夫婦ごっこ13~永遠という嘘~
姉と弟の二度目の結婚式
目次
聖杯くんの抵抗
弟の裏切り
聖杯くんの最後の願い
姉の報復
それからの二人の話
結婚指輪
最後の切り札
【聖杯くんの抵抗】
ピピっと音がして信長と信勝は夕暮れの河原で振り返った。もう夕暮れは終わりつつあり、空は藍色に染まっている。その中に見知った姿が映った。
……「ノッブ、信勝くん、やっと繋がった!」……
そこには空中モニターに映るマスター・藤丸立香がいた。戦闘服を着て、目に浮かんだ涙を右手で拭う。
……「よかったぁ、二人とも一緒で」……
「立香、どうやってここへ繋がった?」
「マスター! もしかして僕たちは帰れるのですか?」
信勝が尋ねるとぷつっと画面が切り替わった。今度は小柄なダヴィンチちゃんが映る。
……「二人とも、無事でよかった。いやはや、こっちはサーヴァントを次々送り込んで大変だったんだから」……
「やれやれダ・ヴィンチ。貴様もマスターのお願いには弱いな。そしてどうやってここが分かった?」
……「おや、私だって仲間に死んでなんてほしくないさ。マスターの頼みだけじゃない。こう見えて仲間思いのダ・ヴィンチちゃんなのさ。
君たちが見つかったのはリボンがあったからだ」……
「リボン? しかし、わしのリボンも信勝のリボンも千切れておるぞ?」
信長は自分と弟の腕を示した。信長の右手はピンク色のリボンが手首から五センチほどで完全に切断されている。信勝に至っては糸が数本残っているだけだ。
……「君たちは二人揃って、二人とも聖杯の結界から出ている。それならなんとかリボンから通信くらいは繋げることができる」……
「僕たちは帰れるのか?」
……「いいや。君たちは結界から出たけど本当に聖杯の奥底の方にいる。アンデルセンがいる場所からも大分深い。自分たちである程度登ってくればアンデルセンからリボンを渡して引っ張りあげれるだろう。ちなみに卑弥呼のシャドウは先ほど退去したよ」……
「なんじゃ、それでは話ができるだけか……ん?」
信長と信勝は淡く光っていた。千切れた二人のリボンは金色に光っていた。姉弟の傷が塞がり、連戦で疲れ果てた身体に力が満ちてくる。
にかっとダ・ヴィンチちゃんは笑った。
……「魔力リソースを転送した。少しは元気が出ただろう?」……
「す、少しなもんか。これなら完全回復……」
「うむ、全快じゃな。ということはまだ戦うのじゃな?」
こくりとダ・ヴィンチちゃんは頷いた。
……「君たちを引っ張りあげるにはもっと上に上がってもらう必要がある。しかし、聖杯の少年は健在だ。当然、君たちの前に立ちはだかる。信勝くんの思わぬ反撃でダメージを受けているが、それでも力は三分の一以上残っている……頼むよ、織田信長。君の弟はサポートタイプだ。君の攻撃力にこのミッションの成功がかかっている。自信はあるんだろう?」……
「当然だ。表ではあいつを半分に割ってやったわしの宝具を舐めるではない」
「姉上、僕も僕も! もちろんサポートします!」
信勝はブンブンと腕を回してサポートのポーズをした。そこでまた画面が切り替わり、再び立香が映る。両手をグーに構えて軽く縦に振る。
……「ノッブ、信勝くん! 今度こそ、必ず帰ってきてね!」……
姉弟は並んで歩いていると空は夜になり、視界の端に一番星が光った。
信勝はニコニコと姉を振り返り、両手で拳を作った。
「姉上、まだ僕には少し聖杯の力が残っています。だからサポートだけではなく攻撃もしますよ。えい!」
「いや、いい。お前はいつも通りサポートに徹しろ。いつも攻撃にいないやつが入ってくると調子が狂う」
「ええー!?」
信勝はがっかりしたが了承した。聞き分けの良さに信長は安堵する。信勝が傷つくと動揺する自覚があるので後方に徹してくれた方が戦いやすい。本当に弟相手には調子が狂うのだと自己解像度が上がったのだ。
「わしの戦いは割と力任せじゃ。邪魔をしない方が助かる。というかお前、聖杯の力とか大丈夫なのか? 今の所、よい方向に使えておるようじゃが」
「うーん。僕もフィーリングでえいや! と使えているだけです。卑弥呼の見立てでは聖杯が僕に願いを言わせるためにした無茶がそのまま僕の力になっているらしいです。僕に願いを言わせるために無茶に無茶を重ねたらしいので。感覚的にですが、使わなくてももうすぐ僕から聖杯の力は消えると感じています」
「そうか……お前の願いか」
「ええ……同じ時代の人間だからですからでしょうか? 変なやつです」
「確かに、変じゃな」
姉弟は聖杯に身を投げた少年の経緯を思い出し、曖昧に笑った。
進むほど世界は崩れて、紺色の液体が渦を巻く奇妙な世界になった。おそらくこれが本来の聖杯の中身で、さっきの夕暮れの河原は結界の中だったのだろう。つまり完全に結界の外に出た。
「戦う前に言いたいのですが……姉上は僕を過大評価しています。僕自身にもなぜ死んだのか分からない気持ちもあるのですよ」
弟が困ったように笑うと姉は一蹴した。
「なんじゃそれ、自分でさっき語ったであろう。わしのために死んだのだと」
信長のためは信長のせい、と本人は思っている。姉の顔に生まれた影を弟はじっと見ると言葉を続けた。
「後付けの部分も大きいですから。昔を振り返ると「ああ、あの時は実はこんな気持ちだったなあ」と思いません? でもそれは思い出している時の解釈で、本当の過去そのものの感情ではありません。
僕はあの頃は本当に無我夢中でした。最後まで人を殺すことも死ぬことも怖くて、理性なんてわずかだった。
姉上の……ためという気持ちも嘘ではありません。でも、本当にただの自殺だったのかなという気もします。乱世に嫌気がさして死んでしまいたい気持ちもあったのですよ」
「うつけ。それ以上にお前は死にたくなかったはずだ」
「……」
「わしと共にあれば信勝は誰よりも生きたかったはずだ。わしが一緒なら……お前はそれが信じられなかった。わしはいなくなると、自分は置いていかれると絶望した」
「……ちえ、姉上には敵わないなあ」
「そうじゃ、お前の考えることなど手に取るように分かるわ。誤魔化すようなことを言うな」
「別に嘘ってわけじゃないんですが……でも、それを言われると何も言えません。僕は姉上と一緒なら永遠に生きていたかったので」
冷たい風が吹いて姉弟は握り合った手を結び直した。風の中には呻き声が混じっていた。ここは多くの願いを叶えて、多くの人を破滅させた聖杯の泥の中。その方が相応しい。
思ったより冷えてきたので信長は信勝の頬に触れて温めた。その時の幸せそうな顔に信勝は頬を染める。ずっとこの顔を見失ってきたのだ。
「そんなことばかり言うからお前とは夫婦になったんじゃ」
「姉上、その件なのですが夫婦は解消しましょう」
「いやじゃ」
「意外と常識を気にする姉上です。姉弟で夫婦なんて無理をしてるんでしょう?」
瘴気の蠢く空間で姉弟は夫婦喧嘩の真似事をしていた。
「無理はしておらん」
「約束します。これからはずっと僕は姉上のそばにいます。それこそが僕のできる唯一の償いだと思っております」
信勝は両手を広げて信頼を求めた。姉はそれを微妙な目で見ている。
「僕はこれからは何があっても姉上のおそばを離れません。例え姉上から嫌いと言われてもずっと一緒です。昔のようにずっと姉上の後ろをついていきます」
「ならば夫婦でかまわんではないか」
「姉弟なのです。夫婦という属性を足さなくてもずっと一緒です……僕の心の弱さで姉上のそばにいることを放棄してしまった。でも間違いは正せばいい」
「……なんじゃ、信勝。わしと夫婦で嫌なのか?」
最初からこうだ。ずっと信勝は喜んでくれると信長は信じていた。けれど結果はいつも信勝は難しい顔ばかりする。
「いや……かもしれません。盗みをしている気持ちはありました。だって姉上にはあの男がいるじゃないですか」
「あの男?」
そこで会話が途切れた。ゴボゴボと周囲の泥から何かが蠢く音がする。
……「オノレ……せめて、お前たちは殺す……」……
十メートル先。その宙に二人を憎悪の眼差しで睨む聖杯の少年が現れた。
聖杯の少年の姿は酷いものだった。両肩から流血があり、右足も折れているようだ。額からの出血で左目は閉じている。
……「カルデアの連中を皆殺しにしてやりたかったが……せめてお前たちだけでも!」……
衝撃が走る。信勝と信長の繋いだ手が離れた。信勝の足元の地面が割れ、黒い液体の中に沈んでいる。信長は手を伸ばすが信勝は首を横に振った。
「信勝!」
「姉上、大丈夫です。今の僕はまだ飛べる!」
信勝は青い翼を背中に生やし、五メートルほど上空へ飛んだ。滑空して信長の腰を手に取り、「失礼します」と「お姫様抱っこ」をして信長の足元を侵食する泥から助けた。
「お前、まだ飛べたんかい! しかもなんじゃこの格好……だがいいぞ、このまま聖杯に突っ込め!」
「はい! ちょ、ちょっとだけ腕が辛いですがなんとか……ぐぬぬ!」
「信勝、まさかわしが重いとかいうつもりはなかろうな?」
青い翼がバサバサバサ! と必死に宙を漕ぐ。
「そんな! 姉上はコンビニでもらうスプーンより軽いですよ! 僕の腕力がフライドチキンの骨以下なだけです!」
「マジでそんな例えしか思いつかんのか?」
ツッコミつつ弟の腕の中の姉は十の火縄銃を顕現させ、聖杯の少年に一斉射撃をした。宙に浮いているので姉弟に反動はない。
しかし聖杯の少年は苦い顔をして手をかざすと空間が歪み、信長の射撃はぐにゃりと宙で曲がり全て逸れた。
……「落ちろ!!」……
聖杯はかすかに笑い、手のひらで鋭く虚空を斬ると信勝が悲鳴を上げた。空間が割れ、虚空の刃が信勝の青い翼の根元が傷つける。三回その攻撃がが繰り返されると信勝の翼と肩を血が染めていった。
「大丈夫です、姉上……っ!」
「信勝! 貴様ぁ!」
信長もまた火縄銃を増やして攻撃したが先ほどと同様に空間を捻じ曲げられて当たらない。その間も攻撃は続く。信勝の傷は深くなり、高度が低下していく。弟の傷に姉は怖い目をした。
「もういい信勝、降りよ! あとはわしがやつを仕留める!」
「でも、でも姉上、下は聖杯の泥でいっぱいで……痛い、いたい」
「時間の問題じゃ。あの泥は痛いがいきなり霊基ごと溶かされるまではいかん。いきなり落ちるよりマシだ。命令だ、降りろ!」
「痛い、痛い……なんとか姉上だけでも……あいた!?」
信勝は思い切り耳を引っ張られる。
「たわけ。そういう意味ではないと分かっているがもうよせ。いいか、これからわしらは共にある。そう約束しただろう? わしだけ助かってなんの意味がある」
「姉上、ごめんなさい。僕はまた……ええい、なんとかなれ〜!」
信勝は青い翼を消して信長と共に聖杯の泥の中に落ちた。……と見えて、直前に生まれた何かがクッションとなり泥の直撃を避けた。柔らかい感触に信長は目を開けると間の抜けた声が出た。
「なんじゃ……これ」
「姉上ー! 信勝はやりました!」
二人が落ちた場所には巨大なビニール製の船があった。五メートルはある。船はデフォルメされた亀の形をしていて、信勝はその首の部分に両手両足で抱きついていた。信長は手すりのついた甲羅の上でうつ伏せになって、起き上がる。
「なんとかなれ! と思ったら友達が助けてくれる気がしたのです。この通り泥に落ちずにすみました!」
「結構なんでもありじゃな! だがよくやった。その聖杯から奪った力というやつはあとどれくらい使える?」
「正直、ほとんど残ってません。この亀くんボートが最後だと思ってください、せめてこのボートは長持ちさせてみせますから!」
「十分じゃ」
信勝は亀くんボートの首に抱きつくと淡く光ってパワーを注いだ。わずかだが泥の侵食スピードが遅くなる。信長はまた宙にいくつもの火縄銃を顕現させた。
「姉上サポートスキルえい! スキル1! スキル2! スキル3……は船が沈んじゃう〜!」
「よし! 信勝のサポートは得た、あとは後ろに下がっておれ!」
「でも姉上……心配です」
「信勝、姉の実力を信じておらんというのか?」
「違います! で、でも心配なのが愛なんです!」
姉弟はまた痴話喧嘩で時間を食っていた。聖杯の少年の方が早い。泥を操作して礫として亀くんボートに放つ。
……「こっちの力を奪って、妙なものばかり作って……ああもう! さっさと沈め!」……
「ふん、貴様こそ沈め!」
泥の礫を射撃して破壊した信長は不敵に笑った。信勝のおかげで足場は思った以上に安定している。そのまま聖杯の少年を射撃した。
信長の弾丸は一発は外れ、二発目は直撃した。少年の左の腹からぼたぼたと血を流れる。少年は顔を痛みに歪め、両手を傷口に当てた。
「よし!」
「姉上、やった!」
……「っ……この! この程度で!」……
姉弟は振動にボートにしがみつく。聖杯は泥に片足を突っ込み、泥の海に激しい波を生み出した。波が砕けて信勝の頬に数滴飛び散ると黒い火傷ができる。
「信勝……待っとれ! さっさとわしが決着をつけてくる!」
信長はさらに多くの火縄銃を顕現させ、その一つの上にサーフィンのように飛び乗って飛んだ。そのまま十以上の火縄銃を周囲に浮かべ、聖杯の少年の方向へ移動した。
「姉上、危険です。僕も!」
「攻撃の邪魔じゃ、後ろを守っていろ! ダメージを受けたら亀ボートに戻る!」
「姉上、姉上……せめてこれを!」
信勝が右手を伸ばして淡い光の球を生み出すと姉に向けて放つ。ふよふよと頼りないそれが信長の背中にくっつくと小さな白い翼になった。
「短時間ですがそれで飛べるはずです! もし泥に落とされたとしてもこっちに帰れるくらいの時間は飛行できるはずです!」
