一緒に逃げようーーそう言った私の嘘を一瞬で見抜いたジャックは特に追求をしなかった。私の方はその反応に困惑した。
しかし庭園は寒く、相変わらず二人きり。雪の中を気まずく歩いてもジャックは後ろでにこにこと着いてくるだけ。
気まずい、気まずい、嘘の駆け落ちまがいの台詞なんてスルーされる方が辛い。いたたまれず辛い・・・・・・仕方ない、やることを作ってみる。
「ねえ、ジャック、雪だるまがみたいわ」
「いいよ、ちょっと待っててね」
適当に提案した。冗談なのにジャックは真面目に雪だるまを作り始めたーーまるで「私と逃げて」なんて言葉忘れてしまったように。
「レイシー、雪だるまいくつ作ろう?」
「二つ・・・・・・いいえ、三つ」
風は冷たく、雪も強さを増す一方。そんな中ジャックは素手で雪を固め始めた。凍傷は避けられまい。マフラーをかせとか手袋を取ってくるとかすればいいのに・・・・・・そもそもこんな提案断ればいいのに。
ジャックは私の思い通りにいかない・・・・・・さっき痛感した。
(どうしてジャックを殺せなかったの? もしかして私は彼を愛していたの?)
違う、恋というには私とジャックの距離は遠すぎる。
「ジャック・・・・・・あなた私が結婚したら、ショック?」
「いいや? 君が幸せになれるように祝福するよ」
「八年も私を追いかけてくれたのに、私を独占する欲なんてないって事?」
「欲はあるよ、もう一度君に会うことだ。それは果たされた・・・・・・ああ、でも、いやそれはないかな」
「はっきり言いなさい」
「もしも、もしもだけど、レイシーが私と結婚したくなったらするよ。偽装でも、気まぐれでも、すぐに飽きても」
「・・・・・・」
「私はね、レイシーの望みを叶えることが生きている証明なんだ。君がそれを必要とするなら、結婚する」
証明という言葉が胸に突き刺さった。ジャックは私という存在を証明してくれる。
「・・・・・・最低ね」
「えっ・・・・・・ご、ごめん」
「違うわ・・・・・・あなたに言ったんじゃないのよ」
バカなレイシー、最低な私。ジャックを殺せない理由なんて簡単だ。本当は私がこの世界に執着していることを気付かないふりをしていた時と一緒よ。
(だって私が死んだらーージャックはきっと忘れない)
それがとても惜しい。私がこの世界にいたことを証明してくれることが。
死んだ後も私はアヴィスや兄様の記憶だけじゃなくて、全くの他人だった彼の記憶に残る。バスカヴィルの掟でも、禍罪の子の運命でもない、それは私に存外安堵していた・・・・・・生まれついて決められていない運命の外側に。
この世界からの退場が義務づけられた私はそれを断ち切ることができない。
(私は生まれたときから、バスカヴィルにやって来てから、兄様に殺されるのがルール)
その時はもうすぐ・・・・・・この滑稽で残酷な世界を愛していた。この世界だって本当は去りがたいーー死ぬのは怖くない。
でもとても寂しいことだ。憎たらしい世界を、愛そうなんて天の邪鬼をした罰か。あの金色の美しい世界だけ、愛していればこんな未練とも無縁だったのか。
(この世界に残れるなら、ジャックの記憶の中に少しの時間でも残っていたいーー心の整理なんてついてないわよ。いくら見方を工夫しても・・・・・・全てとお別れなんて辛いまま)
例え彼の中に映る私がどれほど歪んでいても。十五の彼に私が気まぐれに声をかけて、それからバスカヴィルに屋敷で再会した。それは間違いなく私が生きた証の一つだ。
ジャックを自ら失うことなんて、私の選択肢にない。
「・・・・・・バカみたい」
愚かなのは、彼ではない、私だ。自由で何物にも囚われないレイシーなんてジャックの心にしか存在しない。
私の両腕はこんなにも兄様やバスカヴィルの掟や禍罪の子の運命に囚われて、雁字搦めに囚われている。腕さえ自由に動かせず、あなたを殺すことさえできない。
私にはジャックは殺せない、そう認めた。
雪だるまは三つになっていた。ジャックの手が赤くなっていて、私はマフラーをほどき彼の手に巻いた。首筋の北風が冷たい。
「いいって、レイシーが寒いだろう?」
「見てるこっちが寒いのよ・・・・・・ねえ、ジャック」
