エピローグ たった一度だから
信勝は首を横に振った。春の花のように微笑むとはっきり告げた。
「やめましょう、姉上。僕に聖杯は必要ありません――たった一度の僕たちだから出会えたのではないですか」
本当に信勝は普通の様子で、聖杯を持つ姉の手を優しく握った。
「……本当に、いいのか?」
「僕は奇跡で姉上にまた会えました。それは一度きりの生と同じ、だから尊いものです。カルデアが、マスターが、仲間たちが、そして姉上が教えてくれました。一度で終わるから、この瞬間が尊いのだと」
「……」
「姉上、ずっとこのことで苦しんできたんですよね。僕に選択肢をくれてありがとう……やり直しは要りません、僕は聖杯を使わない」
弟の言葉に姉は重いものが解けていくと感じた。その重みは辛く、けれど少し名残惜しい。
「……そっかぁ」
信長は硬い表情が緩んでいく。握られた手を握り返そうとするが聖杯のカケラが邪魔で握れない。姉弟はその姿勢のまましばらく見つめあった。
「よし! その想い受け取ったぞ我が弟よ!」
信長は聖杯のカケラを握ると軽く信勝の手を振り解いた。
「貴様はもう要らぬ」
そしてカケラを真上に投げた。金色の軌跡が姉弟の真上を走る。信長はニヤと波乱を予感させる笑みを浮かべた。
「――とっておきの酒になれっ!」
叫んだ瞬間、金色の光が奇跡を起こす。長い苦しみと裏腹に――あっさりと願いは叶った。
すっと信長の手にクリスタルをカットした盃がゆっくりと降りてくる。かなりの大きさでコップなら三杯分はあるだろう。中身はなんとも不思議な虹色に光る透明な液体だった。
「さて」
「姉上!? ちょっとそんないきなり!」
いきなりごくりと酒(らしき液体)を仰ぐ姉。そのままごくごくと水のように飲む。慌てて信勝は止めるがすでに半分は飲んでいた。
「ぷはぁー! なんじゃこれうまいではないか! たまらん!」
「危険な聖杯の作った酒なんですよ! そんなに飲んで……だ、大丈夫なのですか?」
「大丈夫、大丈夫。わし、第六天魔王じゃもん。あー、こんなうまいならさっさとこう願っておけばよかった……ひっく」
「ろれつが回ってないじゃないですか。ああもう弟はいつも姉が心配です。水を探してきますから姉上はここに座っててください……姉上?」
信長は弟の黒いマントを握って、じっと彼の顔を見た。
「……本当によかったのか?」
信勝は目を見開いた。無敵の姉らしくない小さな後悔。
「言ったではないですか、一度しかない僕だから姉上とまた会って、愛し合うことさえできたのです。人間の人生と一緒です」
「理屈は分かるんじゃが、悟ったことばっかり言って信勝らしくない。我が夫はそんな聖人であったか?」
「……」
信勝は右手を信長の顔の前にあげて人差し指と親指を曲げてその先に数ミリだけ隙間を開けた。
「……ちょっとだけ」
「なんじゃ、やっぱりそうではないか! これだから信勝は!」
「ちょっとです! 本当にちょっとです! さっき言ったのが本音です!」
「ああもう、是非もないな我が弟兼夫は……少し飲ませてやろうか?」
「ダメです、姉上に水を飲ませてからです……仕方ないでしょう、僕は姉上の前だとカッコつけたくなるんです! 好きだから! 姉上風にいうなら是非もないというやつです!」
「は? なに、わしのせいだというのか?」
「ええ! えっと、その、姉上が美人すぎるのがいけないのです! それに何回も繰り返すことが幸せとは限りません!」
信長はクリスタルの盃に自分の顔を映す。盃は丸くカットされていて顔はよくわからない。
水をとりに行った信勝に置いて行かれて自分の顔に数度触れた。
思わなかったわけではない。たった一度だから人生は美しい。やり直したら生そのものが違うものになってしまう。元々そう思う方だったのに、信勝と聖杯のせいで随分長い間調子が狂っていた。
数多の特異点を作ったサーヴァントたちを思い出す。その数名は愛する者のために聖杯を作って歪んでいった。
「美人のう……ふーん」
信長は待っている間もぐびぐびと酒を飲み続け、信勝が帰ってくる頃にはなくなった。ぽいと盃を放ると金色の光になって消えた。バイバイと手を振ると金色の粒子の間にあの少年の影が見えた気がした。
「そうじゃ」
信長は懐から宝箱を取り出した。黒い漆塗りで螺鈿で百舌鳥が描かれている。それに魔力を込めてこういった。
「ゲームがしたい。カルデアのどこまでも飛べ、わが宝たちよ!」
信長と聖杯の魔力が混ざり、宝箱の中身はカルデアに四方飛び散った。
水を持ってきた信勝はワナワナと震えた。
「姉上……完全に出来上がっているではないですか!」
「うひゃひゃひゃ、本当にとっておきの酒ではないか!」
信長はカルデアの廊下の椅子で猫が腹を出すように出来上がっていた。るんるんと鼻歌を歌い、頬が桃色に上気している。
「もう……ほら、せめてこのお水を」
「いい気分じゃから要らぬ。おおそうじゃ、沖田はどこじゃ?」
「どこって……知らないですよ」
