だれか嘘だと言ってくれ
「 な く な っ た 」 5
ひやりとした空気とかつんかつんという音と共におれは回廊を一人歩いていた。
だれともすれ違わない、みんな部屋で静かにしているのか・・・今日がそういう日だから?
いまいち実感が分かずに歩くと、春の日差しが窓とすれ違う度に頬に触れる。一向に温まりはしなかったが、懲りもせず頬に触れてくる。
三度目の角を曲がった辺り、その辺りで右の手の平に小さなぬくもりが初めておれに触れた。最初は気のせいかと思って気にもしなかったけれど、だんだんと温かさが増していくことに視線を右へを渡す・・・・・・小さな浅黒い少女の手、それはグレタだった。
おれはここ久々忘れていた感情を1つ思い出した。それは驚きだった。そして、今まで彼女がどうしていたのか、思い出しもしなかった自分に驚いた。
グレタはおれが止まると彼女の足も止めた。彼女はおれに振り返ることなく、ただ横に立っていた。
斜め上から見える彼女の横顔には何の感情も浮かんでいなかった。ただ、静かだった。深海の底のように光も音もない目で前方と見つめている。
(・・・・・・グレタはヴォルフラムの死を受け入れたのか?)
どう思ったろうか、分からない・・・おれ自らが受け入れているのか、そうでないのかも。
(・・・・・・・目の前で見たのにな)
「・・・・・・」がヴォルフラムの心臓を真っ二つにした瞬間を。
そして「・・・・・・」にそれを告げて突き落としたことも。
「・・・・・・」
頭をふるってみるが、やはりどうしても「彼」の名前を忘れてしまう。前は姓の方は覚えていられたが、この日が近くなるにつれて思い出せなくなった。
誰かが呼んでいればすぐに思い出せたが、聞く側から忘れていく。穴の空いた袋から砂がこぼれるように「彼」に関する記憶事態が消滅していく。「彼」とはなにをしていたのだっけ?どう思っていたのだっけ?覚えている、それは分かる。けれど、思い出す側からその風景がぼやけていく。思い出せなくなった、のではなく思い出すと一面の鮮血の記憶と呼吸の音さえ正確にあの時の「彼」の言葉が全てをかき消した。
グレタの指が右手の人差し指に強く食い込んだ。特に痛いとは感じなかったが、小さな指に流れる血液の熱さが確かに感じられた。頬に中途半端に触れる春の日差しが初めて微かに暖かい。
おれたちは何も言わなかった。ただかつかつという音をたててその場所へと歩く。その場所へ向かう意味を見つけられないまま。
いつの間にかかつんかつんという足音はサクサクという芝生を踏む音に変わっていた。
外の世界の春の空気は温かいくせ、どこか温度を感じさせないままおれをすり抜ける。唯一温度を感じさせていたグレタのおれの手を握る力が強くなり・・・・・・そして、その場所へたどり着いた。
そこは血盟城の広い庭園の一番奥にある花園だった。前魔王が品種改良を繰り返し作った美しい花園。その花園のひときわ豪奢な白い花が咲き誇る小さいが広がりを感じさせる花壇の奥、「麗しのヴォルフラム」の園。
その奥の大の小さな森の手前に人だかりが出来ている。
おれは一瞬「・・・・・・」を探した
・・・・・・いない。
他の顔ぶれも確認する、ギュンター、静かな視線を向けてくる村田、ヴァルトラーナ、ツェリさま、ギーゼラ、アニシナさんと彼女に半ば無理矢理立たされている空虚な目をしたグウェンダル、ヨザック、彼の世話をしていたメイド、ビーレフェルトの若い貴族たち、思い思いのたくさんの人々・・・・・・やはりいない。
それを見ておれは嘲った。
そうだ、いるはがずない。
来る資格など無い。この場にいるべきじゃない。だってこれは「・・・・・・」のせいなのだから。
(おれには関係ない。知らない!)
