空を見上げるとすっかり満ちた月が浮かんでいた・・・・・・それなのに。
あなたへの月 7
「・・・・・・コンラート?」
その名を呼ぶ息さえ、白く凍って宙へと消えた。
遠い舞台の先に、何度見ても見間違えるはずのないダークブランの髪に、薄茶の瞳。人好きがするようで、底知れないものをもった微笑。全て見慣れた次兄であるはずなのに、ただひとつ白と黄色の軍服が、それはコンラートではなく見知らぬ人だと示すように眼に見えない線を引いていた。
それでも間違いなかった。ユーリを追って、左腕だけ残して行方がしれなくなったコンラートだった。
雪が降りすさぶ中、両足で白い大地に立っている。彼に駆け寄ろうとして転んだユーリを助け起こすために切り落とされたはずの左腕を差し出している。
(生きてる・・・生きている?)
よかった、本当によかった。大きな怪我もしていない。なぜかはわからないが、左腕もちゃんとある。
うれしい・・・でも、なぜだ?コンラートは大シマロンの側にいる・・・?なぜぼくたちのそばにいない・・・?
いや、そんなことはどうでもいい。
生きていてくれたのだから、他のことはどうでもいい。それだけで十分だ。
ああ、でも、言いたいことたくさんあるんだ。言い切れないほど、沢山。
「コンラート・・・!」
迷わず駆け寄ってコンラートに駆け寄った。痛めたはずの腰は羽のように軽く、動きを拘束することはなかった。
白い大地を汚して走ってくる弟に驚いたような顔をした次兄の瞳は変わらず銀色の光が散っていて、ヴォルフラムは頭が真っ白になった。
気がつけばコンラートに抱きついて泣きわめいていた。何を言っているのか自分でもわからない。どこへ行っていたと怒涛しているのか、あんなことを言ってごめんなさいとらしくなく泣きついているのか、それともただの意味のわからない泣き声だったのか。
自分でもわからなかったが、コンラートはヴォルフラムを振り払うことなく受け入れた。いつものように頭の撫でて・・・いや、それだけではなかった。幼い子供をあやすように、ヴォルフラムの額に口づけた。
その行為に真っ赤になって、ほほを染めたヴォルフラムは罵倒しようとコンラートの胸に突っ込んでいた顔をきっと見上げると・・・・・・コンラートはどこにもいなかった。
呆然とするヴォルフラムは、気がつけば一人だった。
コンラートも、ユーリも、ヨザックも、大賢者も誰もいない。闘技場もどこかに消えていた。ただ、純白の雪だけが大地に降り積もっていた。
そんな・・・どこいいったんだ・・・?
コンラートの名をとっさに呼ぼうとしたヴォルフラムの前に、白い大地に赤い染みがいくつも散った。少し、まだ温かい真紅の液体は雪の表面だけを溶かすとすぐ凍りついて純白に雪面にどす黒い奇跡を残した。
・・・・・・血?・・・・・・
・・・・・・誰の?誰の血?・・・・・・
・・・・・・ああ、あの子だ。茶色の髪のぼくよりも少し小さな・・・・・・
・・・・・・だれ、だ・・・・・?
「・・・・・・う、あっ!」
「ヴォルフ、大丈夫か!?」
ユーリの声が響くと白い大地と赤い染みはどこかに消え去った。ガタンガタンと響く音と揺れた体がから、ここが高速で移動し続ける馬車であることを思い出させた。うたたねでもしてしまったのだろうか。いやな、夢だった。思い出すと、少し指先が震えた。
口元に手を当てて青ざめているヴォルフラムを、漆黒の黒い瞳がその中で心配そうに覗いていた。ユーリだ。まだ双黒を隠すために大シマロンの服飾師に染められた髪は茶色だったが、その瞳は見るものを癒し引きつける暖かな漆黒のままだった。質素に見えるが、実は最高級の漆黒の着衣ではなく、人間の庶民が来ているような簡素で分厚い服を纏っている。毛皮がその肩に見えて、ここがとても寒い場所だと思い出した。
ああ、そうだ。ぼくたちは「風の終わり」を手に入れて、大シマロンから一刻も早く脱出するべく行動しているのだった。
「・・・・・あ、ああ。えっと、ユーリ・・・?」
「大丈夫か?うなされてたみたいだけど・・・」
「・・・・・・すまない、少しうたたねをしていただけだ」
「大丈夫か・・・ヴォルフも疲れているだから、もうちょっと寝てろよ。また馬車に酔うぞ、それでなくてもお前も連日動きっぱなしだろ」
そんな事を言って、お前こそその眼の下の隈は何だ。お前こそちゃんと眠れていないんだろう。だからお前はへなちょこだというのだ・・・・・そう言いかけて飲み込んだ。今は休んで行けないといけないことは事実だ。
「いや・・・なんでもない」
「本当か?顔色悪いぞ」
それはお前だ・・・確かに少し疲れているが、それはこの先でしなければならないことのために考えて寝付けなかったせいだ。それをちゃんと成功させないといけない、絶対に。
だから、そんな顔をするな。お前こそよっぽど顔が白い、眠れているのか。
・・・・・・確かに、あいつは今ぼくたちのそばにいないけど。
「・・・大丈夫だ。へなちょこのお前と一緒にするな」
「なんだよ・・・へなちょこっていうな」