信勝も誰も見つけられなかった。知るはずがない。
信長は立ち上がるとフラフラと酔っ払いの足取りになる。慌てて弟が支えようとするがなんとも微妙なところで倒れない。それでいて楽しそうなのがちょっと可愛い。
「しゃーないの、ちょっくら沖田、並びに縁ある者たちを探しにいくか。ほら〜、お前もいくぞ⭐︎」
「あ、姉上、これまだ持ってたんですが……ぐは!」
信勝は以前の金属製の首輪をつけられて信長に引き摺られていった。
もう一度、と姉弟が行ってみると食堂で卑弥呼が見つかった。二人の姿を確認するとぶんぶんと満面の笑顔で手を振ってくる。なんと目に涙まで浮かべている。
「信長ちゃん、信勝くん! いたー! どこにいってたの!?」
「卑弥呼、こっちだって探してたんだぞ!」
よその姉とよその弟が駆け寄って笑い合う。何やらこちらも姉弟らしく見えて、みている信長は若干複雑だった。どうやら卑弥呼も信長と信勝を探していたらしい。
「ま、消える前に会えたんじゃしよかったではないか」
「うう〜、あたし達本当に消えちゃうのね。彼氏……作りたかったな」
「なんじゃ卑弥呼、そんなもの欲しがっておったのか? 貴様なら声を掛ければついてくるサーヴァントの一人や二人おったと思うがの」
「姉弟で結婚しててそんなものって言う〜? あたしはそういうの不得手なの! 伊達に神殿にこもって暮らしてないんだから!」
姉二人で何やら盛り上がってしまい、取り残された弟は使命を果たそうと慌てて卑弥呼に声をかけた。
「ひ、卑弥呼! お前に渡さなきゃならないものがあるんだ! ……夢で見た、お前の弟の言葉だ」
「あたしの……弟?」
信勝は分厚い封筒を取り出し卑弥呼の手に持たせた。結構小言が多かったので厚くなったことは伏せる。
「手紙にしてある。時間がある時に読んでくれ。お前の弟の最後の……あれ?」
ふと人影に気付く。いいや人の形ではない。それは卑弥呼の足元の膝ほどの高さの陸亀だった。その瞳は間違いない、卑弥呼の弟の名無しの亀が信勝の夢ではなく現実にいる。
「亀、くん……?」
「いやはや、信勝殿、まさかまた現世でお会いできるとは夢にも思いませんでした。……カルデア最後の奇跡でしょうね。まさか名無しの私も現界できるだなんて」
それは本当に卑弥呼の弟だった。金色の粒子を纏っているが確かに存在している。
「無名は僕も同じだ! やった! 最後に奇跡が起きたんだ、卑弥呼!」
「信勝くん、あたし……まさかまた弟に会えると思ってなくて〜!!」
卑弥呼はだーと滝のように涙を流して弟の甲羅を抱き抱えた。腕力Aでそのまま持ち上げてしまうので名無しの弟の腹が宙に浮く。
負けじとばかりに信勝も名無しの弟の腹に抱きついた。
「弟くん、弟くん、弟くん〜!」
「亀くん、亀くん、亀くん〜!」
「「うわ〜ん、本物だ!!」」
「ふ、二人とも落ち着いてください!」
前後から抱きつかれた名無しの弟が叫ぶ。やれやれと信長が助け舟を出した。後ろから弟の耳を軽く引っ張る。
「こら、信勝、浮気はやめろ」
「う、浮気じゃありません! 愛と友情は別腹で……」
「浮気じゃないならいい加減離してやらんか、卑弥呼と弟は会うこと自体久しぶりなのじゃぞ。遠慮というものを知れ」
「うう……そうだけど、亀くん〜」
せめて腹にしがみつくのやめて信勝はだーと涙を流した。はっと思い出したように分厚い封筒を指差す。
「その手紙、いらなかったのかな、こうして二人は会えたんだし……」
「ええと、その、信勝殿、そうですよね……姉上、その手紙は恥ずかし、ではなく直接伝えるので信勝殿にお返しを」
「ええ〜!? やだ! 弟くんがくれたんだからもうあたしのものだよ!」
「亀くん……もが」
「やめておけ、信勝。わしらがそうであるように姉弟間で決めることだ。馬に蹴られるぞ」
姉の言葉に信勝は一度黙った。そして卑弥呼は亀を床に下ろし信勝と顔を合わせた。
「信勝殿、こうして現実で会えたこと嬉しいですぞ」
「亀くん……その、ありがとう。お前がいなかったらきっと僕は姉上とこうして一緒にいられなかったと思う」
「そんなことないですよ」
「それがあるんだ……僕は誰かと一緒に「いる」ことが難しかった。僕自身が僕を否定していたからただ「いる」ことで誰かの喜びになることを知らなかった。だから何度も逃げた……お前のお陰だよ。逃げるな、って優しくも厳しくも言ってくれたから自分に向き合う勇気が持てた」
「……それではお互い様ですな。私は姉上のそばにいるあまり、かえって姉上の心が見えず、不幸したのは自分ではないかと……自分の価値を見失っておりました。そんな中、信勝殿の言葉が自分の人生の意味を再び感じさせてくれたのですよ」
「亀くん……」
「信勝殿……」
「「これが最後なんて〜」」
だーと涙を流して仲良く抱き合う弟二人の上で姉二人は目配せして笑った。全く、生前は弟にちっとも友人ができなくて二人とも姉として心配していたのにこんな奇跡が起きるなんて。
