「マスター、従者の一生のお願いです。
 いいですか、絶対にそこを動かないでくださいね。絶対です、状態はあなたが思っているより深刻なんです。
 正直その状態のあなたを僕も置いていくのは、かなり心が痛みます。僕が平均よりあなたの忠実な従者であることを差し引いても、あなたの状態はひどすぎる。だから行くんです。
 いいですか、お願いだから僕が帰るまでそこにいてくださいよ。どんなに遅くても二日で帰ってきますから、お願いです・・・・・・」


 そんなに心配しなくていいのにと従者を見送ったその日の晩、彼の言葉がいかに本当か思い知った。




「 リーオは山に隠居しました 5 ~風邪~ 」




 雲も凍り付きそうな色の空だ。
 木の格子の隙間からリーオはこの冬をそんな風に表した。

 もっとも窓は寝台から離れているからよく見えるわけではない。重い灰色の隙間に美しい蒼い空があるのかもしれない。
 しかも窓にはカーテンが掛かっている。粗末だがしっかりしたものだ。氷の大気からリーオを守り、同時に外の景色からも隔てている。

 カーテンの隙間からのぞけばいい、腕を伸ばし指を差し入れて手首をひねるだけだ。そう思って身を起こすが、そんなことさえ叶わない。
 手を突いた事で寝台が揺れ余計ベッドに沈む。ああ、従者があんなに言ったことを破った罰だろうか。

 あんなに無理矢理行かせたというのにさすがに心が痛む。そう思うのは病のせいだろうか。


「げほっ・・・・・・げぼ・・・・・・」


 大したことはないと思っていた、だから寝台から抜け出して昨日の晩に台所まで水を飲みに行ってしまった。

 そしてそのまま倒れて数時間台所に転がっていた。夜の冷たさに全身が痛み、その痛みで目が覚めて、この部屋まで這って戻ることで全ての力を使い果たした。

 その頃には頭は火が燃えるように熱く、全身は冬の池のように重く冷たく、耳鳴りはやまない。最悪の状態だ。


(ああこれは起きるのは絶対無理だな。ほら天井の板の目が霞んだり、見えなくなったりしてる)


 他人事のようにそう思った。そういえば昔からそうだった。病をしても怪我をしてもあまり感情がわかない。助けを求めるのが下手すぎて大変だと言われて、その時初めて助けを求めるという選択肢に気が付いた。

 視界がぼやけ突然真っ暗になる、そして目が覚めると視界が戻る。そんなことがもう一週間も続けている。頭が痛い、意識がはっきりしたのはわずかの間のことらしい。空の色が凍りそうだ、それだけの連想で病身にはきついらしい。


(昔言われたっけ・・・・・・病かと思ったら自分でもやりすぎなくらい自分のことを甘やかせ、じゃなきゃ痛い目にあうぞ・・・・・・って)


 ああ、守らないからこの様だ。自分はいつだって不忠者だったと心の中で自嘲する。

 最初はただの風邪だと思った、従者に言えば大げさになると思って黙っていたのが間違いだったのだろう。熱を感じて三日目に水を汲みに行った帰りに膝を突いて吐いていた。

 ヴィンセントは即刻リーオを寝室に軟禁し、簡単な薬草湯を飲ませた。そして少し調子が戻ると外に出せと言えば、絶対安静を膝をつかれて懇願された。


・・・・・・「あなたは絶対ご自分を大切にしてくれませんから、お願いします。従者のためと思って、口うるさいから一応聞いておこうと思ってください」・・・・・・

 そこまで言われなくてもリーオだって山の暮らしで病気は死活問題だと理解していた。だからその言葉に従い、安静にして薬湯を飲み、ひたすら眠ることに専念した。パン粥も食べて、首周りにも布を巻いて暖かくして、病の治癒に専念した。

 それなのに風邪の悪化は止まらなかった。指先は冷たいのに、頭は熱で朦朧としている。風邪じゃないかもしれないと従者にベッドでぼんやりと呟いて以来声がでない。喉がやられただけならいいが肺までやられていたら助からないかもしれない。

 倒れてから五日間、食事をしては吐きを繰り返すリーオにヴィンセントは決断した。二日分の薬湯をおいて、麓の町に医者を探しに行った。頼むから安静にしていてくれと繰り返しながら、こんなことなら馬を飼っておくんだったの嘆きまでして・・・・・・だから気を緩めるべきではなかったのに。