おれの手をグレタが放した。
急に失われた温もりに再び感覚を失ったおれはぼんやりと離れていく彼女の背中を見ていた。グレタが歩く先、そこには人々が囲う大きくて深い穴がある。それはやや細長い楕円をした穴で、底は見えないほど深くただ暗い色の土しかおれの位置からは見えなかった。
その底は見えることはなく、地の底にまで続いているように見えた。とどかない闇の底まで。
そして、その穴の傍らには土の山があった。彼が掘ったのだろうか?シャベルを持ったヨザックが彼らしくないひどく疲れた顔をして、土の山にそれを突き立てて軽く体重を預けている。ヨザックは青い瞳を一度だけおれに向けると、すぐに穴の中へと戻した。彼の位置からなら底にあるものが見えるだろうな。
ヨザックとは反対側の土の山に突き刺さったシャベルを人々の中から歩みでて、ギュンターが手に取った。彼も憔悴した表情で、しかし何かを断絶したような意志の強さを薄紫の瞳に宿して穴の底を見る。
そして、おれを見た。「よろしいですか?」と聞かれた気がした、そしておれは「なにが?」と返す。
彼は何かを見失った迷子のようなすがる目をおれに一瞬だけ向け、そして静かにおれに頭を下げた。長い髪がさらさらとこぼれる。しばらく風に揺れるそれをを眺めていた。揺らめく銀糸はまるで生きているようだった。
頭を上げたとき、ギュンターは美しいバリトンでその場にいるもの全てに告げた。
「それでは、フォンビーレフェルト・ヴォルフラムの葬儀をここに始めます」
おれは何も言わなかった。ただ、空っぽになった今朝の寝室を思い出した。
葬儀、そうぎ、ソウギ・・・・・・誰の?(ヴォルフラムの)。
どうして?(あいつのせいで)。
あいつって?(あいつは・・・・・・あいつのせいだ)。
葬儀って何だろう?(ヴォルフラムが死んだから)。
死んだ?(ヴォルフラムはもう寝室にいない、いられない。だから、ここに行くんだ)。
「ヴォルフラムが死んだ」って何?(でもこれはあいつのせいだ)
おれの目を見つめ続けるギュンターに何も返さない。そして、視線はあちらからはずされ、ギュンターは口元を噛むとシャベルで土を穴の中へと落とした。二、三回それを繰り返すと反対側のヨザックがそれに続いた。おれには見えない場所で穴の底は土に埋もれていった。
遠い、どこか遠い場所にヴォルフラムは連れて行かれる。でも、もう留められない。ずっとベッドの中で触れた彼は確かにヴォルフラムだったのに冷たくて固くて、「ぐぐぴぐぐぴ」といういびきも聞こえない、いつまでもエメラルドグリーンの瞳を見せてくれない・・・・・・
(あいつのせいで)
「やめて!」
悲鳴のような声。ヨザックのシャベルを持つ手が止まった。
人々の合間から飛び出してきたのはツェリさまだった。彼女は穴の縁に立ちふさがり、穴の底をかばうように両手を横に広げて、ギュンターとヨザックを遮った。
「やめて、やめてやめてお願い!この子はまだ子供なのよ!まだ大人にもなりきってないのに、う、埋めるなんて、埋めるなんてダメよ!ひどすぎるわ!」
「ツェリさま・・・・・・しかし」
「どうしてなの!?いつも私ばかりが置いていかれる、皆逝ってしまう!今度は息子まで!もう、いやよ!」
「ツェリ様!」
「いやよ、ギュンター!私はどかないわ!」
そっくりなのに宿す光が違いすぎる瞳には強い意志が相手に、向かって突き刺さっている。ツェリさまは譲らなかった。でも、彼女は穴の底には決して視線は向けない。
おれは動かない。見ているだけ。
ツェリさまを止めることも、ギュンターを止めることもしない。穴には近づかない。
ギュンターは放さなかったが、ヨザックがシャベルを下ろした。ギュンターは強い視線をヨザックに向けたが、憔悴したヨザックの目はツェリさまに注がれてやがて地に落ちた。
空気が静かだった。おれだけじゃない、みんな見ていることしかできなかった。シャベルを放さないギュンターでさえ。
たった一人を除いて。
「ツェリさま」
浅黒い手がヨザックの下ろしたシャベルの柄をつかんだ。
驚いたヨザックが強い力に引かれたように手を放すとグレタは全身でそれを支えた。両手で彼女に大きすぎるはずのシャベルを持ってツェリさまの前に立ちふさがった。
赤茶色の瞳は碧の瞳をなにも届かない深海の静かな沈んだ色のまま見つめた。
ツェリさまの傍らを通り越したその穴の底を。
「ツェリさま、だめだよ」
「グレタ・・・どうして.?あなたは悲しくないの?こんな風にヴォルフラムを・・・!」
グレタは微笑んだ。静かな、何も届かない、映さない光も届かない深海の目だ。
「グレタの母上も、父上も、もう年をとれなくなったの。もう誕生日が来なくなったの。
母上も父上もおじいちゃんやおばあちゃんになる前にどこかへいっちゃったの・・・・・・グレタずっとよく分からなかった。もう二人とも年を取らないってことが、もうどこにもいないんだってことが分からなかったの、分からないままでいられた。二人ともグレタと離れたあとに知らないところでどこかにいっちゃって、どうしたらいいか分からないままでもいられたの。
でも、今は違うの。ヴォルフラムは動かない、ユーリたちが帰ってきてすぐにユーリの部屋でいつもみたいにヴォルフラムに会いに行った。嬉しかった、やっと会えたと思ったから抱きついた。けど息をしてないの、触った手がすごく冷たかった、固かった・・・・・・グレタ、その後逃げちゃった」
グレタの自嘲ははじめてだった。おれは再び沈黙を続ける感情に再会した。おれが眠っている間に?それはいつのことだ?
