夜の暗闇がキライだった

暗くて何も見えないし 

いつも慣れしたんだ場所も夜の闇は別の何か不気味な場所にかえてしまう

だから満月の夜が好きだった 

暗闇を和らげてくれるやわらかな満月の光が大好きだった



遠い場所にいるときも 側にいるときも 

この強い光があれば彼の元へ繋がっていると信じていたから

たとえどんな暗闇のなかでも 

彼と繋がっていると信じれば恐ろしくなどなかった

























あなたへの月  11




























ぼくは、本当に愚かだ

























頬の下から喉元へと何かが伝っていく 、あたたかい。

それがなんなのか確かめようとするとヴォルフラムは自分の体がひどく重いことに気がついた。動かない、指先すらほとんど動かない。口を開こうとしたが硬直して動かない。全身が鉛になったようだ。
それでもかすかに体が動いたのか、頬を伝うものが口元へと降りてきて唇をしめらせた。からいと感じるとそれが涙と知った。



(・・・・・・ああ、ぼくは泣いていたのか)



涙と知ると納得した。夢の記憶が、記憶の奥底へ鍵をかけて沈めていた過去が、その抑圧をすべて壊すかのごとくヴォルフラムのなかで未だ逆流していた。 荒れ狂うそれは身の内を激しく揺さぶり、涙を1つ残らず洗い出していくかもしれない。なにせ70年分近い涙だ、流れても流れても終わりは見えない。

遠い満月の夜に閉じ込めていた記憶の夢。遠い点同士で浮かんでいた記憶の断片は枯れた川に水が溢れたようにヴォルフラムの隅々に記憶が寄せては返って、記憶の空白を浮かび上がらせた。その記憶は消えることはなく確かな記憶に吸い込まれヴォルフラム自身のものに「戻って」いった。

その流れの中でヴォルフラム自身はただそれを見ていただけだった。その記憶はずっと見ていたいとだけ、いとおしむように感じていた。ここにいれば彼がいる。離れたくない。



(夢でいい、コンラートを見ていたい)



しかし、どんな夢にも終わりはくる。

たとえその夢が過去を映すものだとしても、いつかは目を覚まして現実を知ることになる。コンラートが眞魔国を、コンラートを拒絶したヴォルフラムが唯一コンラートとのつながりを保てる場所を拒絶したという現実を。


どんなに満月の夜の側にいたくても、いつかは朝がくる。











朝日の光が薄明を終えて瞼の奥を刺すほど強くなると目の痛みにヴォルフラムは目を覚ました。まぶしい。どれだけ閉ざされていたか分からないまぶたを開けて、湖底の碧の瞳に光を侵入させた。太陽が窓の向こうで海から顔を出していた・・・海?自分は大シマロンの東ニルゾンにいたんじゃ、そうだそこでコンラートを捕まえようとして、そして・・・・・。

ずいぶん久しぶりに日の光を見た気がして、ヴォルフラムは目が覚めてしまったのだと無感動に受け入れた。頬に手を当てるととても乾いていた、泣いていたのは夢の中の出来事だったらしい。自分の薄情さに心が冷えていく気もしたが、同時に泣く資格など自分には残されてはいない気がした。彼の手を振り払ったのは自分自身なのだから。

悲しかったけれど、彼を見ていることのできた甘い夢からは、もう覚めたのだ。コンラートはいない。



(・・・・・・ここは?)



ヴォルフラムは簡素なベッドの上で眠っていた。白いシーツと見知らぬ寝間着。知らない部屋だったが、見覚えがある。目をやると窓があった、その向こうに蒼い海が揺れている。どうやら船に乗っているようだった。一瞬、大シマロンにとらわれたのかと錯覚したが、枕元に立てかけてある自分の剣を見て、その期待を追い払った。コンラートがぼくを連れて行くはずもない。

朝日が漏れる木製の窓の木枠はその光を受け止めきれずに、白いシーツの上に窓枠の形に白く暖かい四角形を4つ作っていた。投げ出された手のひらがベッド木枠に触れれば感触はやさしい。ドゥーガルド高速艇だろうと目覚めて初めての激しい横揺れを感じて確信する。


