ナイトメア 〜胸毛が生えた日〜
「ユーリ、結婚しろ!」
ばーんと大きな音を立てて、魔王の執務室の扉を開いた(というか蹴った)ヴォルフラムは開口一番にそんなことを言った。
「い、いや、ヴォルフ、今は・・・・・・」
いつもながらの光景にユーリはちょっとだけ困った。ヴォルフラムが異文化コミュニケーションの末の誤解に結婚を迫るのはいつものことだ。が、そのほかの要素が少しだけいつもと違う。
いつものようにコンラッドに護衛され、グウェンダルに苦い顔をされながら執務を代行してもらい、ギュンターに汁を噴出してもらわないように執務をしてもらっているのはいつものことだが今日はもう一人の人物が執務室にいる。
「結婚・・・だと?」
領地から報告に現れたフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナはたった今ユーリに差し出した書類を引っ込めると、地獄の業火を一瞬で凍結させそうな瞳で一瞥した。その目は雄弁に「ふざけるな、誰が貴様にうちの可愛い甥っ子をやるか。この泥棒猫!」と言っていた。腰の剣に手が伸びた気がするのは気のせいだろうか。
そんなことを気にしないヴォルフラムは「さあ、ユーリさっさと結婚しろ」とずんずんと魔王の執務机に近づいた。それをさりげなく遮るようにヴァルトラーナは甥に向き直った。ちょうどユーリとヴォルフラムの目が合わないような、絶妙な位置で。
「ヴォル・・・・・・」
「ヴォルフラム、なぜ急にそんなこと言い出す?悪いことは言わない、やめなさい。即刻」
「そうです、毎度毎度このなんちゃって婚約者は私の陛下に図々しくも結婚結婚と!」
ヴォルフラムに話しかけようとしたとたん遮られた。コンラッドは少し首をかしげ、グウェンダルは眉間のしわを深くしている間に、真っ先に動いたのはギュンターとヴァルトラーナだった。ユーリがヴォルフラムに何か言う間もなく二人はヴォルフラムに近づいた。それぞれ思っている相手は逆だが「結婚なんぞさせるか」という気迫は本物だった。
「大丈夫です、叔父上!ぼくは何の問題もなく即刻ユーリと結婚できます」
ギュンターに関してはスルーするらしい。叔父のわなわなと震える両手を気にすることもなくえっへんとヴォルフラムは薄い胸を張っていた。よっぽどの自信だ。
その自信はどこから来ているんだろうとヴァルトラーナの横からはみ出たユーリはヴォルフラムと目があった。「やめなさいやめなさいそんな男」と繰り返す叔父と「私の陛下」を連呼するギュンターに挟まれながらもどこを吹く風でヴォルフラムは自信たっぷりにユーリに笑い返した。
そして、ヴォルフラムは胸をバンと拳でたたくと絶世の美少年の満面の笑みで堂々と公言した。
「胸毛が生えたんだ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?
その瞬間、執務室のヴォルフラム以外の男たちの心は1つになった。
胸毛?むなげ?ムナゲ?・・・なんだっけ、それ。毛の一種だろうか、どこから生えてくるものだったろう。まつげの一種?髪の毛の一種?
胸毛、胸・・・胸から?胸から毛が?誰の胸から・・・・・・
ヴォルフラムはもう一度、今度は手の平で自分の胸を叩いた。「安心しろ」と言わんばかりに。
「ユーリの出した条件は困難なものだったが、今はそれもいい思い出だ。
ユーリ、喜べ・・・・・・艱難辛苦の末についにぼくに胸毛が生えたぞ!「胸毛が生えたら伴侶として認める」という約束通り結婚しろ!」
「小僧、貴様ああああああ!」
「ユーリ、何故ですか!?いくら何でもひどいですよ!」
ギュンターが絶句しヴァルトラーナが硬直している中で、真っ先に場に響いたのは2つの声だった。真っ赤になって怒りを露わにしてユーリを襟首をつかんだグウェンダルと、真っ白な顔色でユーリの手を握ってぶんぶん振り少し目の端に涙をにじませるコンラッド。二人に挟まれてユーリは窒息しそうになった。
「貴様、結婚を盾に弟に何を言った!言え、言ってみろ、む、胸、胸毛がどうとか・・・」
「ユーリ、何故です。どう考えても無茶・無理・あんまりでしょう。何故、何故、そんなことを言ったんです!
