ヴィクターは適度な温もりの部屋で目を覚ました。
「・・・・・・あれ?」
見るからに安全な場所だった。
眠っていたのは窓辺のベッドらしく、傍の窓から見える風景と重力を感じさせないスプリングの効果で宙に浮いた錯覚を受ける。
全身が超音波でズタズタになった・・・・・・はずなのに痛みを感じるはずの全身はちっとも痛くない。何とか動く右腕を動かす布に巻かれた感触がする。
どうやら誰かに手当されたらしい。
眼球の動きだけで周囲を確認する。右側には大きな窓に夕日のように赤いカーテンが掛かっている。左側には誰もいない部屋。左の手の届く丸テーブルの上に水差しと炎が揺れる蝋燭立て。光明石もガスも使わずに蝋燭立てとはこの部屋の主はアンティークな趣味があるらしい。
(火は本物か、逃げるなら持っていくか?)
しかし逃げる以前にここはどこなのだ?
ゆっくりと瞬きを繰り返し、記憶を巡らせる。北の荒野、スカイクロウのダメージ、巨大なコウモリ……あの真紅の吸血鬼。
「あいつはどこだ・・・・・・そうか、確か俺は血を」
「気が付いたのか、ヴィクター」
「・・・・・・吸血鬼の女王!?」
ほんの十秒前誰もいないと確認したはずなのに、当たり前のようにベッドには女が座っていた。女というより少女、ヴィクターとほど変わらない年齢に見える(吸血鬼なので見えるだけだろうが)。肖像画通りのあり得ない美しさと紙の色は間違いない。
「……なぜ俺の名を知っている?」
「近隣の王族の名前くらい覚えるさ。私はフロリゲン、北の山の城の主人だ。まあ一部では吸血鬼の女王などと呼ばれているらしいが」
「お前が俺を助けたのか?」
「おやおや、あまり派手に動いてはいかんぞ。君は二日も目を覚まさなかったのだ」
フロリゲンは初対面よりずいぶん寛いだ服装になっていた。白いブラウスに赤いハイウェストのスカートが髪と違った赤色で髪の色を一層引き立てていた。初対面の派手な服は外出用らしい。
「まさか手当をしたのはお前か? 何が目的だ」
「君は拾った子犬がけがをしていたら助ける理由をいちいち探すのかい?」
思い出してきた……確かスカイクロウを巨大コウモリに破壊された後、この吸血鬼が現れたのだ。ヴィクターは腰に手を伸ばしたが、短剣はない。胸のベルトに手をやるがナイフもない。
というか、服が違う。旅装から寝巻きになってる。着替えた記憶はない、つまりは。
「ふ、ふふふ服が!? ……ま、まさかお前が!?」
「ああ、ぐったりしていたからな。私の手で全身くまなく脱がせて、新しい寝巻きに替えた。……下着までな」
「こ、ここここのセクハラ女!」
負けるとわかっていても女王にやられっぱなしというのは出来なかった。せめて胸ぐらをつかんでやろうと・・・・・・。
むに。
「え、なにこれ?」
「・・・・・・君、なんだねこれは?」
手元が首から下に狂った。触れたのは手に収まるちょうどいいサイズの乳房。吸血鬼が相手とはいえ流石に恥ずかしくて、手を離す・・・・・・はずが、その手をガシィと女王の手がつかむ。
おかげで胸から手が放せない。
「君はまさか私に一目惚れでもしたのか? いや自惚れるつもりではないのだが、私の容姿を作った人間は芸術家でな」
「離せよ、離せ離せ! こ、このままじゃ」
「私の外見年齢で一番美しい吸血鬼の少女を作るために、全世界からありとあらゆる少女の肖像画を集めたらしい。それはいいのだが私の肖像画を大量に作成して各地にばらまくのは勘弁してほしかったな。君も見ただろう私の肖像画を」
「勘違いするな、俺はお前に興味なんかない! だからこの手を離せ!」
「では一つ尋ねよう。君は色情狂か?」
「はあ!?」
離せ、離せ。もう一分以上これ以上掴まないように後ろへ後退しているんだ。
「異性に対する劣情を持て余し日々過ごしているのか。ほら、瀕死からようやく目を覚ましたのにこんな事するし、私が人間など一ひねりの吸血鬼の女王と知っているはずなのに・・・・・・死を厭わない色情狂か?」
「違う! い、いいから手を離せ」
胸から手が離せないだろうが! しかし女王、フロリゲンはずいっと身を寄せる。おかげで彼女の澄んだ碧の瞳に胸を掴んだままのヴィクターが映っているのがいやでも見える。白状しろ白状しろと迫ってくるフロリゲンを遠ざけるために後ろへ引く。しかしすぐに壁が!