あのまま倒れてしまったのだろうか、自分の呪いが解けて。自分で解いて。もう、彼は帰らないから。


ヴォルフラムはまぶたが重くてもう一度目を閉じた。静かに肺に空気を送り込むと、かすかに日を浴びたシーツの匂いが鼻をくすぐった。好きな香り、光をたくさん浴びたシーツの匂いをコンラートは好きだった・・・・・・



「・・・・・・気がついた?」



急に一人の空間に声がしてヴォルフラムは硬直した。ドアの前に簡素な服を身につけた村田が立っていた。片手に水の入った洗面器を持っている。そのときになってヴォルフラムは額に乗っている揺れた布に気が付いた。ずっと看病されていたのか・・・・・・まさか彼がずっと?

村田はつかつかと近づくとヴォルフラムの額の布をとって、洗面器の中に放り込んだ。彼らしくないおおざっぱさにヴォルフラムは驚くと、額に手を当てられた。



「もうだいぶ熱は下がったみたいだね、一時はどうなることかと思ったよ」

「だい、けんじゃ?ぼくはどうして・・・?」



切れ切れな声だ。前にも似たようなことがあったなあと村田が思い出すと、そのときと同じように「しゃべらないで」といった。



「君は倒れていたんだ、三日前からこの船に乗っている」

「・・・・・・そう、か」

「君は東ニルゾンの宿のベッドの上で気を失っていたんだよ。出発の日の朝に君が来ないから渋谷は最初は君が眠っていると思って君を起こしに行ったら、君が目を覚まさないって顔色変えてすっ飛んできたんだよ。ひどい病気かもしれない、おれがずっと無理させてたせいだって半泣きでね。
実際君の状態はひどかった。意識は戻らない、高熱がある・・・・・・でも、大シマロンにこれ以上とどまるのは危険すぎた。それで意識不明の君をドゥーガルド高速艇に乗せて、予定通りに出発したんだ。
渋谷にはだいぶ恨まれちゃったけどね。君はあんなに船酔いがひどいのに、せめてもう一日ってね」

「・・・・・・ユーリが」



ヴォルフラムは悔いた。コンラートを自分の手で取り戻すことは自分だけがしなければと過去の自分は思っていた。今となってはそれも笑い話だが、そのせいでユーリがどれだけ心痛ませたか想像しなくても目に浮かんだ。



「すま、ない・・・・・・ぼくのせいでユーリが、それに、だい、けんじゃにも・・・・・・」

「?ぼくは何もしていないよ、予定通りに病人の君を乗せてまで出航させただけだ」

「ユーリが、うらむとしってて、しなければいけないことをしてくれた。
ぼくのせいでユーリにせめられた・・・・・・ほんとうにすま、ない」

「・・・・・・君は律儀だね、フォンビーレフェルト卿。本当に一時は君は危なかったんだよ、渋谷の反応も仕方ないさ」



村田が苦笑する気配を察してヴォルフラムは不思議に思ったが額から手が離れて会話が途切れてしまう。しばらくすると新しい冷たい布が額に乗せられた。その手つきの優しさにヴォルフラムはひどい罪悪感に襲われた。



「ほんとうに、すまない・・・ぜんぶぼくのせいだ、ユーリにもそういって」

「いいんだよ、渋谷も分かってるさ・・・・・・それにぼくは知っていた、君が何をするつもりなのかを」

「え・・・・・・」

「知っていたよ、君がお兄さんを連れ戻そうとしていたことも、それを隠していたことも」



ヴォルフラムの目が驚きに見開かれるのを確認して、村田は静かに続けた。「ウェラー」の一族は鍵の一族だ、大シマロンにいることには何か理由があるのだろうがその理由がはっきりしない。連れ戻すことはできないにしてもせめて、その理由を聞き出したいがユーリにさえ彼は明かさなかった。
でも、突発的に肉親から、弟から強く故郷に戻るように求められれば鉄壁の心も少しは崩れ、何かを聞き出せるのではないかと期待し、ヴォルフラムを放置した。きっと彼は戻らないと思っていたが、翌朝になって落ち込むヴォルフラムからその理由を聞き出すつもりだった。