そんな何かを失うことはあれども、何かを得ることは決してないような残酷な要求を!?」
「ちょ・・・・・・ふたりとも、くるし・・・・・・」
「弟はな、ヴォルフラムはわがままプーだが、決して人を疑うような人物ではないんだ。そのヴォルフラムに、貴様は甘い言葉をエサに恐ろしい罠にうさぎたんを捕らえるようなことを・・・くっ、私の目が至らなかったためにこんな事態に!」
「ヴォルフのことをユーリは誤解しています。あの子は本当にいい子なんです、あのままで十分なんです。
どうして、そこに胸毛なんですか?不要であることは明白です、明らかに何か違うじゃないですか!」
「苦しって・・・・・・二人ともいい加減にしろよ!」
ユーリは残酷な現実を前に嘆き怒り狂い悲嘆に暮れる二人の兄たちを「えいや!」と振り払った。鍛え上げられたはずの軍人の二人はあっさりと振り払われよろめいた。心理的なよろめきの影響も考慮する必要があるかもしれない。
「いい加減にしろよ、二人とも!さっきから胸毛のせいでヴォルフの価値が下がったみたいに!
ヴォルフの価値は外見か!?つるつるの胸板なのか!?もじゃもじゃになったら何がだめだって言うんだ!?
そんなはずないだろ!ヴォルフは胸毛があったってヴォルフだ、身体的特徴なんて関係ない!」
毅然と言い放つ王の姿にグウェンダルとコンラッドは不意に感動を覚えてしまった。
「胸毛が生えてもヴォルフの良さには変わりはないだろう!」
毅然と言い放つ漆黒の瞳に兄たちは打ちのめされた。
確かに弟に、む、胸毛が生えたところでヴォルフラムには違いない。可愛い弟、いや天使だ。何の問題もあろうはずがない、自分たちは身体的な特徴にとらわれて弟の本質を見失っていたのか・・・・?いくら母親似で美しいからってヴォルフラムの価値が外見にあると、錯覚してしまっていたのだろうか?愚かなのは自分たちだったのだろうか?
腰に手を当ててご立腹のユーリ陛下を前に打ちのめされかけている迷える二人の兄たちを救った声は意外なところから現れた。
「だまされるな、フォンヴォルテール卿!ついでにウェラー卿!」
ユーリの言葉に説得されかけて二人に届いた声はヴァルトラーナのものだった。はっと二人が振り返るとヴァルトラーナは顔色をどす黒く変色させて、懐に手を入れるとつかつかと歩み寄ってきた。その顔にはユーリに向けて「一生恨んでやる、一生涯呪ってやる」と書いてあった。
「陛下は仰った、身体的特徴などの変化ではヴォルフラムの本質には何ら変わりはないと。確かにその通り!