「グレタは父上にも母上にもどうすればいいか分からなかった。でも、ヴォルフラムは確かにここにいるのにどこにもいなくて、なんど会いにいっても冷たくて目を開けてくれなくて、もう会えないってこういうことなんだって分かった、分かるしかなかった。他にどうしようもなかったの・・・・・今までは分からなくてもよかったのにね。
でも、分かっちゃった。眠らせてあげるしかないんだって、もう年を取らないまま父上も母上もヴォルフラムも静かなところで眠らせてあげないといけないって、他には何も出来ないって・・・だから!」
グレタの表情は静止したまま涙がこぼれ落ちていた。どこから来た涙だろう、他には何もできないから?
グレタはシャベルを土の山に突き立てるとツェリさまの横を通りすぎ、穴へと土の塊を落とした。グレタは何度繰り返し、おれには見えない穴の底はだんだんと土に埋もれていく。彼女は見ていた、穴の底に何があるのかを。
十回を越えた辺りからかグレタはシャベルを手にしたまま崩れ落ちていた。激しく肩で息を切りながら、再びグレタは立ち上がろうとし、ふらついた足元にはっとしたツェリさまに肩を支えられた。
それでもシャベルから手を放さないグレタの手に、ツェリさまは手を重ねシャベルを自ら受け取った。遠目にもシャベルの柄に爪を突き立てていた、そして彼女は穴の底に目を落とす。
ツェリさまはグレタの小さな体に手を回してすすり泣き始めた。
「ユーリ」
グレタの声。グレタの赤茶の瞳。それを受けたおれは反らした。
「ユーリ!」
グレタの叫び声。それでもおれはこれ以上穴に近づかない、ましてや穴の底をみることなんてない。
グレタの叫び声はいつしか泣き声に変わっていた。ユーリと呼ぶその音色に、死んだふりを続けている感情がぴくりと瞼を震わせたが目を開きはしなかった。
だって、だって、仕方ないじゃないか。
あいつは、言ったんだ。これが誰だと。
だから、おれは知らない。なにも理解する必要はない、あれはヴォルフラムだけど「誰」と「彼」が言ったのだから。
「・・・・・・」がいったのだ!この悪夢を夢としていいのだと!
その後も儀式は続いた。
すすり泣いていたツェリさまはシャベルを支えに立ち上がると穴の底を再び見下ろすと、土の山にシャベルを突き立てた。足元が覚束無いのかシャベルから沢山の土がこぼれていたが、それでも土は穴へと落ちた。
それと同時に崩れ落ちたツェリさまを支えたのはヴァルトラーナだった。
ヴァルトラーナはとても似た色の瞳同士で何かを伝えあったのか、ツェリさまの手からこぼれ落ちたシャベルを拾った。そして何かを断絶するように激しく何度も土を落とした。
ギーゼラ、再びヨザック、アニシナさん、アニシナさんに引きずられるようにシャベルを持ったグウェンダル、思い思いの表情と手つきが穴の上に降り注ぐ。底を届かない場所へとしていく。そしておれはそこには入らない。
埋もれていく穴の横でグレタがずっとおれを見ていた。光も音も届かない瞳なのに、何かをおれに届けようとしている。そしておれはそれに何も返さなかった。
埋もれていく、その光景を見ているおれはその場所から遠い。違う、近寄らない。
そのせいか、その場で気が付いたのはおれだけだった。
庭園の入り口、緑のアーチ。そこに立っていた。均整の取れた長身の影。
「何・・・をしている?」
ダークブラウンの髪が春の陽光で明るい色に変化していた。右腕の傷はすでになかった。その事実におれは真っ黒な感情が胸に浮かび上がるのを感じた。
迷子そのものの銀を散らした薄茶の瞳は哀れなほど狼狽し、震え、怯えていた。
「・・・・・・コンラッド」
振り返れば、思い出せないはずの名前は奇妙なほど滑らかに唇からこぼれ落ちた。
「・・・・・・ユーリ?」
どこかあの時を連想させる目でコンラッドはおれにすがりついた。何も見てはいないのに、助けを請う眼差し。
「何をして・・・」
「見れば分かるだろう、葬儀だよ」