彼がそうだった。
口ではぞんざいなことを言いながら村田という他人の通して見た彼はとても「弟」に弱かった。まるで自分の急所のように「弟」を扱っていた。だからこそ、村田はすこし賭けた。


しかしその結果、接触するならここだろうと目星をつけていた東ニルゾンで朝になってヴォルフラムの意識が戻らないと知ったときは本当に血の気が引いた。取り返しのつかないことになるかと本気で後悔した。



「ひどいだろう、君が傷つくことを知っていて君を利用するつもりだったんだ」



ヴォルフラムは首をかすかにしかし、きっぱりと振った。



「おまえのせいじゃない・・・・・・最初からぼくが、馬鹿だった、愚かだった」



だって、ぼくは逃げた。彼から、自分から。



「それに、分かっていたんだ・・・違う、思い出したんだ、コンラートは、コンラートは」



彼を守るつもりで本当は彼が自分から離れていくことが恐ろしかっただけだ!



「・・・・・・ぼくの手じゃコンラートは、帰らないっ・・・・・・!」

「・・・・・・そんなことはないよ、お兄さんはきっと君に会えてうれしかったよ」



首を振る村田はとても優しかったが、そんなはずないとヴォルフラムは力なく空を見た。窓の外には月は見えない。ただ、日が夜をどんどん遠ざけて朝を始めていた。この朝を彼も見ているのかもしれない、彼は同じ空の下にいる。

それでも、遠い海の向こうに彼がいてもそれはどんな遠い場所よりきっと遠い。



















立ち去るとき村田はふいに「君が倒れたのには満月が関係していたのかい?」と尋ねた。

村田曰く、倒れて以来ヴォルフラムからは月の夜になっても以前のような不調はなく、安定していたということだった。魔力に関して以前より強いほどだといった。返答に詰まってうつむくヴォルフラムに村田は「無理はしなくていい」と気遣わしげだった。ヴォルフラムはいたたまれずずっと毛布にくるまっていた。彼はなにも悪くないのに、こんな態度しかとれない自分が未熟で幼稚でいやでたまらなかったのにそれでも動けなかった。

記憶を押さえつけていた魔力は今はヴォルフラムを取り巻くだけだった。そのせいか法力酔いも少しはマシになっていた。人間の領域から離れれば身体の調子は今までより早く回復するだろう。真昼の月を偶然見つけても、自分の内をかき回されるような衝動はもうない。ただ、今度は別の感情がヴォルフラムの心を苦しめた。






日がだいぶ高くなる頃には病室にユーリが飛んできた。

顔色を変えたユーリはヴォルフラムのとれもしない脈を診たり、味のほとんどしない病人食を勧めた。慌ただしい病人扱いにヴォルフラムが従順に従っているとユーリは不意にヴォルフラムの方を抱き寄せた。

「よかった」。その一言で彼のここ三日間の心境が伝わった。

「村田にも謝らないとな」というユーリにヴォルフラムは笑った、笑おうとした。しかし、できなかった。



「ユーリ、ユーリ、ユーリ」



ユーリを抱きしめるヴォルフラムの手にユーリが目を見開いている。それでも、ヴォルフラムはただユーリの名前を呼び続けた。



「ユーリ、ユーリ、ユーリ」

「・・・・・・ヴォルフ?」

「ユーリ、ユーリ・・・・・・コンラートが、コンラートが」



ユーリのやさしさが伝わってくると本心が、ヴォルフラムには隠せなかった。ユーリの方に額を押し当ててヴォルフラムはただ震えた。いっそ泣きたかったが、ただが震えて仕方なかった。ただ、コンラートを呼んだ。