「信勝、やはりお前、すごい男になったでないか!」
信長はこんな場だが、弟の機転が、強さが嬉しくて仕方なかった。
信長と聖杯の少年は空中で対峙した。二人とも泥から五メートル程度浮かんでいる。
少年は泥に手を向けると巨大な鎌を生み出した。それを真横に浮かべる。それを見て信長はにっと笑った。
「さて、わしらが帰還するには貴様が邪魔じゃ。貴様はわしらを殺したい。分かりやすくていいではないか」
……「ここは私の聖杯の中、貴様らに勝ち目など……っ!」……
「先手必勝、戦のいろはじゃぞ」
信長は火縄銃に乗って、日本刀を構えると聖杯の少年の真横へ一気に距離を詰めた。
少年は動揺して隙だらけで、本質は怖がりの子供であると丸わかりだった。ほんの一瞬、信長はそれを哀れに思った。しかし刀を抜くと大きな隙に突っ込んでそのまま右手を切り落とした。
……「あ……ぐっ、お前……痛い」……
ぼちゃんと少年の右腕が泥の海に落ちる音が響く。信長は火縄銃の少年の心臓に向けた。
「そりゃ痛いであろうな。貴様に殺されたものたちだって痛かったろうさ」
……「……舐めるな」……
再び火縄銃で聖杯の少年の胴体を狙うが反撃が来た。泥の鎌が信長の首を狙う。やむなく後方へ下がるがかわしきれず右腕に小さい傷ができた。ピリピリと痺れるように痛む。
痛みに構わず、信長は十の火縄銃で撃った。さっきより魔力を込めた一撃だ。今の弱った聖杯の少年になら通じる。
十の銃口から炎のような一撃が放たれる。少年は泥の鎌の形を盾に変形するが、守りきれず今度は左肩と右足に銃弾を喰らってしまう。痛みに歪む少年の顔は年相応で珍しく信長は胸が痛んだ。転んで泣いていた信勝に少し似ている。
(弱い子供じゃ。聖杯という大きな力で強さの殻を纏っているに過ぎん)
聖杯の少年は本来弱いはずだ。元々戦国の世に馴染めず、人の死に心を痛める優しい少年。聖杯の力で圧倒していただけで、歴戦の猛者である信長に戦いの経験値で勝てるわけがない。
……「痛い、痛い……くそ、まだまだ!」……
「おお、思ったより根性があるではないか。こんな場でなければ家臣にしてやってもよかったんじゃがの」
聖杯の少年は折れた腕を泥でコーティングして補強した。その機転を信長は正直に褒める。
……「誰がお前なんかの家臣に……多くの人を殺して成り上がってきた戦国武将なんかに!!」……
「……」
聖杯の少年は信長をギロリと睨んだ。けれど信長の目には哀れみがあった。
「聖杯よ。まだやるつもりか? 貴様の願いはなんだ? わしらやカルデアを滅ぼし、その先に何を願う?」
……「知れたこと! 人間を滅ぼす! こんな風に聖杯を汚すような願いしか持てない生き物など存在しない方がいい!」……
「ならば貴様の願いはすでに叶っている。同じ戦国時代のものとして告げよう。五百年後に人類は滅びた。歴史さえ無くなった。貴様が滅ぼすものはすでにもうない」
……「……なん、だと?」……
実のところ、カルデアがなくなれば、という注釈付きだが信長は嘘をついているつもりはなかった。人類は確かに一度滅びたのだ。いや、地球が白紙化したことを考えるなら二度は滅んだのかも知れない。
……「人間が……すでに滅んだ?」……
聖杯の少年は動揺していた。少年は優しすぎる。だから全ての人の願いを叶えようとして破綻したのだ。
(なんでかの、ほんのちょっとだけ……子供の頃の信勝に似ている)
だから少し……話をしたくなった。
「そうじゃ、貴様の願いは叶えられない。すでに人類は滅んだからな。どうじゃ、満足か?」
……「……嘘だ」……
「本当だ」
……「嘘だ、嘘だ、嘘だ! 人間がもういないなんて嘘だ!」……
「なんなら外に出て一緒に滅んだ世界を見るか?」
赤い目を見て少年は悟る。信長は嘘をついていない。少年は数秒硬直して、何もなくなった世界を想像してしまった。
「貴様、本当は人間を憎みきれていないのだろう?」
水晶のように硬質に信長は告げる。
「期待しないという生き方がある。何も望まない、願わない、だから興味もないということじゃ。
貴様は違う。貴様には人間に怒りがある。怒りの裏には期待がある。もっと素晴らしい存在でいてほしかったと、それなのにどうして期待を裏切って醜い願いしか言わないのか、という悲しみがある」
全てをあげてよかったのに。
どうして誰も救われないのかと泣いたことを思い出してしまった。
……「ち、違う……人間は最低だ……全てを叶える聖杯さえ、誰も救うことができなかった」……
「お主は期待を、願いを捨ててはいない。だから救いたかったなどとまだ口にする。大体最初からそうではないか……どうでもいい存在のために万能の聖杯を使ったりするものか。貴様は全ての人間を愛していた。全員を救おうとした。憎んですらいない、その怒りはどうして全てのヒトは救われないのかという嘆きだ」
……「黙れよ……そんなことお前に関係ない……!」……
聖杯が年相応の少年らしい、悲しみの顔を見せたので。
信長は優しく微笑んだ。
「わしにも多少覚えがある……愛された方は意外と愛されたことを分かっていないものよ。貴様がどんな想いで全ての願いを他人のために使ったのか、人間たちは分からなかった……バケモノもヒトも当たり前のものの大切さが分からない」
……「そんなこと……だったらなんだ……私が、僕が……あんなことを願ったせいじゃないか! もう取り返しがつかない!」……
信長は目を伏せた。この少年は自分への罰を求めていたのだ。信長や信勝と同じように。
「ヒトもバケモノもそういうものかもしれんな。生きていると取り返しがつかないことが起こって、手遅れになって罰を求める」
聖杯の少年の手足はすでにヒビが入り、黒いシミに侵食されている。力を失い、力に喰われ始めていた。それが戦嫌いの少年が聖杯の力を使い続ける限界だ。
せめて早く楽にしてやろう。信長はもう一度刀を持つ手を構え直した。
「わしが介錯してやる。戦乱の世に心を痛めし哀れな魂よ。だが一つだけ言う、貴様の願いが全て間違いとはわしは思わぬ」
……「お前みたいな人殺しに何を言われたって知るものか!」……
「最後に聞きたい……どうして信勝に執着した? 信勝に聞いた。貴様はあいつの願いを叶えようとあれこれ手を尽くしたそうじゃな。なぜ信勝じゃったのじゃ?」
……「それは……あいつは」……
聖杯の少年は信勝のことを思い出してしまった。始めて見た時に自分をそっくりだと目を疑った。だから、願いを叶えて真っ先に破滅させようと聖杯の身でありがなら願ってしまった。
そう。聖杯を使って全てを台無しにした後に叶えたい願いを持ってしまったのだ。
……「別に……あいつの願いが一番歪んでいただけだ。あいつの心は酷く歪んでいる。それはお前も知っているんじゃないか?」……
「ふん……最後まで素直ではないの」
信勝は自分とそっくりで、でも一つ致命的に聖杯の少年とは違っていた。信勝には自分よりも大切な存在がいた。それは少年のように全ての人という曖昧なものではなく、たった一人の姉だった。だから、聖杯が信勝を苦しめようとするほどうまくいかず、結果聖杯の力をいたずらに消耗するだけになった。
少年は信勝に同じになって欲しかった。こんなことなら願いなど持つのではなかったと後悔して欲しかった……自分と同じように生まれてきたことを悔いて欲しかった。けれどちっともうまくいかなかった。
聖杯の少年は気づいた。考え事をしていた間に信長が目の前に迫っていた。まだ避けられる。だが身体が動かない。自分の願いが思い出せない……。
「さらばじゃ、哀れな子供よ……何か違えば信勝は貴様のようじゃったのかもな」
信長の刀が少年の首を斬る。半ばまで断ち切れた。そのまま切断しようとしたが、少年の手が動き、首の傷から泥が溢れた。
さらに泥が溢れると聖杯の少年の身体が爆破した。至近距離で食らった信長は浮遊する火縄銃の上から落ちる。泥の地面へと落ちていく。
「くっ……」
信長は聖杯の少年を睨んだ。落下する首が叫んだ。
……「ああああ……ああああああ! なんで! どうして……僕はただ! ただ! ……せめて、お前たちだけは……」……
首の両目がギロリと動くと泥が蠢き、小さな爆発が遠くで起きた。それは外に通じる道を壊した音だった。
【弟の裏切り】
信長は小さな翼でふよふよと浮かび、なんとかボートへ戻った。
「姉上!」
「全く……保険などかけておくもの、じゃな……」
亀ボートの上で信長は信勝の腕の中に倒れる。信勝がつけてくれた翼があったのでなんとかここまで帰って来れた。聖杯が近距離で爆発したので顔が火傷だらけだった。
「姉上、火傷してる……ごめんなさい、もう力が出なくて治せない」
「構わん、サーヴァントだ。これくらい魔力があれば治る。もうお前は聖杯の力など使わんでいい」
「姉上!」
火傷だらけの姉に弟は抱きついた。両目に涙を浮かべて自分の無力を情けないと呻いた。その声に呼応するように信長の背中の小さな翼は消滅した。
「姉上、姉上、よかった。また会えて」
「ふっ、わしを誰だと思っている。第六天魔王は聖杯くらい勝てるんじゃ」
「もう離しません。姉上と僕はずっとずっと一緒です。生前の分までこれからは必ずおそばにおります」
「信勝……わしの喜ぶ言葉がようやく分かってきたではないか」
姉は弟の目の涙を右手で拭った。もう大丈夫。約束した。第二の生では何があっても離れたりしない。
「今度こそ我らは最後まで一緒じゃ。まあ、ここからどうにか出ねばならんが」
世界は酷い有様だった。聖杯は倒したものの、空は嵐で泥の海は大荒れだ。ぼたぼたと黒い雨が降ってくるので姉弟はお互いの頭をマントで庇った。亀ボートも大分ダメージを受けて少し萎んでいる。
「姉上、まずは安全な場所へ」
信勝はボートを陸へ近づけた。陸というか泥の海からかろうじて頭を出している巨大な岩だったが信長が蹴飛ばしてもびくともしない。二人がその岩の上に移動した瞬間、亀ボートが泥の魔力に耐えられず溶けていった。
ビニールの亀の頭が消えていく姿に信勝は「ありがとう」と言った。そんな姿にやはりヒトという生き物は優しいのだと姉は思った。
「よくもったというべきか。危なかったのう……すまんな、信勝」
「なんですか、突然」
「わしがカルデアのリボンを手放してしまった。あれが二本あれば脱出できたのに……最初は五本もあったのにもう一本も残っていない。聖杯の精神攻撃でわしはリボンを自分で破壊してしまったんじゃ」
「そんな、姉上は再会した時に僕にリボンを一つ結んでくれたじゃないですか。でも、僕は姉上に……ひどい事をしたと動揺して、自分でリボンを壊した。僕こそ、リボンを手放してすみません」
聖杯は倒した。あとはリボンさえあれば帰れるのにそれを自分で無くしてしまったことに姉弟は互いに謝った。
「とにかく、マスターとダ・ヴィンチが言っていたように上を目指そう。確かに世界は壊れ始めているが承知の上だ」
「はい、あいつを倒さなければ進めませんでした……でも世界がここまで壊れるなんて」
不意に落ちた沈黙をピピっと通信の音が破った。姉弟の目の前にモニターが出現する。そこには青い髪の子供が偉そうな表情で映っている。
「アンデルセン?」
……「やっと繋がった、聖杯を破壊したようだな。その空間は壊れていく、道連れになる前にこれをもってきた」……
信長と信勝の前に一本のピンク色のリボンが宙から現れる。淡く優しい光を放っていた。
「なんじゃ、このリボンまだあったのか?」
……「聖杯が破壊されたから干渉できるレベルが上がった。信勝のリボンは糸が数本わずかに残っていた。信長のリボンは腕から切断されていたが残りがその空間に残っていた。その二つを合わせて一本だけリボンを復活させることができた」……
「しかし……一本だけあっても仕方ないじゃろ。それとも今回は一本で二人帰れるのか?」
……「残念だが一本では一人しか帰れない。これはカルデアからの目印だ。……もう一本、必ず用意する。それまでは通信用に腕に繋いでおけ」……
「ううむ、是非もないか……信勝、ちょっと待っておれ」
「……」
渋々リボンを右腕に巻く姉を信勝がじっと見ていた。
リボンを巻くと信長はカルデアの魔力が送られ、顔の火傷が完治した。
……「ノッブ、頑張って。必ず二人とも助ける」……
わずかにマスターの声が聞こえてきて信長は奮い立った。
「アンデルセン、貴様は脱出せんでいいのか? というか貴様、リボン山ほどもっていたではないか。もう一本くらいなんとかならんのか?」
……「ここにいる俺は影だ。脱出の必要はない。俺の元にリボンがあるのは事実だが、俺から見てお前たちは本当に遠い、底の底のような場所にいるんだ。届けようと思って届く距離ではない。そのリボンはお前たちが自らそこに運んだものだから届くんだ。
だが正解でもある。そのリボンを引っ張って歩いてこい。少しでも近づけばなんとかもう一本届くポイントがある。そこまで行けば出られるはずだ」……
「悠長なことじゃの、この世界の崩壊はもうすぐではないか?」
……「元々、ギリギリの話だ。二人一緒に死ぬか、二人一緒に助かるか。お前たちの頑張り次第だな」……
「ふん……感謝する、アンデルセン」
……「お人好しのマスターの頼みだ、お前風に言うなら是非もないさ」……
「ははは、マスターの性格には感謝せねばな」
信長は結んだリボンを軽く引くと手応えを感じた。引っ張られている方向がある。
信勝は妙にぼうっとしていているで姉は軽く小突いた。