さっきまで自分でもはっきりして意識できていなかった事実が薄茶の瞳を見た瞬間、予定されていたかのように唇は滑らかに動いた。
「葬儀・・・?」
「知っているだろう、自分のやったことなんだから」
このときを待っていたかのように、言葉は確かな刃を持ってコンラッドへと向けられた。
「ヴォルフラムの葬儀だよ」
コンラッドがどういう表情をしたかはわからなかった。すがりつかれる視線を視線を葬儀の人だかりに戻すことで一方的に切った。彼がそこにいることをおれは遮断した。許さなかった。
小さな声が後ろから聞こえた気がしたが、おれは振り返らない。走り去る音を聞いたがおれはそれも聞こえないことにした。
(だって、ヴォルフラムを殺したのはコンラッドだ)
そして、葬儀は続いた。空の色が赤みを帯び始め、もうおれの位置からでもそこにあった穴が土で埋まっていることが見てとれた。最後に黒衣の村田が土をかけると眞王廟の巫女たちが祈りの言葉を唱え始めた。その横で人々は思い思いに涙を流し、うなだれ、その終焉を見届けていた。
そして、一人、一人とその場を去った。去っていく人々をおれは見つめていた。誰もおれには話しかけなかった。ギュンターが悲しげな目をして一度おれの前で立ち止まったが、村田が制止するとそのまま立ち去った。
誰もいなくなった庭園でおれは豪奢な白い花が揺れるのを感じた。風が強い、あんなに晴れていたのに明日は嵐だろうか?
その風は「麗しのヴォルフラム」を折れんばかりに強く揺らした。おれは大丈夫かなと少しだけ花園に近づくとその横に植えられている花に気がついた。白い花を中心に囲むように植えられている花々、赤い花、黄色い花、そして青い・・・・・・「大地立つコンラート」。
その茎が名前にふさわしくなく、半ばから折れていた。強風で折れたのだろう。ほんの少しのことで折れてしまう、脆い命・・・・・・。
その瞬間、おれは何か大きな過ちを犯している気がした。大きく、致命的な、わざとらしいかけ違いをしている。何かいやな予感がする、とてもいやな、恐ろしい気配が後ろ髪をつかんでいる。
(ヴォルフラムが死んだのは・・・・・・)
「コンラート!」
悲鳴。グウェンダルの声だった。すごく遠い場所からの悲鳴だったけれど、先ほどまで生気のなかった彼の声とは思えない声におれは戦慄いた。
視界が真っ暗になった。体の内側を引っかかれて、ないことにしていた傷をなぞられる。
(誰のせいだって?)
走り、跳ねる心臓のままにおれの脳から零れ落ちてくる声。誰が、何をした?本当は、誰が、何をした?
(本当は誰のせいだ?)
走ったという意識はなかったが、気がつけばおれはコンラッドの部屋に続く廊下の曲がり角にたどり着いていた。真っ暗だった視界が急に鮮明になる。鮮明にしたものは嗅覚だった。暗闇の回廊でヨザックを見失ったときと同じ、ヴォルフラムが赤く染まったときと同じ匂い、鉄錆の赤い匂い。
(血だ)
「・・・・・・コンラッド!」
駆けて、たどり着いた彼の部屋。シンプルで物の少ない彼らしい部屋。真ん中にグウェンダルがいる。
部屋の中央は鮮やかな赤に変わっていた。赤い、赤い、大きな血溜まり。
その中央にコンラッドが倒れていた。全身を血に染めている、その血は右腕からのものだった。右腕はそうでない部分が見つけられないほどにどこもかしこもめちゃくちゃに切り刻まれていた。
その中で一番深い傷、コンラッド自身が左手で生身の剣を握り締め、自分自身の右腕に突き立てていた。
(本当は・・・お前のせいだろう?)
二の腕の中央に深く突き刺さった剣先をグウェンダルが必死に抜こうとしている。それなのに刃に食い込んだ左手ははなさない。決してやめさせないように。
それなのにコンラッドは息をしていなかった。
(これだって、お前のせいだ。そうだろう、渋谷有利?)
悲鳴が喉から迸った。このまま裂けてしまえばいいように。
だれか嘘だと言ってくれ
......to
be continue......
2009/03/13
|