「コンラートが、コンラートが、いない、いないんだ、ユーリ、帰ってこない・・・・・」

「ヴォルフ、大丈夫だ、大丈夫・・・・・・コンラッドには、またきっと会えるよ」



「帰ってくる」とは言わなかった。ユーリも彼の真意が分からない。

でも、きっと彼の心は理解している。ぼくよりずっと。



「大丈夫だ、コンラッドはお前が大好きだから」



違うんだ、ユーリ。ぼくが、コンラートをずっと・・・・・・。



「兄弟だろ、二度と会えないなんてきっとないさ」



凍えたように戦慄くヴォルフラムの背をユーリはただ暖めた。


































夜の血盟城はひんやりとしていて足の裏に感じる石畳も吸い付くように、静かに冷たい。その上をヴォルフラムはただ歩いていた。空を見ればもう夜半を回っているだろう、星の中で細い月がただ静かだった。満月じゃないなとヴォルフラムは残念なようなほっとしたような心境だった。


ユーリは、もういないかった。ヴォルフラムが長兄に会えた喜びで夢中になっている間に村田と共に「チキュウ」に行ってしまった。見送ることも出来なかった。



(あれから一週間か・・・・・・)



グウェンダルを子供のように引っ張って連れてきたときにユーリが帰ってしまっていた事実はヴォルフラムを打ちのめした。それは相当にみっともない様だったのだろう、本来は自分の行動を叱責されるはずだったのにグウェンダルはただ黙ってヴォルフラムを血盟城へ連れ帰った。

久しぶりに帰る血盟城ではユーリの部屋でもなく自分の部屋にあてがわれた「あの部屋」でもなけない、客室に通され、ヴォルフラムはグウェンダルにカロリアから大シマロンでの経緯を報告した。ユーリのこと、「箱」のこと、その「鍵」のこと、カロリアのこと、そしてコンラートのこと・・・・・・ただ、出来るだけ正確に報告をしているつもりだったが、グウェンダルは途中で「もういいから、休みなさい」と首を振った。続けようとするヴォルフラムに「これ以上はいい」とだけ言うと肩に毛布を掛けた。

確かに疲労している身では報告もままならないとヴォルフラムはすぐに寝台に倒れた。しかし、一向に眠りはやってこなかった。必死に眠ろうとするのだが、かえって疲労を募らせてしまう。そんな日が3日続いた。だんだんと食事もおぼつかなくなっていくヴォルフラムにグウェンダルは余計に神経を張り詰めさせていた。その姿を見ているとなんとか眠りたいと思うのだが出来なかった。

5日目に緊急措置としてギーゼラの魔術で強制的に眠ったせいで身体は少し回復した、しかし、精神の方は一向に休まらなかった。その後も眠れない夜は続いた。グウェンダルには悟られまいとしていたが今だ病人のように扱われているところからばれているのだろう。だが、どうしてもヴォルフラムに眠りは訪れなかった。

そうしているうちにヴォルフラムは夜の血盟城を彷徨うようになった。最初眠れるようにと思ってのことだったが、歩くごとにコンラートの記憶が蘇ってくるせいもあった。記憶の中の彼と自分はただ、楽しく過ごしていた。

そんな日がもう3日続いていた。そうしていると足が自然と「あの部屋」に向かった。ヴォルフラムにとって血盟城は故郷のようなもので無意識に歩いても足が自然と目的地に向かってしまう。

ヴォルフラムもはじめはそれを自制して避けた。しかし、どうしても足はそっちに行きたがった。コンラートにとっての思い出の部屋なのにヴォルフラムが「知らない」と言い放った手前行ってはならない気がしていた。

「あの部屋」でぼくは最後にコンラートに「人間は」と罵倒した。



(・・・・・・ぼくは、本当はコンラートを守るつもりなんてなかった)