「質問がある、君はいつもそうなのか? 異性であればその全裸にしか興味がないとでも、自分の年頃なら仕方ないと供述し続けるのか? 君は年齢か? 十代に十代三十代とその言い訳を続ける気かい? 君自身には個性がないと?」
「異性への興味なんてどうでもいい! 王になることしか興味はないから手を離せ! なんでもいいから手を離せ! セクハラになったのは事故だ、このままじゃ」
弾みで揉んでしまうかも、とは言えないのがヴィクターの最後の純情さだった。
「ふむ、君は異性であれば幼女でも老女でも吸血鬼でも胸部に異様な執着を示して、無差別に揉む・掴む・触れる・ストーキングする色情狂ではないと・・・・・・?」
「本気で失礼な吸血鬼だな!」
「ではなぜ三分も私の胸から手を離さない?」
「お前が俺の手を掴んで離さないからだろうがこの怪力! 三秒で離すとこが三分は経過しちまっただろーが! 実はお前が色情狂なんじゃないか!?」
「あ、本当だ。忘れてた」
ようやくフロリゲンは手を離した。そしてブチィッという不快な音ともにヴィクターの右腕はもがれて転がった。
ちぎれた自分の腕に目が点になる。
「・・・・・・俺の腕が」
「あ、すまない。私は異性との接触は少なくてな。らしくない動揺をしてしまったようだ。すまない、腕がとれてしまった」
「・・・・・・・痛くない?」
「ふむ、今くっつけながら説明する」
フロリゲンは恐ろしいことに懐から針と糸を取り出し、転がっているヴィクターの腕をとった。・・・・・・ありえないことに、その腕の断面は血も肉もなく黒い闇が液体のように少しこぼれているだけだった。
「とりあえず、君は吸血鬼になったんだ」
さらりととんでもないことを言いつつ、針に糸を通した。
ちくちくちくちく。侍女がやるには見慣れた光景だが対象が人体(しかも自分)というのは異様だった。
「俺が一度死んだ?」
「そもそもヴィクターは先代様の使い魔の攻撃で生き絶える寸前だった。覚えているかあのコウモリだ。かわいいデザインだったな」
どこがだと睨みたいが、それよりも目の前の裁縫に目が離せない。痛みはないのに針が通り糸に締め付けられる不快感は消えない。
「あれに攻撃されてヴィクターは九割以上死んでいた。そのままにしては死んでしまうのでしまうので、人間の血液をすべて抜き我が体液を与え下級の吸血鬼とした。・・・・・・仕方がなかったのだぞ、あのままでは死ぬしかなかったのだから」
「・・・・・・」
「今はようやく目が覚めたが、あと一週間は使い魔でいてもらう。蘇生には成功したが健康体になるまでにはそれくらいはかかる。それまではこの北の宮で客人になってもらう。その頃にはちゃんと人間に戻してやる」
「・・・・・・どうして?」
「助けた理由? さっき言っただろう。助けることに理由なんかない。ただ困っていたから出来ることをしただけだ」
玉結びを終えて裁縫用のはさみで糸を切ると腕はきれいに戻った。
(一度死んで、吸血鬼として生き返った・・・・・・?)