信長は日の丸が描かれた扇子を広げて顔を仰いだ。
「うはは! これで姉弟が四人揃ったではないか! よいではないか! カルデアのそういう空気読まないとこ好き!」
「これはこれは信長殿、どうも姉上がいつもお世話になっています」
「むむ、そう挨拶されると挨拶したくなるというか、うむ、そっちこそうちの信勝がいつも世話になっておるな。礼を言う」
こうして二組の姉弟が揃う。カルデア最後の日らしい奇跡だった。四人は賑やかにあれこれ他愛のない話をした。
「信長ちゃん、これ、あなたのじゃない?」
すっと卑弥呼が信長に差し出す。それはシルバーのペンダントだった。信勝が信長に渡したものだった。信勝の方が驚いた。
「な、なんでそれがここに? 姉上の宝箱に入ってるはずじゃ」
「なんかさっきピカー! と光って飛んできたんだよね。信長ちゃんがこれみよがしにつけてたから見覚えあるし、返さなきゃと思って」
信長はペンダントを受け取るとふっふっふと笑った。結構酔っている。
「これはわしの宝じゃ」
「あ、姉上……」
「じゃから宝探しじゃ! 魔力でカルデアのあちこちに飛ばした! ゲームで探そうと思ってのう!」
「あ、姉上〜」
「泣くな、うっとうしい。さて、これはお前の手で初めて作ったわしへの贈り物じゃが、どんな気持ちを込めた?」
「そ、そんな、ここで突然!?」
名無しの弟をチラッと振り返る。友達の前ではちょっと恥ずかしい。
「ええと、そりゃ……姉上大好きって気持ちを込めたに決まってるじゃないですか」
「声がちいさーい」
「姉上、実はめちゃくちゃ酔ってますよね!?」
その後も信長と卑弥呼と名無しの弟は「もっと大きな声で」と信勝を囃し立てていた。
意外なことに沖田はあっさり見つかった。
「なんでノッブがいるんです?」
「なんでってここいつもの茶室なんじゃが」
姉弟が二度目の茶室にやってくると沖田と新撰組のメンバーがいた。沖田、土方、斎藤、山南の四人がちょうど茶室から出るタイミングで信長と信勝が茶室のドアを開いた。
信長はずずいっと沖田に近寄ると人差し指を立てた。
「ま、貴様とやることなんていつもと一緒じゃ……沖田、最後に一戦どうじゃ?」
「姉上〜、大丈夫なんですか?」
「お前ね、わしを心配するとか失礼じゃない? これは親睦試合とか最後は拳とかそういう……」
聖杯の件から信勝は沖田に強く出られない。弟を後ろにやる姉に沖田は新撰組の仲間たちに目配せした。
「ノッブ……何か企んでません?」
「こんな最後になってまでそんなことするか? なんじゃ、ぷくく、人斬りサーのプリンセスはもしやわしが怖いのか?」
「そんなわけないでしょう。だってさっき……まあ、いいですよ。でもここじゃ茶室が壊れちゃいますよ。シミュレーターもカルデアが終わりだから今からじゃ動かせないし」
「それは承知しておる。じゃから種目を変える……沖田、わしと腕立て伏せで勝負じゃ!」
「……は?」
沖田の疑いは深い。
マジで腕立て伏せ耐久勝負だった。
「ノッブ、本気ですか? 腕力貧弱のアーチャーじゃ勝負にならないですよ」
「わし、もうアヴェンジャーじゃし、貴様などものの数ではないわ!」
謎の気迫を持つ信長とだるだるの沖田。宿命の二人のラストバトルが筋力でいいのか。いやある意味筋力でいいのか?
サーヴァントは腕立て伏せなど無限に出来てしまう。それではつまらないと信長は用意していた一トンの重りをお互いの背中に乗せることで短期決戦を謳った。スピード勝負でこの重りをつけて百回先に腕立て伏せをした方が勝ちだ。
公正を期すために審判はお互いの陣営から一人ずつでた。信勝と山南である。
「姉上〜! 頑張って!」「沖田くん、無理しない程度に頑張って!」
土方と斎藤は外野で沖田を囃し立てる。
「沖田、負けたら承知しねえぞ」「沖田ちゃ〜ん、最後なんだから、まあ気楽にね」
そんなことを言われなくても二人の心は一つだ。こいつにだけは負けたくない。どんなつまらない戦いでもだ。沖田も信長もすでにスポーツ着的なラフな格好になっており、背中に「一トン」と書かれたA4用紙で貼り付けられた金色の塊が乗っている。
「それじゃ、スタート!」
「姉上〜!」
ゴーン! と山南が戦いのゴングを鳴らす。信勝はいつも通りだった。
「「うおおおおおおおおお!!」」
沖田と信長が高速で腕立て伏せをする。すぐに二十回は終わった。この時点では二人は互角だった。
沖田は焦った。さっさと終わらせるつもりだったが、思った以上に重りが重い。五十回を超えたところから速度が出なくなっている。腕が、痛い。
横目でチラと信長を見るとわずかに沖田をリードしている。そんなバカな。アーチャーは長距離専門じゃなかったのか。いや、厳密には今の信長はアヴェンジャーだし、カルデアには殴りで戦うアーチャーはゴロゴロいたが。
「沖田……わしの勝ちじゃ」
「う、嘘お!?」
八十回を超えた沖田の横で、信長の九十九回が終わる。そんな馬鹿な。こ、こんな形で終わりを迎えるわけには……!