何度罵倒しただろう、彼が誰かに非難される前に自分がした。庇っていたつもりだったのだろうか?
過去の記憶を閉じ込めた自分はそれでも彼が好きでたまらなかった。思い出した今なら分かる。それでも、その言葉が彼を傷つけなかったはずがないと分かっていたはずだ。
純血魔族の自分があのままコンラートの側にいることが彼のためになったとは思えない。しかし、ヴォルフラムはコンラートから離れたようでそうでなかったことも封じた後の記憶で思い出していた。コンラートが帰ってくるたびに彼を無意識に捜して、それでコンラートは余計に叔父から敵意を向けられていた。コンラートに会えば言葉をかけずにはいられなかった。コンラートを口では拒絶していたが、本心では求めていた。

実際、自分自身への呪いに苦しめられたのもそんな時だったのかもしれない。ユーリと出会うまでは自分の呪いに気づきも苦しめられもしなかった。ユーリの魔力に影響されたこともあるだろうが、眞魔国の外にジュリアの思い出が残る場所以外にコンラートが大切な場所を持ったことで、彼が行ってしまうことを恐れた。その感情はあの夜を連想させる満月の夜に近づけばそれだけ強くなった。自信の魔力で感情を記憶の一部を封じていたが故に魔力が弱まる人間の土地にいれば一層強くその感情を封じようと無意識にあがいた。

ヴォルフラムは足の向くままコンラートが「俺が育った部屋だ」といった部屋へと続く廊下へとどんどん近づいていた。なにを求めているのか自分でも分からない。傍らの窓を見上げると満月とは対極の新月に近い細い月はさっきよりも近づいた。心はもう騒がない。あの部屋血盟城で一番よく月が見える部屋だ、そうコンラートは言っていた。

きっと矛盾に満ちた自分の態度にコンラートは混乱しただろう。でも、どこかでヴォルフラムの本心に気付いていたのかもしれない、最初は距離を取っていたコンラートはヴォルフラムの口先だけの言葉を解さず以前のようで以前よりときに控えめにときにおどけた態度でヴォルフラムに接した。接する機会は絶対的に減ったが、ねじれたままでも以前と同じ関係を保っていたかった。それによって純血魔族たちのコンラートへの視線は和らぎもしたが、疑問視もされていた。以前と同じように純血魔族を利用しているのではないかという誹謗中傷は残った。



(ぼくは中途半端だった、結局はコンラートを見つければ側にいられずにいられなかった)



それでいて彼の側にいることは恐怖だった。いつ彼が誰かに、自分の側にいることで傷つけられないか気が気ではなかった。だから、自分ではあらん限りに罵倒したつもりだった。違う、ぼくはこいつのことを好きじゃない、嫌いだ、大嫌いだ。だからコンラートを傷つけるのは止めてくれ・・・・・・

そして、怯えながらもヴォルフラムはどこかでコンラートが変わってしまったことに気が付いていた。以前と変わらないように接しているようでコンラートもヴォルフラムから距離を取っていた。




・・・・・・「おれは必要ない、おれは邪魔になるだけなんです!」・・・・・・




そうなのもかもしれない、お互いに側にいることで邪魔だったのかもしれない。ヴォルフラムもコンラートもお互いに側にいれば純血魔族に疎まれた。しかし、ヴォルフラムにはコンラートには他の感情もある気がしていた。手を離したいとコンラートが望んだ理由はそれだけではない気がしていた。

あの自分に呪いをかけた夜にコンラートが言った言葉はヴォルフラムには「ヴォルフラムが必要ない」と言われたように響いた。そんなわけはない、コンラートはヴォルフラムの為にこそ言ったのだろう。でも、同時に気付いた。



「コンラートはぼくがぼくにとってコンラートを取り替えのきく存在だと思っていたと思っていた」



口に出すと喉の奥に引っかかるものを感じた。やっと泣けるのかと思ったが、涙は出なかった。誰もいない廊下はもうその角を曲がれば血盟城で一番月がよく見える部屋だ。その角でヴォルフラムはぴたりと止まった。妙な話だが、あの部屋でどんな顔をすればいいのか分からない。
傍らの窓に指先を触れさせればひやりと冷たい、消えそうに細い月明かりにはあたたかさはない。窓の向こうにはただ冷たい空気があるだけだった。