いいニュースと悪いニュースだ。一つは死なずにすんだ。もう一つは吸血鬼では王にはなれない。
「俺は王族なのに・・・・・・吸血鬼なんて最悪だ」
「ふむ? やはり吸血鬼は世界の嫌われ者か」
「人間が食料なんだから当然だろ」
「むう・・・・・・私たちなりに人殺しをしないようにちょっとしか吸わなくてもか?」
「そんなことしてんのかよ、変な吸血鬼」
「血液パックの血は味気なくても我慢しているのに・・・・・・人間は人間同士殺しあうのにお互いを嫌わない。なのに吸血鬼ばっかりは恐れるのか」
「人間に好かれたいのか?」
ふふふ、とフロリゲンは少女といって差し支えない顔に冷静な女性の笑みを浮かべた。
「バカな奴・・・・・・な、今度は何するやめろ!」
「命の恩人に向かって失礼な男だな、ほら熱を図らせろ」
問答無用で額に手が当てられ、熱が上がる。滑らかな腕の陰から美しい少女が見える。がーっと熱が上がり、すぐに覚ました。落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。
ぽかり。せっかく落ち着いてきたのに女王はよけいなことをした。
「しかし、王子よ! そなた命をなんだと心得る!?
北の荒野は人間が足を踏み入れれば死んでしまう場所だと知らなかったわけではあるまい」
「は? 心配でもするのか、変な吸血鬼」
「今は君も吸血鬼だ! 命はたった一つしかないかけがいのないものなのはよく知っているだろう!?」
「知らねえよ、てかなんで王子とか知ってんだ。ストーカーかよ」
「ストーカーなら我が使い魔におるが?」
「本家かよ……」
話が上手く噛み合わないまま、女王はずずぃっとにじり寄った。彼女は鮮血のように美しかった。頬は白く、髪は夕日のように赤い。高まる拍動にヴィクターは仰け反った。
「話をちゃんと聞け! 命は両親の献身の賜物で、全ての愛の象徴の一つで……」
指をさして綺麗事を説教する。
(そんな普通の可愛い女の子みたいな姿を見せるな、殺しにくい)
そのまま十分説教を聞き流す羽目になる。なんだこれは。この女を殺せば王になれるという話が嘘じみている。だって助けてくれて、死んではいけないと諭してくれる。
これが本当に極悪非道の北の山の主、吸血鬼の女王フロリゲン・フランケンシュタインなのだろうか。
「・・・・・・」
「・・・・・・というわけで命というものは何より大切にしなければならないのだ! わかったか?」
この女は命の恩人だ。
この女は今会ったばかりのヴィクターを心配している。
きっと優しいんだろう。
「・・・・・・」
「わかってくれないのか、ヴィクター。君は危ないところだったんだ。危険な場所に近づいてはいけない、これからは自分を大切にしてくれ。約束してくれるか?」
(この女を殺せば、王になれる?)
命の恩人を殺す? 父だって自棄になっただけのあの言葉をわざわざアテにして? ・・・・・・命を大事してくれと約束を迫ってくる女の子を自分は殺せるのか?
「約束してくれないのか、ヴィクター?」
「・・・・・・わかった」
「えっ」
「約束する、これからは自分の命を大切にする。命を危険にさらすようなまねはしないよ」
「本当か!?」
フロリゲンが椅子から立ち上がる。その拍子に丸テーブルの大きな蝋燭立ての火が揺らめいて、彼女の赤い巻き毛をきらきらと瞬かせた。
「説教を終わらせるための適当な方便でも嬉しいぞ! 言葉には力がある、君がそう言ってくれればきっといつか本当にそう思ってくれる。私はそう信じる」
「なんだそれ、人を嘘つきみたいに。俺だって死にかけたんだ。人生観くらい変わるさ」
「死の経験が君を変えたんだな、理由はちょっといただけないがそれでも嬉しいぞ。そうか、死をもってして生きる意味を知る。書物にもよくある記述だな。よかったよかった・・・・・・ああ、とても嬉しい。
そうだ、喉が渇いたろう。この喜びの礼に私が茶を淹れよう」
そう言って扉に向かって振り返るフロリゲン。三歩歩いた瞬間ヴィクターはベッドから飛び起きた。
(こんなチャンスもうないかもしれない!)