「おい、こっちじゃ。行くぞ。もしや力を使いすぎてきついか?」
「い、いえ……マスターが優しすぎてびっくりしていたのです。ここまでするの大変でしたでしょうに」
「立香は元々お人好しの度がすぎて世界を救ったりしているところがあるからの」
リボンの導きに従って姉弟は進んだ。進む方向は岩を超えてすぐに泥の海になってしまったが、リボンを握っていると金色の力場が現れた。
金色のリボンのような道が空へと伸びて意。その宙の道を歩いて黒い雨の中を進んでいく。
信勝はじっとリボンを見つめているので信長はからかった。
「なんじゃ、リボンばかり見て。わしが今更お前を置いて一人助かるとでも思っているのか?」
「いえ、その、大事なものなので絶対に見失わないようにしないとって」
「心配するな。これからわしとお前は永遠に共にある。ダメなら一緒に死んでやるさ。心配ならお前の腕にむすんでやろうか」
「……いえ、僕は、無くすか不安なので姉上がもっていてください」
信長は振り返って無表情の信勝ににっと笑いかけた。
「全く心配性じゃの、お前は! ならばわしについてこい!」
姉は子供の頃のように弟の手を引いて光の道を登っていった。
光の力場を走る姉弟だったが、空からの黒い雨に身体が傷まないわけではない。下の泥の海も激しい嵐のように蠢き、飛沫が時々この高さまで到達した。
その飛沫が信勝の足にあたり、信長は一度足を止めた。服は焼けて中身が見えている。火傷だ。姉は自分のマントを引きちぎった。
「包帯代わりじゃ。巻いておけ」
「あ、姉上、いいですよ、僕なんかに……あ」
信長はため息をつく。だが信勝は自分のそういう言動がいけないと今は分かるので浅いため息だった。
「……ごめんなさい、姉上。僕は姉上に愛されてるのに」
「うむ。反省しろ。お前はなんか、なんかじゃない……わしの信勝じゃ」
「こうしていると姉上の愛を感じずにはいられません。本当にどうして……僕には分からなかったのか」
信勝は頬を染めて、まるで情事を目撃されたように傷の手当てから目を逸らした。
手当てを終えた姉弟が再び光の道を進むと信長が口を開いた。
「ずっと道を歩いているだけでは退屈だな……すまんかったな」
「姉上?」
「信勝を一人にしてしまった。だからお前は死んだ。わしが……生きている間に一度好きだと言えばよかった」
「姉上のせいではありません。僕が……愚かだったのです。一人じゃなかったのに、一人だと思い込んだ」
「じゃが一人ではないとそれこそ一人では分からんじゃろ」
「でも」
「いい……一度、言ってみたかっただけじゃ。泣き言をお前に言ってやりたかった。今までこの言葉に耐えられぬほどお前が弱いと思っていたから言えんかったのじゃ」
「言った方が姉上は楽になるのですか?」
「そりゃな」
「じゃあいっぱい言ってください!」
「殺してすまん、気付いてやれずすまん、好きだと言えずすまん、一緒に逃げてやれずすまん、守れずすまん」
「ううっ!? なんだか僕の方が罪悪感が出てきました。こんな風に姉上に謝罪させるなんて僕はなんてダメなやつだ……!」
「おい、まだあるぞ。自分で言ったことなんじゃから音を上げるな」
信長はため息をついた。
「結局、わしはお前の前では格好つけていたのかもしれん。慕う眼差しに相応しいよき姉であろうとしてしまう。だから好きだと簡単に言ってはいかんと……それで一番、後悔したのじゃがな」
昔を思い出す。誰の声も聞こえない。顔もぼやけてしか見えない。そんな中で信勝とだけは「聞こえず、見えず」とも気持ちが同じだと思い込んだ。
「好きなんて言葉はわしらに必要ないと信じていた。認識する必要がないほど繋がっていると思い込んでいた。わしはな、お前だけはずっとそばにいると信じ込んでいた。戦乱の世であるのになぜかわしがいれば隣には信勝がいるのが当たり前だと確信していた。喉が乾けば水があって当たり前と思うように」
「……僕のせいもあると思います。姉上は僕を必要としてくれたのにいつの間にか僕はそれを「姉上は誰にでも優しい人格者だ」とと解釈してました。……傷つかないための防衛策だったのです。成長するほど僕はコンプレックスの塊になっていって、自分にいいことがあると「たまたまだ」と予防線を張った。傷つかないために自分を守っていただけです」
「人格者〜? お前の解釈、ほんとわしと解釈違いじゃわ。……逆だな、わしらは。わしは信勝は永遠にそばにいて当たり前だと信じ、信勝はわしがそばにいなくて当たり前と信じた」
そばにいたい気持ちは一緒だった。けれど姉は弟は自分と同じだと思い込み、弟はそう思っているのは自分だけだと思い込んだ。
「全く信勝は……ぬ?」
光の道が塞がっていた。ダークグレーの空がひび割れて、鈍い光を放つ泥がドロドロと滝のように溢れ、光の道を閉ざしていた。
姉弟は慎重に光の道の先を探った。ここだけ通れないなら信長の火縄銃になんとか二人で乗って、この場所だけ回避すればいい。しかし、光の道は折れた定規のように泥の受けた場所で折れてとても進める状況ではない。
信長はリボンに焦った声で話しかけた。
「カルデア! 道が壊された、なんとかならんもんか!?」
即座にダ・ヴィンチちゃんがモニターに映る。彼女は焦りとわずかな自信を持って返答した。
……「今、解析が終わったところだ! 新しい道を作る!」……
言葉の通り、二人が立ち往生していた光の道の真横に新たな光の道ができる。今度はわずかに虹色に光っていた。
「よし! いくぞ信勝!」
「はい!」
さっきは話などして時間がかかったのがいけなかったのだ、と二人は油断せず走った。けれど、今度は二人の目の前で空が割れて泥の滝に光の道がへし折られてしまう。
……「まだまだ、新しい道はいくらで作れる! めげずに進んで! いいかい上にがりさえすれば君たちは即帰還できる!」……
再びダ・ヴィンチちゃんがモニターに現れ、泥の滝の手前に新しい道が現れる。
……「聖杯はどうしても君たちを道連れにしたいらしい! だが聖杯は破壊ずみだ、もう少し君たちが上に来ればこっちのものだ!」……
「くそ、あいつ……どうしても僕たちを殺したいのか」
走り出す前に姉は弟の手をしっかり握った。
「信勝! 念の為じゃ、手は繋いでおく!」
「えええ!? そんな、僕たちまだ早すぎます……はわわ!?」
「今更、なにわけの分からんことを言ってるんじゃ!」
手を繋いで再び姉弟は走り始めた。やっと分かり合えたのだ。二度目の生でやり直すチャンスを得た。まだしたいことがたくさんある。こんなところで絶対に死んでたまるか……!
姉弟はそれから手を繋いだまま走った。
それから十度、光の道は滝で破壊され、その度新しい光の道がカルデアに創造された。
壮大なイタチごっこの中、姉弟はめげずに少しずつ上へ上がっていった。
……「あとちょっと、あとちょっとなんだ! 具体的にいうとあと上に百メートル!」……
モニターのダ・ヴィンチちゃんは走る姉弟を励まし続けた。汗だくになった二人の視線の先に金色の光がチカチカと光る。あそこがゴールらしい。
「くそ、またか!」
それは十三番目の光の道を信長と信勝が走っていた時、再び空が割れて泥の滝が道を塞いだ。
……「なんの! 百回だって私はやってみせるよ! ……なんだ、ジャミング!? まずい、このタイミングで」……
「ダ・ヴィンチ?」
モニターのダ・ヴィンチに嫌な砂嵐が混ざる。そこでモニター自体がガラスのように砕け散った。
「ダ・ヴィンチ! おい、ダ・ヴィンチ!?」
……「ノッブ! 信勝くん!」……
聞こえたのはダ・ヴィンチちゃんの声ではなく、掠れたマスターの声だった。そこでぷつっと全てが消えた。
信長は考えた。手元にリボンは残っていて微かに魔力の流れを感じる。足元は随分高い位置に来て、光の道は消えていない。ただ新しい道は生まれない。
「くそ、あの子供、しつこいではないか……信勝!?」
「え?」
信長が信勝に手を伸ばす。押し倒す形で信勝が後ろに一メートルずれるとそこを大きな泥の粒が掠める。
「姉上!」
転んでいる時間もない。泥の滝は意思を持ったように姉弟の方へ泥の飛礫を飛ばした。信勝は姉の肩を掴んで一つ回避するが泥がぶつかる度に光の道が割れていく。
バキバキと音がした。下の方で光の道が砕けている姿が見えた。信長と信勝は上空の金色の光を見上げた。あと少し、あと少しなのに……!
信長は火縄銃を顕現させた。
「信勝、お前もこれにしがみつけ。わしがあそこまで上がってみせる。……飛行は本分ではないが、なんとか……信勝!?」
信勝は信長の前に立ち塞がった。泥の粒が胸と腹をえぐる。肉の焼ける匂いがして弟が倒れると姉はらしくなく悲鳴をあげた。
「信勝、信勝、しっかり……おのれ!」
信長が火縄銃を片手で掴み、もう片手で弟を抱えて飛ぼうとした時は手遅れだった。
もはや水鉄砲のような泥の奔流が姉弟を直撃した。全身が火傷するがリボンがわずかに光って傷は半分となる。そして光の道がバラバラに破壊された。
底へ落ちる。信長と信勝は泥の海で目を覚ました。本来なら全身火傷だが光の道の破片の上にうまく着地してそれは免れる。
「信勝、起きろ、目を開けてくれ」
「姉上……僕たち、落ちてしまったんですね」
姉が弟の身体を揺さぶると思ったより早く、冷静に信勝は目を覚ました。周囲を伺う。あんなに頑張って走ったのに最初に場所に戻ってしまったのだ。上を見るが距離がありすぎて、出口の金色の光は見つからない。ただダークグレーの空はあちこちひび破れて泥が溢れている。
信勝は宙へ手を伸ばした。何も掴めない。
(もう、ダメなのかな……)
「もうダメか……くそ!」
信長は泥を数度殴りつけた。信勝の顔を振り帰る。ここまでなのか。
もうカルデアに帰れない。ここでゲームオーバー。リボンに話しかける。
「カルデア、ダ・ヴィンチ、マスター……もう本当にダメなのか」
通信は回復しなかった。
何も聞こえない。まるで昔のようだ。ほんのわずかな魔力供給だけがリボンだけは壊れていないことを示す。
「姉上……もう通信はダメなのですか?」
姉は苦しそうに首を横に振った。信長は右腕のリボンをほどき始めた。
「ここまでか……お前とカルデアにまた帰りたかったんじゃがの」
「姉上……」
「じゃが最後は一緒に……信勝?」
突然、信勝は信長を抱き寄せた。全身でしっかりと姉の肩と腰に腕を回して密着した。
「姉上……姉上……ずっとあなたと一緒にいたいです」
回された弟の腕が震えていて信長は信勝の胴体をしっかりと抱き返した。
「ああ、わしも同じだ。わしもこれからの第二の生でもっと長くお前と一緒にいたかった。やっと分かり合えたのに、それはこんな短い時間で……口惜しい」
ちゅ、と信勝が信長の頬に触れるだけのキスをする。信長はわずかに頬を染めるが、同じように信勝の頬にキスをした。
「姉上、姉上、大好きです。あんな形で死んでしまったけれど僕は生まれてきてよかった。あなたに会えたから」
「ああ、信勝。わしもお前という弟がいたことでヒトを愛することができた。お前がいなかったら今のわしはいない。好きじゃよ。こんな最後じゃがお前と一緒ならいい」
「姉上……」
信勝は抱擁に隠れて信長の右腕に手を伸ばした。
「ごめんなさい」
どんと信勝は信長の背中を力一杯突き飛ばした。
そして弟は聖杯から奪った最後の力を使った。
「……信勝?」
信長ははっと気付く。信長の右腕には信勝によって巻き直されたカルデアのリボンがしっかり結ばれていた。リボンは淡く虹色に光り、信長だけを連れていく。
そう、リボンを使えば一人だけは帰れる。信勝は最後の聖杯の力をリボンの起動に使った。
「や、やめよ! なぜじゃ!?」
「姉上、僕はやはりどこまでも勝手な男のようです」
信長は金色の粒子になって外の世界の穴へ吸い込まれていく。どうして気付かなかったのだ。姉だけは助けるなんて信勝なら真っ先に考えそうなことなのに。
「何度わしを騙せば気がすむんじゃ! ずっと離れんと何度も何度も言ったばかりではないか!」
「姉上、僕は約束を破ってばかりですね。どんなことがあってもあなたにだけは生きてほしいのです……あなたがどんなに悲しんだとしても」
「信勝、この……この裏切り者っ!! どうして、なんで、よくも騙しおって……許さぬ。許さん、許さん、お前を永遠に許さん!!」
一瞬だけ振り返った顔が見えて。
その姉の顔は本当に傷ついた表情をしていた。怒りではなく悲しみがそこにはあった。本当に信勝を信じていたのだ。
それが弟の胸に何より突き刺さった。
「姉上ーーー!」
偽善だと分かってはいたが。
信勝は叫ばずにはいられなかった。
「待っててください! 僕も必ず帰って見せます! もう姉上が待っていてくれないとしても最後まで諦めずにカルデアに帰ります!!」
【聖杯くんの最後の願い】
リボンが確かにカルデアに姉を運んだことを確認すると信勝は目を閉じた。
「我ながら恐ろしい。さっきまで本当に姉上と一緒に消えるつもりだったのに。今度こそずっと一緒にいるって約束したのに……裏切ってばかりだな」
信長だけは確実に助かる、と分かった瞬間身体が動いていた。何度も一緒だと言った約束をあっけなく裏切った。
好きな女が生きていてくれるならなんでもする男。自分がそんな古典的な人間だと今更知る。そしてそんな生き方がどんなに女を傷つけるか身を持って知った。
「……諦めるな! まだきっと、何かある!」
信勝は自分の両頬を叩いた。しぶとさはカルデアから学んだ。本当の最後まで打つ手を諦めてはダメだ。