気持ちが通じていなかった。コンラートがコンラートだから、好きで取り替えなどきかなかった。だって、生まれたばかりのヴォルフラムを抱き上げたのは間違いなくコンラートただひとりで、その時にコンラートの瞳に寂しさを感じてそれを消したいと思った。それからはただその寂しさを消したいと振る舞っていた。その中でヴォルフラムはただコンラートが好きになっていった。

それは彼が取り替えのきかないということになならないのだろうか?それを否定されればぼくにはどう説明して良いのかわからない。

しかしコンラートは否定していたのだろう、ただ抱き上げただけで他の誰かが抱き上げれば、他の誰かが愛せばいくらでも取り替えがきくと。コンラートがたまたまそうであっただけで、それが必要としていることにはならないだろう、と・・・・・・もしかしてコンラートにとって自分がそうだったのかもしれない。


ただ、生まれたときに抱き上げたから、血が繋がった弟だから、それだけの理由で愛していたのはコンラートなのかもしれない。あいつは面倒見も良いし子供も好きだ。だから、ヴォルフラムもその中でいくらでも取り替えのきく「可愛い弟」であるだけかもしれない、だから問題があれば離れた方がいいと思ったのだろう・・・・・・それからは一層それを忘れようとしていたのかもしれない。その一方で彼の側にいたがるのだから相当自分は救いようがないらしい。


同じだけ想われていなかった、その失望だけではない。取り替えがきくならいつかは自分から離れていっても仕方ない、そう感じたら他に方法で彼を遠くに行かせない方法を考えなければならない。だから、彼から離れようと記憶を封じ続けた。ジュリアが死んでコンラートがいなくなったときはいまかいまかと怯えた。ユーリが来てからはユーリが魔王であることはっきりとした意思を示したことに内心心底安堵していた。とにかく、コンラートに会えないくらいなら、その記憶を封じたり罵声を浴びせている方がよかった。ひどい弟だと思う。

それでもコンラートに眞魔国から離れようと感じさせてはいけないと思っていた。眞魔国から離れれば血が繋がっているというだけのヴォルフラムをコンラートが側に置いてくれるとは思えなかった。


コンラートが本気でヴォルフラムを拒絶すればきっと側にはいられない。


ヴォルフラムは壁に頭を打ち付けた。がんがんと繰り返した。痛いとは思わない、自分の馬鹿さ加減の方がずっと痛い。ああいうやり方しかできなかったのか、間違っていたのではないのか、わからない。ただ、臆病だった。コンラートがどこへ行こうと、ついていけばよかったのかもしれない。ただ、怖かっただけだ。コンラートに本気で拒絶される前に拒絶する振りをしてきた。でも、今度こそ、今度こそ本当にコンラートに拒絶された。



だからこそ、自分の呪いは解けた・・・・・・コンラートを、失ったから。



額に生ぬるいものを感じるとそれは血だった。痛みはどうでもよかった、ただ足下から力が抜けていった。ずるりと壁にもたれかかるように石床に膝を折った。冷たさが凍みると少しだけ胸の痛みが麻痺していく、頭のどこかで「兄上が心配する」と囁いた。ああ、そうだ治しておかないと、額に手を伸ばす・・・・・・


がたん


ビクリと肩を振るわせるとヴォルフラムは角の向こうの「あの部屋」の方からだと気が付いた。

誰だ?こんな時間に・・・・・・?

額を抑えて立ち上がるとそっと角から部屋を伺った。見覚え内のないメイドが部屋の前に立っていた。見覚えがある気がしたが思い出せない。思案しているうちに彼女は意を決したようにドアを開こうとすると・・・・・・すぐに止めた。そして立ちつくす彼女にヴォルフラムは不安を感じた。こんな時間に掃除と思えないし、ただ散歩をしているようにも見えない、まさか、あの部屋になにかするつもりなのか?