「はい、百回。わしの勝ち!」
あっさり百回を迎える信長。沖田が凍りつく。
「姉上〜! 当然の勝利ですね!」
「あっさり勝利! うむあっぱれじゃ!」
満面の笑みで勝利を喜ぶ姉弟に沖田は筋肉痛を堪えながら抗議した。
「ちょ、ちょっとタンマです! これは何か不正があるに違いないです……!」
「うはは〜、負け犬の遠吠えなんて知らん知らん!」
「うん、不正あったね」
割って入ったのは斎藤だった。刀を抜いてすでに下ろした信長の重りを刃先で突いている。ぎくっという文字が信長の背後に浮かぶ。
「な、なんのことじゃ? このわしに限って不正などあるはずがない! って、あああー!!」
斎藤が信長の重りの「一トン」と書かれた紙を刀でスパッと切り裂く。すると下から「五百キロ」という文字が出てくる。次に沖田の方の重りの紙を切り裂くと普通に「一トン」と書いてある。重さが二倍もある。どう見ても不正だ。
斎藤はビシッと信長に刀を向けた。
「記載に偽りがある。不正だ、不正! よって今の勝利はなし!」
「ち、違うんじゃ! 今のなし!」
「ノッブ〜! こんなことだと思いましたよ!」
「あ、姉上〜! だから止めようって」
怒りの沖田の拳が信長の顔面にめり込む。動揺した信長はまともに喰らってしまい、敗北の味を知った。
信長は思った以上にダメージを受けて、信勝の膝の上で優しく介護されることとなった。
「こらノッブ。いつまで伸びてるんですか、まるで私がいじめたみたいじゃないですか」
「こら! お前のせいで姉上の顔がギャグみたいになったんだぞ! 見ろ、まるで梅干しじゃないか!」
「ひっく、あ〜まだ酔いが残っておるわ……よく考えたらわし呑んでるし、勝負しても負けるのは当然じゃ! だからさっきのはなし……」
「ありに決まってるでしょ〜! この不正天魔王!」
「ムキー!」
「あ、救急箱が来たみたいです! 姉上、僕、とってきますね!」
信勝は甲斐甲斐しい妻のようにそっと膝枕を外すと茶室の入り口に向かった。すると沖田と信長の二人きりになる。
沖田は仁王立ちで信長を睨んだ。
「最後の最後でなんであんな不正をしたんですか?」
「うつけ、あれもわしの戦い方よ。体力バカを知性でねじ伏せるという……」
「何が知性ですか、不正じゃないですか! ……最後の戦いがあれでよかったんですか。私だってもっと早く言われればシミュレーターの予約くらいしたのに。知ってます? 事前に予約したサーヴァントは今ラストバトルの真っ最中なんです」
「そりゃわしと貴様じゃからな、馬鹿馬鹿しい方が終わりに相応しかろう」
「これだからノッブは……なんですか?」
「沖田、自分をバケモノだと思ったことはあるか?」
沖田は一度目を見開き、上を向いた。
「まあ、バケモノとかは思ったことはないですが……普通とは違うのだとは感じていました。なにせみんなとてつもなく遅かったですから。沖田さんから見れば世界は激遅ですよ」
「そうか。わしは自分をバケモノだと思っていた。色々聞こえんかったし、見えなかった。その割には手に取るようにものが分かった。わしは信勝にこう思っていた。バケモノの弟に生まれるなんてこいつ運が悪いな、と。沖田は家族にそんな風に思ったことはあるか?」
「……一度だけ、姉に子供らしくないと心配された時に少し思った、かも?」
「かもって、曖昧じゃのう」
「そんなはっきり思ったわけじゃないですから。そっかあ、ノッブは自分をバケモノだと思っていたんですね。心配しないでください。沖田さんから見ればただの無名な戦国武将ですから」
「令和でも一番有名だっつの。まあ……そんな貴様とやり合うことでわしも少し、柔らかくなったのかと思ってな。礼と思って最後に不正を……」
「不正の何が礼ですか! ……私とノッブはきっと違います。ノッブは自分だけがバケモノだと思っていたんですよね。私は違います。新撰組ではヒトだのバケモノだのどっちでもいいですから」
「はっ。確かにあの人斬りサー、弱小の割にバケモノっぽいのがおるからな。……そうか、貴様はバケモノなりの居場所を見つけたのか」
確かに生前の信長にバケモノとしての居場所はない。サルはいたが一人では居場所とまではいかない。そういう違いだろうか。
沖田は少し考え込み、伸びている信長の横に体育座りをした。
「でも、ヒトが分からないと思ったことはあります。どうしてこの人は死ぬと分かっていてその道を選ぶのか、私にできることはもっとなかったのか。死ぬまで考えても答えは出ませんでした」
信長は茶室の山南の姿に視線を送る。山南は逃げられるのにあえて新撰組に戻ってきて死んだ。介錯したのは沖田のはずだ。
「戦ったり守ったり、そういうのは得意なんですけど、信念みたいなのはさっぱりで……今でも分かりません。時々新撰組なのにどうかな、と思ったりはします」
「そうじゃな、バケモノにはヒトは分からん。特に信念だの生きる道だのはな。その点においては貴様に同意じゃ……それでは貴様みたいにわしを笑い飛ばすものがおるから、わしはカルデアで笑えるようになったのかもしれん」
「ノッブ?」