もう信勝に聖杯の力はない。元々貧弱な霊基しか持たない信勝は光の道の破片をジャンプして出口を探す。
そうしていると声をかけられた。
……「なんだ……お前、まだいたのか」……
「げえっ、聖杯! ……?」
聖杯の少年だった。ボロボロで泥の中に浮かんでいる。先ほどまであれほどしつこく姉弟の道を妨害した執念深さは見つからず、四肢をもがれたまま虚無の海に浸って見えた。
「お前……死んじゃうのか?」
……「さあな……最初から死んでいたのかも知れない。聖杯に願ったあの時に……死んだことにも気づかず人間を滅ぼすつもりだったとはお笑い草だな」……
「ふん、こっちはお前のせいで散々だ。よくも妨害してくれたな」
……「さっきお前の姉に斬られた特に力を全て「こいつらを逃すな」と念じて使った。ざまあみろ。お前たちが落ちている姿は笑えた」……
「ぐぬぬ、口の減らない……まあ、いい。そんな弱弱のお前を殺しても、時間の無駄だし」
少年はただの残骸だ。刀で刺してやろうかと思ったが、もはやまともな肉体の形をしていないボロボロの姿は根の優しい信勝には哀れだった。
……「見たぞ。口惜しいことにお前の姉は帰ったみたいじゃないか。これじゃお前の願いを叶えたみたいだな」……
「はあ?」
……「だって、お前死にたかったんだろう? だがあの女が追いかけてきたから、どうにか返そうとしていた。あの女だけには生きて欲しかったから」……
「……僕はもう死にたいわけじゃない」
聖杯の少年は初めて驚いたように少し信勝の方を振り返った。確かに信勝は棒のようなもので泥をかき回している。出口などない。その姿を滑稽を笑うのは簡単だろう。けれど信勝の目が本気だったので聖杯の少年は笑えなかった。
信勝は問いかける。
「お前こそさ。これでよかったのか? 万能の聖杯を使ったあげく、そんな風に死ぬなんて」
……「は!? 僕はちゃんと願いを言った! 台無しにしたのはお前たち人間じゃないか……どうして、どうして……みんなが笑っているなら何も要らなかったのに」……
「お前……」
顔が欠けているのに。
怒りと悲しみに顔を歪ませている聖杯の少年。
そんな姿を信勝は正面から笑い飛ばした。
「全く、お互いに仕方ないな! 身勝手そのものじゃないか! でもそれが人間だったりしてな!」
……「身勝手……? 僕が? 聖杯を全ての人々に捧げたのに?」……
「あはは、お前、なんだか僕みたいだな」
生前の自分もこんな風な死に様だったのだろうか。全てを捧げたのだから願いは叶って当然だと泣きじゃくる子供だったのか。哀れで身勝手で……幼子なりの精一杯の祈りだった。
……「何がおかしい」……
「僕もこんな世界滅びればいいと何度も願った」
聖杯の少年が振り返る。
信勝は戦国の世が大嫌いだった。平気で人を殺す人間たちが嫌いだった。そして生来の性格でそんな時代に馴染めない自分が一番嫌いだった。
「なんか生まれつき向いてないんだよな、戦国時代って。自分も他人も傷つくことが嫌なのに、戦え戦えって現実に心底うんざりしてた。だから何度も明日目が覚めたら世界中滅びてることを願って眠りについた。いっそみんな死んでしまえば誰も殺し合わずに済んで一番いいじゃないかって布団の中で泣いてた……流石に痛いな」
信勝は喋りながら両手を火傷させながら泥を掘っていた。目に涙が滲んでいる。
少年は目を丸くした。同じことを思っていた人間の言葉を初めて聞いた。信勝が同じ気持ちを持っていたことは知っていたが直接言われると心揺れた。信勝は泥をかき回しながら喋り続けた。
「それでも僕がお前と違うのは……ただ誰よりも好きな人がいただけだ。姉上にだけはどんな形でも生きてほしかった。そのくせ僕の方は一方的に死んだ。エゴの塊なんだ。きっと僕はお前のような願いは聖杯に願わない。僕は生前に聖杯を得ていたら迷わず姉上に使った。下手すると「姉上のため」と思いながら自分の願いを叶えただけかもな。全員の幸せなんて願わない……お前の方が純粋なんだな」
信勝の顔が困ったような笑顔を浮かべる。まるで春みたいなだと思ってしまった。
……「僕はずっと世界と自分が嫌いだった」……
なぜ泣いているのか分からない。聖杯の少年の頬には一筋の、だが止まらぬ涙が溢れていた。春に溶ける根雪のようだ。
どこかでずっと理解者を求めていた。同じ気持ちだよ、という声を求めていた。
……「人を殺すことが怖い、いつか武士として誰かを殺すことが怖い、誰かが誰かを討ち取ったという自慢話が怖い。人殺しが褒められる世界が嫌いで、そんな世界の輪に入れない自分が一番に嫌いだった」……
「やっぱり似てるんだな」
……「だから、聖杯を見つけた時、やっと僕は生まれてきてよかったんだと思えた。これで辛い時代は終わる。僕は聖杯を見つけるために、みんなを救うために生まれてきたんだって……だから願ったよ。みんなの願いを叶えて、みんなを救ってって……それなのに」……
結果は世界を地獄にすることだった。なぜだ、なぜだと泣いた。やっと全員で争わず、穏やかに暮らせると思ったのに全て裏切られた。人間を滅ぼす勇気なんてなかった。ただ全ての人間に言いたかったのだ。なぜ、なぜ、なぜただ共に穏やかに暮らしてくれないのか、と。
手があまり動かなくなってきた信勝はその辺に浮かんでいた木片(らしきもの)で泥の中を掘り始めた。
聖杯の世界はドロドロと崩れ始めていた。まるで綿菓子を水につけたように溶けていく。終わっていく世界、なのに、諦めていない信勝を聖杯の少年は視線で追っていた。
「僕も死ぬ時に一番好きな人を可能な限りで幸せにしたつもりだった。でも蓋を開けてみれば彼女を一番傷つけたのは僕だった。全部逆効果だった。あんなに必死にやったのになんだったんだろうって人生の意味とか考えちゃったよ」
……「そんなの……結果が全てだろ。僕もお前も失敗したんだ」……
もしかして。
こうしてただ誰かと話がしたかったのかもしれない。
きっと自分のためだけに聖杯に願えばそんな願いだった。
「そう、だな……僕の人生は失敗だったんだろうな。でも、それでも僕は僕の人生に価値はあったって信じてる」
……「……は?」……
意味不明だ。人生は失敗だったなら無価値だろう。
泥の中で消滅を待つだけだった聖杯の少年はもう一切動くつもりなどなかったのに思わず起き上がってしまった。すると肉体がドロドロ、ボロボロと崩れて首から上だけになった。
「うわ!? お前死んだのか!」
……「だから元々死んでたんだって……幽霊さ」……
聖杯の少年は首から上だけになって信勝の後ろに浮いていた。少し透けていて本当に幽霊のようだ。左のまぶたが破れて目玉が剥き出しになっていて結構怖い。
「お前がその有様なら僕が死ぬのも時間の問題だな……出口を探さなきゃ」
……「出口? お前、さっきからジタバタしてるけどもしかして死にたくないの?」……
「当たり前だ! 姉上が待ってるんだからな! ……もう待ってないかもしれないけど!」
少しべそをかく。信勝は泥を掘るのをやめてその場を離れる。すると首だけの聖杯が後ろを浮いてついてくる。
「なんだよ、ついてくるな」
……「どうして死にたくないんだ? お前を聖杯の中に落とした時、心をのぞいた。お前はどちらかというと死を望んでいた。自分の存在を無価値を思っていたはずだ。自分なんて存在しない方がマシだと」……
「あの時はそんな僕だったかもな。あの時と今は違うってだけだ」
聖杯の少年は文字通り首を傾げた。つまり聖杯の中に入ってきた時と今では考えが変わったということだろうか。こんな短い時間で一体何があったのやら。
信勝は小走りをして出口がないか周囲を伺う。聖杯の少年はしつこく後ろについていく。すると一度信勝は振り返ってにっと笑った。
「お前のせいで、お前のおかげかもな。お前が僕に執着して、閉じ込めたり、苦しめたりしたから僕は姉上の本当の気持ちに気付いた」
アンデルセンの力が大きいのだがそこは省く。
……「意味が分からない。確かにお前と僕は似ていたから同じように願いを叶えて破滅させようとしたけど……それで死にたい気持ちがなくなるってどういうことだ?」……
「姉上が僕の全てだった。姉上にとって凡人の僕はなんの価値もないと思っていた。でもここでそうじゃないって分かっただけだよ」
……「そんな単純な」……
「あはは、本当に単純だよな! でも僕は馬鹿だからそれくらいでちょうどいいのさ!」
話している間も信勝は出口を探し続けた。本気で生きたいらしい。もう死にたい聖杯の少年には理解できない。こんなに似ているのに何が違うのか……あの女か。
(生きてることはずっと辛かったし、生きたいって思ってことはないかも)
聖杯の少年の耳に小さな声が聞こえた。
「ごめんなさい、姉上、きっと帰ってみせます」
(誰かが待ってるから、生きたくなったのか?)
聖杯の少年は父と母のことを思い出した。
二人とも厳しい人で、大名家の跡取りの自分を厳しく教育した。しかし、十二になった日に母に抱きしめられた。お前は優しい子だ。許しておくれ、どんなことがあっても生きて欲しいのだと言われた。
その翌日、父に呼び出された。父は何も言わず、部屋で酒を出して二人で空を見た。少年は酒など嫌いだったが隣で飲むフリをした。そう過ごしているとポロリと、お前は頭のいい子だ、という言葉が父から溢れた。こんな時代ですまない、だがその聡明さならきっと生き延びられると頭を撫でられた。
だから、父と母も本当はこの時代のことを嫌いなのだと胸の孤独が和らいだ。
(父上と母上は聖杯に何を願ったのだろう。醜い人間らしく欲しか言わなかったのだろうか)
そんな風には思えなかった。父も母も、自分と同じように平穏な幸福を願っているように見えた。
この姉弟のように両親も自分を愛していたのだろうか。
……「どうして僕は失敗したんだろう?」……
「強いて言えばお前は雑なんだ」
……「雑?」……
「いきなりなんでも叶えるなんて言われたら、ヒトは弱くて馬鹿だから後先考えず使ってしまう。これはたった一度のチャンスだからじっくり考えるように、くらいは言うべきだったな。まあ、聖杯はどこかしら歪んでいるものだから使うほど破滅するものだとは思うけど」
……「……」……
「あ、黙るなよ。適当に言っただけなんだから」
そのまま聖杯は沈黙してしまった。
信勝は数回振り返ったが、また出口を探すことを再開する。
その姿を見て聖杯の少年は馬鹿だと思った。出口なんてあるわけない。聖杯自身にもここまで崩壊した空間からは出られない。船長だろうと沈みゆく船からは出られないことと同じだ。さっきの女を導いた光のような力がない限り無理に決まってる。
……「……なんで諦めないんだ?」……
「うるさいな、僕は帰らないといけないんだ。姉上の、いや自分のために」
……「帰ったらどうなるんだ?」……
「どうって……これ以上、姉上を悲しませないですむ、かな?」
……「お前が帰ったら、あの女は笑うのか?」……
「ど、どうだろう、多分?」
怒り狂うのではないかと思ったがそれは言わない。
聖杯は分からない。全ての願いを叶えたつもりだけど、誰の笑顔を作ることもできなかった。もしかしたら一人くらいはいたのだろうか。父と母は少しは幸せになったのだろうか。
……「……じゃあ、いいか」……
「なんだよ、さっきからうるさいな」
……「いいだろう、その願いを叶えたことがないんだ」……
聖杯の少年は片目だけで笑うと淡い金色の粒子になって光った。
信長は静かな世界にいた。
聞こえない。懐かしい。全ての音が遠い。
両手は泥で汚れている。誰かが肩に触れた。
「ノッブ、しっかりして! 大丈夫だから……ダ・ヴィンチちゃん、スキャンにはまだ時間がかかりそう!?」
……「一度、スキャンしたけれど内部に繋がらない。内部の空間が崩壊しかけている。もう一度、やってみよう」……
信長は傷一つなく、マスターたちのいる元の空間へ戻っていた。聖杯の泥の後らしきものはあるが触れてももう中の空間には入れない。
「ノッブ、大丈夫。大丈夫だよ。信勝くんは必ず助けるから」
優しいマスターの声を無視して信長はまた泥の中に手を入れた。最初は泥の中に入れば聖杯の空間には容易く侵入できた。けれどダ・ヴィンチの通信の通りなら中が壊れて入れなくなった。
(いつもそうだ。信勝だけどうしても裏が読めない)
どうして信じてしまったのだろう。信長は常に冷静で人の裏切りには慣れているのに信勝にだけは調子が狂った。あの弟は姉だけは助けようとする、なんて少し思考を巡らせば分かることが分からなくなってしまう。
百戦錬磨の信長は信勝にだけはあまりに無防備にその言葉を信じてしまう。信勝が笑って「姉上」というと「きっと大丈夫だ」と未来を信じてしまうのだ。
(わしだって一瞬は考えた。このリボンを信勝に結んであいつだけは助けることを。でも……一緒だと約束したから、それはやめた)
そして弟はまた姉を裏切った。
このまま会えなくなるなんて絶対嫌だ。頭にあったのはそれだけだった。
「クソ……!」
どこにも繋がらない泥に拳をぶつける。
「お前はいつもそうだ……最後に必ずわしを裏切る!」
「ノッブ」
数度、また聖杯の殴りつける。中に入れない。信勝を助け出せない。
無理だと分かっていたがやらずにはいられなかった。
「最後の最後まで、最後まで裏切りおって……! ……?」
信長はまた泥の塊を殴りつける。すると違和感があった。硬い。泥と土の間に何かある。手のひらほどの小さな……淡く光っている。
(これは……?)