(どうしてあんなことをしたんだろう、ヴィンセントの言うこと聞こうと思ってたのに)
(指先が何度思っても思うように動かないな、一時的なものならいいけど。目も危ないけど、耳も変な気がする)
(シロ、元気かな)


 別の部屋に隔離されたかわいい猫のことを思い心なし呼吸が楽になった。万が一移しでもしたらどうしようもないと倒れた一日後のリーオの従者への頼みだった。不思議と仲が悪いのにヴィンセントはシロの世話をよく焼く、だから心配はない。


 朦朧とする、ああこのまま死ぬのだろうか。いやーー・・・・・・むしろ?

(やっと、死ねるのかな)


 エリオットが死んだ世界から、離れられる時間がついに来たのだろうか。
 自分の手で命を捨てる罪を犯すことなく、自然の営みの一つの中で消えられる。


(いっそあのまま台所で倒れていれば、よかったかな)


 そうすれば確実に死ねただろう。しかしそれではエリオットに怒られる。従者や顔見知りもリーオの行為を長く悲しむだろう。それには気が咎める。


(考えがだめな方向に向かってる、そんな時点でもう僕は駄目なのかもしれない)


「・・・・・・げほっ・・・・・・」


 もう声もでない。ああいっそこのままでも、なにもしなくても、もしかしてこのまま楽になれる?ーーそれは暗く甘い囁きだ。だから耳を傾けてしまう。

 それならエリオットも許してくれるかもしれない。もともと許してもらえない重い罪を持っているのに、図々しくなったものだ。

 でも、このまま死ねたならそれはそれで悪くないのかもしれない。そう思うと全身の苦しみがリーオの罪を焼いていくものに思えて、救われる気がした。危険な思考だ、落ち着いて病に影響で感情が揺れるだけだ。

 意識がまずいのかもしれない。
 こんなことを、思うなんて。
 ーー死にたいなんて。


(・・・・・・本当はいつでも、思ってるさ)


 忘れたこともない。
 死んだら・・・・・・どうなるのだろう。アヴィスに溶けて消えるのか。


(エリオット、エリオットならなんて言う?残されたみんながどんな気持ちか考えろっていうかな)
(みんな、みんなってだれだっけ?)
(・・・・・・シロは?)


 あの子は大丈夫、ヴィンセントはよい飼い主くらい探してくれるだろう。かわいくて賢い猫だ、大切にしてもらえるだろう。


(ヴィンセントは?)


 大丈夫と断言はできない、彼はそつなく見えてかなり不安定だ。子供と大人が混在したような人格は安定しにくい。
 でも前よりも彼は兄と会話が出来るようになった。山暮らしは案外彼にとって楽しいものだったおかげだろう。

 他に彼を待っている人もいる。後は彼らに託そう。

 友人、知人、長く会ってない人々も多い。彼らは訃報を聞いてどう思うだろう。ああ、でもーーこれは仕方ないと思ってくれるだろう。


(風邪で死ぬなんて、間抜けだけど僕らしいかもね)


 ならーーもうこの身を縛るものはなにもない。リーオは天井を見上げながら先ほど垣間見た窓の外の風景を思い出し、夢想した。


(もうあれから十分生きた、と思ってもいいのかな、エリオット?)


 返事はない、帰るのは外の世界の冷たい風の音だけ。

 生から解放される時。エリオットのいない世界から解放される時。彼を死なせた罪から解き放たれる。


(やっとーー地獄に堕ちる時がきたよ、エリオット)


 ーーーダメだ!ーーー


(え?)


 ひどく懐かしい音が聞こえた。
 幻聴を疑った、ここにはリーオ以外誰もいない。なのに、音がするはずもない。

 身じろぎをすると視界の端を影がかすめた。なんだろう?
 影の正体はカーテンだった。カーテンがゆらりと揺れ、外の風景がリーオの網膜に映る。美しい冬の夕陽が雲の間で朱色に燃えていた。

 そして締め切って部屋で風が吹いていないのにカーテンが揺れた理由はーー窓枠にしがみついている白い猫だった。


(・・・・・・シロ)


 にゃーと鳴き声。もう一度跳ねて、カーテンを揺らす。どうしてここに?と思うがシロに答えられるはずもない。


(最初にあった時みたいだ)