「・・・・・・どうしたんだ?」



話しかけてはっとした。話すつもりではなかったのに。彼女ははっと振り返ると驚きに目を見開いた。まさか、誰かが、それも元王子がいるとは思わなかったのだろう。急に居住まいを正して、頭を下げようとした。



「頭を下げることはない・・・・・・いいんだ、本当に。
ただ、どうしたんだ?こんな時間に、こんなところで・・・・・・この部屋に何か用事なのか?」



額を抑えていることを不思議に思ったらしい彼女はようやく顔を上げた。訝しげにヴォルフラムを見る視線は額の辺りを彷徨っている。しかし、好奇心より義務感が強いらしい彼女はヴォルフラムの問いに答えた。



「はい、その・・・この部屋を取り壊すか、そうできないなら倉庫にするようにとの命令を」

「!!・・・・・な、なんだって、どうして!誰がそんなことを!?」



そんなことをさせるわけにいかない、あれはコンラートが育った部屋だ。ヴォルフラムが驚いて叫ぶと彼女は目を逸らして遠慮がちに経緯を説明した。腹の下で手を組んで所在なさげに目を逸らしている。



「その、コンラート閣下に頼まれたんです、一刻も早くこの部屋を取り壊すか、もしくは誰も来ない部屋にして欲しいと。その・・・コンラート閣下が行ってしまわれる前の、たしか満月が綺麗だった日の翌日の朝に、詳しいことはまた追って説明するから、と」



コンラートが、その事実にヴォルフラムが理解できないでいると彼女はたたみ掛けるように説明した。ああそういえば、見覚えがあると思ったら彼女はコンラートの側仕えだった。ぼんやりと場違いなことで頭を思い浮かべると、余計に混乱した彼女自身の言葉がヴォルフラムから言葉を奪った。



「だから!その、コンラート閣下が帰っていらっしゃらないとグウェンダル閣下に聞かされて余計に分けがわからなくて、私どうしようかと、いつ帰っていらっしゃるかも分からないと言われますし・・・。
ご命令の通りするのか、でもコンラート閣下がいない間に進めて良いものかと迷っているうちに、こんな風にお部屋を眺めるばっかりで・・・・・・それに、ヴォルフラム閣下の寝室をここから移して出来るだけ月の見えない場所に代えるようにと、陛下の寝室にも出来るだけ厚いカーテンに取り替えるようにと・・・・・・わたしどういう意味か分からなくて・・・・・・ヴォルフラム閣下?」



彼女が不審そうに見上げるとその瞳は余計に大きく見開かれた。

ヴォルフラムは泣いていた。どうしても出なかった涙が止まらなかった。身の内で堰を切ったように涙が溢れて、どこまでも流れている。とっさに口元に手をやったがかすかに嗚咽が漏れることまでは止められない。



「ヴォ、ヴォルフラム閣下、私何か・・・・・・?」

「・・・・・・っく、う・・・・違う、い、いいんだ、いいんだ」


ヴォルフラムはただ首を横に振った。頭を殴られたような衝撃で何も考えられない。真っ白だ。
コンラートが、何だって?この部屋を取り壊すか誰も来ない場所にしようと?なぜそんなことを、今までそのままにしておいて、今更なぜあの月の夜に。

・・・・・・決まっている、ぼくのせいだ。



「その命令を聞く、っく、必要はないんだ」



そんな必要はない。そんなことに意味があるわけではない。本当は満月のせいなんかじゃなかった。満月がぼくの愚かしさを暴くのが怖かっただけだ。

しゃくり上げながら、賢明に顔を隠して、頷くヴォルフラムに腑に落ちない様子の彼女は、なにか失言をしたかとおろおろとした。首を振ってしゃくり上げてしまう声の中で何とか「お前のせいではない、大丈夫だ」というと彼女はようやくほっとしたようだった。













彼女の背中を見送ったヴォルフラムは1人、その部屋のドアを開けた。

最後にコンラートと過ごし、彼を罵倒したときと何も変わっていない。寝台は大きく、夜の明かりに映る調度品とその影、大きな窓から目に映る光景は美しい夜の景色だ。その中にはかすんではいるが美しい月が浮かんでいた。満月ではないけれどヴォルフラムはとても綺麗だと思った。