これがあればもしかしたら。信長は咄嗟にそれを懐にしまうと隠したことがバレていないか周囲を伺った。
「ノッブ! あ、あの〜」
立香の声に背がビクリと震えた。
「な、なんじゃ……え?」
気付かれなかっただろうか。マスターのなんとも微妙な声に信長は泥から視線が逸れた。すると目を丸くした。
どこかで微かに「誰も笑わなかったから」という小さすぎる声が流れて消えた。
立香の立っている場所のちょうど真横二メートル先、そこの地面から二本の腕が生えていた。じたばたと動き、ちょうど泳ぐように地面から少しずつ浮かんでいる。……信勝の着ていた赤い軍服の腕だ。
「あ、姉上〜……ぶはっ!」
情けない声と共に信勝は地面を泳ぎ、上半身だけ帰還した。
「……」
理解が追いつかない。その間に信勝は地面に手をついて腰から下を抜き出そうとしていた。
「あ、姉上! ……その、僕、帰ってこれました」
ようやく全身を地面から抜け出した信勝は無傷だった。泥で汚れているがどこも怪我をしていない。
「姉上に許してもらおうと思いません。でも、また会えてよかった……姉上?」
歩み寄った信長は信勝の頬に右手で触れた。温かい、柔らかい。生きた感触だった。死んでしまったあの時とは違う。
じっと信長は信勝を見つめると目を閉じた。心の中は空っぽだった。怒り狂って罵られると思っていた信勝は静かな対応にドキマギした。
「あ、姉上、あのう……ぐはっ!?」
そして姉は弟に触れた右手を離して、思い切り平手打ちをした。勢いで信勝はもう無力化した泥の中に頭から突っ込む。
「の、ノッブ、分かるけどやりすぎだよ……ノッブ?」
「いいんです、マスター。僕は姉上に憎まれて当然……姉上?」
信長は平手打ちをした自分の手をじっと見下ろすと。
つうと両目から静かに涙が流れ落ちた。
「あ、姉上……姉上?」
「信勝」
そして姉はそのまま真後ろに倒れて、意識を失った。
……「なんだあれ……ちっとも笑ってないじゃないか」……
少し離れた場所で一つの眼球だけになった聖杯の少年が憮然としていた。最後の力で信勝の「姉の元へ帰る」と言う願いを叶えたものの信長はちっとも笑わらない。
……「最後くらい、誰かを笑顔にしたかったのに……まあ、僕はやっぱりこの程度なのかな」……
誰も見ていない木の影で、聖杯は地面に落ちる前に宙に溶けて消えていく。
最後に誰かの笑顔を見ることはできなかった。
……「まあ……いいか……」……
少年は消える寸前に笑みを浮かべた。
世間知らずで気が弱くて、あまり人の心は分からない人生だったが。
それでもさっき彼女は嬉しくて倒れたのだということくらいは分かった。
じっと信長の懐を見る。
……「それは、笑わなかったらやる。お前たちの時代ではサービスっていうんだっけ? すぐ使えなくなるかもしれないけど……誰かの願いを叶えてみたいから」……
父上、母上、と呟くと眼球が地面に落ちた。
少年は金色の光の粒子となり、カルデアのレーダーに察知される前に消えた。
【姉の報復】
あれから一ヶ月が経った。
その間、信勝はずっと救護室のベッドにいた。
「ありがとうございます、マスター。僕はもう大丈夫ですから、毎日見にこなくてもいいですって」
青白かった信勝もすっかり血色が戻ってきた。マスターは苦笑して起きあがろうとする信勝を覗き込む。ずっと真っ白な病人服だったので真っ赤な軍服姿に戻った彼は懐かしい。
「そーんなこと言ったって、信勝くんったらこの前まで泥みたいな顔色だったんだから」
「そこまででしたか?」
思わず信勝は保健室のベッドの上で自分の頬をモニモニと揉んだ。まだ土の色なのだろうか。
聖杯の泥から救出された信勝は即刻カルデアで治療を受けた。治療といっても信勝は無傷だったのだが、衰弱は激しかった。血の気が失せて、顔色は白を通り越して真っ黒。回復には随分時間がかかった。
「結局……聖杯の子は最後に信勝くんを助けるって願いを叶えたのかな」
立香はベッドに腰掛けて信勝の服の曲がっているところを直した。絶望的だった信勝の帰還が突然叶った。聖杯の名に相応しいあり得ない奇跡の力で。
「そうだと、思います。自分で陥れておいてなんだよって感じですね。僕が足掻いてる姿に何か思ったのか……一度でいいから誰かの笑顔を作ってみたかったって言ってました」
「そうなんだ、じゃあ叶ってるよ。私は信勝くんが無事に帰ってきたから今笑ってるんだもん」
そう言って花のように笑うマスターに信勝は呆れた。
「マスター、誰にでもそういうこと言うとスキャンダルをすっぱ抜かれますよ」
正直、清姫や源頼光の比ではない誤解があると思う。
「何言ってるの〜。カルデアのみんなは私のサーヴァントなんだからね! だから信勝くんが帰ってきて嬉しい」
「……ありがとうございます」
みんなのマスターはいつものように気楽に請け負って、胸を張る。彼女特有の強さが眩しく、信勝は何はなくとも元気に過ごそうと決めた。
立香はドアに戻ると一つのボストンバックを持って帰ってきた。
「はい、生活用品をまとめてきた」
「サーヴァントですから大丈夫ですって。もう完全回復したので、僕は自分の部屋に戻ります。まあもう部屋はないんですけど」
「信勝くんの部屋はノッブの部屋でしょ?」
信勝は静かに首を横に振った。今は軍服を着て、マントを肩にかけたところだ。その顔には覚悟と諦めが滲んでいた。
「姉上は僕を絶対に許しません。裏切ったのだから当然です」
ほどけた髪をくくりながらそんなことを言う。立香は重いため息をついた。毎日、信勝の顔を見にきていた立香は見ていたのだ。カルデアに帰ってきてからの信長がどんな風だったか。
「あのねえ、信勝くん。ノッブはね……」
「マスター、僕も少しは人の心というやつが分かり始めたんです。裏切りがどんなに心を傷つけるか」
裏切った時に見せた信長の顔を弟は思い浮かべる。
振り返った信勝の顔は真面目なものだったの立香は話すことをやめた。
「姉上はもう僕と暮らすことはないでしょう。ただこのまま話をしないのも違うと思います。だからもう一度、謝罪したいとは思っていますが……許されるとは思いません。僕は裏切り者ですから」
「……ふーん、信勝くんはノッブはもう許してくれないって思ってるんだ?」
「当たり前でしょう。僕はずっと一緒にいるって約束を破ったんですから」
「でもノッブの命だけは助かるって思ったからでしょ」
「そうです。でも理由なんて言い訳になりません」
「なら、これからどうするつもり?」
「カルデアで暮らしていくだけです。倉庫でテントを張って暮らしますよ。姉上とは話せないけどたまに顔だけは合わせます。僕が元気で生きている姿を見せることが償いですから」
「信勝くん」
信勝がベッドから立ち上がる姿を見て、座ったままの立香はシュシュの髪をいじった。
「昔、ノッブに言ったんだ。信勝くんとは結婚しない方がいいよって」
「ええ、なんですかその話?」
「だって信勝くんなりにお姉さんを好きになるまいとして見えたから……でもさ、今ノッブの気持ち分かったかもしれない」
「え、それはどういう……?」
立香は何も言わなかった。
その前にドアを開けた人物がいたからだ。
赤いマントを堂々と身につけた信長が仁王立ちしていた。
「信勝、帰るぞ」
信勝が返事をする前に信長は手を取って救護室から引っ張り出した。
「またねー」
立香は手を振ってドアに手をかけて姉弟を見送った。
この一ヶ月、信長はこの救護室の前まで来てドアを睨んでは帰る、を毎日繰り返していた。時々はドアをうっすら開けて中の信勝を見ていた。それを見てきたマスターはどうにかしなければと行動していたのだが、流石乱世の英雄は行動が早い。
「これも破れ鍋に綴じ蓋ってことかな? マスターも大変だあ」
信長は信勝を連れてカルデアの外れの廊下まで小走りでやってきた。
「あ、姉上……どうされたのですか?」
小さく弟は姉に声をかけた。にやけないように頬を引き締める。また会うことも難しいと思っていたのでこうして会えて嬉しい。
無表情の信長は信勝をじっと見上げるとすっと一つ荷物を押し付ける。真紅に近い色の風呂敷だった。
「……これを預ける。大事なものだからわしのそばでいつも持っておくように。ああ、絶対に開けないように」
「え?」
そう言って姉はふいっと弟から顔を逸らして、前へと歩き始めた。
「姉上、大事なものなら僕などに預けぬ方が……」
「いいからついてこい」
荷物を受け取った弟は慌てて姉の後を追った。
それから一週間。信勝は無言で信長をあとをついていった。大事そうに風呂敷を抱えてちょこまかと忠実に姉の後ろにいた。
(姉上、どうしてこれを僕に預けたんだろう。というかこれはなんなんだ?)
開けるなと言われたので真面目な弟は風呂敷の結び目にすら手を触れさせないようにしていた。
「信勝、これで茶を買ってこい」「信勝、外で待っていろ」「荷物はちゃんと持っておるか?」
「はい、姉上」
姉は時々、弟にそんな風に呼びかけた。そしてすぐふいと信勝から顔を背けた。
「……気安く、話しかけるな」
「……はい、姉上」
姉はよく「村正」と呼ばれる英霊の部屋にいった。部屋というか鍛冶場なのだが、その部屋のドアの前でよく風呂敷を抱えて待っていた。村正、確か名刀を打つという鍛冶屋の英霊だ。新しい刀でもほしいのだろうか。
(いいのかな、こんな風にそばにいて。でも姉上が荷物を持っていろと言ったし……)
信勝は信長に罵倒されると思っていた。だがそうなったことはない。姉はいつも無言でただ荷物を持ってついてこいとだけ言った。
(僕は姉上のそばにいられれば幸せだけど……なんだか分からなくてちょっと困るな)
そっと村正の工房の扉を見たが当然中を透視などできなかった。カンカンと鋼を打つ音だけが聞こえた。
工房の中ではこんな会話がなされていた。
「お前さん、こんなもの作ってどうするつもりだ?」
「なんでもいいじゃろ。客の使い道にいちいち口を出すな」
苦笑いを浮かべる村正は依頼の品を冷却していた。もうほとんど出来上がっている。しかし、こんな妙なものは作ったことがないので客相手でも色々言いたくはある。
「わしは頑固な鍛冶屋でな、納得いく仕事しかしたくない。まして悪用されそうなら尚更だ」
「悪用なんかせん……多分」
「おいおい、多分とは聞き捨てならないな」
「誰かに危害を加えるような品ではない。ただ……ちょっと変に見えるだけだ」
「織田信長の名声は生前から聞いていた。だがこんなもの欲しがる変人とは聞いたことがない」
「わしは型破りよ。一見うつけに見えることもする……ああ、村正。貴様が妙に思うのも是非もない。じゃが……わしなりに愛とか言う感情をどうにかする方法がこれしかなかった」
「愛、ねえ……」
そこで村正は黙って品の仕上げを始めた。
信長は愛するということが苦手だった。
思い出すのは明智光秀だ。信長は秀吉と光秀に差をつけた気は一切なかった。なぜなら二人ともに十分な金や領土を与えていたからだ。忠義に報いるとはそういうものだと思っていた。愛だってどこか同じような認識だ。
だが光秀は信長を殺し、帝都でこういった。ただあなたに笑いかけて欲しかった。秀吉には笑いかけるのにどうして自分にはそれがないのか。
光秀は金や領土ではなく、信長の笑顔が欲しかったのだ。
単純にそれが愛という話ではないだろう。だが全く関係ない、という話でもない。
信勝に金や領土を与えればいいわけではない。というか、今は与えたくても持っていないのだが、そこが問題ではない。弟は与えたって断るだけだ。
信勝への気持ちはどうだろう。信長は彼から金や領土を与えてほしいわけではない。ほしいという発想自体湧かない。それこそ光秀が言っていたことと同じ、ただ弟の笑顔がほしい。
茶々などの親族はどうだ。ある意味違って、ある意味同じだ。広い館に住まわせ、豪華な着物を贈り、平和に暮らさせた。領土を与えなかっただけで金で贈り物をやり、不自由なく暮らさせた。実の子達にも似たようなものだった。そして笑わない信長は笑いかけることもなかった。
それだけでは愛ではないのだろうか?