その声にいつもの元気がなかったせいでヴォルフラムはもう一度「大丈夫だ」と言った。ようやくユーリの表情が和らぐと「もっと寝てろって」と肩に頭を載せられた。王としての威厳のないいつもの魔王の行動を叱責しようと口を開こうとすると不意を突かれたように窓の月が目にとまり、ヴォルフラムは眠気を覚えてその口を閉じた。
空には満月には少し足りない月が浮かんでいたが、ヴォルフラムは嫌悪感はなかった。ただ、ああまるいなと思って再び眠りについた。
空を煌々と照らす満月には少し足りない月は、夜の東ニルゾンを白く浮かび上がらせていた。
ヴォルフラムはカーテンの影から天井に浮かび上がる月を一瞥すると、特に豪華ではないが大きな宿の寝室を振り返った。大きな寝台には血盟城の魔王の寝台と違ってユーリの姿はない。
「・・・・・・ふん」
ヴォルフラムはカーテンの隙間を指先で広げると、再び視線を窓の外に戻した。
ヴォルフラムがユーリ達と大シマロンの首都から大シマロン最大の港・東ニルゾンに「風の終わり」を伴って、逃げるように辿り着いたのは太陽が海に隠れる直前のことだった。再びの襲撃を警戒しながらも、とにかく急いで目指していた港への到着は全員の緊張を解いた。
夕焼けは自分達を迎えるようだった。それなのに純白の大地は斜陽で血のように赤く染まり、美しかったがそれ以上におぞましかった。
もっとも、そんな感想をもったのはヴォルフラムだけのようだった。ユーリと大賢者はこんな大自然の光景は彼らの故郷である地球では見られないと感動していた。正式にカロリアの国主となったフリン・ギルビットは港町の夕日をカロリアを思い出して懐かしそうに目を細めていたし、海の猛者であるサイズモアは久々に海の夕焼けを見て人心地ついたようだった。
実質の旅の指導者となっていた大賢者は夜に出航するより、急いで旅をしていた疲れをここで一晩休んで回復させようと提案した。
高速での馬車旅に疲弊しきっていた一同は二にもなく従った。
取った宿は大きくはあったが、魔王やカロリアの国主を迎えるにはいささか質素なだった。無論、できるだけそのことを隠しているが故の選択で不満に思う者はいない。いつも魔王としての威厳にうるさいヴォルフラムも珍しく「・・・ああ」と口数こそ少ないが従った。
そして、ヴォルフラムはひとりで個室を取りたいといった。ユーリの顔を言ったらこっちが驚くほどだった。「ええー!?どうして!?」と天地がひっくり返ったような態度にはどう言い訳するか一瞬悩んだが、大賢者が「彼は船酔いするから、ひとりでぐっすり休んだほうがいいだよ」と言って事なきを得た。
それでもユーリは心配したらしく、何度も部屋を尋ねてきた。婚約者に心配されるのは嬉しかったが、今回ばかりはそうはいかず気分が悪いふりをして帰ってもらった。いつもの自分からは考えられない行動だった。出ていくユーリの物憂げな顔と「ちゃんとゆっくりしろよ」という言葉を思い出すと罪悪感で一杯になって「あと少し、少しで大丈夫だから」と見送る自分を叱咤した。
「・・・まだか」
いらいらとカーテンを握りしめる。きっと、ここだ。ここしかないと思って旅の途中ではできるだけおとなしくして体力を蓄えていたのに。一体いつになったらくるんだ。
女々しいことだとは、思わない。ヴォルフラムは確信していた。きっと来る、いやいる。後は、あっちから接触するのを待つだけだ。それを見逃してはいけない。
張りつめた神経のヴォルフラムは、ふと何かやさしい気配を感じて下ばかりに向いていた視線を上に向けた。満月だ。
不思議なことにあれほどヴォルフラムを苦しめていた月への嫌悪感は急になりを潜めていた。コンラートが言ったように好きだとは感じないが、気にならなくなっていた。気にならないことが不可思議だった。嫌悪感や拒絶反応による不調がないことは有り難かったが、たかが月のことで急に見ることも嫌になったりどうとも思わなかったりと変化が激しい自分の心を、ヴォルフラムは推し量れないでいた。
なんだというのだろう、コンラートの話では大好きだったこともあるのだとするとよけにわからない。月の好き嫌いがそんなに変化していく話など聞いたこともないというのに。一体どうして・・・・・・
「・・・・・・あ」
声が漏れた。ヴォルフラムは視線を道の路面に戻そうとした瞬間宿の向かいの建物の一つの窓のそばに立っている人物と目があった。逆光でかすんでいても確かに窓の奥にその姿をとらえた。
望んでいた瞬間に急に遭遇したヴォルフラムが次の行動に素早く移れないでいると、その人物は素早く退いた。窓の奥に隠れるように、その影が遠のいていく。
「待てっ・・・!」
ヴォルフラムは逃がすかととっさに窓を開いた。びゅうと凍りつく風が無防備な寝間着にだけ守られた体が冷えた。しかし、気にしてはいられない、このままでは逃げられてしまう可能性がある。ここから降りて宿の入り口にたどりつく頃は、きっと向かいの建物から逃げてしまう。させない。
もうすでに窓の奥の闇に彼の影が飲み込まれて、消えかけている。絶対に逃がさない。たとえどんな事をしても、いい。
「・・・・・・コンラート・・・・・・!」
ヴォルフラムは窓から身を乗り出して、そのまま雪の降り積もった大通りに飛びおりた。
......to be continued......
2008/2/25