「なんだいレイシー?」
「私が死んだらどうする?」
乾いた答えか狂気の返答か、それとももっとありきたりの言葉か。・・・・・・私が望むものは何か。
「・・・・・・レイシーが死ぬ?」
「ええ。なにしろこんな性格だから、いつか恨まれて背中でも刺されるかも」
「そんな事は私がさせないよ。オズワルドやグレンもね」
「病気になるかも、階段から転ぶかも・・・・・・ねえ、八年も探してくれたジャックはどうする?」
美しい緑の瞳から光が消えた。背後の雪原よりも冷たい緑の目。
「・・・・・・分からない」
「・・・・・・どうして、泣くの?」
「本当に、分からないんだ」
冷たい目からこぼれる雫は美しい。ハンカチを持たない私は袖で拭うことしかできなかった。ジャックは首を横に振って逃げるが、涙が止まるまで止めるつもりない。
「泣いていいのよ」
「おかしいんだ、悲しくないのに涙なんて・・・・・・私には君が必要なんだ」
「それは光栄だわ」
「君を憎んだことがある・・・・・・生きていくことが辛いから」
「苦しくて、寂しかったのね」
涙を拭う袖は濡れていなかった。冷たい風は私の袖が涙で重くなるとその水分を凍らせた。
「君がいなかったら私はきっと生きていない」
「・・・・・・そうね、あのまま凍って死んでいたでしょう」
生きることは結構辛い。まして生活基盤もなく、荒んでいた十五のジャックには尚更だ。
「今なら君がいなくても生きていけるかもしれない」
「ええ、貴族の地位を手に入れ、社交界でも人気者ですもの」
立ち上がるジャックは涙を自分で拭い、そしてぴたりと止めた。手品のような芸当に彼の歩んできた年月の残酷さを感じる。可哀想なんて思わない、私が示した道だ。けれど・・・・・・陳腐だがもっと幸福になってくれるならなんでもしてやりたい錯覚に囚われる。
ジャックは社交界の人気者の顔に戻るとゆっくりと首を横に振った。さっきまでの冷たい瞳には偽の暖かさが灯っていた。水のようになにもない心、それ故人には自分の理想像を錯覚させる姿を作り出す。
「想像できない、君に助けられて必要とした。・・・・・・食べることに不自由しなくなったら君を忘れてしまうかと思っていた。でもそんな事はなかった。私の心は君に出会う前死んでいた。それを君は蘇らせた」
「・・・・・・私が自由だったり、幸福に見えたから?」
「君は不自由だ、バスカヴィルに連れ帰られた時にそれは分かってた」
「そうね、塔の中に閉じこめられてうんざりする日も多いわ」
「でもレイシー。君の心は今でも私にはとても自由に見えるよ」
そこを目指して生きていけばいいと思うほど。
私がしたことは慈悲? それとも残酷なこと? ・・・・・・発端はただの気まぐれだ。けれど飢えた子供にはどんな施しも神の慈悲になりうる。それを偽善と呼べば、悪と呼べば、人は他人になにができるのだろう。
「君に再会するまでの八年間、私には生きるために必要なものがあった。食べ物でもない、寝床でもない。それは目標・・・・・・生きていく理由。それがレイシーなんだ」
生きていくことには目標が必要。余りにまっとうな回答。ジャックの心は一度死んでいた。だからそれを蘇らせた私を目標にした。
「レイシー」
「なあに、ジャック」
「レイシーが死んだら理由がなくなった私はもう一度死ぬんだと思う」
「・・・・・・後を追って死んでくれるってこと?」
「違うよ。死ぬかもしれないけど、とにかくもう一度私の心は死ぬ」
心は生きていく理由がなくなったら、死ぬ。心臓が破れた人間が死ぬように。
「その時から私は今の私ではなくなって、別の私になっているんだろう・・・・・・だからどうするかは分からないよ」
心が死ねば、体も死ぬなら良かったんだけど。
「ジャック、ごめんなさい」
「・・・・・・何が?」
殺してあげられなくて。遠くない未来にあなたの心を殺してしまって。
「色々よ」
「嘘をついたこと? 昔私を助けたこと? どちらにせよ、君が謝ることじゃないよ」
「違うわ・・・・・・あなたがここまで来てくれたのに、責任とって結婚してあげなかったことよ」