(愛するってどうすればいいんじゃ……)
確かなものがほしいのに。
掴もうとするほど逃げてしまう。
やはり、ならばこれで仕方ないのだ。
「ほら、できたぞ」
ハッとする。ぼうっとしていたようだ。村正は依頼の品を皮袋に入れて、淡く笑みを浮かべた。
「この村正、数々の刀を打ってきた。だが愛情の品の依頼を受けたのは初めてだ……ちゃんと使えよ」
翌日、倉庫でテント暮らしをしている信勝の元へ姉は現れた。寝ぼけなまなこの弟の手を信長はしっかりと握った。
そして小走りでその手を引っ張った。自分より背が低い姉の足が早くて弟は転びそうだった。
「姉上姉上、逃げたりしないのでそんな早く歩かないでください!」
「もう着く」
姉は信勝を半ば引きずるように廊下を歩くとある場所に辿り着いた。真っ白なカルデアの廊下に不似合いな和風の玄関。スライド式のガラス戸に木製の枠をはめたドアの前に立つ。
信長は鍵を取り出して開錠するとノータイムでガラガラとドアを開けた。手を繋いだまま、信勝を部屋の中央へ導く。
信勝は心底驚いた。前の夫婦の部屋にそっくりだ。中には以前の夫婦の部屋に似た和風のリビングがあって、前と同じような真っ赤な二人がけのソファがあった。
信長は唖然としている弟を強引にソファに座らせる。その前に仁王立ちになると笑った。ただし、明るい笑顔というよりは悪巧みを成功させたニィ……という笑顔だったが。
「ようこそ、わしのネオ新居へ」
「ねお? 姉上……これはどういう? え???」
ガチャと施錠の音がする。信長は信勝に金属製の黒い首輪をはめていた。
その先には合金性の鎖がついていてその先に信長の右腕がある。そこにも黒い金属の腕輪があり、姉弟は鎖で繋がっていた。
これが村正に依頼した品である。
「……わ、分かった。裏切った罰で僕を詰めるんですよね?」
状況を解釈した信勝はポンと手を叩いた。
「は? 違うし」
信勝は混乱した。殴られても罵倒されても、それは当然と思っていたのだが首輪は流石に想定していなかった。
ぐいっと鎖を軽く引っ張られると信長の方に倒れそうになる。慌てて足を踏ん張るが信長がまた鎖を引っ張るので信勝は腹筋で抵抗した。
「姉上、これじゃ姉上の方に倒れてしまいます。も、もう引っ張らないでください!」
「……仕方ないじゃろ」
信長は鎖を引っ張るのをやめた。その代わり自分の腕を信勝の首に引っ掛けて自分の方へ引っ張った。
「あ、あああ、姉上!!??」
「うるさい……わしはどうしてもこうなんじゃ」
転んだ信勝を信長は受け止めて抱きしめた。子供の頃、転んだ弟に姉がそうしていたように。
信勝をつい信じてしまう。戦国武将としてあらゆる敵の思考を読み取ってきた信長の読みが信勝にだけ通じない。それが昔から変わらない信長の悪癖だ。もう自分の逃れられない性質だと受け入れた。
信勝の瞳が自分を映しているとずっと共にあると錯覚してしまう。「姉上」と呼ばれると心が通じていると思い込む。信勝といると……ひだまりの猫のように安心する。だから信じてしまうのだ。その裏切られてばかりの言葉の数々を。
「是非もないのじゃ、お前が笑うと……それはそれは春の花のようじゃからな」
無敵の姉は弟の前では無力になってしまう。
だがそれも今日までだ。
「信勝、色々考えた。じゃが、わしはお前を愛しておる」
「姉上……でも僕はあなたを裏切りました」
「仕方ない。わしだって考えた。でも結局、信勝が好きなんじゃ」
「ぼ、僕だって! で、でもこの首輪は……ぐ!?」
信長は信勝の首に回した腕を解くと鎖をぐいっと引っ張った。
「これは壊れんぞ。わざわざ村正に頼んだんじゃからな……だからしょうがないというておるじゃろ!」
「作っていたのこれだったんですか〜……ぐえ!?」
信長はまた鎖を引っ張ると、信勝の後ろに回り込んで今度は肘をかん抜きにして軽く締めた。弟の後頭部に頬を擦り付けて姉は囁く。
「信勝を愛しておる。じゃが……二度とお前のことは信じない」
ヒヤリと氷のような声。信じない、という単語で重いエコーがかかる。
仕方ない。好きなのに信じられないなら束縛するしかない。
つい信じてしまうなら二度と信じないしかないではないか。
「是非もない。愛しておるがとても信じられんなら……首輪でもつけておくしかないじゃろ。いっておくが今後はあまり自由はないからな」
「あ……姉上〜」
「ふーん、その涙はなんじゃ? 悲しみ? 喜び?」
「……両方です。僕は裏切り者なのにまた愛しているなんて言ってもらえるなんて」
ただ二度と信じないという言葉の重さに泣いていた。
「僕、僕、またこうして姉上とお話しできないとばかり……ううっ」
「ああ〜、もうそういうのいいから。裏切ってばかりのお前を憎めるならそれは楽だったろうな。だから是非もないの! この幸せ者が!」
信長はそういうと信勝の首に肘でかんぬきをかける。逆の手で鎖を握り、弟の頬に口付けした。ぴいと弟が鳴く。
「これからはわしの愛という監獄で暮らすがいい。裏切りを悔いるなら、そうさな……罪悪感で震えておれ」
「愛の監獄……でも、本当にいいのですか? 僕は裏切り者ですよ?」
「まさか、いやという気はないじゃろうな?」
「……何度も言っているでしょう。僕は姉上のそばにいられるならなんでも幸せなんですよ。でもこの鎖は……ぐふっ」
裏切り者をまた愛してくれると言われるなんて夢のようだ。だがこの鎖と見ると愛とはまた束縛なのだと思い知る。
こうして姉弟はまた夫婦ごっこを始めた。
「ていうかなんですかこれーーー!?!?」
信長が用意した新居のリビングには信勝の黒歴史ノートが飾られていた。全十巻、全部。
ご丁寧に壁に板を取り付けて、リビングを来訪したら真っ先に目につくようになっている。
「ああ、お前の子供の頃の妄想日記、なぜかアンデルセンがくれたから飾っておるぞ。なんでじゃろな?」
破壊すべく走り出した信勝を首輪で引っ張った信長が手元におく。フローリングの上でじたばたと暴れる信勝の腰を信長が床に押し付ける。
「一刻も早く捨ててください!!」
「ステイじゃ。何を興奮しておる?」
「ああああああああ……姉上、まさか読んだり?」
「全部、読んだぞ」
「ぎゃああああああああああ!!」
「おう、なんか知らんが鳴け鳴け。それもわしを裏切った罰じゃ」
黒歴史ノートの前にはなぜか木彫りの青い鳥が木製の鳥籠の中で飾られていた。なぜかその鳥に信勝は「うらめしや……うらめしや……」と呻き声を上げた。つい腹が立って鳥籠をあけて手を伸ばすとドスッと置物が動き、信勝の額にくちばしが突き刺さった。
「なんじゃそれ? 扉を開けると飛ぶ仕組みか?」
「姉上……なぜこいつがここに?」
「ああ、その鳥の置物、なぜか一緒にアンデルセンが置いていったぞ。マジでなんじゃろな?」
「なんで、なんで残したり……グスッ」
「なんで泣いてるか分からん。ただの昔の日記ではないか」
「ただの日記じゃなくて全部ばかげた妄想です! うわーん!」
「大体、生前には読んでおるのになんで今は隠したがるのか分からん。子供の頃は読んでくれと言っておったではないか。そもそも、生前も読んだの一回じゃないし」
「は!?!? 姉上、何を言ってるんですか!?」
「まずお前がこれを書いて倒れた時に全部読んだ。次はお前が十一歳くらいの時に部屋に行って、本棚の後ろに隠れてたから春画かと思って何冊か持ち帰ったらこれだった。言っておくがちゃんと返したからな。最後にアンデルセンにもらって読み返した」
「二回目って何ですか!? ぼ、僕の本棚を勝手に見ないでくださいよ! わーん! ……と、ところで飾ってますけど、これ姉上以外は読んだりしてないですよね? ね?」
「この前、マスターと沖田がそれぞれ来てな。沖田は汚くて読めないと言っていた。マスターは「信勝くんらしいね」と苦笑いをしておったぞ」
恥が一般公開されている。
「いやあああああああ!!」
信勝はしばらくフローリングの上で死にかけのセミのようにもがき苦しんだ。しばらくすると灰色になったので信長はそれを観察して鎖を持ったままソファーに座った。
「ひどい……死んだ方がマシだ……」
「気軽に死んだ方がマシとかいうな」
「本当に死んじゃうかもしれない気持ちです」
「意味が分からん。最初は見ろ見ろとうるさかったのにこれだから信勝は……」
「あの頃はこれが姉上と結婚する方法だと信じてたんです! ああもう、これだから僕は〜!」
「そうかそうか、それではよかったではないか。第二の生とはいえ今度はわしと結婚できたんだから」
「……結婚」
その単語で急に冷静になる。信勝はなんとか黒歴史から立ち直ると、一度首輪に触れて姉の横に座る。一メートルほど離れて。信長はムッとして抗議した。
「なんじゃ、その距離。そこまであの日記を見せられたくないとは知らんかった」
「……姉上、僕に首輪をつけて構いませんから結婚はやめませんか?」
「は? 却下。わしは二度とお前のいうことは聞かぬし信じぬ」
自業自得のあまり言葉もない。
「そういえば聖杯の泥の中でも、信勝はそんなことを言っておったな。なんじゃ、お前。唾液じゃなくて離婚が性癖だったのか?」
「だ、唾液ってなんの話ですか? 離婚は性癖じゃなくて……その、姉上と結婚するべきは僕じゃないと思うのです」
「お前な、何度わしに「アイシテル」とか言わせれば気が済むのじゃ」
「僕は言いましたよね。姉上には好きな人と結婚して欲しいって。姉上の愛してるは僕が弟だからでしょう? 男性として愛している人は違うはずです」
「細かいことにごちゃごちゃうるさいの。お前のカテゴリーは信勝で信勝じゃ。お前は他におらんし誰も代わりにはなれない」
またかと信長はイライラしていた。信勝は太ももに両手を置いてグッと握り拳を作った。
「だ、だって、姉上は豊臣秀吉が好きなんでしょう? だったら僕と結婚したらダメです」
「はあ? サル?」
唐突な家臣の名前に信長は眉根を顰めたが信勝は真面目に言っているらしい。
信勝は豊臣秀吉を知識でしか知らない。だが信長に匹敵する戦国武将だとは知っている。姉の家臣として何度も窮地を助け、明智光秀に討たれたあとは姉の仇を討った。その後は天下統一を果たし、日の本を統べる天下人となった。
「姉上が何度も楽しそうに話すからよく覚えています。図書室でどんな奴かも調べました……悔しいけれど姉上に匹敵する才覚を持っています。姉上は本当はあの男が好きなのでしょう?」
「お前なあ、サルって……信勝は会ったことすらなかろう」
「僕だって、姉上が話した時の表情でその男が特別だって分かります」
本当に悲しそうに悔しそうに、けれども穏やかに信勝は信長を見た。どうやら真面目に信長のために譲るつもりらしい。
信長はどう言うべきか考えてこういった。
「えー? サルとか茶々と揉めそうでやだ」
「えええ!? そ、そんな軽く……そういえば茶々のことは忘れてしまっていたのですが」
「ていうか、カルデアにはねねがいないから茶々にサルを勧められるが、本当はあいつは正妻にベタ惚れじゃったんじゃ。元々拗れておる。どうしてそんな面倒そうなところに更にわしが首を突っ込まないといけないんじゃ」
「それは生前は身分も違うし、姉上が男と偽っていたからでしょう。第二の生です。本当の愛なら諦めてはいけません……ええと、茶々は僕が説得します!」
「正妻と叔母と姪の泥沼を勧めてくる弟とか嫌だわー。だから、好きなのはお前なのお前、分かる?」
信長は気の早いリアリストで信勝は深刻なロマンチストだった。
姉は好き同士なら即座に関係が作れると思っているが、弟は真実の愛は何よりも優先させるべきでそれで自分が悲しくなっても譲らない。
信長はさっさと外堀を埋めて既成事実を作りたがる。そして信勝は好きな人と結婚してこそ幸せというタイプだった。だからこそ、好きな人には好きな人と結婚することが世界一幸せなのだと信じていた。ロマンチストは結婚に神聖な夢をみる。例え自分が捨てられる立場でもだ。
「あ、姉上! ……僕は分かっているのです。姉上にとって、その男が特別だって。今度こそ姉上には何も気にせず幸せになって欲しいのです。僕はもうどこへも行きません、弟としてそばにいます」
特別。そう、信長にとって秀吉は特別だった。それは事実だ。
「サルが特別か……信勝、お前には話しておこう」
「ぼ、僕は真実の愛のためになら戦いますよ」
なぜかファイティングポーズをとる。
信長にとって秀吉が特別だった理由。それは信勝にはないものだ。
「聞け。なぜ秀吉が特別なのか。わしがどうしてお前を遠ざけたのか。どうして一度も好きと言えなかったのか」
「……姉上?」
どうせなら全て話してしまおう。
夫婦になったのだ。離婚などする気はないのだから手の内は全て明かしてしまえ。
「幼少の頃から、わしはヒトの声が聞こえなかった……」
それから信長は夜中まで長い話をした。あるバケモノのとてもとても長い話を。
【それからの二人の話】
カルデアの小会議室。テーブルの上にはコーヒーが二つ。
開口一番、立香は聞いた。
「信勝くん、ノッブと離婚するってホント?」
「ぶはっ!」
信勝は思わずホットコーヒーを吹いた。
「マ、マスター、どこまで僕たちの個人情報を……!?」
「だって……二人とも最近ずっと首輪つけて行動を共にしてるし」
確かに怪しい。実際、呼び出されてなんの不思議もなかった。
「私、二人はうまくいってるって思ってたんだけど」
「誤解です、マスター。そ、それはその離婚とか言い出したのは僕ですけど」
「信勝くんだったの!?」
「だ、だって、姉上はあの男が好きだと思ったから〜」
「男ってどの男〜!?」
カルデアに男は百人以上いる。混乱する二人は十分ほど「あの男」「どの男」と言い合った。
「な〜んだ豊臣秀吉か」
ないないと立香は手をぶらぶら振った。
「なんだってなんですかマスター!? あの男はただものじゃないんです! 会った事ないけど」
「いや、歴史で習ったから流石に凄い人だってことは知ってるけどさ。ノッブが好きな人とは違うと思うよ。会った事ないけど」
もし生前からそんな気持ちがあったら信長と茶々の間はもう少し緊張感があるだろうというのが立香の見解だった。確かに織田信長と豊臣秀吉なら同格の知名度だろうし家臣としての信頼も厚かったろう。しかし、叔母と正妻ではない姪、泥沼だ。
「女の勘だよ、大丈夫、信じてよ」
「マスターの女の勘ですか……」
「ちょっとちょっと、なんでそこで疑うの」
ビシッと空中にツッコミを入れるマスターに信勝は顔を落とした。
姉の気持ちを信じていないわけではない。先日、ネオ新居に住み始めた日に姉は誰にも話したことがないことを信勝にだけ話してくれた。
「ヒトの声が聞こえなかったし、誰の顔もぼやけていた」こと。信長にとって豊臣秀吉だけが特別なのは声が聞こえて顔が見えるからだ。実際、初めて笑ったし孤独も多少癒えた。しかしそれはバケモノとしての共鳴で男女の愛とは違うと言った。
(僕だからこそ話してくれたことは分かってる。姉上の言葉を信じてないわけじゃない、けど……)
それでも自分より相応しい人がいるのではと疑念は消えなかった。
「大体、信勝くんはさ」
「……姉上に愛されていることが分かっていないわけではありません」
信勝はじっとコーヒーが揺れるカップを見ていた。
「むしろ、前よりははっきりと理解しています。だからこそ、僕にそんな資格があるのかと思っている面もあるんです」
立香は口を閉じると信勝の顔を見ていた。
「この状況は幼い頃の僕の願い通り。豊臣秀吉のこともありますが……僕はあまりに姉上に酷いことをしてきました。この上そばにいるなんてあまりに虫がいいと思いませんか?」
「ノッブ自身が望んでいることだよ」
「姉上が望んでいる、本当にそうでしょうか? ……姉上が僕をそばに置くのは僕が死んだせいじゃないでしょうか。「僕が与えた傷」を癒すために「僕」をそばに置きたいのでは。僕は姉上に殺されて喜ぶような卑怯者なのに。
結果として姉上を傷つけて、僕はそばにいたかった望みを果たしているんです。この罪は罰されなくていいとはどうしても思えないのです」
立香はテーブルに片肘をついた。信勝は自分の手を見下ろした。大切な人を苦しめた手だ。
「僕は本当は全てを計画していたんじゃないでしょうか? 死ぬことで姉上を傷つけて、ずっとその心に住み続けることが計画の一番の望みだったんじゃ?