しかし、そもそも事の発端は陛下がヴォルフラムに胸毛が生えていないのに「胸毛が生えれば結婚してやる」と言ったこと!それこそが陛下自身が一番身体的特徴にこだわっている証拠ではないか!」
ヴァルトラーナはユーリにびしりと指を指して敢然と言い放った。限りなく痛いところをつかれたユーリは「ううっ!」とよろめいた。この事態の原因は誰にあるかは明白となってしまった。
よろめいたユーリにヴァルトラーナはぎろりと視線だけで人が殺せそうな視線を送ると懐から取り出したものを床に思いっきりたたきつけた・・・・・・一本のナイフが赤い絨毯の上できらりときらめく。何でそんなものを持っているんだろう?懐に常備しているのか?・・・何のためなのかはユーリは考えないことにした。
「さあ、陛下、拾ってください。決闘です」
「ちょ、ちょっと待てよ、いくら何でもそれは・・・話せば話せば分かるから!!」
「陛下、話してももう取り返しがつかぬ事もあるのです。生えた事実は取り返せないのです・・・・・・さあ、ナイフを拾ってください。それとも力尽くでナイフを拾う方がお好みですか?」
「待ってくれー!だ、だれか止めて」
「・・・・・・・仕方ない今回はばかりは妥当な判断だな、ヴァルトラーナ。全く私も一瞬だまされかけた」
「ユーリッ・・・!くっ、分かっています、あなたの身を危険にさらすなんて・・・・・・でもこればかりは仕方がないんです!」
「そんな二人とも−!?冷静になって考えようよ!!?」
「皆の意見は一致したようですな・・・それでは、陛下、心の準備はお済みですか?」
「い、いやあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!あーれー・・・!」
三人の魔の手から逃れられないユーリが絶叫している背景でギュンターとヴォルフラムは格闘していた。
「嘘おっしゃい!私の陛下が胸毛が生えたならなどという理由で私をおいて結婚などするはずがありません!」
「ユーリがそう言ったんだ!だから結婚する。退けギュンター!そしてどさくさに紛れて「私の」をつけるな!」
「だいたい、本当に生えているのですか!?この間成人したばかりのようなおしりに卵の殻の付いたひよっこのあなたに胸毛など・・・・・・見せてご覧なさい!」
「な、ななな、なにをするー!?」
ギュンターに押し倒されるなんて!?ユーリにされる予定だったのに・・・!とヴォルフラムが嘆く間もなく、ぶちぶちと弾けてギュンターの手によって飛ぶシャツのボタン。ギュンターに引き裂かれた白いシャツはもうすでにその用を達することはできずヴォルフラムの胸は丸出しになった。
そして、向こうに見えたヴォルフラムの胸から・・・・・・ひらりと細い一本の金色の毛が床に落ちた。
「・・・・・・は?」
「あああああああーーーー!?」
「・・・・・・何ですか今のは」
「な、なんてことをするんだギュンター!せっかく、やっと一本だけ生えてきたのに!」
「な、何ですか、その、あなたの胸には見たところどこにも胸毛が生えていないようですが・・・」
「今、お前のせいで抜け落ちてしまったんだ!あああ、せっかくアニシナの育毛剤の力を借り、ギーゼラの胸毛の生える体操を朝昼晩と一ヶ月続けたというのに・・・・・・抜け落ちてしまうなんて、全部ギュンターのせいだ」
ヴォルフラムははらはらと嘆き悲しんだ。悲しそうに自分の胸を見下ろしてそこに何もない事実に打ちのめされていた。しかし、ギーゼラ?
義娘が「本当に効き目がない健康法」とやらを布教しているという噂は本当だったのだろうか・・・・・・フォンクライスト卿の胸にヴォルフラムに対する罪悪感が芽生えた。思わずすっかりしょぼくれた小さなその肩にぽんと手を置いて「また・・・生えますよ」と言ってしまうくらいに。
なんとなく和解している後ろでユーリ陛下が三人に決闘方法の有無を問い詰められていることに、二人が気が付くのはもう少し先の話。
FIN
あとがき
これをユヴォルと言ってしまうあたり、ナナカマドも人間ができてきた気がする(別の方向で)。
ペーパーネタが元です。CDでも言ってましたけどね、胸毛。いや、実際生えたらこんなもんな気がする。
まあ、ペーパーとCDでは長男も次男も叔父上も陛下が「胸毛が生えたら結婚する」と言っていたのは知っているんですがね。いや、でも実際生えたらみんなこれくらい取り乱すような気が・・・。まさかと思ってみんな止めなかったんだけど、そんな!みたいな心境と言うことで。
ヴァルトラーナは書いてて楽しいですね、いろいろと。公式で明らかに三男>陛下がはっきりしているせいでしょうか。まあ、マニメではだんだん籠絡されて言ってるみたいですが。原作の彼が出てこないせいで、少しこの話マニメと原作の設定がごっちゃになってるなあ。特典ドラマCDのような状況というか(あれも判然としないし)。
しかし、事実が判明したところで毒女の育毛剤に弟が手を出したことによって長男にとっては結局許し難いことになるんだろうなあ。叔父上も切れるかもしれないし、陛下の味方は次男くらいか・・・・・・(あ、三男と王佐もか)。
2008/12/29
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