バカな女。こんなアンティーク燭台なんか使っているから殺されるのだ!
「……ヴィクター?」
ヴィクターはフロリゲンを床に押し倒した。そして傍らの燭台から蝋燭を振り落とし、その切っ先をフロリゲンの首筋に突き刺した。
助けれくれた優しい女だから、王になるのを諦める? 馬鹿馬鹿しい。
「死ね」
どんな生物であれ首を串刺しにされてダメージを負わないはずはない! 一撃で無理なら何度でも・・・・・・。
「なんだい、これは?」
「嘘だろ!?」
燭台は正確に彼女の首筋に触れていた。人間ならば動脈をやられてショック死か出血多量だ。それが刃先の方が欠けた。
フロリゲンの雪の肌は赤子に触れられた程度にしか感じなかった。生き物に尖った金属を突きつけているのに分厚い氷のような手応え。
面倒そうなため息が蝋燭の燃えかすの火を消した。
「覚えておけ、少年。吸血鬼の女王を傷つけることは誰にも出来ない。一部の例外をのぞいてな」
燭台を手放そうとするが手が動かない。フロリゲンの魔の瞳に見つめられて、ヴィクターの肉体の支配権は彼女の手に落ちた。
「・・・・・・やっぱりさっきの言葉は嘘だったんだな。言葉だけでも嬉しかった。しかしこういう目的のためだとすると私は悲しい」
呼吸ができなくなり、もがくが女王は見つめるのをやめない。二分ほど呼吸を許されないままとなり、やっと動けるようになったヴィクターは荒い息を繰り返すしかない。肺に酸素を送る以外何も考えられなかった。
「けれど・・・・・・ヴィクターは思い切りがいいな、そういう性格嫌いではないぞ」
「こ、この、ばけ、もの……!」
「ちなみに君が持っていた刃物や銃、あのスカイクロウという大戦の遺物に轢かれても、私には傷はつけられない」
聞き捨てならない。それならどうやってこの女を殺せばいい。
「吸血鬼とはそういうものだ……いやそれはさすがに冗談だ。私くらいだよ、スカイクロウに轢かれても機械の方が壊れてしまうのは」
ハンカチを拾うような仕草でフロリゲンはヴィクターを持ち上げ、ベッドへ放り投げた。
「君は私を殺して名を上げに来たのかい?」
「……そうだ、吸血鬼の女王を殺せば後継者に指名すると父上は約束した」
フロリゲンはうーんと首をひねってじっとヴィクターを見たので心臓が跳ねる。
「私を生け贄にしても、別にかまわない。これでも人間として五十年の人生を一度は全うしていてな。今更意味のある死を避ける理由はない」
「は?」
まさかの本人承諾?
「しかし、事情がある。そういうわけにはいかないのだ。私は一週間後に世界を救わねばならないのだ。……だから今はヴィクターの手にかかるわけにはいかないのだよ」
それ以降なら構わないとフロリゲンは優しく微笑むとヴィクターの頬を撫でた。
「ところで君を全裸にして下着まで取り替えて、生まれたままの姿をあまつなく見た件だが」
「ごふっ!?」
突然思い出してヴィクターは酸素を吐き出した。
「おいそっちこそ色情狂だろ! 女王なんだからそれくらい誰かに・・・・・・」
「本当は従者にやらせた、私なりのジョークだったのだ。許せ」
従者らしき男が入ってくると彼女はまた来ると部屋を出て行った。
「ようこそ、ヴィクター。吸血鬼の世界へ」
去るフロリゲンの声はやけに響いた。
つづく
2016/12/08