こうして死後はその傷につけ込んで夫婦になり、姉上の一番そばにいる。全部、僕の望み通り。僕の無意識の計らいだったのは? 最近はそんなことを考えます。この状況は僕に都合がよすぎる」
「信勝くん、首輪引っ張られてる」
「えっ、姉上?」
思わずドアに視線をやる。信勝の首輪は相変わらずであり、今はチェーンを伸ばして外の廊下で信長は待っている。
「ちょっと揺れただけじゃないですか。マスターからかわないでくださいよ」
「だって信勝くんったら今までと同じ過ち繰り返しそうだから〜……ノッブはね、信勝くんにそばにいて欲しいんだよ。でもそれが当たり前じゃないって気付いたからこうして首輪をつけてるんだよ」
「……」
まあ立香もやりすぎとは思っているので半年後もそのままなら一言マスターとして言おうとは思っている。カルデアには子供の目もある。
「ノッブ、ああいう性格だから本当はこういういかにも系な束縛みたいなの、嫌いだと思う。それ以上に不安だから今は形だけ束縛していたいんだと思う。この鎖自体がノッブの今回の心の傷みたいなものだと思う」
「……鎖自体が傷?」
信勝は首輪の鎖を取ってじっとその鈍い輝きを見た。これは裏切った罰だと思っていた。けれど姉の不安だったのか?
「ノッブはさ、信勝くんがそばにいて欲しいんだよ。それなのに信勝くんが何かと離れようとするから不安なんだよ。
信勝くん、逆なんだよ。君はそばにいればノッブは首輪なんていらないし、離れたら追いかけてくる。自分から近寄ってこそノッブはやっと安心するって気付いてる?
何かしたら、こう、僕はもう離れませんアピール」
「離れませんアピール?」
「うん、アピール。豊臣秀吉とか無意識の自分の計らいとか色々あるんだろうけど……何より信勝くんは自信がないんだよね。私もそういうとこあるから分かるよ。だから傷つく前に離れようとする。でもそれはダメ。その首輪はそれじゃ外れない。自分から近づいて近づいて、ノッブを安心させないと。
もし罪に罰が必要だと思っているならさ、離れないことを罰だと思ってくれないかな。ノッブのためにも」
「それが……罰?」
「うん、基本的には女の勘だけどね」
「……マスターに言われると敵いませんね」
「ちょっと、さっきは納得しなかったのになんで今度の女の勘は信じるの?」
信勝は返事をせず、にこと春の花のように笑った。
「離れませんアピール、僕なりに何か考えてみます。マスターが考えてくださった罰ですから」
罪に罰さえ与えられる。自分はきっと幸せ者だろう。
「で……これはどういうことなんですか?」
食堂の端で抹茶パフェを突きながら沖田は信勝を見上げた。今の信勝はウェイターの格好をして沖田の世話をせっせと菓子と茶を運んでいる。正装に近い格好なだけに首輪が死ぬほど目立っている。
「どうって……言っただろ。シャドウだけど聖杯の泥の中でお前には世話になったんだ。そのお前には帰ったら団子でも奢れと言われた」
「これ団子じゃなくて抹茶パフェですよね?」
グラスの上の抹茶アイスが眩しい。信勝がバイトして稼いだQPでキッチンメンバーに頼んだ和風デザートフルコースである。
「この後、団子も四種くるぞ」
「四種も……信勝さんって妙なとこで律儀ですよね。もう一人の私と言うなら、どうせその場のノリで助けただけですよ」
「何度も助けられたんだから、恩くらいは返させてくれ」
「美味しいからいいですけど……なんですか、それ?」
抹茶アイスをつつきながらビシッと首輪を指差す沖田。その目は首輪の鎖を持っている横のテーブルに座っている信長を見ている。
信長はブラックのコーヒーを飲みながら横目で沖田を見た。
「是非もないじゃろ。こいつが離婚するってきかんのじゃから」
「え? ノッブって結婚してたんですか? 頭が小学生なのに……?」
「頭が小学生なのは貴様じゃろ! ……こいつはな、わしが他に好きな男がいると思い込んでおるのじゃ。わしとそいつをくっつけようと泣く泣く身を引こうとしておるのじゃ。健気なつもりの阿呆よ」
「沖田さんの精神年齢はノッブの倍はありますよ。大体、ノッブと信勝くんは姉弟なのに夫婦なんて……信勝さん、見たこともない男に身を引こうとしているんですか? なんだかそれはそれで倒錯的ですね」
「……僕のことは忘れてくれ」
「より変態っぽいってことです」
「言い直さなくていい!」
信勝は四色団子の皿を沖田の前に置いた。力が入ってしまい、派手な音がする。
「倍とか小学生は使う桁が大きい大きい……誠に変態よ。信勝はわし以外好きになる気はないと言っておるのにイカれておる。だからこうして首輪をつけておらんとならんのだ」
「大分、飛躍してません、それ?」
「やめろ、正気に戻すな」
信長は上を向いて上気した頬を隠した。自分でも変態っぽいと思う。だが相手は信勝だ。普通では対処しきれない。
「姉弟で夫婦とか幕末の常識人の沖田さんにはさっぱり理解不能ですが……なんか、前より仲が良さそうでよかったです。何かあったんですか?」
信長と信勝は前から仲はよかったがどこか食い違っていた。それは二人の経緯を知れば仕方がないはずだが沖田の目には二人は以前あった心の溝がなくなったように感じた。
「何か、な……まあ、色々あった。知りたくないことまで知った」
「へえ、なんでもかんでも知ってしまうなんてノッブらしく欲張りですね。でもなんで首輪なんですか」
「話をそこに戻すな。是非もない……知りたくないことまで知ってしまったんじゃ。こいつときたら騙すわ、知らん男をくっつけて離婚しようとするわ、こんな信じられない男そうそういないぞ。わしとて苦労しておるんじゃ」
「ふーん、信勝さんはそれでいいんですか?」
「僕を混ぜようとするな……僕は姉上がいいならいいんだ。その、ヒデヨシのことは気になるけど」
信長がビシッと後ろから鎖を引っ張るとそこで言葉は止まった。
「なんとも信勝さんらしいお返事で」
「夫婦など悲惨なものよ。知りたくないことまで知ってしまう。せっかくの美しい思い出も台無しだ。自分でしておいてなんだがよく結婚なんて制度、よくヒトは作ったものじゃ。間近で見ると幻滅ばかりじゃ」
「……そういう割にはノッブ、なんだか楽しそうですね」
信長は振り返って、珍しく沖田に柔らかく微笑んだ。
「ま、そうじゃな。今はこれでいい、これがいいと思っているからの。色々見たくないものを見たが、それでもこれがいいんじゃ」
「幻滅したのに楽しいんですか? 高度な趣味すぎて私には理解不能です」
愛している人の知りたくないことまで知ってしまう。もしかしたら愛を裏切られるより辛いことかもしれない。まさしく愛は理不尽だ。
けれども、まだ信勝との夫婦の日々には発見があった。あんなに裏切られたのに、まだ知らない信勝を知ることは楽しかった。
「愛なんて理不尽なものじゃ、是非もない」
今はそれでいい。夫婦なんてその積み重ねだ。
【結婚指輪】
「なんじゃ……?」
相変わらず弟に首輪をつけたまま姉はネオ新居に帰還する。ドアの鍵を閉めたあたりから信勝は一言も口をきかない。後ろに手を組んでモジモジしている。
「おい、信勝? 何を隠しておる?」
「ええと、姉上……ああ! そうだ、コーラ淹れてきますね! 姉上は本当にコーラがお好きだから」
逃げる。全くすぐ逃げる弟だ。だから姉は安心できないのだと「コーラを淹れる間だけ待ってやる」とため息をつく。甘々の戦国武将である。
「姉上、コーラです! ……そ、そして、その」
「信勝、言いたいことの覚悟はできたか? さっさと言え」
「姉上には敵わないなあ……その、ソファに座ってください。渡しますから」
渡す? 信長が真っ赤なソファーに座ると信勝も拳一つだけ距離をあけて座る。そのままゴソゴソと何かやっているので信長は少しだれてきた。
「なんじゃ、さっさと……」
「姉上、結婚してください!!」
林檎のように真っ赤になった信勝は手のひらほどの大きさの藍色のベルベットの小箱を差し出した。信長が目を丸くしていると信勝はその箱を開ける。そこにはプラチナのシンプルなサイズの違う指輪が二つ入っていた。
これはもしかして結婚指輪というやつだろうか。
「結婚指輪って……もうやることやってる夫婦じゃろ。何を今更」
「村正に作ってもらいました。ずっとあなたが好きでした。僕はずっとそれを言っていなかった。自分に自信がなく受け身でした。僕の気持ちは僕の言葉で伝えないと伝わらないのに」
信勝は手袋を外し、小さい方の指輪を手に取ると信長の左手を取った。
「指輪を薬指にはめてもいいですか? 現代風の結婚ではそうして永遠にそばにいることを誓うとマスターに聞きました……僕は姉上のそばにいたい。それは当たり前の気持ちであまり伝えてきませんでした。だから余計に姉上は僕がいなくなることが心配なのではないですか?」
信長は手袋を外して、薬指を差し出した。
「……別にいいけど、こんなものただの儀式ではないか」
言葉に構わず信勝は真剣な目で慎重に指輪を姉の薬指に通していく。
信長は言って説得力がないと思ってしまう。夫婦も新居も、毎夜の夫婦の営みもそれはこの指輪と同じ儀式に過ぎない。儀礼的なもので形式だけだ。けれど未来の保証はどこにもないから、こうして形だけでもとヒトは沢山の形式を生み出してきた。
(愛に形などないから、別のものに形を与える。ヒトの祈りのようなものか)
簡素でかつ美しい。村正はいい仕事をする。薬指の根元まで通った結婚指輪を信長は天井の照明の明かりに透かして見た。
「ほれ、貸せ。お前の指輪をわしが通さんと指輪交換とならんじゃろう」
「は、はいっ!」
春の花のような笑みを向けられて姉の方が照れた。全く自分はどういう気持ちなのだろう。夫婦だ、新居だ、首輪だと確かなものばかり信勝に求めてきたのに、惹きつけられるのはあっという間に消えてしまうものに対してばかりだ。
信長はベルベットの小箱からもう一つの指輪を取り出す。信勝は両方の手袋を外し、薬指を指輪をはめやすいように差し出した。
「言っておくが首輪は外さんからな」
「分かっております」
「……ふん」
指輪を通しながら思う。全ては逆なのではないか。
信勝に今度こそそばにいて欲しい。だから夫婦という人間関係を利用した。夫婦は成長して離れる姉弟と違い、最後まで離れない形の契約だからだ。
信長はリアリスト、だから結婚に契約以上の夢はなかった。今度こそ離さないで済むと期待した。だってそういう契約が結婚だろう?
けれど何より結婚に夢みていたのは信長ではないか。
(そうか、わし、こんなに夢があったのか……こんな形式だけのものに)
信勝の左薬指にプラチナの指輪がはまる。今更、こんなことごっこ遊びだと思う。でもそれは最初からだ。
夫婦になったのも一緒に暮らしているのも「永遠に一緒にいるという契約」をなぞっているにすぎない。逆だ。ごっこ遊びを確かなものであってくれだと願っているだけなのだ。
だって愛に形はない。束縛する実体がない。
だから結婚式だ、指輪だ、結婚記念日だとヒトは愛に形を与えたがる。
信長だって確かなものを求めて夫婦ごっこのままごと遊びを利用するしかなかった。
「わあ、姉上。お似合いです」
二人で左手をかざすと天井の照明で思った以上に輝いた。錯覚かもしれないが二人同時にチカっと光った。
「こういう時はなんじゃったか……病める時も健やかなる時も?」
「わあ、姉上。誓いの言葉を知っていたんですね。愛の宣誓です」
信勝は信長の両手をしっかりと自分の両手で包み込んだ。お互いの指輪がお互いの手の中で光る。
「ふん、言ってやろうではないか。病める時も健やかなる時も永遠の愛を誓おう」
「はい、僕は姉上を永遠に愛します……これから永遠に一緒にいることを誓い……誓いま、ま……」
信勝は必死に息を吐こうとして、吐ききれず肺に酸素が戻った。
「ごめんなさい、誓え……ません」
信勝は一歩退こうとして、首を横に振り、逆に信長に半歩近づいた。半ば姉を抱き抱えるように弟は彼女の両肩に手をかけた。
「やっぱり言えませんでした……ごめんなさい。僕は何度でも同じことをする。姉上が助かるなら僕の命は捨てる。永遠なんて誓えない」
「信勝……貴様」
静かな怒りをこめた目で信長が拳で信勝の胸を殴る。信勝はまだ姉の背を抱き寄せ、その左手には結婚指輪が光っていた。
「僕は裏切り者です。でももう嘘はつきません。姉上のためなんて言いません。僕は姉上の命が危なければ何度でも死にます。それは姉上のためでなく自分のためです……その上でお伝えしたいことがあります」
信勝は信長の左手をとり、その薬指の指輪をじっとみた。
「僕はずっと死ぬことが怖かったのです。生前、謀反を起こした時も、腹を切る時も。明治維新の特異点で消えてしまう時も、その後に幻霊として現れては消えてきた時も。そしてこの前、聖杯の泥の中で姉上だけカルデアに返した時も……いつだって震えて立てないほど死ぬことが怖かった。平気だった時なんてありません」
信勝の目から一粒の涙がこぼれ、信長の指輪の上に落ちてはじけた。
「平気なわけないじゃないですか。だって死んだら姉上に会えない。そんな辛いこと僕にはないですよ。いつだって死ぬことは怖かった。僕が平然として見えるのは痩せ我慢してただけです。姉上のそばにいたい。ずっと姉上の話を聞いていたい。小さい頃からの僕のたった一つの願いです。
こんな泣き言をあなたに言う資格がないと思っていたのです。でも……僕が平気で死んでいるように見えることが姉上を不安にさせている可能性を考えたのです」
「……ああ、確かにお前は死を恐れぬように見える。あんなに臆病なのに」
どんなに止めても自分のためなら信勝は平気で死んでいくように見えた。信長は右手で持っていた信勝の鎖をチャラと握り直した。この鎖は不安、なのか?
