あの月の夜、何かが壊れた。



















あなたへの月 9

















コンラートとヴォルフラムが血盟城で過ごした日々はさして長いものではなかった。

長い寿命である身であるのに早々に16歳で成人する、そのわずかな日々のほんの一部だった。ヴォルフラムが生まれる前から父に連れられて諸外国を旅していたコンラートは弟の世話をするようになり、それまでは長い駐留を好んでいなかった彼自身の希望から旅の合間の間隔が以前より長くはなっていた。しかし、それでも1年の半分は血盟城にいることはなかった。

それでもヴォルフラムにとってはその日々は何より鮮明なものだった。生まれた自分を真っ先に抱き上げた兄は側にいない間もヴォルフラムの心を占領して、いつも彼を焦がれさせていた。次はいつ会えるのかと、いない日々には早い帰りを祈り、帰ってきた日々はただ嬉しかった。コンラートが行ってしまうときは泣いていた記憶しかない。

何故コンラートなのかは分からない。ヴォルフラムを愛する者はいくらでもいた。母からも、一番上の兄からも、叔父からも誰からもヴォルフラムの知る世界の人々はヴォルフラムを愛した。そして、純血魔族で十貴族のヴォルフラムを表立って中傷する者などいるはずもなく、眞王に映し身のその姿まで持つことになると、愛され尊ばれることは予定調和となった。

それでも、ヴォルフラムは他の誰でもなくコンラートを恋しがった。まるで、生まれて初めて抱き上げられたその瞬間にコンラートとなにか約束を交わしたかのように。
















「・・・・・・、・・・・・・・・」

「・・・・・・・」



いくら集中しようとしてもちっとも耳に入ってこない声をそっと聞き流して、開いた本の上に精一杯顔を近づけてヴォルフラムは目をこらした。しかし、見ていたものはページに流れる文字ではなく少しばかり高い位置にある窓の外の風景だった。まだ幼子同然の小さな手では届かない意地悪な窓を睨んで、その先にある光景が変化する時を待っていた。窓の外には血盟城の東の門で門番が退屈そうに背伸びをしていた。

平和なその光景にヴォルフラムは頬をふくらませた。焦れたヴォルフラムはこっそり聞き流していた事実は忘れて、その門の先の青い草原が見えるように窓へと顔を近づけた・・・・・・



「殿下?どうかしました?」

「!?い、いやっ!なんでもない!!」



美しい純血魔族の女性が眉間に似合わない皺を寄せたヴォルフラムをのぞき込んでいた。その手にはヴォルフラムの前に開かれた本と同じものが握られていた。腰に手を当てて怒るでもなく、さりとて非難していなわけではなさそうな不思議な表情のまま彼女はヴォルフラムの前の本に人差し指を当てた。



「今はこのページではありませんよ?」

「そ、そうだったのか!?きがつかなかった!!」



どんなに鈍感なものでも微笑ましくしか感じないようなばればれの演技で、ヴォルフラムは授業を聞いていなかったことをひた隠しにした。

王佐となって忙しくなったギュンターの代わりに、叔父から学問の師として選ばれたその女性がヴォルフラムは苦手だった。ギュンターと違ってヴォルフラムが何をしても怒らないし、罰を与えることもない。ただ、仮面のように笑うだけだった。ギュンターの厳しい指導を窮屈に感じていたヴォルフラムは何を考えているか全く分からない彼女を少し不思議に思いつつも、最初こそお咎め無しの自由を喜んだ。

しかし、それもつかの間だった。彼女は決して怒らないその代わりに、ヴォルフラムのすることなにもかも叔父に告げ口するのだ。別の意味で窮屈になってしまった。



「・・・少しお疲れですか?休憩しましょうか、誰かお茶とお菓子を・・・・・・」

「いや、いい!つかれていない!」



それでは、この部屋から追い出されてしまう!それだけは避けなければならない。この部屋が一番よく見えるのだ、ここからはあの人が帰ってくる道に一番近いし、高い場所にある。

慌てる生徒の様子より、その視線の先に彼女は少々顔を曇らせた。まるで見てはいけないものを見たように。



「ヴォルフラム殿下、その・・・もしかしてコンラート殿下を待っているのですか?」

「え!?なんでしって・・・・・・あ!」



両手を口に当てて慌てる、語るに落ちた幼い王子から若い家庭教師は目を逸らした。戸惑うと、彼女は口を開いてヴォルフラムに笑った。ヴォルフラムにも分かるほどの引きつった愛想笑いだった。



「その・・・きっとコンラート殿下は今日は帰っていらっしゃいませんよ。最近は天候も悪かったのでいくつか橋が落ちているという噂ですし、早くて今日というお話でしたし・・・・・・。
それに、あの・・・フォンビーレフェルト卿が今晩こちらにいらしっしゃるというお話ですし」