ジャックと逃げることもできる、殺されたとしても・・・・・・けれど私は今の「いつか殺されることを諦めた自分」を捨てられない。結局私は死んで解決することなら命を捨てようと思ったのだ・・・・・・他に思いつかなかった。
彼は強くなった、歪んでいても生きるには十分なくらい。
(それだけの強さを持つのは、苦しかったでしょう。沢山のものを犠牲にしたんでしょう)
強さには対価が必要、兄様が証明だ。その強さで心の柔らかな部分が埋もれている。種が長い冬に永い眠りを選ぶように。
そして彼のお姫様の立ち位置にある私は彼を救えない。
「ええ、なんだいそれ」
「別に。これが男女逆だったら、そこまで追いかけられた男はその娘と結婚する流れになりそうだなって思っただけ」
「それってグレンの書く小説みたいだね」
でしょうと笑いあう。私たちはこんなもの、心から語り合うこともなく終わってしまうんだろう。
「ジャック、バスカヴィルの外であなたに会えて良かったわ」
「え」
「だって退屈だったんだもの。わざわざ追いかけてくれるなんて面白い人ね」
私は鎖で縛られ雁字搦めに生きている。生まれたときから赤い目で住む場所を追われた。唯一の味方の兄様は私を殺すルールに縛られている。私に取引を持ちかけはらませたグレンは大事にはしてくれるけど、それ以上のことはできない。
それで不満がないつもりだった。けれど今ジャックと話していて、もうすぐ死ぬことを空しく思う。けれど、空しく思えることを幸せだと思う・・・・・・こんなに生きることに執着する心を思い出せた。
「ねえ、ジャック」
「なんだい、レイシー」
「いつか私がいなくなっても・・・・・・生きてね、あなたの好きなように」
ジャックは返事をしなかった。死んだ目で張り付いた笑顔のまま、雪の中で立っていた。
・・・・・・
私は死んだ。アヴィスの闇に墜ちて、魂のレベルで消滅した。
だからこれはきっと夢、そうでなきゃ奇跡。
「レイシー・・・・・・レイシー」
「・・・・・・あれ、私は死んだはずじゃ?」
目覚めると闇色の水の中から起き上がっていた。水の外は黄金の粒と闇の霧が立ちこめてなにも見えない。その中で白く光る少女だけが手を伸ばして私の体を支えていた。・・・・・・これはきっと夢だ。証拠に思考は定まらず、視界もあやふやだ・・・・・・けれど少女の顔がよく見えた。
彼女は幼い頃の私によく似ていた。
「ええと、あなたは?」
「私はアリス・・・・・・アヴィスの核であり、あなたとレヴィの娘でもある」
娘? まずい、記憶が曖昧だ。えっとレヴィってグレンよね。取引の内容は・・・・・・少女、アリスは私の頭に手を当てた。
「色々考えなくていいのよ。今のレイシーは私が一時的に作り出した幻、記憶が曖昧な方が自然よ」
「どうしたの、あなたぼろぼろよ」
「・・・・・・もう終わってしまうから、でもいいの最後に彼の本当の心に触れられたから」
代わりに失恋したけれど、と少し大人びた表情で笑う。
「・・・・・・ジャックの最後の欠片を連れてきたわ。もうすぐ消えちゃうと思うけど、レイシーに会わせてあげたくて」
白い少女が差し出したのはジャックだった。一瞬その姿が、十五歳の少年のものなり、すぐに青年のものになる。よく知っている馬鹿なジャック。
立ち去っていくアリスの足取りは晴れやかだった。その足音が消えるころジャックは目を開けた。
「・・・・・・ジャック」
その瞳に生きようと足掻くものの愚かさを見て、私は彼があの後生きて何かを得たのだと感じた。
「・・・・・・レイシー?」
ジャックは夢や幻と見間違っていないか怯えたように触れる。
「レイシー、レイシー、レイシー・・・・・・また会えるなんて」
「・・・・・・どうやら、お互いに死んだみたいね」
「・・・・・・そうだね、私は百年前に一度死んでいたようなものだけど」
「二度でしょ?・・・・・・一度は母親に、二度目は私に」
そんなに不安ならと頭を膝に乗せてやる。驚いたジャックはじたばたと暴れたがおとなしくなる。脆い石膏のように手足の先からぼろぼろとお互いに崩れていく・・・・・・アヴィスに還っていく。
私たちの手足はもうアヴィスの一部のなりかけている。時間はあまりない、これはすぐに終わる夢だ。
(私はなにを知りたい?)