信勝は強く首を横に振る。
「僕は平気な時なんてなかった。姉上にもう会えないなんていつも気が狂いそうだった。何度も影で泣いていた。
僕のことは信じなくていいです。だって僕は同じ時がきたら同じことをする。姉上が死なないためなら何度でも裏切ります」
信長の頬に信勝の右手が伸びる。鼻先が触れるほど近く信勝は姉の顔を覗き込んでいた。さっき泣いたせいか目と頬が赤い。瞳も赤いから信勝が赤く見えた。
「僕はそういう男なんですよ。我ながら本当に信頼に値しない男です。そんな僕で本当にいいんですか? 豊臣秀吉ならきっともっと……」
信勝の言葉はそこで止まった。信長は信勝の首輪の真横の首輪を握り、横に引いたので弟は息が詰まった。
「な、何度もわしがそう簡単に裏切らせると思うな。姉を舐めおって……!」
それでも先までの信勝の迫力に飲まれていたことを自覚するしかなかった。弟はきっと最も恐ろしいヒトの一人だ。
「もう信じぬと言った。お前がそういう男だと知って、このわしが何度も騙されると思うか。甘くみおって、確かにお前は信用ならん男だ。だがわしに三度目はない」
「ごほっ……それでも姉上、僕にはちょっと騙されやすかったりしません?」
ぎく。信勝のことはつい信じてしまう。バレまいと姉は平然と振る舞った。
「別にお前に騙されやすいとか、そういうのもない。わしが魔王とまで呼ばれたこと、忘れたか?」
「ていうか、姉上、割と歴史上も騙されて裏切られてません? 弟はちょっと心配です」
「話を拡大するな! ほら、この前、話したじゃろ。わしは「聞こえん」のじゃ。だからヒトの細かい感情の機微はわからん。正直、それはサルの方が向いておった」
「やっぱりヒデヨシの方が……」
「このうつけ! そんな話をするために指輪を渡したのか?」
そこで信勝はピタと動きを止めて、真面目な顔に戻った。そしてなぜか顔を赤らめた。
「その……やっぱり僕がいいんですか、姉上?」
「そうじゃ、諦めろ」
一度、信勝はトマトのように真っ赤になった。悪魔と純情が同居しているような弟であった。そして指輪をしている左手で姉の指輪をはめた左手をとった。
「ならばお伝えします。僕は永遠を誓えません。姉上の命のためなら何度でも裏切る……それでもこれも伝えたかったのです。僕はずっとそばにいたいとずっと願っている、それも本当なのです。
これでも本当に辛くてたまらないのです。またあんな時が……来るなんて、考えただけで嫌です。その僕も本当だと、今更、結婚指輪に縋りたいほど願っていると伝えたかったのです」
信勝は自分の指輪を外すとその裏側を示した。
「この指輪、裏側に村正に模様も彫ってもらったんです。スターチスという花、永遠という意味の花言葉を持つ花だって聞いて……無理を言って彫ってもらいました。そんな、おまじないのようなものにだって縋りたいくらい僕だって願っているのです」
信長は自分の結婚指輪を外して、照明に透かして見る。確かに小さな花の模様が刻印されている。
(同じ気持ち……だったのかのう。何度も裏切られたが、信勝だって平気で命を捨てたのではなかったのか)
指輪をはめなおす。全く、弟は支離滅裂だ。信長は平気で永遠を誓った。こんなものは形式だからだ。けれど弟は妙に真面目で……指輪を渡したくせに永遠は誓えないと正直に言ってしまう。
(夫婦も家族も本質は形式だ。じゃがわしには……その形式に込める想いを理解する努力が足りなかったかのう)
真剣だからこそ、嘘がつけないのだ。それはそれでこの儀式がより本物になるということだ。
「ああもう、お前はなんのために指輪なんか渡したんじゃ。こんなものは適当に……いや」
形式だからこそ。
本物の気持ちがこもっていた方が本物に近づく。嘘をつかれたいわけではない。
「ふん、やり直すぞ。病める時も健やかなる時も……」
信勝は慌てた。信長はすでに弟の手を取って両目を閉じている。
「僕もします! や、病める時も健やかなる時も……」
「永遠に共にあることを……嘘でもそうだといいなと誓う」
「ええ!? なんですか、姉上、それ?」
「だってお前、いつか裏切るから誓えんのじゃろ。さっきそうじゃったし」
「うっ」
「そんなバレバレの嘘つかれるより、嘘でもそうだといいな、の方がいい」
「う……永遠に共にあることを、絶対そうだといいなと誓います」
「うむ、それでいい。言っておくがわしがまた騙されると思ったら大間違いじゃからな」
「……肝に銘じます」
こうして姉弟の指には揃いの指輪がはまり、手袋の下に収まった。
「すみません、指輪……いや、でした、か?」
「いや、悪くない……お前、そこに座れ。記念撮影じゃ」
「え? 姉上が写真を撮るのって珍しいですね」
「そうか?」
ソファに並んで座る。そう、信長は実はあまり写真を自分で撮らない。壮大な自然や珍しいものを写真に収める価値は理解しているが、小さなスマートフォンで他愛無い日常を収めることに価値を置かなかった。
色々ポーズを試して結局、二人並んで左手を掲げているところを自撮りした。
どうせいつかこの写真は消える。カルデアの戦いとともに消える。
それでも今、この瞬間を切り取れたことを信長は喜んだ。……きっとこの生活でずっと同じことをしてきたのだ。
「えへへ、この写真、僕の端末にも送ってもらえますか?」
「言い忘れた。この指輪、嬉しいぞ」
「ええ。どうしたんですか、姉上?」
「わしの悪癖だ。気に入らん時は気に入らんというのに、いいと思った時は黙るかそうかしか言わん。それでは生前と同じだ……ありがとう」
ぎこちない姉の言葉に無理をしないでというのは簡単だ。姉は大切なことほど口にしない。けれど今、姉がしている小さな無理を尊重する方を弟は選んだ。
「どういたしまして、今度は僕が何かアクセサリーのようなものを作って贈ります。村正に習っていいと言われたのです。姉上の鎖に負けないくらいたくさんの「離れたくない」という念を込めて作りますよ」
「怨念ではないか。まあ、いい。早く作れよ」
「えへへ」
「なんじゃ、ヘラヘラしおって」
「なんだか、今、自分のことを少しだけ好きになれた気がします」
それは信長が叶えてほしいことの一つだった。
【最後の切り札】
数ヶ月後の話。
「……ん?」
信長は夜中に目を覚ました。ベッドで信勝と抱き合って眠っていた。寝巻きは着ている。昨日は沖田たちと夜中遅くまでテレビゲームを茶室でして、二人して疲れてそのまま眠ってしまった。
「信勝。のぶかーつ……よく寝ておる」
頬に手を伸ばして小声で呼ぶが弟はスヤスヤとなんとも間の抜けた顔で眠っていた。
信長の首にきらりと金属が光る。結婚指輪ではない。信勝が初めて作ったシルバーのペンダントだ。結婚指輪は村正の作品だから、信勝の手で作って贈られたアクセサリーはこれが初めてになる。先端に円盤がついていてそこに永遠を意味するスターチスの花が刻印されている。
ペンダントを作っている時のことを話してくれた。信勝は作っている時に少しだけ自分を好きになれたと、大嫌いな自分を少しずつ変えていけそうだと笑った。
眠っている弟の顔に手を伸ばしてそっと触れる。熟睡していて起きる気配はない。
(どうしてお前はそんなに自分を嫌ってしまうのか。わしのせい、なのじゃろな。わしと共にありたいから己のヒトらしさを否定しまった)
信勝にいいところはたくさんある。誠実で優しい。運動神経はイマイチだが頭がいい。礼儀正しく真面目で、何かあると自分に非があると思いがちだ。……最後のは長所とは言えないかもしれないが、おおむね弟は長所の方が多い。
弟が自分を否定するようになった理由は簡単だ。姉がバケモノなのに自分がヒトだから。好きな人と違う自分を否定した。それだけなのだ。
信長はそっと信勝の首に手を伸ばし、金属の首輪の鍵に触れた。小さな鍵をパジャマのポケットから取り出し静かに解錠した。かちりと首輪が外れて裸の白い首があらわになる。信勝は相変わらず目立たない。
(このまま外してしまおうか、どうせ本当に束縛できるわけもない)
裸の首を見下ろして細いと思う。信長はしばらく考え、もう一度鍵を取り出して信勝の首輪をはめ直した。小さな声で囁く。
「やっぱお前は信じられんからな……それでもお前は正直になった。わしのために死ぬと、二度としないとは言わないかった。だから信じはしないが、その正直さはありがたいと思った」
だから信じられない男を信じないままの女でいい。そっと信勝の手を握る。温かい。生前にはあっという間に失ったもの。
「……こうしていられるのは奇跡」
信長が信勝に会えたのは奇跡だ。聖杯と魔神柱がサーヴァントの信長と弟の縁を結んだ上に邪馬台国では霊基を得るという僥倖を得た。
本来は生前信勝が腹を切った時から二度と会えない。カルデアのようなぬるい場所にいると時々それを忘れてしまう。
「お前は……カルデアが終われば二度と会えない」
それは無意味な不安だと自覚していた。カルデアが終われば「この信長」も終わりだ。また「信勝」が奇跡で「信長」に出会えたとしてもそれは全く別の新しい自分なのだ。
(……それでも)
信長はすっと自分の胸にドロと手を差し込むとそこからあるものを取り出した。虹色に輝く金色の金属の破片……泥を殴っている時に手にした聖杯の破片だ。まだ奇跡の力が残っている。カルデアに感知されないためにいつもは霊基の奥深くに隠している。
どうして手に入れたのか。聖杯の少年の気まぐれなのか。すぐ壊れてしまうかと思ったがカケラは淡い虹色に光り、信長の手に存在し続けた。
(これを使えば……カルデアが終わった後も信勝といられるかもしれない)
どう扱うか悩んだ。カルデアに渡してしまうべきか。所詮、聖杯本体ほどの力はない。カケラだ。だがわずかに奇跡の力が残っている。
信勝と……カルデアが終わっても一緒にいられる希望を捨てられない。
「……姉上?」
寝ぼけ眼の弟の声。姉は平静を装って、聖杯のカケラを再び霊基の中に仕舞い込んだ。
「ん、起きたのか?」
「んん……姉上の声がした気がして。ええと、僕たちゲームをしていたんじゃなかったですっけ」
「それは一時を超えて終わったじゃろ」
「ああ、そっか……ふふ、姉上、そのペンダントつけてくださってるんですね」
「ああ、永遠を願う嘘が刻印されているからな」
「嘘じゃないけど……いや、やっぱり嘘ですね。ものを作るって不思議です。何かを作っている時はいつもより自分を好きでいられるんですよ」
へにゃと信勝は笑う。その顔を見て姉は聖杯のカケラをより深く隠した。
(ダメだ……聖杯のことは決められない。カルデアの旅が終わったら信勝は……)
死後のことなんか知るか。そんな自分だったのに自分で裏切っている。
今度は弟が姉の顔に手を伸ばして微笑む。
「愛は嘘から始まるのかもしれないですね。こうあってくれと嘘をつくことから愛することが始めるのかもしれません。姉上がこの生活のことを夫婦ではなく夫婦ごっこと呼んだ意味が少し分かる気がします」
「ふん、まあな。夫婦もごっこも嘘さ。別の言い方をすれば願いだ。そうだったらいいと願っているだけだ……だが人の世はほとんどそんな嘘かもしれないな」
嘘の話をしながら夫婦は深く抱き合った。だって本当に嘘になったら嫌だ。願いという嘘は嘘になりませんようにと作られるのだ。
「願います……ずっとこうしていられるように。これが嘘にならないように頑張ります」
「ずっと……ああそうだな、信勝、ずっと一緒だ……」
信勝の腕の中で信長は胸の奥に聖杯のカケラを隠しながら笑った。夫婦ごっこらしい。だって夫婦には秘密がつきものだろう?
「僕もバケモノだと思いませんか?」
「なんじゃ唐突に?」
胸の奥の聖杯のカケラを見抜かれたとヒヤッとする。けれど信勝はちっとも気づいていなかった。
「姉上は「聞こえない」からご自分をバケモノと仰ったでしょう? だからこそ同類の豊臣秀吉も特別だったと……でも僕だってバケモノだと思いません? 我ながら多くのものを欺き、騙し、あなたを傷つけた。死ぬ時、姉上の手で死ねて嬉しいと思った……とてもヒトは思えぬバケモノの所業だと思います」
「……何が言いたい?」
「でも、そんな、バケモノみたいな、ヒトの道に外れた僕だから、姉上は好きになってくれたのかなと最近思ったのです」
突然の弟バケモノ理論だった。信長にとっては信勝は誰よりもヒトらしいヒトだった。ただその所業はバケモノじみているといえばそうとも言えた。ヒトらしいバケモノらしさだった。
「ふ……わしの好みはバケモノか?」
「ち、違いますか?」
「いや、案外間違いでもない。そうじゃ、お前がバケモノだから好きだと言ってやろうか?」
「……違うならいいんです」
「違うというのではない。お前がある種バケモノというのもそう外れているわけではない。おい、ちゃんと聞け……」
「姉上〜」
信長はそうして秘密を抱えたまま、愛する人と夜を過ごしていった。いつか、決めなければ。でも、今はまだ……いい。全ては最後の時に信勝と。
エピローグに続く
エピローグ【カルデア最後の日、姉弟の選択】
2025年1月14日