「おじうえが?」



ヴォルフラムは目をぱちくりとさせた。ヴォルフラムと叔父はいつも手紙のやりとりをしているがそんな話は聞いていない。



「おじうえがいらっしゃるなんて、ぼくはきいていないぞ?」

「それは・・・・・・あの、とにかくそれで今晩のうちにヴォルフラム殿下をビーレフェルトに」

「え?なんだ?」

「あの・・・・・・だから、コンラート殿下には」



その瞬間、窓の外に馬のいななきが響いた。重い外壁の扉が動く大きな音と共に蹄の音が聞こえた。



「・・・あ!あにうえだ!」

「殿下!?行っては・・・!」

「ちっちゃいあにうえ!!」

「殿下・・・・・・!」



「駄目です」という彼女の声は、聞こえなかった。


















「ちっちゃいあにうえ!」

「ヴォルフラム?」



ダークブラウンの髪に銀の星を散らした薄茶の瞳、間違えようもない次兄の姿にヴォルフラムは真っ直ぐに走った。ヴォルフラムがめったに足を踏み入れることのない厩でようやく息が付けたノーカンティーの鬣を撫でているコンラートに転がるように滑り込む。驚いたがちゃんと抱き留めた次兄の顔に頬ずりをして、そのちょっと硬いけれど暖かい頬に次兄が帰ってきたこと確信を満足ゆくまでヴォルフラムに伝えた。



「えへへ、ちっちゃいあにうえ。おかえりなさい、ぼくずっとまってたよ」

「・・・・・・うん、ただいま」



くっついて離れない弟の重み、形、高めの体温、その全てにコンラートは安らかに目を細めると乱れた金色の髪をそっと梳いた。頬ずりを止めない弟と髪を梳き続ける兄は、しばらく再会をただ触れることで身の内に沈めた。

浮かれるヴォルフラムはふとコンラートの頬に小さな傷があることに気が付いた。よくよく見ればマントにところどころ切れ目があるし、埃の匂いがする。大変な旅だったのだろうか?血盟城の他はビーレフェルトの城といつくかの保養地以外を知らないヴォルフラムにはとても苛酷な旅の痕跡に映った。くっつけていた頬を離すと碧色の瞳が銀を散らした光彩と再開して、少し伏せた。ためらいがちに口を開く。



「あにうえ、げんきでしたか?たびでこまったことはなかったですか?」

「ん、特になかったよ。今回は天候も悪くなかったし、おかげ予定より早く帰れた」

「・・・ほんとうですか?」

「嘘なんかつかないさ、ヴォルフはどうしてた?」

「ん・・・いいこにしてたよ、あにうえがまえにいってたみたいにいいこでまってたよ」

「本当か?今はギュンターの授業じゃないのか?」



「また抜け出したのか?」というコンラート咎めるようで楽しそうな眼に、ぎくとヴォルフラムは目を逸らしたが「ちがうもん」と口を尖らせた。嘘は言っていない、彼女の授業を抜けだしてはきたけれど、ギュンターの授業から抜け出したわけじゃない。しばらく兄はまだ弟の家庭教師が代わったことを知らないゆえにヴォルフラムは不慣れな嘘をついた。

ヴォルフラムが「ちがうもん」と本人にしか分からない言い訳を呟いていると近づく足音があった。振り返ると家庭教師の彼女と何人かのお付の侍女が追ってくる姿がすぐそばに迫っていた。もうばれたのか、とヴォルフラムは思っていたがコンラートが城に帰ってきたときのヴォルフラムの行動パターンは血盟城の誰もが知ることだった。

やっぱりという顔をするコンラートとヴォルフラムは口を尖らせて目を逸らした。だって・・・今度は半年だったのだ。
コンラートはヴォルフラムが生まれてからあまり長い間血盟城をはなれることはなかったが、 今回は今までで一番長かった。魔族にとってささやか過ぎる時間の別離であったかもしれないが、ヴォルフラムにとってはコンラートがいない日々はさびしかった。楽しいこと、嬉しい事、きれいなものを見るたび次兄に伝えられないことが心残りだった。

目を逸らしている間に家庭教師はヴォルフラムの傍らで息を切っていた。ばつが悪くてヴォルフラムがコンラートのほうを見ると彼女の顔に再会した。彼女はヴォルフラムではなくコンラート見ていた。ヴォルフラムは奇妙な思いだった、彼女はなにかに怯えているようだった。
何かをいいたいような、何もいえないような顔をすると第二王子の帰還に短く挨拶をした。コンラートがいつもの笑顔でそれに答える間にヴォルフラムはお付の侍女二人に抱きかかえられてしまった。