自分の心に問いかける。
「ねえ、ジャック」
「なんだい、レイシー」
「私が死んだ後、自分の好きなように生きられた?」
「・・・・・・うん、好きなようにしてきたよ。お陰でオズワルドには憎まれちゃったけどね」
「君が死んだ後、私がどうなるか尋ねたことがあるよね。私は君が求めるものだけを追いかける亡霊になった。そのことでオズワルドを殺したり、君の娘を利用した・・・・・・怒るかい?」
「いいえ、予想できていたわ。あなたが危険だってことくらい分かっていたわ」
それでも私は殺せなかった・・・・・・私のエゴだった。
「でもジャックが何かする前に兄様に殺されちゃうと思っていたんだけどね・・・・・・兄妹そろってジャックを殺せないなんて、お互いバスカヴィルに嫌気がさしていたのかしら」
「レヴィもそうかもね・・・・・・オズワルドも君を思うだけの亡霊になったんだ」
「全く、馬鹿馬鹿しいわ。これでもね、私はわがままを言わないでバスカヴィルのルールに従って死んだつもりなの。なのに、ジャックも兄様も亡霊になっちゃうなんて」
私が間違っていたのだろうか、もっといい方法があったのだろうか。
「君が、ルールに従った?」
「そうよ、あんなに早く死にたくなんてなかった。でも私は自分の生まれた世界のルールに逆らえなかった。雁字搦めの不自由な人間だったのよ。期待はずれでしょ?」
「いいや、それは違う」
虚勢でも思いこみでなく、ジャックは冷静だった。
「君は、オズワルドを想う自分のために、アヴィスの核を想う自分のために、生きて死んだんだろう? ・・・・・・私は言い訳や嘘を必要としないレイシーの心をこの世で一番自由で、尊いものだと思うよ」
聖者のような笑みを希代の悪党の道を選んだ男が浮かべる。
「私たちは不自由で不幸だったよね、でもレイシーはその中で自分の幸福を探すことを諦めなかった。世界の見方を工夫しろって十五の私に説教するくらい・・・・・・だから私はレイシーに出会えて良かった」
自分のためにそう思う、とジャックは笑って虚空に消滅した。黄金の粒になって消える瞬間「ありがとう」という声だけがやけに響いて聞こえた。
「・・・・・・ジャック、ごめんね」
殺すことすらできず一人残してしまって。
消滅していく意識の中で謝罪する。生きててくれてありがとう、一人残してごめんなさいと闇と金色に溶ける。
もしもう一度出会えるなら、今度はもっといいやり方を探そう、自分と愛するもののために戦って生きようと決意して、私はアヴィスに還った。完全に溶けて消える。
けど、
(アヴィスの一部に戻っても、私はきっとどこかで兄様にもジャックにもつながってる)
だから私は残酷で滑稽で美しいこの世界が好きだ。
終わり
あとがき
レヴィ「え、俺は?」
ジャック・オズワルド「お帰りください」
レイシー「ていうか、あなた最終回後もふわっと生存してるじゃない」
レイシーとジャックはわがままカップルなので好きです。
ジャックとレイシーが結ばれるルートを一生懸命考えてみたのですが、とりあえずジーリィの正体が分からないとどうしようもないと結論づけました。禍罪の子抹殺ルールはバスカヴィルの掟が絶対である限り変わりませんから、そういう意味では情報がないとどうしようもないですね。
パンドラを読み返すと、ジャックとオズワルドとレイシーができなかったことをオズとアリスとギルがやりとげた気がします。危険があっても諦めないと言う意味で。
2016/03/15