元々、帝都の信長は氷の心を持つ、生前と同じ存在だった。今のように笑ったりしない。それはいつの間にか変わったのは沖田とカルデアの影響だろう。
だから信勝と再会してから昔とは違った形で接することができたのかもしれない。
ようやくシリアスな顔に戻った信長は上体を起こすと沖田の方を向く。
「のう、人斬り」
「なんですか、ノッブ」
「貴様と戦うのは楽しかったぞ、カルデアは終わりじゃがまたどこかで会ったら存分に殺し合おう」
「……ええ」
皮肉なことに二人は戦いの後にこそ爽やかに笑い合えるのだ。
「姉上〜」
救急箱を持った信勝が帰ってくる。思い切り顔に消毒薬をかけるので目が痛い。
「ちょ、おま、ちゃんと脱脂綿につけてからやらんか! やめろ、目に沁みる!」
「信勝は、心配で、心配で〜!」
「あはは、ノッブ面白い顔……そうだ。さっきノッブの魔力に飛ばされてこれが飛んできたんですけど」
沖田が差し出したのは細い銀のアンクレットだった。信勝が作って贈ったそれを信長は大変気に入っており、廊下でもブーツを脱いで見せてくるから嫌でも覚えたのだ。
「これノッブのでしょ。信勝さんが作ったんだってよく見せびらかしてたじゃないですか!」
「別にー、見せびらかしてなどおらぬ。あの時は靴脱ぎたかっただけでー」
「はい、信勝さん。作るなんてすごいですね」
「う、うん……これは出来に自信がなくて、隠してたんだけど姉上が見つけて……むぐ」
ムッとした顔の信長が信勝の口を塞ぐ。どうやら見せびらかしには理由があるらしい。
「別にちゃんとできておるではないか。捨てようとしおって……ふん、どうせこめた想いが大したものではないのだろう?」
「ち、違いますよ! な!?」
「なんで私に同意を求めるんですか? そもそもどういう思いを込めたんですか?」
「ええと、それは……その姉上が毎日元気に過ごせますようにって」
「「お母さんか!!」」
それはそれで信長は上機嫌だった。
ゴルゴーンは休憩室で見つかった。悲しんでいるように見えた。
「ゴルゴーン」
「誰だ、話しかけるな……なんだ、お前か」
「お前……これ」
姉弟が近寄るとテーブルの上が見えた。そこには六個のティーカップとケーキの乗った皿があった。どれも食べかけだった。
「私にまた会いに来るとはお前も暇人だな、信勝」
「くるさ……僕は友達だと思っていたから」
信勝は聖杯の件から帰還してからも何かと休憩室で彼女と話していた。
ゴルゴーンはぼうっと宙を見た。
「いつもこうさ、残されるのは私だ。姉上たちは神なのに……バケモノだからなのかな」
「……あくまで僕の見方だけど、お前たちはいつだって仲のいい姉妹に見えたよ」
「ステンノ姉上が言い出したんだ。湿っぽいのは嫌だからティーパーティーをしてその時を待とうと。エウリュアレ姉上も賛成して、四人もいる私たちを招いてパーティをした。ライダーの私も、可愛らしいランサーの私も、セイバーの私も、このバケモノの私も。
そして食べ終わる前に一人ずつ消えていった……最初はランサーの私だったかな。次に姉上たちが、そしてほぼ同時にライダーとセイバーの私が……私は待っていた。姉上たちのもとへいく時が私に来るのを……それなのに随分時間がかかるものだ。図体が大きいと残存魔力が大きいのかもな」
信勝はわずかに震えた。終わりが近いのだ。もし姉が先に消えたらどうしようと思った。
「僕も、覚悟しないとな……それでも消えないでくれてありがとう。僕は最後にお前にお別れを言いたかったから」
「ふん……礼を言われることなどない。たまに話をしただけだ、聖杯の件を除いてだが」
「他のみんなもそうだけど、僕はきっと誰かに助けられたから姉上と一緒にいられるんだ……お前は自分をバケモノと言って蔑むけど、僕もそうなんだ。僕なんか馬鹿で無能で誰にも要らないんだと自分から離れて……そんな僕が最後まで姉上のそばにいられたのはきっとお前のおかげでもあるんだ。
だから、ありがとう」
花のように笑う信勝にゴルゴーンは内心苦笑した。自分は末の妹だ。それでも弟がいたらこんな風だろうかと想像した。
「私も礼を言う……たまには姉上以外と話すのも悪くはなかった」
バケモノの自分だからこそ、信勝の役に立てたのだろうか。そんな夢想で悲しみに浸った心が少し和らいだ。
「これはお前のものではないか?」
ゴルゴーンがその手に持っていたのはブレスレットだった。信勝が作り、信長に送ったものだ。二番目に作って出来が嬉しかったから姉に渡す前に友人に見せてしまった。
「前にできたできたと見せびらかしに来ただろう?」
「これは……確かに僕のだ。そういえば姉上が言ってた。最後に宝探しゲームだって、こういう意味なのかな?」
銀のブレスレットを受け取った信勝は思い出した。これを受け取った時に姉が「本当にまた作るとは思わなかった」と嬉しそうだったことを。
信長は少し離れた場所で信勝とゴルゴーンの別れを眺めていた。
一人きりのゴルゴーンを見て脳裏を不安が掠める。もしかすると信勝だって先に消えて、信長は長い時間とり残されるかもしれない。本来英霊ではない信勝の魔力はロウソクの灯りのように小さい。
