ほんの一瞬だけ、過去に舞い戻れたような錯覚を受けた。
なくなった 6
ほのかな闇が遠退き、かすかだがはっきりとした光がまぶたの裏をくすぐった。
暗闇の時間が終わり、光の支配する領域がここはすでに彼らの領域だとじわりと告げ始めている。
「・・・・・・あさ、か?」
・・・・・・いつ、夜になり、朝が来たのか記憶は曖昧だった。
自分のいる場所さえ曖昧だ。直前の記憶もなく、目すら開いていないのだから、当然だったが。
胸の奥まで包み込む暖かいやさしい闇は静寂という安らぎをくれるのに、弱々しいくせに残酷な光はその安らぎから光の世界へと引き戻そうとする。
(そこには、どうせもうなにもないというのに)
深い微睡みの淵に留まるにはまぶたの裏をひっかく光が痛い。痛みは時間と共に増していった。
このままではつぶれるかもな、と他人事のようにぼんやり思う。別に、目などどうでもいい・・・しかし、生理反応なのかまぶたは暗い安らぎから光が支配する場所へと視線を移動した。
さっきまで視界が必要ない世界にいたのにと、眉をしかめたが眩しさにすぐ目を閉じる。まばたきを繰り返す度、視界は明瞭になった。
薄墨色の空、影絵ような木々、風がその姿を数度揺らめかせる・・・数枚の葉がざわりというこずえと共に散る。
そこで私は初めて頬に当たる硬く丸い感触に気がついた。石壁の角、そこに体の右側を預けて座り込んでいる。へたりこんでいるが正確だろうか、どうせ行き先もなくふらつき、力尽きてここで眠ったのだろう、いや、倒れたというべきか。
瞳の位置だけをずらして周囲をもう一度見渡す。石壁、木々、薄い光がさし始めた藍色の空・・・勝手口か何か、どこか外への出口で眠っていたのか。見慣れた血盟城だとすぐに理解でき、少し嫌気がさした。しばらくは何もない暗闇で微睡むことはできないだろう
そのまま座り込んでもよかったのだろうが、仕方なく壁にもたれたまま立ち上がる。どうせ病室を抜け出したことがばれれば、どこかうそ寒い白い部屋へ連れ戻されてしまう。なら、木々の中でもう一度微睡む方がいい。
石壁の角は、職人の技のものか、長年の月日が、どちらかが削り丸みを持っていたため頬に痛みはなかった。いつから座り込んでいたかも分からない足は急に立ち上がると、耐えられず、外側の壁に上体が倒れ込む。石にぶつかったにしては軽い音をたてて額がぶつかる。
今度ははっきりと額に痛みを感じる、独特の冷たさも。石壁には嵌め込み式の窓が冷たいガラスで内界と外界を遮っていた。
その窓にもつれて倒れ込んだ男の姿が映っていた。長い濃灰色の髪はばらばらと解れ、薄明かり空と同じ色の瞳は虚ろな眼差しをしている。生まれてこのかた一番よく見てきた顔が薄闇の中でぼんやりと映っていた。
(だれだ)
誰かは知っている、しかし記憶の中の自分とはどの記憶に照らし合わせても似ていない。幽鬼のようだ。かつての自分はこんなに未来を疎んでいるような顔をしたことがあっただろうか・・・まるで今息をしていることにさえ怯えているような。
怯える・・・・・・馬鹿馬鹿しい。
一体何に、何を怯える必要がある・・・・・・?
「・・・・・・そ、です。私には、信じ、られません」
「僕だって信じたくない、でも有利が言ったことと、彼の様子を考えるに・・・・・・その可能性が高い」
「・・・・・・私は信じられません、信じたくありません。彼に剣を教えたのは、教えたのは、わた」
「駄目だ、そんなことは考えちゃいけない。違う、違うんだ、事故なんだ。根本的な原因はフォンビーレフェルト卿を拉致した人々にあるんだ。彼にも君にも罪はない。有利だって・・・!」
「・・・陛下は、まだ?」
「うん・・・まだ目覚める気配はない。ウェラー卿は・・・?」
「・・・・・・」
「・・・・・・そっか、そうだね。当然だ」
「・・・・・・このことは・・・他には?まさかグウェンダルやツェリさまには・・・・・・!?」
「まさか、誰にも知られてはいけない。誰も知らない。
有利と僕と君以外は、誰も・・・ウェラー卿を除けば」
「・・・・・・はい・・・・・」
一番鳥の声が手近な枝から飛び立つ音が、夢想から意識を引き戻した。
(・・・・・・夢想・・・・・・?)