「・・・・・・・・・」



懸命に嗚咽をこらえてヴォルフラムは寝台へと歩いた。ここで眠れぬ夜を過ごした日がそのまま残っているようにそのままだった。

ヴォルフラムは寝台の前に立つとほんの数ヶ月間のことを思い出した。記憶の解放から必死に逃げていたときに元凶であるコンラートはのうのうとなにも知らずにやってきた。たしか、この辺りにコンラートは座っていた・・・・・・ヴォルフラムはその場所に手を伸ばすと、思いっきりその場所を殴った。何度も、何度も。力任せに殴った。



(馬鹿だ、あいつは大馬鹿だ。そんな風に、そんな風にして欲しいんじゃない。どうして分からないんだ)



でも・・・・・・本当は同じなのかもしれない。コンラートとぼくはそっくりなのかもしれない。こんなに愚かなことばかり繰り返しているぼくたちは紛れもなく兄弟なのだろう。遠回りばかりして、肝心なところには触れない。だから、いつまでたっても空回りばかりしている。本当に大馬鹿だ・・・・・・ぼくも、あいつも。



「っ・・・・う、っく、うわあああああああ!あああああああああああ!」



叫べば叫ぶほど痛みは増すばかりのようだ。

何度も殴ると、力任せに突き出された手がその勢いに引っ張られ体ごとそのまま寝台に倒れた。涙でぐちゃぐちゃになった頬をシーツの海にうずめると良い匂いがした。日の匂いのするシーツの匂い、コンラートが好きな匂い。

涙が枯れ果てるかというほど泣けば、自然と唇はその名前を口にした。



「・・・・・・コンラート」



返事は無い、しかしヴォルフラムは何度も彼を呼んだ。

ちっちゃいあにうえ、コンラートあにうえ、コンラート・・・・・・どれも彼をその時々で想い呼んできた名前だった。


コンラートはぼくのことをただ血が繋がっているだけの弟だと思っているかもしれない、いくらでも取り替えのきく存在だと想っているかもしれない、もう眞魔国には帰らないかもしれない、二度と・・・・・・ぼくとこの部屋で過ごしたときのように話すことはないかもしれない。それはあり得る未来のような気がした。彼が離れていくことだけを恐れ、彼と向き合うことを避けてきた結末としてはふさわしいだろう。


それでもユーリの言葉を思い出す。



・・・「二度と会えないなんてないさ」・・・



そうかもしれない。コンラートは生きていた、だとしたらまたきっと会える。



「コンラート・・・・・・兄上」



だから、きっとまた彼を思っていれば出会える。声が聞こえる、薄茶の中に銀色の星を見ることが出来る。力の限りに手を伸ばせば、彼の手をつかむことができるかもしれない。

すべてが終わってしまったのではない、同じ月の下で生きているのだから



「好きです、ぼくはあなたが・・・・・・」



あなたがどう思っていようとも、心からかけがえのない人として。









ようやく止まりかけた涙をヴォルフラムはそっとぬぐうと寝台から立ち上がり、バルコニーへと出た。しんと清流な風が泣きはらした眼をやさしく冷ました。

見上げれば細い月がもう沈もうとしていた。はかなく消えてしまいそうな月を見つめる。この月が満ちる頃にはコンラートはどうなっているのだろう、大シマロンから何の連絡もないのか、それとも戦争のような恐ろしいことになってしまうこともあり得るだろうか・・・・・・ユーリは決してしまいが大シマロンはわからない。敵になってしまうかもしれないと足下が真っ暗になりそうだが、先のことはわからない。



それでも、この月を、いつか満ちる月を彼も見るかもしれない、ぼくと同じように。

だから、月を見るたびに彼を想おう。幼い頃のように彼の無事を、心の平安を願って、ぼくの思いが届くように、何度でも。拒絶されても、ただ、それだけを。





たとえ何度拒絶されたとしても、ぼくはあなたへの月のむこうにあなたのことを想います。


























fin






























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