 どこからきたのか分からないのに、とても懐かしい子だった。そして今もどこからか現れた、そして理由はーー今は思いつかない。

 シロがあまりに何度も跳ねるので、自然と視線はその先を追う。変わらない山の景色、いつのまに夕方になったのだろう。紅い光が窓辺でガラスに反射してきらめいている。冬の空気が澄んでいて、彼方に見える山の稜線が美しい。


(・・・・・・綺麗だ)


 そうか、世界は美しかったのか。なんだかずっと忘れていた気がする。

 シロが何をしたいのか分からない。でもそう思うべきだと思い、世界をそのまま受け入れた。

 そしてやはり綺麗だと思うとリーオは久しぶりに目覚めたまま泣いた。




 ーー次に意識が戻ったのは、隣で従者が医者になにか喚いているときーー
 ーーなんだか理不尽なことを言っている気がして、やめなよと言うと声が出ていることに気が付いたーー
 ーーどこかでシロの鳴き声がしている気がしたーー








 冬の雪はまだまだ深い、ドアの向こうの風景にこぼれるため息も雪のように白い。
 

「ヴィンセント、僕ちょっと旅に出ようと思うんだ」

「は?・・・・・・はあっ!?」


 そこまで目を丸くしなくてもいいだろうに、覚悟はしていたが気が重くなる。

 シロが足下にすり寄ってくる。喉を鳴らすので膝に抱える。その姿を撫でながらリーオは何気なく言った。
 ヴィンセントに絶対に反対されると覚悟していた。最悪騙して抜け出すしかないが、そこそこの長旅だ。できれば同意を得たい、探すあまり世界の果てまで行って行方不明になられそうだ。

 風邪を悪化させて瀕死になって以来一ヶ月は自室謹慎だった。医者も同じ意見だったのだから妥当な判断なのだろう、本当は町に降りるべきだとも言われたが今は動かせないということでその件は延期になっている。

 二ヶ月目はこうして自宅謹慎に格上げしてもらっているが、発言次第ではまた自室に放り込まれそうだ。


「・・・・・・マスター、なにを考えてるんですか、死にたいんですか?」

「だいぶ治ったって、だから外で空気くらい吸わせて欲しい。これじゃ僕歩けなくなるよ」

「マスターは若いから引きこもってても大丈夫です」

「大丈夫じゃないよ・・・・・・ちょっと行きたいところがあるんだって」

「理由を、教えてもらえますか?」


 目を合わせてオッドアイがのぞき込んでくる。勘のいい従者を持つと主人は大変だ、その辺りはもう少し兄に似て欲しい。
 リーオは出来るだけ自然に微笑んでマグカップを傾けた。指先は思うように動いてくれる、治らないという訳でなくてよかったと素直に思えた。


「ごめん」

「・・・・・・なんで謝るんですか」

「理由は教えない・・・・・・というか自分でもあんまり分かってないんだ」

「・・・・・・・・・・・・」

「でも、言った方がいいと思うんだ・・・お前は反対するだろうけど、僕はもう決めて」

「・・・・・・絶対に約束して欲しいことがあります」


 てっきり反対されると思ったのに従者はやたら真剣な目だ。一蹴されると思っていたのでこっちが目を丸くする羽目になる。


「春に、春になってからなら、僕はあなたが行く先を邪魔したりしません」

「やっぱり、ついて来ちゃうか」

「当たり前です、あとちゃんと風邪を治して、行く前に医者に看てもらってください」

「あの先生も災難だよね、おまえと知り合ったせいで何度病人でもない僕を診療する羽目になるのか」

「些細なことでも死に至ることがあるというのが今回の教訓ですから、いいですね」

「いいよ、どうせ行くときは麓の町は通るし」

「結構です・・・・・・ところで」

「なに?」

「どこに行くんですか?」


 行く先は最初から、決まっている。


「まだ決まってないよ」


 でも嘘をついてしまうこの口は、心はやはり主人として薄情なのだろうか。膝の上のシロを撫でてリーオは薬草茶を一口飲んだ。




つづく



 というわけで、次回から旅行?編です。山から出ます、タイトル詐欺にならないように「リーオはちょっと旅にでました(仮)」みたいなタイトルになります。

 余談・そういえばリーオ片手なくなってるはずなんですが、この話を書くまでそのことを忘れていてあまり不自由がないように書いていることに気が付きました。あー、た、多分片手で器用になんでもこなしてるんですよ、多分(汗)。


2014・12・24