(本当に、もう終わりなんじゃな……全ては一度きり、とは理解しておるんじゃが、できれば最後は二人とも同時に)
「信長」
突然話しかけられて、はっと振り向くと長尾景虎がいた。今は上杉謙信と呼ぶべきかもしれないが、姿がランサーの時のものだ。
その姿から漏れる殺意、というほどではないが冷気のような気配に信長はにっと笑った。
「なんじゃ、景虎か……どうした? 随分剣呑ではないか、最後に一戦とでも考えておるのか?」
「いいえ、もうあなたと戦う気はないです。ただ……結局、あの時のことを話さないまま終わりが来てしまったので」
景虎は昔のような貼り付けた笑みを浮かべて信勝を指差した。信勝の殺害を偽造した景虎は一時期カルデアの一室に軟禁された。それはあの聖杯の事件の後に解除され、それ以降信長も景虎も何事もなかったかのように振る舞っていた。信勝は時々チラチラと気にしていたが。
「そうじゃな。わしとしてはあの時話すべきことはもう話した、と言う感じ……だったんじゃが」
「おやおや、含みを持たせるのですね。私も……まあ、あの時話すべきは話した、と思っていたのですが。それでも、一言だけ……どうですか? バケモノの家族を理解しようとするヒトがそばにいた感想は?」
かつての景虎のようだ。張り付いた笑顔の向こうに凍った瞳がある。それは信長もかつて慣れ親しんだヒトの中のバケモノの顔だ。
信長に信勝がいたが、景虎の家族には誰もいなかった。信長は理解できる。父も母も信長をバケモノとして利用するか、恐るかだった。それが普通のヒトの反応だった。信勝は……特別なのだ。バケモノの姉を本心から理解しようとする弟なんて普通はいないのだ。
そんな信長に家族に理解者のいなかった景虎の心など分かるはずがない。だからこれ以上話しても無駄だとなかったことのように振る舞っていたのだが……。
「そんなものわしラッキーと思ったに決まっておろう」
「……へえ?」
「わしに貴様のことは理解できぬよ、景虎。そうじゃろう? 大名家でぬくぬく暮らしていた者が心からその日食わずの貧しい孤児の心がどうして分かろう?
ああ、わからんさ。誰も理解すらしてくれようとしない家族なんて……何せ信勝とは三つ違いであいつは最初からああだった。いて当たり前だったのだ。理解する努力をされて当たり前だった……例え本当には理解できなくてもそれは暖かかった。寒かったであろう貴様の気持ちなど理解できるはずがない」
「そう……ですね。あなたには分からない。それを理解していると聞けただけで結構です」
「じゃがな、わしは罰を受けた。神など信じぬが世の中の天秤とやらはあったのかもしれん。いて当たり前の信勝はある日、突然奪われた。本当は予兆があったのじゃがわしはさっぱり気付かなかった。バケモノのぬくもりは突然消えて、ヒトだらけの世界は寒くなった……その時に感じた寒さは痛かったぞ」
「なんですか……あなたも辛かったと言いたいのですか?」
「そりゃ辛いさ。馬鹿な自分を生涯呪うほどにはな。そしてわしの辛さだって貴様には分からん。だが痛みくらいは似ていただろうさ」
「……最初からないことと、持っていて失うこと、なるほど痛み自体は同じようなものでしょう。その大きさを比べることは野暮ですね。でも、それなのにラッキーなんですか?」
「ああ……幸運さ。どんな辛い想いをしても愛してくれる家族がいたことが幸運じゃなくてなんだという? 家族なんて選べないものの代表だ。その選べぬものがたまたまバケモノの家族を愛してくれる……どれほどの幸運か。そして過去の自分を呪う。それはただの幸運なのに、当たり前と思っていたことを」
「……」
「まあ、わしが言いたいのはわしラッキーだから絶対手放さないし、貴様には絶対あーげないってことなんじゃが」
「あはは、なんですかそれ。もらえるものじゃないでしょう。もらえるとしても願い下げですよ、弟殿の歪みっぷりを考えれば。
ふふ、そうです、それが分かればいいのです。己が持っていた幸福に気付いたなら。前のあなたはどうもそれが分かっていないように見えたのでムカつきました」
「おお、ムカつけ。幸運なものを恨む権利が不運な者にはあるさ。何せ……運ばかりはどうしようもない」
「……そう、ですね。運ばかりは選べませんものね。あなた風に言うなら……是非もなし」
なぜかその時の景虎の笑みは貼り付けたものではなく、心からのものに見えた。
そこで一度景虎の姿が揺れる。数秒後、その姿はルーラーの上杉謙信のものへと変化した。
「ま、あなたとはここまで。それでは人を待たせているので」
「なんじゃ、貴様、待ち合わせしておったのか?」
「晴信ですよ。シミュレーターの川中島で最後の決戦です。お互いが消えるまで殴り合いですよ」
「最後まで戦闘狂じゃのう。付き合わされる武田が多少は気の毒じゃわ」
「何言ってるんですか、あれで晴信は結構楽しんでるんですよ。やはり信長は分かっておりませんね」
「ま、武田のやつも本質は戦闘狂じゃから、結構喜んでるのが続いてる原因なんじゃろうな……それではさらばじゃ、景虎、わしと同じ乱世に生まれたバケモノよ」
「ええ、さようなら、信長。カルデアはバケモノが多くてなかなかよかったですね」