「わあー!なにをする、はなせ!」

「ヴォルフラム殿下お許しください、しかし今は勉強のお時間ですよ」

「う・・・でも、ちっちゃいあにうえがかえってきたのに」

「それはお勉強が終わってからです、あまり抜け出してばかりですとギュンター様に怒られますよ」

「だって・・・あにうえ!ちっちゃいあにうえもなにかいってよ?」

「うーん、そうだね。みんなには悪いけど、せっかく久しぶりに会ったんだし今日だけは・・・」

「だめです!」



和やかだった空気が彼女の叫びで急に固くなった。驚く一同の中で、叫んだ彼女自身が一番驚愕したようだった。



「す、すみません、コンラート殿下、ただ・・私は」

「あ・・・いや、ごめんね。君の仕事を邪魔してしまって。あなたは?前にはいなかったよね?」

「そ、その、ただ、私はフォンビーレフェルト卿に頼まれて・・・」



言葉を濁らせてうつむく彼女にコンラートは何かに得心がいったらしく、ヴォルフラムに向き直って「今日は帰りなさい」と静かに言った。さっきは引き止めてくれていたのに、とヴォルフラムは不満に思ったがコンラートの硬い表情に頷いた。

侍女に手を引かれるヴォルフラムはコンラートを見上げた。



「ちっちゃいあにうえ、きょうはいっしょにいられるよね?ごほんをよんでくれるよね?」

「もちろん、旅での話もしてあげるよ」

「うん!・・・そういえば、あにうえのちちうえは?」

「え?」

「あにうえのちちうえは?きょうはいないの?」



ヴォルフラムはあまりコンラートの父が好きではなかった。大して面識があるわけではないが、コンラートが父親を大好きなことはその言動からなんとなく知っていた。いつもは一緒の二人が片割れであることが不思議だった。

コンラートは奇妙な表情を浮かべた。うれしい中で何か悲しいものを見つけてしまったように。



「その、父上は・・・ちょっと調子が悪いから遅れてくるって。多分夜には血盟城に着くと思うよ」

「!?だいじょうぶ!?びょうきなの!?」

「大丈夫だよ、そんなにたいしたことはないよ。ただ父上も最近無理ができなくなって・・・いや、とにかく平気だよ。いいから、ヴォルフに会いにいきなさいって、さっさとおれを先にいかせて・・・・・・」

「そうなの・・・あにうえのちちうえにおれいをいわないとね」

「・・・・・・いや、本当にたいしたことじゃないから」

「?・・・はい」



父に会わせまいとするような、兄の態度を訝しく思ったがヴォルフラムは頷いて、またひとつ心に鍵をかけた。






















ヴォルフラムはコンラートが何かをずっと隠していることに気が付いていた。

それが何なのかは分からなかった。ただ、幼いなりに気を遣ってさりげなくそのことに触れるとコンラートは、いつもと同じ笑顔を必死に作りながら話題を逸らした。コンラートは言いたくないのだ、と子供心に後悔した。



(ちっちゃいあにうえをこまらせたくない)



そして、ヴォルフラムはコンラートを困らせないように何にも気付いていないふりをし続けた。

ヴォルフラムは子供扱いが嫌いだった。大人には大人の話があるとは幼いながら知っているつもりだった。母はあまりそんな話はしていないようだったが、兄や叔父は大人たちと一緒にヴォルフラムにはよく理解できない話をしていて、話の邪魔をすれば「後にしなさい」と窘められ、「なんのおはなし?」と聞けば「お前はまだ子供だから、いつか大人になれば分かる」と頭をなでられてた。よく分かりはしなかったが「大人の事情」を分かっていない子供っぽい真似はしたくなかった。

いつか大人になったら教えてくれる。そう思って、何度も何度も心に鍵をかけた。そして、その度に苦しくなった。気が付いていることを、気づいていない様に振舞うこと、心配なこと、押さえ込むことは苦しかった。



心には色々なものが、それからも溜まっていった。重臣のコンラート避ける態度、母が時折隠している悲しそうな表情、長兄の苦い表情、時折見せる叔父のコンラートへの冷たいまなざし・・・その全てに鍵をかけた。そして、今日の家庭教師の態度、コンラートの父を話す時の妙な様子も同様に封印された。

コンラートがそれに触れることををとても嫌がっていることにヴォルフラムはだんだんと気づき始めていた。

触れると痛む傷なのかと本能で気が付いていたのかもしれない。触れてはいけないものなのかと、触れてコンラートに傷つける恐怖に怯えていた。


それでも、いつか話してくれると思っていた。いつかは教えてくれると思っていた。次兄の愛を心から信じていたヴォルフラムにはコンラートへの疑いは微塵もなかった。


信じて待っていれば、きっといつか、コンラートを傷つけることなくこの心の鍵を解けるのだと信じていた。










それが、あの満月の夜を境に壊れ始めた。






















......to be continued......

























2008/4/29