、もう一度その場所を見ると……そこには一枚の便せんがあった。全てシュレッダーにかけたはずの信長の手紙だった。
そこにはこう書いてあった……「この前は言い過ぎた。二度と勝手にいなくなるな、お前がいないと寂しい」。
それを手にとって、少しだけ見つめると、ゴミ箱細かくちぎって捨てた。……最初から答えは自分で書いていたのだ。
「……二人部屋ってあるかのう」
戻ってきた信勝が廊下にテントを張っているところを見つけたので強引に部屋に入れると信長はおかえりと言った。おずおずと弟はただいまを言った。
「あの! 姉上はどんなちょこれいとがお好きですか? バレンタインは終わりますけど、僕なんでも作ります」
「チョコアイス」
焼き菓子ばかり修行した弟は肩を落とした。
状況が状況なので、迫ってくるのか観察していた信長だが床で寝ようとするので寝台に座らせて、手でも握ってやると赤と青と白で顔色が高速で変わった。そのくせ頭をなでてやると疲れているのか先に一人で眠ってしまった……先が思いやられる。
「やっぱり、むかつくしいらつくな、お前は」
眠っている頬を伸ばすとなかなかよく伸びる。本当にこれでよかったのか……先のことは分からないが明日はチョコレートをたくさん食べさせてもらおう。
バレンタインの翌日、二月十五日。信勝は精一杯のガトーショコラを焼いて、バニラアイスを添えた。がくがくと震えて差し出された更に実は炭か? と覚悟したがちゃんと甘くて苦い味がした。
「お口にあったようでよかった! 今度はチョコアイスを作りますね」
「うむ、精進しろよ、その時までちゃんとそばにいろ」
ずっと傍にいさせるために、何度だって注文を付けるつもりで信長はお代わりを注文した。
おわり
おまけ 「愛憎プロファイリング」
「これからいい愛人になるように頑張ります!」
「だから勝手にランクダウンさせるな」
「森蘭丸や生駒吉野に負けないように日々精進します」
「なんじゃ、懐かしい名前を出して。詳しいではないか」
「図書館の姉上の本は全部読みました! 百冊はあったので大分分かりました。少しは姉上の好みが分かるつもりです!」
「へー(今度確認しとこ)」
「特に人間関係については勉強しまして……姉上と一度でも関係のあった男・女・ほかの記述について一字一句もらさず覚えました。正室・側室・小姓・愛人・行きずり、全員の身分・出身・外見・性格・特技について、どんなに出典が怪しくても、伝承レベルでも全て暗記しました!」
「こわい」
>
こんなんですが飽きて捨てられる日に今から怯えてる。
おまけ② 「火傷のいきさつ」
信勝がチョコ作りを始めた時、誰にも教わらず、本も見ず材料だけを集めて始めた。
「よし、このちょこれいととかいう南蛮菓子を溶かせばいいんだな! ……しかしこれ思ったより硬いな、見たことないし特殊なやり方で溶かすのか?(逆手でチョコに包丁の切っ先を何度も刺す、製菓用なので厚くて割れない)」
「くそっ、刃が通らない……砕いてからと書いてあるな(一番重そうな中華鍋でチョコを殴る)」
「湯で溶かす……こうか?(破砕したチョコを鍋の熱湯に直接入れる)」
「写真と違う、おかしい。間違ったのか?(ようやく本をみる)」
「油を熱することを揚げるというのか、これが一番溶けるんじゃないか?(素人、悪夢の思いつき)」
「これでやっと溶ける!(限界まで熱したオリーブ油の中に残った粉砕チョコと湯で溶かしたチョコ水をいれる)」
爆発した。
>
英霊じゃなかったら死んでた。
あとがき
後日カッツはちゃんと魔王様と吉法師くんにもあげました。ノッブはエミヤとブーディカにこっそり菓子折り持っていきましたとさ。
バレンタインイベでカッツのお返し貰うまでに書き上げるぞ! と思ってましたが間に合いませんでした(とほほ)。でもリアルバレンタインまでには間に合ったぞ。
間に合わない記念にバレンタイン本編読んだらカッツがチョコ渡してない(そういう発想自体がない)のでしたが、二時創作と割り切りました。こんなに卑屈に書いていいのかなあと思ったけど本編読んだらどうでもよくなった。
バレンタインの感想「地中海上空の笑顔はなんだったんだよお!!!!! 亀の言葉思い出して!! 別に愛の告白しろとかいってんじゃないんだから帰らないで!!!! おい!!!!!?????」
今回のカッツについて考えたこと
命がけで推してる推しがいるのに、周りに推しのアンチばっかり集まってきて、推しの悪口ばっかり聞っかされて、あげくアンチの象徴になるなんて可哀想に……。
今回のノッブについて考えたこと
魔王様と吉法師くんは割とあっさり「お前おもしろいから好きだよ~」と信勝に言えるけど、ノッブが過去がデバフになって簡単には言えないのです。「余のものになれ」って言う方がまだ楽。
珍しく三回もラストを書き直しました。
2021/02/13