刀を肩にかけた景虎は軽く手を振る。
「そうそう、これが魔力を帯びて飛んできたんですが、あなたよくつけていませんでしたか?」
すれ違いざま、すっと手を差し出される。その手の平には銀のイヤリングが乗っていた。信勝が作って信長に送ったものだ。信長は少しバツが悪そうな顔をした。
「それを信勝に見つけさせるゲームじゃったんじゃが、わしのところに直接きてはのう」
「じゃ、貰うか捨てるかしていいですか?」
「冗談ではないわ、返せ……手にしたものは持っている時は価値に気付かない。時になくしてこそ価値が光る、みたいなゲームじゃったんじゃが」
「ふぅん、でも自分でやったら台無しじゃないですか?」
「うっ……そうか? そうかも……」
第六天魔王は少し自信がなかった。
「やれやれ、疲れたのう」
「姉上、一度部屋に戻りましょうか?」
「えー、これが最後なんじゃが……うーん」
さっき茶々と別れを済ませた。信勝が作ったアクセサリーもほとんど戻ってきた。肉体的には疲れていないが、精神的には感情が揺れてなかなか疲れる。それでもいつ退去するかわからない。休む時間などないとは思うものの……。
姉弟は夫婦の部屋へ足を向けた。
「まあ一度水を飲むくらいいいか……むむ?」
「あれは……マスター?」
廊下の向こうからダッシュしてくる存在。それはマスター・藤丸立香だった。滝のような涙を流して全力疾走で突っ込んでくる。
「ノッブ〜! カッツ〜! うわーん!」
「なんじゃああああ!?」
咄嗟にどこかで聞いたような叫びをあげてしまう。立香はそのまま突っ込んで信長の肩を抱いた。
「こら! マスターといえど姉上に抱きつくなんて……はわわ!?」
立香は左腕で信勝も抱き込み、叫んだ。
「うわーん! ノッブもカッツもお別れなんてやだ〜! やだよ〜!」
「立香……ああもう、お前はやっと普通の世界に帰れるというのに。こら、泣くな」
「ま、マスター……ぼ、僕も悲しい〜! うわーん!」
信勝まで泣き出して信長は額に手を当てて天を仰いだ。湿っぽいのは苦手なのだ。
「みんないなくなっちゃうなんて嫌だよ〜! せっかく、せっかく会えたのに……」
「……じゃがな、マスター。わしは嬉しくもある。やっと貴様は戦いの日々を終えて自分の世界に帰れるのだ」
藤丸立香はとても不運なマスターだった。気軽なアルバイトのつもりが世界を救うのはお前しかいないと少女の身にはあまりにも重いものを背負ってきた。だが立香は泣き言は最低限で立派に役目を果たしてきた。
ヒトには厳しい信長でさえ過酷すぎる旅だったと感じていた。
「そりゃ、帰れるのは嬉しいけど……サーヴァントのみんなとお別れは寂しいよ。本当にもう会えないのかな?」
「さあのう。貴様が魔術師として研鑽を積めばどこかで会える可能性はゼロではないが……それでもここまでの数のサーヴァントに会うことはもうあるまい。なにせ百超えてるからね」
「ううっ、グスッ……姉上、マスター」
「ああ、もう信勝はすぐ泣きおって。ほらティッシュ」
ポケットティッシュを弟に押し付けると信長はマスターに向き直った。こっちも泣いているのでもう一つポケットティッシュを差し出す。
「ああもう、貴様は子供なのか大人なのか分からんな。時間が止まった世界で戦ってきた故是非もないが」
「ずずっ。ノッブ、信勝くん……こっちこそ、二人にはいつも助けてもらって、最後なのに何を言えばいいかも分からなくて……私、二人に何かできたかなあ?」
信長と信勝は目を見開いて顔を見合わせた。
「何言ってるですか! マスターがいなかったら僕と姉上は会えなかったんですよ! 他にもたくさん、たくさん助けてくれたじゃないですか!」
「マスター、この旅は誠に楽しい夢であったぞ。我が弟を夫にするということまでできた。全て貴様が結んだ縁じゃ……感謝する」
「ノッブ、信勝くん……そんな言われるなんて本当にお別れなんだ〜!」
「ええいもう、泣くな!」
「ノッブが殊勝なんて本当に最後なんだ〜!」
立香は泣いて泣いて、そしてすっと手を差し出した。信勝は驚いた。その手の平には信長の結婚指輪が乗っていた。
「ノッブ、これ結婚指輪でしょ? 前に見せびらかしてた。なんか魔術的な力で飛んできたんですけど」
「あ、姉上〜、指輪までゲームに使ったんですか!?」
「うむ、最後に見せびらかすためのゲームじゃったからな」
「もう、ノッブ。信勝くんはすぐ不安になるんだから、指輪だけは外しちゃかわいそうだよ」
「わしからするとこれ以上ない惚気なんじゃがな」
名残惜しかったがマスターは他のサーヴァントに別れをいうために去っていった。
そして姉弟はちょうど近くまで来ていた夫婦の部屋で休んでいた。二人で真っ赤なソファに座って並んでコーラとオレンジジュースを飲んでいた。信長はすでに手袋の下に結婚指輪をはめている。
「全く立香のやつ、あれではティッシュがいくらあっても足りんではないか」
「グスっ、マスター、本当に最後なんだ」
「一週間前からそう言っておるじゃろ……もう」
信長はコーラを飲み干すと信勝の膝の上に頭を乗せた。信勝は驚くが慣れた手つきで姉の髪を撫でた。信長の全身には銀色のアクセサリーがキラキラと輝いている。全て今日ゲームで使った、信勝の作ったアクセサリーだ。