そう夢だ。全ては夢。
私は何も聞いていない。何も知っていない、知るはずもない。
鳥が飛び去った方向を見れば、森がまだ朝は早いと青々とした緑を未だ隠していて暗い。
森と言っても城の中のもので、あくまでも小さい。林といった方が正確だろうか。広大な王都の城の中のものと言えど本物の森のように、深いものではない。剣で斬り払わなければならないほど足元に草が繁茂しているわけでも、子供が遊んでも心配をする必要がないほど鬱蒼と暗いわけでもない・・・・・・
「・・・・・・」
子供が遊んでなどいない。だからどうということでもないが。
要らぬ夢想に囚われている間に、病室に連れ戻されてもつまらない。木々の方へ足を進めた。小さいと言っても隠れるには十分だ。やはりあまり丈の大した草も生えていない、歩くことから遠ざかっていた足でも易く進めそうだ。
じばらく進む間に、枝や葉に顔を引っ掛かれる。無駄に育った身体が疎ましい。低い枝にまで頭が引っかかる。無駄に育った身体などセミと大木と言われることくらいにしか役には・・・・・・いいから早くこの木々の奥に引っ込んでしまおう。
そこでゆっくりと眠る、それだけ考えよう、病室へは、聞き覚えのある声が聞こえる場所へは帰りたくない。あそこは音がざわめいているようで、騒がしい。
(もう、静かに眠らせてくれ)
しかし、本当の眠りなど訪れるのか?微睡みの闇から帰ってこない方法が?
(・・・・・・ある)
夢か現か判然としない儀式の後で、ふと胸騒ぎがして呼び寄せられるかのように開いた扉の向こう側。
赤、赤、赤、むせかえるような赤い世界。鉄と生暖かい温度の匂い。赤い匂い。
自身をもほとんどその色に染めた、しかし染まりきれないであったろうその世界の主。
片腕に突き刺さる色が鋼の色。赤にまだらになりながらも、まだ自身の色をしていた髪の色は・・・・・・
誰だった?
そして、その世界から染まりきる前に無理矢理引き戻したのは誰だ・・・・・・?
本当は引き戻すべきではなかった?
「そんなはずはないっ・・・!」
手近な木に拳を叩きつける。鈍い音が幹から樹をゆらす。数枚の葉が落ちる、少しだけ別の音が響いた気がする、が、かまわない、もう一度、もう一度、何度でも拳を腕を菱を肘を、叩き付ける。
そのままいってしまうことが彼の願いではなかったのか?
「違う、黙れ!」
もう一度叩き付け、いきおいづいて肩をぶつける。そして、そのまま身を倒す・・・そして、先ほど目が覚めたときと同じようにさんざん殴った木にもたれかか、そのまま倒れる。
ああ、先ほど倒れたときもこのようにして倒れたのだっけ、記憶が急に思い出される。全く、たかが移動するだけに何をしているんだ、本当に私は・・・・・・
(私は何がしたいんだ?)
そんなことが、わかればどんなにいいだろう。いや、そんなものが、どんなに・・・・・・。
「どうすればよかった」なら、いくらでもいくらでも、あるという、のに。
「・・・だれ・・・?」
「・・・・・・・!?」
無人だったと思っていたのに、急に呼ばれて背筋がびくりと背後へと跳ねる。振り返るとふらりと立ち上げる影がある、誰の気配もしていなかったのに。
影絵のような木の陰たちが、はじまり始めた朝の光に、周囲の風景が少しづつ切り取られて少しづつ薄墨を溶かすように色彩を取り戻し始めていた。
ゆらりと立ち上がった影は、もう一度ふらつく仕草をする。警戒心で立ち上がろうとするが、足が動かない。病室でさんざん言われた「しばらくは動けない」という言葉の正しさをこんなところで痛感する羽目になる。痩せた足は前と同じように動かせば、思い通りにならない。
その人物は・・・彼のようだった。木にもたれかかって倒れているせいかもしれないが、相当な長身の持ち主だった。自分ほどではないだろうが、熟練した戦士のような均整の取れた体格。顔の辺りに腕のような影が差す。目をこすっている?その人物は眠っていたらしい、こんなところで?
「・・・・・・なにしているの?その木に何かした?」
その人物は木の上を不安そうに見つめると、頼りない足取りで近寄ってきた。その声が頭に染みこむまでに数秒かかった。低くやわらかい成人した男の声、そのくせひどく幼い。知っている、声だった。
この声は・・・この声、どうしてこんなところに!?
「・・・・・・・グウェン、ダル・・・・・・?」
「コンラート・・・?」
「どうしてこんなところにいるの?それにさっきの音は?」
「お、前、こそ、どうして、こんなとこ、ろに」
ゆっくりと歩み寄ってくるあまりに唐突なすぐ下の弟との再会に私は呆然とした。あの赤い世界からあっていない。あの世界に置き去りにされたままかと、心の片隅で思っていた。取り戻せないと、どこかで。
私の2歩前でぴたりと止まったコンラートは・・・確かにコンラートだった。かすかに瞳から銀色の光がこぼれている。どことなく焦点の合っていない瞳で私と私がもたれかかっている木の上を見比べると今度は胸元に抱きかかえているらしい何かに目をやると、子供のような拗ねた声で静かにつぶやいた。
「・・・・・・あんな大きな音を立てたらヴォルフ起きちゃうよ」
朝の光はあまりに急に木立の中に立つ、どこかひどく幼い表情のコンラートを私の視界に浮かび上がらせた。
・・・・・・そして、その腕の中に「ヴォルフラム」を私は確かに見た。
to be continued...
2009/07/29
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