「あの、姉上、本当ですか?」
「んー、なにが?」
「僕の作ったアクセサリー、みんなに見せたかったって……」
「他にも色々あるが、そうじゃ」
「どうしてですか?」
信長は信勝の膝の上で仰向けになると二人の赤い目があった。
「わしとお前の間柄は誠に危ういものであった。そうは思わんか?」
信勝はこくりと頷いた。信長は信勝の顎のあたりに手を伸ばして撫でる。
「わしとお前は想いは同じじゃった。ただそばにいたかった。じゃが関係は常に危うかった。同じ願いなのにわしらはどうもうまくいかなかった。今思い返すと本当にいつ繋いだ手が離れてもおかしくない夫婦じゃった」
「……はい、僕の愚かさのせいです」
「そうか? わしの愚かさのせいの気もするがな……そんなわしらがなんとかここまで手を繋いで来れたのはカルデアの連中の影響も大きいと思ってな。変な話、わしはいつもはこうではない。帝都であったわし、あんな風であった。誰かに笑ったりしなかった。それがカルデアと妙な具合で繋がって変わっていった。お前と再会する時には結構笑えるようになっていたのじゃ」
「そうだったんですか……僕も再会した時、驚きました。僕がどんな話をしても笑わない姉上がゲラゲラと笑っているなんてどんな奇跡だろうと」
信長は手袋を外して結婚指輪を信勝にかざして見せた。合わせて信勝も手袋を外し、姉の指輪をしている手に絡めた。キンと金属が触れ合う音がする。
「わしを笑えるようにした多くの出会いがカルデアにはあった。そしてお前と奇跡のように会えた。わしはこの奇跡を逃してならんと夫婦になった……もちろんそれは意味があった。じゃがまあ、離婚せずに済んだのはわしら二人では成し遂げられなかったのではないかと思ってな。どうもわしらは二人で「いる」だけでも誰かの力を借りないと難しいようじゃ」
「分かります。僕は……特に弱くて、捨てられる前に去ろうとした。マスターや亀くん、卑弥呼やゴルゴーンにたくさん止めてもらいました。僕一人の力では姉上のそばにいることが無理でした。みんなの力を借りることができて僕は幸運でした」
「やれやれ、飛んだお騒がせ夫婦ではないか……ん」
信長は上体を起こして、信勝の首に腕を回して軽く口付けした。信勝は頬を赤くしたが、応じて彼女の背に手を回し、返すように深く口づけを返した。
そのまま口づけを繰り返し、二人はソファの上で抱き合った。不意に信勝がクスクスと笑う。
「ふふ、僕はともかく、天下の織田信長の夫婦仲を持たせるなんて、カルデアはやはり凄いところですね」
「そうじゃそうじゃ、只者ではない。それに夫の贈り物を見せびらかす相手がいるのはなかなか楽しかったぞ」
「姉上、本当に喜んでくれて僕の方がびっくりしました。本当に拙い素人の作品なのに」
「……ああ、これも座には持っていけないのだな」
信長は左手を抱えて結婚指輪を見た。永遠を意味する花が刻印されているそれは持っていけないのだ。全身につけているアクセサリーもカルデアと共に終わる。
「……そろそろ、行くか。もう一度カルデアを歩きたい。そうじゃ、行く前にコーラをもう一杯飲むか」
「はい、姉上、僕が片付けておきますから」
信長はソファを立ち上がると冷蔵庫の前へ行った。信勝は二人分のコップを片付ける。
ガチャン! と金属がぶつかる冷たい音がした。
「……姉上?」
信勝は信長の方を振り返る。そこには金色の粒子だけが漂っていた。
「あね、うえ……?」
よろよろと冷蔵庫の前に向かう。冷蔵庫はドアが開いたところで止まっていた。床には結婚指輪とたくさんの銀のアクセサリーが散らばっている。
信長は退去して、座に帰ったのだ。
(こんな……突然……さっきまでいたのに)
信勝は自分の頬に手を当てた。涙は出ていない。いざという時こそ出ないのかもしれない。だから、こう言って寂しく微笑んだ。
「よかったです、姉上……今度は僕が残される方で。姉上一人残してばかりの僕だったから、今度こそ僕が後でよかった」
信勝は結婚指輪をまず拾うとアクセサリーを拾う。するとぽたとブレスレット涙が落ちた。咄嗟に拭うと今度はペンダントに、イヤリングに、アンクレットに、そして結婚指輪にも信勝の涙が落ちた。
「姉上、姉上、姉上」
どれほどそうしていただろう。数分か、それとも数時間かもしれない。
信勝は何度も落として全てアクセサリーを拾い上げた。結婚指輪を手のひらに置くとまた涙がはじけた。
そして信勝の手から姉の結婚指輪がまた床に落ちる。見ると信勝の両腕が透けていた。再び銀のアクセサリーが床に落ちる音が響く。周囲に金色の粒子が浮かび始める。
信勝もまた、退去の時が来たのだ。
「姉上……好きです。きっとこのたった一度の時だからこそ、僕たちは一緒だった。幸せです。何度だって僕はそう思いま……」
信勝は最後まで言えず、金色の粒子となって消えた。
後には二つの結婚指輪が重なるキッチンだけが残った。
夫婦の部屋だけがそれを見ていた。
【エンディングA たった一度だけだから美しい】
あとがき
2025年1月14日